特別な8月、コロナと核の接点

今週の書物/
広島、長崎の平和宣言
松井一實・広島市長、田上富久・長崎市長(2020年8月)

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今年の夏を「特別な夏」と呼んだのは、小池百合子東京都知事だ。コロナ禍は夏の風景を一変させた。人気の花火大会がとりやめになった、甲子園の応援合戦が消えた……そんな話ばかりではない。私たちは、いつもの年とは違う思いで鎮魂の日を迎えた。

8月と言えば、すぐに頭に浮かぶのは6日、9日、15日だ。俳句では、それを詠み込んだ類似句がたくさんできている(「本読み by chance」2016年12月9日付「俳句に学ぶ知財の時代の生き方」)。二つの被爆と一つの敗戦は今年、満75年の節目だったのだが、いずれも感染を避けるため、規模を小さくして挙行された。人々がまばらに並ぶ光景は、私たちがいま置かれている異様な事態を強く印象づけるものだった。

私は毎年、これらの式典で要人が語る言葉――宣言や挨拶や式辞――に注目している。いずれも平和の尊さを訴えていることに変わりはない。きれいごとの羅列という印象も拭えない。だが結構、読みどころがあるのだ。そのときならではの問題意識が織り込まれていることがある。行間ににじませた思いが伝わってくることもある。だからなるべく、テレビの生中継やニュースで聞くだけではなく、テキスト全文を熟読するようにしている。

2013年には松井一實・広島市長と田上富久・長崎市長の平和宣言を拙著『科学をいまどう語るか――啓蒙から批評へ』(岩波現代選書)で引いたこともある。このときに私が注目したのは、両市長ともその夏の宣言で東京電力福島第一原発事故に触れ、核エネルギーの危うさが原爆と原発に共通することを強く匂わせた点だ。日本社会は戦後長く、核の軍事利用と原子力の平和利用を別件として論じてきたが、それに疑問符を投げかけたのである。

今年は両市長がコロナ禍に言及するだろうと予想していたら、案の定そうだった。ということで今回は、松井・広島市長と田上・長崎市長の2020年版「平和宣言」(それぞれ8月6日と9日に発表)をとりあげる。全文は、広島市と長崎市の公式サイトで読んだ。

ではまず、広島市の平和宣言から。松井市長は第2段落でさっそく、新型コロナウイルス禍に言及している。その脅威は「悲惨な過去の経験を反面教師にすることで乗り越えられるのではないでしょうか」という。その反面教師とは、約100年前のスペイン風邪だ。

それは第1次世界大戦中の1918年にはやり始め、翌19年にかけて流行の波が3度も押し寄せた。世界保健機関(WHO)は、全人類の25~30%ほどが感染したと推計している(国立感染症研究所感染症情報センターの公式ウェブサイトによる)。宣言はこのいきさつを踏まえて、こう強調する。「敵対する国家間での『連帯』が叶わなかったため、数千万人の犠牲者を出し、世界中を恐怖に陥(おとしい)れました」

スペイン風邪を「連帯」欠如の悪しき前例と見ているのだ。このことは、上記サイトの記述に照らすと腑に落ちる。流行の第1波に襲われたのは、大戦真っ盛りの2018年春から夏にかけて。このときの対策が手ぬるかったことは容易に推察される。参戦国は防疫と経済の両立どころではない。戦争に国力を注がねばならなかったのだ。結局は感染を第1波で封じ込められず、終戦前後の晩秋、より強烈な第2波を招いた。(季節は北半球のもの)

コロナ禍で「国家間」の「連帯」というと、医療資源を融通しあう国際協力がまず思い浮かぶ。これについては、スロベニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクも、感染拡大の初期に執筆した「監視と処罰ですか?/いいですねー、お願いしまーす!」(松本潤一郎訳、『現代思想』2020年5月号所収)で論じている。ジジェクは、そこにコミュニズム再生の可能性を見ているのだ。(当欄2020年7月10日付「ジジェクの事件!がやって来た」)

宣言は、思想にまでは踏み込まない。感じとれるのは、連帯の第一歩は戦争しないことという素朴な訴えだ。幸いなことに今、世界規模の戦争はない。だが、政治権力者の顔ぶれを見渡すと、自国中心の発想が際立つ人があちこちにいる。紛争のタネは尽きず、その先には核戦争の危険がある。そこで市長は「私たち市民社会は、自国第一主義に拠ることなく、『連帯』して脅威に立ち向かわなければなりません」と強調するのだ。

広島宣言の要点は、「脅威」という一語に新型コロナウイルスの感染拡大と核戦争の危険増大をダブらせたことだろう。それは裏返せば、コロナ禍対策でもし世界に連帯の機運が蘇れば、核兵器禁止の流れも再び強まるかもしれないという淡い期待を抱かせる。

次に長崎平和宣言に進もう。こちらは後段で、コロナ禍の話が出てくる。とりあげているのは、医療関係者が緊迫した状況下で検査や治療に追われていたとき、世の人々が拍手を送ったことだ。この最近の出来事を振り返りながら、田上市長は呼びかける。「被爆から75年がたつ今日まで、体と心の痛みに耐えながら、つらい体験を語り、世界の人たちのために警告を発し続けてきた被爆者」にも「心からの敬意と感謝を込めて拍手を」と。

