タクシーの推理、超ロング客の謎

今週の書物/
『一方通行――夜明日出夫の事件簿』
笹沢左保著、講談社文庫、1995年刊

乗り場表示板

このところ、硬い本が続いた。ここらで、ちょっと息を抜こう。私の息抜きは、テレビの前に寝転がって、ひと昔前、ふた昔前の2時間ドラマをほろ酔い気分で観ることだ。今回は当欄も、同じような脱力状態で前世紀ミステリーの世界をさまよってみよう。

2時間ドラマの人気シリーズといえば、十津川警部、浅見光彦、霞夕子……と年齢性別さまざまな主人公がいる。夜明日出夫もその一人。「タクシードライバーの推理日誌」(テレビ朝日系列)に、元警視庁捜査一課刑事のタクシー運転手として登場する。

「タクシードライバー…」は、定型化が際立つ2時間ドラマだ。たとえば、冒頭場面。渡瀬恒彦演じる夜明がハンドルを握っている。すると、後部座席で大島蓉子演じる中年女性客が、わがままを言ってひと騒動引き起こす――。いつの間にか定着した前振りの賑やかしだ。ただ、ドラマの本筋とは関係ない。ドタバタが一段落して、次に乗ってくる〈2番目の客〉が問題人物。どこか謎めいている。こうして視聴者は事件を予感する。

シリーズは回を重ねるごとに、こんな〈お約束〉が生まれ、視聴者が筋の流れを読めるようになった。夜明は〈2番目の客〉の信頼を勝ち得て、ご指名で迎車を頼まれるほどになる。無線で駆けつけた〈2番目の客〉の仕事場は、偶然にも夜明の娘あゆみが働くアルバイト先だった。親子は、そこでばったり対面する……。細部にまで定型ギャグが張りめぐらされている。規格化された部材で組み立てられたプレファブ建築のようだ。

実は、この定型化こそ2時間ドラマの魅力だ。「タクシードライバー…」は、始まって10分ほどで犯人の目星がつく。30分もすれば事件の構図が見通せる。あとはウトウトしていてもいい――。これは、2時間ドラマの商品価値の一つと言ってもよい。

「タクシードライバー…」シリーズについては実は6年前、当欄の前身ブログでもとりあげている()。あのときは「定型化」を別の視点から説明した。その一節はこうだ。

《このシリーズが好評を博したのは、誰が犯人かの謎ときに主眼を置くフーダニット(whodunit)にしなかったからだろう。どの回も、犯人は最初から目星がついていた。これは、テレビドラマの宿命を熟知しているからこその選択ではなかったか。制作陣は、犯人役にA級の役者をあてがうのが常だ。だから、視聴者は番組表の出演者名列を見ただけで見当がついてしまう。そもそも、テレビで犯人当てを売りにするのは無理がある》

この推察は、さほど見当違いではなかろう。テレビドラマには、小説にない制約がある。登場人物の顔がすべて公開されていることだ。美しいが翳のある女優が画面に現れたら、フーダニットの答えは見えているも同然ではないか。だから、制作陣はフーダニットを最初からあきらめ、別の選択をした。事は予想通りに運ぶ。その結果、安心して観ていられる。この価値を極大化したのが「タクシードライバー…」シリーズだと言ってよい。

では、シリーズの原作はどうか。

今週は、『一方通行――夜明日出夫の事件簿』(笹沢左保著、講談社文庫、1995年刊)を読む。1992年、「小説現代」臨時増刊に発表された長編推理小説。同年、「講談社ノベルス」の1冊としても刊行されている。著者が1990年から手がけた夜明日出夫ものの第6作に当たる。調べてみると、この1編も1994年、シリーズ第4作としてドラマ化されている。〈2番目の客〉となるのがめずらしく男性で、その役を寺尾聰が演じたらしい。

原作の冒頭部はどうか。冬の午後、夜明は東京・江古田界隈を走っている。乗客は女子高校生らしい二人。「そこで、停めて!」といきなり叫ぶ。メーター料金をきっかり2で割り、それぞれ千円札と小銭を出しあう。マイペースだが、大島蓉子ほどの毒気はない。

