5Gで2Hは変わるか

今週の書物/
『5G
――次世代移動通信規格の可能性』
森川博之著、岩波新書、2020年刊

スマホの向こう

2時間ミステリー(業界では2Hと呼ぶらしい)のことは、当欄の前身でも繰り返し話題にしてきた。マンネリのドラマによくつきあっていられるね、という揶揄も聞くが、マンネリのまったり感がよいのだ。いや、それだけではない。余得がいっぱいある。

2Hは最近、新作が少ないが、BS局やCS局で旧作再放映を観ることができる。その副産物として楽しめるのが、1980年代~2010年代へのタイムスリップだ。街の風景、人々の言葉遣い、身の回りの品々……どれも時代を映している。なかでも、それがいつかを教えてくれる最強の記号は電話だろう。拙稿「ミステリーで懐かしむ黒電話の時代」(「本読み by chance」2015年1月16日付)では、次のように時間軸をさかのぼった。

〈ざっくり色分けすれば、2010年代はスマートフォン、00年代なら折り畳み式携帯、それも最初のころはアンテナ付き、1990年代後半は畳めない細長携帯、それ以前は固定電話が優勢でプッシュフォン、1980年代半ばより前はダイヤル式も多かった〉

同様の時代区分はIT業界にもある。移動電話を第1世代(1G)から第4世代(4G)まで世代分けしている。1Gの起点を1980年代としているようだから、人々の実感よりも早い。新技術が市場に出回るまでには、それなりの時間がかかるということだろう。

2020年代の私たちを待ち受けているのが5Gだ。コロナ禍がこの流れに水を差すという見方はある。だが、それとは逆の見通しもある。今、感染症に対する防衛策として社会活動を遠隔方式に改める動きが一気に広まっている。この潮流は、コロナ禍が収まっても次なる新型感染症の脅威が残るから変わらないだろう。そう考えると、5Gはブームがいったん勢いを失うかもしれないが、コロナ後の社会で待望されていると言えよう。

で、今週は『5G――次世代移動通信規格の可能性』(森川博之著、岩波新書、2020年刊)。著者は1965年生まれ、もともと電子工学を専攻した東京大学大学院教授。内外の審議会、公的委員会で要職を務めるなど、情報社会の未来図を描いてきた人だ。この本の刊行日は4月17日。コロナ禍の影響を考察する余裕はなかったようなので、コロナ後に5Gがどんな役割を果たすかに思いをめぐらすのは、読者自身ということになる。

この本には、移動通信の各世代を私たちに引き寄せた記述もある。「1Gは電話、2Gはメール、3Gは写真、4Gは動画」というのだ。たしかに携帯電話を初めて手にしたころ、それは持ち運び自在の電話機にほかならなかった。折り畳み式が出回るころには、短文メールをやりとりしていた。カメラとしても使われるようになると、撮影即送信という早業を楽しんだ。「写メ」である。そして今、スマホ画面で動画を見るのは日常になった。

では、5Gはどんなものになるのか。著者によれば、それは「超高速」「低遅延」「多数同時接続」の三つを具えた通信になる。このうち「超高速」は目新しくはない。1~4Gの進化は「高速化」の軸に沿っており、5Gはそれを「延伸したもの」に過ぎないからだ。

注目すべきは、残り二つ。低遅延の目標は、情報をやりとりするときの遅れを1ミリ秒、即ち1000分の1秒に置く。多数同時接続では1キロ四方の域内に端末機器100万台をつなげるようにする。これらは、ただの量的な進化ととらえるべきではない。それによって質の異なる「サービス」が生まれることになる。具体的には機械の「遠隔制御」、クルマの「自動運転」、リモート方式の「手術支援」などが期待されている、という。

1~4Gでは、通信の恩恵を受ける側の中心に消費者がいた。それは、前述の電話→メール→写真→動画の足どりをみてもわかるだろう。世代が代わるごとに消費者世界のありようが変わってきた。ところが、5Gは「制御」「運転」「手術」の列挙でわかるように職業人にも大きな影響を与える。たとえば、工事現場で重機が無人操作され、小売店が無人の営業になれば、建設業界や流通業界の人々の働き方は一変するだろう。