私がはっとさせられたのは、市長が被爆者を患者や感染者ではなく医療スタッフになぞらえたことだ。被爆者は核の被害者だが、同時に核の不条理を体現して核戦争を食いとめてきた人々でもある。だから、「敬意」と「感謝」を表明したのだ。私は子どものころのキューバ危機を思いだす(「本読み by chance」2015年11月13日「米大統領選で僕の血が騒ぐワケ」)。人類は被爆の怖さを教えられていたからこそ、破滅を回避できたのだろう。

長崎宣言には、コロナ禍ももちだしながら、若い世代に語りかけたくだりもある。「新型コロナウイルス感染症、地球温暖化、核兵器の問題に共通するのは、地球に住む私たちみんなが“当事者”だということです」。含蓄に富む一文だ。

新型コロナウイルス感染症や地球温暖化に対して、私たちが「当事者」というのはよくわかる。言葉を換えれば、被害者然としてはいられないということだ。前者で、人々は自分がうつされるリスクだけでなく、自分がうつすリスクも負わされている。後者では、その影響と思われる異常気象に右往左往しているのも自分、その元凶とされる温室効果ガス大量放出に手を貸しているのも自分という構図がある。

では、核兵器はどうか。これは政治家が扱う案件であり、私たちの大勢はもっぱら危険にさらされる側にいるというのが世間の常識だろう。ところが宣言は、それをコロナ禍や温暖化と並べたのである。そこから感じとれるのは、あなたの国の政治家が核戦略に執着したり、核不拡散に無関心だったりするならば、そんな人物を選んだあなたにも責任がありますよ、という理屈だ。市長がそこまで意図したかどうかはわからないが……。

2020年夏、広島と長崎の平和宣言は、核廃絶とコロナ禍克服をそれぞれの視点で結びつけた。広島は国際連帯の文脈で、長崎は市民の意識に引き寄せて。どちらも、来年の宣言ではコロナ禍がどう書かれることになるだろうか、と思わせるものではあった。

で、最後は楽屋話を。この拙稿は速報性ということでは先週公開したほうがよかったが、1週遅らせた。安倍晋三首相が15日の全国戦没者追悼式で読みあげる式辞もコロナ禍に言及するだろうから、その話を盛り込もうと思っていたのだ。たしかに、コロナは出てきた。ただ、「現下の新型コロナウイルス感染症を乗り越え……」とあるだけだった。首相の人間観や歴史観に格別の関心があるわけではないのだが、ちょっと拍子抜けだった。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年8月21日公開、通算536回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

コロナ禍の夏、空襲に思いを致す

今週の書物/
『東京大空襲――未公開写真は語る』
NHK
スペシャル取材班/山辺昌彦著、新潮社、2012年刊

頭巾

市中に無症状の感染者が数多くいる、という現実は怖い。無症状者が怖いわけではない。自分だってその一人かもしれないからだ。怖いのは、被感染→感染という一大事がいつとも知らず身にふりかかってくるという状況だ。運命を確率に委ねるしかない。

夏になって今年もメディアが戦争の話題をとりあげ始めたとき、私には一つ、思いついたことがある。もしかしたら、私たちの先行世代は同じような確率任せを過去に体験していたのではないか――。太平洋戦争末期、日本列島では米軍の本土空襲が始まり、B29爆撃機が焼夷弾投下を繰り返した。都市住民は、わが町がいつ火の海になってもおかしくない状況に置かれたのだ。それは、コロナ禍の今とどこか似ているのではないか?

空襲の恐怖は、そんなものじゃないよ――先行世代からは、そう叱られそうだ。だから、誤解のないように念を押しておくと、私は空襲という惨事そのものではなく、〈いつ火の海になってもおかしくない状況〉に類似点があると推察しているのだ。

たとえば今、テレビでは「こんなときだからこそ、気持ちだけは明るくしていたいですね」といった言葉が飛び交っている。これは、「欲しがりません勝つまでは」などの戦時標語を連想させる。米軍機が列島住人の忍耐によって上空から追い払えなかったのと同じように、快活な心だけでコロナ禍は封じられない。それなのに「元気」の大量配布でなんとかしのごうとしているようにも聞こえて、かえって無力感を覚える。

もっとも類似を感じとれるのは、政治のありようだ。戦時中、戦況が悪くなってからでも日本政府には停戦に向かわせる外交手段がいくつもあったはずだ。それなのに本土空襲という事態になっても舵を切ることができなかった。隣組の団結心や竹やりの訓練で戦況を好転できると、本当に思っていたのか。これは感染拡大が猛烈な勢いでぶり返しても、人々の3密回避や手洗い励行を頼みの綱にしている今の政治風景と重なりあう。