この小説には、前振りがもう一つある。女子二人が降りた後、「ドロボー」という絶叫が聞こえてくる。バイク男が女性の通行人からハンドバッグを奪ったのだ。夜明はタクシーの向きを変えてバイクの行く手を阻み、ひったくり犯がバイクを乗り捨てて逃げようとするところを取り押さえた。パトカーが駆けつけたとき、最年長の警官が驚いたように言う。「ああ、夜明警部補じゃありませんか」。この一幕はテレビでも見た記憶がある。

〈2番目の客〉は、原作も男性だった。40代後半か。黒のスーツを三つ揃いで着こなしている。サングラスで目もとを隠しているが、「知的で繊細で、いわゆるインテリの顔」だ。とりあえずの行き先は、神奈川県の川崎港。18時発のフェリーに乗るのだという。

男は江古田に自宅があるが、訳あって5年間も東京を離れていた。最近帰京したが、ホテル住まい。家には妻がいるのに帰宅しない。今も門の前までは行ったが、呼び鈴ひとつ鳴らさず、引き返してきたという。謎だらけだ。〈2番目の客〉の必須要件を満たしている。

その男が、車内の運転手表示を見て「夜明日出夫さんか」と独りごとのように言い、爆弾提案をする。「夜明さんにも、旅行に付き合ってもらうわけにはいきませんかね」。自身の名が「井狩真矢(しんや)」であること、今回は船で宮崎県日向に渡り、そこから陸路で九州を横断、長崎県の雲仙温泉で泊まるつもりであることを打ち明けた。「ブラッと出かける」旅だ。飛行機でひとっ飛びしないのも「旅の途中」を大事にしたいからだという。

井狩の考えでは、九州では陸上区間のすべてをタクシー1台にまかせる。ということは、全行程で運転手を束縛することになる。井狩はフェリー代や高速道路料金、宿泊費を負担したうえで、往復の走行の対価として45万円を支払うという。運転手の立場でいえば、願ってもない長距離(ロング)の客だ。夜明は、テレビでもこの手の上客にしばしば恵まれて「ロングの夜明」の異名をとるが、これほどの「超ロング」はめったにない。

井狩がもちかけた話は不自然だ。「旅の途中」を楽しみたいなら九州上陸後にタクシーを借り切ればよい。なぜ、フェリーの船旅にまで東京のタクシー運転手を車付きで同行させるのか。井狩は、日向でタクシーをつかまえて雲仙までと頼むのが「何となく面倒で億劫」と言うのだが、説得力はない。ただ、不自然さが漂うからこそ、なにか底意を感じてしまう。井狩の胸中にどんな企みがあるのか、読者もあれこれ思いをめぐらすことになる。

作中には、運転手側の事情も書かれている。1)突然ロングの発注を受けると営業所への帰庫時間を守れない2)タクシーは二人の運転手が1台を交代で使っているので、一人が何日間も乗るには相方の了解がいる3)昼夜ぶっ通しの仕事は二人一組で引き受けるのが原則――。法令から当局の指導、営業所の規則まで、運転手には諸々の縛りがある。その一方で、ロングが一定距離以上に及ぶなら客の求めを断ることも認められているらしい。

ただ、今回は幸運にも上記三つの難関を切り抜けられそうだった。このころ、業界は運転手不足が深刻で1台に二人を割り当てることが難しくなり、夜明は1台を独占していたからだ。これで1)と2)は突破できる。3)は労働時間の制限にかかわるので微妙だが、フェリー乗船中は「事実上、乗務しないで休んでいる」から営業所も容認するはず、と夜明は勝手に決め込んだ。これが、現実社会に通用する理屈かどうかはわからない。

九州旅行まるごとのロング走行は、乗客からみて常識を逸しているだけではなく、運転手の側からみても想定外だった。にもかかわらず、この作品は無理を通して夜明に超ロングを押しつけている。それができるのも、エンタメ小説の特権だろう。ちなみに本作のテレビ版では、井狩が雲仙温泉に行ってくれとは言わない。目的地は栃木県・川治温泉。ロングではあるが超ロングではない。テレビのほうが現実的ということだろうか。