このあたりのくだりを読んでいて気になるのは、業界内でしかわからない用語が乱造されていることだ。たとえば、“B2C”と“B2B”。前者は企業が消費者向けにサービスを提供すること(本書では“Business to Customer”、ただし“Business to Consumer”とする説もある)を指し、後者は企業間取引(“Business to Business”)を意味する。5GはB2Bの市場を広げるというのだが、これなどわざわざ略語にする必要があるのだろうか。

私がこの本の長所と思うのは、ハードウェアの記述が手厚いことだ。情報系の本というとソフトウェアの話で終わってしまいがちだが、この本は違う。コトの技術にもモノの技術が必須要件としてかかわっていることを見落とすな、と叱られているような感じにもなる。

著者は「通信機器市場やスマートフォン市場では、残念ながら日本企業は競争力を失ってしまった」としたうえで、「5Gを支える部品や計測装置では日本企業の存在感は高い」とうたいあげる。5Gではミリ波など周波数の高い電波を使うので、これまでの部品が通用しないことがある。ある決まった周波数域だけを選り分ける「フィルター」などを例に挙げ、それをミリ波対応にする技術では日本企業が優位に立っていることを強調している。

地味だなあ、という気はする。主戦場で負けたから周縁部で取り戻す、という負け惜しみのようにも聞こえる。だが、必ずしもそうではない。実際、ハードの技術革新は都市を様変わりさせる潜在力があるのだ。たとえば「窓の基地局化」。電波は高周波になるほど障害物を回り込みにくくなり、到達距離も縮まる。だから、5Gの基地局は密に配置しなくてはならない。その結果、ビルの窓にガラスのアンテナが据えつけられるかもしれないという。

ここで著者は「生態系」という言葉を用いて、こう問いかける。「5G市場の生態系は、今までの延長線上となるのか、それとも新たな生態系が生まれるのか」――5Gは、消費者の目からみると、クルマ事情や買い物街の風景、病院の様子などを激変させるだろう。だが、それだけではない。生産者の立場からみても、新しい製品開発の機会をもたらしてくれそうだ。人間社会の「生態系」全体が変わるのは間違いないように私には思える。

この本からは、5Gがモノの物理に制約されている現実も見てとれる。5Gは低遅延化で「1ミリ秒以下」をめざしているが、著者によれば、それは「『無線区間』のみ」の遅れだ。基地局とサーバー(サービス提供用コンピューター)は光回線のような有線で結ばれているが、その区間の遅れは計算に入っていない。太平洋を越えた遠隔手術にも有線の壁がある。海底ケーブル部分に「往復で100ミリ秒程度」の遅延が見込まれるから、という。

有線遅延の制約を克服する技術として紹介されているのが「エッジコンピューティング」。昨今の情報管理では、手もちのデータを「クラウド」(雲)と呼ぶサーバー群に預ける方法が広まっているが、それに逆行する新機軸だ。基地局のそば、端末のそばに「エッジサーバー」を設けて情報処理する、という。端末そのものにエッジの役割を付加することもあるらしい。遅延を縮められ、貴重なデータを手近に置けるから、一石二鳥かもしれない。

著者は、コンピューターの技術が「集中と分散」を繰り返しているという歴史観を示す。20世紀半ばまでさかのぼって跡づけると、汎用機→パソコン→クラウド→エッジの流れがこれに相当する。技術の進化が生態系の遷移のようにも思えてくるではないか。

最後に、ハード面の話で気がかりが一つ。5Gに割り当てられる電波には、これまで移動通信に使われてこなかった高周波が含まれる。電磁波としてみると、赤外光や可視光に近い波長域。だから大丈夫かな、と思う気持ちがある半面、なじみの薄い電波が急に身近なところを飛び交うようになることに不安もある。欧州などで5Gの健康影響に警戒論があるのも、そんな事情があるからだろう。後日、5Gのリスクについても1冊読んでみたい。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年7月3日公開、通算529回
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渋谷という摩訶不思議な街