で、今週は空襲に目を向けよう。空襲が人々の心模様にどんな影を落としていたかもうかがえる写真集をとりあげる。『東京大空襲――未公開写真は語る』(NHKスペシャル取材班/山辺昌彦著、新潮社、2012年刊)。掲載写真は、旧陸軍の宣伝機関「東方社」に呼び集められた写真家たちが撮影したものだ。これらは、東京大空襲・戦災資料センターに寄贈された。山辺氏はそのセンターの研究者として解説を執筆している。

では、さっそく本を開こう。ページを繰るごとにモノクロ画像が、これでもかこれでもかと空襲の実態を見せつけてくる。そこに軍部の意向がどう入り込んでいるかは判別し難い。空襲の威力は強調したくない、その一方でそれが人道にもとることは訴えたい――そんな相反感情があっただろうからだ。これは、写真家にとっては好都合だったのかもしれない。結果として、自らの心に忠実に写真家魂を反映できたようにも思えるからだ。

見開き2ページの全面を費やした写真を見てみよう。二階建て家屋の屋根に隣家から火が燃え移ろうとしている。一人が階下の軒先に梯子を掛けて昇り、ホースの筒先らしきものを上方に向けて放水している。煙のせいか、逆光のせいか、あるいは暗くて露光時間を長くとったためか、画調は薄ぼんやりとしている。キャプションには「夜間空襲(撮影地不詳)」「昭和20年(1945)5月26日 撮影:光墨弘」とだけある。

光墨は報道分野で活躍した人。ということは、空襲と知って押っ取り刀で現場に駆けつけ、パチリと収めた1枚のように思える。私はこれを見て、戦場カメラマンのロバート・キャパが第2次大戦中に撮ったノルマンディー上陸作戦の写真を思いだした。ぼやけている。だが、それがかえって迫真。もっとも、あれは暗室作業の手抜かりに原因があったらしいが……。(「本読み by chance」2017年5月12日付「キャパのパチリ、報道の核心」)

掲載写真の1枚1枚を紹介したいのはヤマヤマだが、当欄の性格上、それはできない。ということで、本文やキャプションの助けを借りて印象に残ることをすくいあげていこう。

巻頭では、本書刊行前に放映されたNHKスペシャル「東京大空襲 583枚の未公開写真」の取材班が序文を書いている。「兵隊でもないごく普通の日本人」にとって、空襲は「最も“ポピュラー”な戦争体験」だった。それなのに「祖父や祖母がその時どのような顔をしていたのか、私たちは知らない」というのだ。さらに一つ私が加えれば、B29がいつ飛来するかもしれないときに人々がどんな心持ちでいたのか、それもわからない。

本編ではまず、東京空襲が本格化した1944年11月24日のことが記述されている。東京に対する空襲は開戦4カ月後にもあったが、それは続かなかった。その後、太平洋海域が米軍の手に落ちてから、B29の大挙飛来が始まったのだ。この日の標的は現武蔵野市の中島飛行機武蔵製作所だったが「その周辺のみならず、遠くはなれた荏原区(現・品川区)の民家や町工場も被災した」。人々が面的で無差別の攻撃に慄いた最初の瞬間だった。

3日後、こんどは原宿界隈が被災する。ここには、海軍軍人東郷平八郎を祀る東郷神社がある。本書によると、警視庁のこの日の記録には「爆弾四個、焼夷弾四個」が境内に落ちたが「異常なし」とされている。ところが小山進吾撮影の1枚をよく見ると、拝殿の屋根に穴が開いている。空襲後に神官の拝礼風景を写したもので、ぱっと見では拝殿が守られたことを伝える図柄になっている。ところが画面上部にはぽっかり……。写真は嘘がつけない。

この日、原宿駅周辺の現場写真では、防空頭巾をかぶってバケツをやり取りする人が写っている。本文にも、東方社の写真家が「バケツリレーによって懸命に消火に当たる人々の姿」をとらえたとの記述がある。人々は、空襲本格化の時点ですでに訓練されていたのだ。

実際、防空訓練は日米開戦よりも前からあった。1933年には関東地方で大演習が展開されている。このとき信濃毎日新聞主筆の桐生悠々が訓練の虚しさを社説で論じ、軍部周辺の反発を招いて退社した。この本では、その社説の要点が引用されている。敵機襲来が現実になれば「如何に冷静なれ、沈着なれと言い聞かせても」「逃げ惑う市民の狼狽目に見るが如く」であり、あちこちから火が出て「阿鼻叫喚の一大修羅場」になるだろうというのだ。

バケツの写真を見る限り、市民たちは戦前からの訓練のおかげで「狼狽」や「阿鼻叫喚」を押し殺し、「冷静」「沈着」に行動できるようになっていた。ただ、そのバケツは文字通り、〈焼け石に水〉でしかなかったはずだ。桐生はこの社説で、空襲が一度で終わらず、なんども繰り返されるおそれを指摘している。敵機の東京襲来を「我軍の敗北そのもの」とも断じている。炯眼と言うべきだろう。その通りのことが十余年後に起こったのだ。