この小説もドラマ同様、タクシーにロングの客が現れた時点で犯人探しのハラハラ感は薄れている。フーダニット路線は、原作でも半ば放棄されていたのだ。読者は読み進むうち、犯人にどんな動機があり、どのようなトリックを使って犯行に及んだのかというハウダニット(howdunit)に引き寄せられていく。井狩の言葉を借りて言えば、タクシーものミステリーの読みどころは犯人特定という目的地ではなく、「旅の途中」にある。
* 「本読み by chance」2017年3月24日付「渡瀬恒彦、2Hとともに去りぬ
☆ 引用箇所にあるルビは原則省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年6月2日公開、通算680回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

植草甚一日記で「私」を再生する

今週の書物/
『植草甚一コラージュ日記①東京1976
植草甚一著、瀬戸俊一編、平凡社、2003年刊

経堂駅北口――かつて高層ビルがあった

先週の当欄は、私が敬愛する愛称J・J、評論家植草甚一の日記を読んだ。手にとったのは『植草甚一コラージュ日記①東京1976』(植草甚一著、瀬戸俊一編、平凡社、2003年刊)。手書きの文面が、そのまま読める。執筆時の空気が伝わってくる本だ。

私の場合、その感覚がいっそう強い。なぜならば、著者と私は同じ時代、同じ町に住んでいたからだ。もっと踏み込んで言えば、後述するように、著者は日記を書くとき、私から100mほどの地点にいた。風が吹けば同じ空気を吸うこともあっただろう。

個人的な事情を言えば、1976年という年も私には特別な意味がある。私はそのころ理系の大学院にいて、人生の前途をどのように歩むかで迷っていた。先輩の多くは電機会社の技術者になっていたが、それとは異なる道に進みたいと思っていたのだ。今振り返れば、あの一年は一瞬一瞬が私にとってカオス現象の初期値のようなものだった。それがちょっとずれていれば、今の私はこの私とまったく違う私になっていたに違いない。

だから、植草甚一日記の記述を今読んで、ああ、そんなこともあったなあ、と思い返すことは、私にとって青春期の心模様を再体験することでもある。著者J・Jの五感を通して47年前の自分が蘇ってくるのだ。私は今回、そんな不思議な気分になった。

ということで今回は、本書に収められた植草甚一1976年1~7月の日記から私にもかかわる断片を拾いあげ、私自身の1976年1~7月を再構築してみたいと思う。

まずは、日記の謎めいた記述から。1月2日の欄に「風呂にはいってから、こっちの部屋にくる」、1月4日には「ピザパイをたべ二時にこっちの部屋へ」――ここで「こっち」とは何だろうか。日記だからこその自分にしかわからない指示代名詞だ。脚注によると、著者は小田急経堂駅前の高層マンション10階に2室借りていて、うち一つを書庫兼書斎に使っていた。入浴や食事はあっちの部屋、日記を書くのは「こっち」というわけだ。

この記述だけで、私の脳裏に自身の1970年代が蘇ってくる。経堂駅北口付近は1960年代、小田急の車庫跡地にスーパーマーケットが出現、1971年にはそれが14階建てビルに生まれ変わった。下の階はスーパーや専門店街、上層階は賃貸マンションだった。著者は町内の線路沿いにある日本家屋に住んでいたのだが、駅前にビルが建つとまもなく移ってきた。現在、このビルはすでになく中層階の商業施設に代わっている(写真)。

日記から、このビルは著者にとってわが家同然だったことが見てとれる。先週の当欄では、著者が原稿の複写に文房具店のコピー機を使っていることを書いたが、その店はビル2階の専門店街にあった。各戸の郵便受けは1階にあったようで、元日には「一階へ年賀状を取りに行く」との記述がある。5月28日には「下の事務所へよったら一〇一二号室がとれたという」とも。「下の事務所」とは、階下にあったビル管理事務所のことだろう。

さて、1012号室が「とれた」とはどういうことか。脚注によれば、著者はすでに借りている2室では足らず、「三つめの部屋を借りることになった」のだ。10階の1010号室と1014号室に加えて、もう1室を手に入れた。著者はその夏、ニューヨーク行きの予定があり「これでこんどニューヨークで買うつもりの本の置き場所ができた」と安堵しているが、理由はそればかりではなさそうだ。日記を見ると、東京にいても本を買いまくっている。