今週の書物/
『東京の異界 渋谷円山町』
本橋信宏著、新潮文庫

石段のある街

幼いころ、私にとって繁華街は二つしかなかった。新宿と渋谷だ。私が住んでいた私鉄沿線域からみると、もっとも近いターミナル、即ち終点の街だったからだ。デパートへ買い物に行くにも、外食のランチに出向くにも、たいていはこの二つの街で済ませた。

二つの街は私にとってほぼ等価だったが、青春期に入って新宿派に傾いていく。新宿の空気は、折からの対抗文化と共振していた。若手ジャズ奏者の生演奏が聴ける店、前衛作品が次々にかかる映画館や地下劇場……。それらを守護するように街区のあちこちに小さなジャズ喫茶が散在して、若者たちがスピーカーからあふれ出るリズムに体を揺らしながら時間をつぶしていた。そのエネルギーが、ときに政治闘争となって爆発したのだ。

私は活動家ではなかったが、それでも「反抗」に共感した。あのころ、政治を変えようとは思わなかったが、自分を変える必要は痛感していたのだ。それまでの価値観をぶち破る生き方を見いださなければ――新宿のジャズは、そんな衝動を後押しした。

一方、渋谷はどうだったか。ここにもジャズの店はあった。街頭闘争が繰り広げられたこともある。だがふだんは、どことなく穏やかな雰囲気が漂っていた。反抗の時代でも私鉄終点としての役どころを忘れず、沿線族が散策する街であり続けていたように思う。

20代半ばになると、私は渋谷派に転向した。反抗の気運は、反抗する側の行き詰まりがあって自滅も同然だった。私自身について言えば、オレは私鉄電車の沿線族だ、中産階級で何が悪い、と開き直れるようになっていた。それでも自分の生き方を変えられるではないか――そんな思いもあった。このあたりの心模様の移ろいは、今月初めの当欄「別役実、プチブル『善良』の脆さ」(2020年6月5日付)に書いたとおりである。

渋谷のほうも、この潮目を感じとっていたらしい。公園通りの周辺には、これまでのデパートや映画館とは一風異なる商業・娯楽施設が生まれていた。この一角が発信したのは、新しい生活様式で暮らすニューファミリー世代の消費文化だった。

渋谷はなぜ、新宿と違ったのか。これが、きょうの本題だ。私の仮説を先に明かしてしまえば、一因は地形にあると思う。渋谷の中心部は、地名の通り「谷」の底にある。ということは、周りに高台が迫っているということだ。東側には青山の瀟洒な街、西側には南平台や松濤の邸宅街が控えている。山の手の高級感がある地域とひと続きであるということが、渋谷の穏やかさを醸しだしているように思える。

だが、おもしろいことに、渋谷にはそんな空気感に異議を申し立てる一角がある。今はラブホテルが林立している円山町界隈だ。1970年代、そこにはジャズ喫茶がいくつかあったので、私もときどき足を踏み入れた。ジャズの店そのものは、ほかの街のそれと大差がなかったけれど、店まで歩いているときに異次元の空間に迷い込んだような気分になった。私の記憶では、今ほどにはラブホは建ち並んでいなかったように思う。それなのになぜ?

で、今週は『東京の異界 渋谷円山町』(本橋信宏著、新潮文庫、2020年刊)。著者は、1956年生まれのノンフィクション作家。その著作『全裸監督村西とおる伝』『AV時代』『東京裏23区』の題名からもわかるように、日本社会のアンダーグラウンドを活写する書き手だ。この本は、2015年に単行本として宝島社から出されている。文庫版には、単行本刊行後5年の歳月がもたらした後日談も「あとがき」に収められている。

この本は、渋谷・円山町界隈が明治期以降、花街として栄え、それが戦後、風俗の街の趣を強めるようになったいきさつを、さまざまな業種職種の人々の体験談を通じて浮かびあがらせている。その一つひとつが読みものとして秀逸なのだが、危うい話が次から次に出てくるので、それらを要約するのは極力控える。当欄では、私の仮説の延長線上でブラタモリ風に地形にこだわりながら、この街の魅力を探っていきたい。