この写真集には、意外にも笑顔が散見される。九段から神田にかけての一帯は1945年3~5月の空襲で焼け野原になった。バラック住まいの少女は、洗濯物を干しながらカメラ目線で笑っている。丸刈りでパンツ一丁の少年も、はにかみ笑いを浮かべている。

被写体となった人々が「カメラを意識してポーズをとった」(同様の笑顔写真に添えられたキャプション)ことはあるだろう。山辺氏の解説にあるように、東方社の「対外宣伝」戦略が反映された一面も否定できない。「爆撃を受けても日本の国民は戦意をなくさないで明るくがんばっている」と見せるためにだ。ただ、どうもそれだけではない。洗濯物に手をやる少女の笑顔に嘘はなさそうだ。撮影は6月8日ごろ。まだ終戦前だというのに……。

この人たちは、失うべきものをすべて失ってしまった。もはや人に見せるものはなにもない。ただ笑うしかないのだ。そんなふうに私には感じられる。だから、この笑顔は額面通りには受けとれない。そこに至るまでの時間こそが彼女や彼の戦争だったのだ、と思う。

改めて言おう。戦争末期、日本列島の人々は自分たちがいつ火に包まれてもおかしくない状況をくぐり抜けてきた。うちつづく恐怖はいかばかりのものだったか――その想像を絶する心理に、戦争を知らない私たちはコロナ禍の今、初めて思いを致すのである。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年8月14日公開、同日更新、通算535回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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寅彦にもう1回、こだわってみる

今週の書物/
『銀座アルプス』
寺田寅彦著、角川文庫、2020年刊

野球

引きつづき、文人物理学者寺田寅彦(1878~1935)を話題にする。寅彦に対しては深い敬意を抱いているのだが、どうも好きになれない。それがなぜかはわからなかったのだが、随筆集『銀座アルプス』を読んでいて理由らしきものを発見した。寅彦はジャズが大嫌いだったのだ。よりにもよって、私がこよなく愛するジャズを――そんなことを前回は書いた。(当欄2020年7月31日付「寅彦のどこが好き、どこが嫌い?」)

これは、いちゃもんだ、と自分でも思う。人は若かったころの流行に共感しても、年をとってから出てきたものには抵抗感を覚えがちだ。私がヒップホップを敬遠するように、寅彦はジャズを「じゃかじゃか」(「備忘録」1927年)と揶揄したのだろう。

一つ、思考実験をしてみる。寅彦が70年ほど遅れて生まれ、団塊の世代だったなら、どんな青春を過ごしたかということだ。1960年代に東大理学部の学生だったとすると、お茶の水界隈のジャズ喫茶で首を振りふり、大好きなコーヒーを啜っていたような気がする。「マイルスはバラードがいいね」「ピアノは、やっぱりエヴァンスかな」などと、友人に蘊蓄を傾けていたのではないか。学生運動にのめり込んだかまでは推察しかねるが……。

私がそう思う根拠は、この随筆集のなかにある。「断片Ⅱ」(1927年)の冒頭、連句について述べた一節だ。連句、すなわち複数の作者が句をつないでいく詩作の妙がこう表現されている。「前句の世界へすっかり身を沈めてその底から何物かを握(つか)んで浮上ってくるとそこに自分自身の世界が開けている」。前句が月並みでも附句によって輝きを増し、「そこからまた次に来る世界の胚子(はいし)が生れる」――そんな連鎖があるというのだ。

これは、ジャズの醍醐味そのものではないか。ジャズでは、奏者が次々に「次に来る世界の胚子」を産み落とし、新しい世界を切りひらいていく。寅彦は、それを知ることがなかった。代わって、よく似たものを日本の韻文芸術に見いだしていたのである。

連句談議は、「映画時代」(1930年)にもある。ここでは、劇映画の「プロットにないよけいなものは塵(ちり)一筋も写さない」という制作姿勢が批判される。劇映画は舞台劇と違うのだから、「天然の偶然的なプロット」を取り込むべきだという。手本としてもちだされるのが連句。そこに見られる「天然と人事との複雑に入り乱れたシーンからシーンへの推移」は映画でこそ可視化できるのではないか。そんな提案をしているのだ。

寅彦のジャズ心は時間軸だけでなく、空間軸にも息づいている。表題作「銀座アルプス」(1933年)を見てみよう。ここで「アルプス」とは、銀座界隈に建ち並ぶ百貨店を指している。その山のてっぺん、すなわちデパートの屋上に立つと、眼下の街並みは建物の高さがばらばらだ。低層家屋のなかに中層のビルが交ざっているのだろう。「このちぐはぐな凹凸は『近代的感覚』があってパリの大通りのような単調な眠さがない」

「ちぐはぐな凹凸」に興趣を見いだしているのだ。これは寅彦が俳諧味を愛していたからだろうが、と同時に、ジャズ的なるものに対する感受性があるからのようにも私は思う。さらに驚かされるのは、そのちぐはぐさを「近代的」と形容していることだ。建築で近代主義(モダニズム)と言えば、箱形の建物が思い浮かぶ。だから、近代都市の景観はすっきりしている。ところが、寅彦は凹凸に近代を見ているのだ。ポストモダンに先回りしたのか。