実際、6月に入ると蔵書を新しい部屋へ運び込むようになる。「部屋が一つふえたので14号室のローカの本を移動しはじめる」(6月7日)、「九時に起きて14 号室の本を12号室にはこぶ」(6月8日、9時は午前)、「八時半から14号室の本を12号室へはこぶ」(6月10日、8時半は午後)。前述の「こっち」は1014号室だったのか。「このところ毎日つづけて本はこびをやっているので、くたびれて夜よく眠れるんだろう」(6月17日)

微笑ましいのは、著者が本の引っ越しにも愉悦を見いだしていることだ。6月18日には夫婦で渋谷に出かけ、美術展とコンサートのはしごをして午後10時に帰宅、それからまた、ひと仕事している。「二時まで本はこびと整理をやったが忘れていた本が出てくるから面白い」。1976年6月、著者は連日、書斎兼書庫の本を二つ隣りの部屋へヨイショヨイショと運んでいた。ときには朝、起床してすぐに、ときには深夜、午前零時を回っても。

で、これが私の世界と見事に交差する。そのころ、実家は経堂駅北口の商店街の裏手にあった。私の部屋は2階南面で、その窓辺に立つと前方100mほどのところに駅前ビルが聳えていた。見えるのは、ビル北面にある外廊下の列。階ごとに蛍光灯が等間隔に並んでいて、日が暮れると白い光が点々とともった。蛍光灯の配列は結晶格子のように規則正しく、無機的だった。毎夜毎夜、私はそんな寒々しい光景をぼんやり眺めていたのだ。

1976年6月も、その蛍光灯の列が私の視界に入っていたことだろう。私が目を凝らしていれば、10階の外廊下を高齢男性が本を抱えて歩く姿に気づいたのではないか。たとえ気がつかなくとも、私の網膜に著者が映っていた可能性は大いにある。(*1)

不思議な話だ。著者J・Jと私のニアミスは、本書を読まなければ私も気づくことなく一生を終えたことだろう。ところが半世紀ほどが過ぎて、著者入居のビルがあった場所の近くに古書店が生まれ、そこで本書に出あったことで私の過去が上書きされたのだ。

日記には、これ以外にも著者J・Jと私を結ぶ糸がある。元日の欄に「青野さんが青ちゃんの本ができたといって来てくれたうえ青野の羊かんをもらった」とあることだ。「青野さん」は東京・六本木の和菓子店主(脚注は店の所在地を「赤坂」としているが、この「青野」は「六本木」の店だと思う)。「青ちゃん」は店主の兄で、新劇俳優の青野平義。著者の親友だった。1974年に死去しているので、この本は「追悼文集かもしれない」と脚注にある。

和菓子店「青野」や青野平義については、当欄ですでに書いている(*2)。私の祖父と青野兄弟が遠い親戚の関係にあったのだ。私は幼いころ、正月には親に連れられて六本木の店を年始で訪ねていた。で、私は本書のこの記述に引っかかってしまった。

元日、青野の主人が経堂に来ていたらしい。ということは、私の実家にも立ち寄ったのか。当時は祖父も存命だったので、その可能性はある。覚えがないのは私が外出していたからか。ただ、青野の主人はこの日、兄ゆかりの人々に本を届けるためだけにあちこち訪ねまわっていたのであり、さほど近しくない親戚の家には足を延ばさなかったのかもしれない……。こうして私は、遠い昔の親戚づきあいの濃淡にまで気を揉むことになった。

余談になるが、1976年の冬から夏にかけては、日本社会を揺るがしたロッキード事件の捜査が進んだ時期にぴったり重なる。新聞の報道合戦は熾烈を極めた。著者も、これに無関心だったわけではない。5月5日の欄に「『週刊ピーナッツ』をまとめて買った」(原文のママ)という一文があったりするからだ。「ピーナッツ」は、疑惑の領収書に出てきた符牒。「週刊ピーナツ」は、事件を追及する市民グループが出した週刊紙の名前だ。

だが、事件のヤマ場、田中角栄元首相が逮捕された7月27日前後の日記に事件への言及はまったくない。27日は午後、出張で札幌へ発ち、翌28日は朝方ホテルで原稿「ペラ12枚」を書いた後、トークイベントかなにかで「若い人たち相手にしゃべった」とある。