「その不思議な街は渋谷の小高い丘の上にある」。著者自身もプロローグ冒頭で、このように地形の話から入っている。第一章でも、円山町が「高級住宅地はたいてい高台」「歓楽街・風俗地帯は低地に」という「土地の法則」から逸脱していることに触れている。

「小高い丘」なので、そこには坂がある。なかでももっとも有名なのが道玄坂。渋谷駅から南西方向へ延びる坂道で、駅を背にその上り勾配をゆっくりと歩いていくと、右側に広がっているのが円山町だ。もちろん、高低差があるのは、そんな表通りだけではない。

この本にはうれしいことに、等高線付きの地形図からラブホテルや飲食店の場所を示したマップ類まで、地図が幾枚か載っている。マップ類のところどころにハシゴのような記号で描き込まれているのが石段だ。この階段こそが異次元世界を象徴しているように思う。

この本を地形の観点から読むときに見過ごせないのが、歌手三善英史が語る幼少期の思い出だ。若い世代のために注釈しておくと、三善は1972年にデビューした。見るからに繊細そうな青年で、しっとりした抒情歌謡を得意としていた。73年にNHK紅白歌合戦で歌ったのが「円山・花町・母の町」(神坂薫作詞、浜圭介作曲)。この本によると、母は「渋谷円山町の芸者」であり、自身も「円山町で生まれ育った」のだという。

三善は、遠い日々の記憶を紡ぎだして「粋で優雅な町でしたね」と言う。通りには石畳、黒塀には見越しの松、三味線には鼓の音。「僕が母と暮らしていた家は、道玄坂を上がって、登り切るちょっと手前を右に曲がって細い路地を入って、階段を降りて…(中略)…八百屋さんがある、そのちょっと先のところなんですね」(ルビは省く、以下の引用も)。回想は、戦後の匂いが残る1950年代のことだろう。実体験なので微に入り、細を穿っている。

「道玄坂を上がって、登り切るちょっと手前」――そう、街は斜面沿いにある。「細い路地を入って、階段を降りて」――そう、迷路のような裏通りには段差が控えめに組み込まれている。三善の描写からは、地形の細やかな起伏が街に情緒を与えていることがわかる。

三善の回想には、もう一つ貴重な証言がある。「僕が小さいころは玉電(路面電車・東急玉川線)が道玄坂に走っていた」「246がまだ土手でしたから。道路じゃなかったんですね」。そうか、あのころ東京西郊から渋谷に入る表玄関は道玄坂だったらしい。国道246号線に首都高の高架がかぶさるのは、ずっと後のことだ。それにしても、「土手」とはどんな景色だったのだろう。「道路じゃなかった」とは幹線道路ではなかったということか。

私にも当時の原風景がある。渋谷に出かけるとき、路線バスを使うことがあった。三軒茶屋、三宿、池尻……と玉電沿いに進む。と突然、視界が開かれ、バスは高台の突端からゆっくりと谷底へ降りていく。前方の空には、デパートのアドバルーン。遠くのビルの屋上で銀色の半球ドームがキラキラと輝いている。五島プラネタリウムだ。あれは、心浮きたつ眺めだった。あのときにバスが通った下り坂は道玄坂だったのだろう、きっと。

現時点、道玄坂の高みに立っても、あの眺めはない。大小のビルが林立してしまったからだ。この本には、地元の芸者小糸姐さんが1950年代に目にした風景も描かれている。「円山町に立つとね、もう渋谷駅のほうが丸見え。何もない。焼け野原でしたよ」

渋谷の魅力は大地の起伏にある。かつては道玄坂のような大きな起伏が広大な眺望で高揚感をもたらし、円山町の石段のような小さな起伏が陰翳をともなって情感を生みだしていた。大小の起伏の入れ子構造が、いま再開発で消えてしまいそうなのが気になる。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年6月26日公開、同年8月7日最終更新、通算528回
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