こうした感性は、物理学者としての世界観とも響きあっている。それは当欄前回で言及した古典物理学――金米糖や線香花火――だけの話ではない。「野球時代」(1929年)という一編には、誕生したばかりの量子力学について述べたくだりがある。

「不確定」は、かつて「主観」の専売特許だったが、それを新しい物理学は「客観的実在の世界へ転籍させた」というのだ。ウェルナー・ハイゼンベルクが唱えた不確定性原理のことだろう。寅彦は、どんなに精密な測定をしても「過去と未来には末拡がりに朦朧(もうろう)たる不明の笹縁(ささべり)がつきまとってくる」と書く。だから、「確定と偶然との相争うヒットの遊戯」――即ち野球に人は魅せられるのだろうと考える。

こう見てくると、私は戸惑うばかりだ。寅彦が物理学者として志向するものも、文学者として好むものも私の心に響いてくる。それなのに、なぜ好きと素直に言えないのか。その答えのヒントになりそうなのが「雑記」の一節「ノーベル・プライズ」(1923年)だ。

この短文は、夜に電話が鳴り、新聞社が相次いでノーベル賞の発表について聞いてきた、という体験談から始まる。新聞記者は昔から同じようなことをしていたわけだ。前年1922年の物理学賞は前年分と併せて二人に贈られた。21年がアルバート・アインシュタイン、22年がニールス・ボーア、相対論と量子論の両巨頭が受賞者になった。もっとも前者への授賞は、相対論と関係なく、光電効果の理論研究に対してではあったのだが。

アインシュタインの知名度はすでに高かったので、記者たちが知りたがったのはもっぱらボーアだった。物理通ならだれでも知っている巨人が世間では知られていない。「それほどに科学者の世界は世間を離れている」とあきれた後、ボーアの私生活を描いていく。

ネタ元は、欧州でボーアに会ってきたばかりの友人。その帰朝報告によると、ボーアは郊外の別荘にしばしば出かけて、考えごとや書きものをしているという。「どうかすると芝生の上に寝転がって他所目(よそめ)にはぼんやり雲を眺めている」のだとか。

ここで寅彦は、科学者を応用志向型と純理探究型に分けてボーアを後者に分類する。世の人々がそういう学者を大事に思うなら「はたから構わない」ほうがよい、と主張する。芝生でそっとしておきましょう、というわけだ。寅彦自身は、防災に一家言あるので前者の一面があるが、金米糖や線香花火に惹かれるところは後者だ。「ボーアの内面生活を想像して羨ましくまたゆかしく思っていた」とも打ち明けているから、後者の側面が強いのだろう。

実際、寅彦も「郊外の田舎」に「隠れ家を作った」(本書所収「路傍の草」1925年)。クラシック音楽を愛するように田園を求めたのだ。そこには、日本の知識人社会にあった世俗ばなれ志向が見てとれる。世間を高踏的に見渡している感じか。科学者が高踏の匂いを漂わせるとき、その言葉は〈啓蒙〉の響きを帯びてしまう。私はたぶん、そこに引っかかったのだ。それは、科学の解説書を〈啓蒙〉書と呼ぶことに対する違和感に通じている。

もう一つ、ちょっと残念なのは、「天然の偶然的なプロット」や「ちぐはぐな凹凸」を愛した人が自身の生活には破調を求めなかったことだ。植草甚一のように気まぐれな寺田寅彦がいてもよかったのだ(当欄2020年4月24日付「J・Jに倣って気まぐれに書く」)。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年8月7日公開、同月9日最終更新、通算534回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

寅彦のどこが好き、どこが嫌い?

今週の書物/
『銀座アルプス』
寺田寅彦著、角川文庫、2020年刊

金米糖

寺田寅彦(1878~1935)と言えば文理両道の人だ。同じように文理を股にかけた先人に南方熊楠(1867~1941)がいる。両者は、いずれも明治、大正、昭和を生き抜いた同時代人。正直に内心を打ち明けると、私は後者に心惹かれ、前者を敬遠する傾向にある。

文理とは言っても、その文と理は二人の間でだいぶ違う。文では、寅彦が文学系、熊楠が民俗学系。理では、寅彦が物理学系、熊楠が生物学系。私は小説や俳句が好きで量子論にも興味があるのだから当然寅彦派かと自分でも思うのだが、それがどっこい熊楠派だ。

なぜだろう、と思う。すぐに気づくのは、寅彦があまりにもちゃんとした人であることだ。ちゃんとした大学を出て、ちゃんとした地位を得て、晩年までちゃんと学界にとどまった。一方、熊楠は学校を中退して外国を放浪、その後、紀州熊野に住みついて独りで探究を続けた(「本読み by chance」2017年6月2日付「熊楠の『動』、ロンドンの青春」)。この対照は見事なほどだ。私は、どうしても熊楠の在野精神に共感してしまう。

ただ、それだけの理由で寅彦を嫌うのは理不尽だ。いや、そもそも全人格を嫌っているわけではない。その証拠にかつて高知に所用で赴いたときには、わずかな自由時間に寅彦の旧宅(復元建築、「寺田寅彦記念館」)を訪ねている。心のどこかで寅彦に惹かれているのだ。広い意味では敬愛する偉人ということになろう。ただ、その作品を読んでいると違和感を覚えてしまう。違和感の正体を知りたくて、今週は寅彦本を開いた。

『銀座アルプス』(寺田寅彦著、角川文庫、2020年刊)。明治末期から昭和期にかけて書かれた随筆30編を収めている。表紙カバーには「近代文学史に輝く科学随筆の名手による短文の傑作選」とあるから、寅彦流の文理両道を知る手がかりになるだろう。

では、さすが寅彦と思われる一編から。「流言蜚語」(1924年)。関東大震災の翌年に東京日日新聞に載ったもので、震災時に流言が虐殺事件を引き起こした近過去を科学者の目で振り返っている。引きあいに出されるのは燃焼実験。管状の容器に水素と酸素を入れて火花を飛ばすと「火花のところで始まった燃焼が、次から次へと伝播(でんぱ)していく」。このようになる条件は、水素と酸素が「適当な割合」で混ざっていることだという。

著者は、流言蜚語に類似点を見る。流言にも火花の役目を果たす発生源がある。だが、それだけでは流言にならない。「次へ次へと受け次ぎ取り次ぐべき媒質が存在しなければ『伝播』は起らない」のだ。では、伝播を担う媒質は何か? それは「市民自身」だという。

その論理はこうだ。「今夜の三時に大地震がある」という噂が広まりかけたとしよう。このとき「町内の親父株(おやじかぶ)」の「三割」であっても、今日の科学では地震の発生時刻まで予知できないとわかっていれば「そのような流言の卵は孵化(かえ)らないで腐ってしまうだろう」というのだ。ここでは「親父株」の「三割」が要点だ。流言を防ぐ条件は、自らは媒質とならず、かえって伝播を抑えられる人が一定程度いることなのだろう。

この考え方は、今の世の中にも当てはまる。新型コロナウイルス感染症禍で私たちに求められているのは、ウイルスの伝播に手を貸すな、ということだ。マスクをする、不用意にものに触らない、人との間に距離を置く――これは、感染から自分の身を守るためだけではない。もしかしたら自分が感染しているかもしれないと考えて、周りの人の感染リスクを減らすためだ。これは、自身が伝播の可能性を抑える人になることを意味する。

寅彦流科学のすばらしさは、探究を一つの事象の枠内にとどめないことだ。ある現象を支配しているしくみを別の現象にあてがってみると、通用することがある。上述の例で言えば、燃焼の伝播が噂やデマの読み解きにつながる。それは、感染症に脅かされている社会に示唆を与えることにもなる。分野横断的と言ってよい。個々の物質にこだわるよりも物事一般のしくみに目を向ける物理学者だからこそできる離れ業だろう。

寅彦流ということでは、本書所収の「備忘録」(1927年)に織り込まれた「金米糖」と題する話も見逃せない。そこで著者は、私たちが科学に対して抱く通念の落とし穴を見抜いて、教えてくれる。一見科学的な思考が、実は科学的でなかったりするのだ。

話題となるのは、金米糖(「金平糖」とも書く)がなぜ真ん丸でないのか、ということだ。私たちは、この砂糖の塊ができるときに「特にどの方向に多く生長しなければならぬという理由が考えられない」(「考えられない」に傍点)。物理空間は等方的と考えているわけだ。これは、まっとうな論理と言えよう。それなのになぜ、いくつかの方向にだけ「論理などには頓着(とんちゃく)なく、にょきにょきと角を出して生長する」のであろうか?

著者は、この論理は誤りではないと明言して、なぜこんなことが起こるかを説明する。それによれば、等方的とは「統計的平均についてはじめて云われ得る」ことなのだ。平均は平均であり、個別の事象はそれに一致しないというわけだ。さらに、自然界には「平均からの離背(りはん)が一度でき始めるとそれがますます助長される」(ルビは本書のママ)という傾向もあることが指摘されている。「角」は論理を破ってはいなかったのだ。

統計は、科学者だけのものではない。社会や経済を考えるときにも重宝している。だからこそ、この教訓は重い。私たちは全体の平均を過大視して部分にズレがあることを忘れていないか、あるいは部分だけを見て全体像を見失っていないか――。

「備忘録」には「線香花火」の話も載っている。著者は「灼熱した球の中から火花が飛び出し、それがまた二段三段に破裂する、あの現象」に興味を示す。枝分かれの妙があるからだろう。20世紀終盤に複雑系の科学が興り、分岐現象も関心事になる。それを先取りする好奇心だ。著者の科学心は、モノの根源よりもコトの摂理を追究する反還元主義の先駆けだった。(「本読み by chance」2016年8月19日付「『かたち』から入るというサイエンス」)

で、実は、このくだりを読んでいて私は大発見をしたのだ。自分が寅彦派になれない理由の一つがわかった。それは、音楽の趣味にかかわっているらしい。著者は、線香花火の火花の「時間的ならびに空間的の分布」を音楽にたとえる。「荘重なラルゴで始まったのが、アンダンテ、アレグロを経て、プレスティシモになったと思うと、急激なデクレスセンドで、哀れに淋(さび)しいフィナーレに移っていく」。さすが、クラシック通だ。

著者は、線香花火には「序破急」や「起承転結」があるとほめる一方、新趣向の花火を「無作法」で「タクトもなければリズムもない」と腐す。そして、こう決めつけるのだ。「線香花火がベートーヴェンのソナタであれば、これはじゃかじゃかのジャズ音楽である」

ガーン――である。私は、金米糖や線香花火にむしろジャズを見ていた。どちらの物理現象もニュートン物理学の決定論に支配されているが、予測がなかなかつかない。次に何が来るか、期待通りになることもあるが、はずされることもある。これは、ジャズの醍醐味そのものではないか。楽譜があっても、それに縛られない。アドリブに満ちている。奏者のソロ演奏が次々につながれていく様子は、著者が惹かれる物理世界の時間発展に似ている。

「リズムもない」花火を、リズムが真髄のジャズにたとえたのも見当外れだ。ただ、そのことをもって著者を批判したら不公平だろう。著者は明治期に欧州文化を吸収した人なのだから、クラシック音楽への思い入れはさもありなんと納得する。ジャズを知るには早く生まれ過ぎたのだ。一方、私はジャズがモダンジャズにまで進化してから、その虜になった。だから、私のジャズ好きをもって著者のジャズ嫌いを論ずるつもりはない。

それにしても、線香花火に「起承転結」をみるとは――。寅彦は物事が予想外に展開することに心ときめかせながらも、最後はやっぱり、ちゃんとしたかったのか。もしかしたら、内面に矛盾を抱えていたのかもしれない。次回にもう一度、この本をとりあげる。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年7月31日公開、同年8月7日最終更新、通算533回
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5Gで2Hは変わるか

今週の書物/
『5G
――次世代移動通信規格の可能性』
森川博之著、岩波新書、2020年刊

スマホの向こう

2時間ミステリー(業界では2Hと呼ぶらしい)のことは、当欄の前身でも繰り返し話題にしてきた。マンネリのドラマによくつきあっていられるね、という揶揄も聞くが、マンネリのまったり感がよいのだ。いや、それだけではない。余得がいっぱいある。

2Hは最近、新作が少ないが、BS局やCS局で旧作再放映を観ることができる。その副産物として楽しめるのが、1980年代~2010年代へのタイムスリップだ。街の風景、人々の言葉遣い、身の回りの品々……どれも時代を映している。なかでも、それがいつかを教えてくれる最強の記号は電話だろう。拙稿「ミステリーで懐かしむ黒電話の時代」(「本読み by chance」2015年1月16日付)では、次のように時間軸をさかのぼった。

〈ざっくり色分けすれば、2010年代はスマートフォン、00年代なら折り畳み式携帯、それも最初のころはアンテナ付き、1990年代後半は畳めない細長携帯、それ以前は固定電話が優勢でプッシュフォン、1980年代半ばより前はダイヤル式も多かった〉

同様の時代区分はIT業界にもある。移動電話を第1世代(1G)から第4世代(4G)まで世代分けしている。1Gの起点を1980年代としているようだから、人々の実感よりも早い。新技術が市場に出回るまでには、それなりの時間がかかるということだろう。

2020年代の私たちを待ち受けているのが5Gだ。コロナ禍がこの流れに水を差すという見方はある。だが、それとは逆の見通しもある。今、感染症に対する防衛策として社会活動を遠隔方式に改める動きが一気に広まっている。この潮流は、コロナ禍が収まっても次なる新型感染症の脅威が残るから変わらないだろう。そう考えると、5Gはブームがいったん勢いを失うかもしれないが、コロナ後の社会で待望されていると言えよう。

で、今週は『5G――次世代移動通信規格の可能性』(森川博之著、岩波新書、2020年刊)。著者は1965年生まれ、もともと電子工学を専攻した東京大学大学院教授。内外の審議会、公的委員会で要職を務めるなど、情報社会の未来図を描いてきた人だ。この本の刊行日は4月17日。コロナ禍の影響を考察する余裕はなかったようなので、コロナ後に5Gがどんな役割を果たすかに思いをめぐらすのは、読者自身ということになる。

この本には、移動通信の各世代を私たちに引き寄せた記述もある。「1Gは電話、2Gはメール、3Gは写真、4Gは動画」というのだ。たしかに携帯電話を初めて手にしたころ、それは持ち運び自在の電話機にほかならなかった。折り畳み式が出回るころには、短文メールをやりとりしていた。カメラとしても使われるようになると、撮影即送信という早業を楽しんだ。「写メ」である。そして今、スマホ画面で動画を見るのは日常になった。

では、5Gはどんなものになるのか。著者によれば、それは「超高速」「低遅延」「多数同時接続」の三つを具えた通信になる。このうち「超高速」は目新しくはない。1~4Gの進化は「高速化」の軸に沿っており、5Gはそれを「延伸したもの」に過ぎないからだ。

注目すべきは、残り二つ。低遅延の目標は、情報をやりとりするときの遅れを1ミリ秒、即ち1000分の1秒に置く。多数同時接続では1キロ四方の域内に端末機器100万台をつなげるようにする。これらは、ただの量的な進化ととらえるべきではない。それによって質の異なる「サービス」が生まれることになる。具体的には機械の「遠隔制御」、クルマの「自動運転」、リモート方式の「手術支援」などが期待されている、という。

1~4Gでは、通信の恩恵を受ける側の中心に消費者がいた。それは、前述の電話→メール→写真→動画の足どりをみてもわかるだろう。世代が代わるごとに消費者世界のありようが変わってきた。ところが、5Gは「制御」「運転」「手術」の列挙でわかるように職業人にも大きな影響を与える。たとえば、工事現場で重機が無人操作され、小売店が無人の営業になれば、建設業界や流通業界の人々の働き方は一変するだろう。

このあたりのくだりを読んでいて気になるのは、業界内でしかわからない用語が乱造されていることだ。たとえば、“B2C”と“B2B”。前者は企業が消費者向けにサービスを提供すること(本書では“Business to Customer”、ただし“Business to Consumer”とする説もある)を指し、後者は企業間取引(“Business to Business”)を意味する。5GはB2Bの市場を広げるというのだが、これなどわざわざ略語にする必要があるのだろうか。

私がこの本の長所と思うのは、ハードウェアの記述が手厚いことだ。情報系の本というとソフトウェアの話で終わってしまいがちだが、この本は違う。コトの技術にもモノの技術が必須要件としてかかわっていることを見落とすな、と叱られているような感じにもなる。

著者は「通信機器市場やスマートフォン市場では、残念ながら日本企業は競争力を失ってしまった」としたうえで、「5Gを支える部品や計測装置では日本企業の存在感は高い」とうたいあげる。5Gではミリ波など周波数の高い電波を使うので、これまでの部品が通用しないことがある。ある決まった周波数域だけを選り分ける「フィルター」などを例に挙げ、それをミリ波対応にする技術では日本企業が優位に立っていることを強調している。

地味だなあ、という気はする。主戦場で負けたから周縁部で取り戻す、という負け惜しみのようにも聞こえる。だが、必ずしもそうではない。実際、ハードの技術革新は都市を様変わりさせる潜在力があるのだ。たとえば「窓の基地局化」。電波は高周波になるほど障害物を回り込みにくくなり、到達距離も縮まる。だから、5Gの基地局は密に配置しなくてはならない。その結果、ビルの窓にガラスのアンテナが据えつけられるかもしれないという。

ここで著者は「生態系」という言葉を用いて、こう問いかける。「5G市場の生態系は、今までの延長線上となるのか、それとも新たな生態系が生まれるのか」――5Gは、消費者の目からみると、クルマ事情や買い物街の風景、病院の様子などを激変させるだろう。だが、それだけではない。生産者の立場からみても、新しい製品開発の機会をもたらしてくれそうだ。人間社会の「生態系」全体が変わるのは間違いないように私には思える。

この本からは、5Gがモノの物理に制約されている現実も見てとれる。5Gは低遅延化で「1ミリ秒以下」をめざしているが、著者によれば、それは「『無線区間』のみ」の遅れだ。基地局とサーバー(サービス提供用コンピューター)は光回線のような有線で結ばれているが、その区間の遅れは計算に入っていない。太平洋を越えた遠隔手術にも有線の壁がある。海底ケーブル部分に「往復で100ミリ秒程度」の遅延が見込まれるから、という。

有線遅延の制約を克服する技術として紹介されているのが「エッジコンピューティング」。昨今の情報管理では、手もちのデータを「クラウド」(雲)と呼ぶサーバー群に預ける方法が広まっているが、それに逆行する新機軸だ。基地局のそば、端末のそばに「エッジサーバー」を設けて情報処理する、という。端末そのものにエッジの役割を付加することもあるらしい。遅延を縮められ、貴重なデータを手近に置けるから、一石二鳥かもしれない。

著者は、コンピューターの技術が「集中と分散」を繰り返しているという歴史観を示す。20世紀半ばまでさかのぼって跡づけると、汎用機→パソコン→クラウド→エッジの流れがこれに相当する。技術の進化が生態系の遷移のようにも思えてくるではないか。

最後に、ハード面の話で気がかりが一つ。5Gに割り当てられる電波には、これまで移動通信に使われてこなかった高周波が含まれる。電磁波としてみると、赤外光や可視光に近い波長域。だから大丈夫かな、と思う気持ちがある半面、なじみの薄い電波が急に身近なところを飛び交うようになることに不安もある。欧州などで5Gの健康影響に警戒論があるのも、そんな事情があるからだろう。後日、5Gのリスクについても1冊読んでみたい。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年7月3日公開、通算529回
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