植草甚一日記は、いわゆる偉人の回顧録ではない。市井の文人が個人的な些事を書きとめたものだ。だが、だからこそ、忘れかけていた時代の日常が詰め込まれている。迷うことばかりだった一青年の心模様が半世紀後に蘇るのは、そのせいだろう。
*1 外廊下にはフェンスがあるから、著者の姿が陰に隠れてしまったことはありうる。ただ、私はこのビルが映り込んだ画像をネット検索で見つけ、フェンスが少なくとも上部は柵状で見通しがよいことを確認した。
*2 当欄2020年5月22日付「もうちょっとJJにこだわりたい
(執筆撮影・尾関章)
=2023年4月14日公開、通算674回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

植草甚一の「気まま」を堪能する

今週の書物/
『植草甚一コラージュ日記①東京1976
植草甚一著、瀬戸俊一編、平凡社、2003年刊

古書店という風景

めずらしく、うれしい話である。隣駅の近くに古書店が出現した。店開きは去年秋のことだが、以来、散歩の途中にときどき立ち寄るようになった。平日はがらんとしていることもあるが、週末は賑わっている。本好きは多いのだ。それがわかってまた、うれしくなる。

固有名詞を書くことにためらいはあるが、あえて店名を明かしておこう。拙稿に目を通してくださる方には良質な古書店を探している人が少なくないと思われるからだ。「ゆうらん古書店」。小田急線経堂駅北口を出て数分、緩い上り坂を登りかけてすぐのところにある。

都内世田谷区の経堂には古書店がいくつもあった。有名なのは、北口すずらん通りの遠藤書店、南口農大通りの大河堂書店。どちらも風格があった。ところが前者は2019年、後者は2020年に店をたたんだ。そのぽっかり開いた穴を埋めてくれるのが、この店だ。

店内の様子を紹介しておこう。狭い。だが、狭さをあまり感じさせない。秘密は、店のつくりにある。たとえは悪いが、ちょっとした独居用住宅のようなのだ。部屋数3室。仕切りのドアこそないものの、リビングダイニングとキッチンと納戸という感じか。それぞれの区画は壁を書棚で埋め尽くした小部屋風。客はそのどれか一つに籠って自分だけの空間をもらったような気分に浸れる。心おきなく立ち読みして、本選びができるのだ。

気の利いた店内設計は、店主が若いからできたのだろう。昔の古書店は書棚を幾列も並べて、品ぞろえの豊富さを競った。店主は奥にいて、気が向けば客を相手に古書の蘊蓄を傾けたりしていた。だが、今風は違う。客一人ひとりの本との対話が大事にされる。

おもしろいのは、本の配置が小部屋方式のレイアウトとかみ合っていることだ。店に入ってすぐ、“リビングダイニング”部分の壁面には主に文学書が並んでいる。目立つのは、海外文学の邦訳単行本。背表紙の列には、私たちの世代が1960~1980年代になじんだ作家たちの名前もある。一番奥、“納戸”はアート系か。建築本や詩集が多い。そして、“キッチン”の区画は片側が文庫本コーナー、その対面の棚には種々雑多な本が置かれている。

この棚の前で私は一瞬、目が眩んだ。目の高さに植草甚一(愛称J・J、1908~1979)の本がずらりと並んでいたのだ。「ゆうらん」は心得ているな、と思った。J・Jはジャズや文学の評論家で、古本が大好きな人。経堂に住み、この近辺は散歩道だった(*1*2*3)。そこに新しい古書店が現れ、棚にはJ・J本がある。これは「あるべきものがあるべき場所にある」ことの心地よさ、即ちアメニティそのものではないか(*4*5)。

で私は、ここで『植草甚一コラージュ日記①東京1976』(植草甚一著、瀬戸俊一編、平凡社、2003年刊)という本を手にとった。ぱらぱらめくると、1976年1月~7月の日記が手書きのまま印刷されている。さっそく買い入れた。今週は、この1冊を読もう。

折から当欄は「めぐりあう書物たち」の看板を掲げて、この4月で満3年になる。最初の回に読んだのもJ・J本だった。今回は、初心を思い返してJ・Jイズムに立ち戻る。

本書は、『植草甚一スクラップ・ブック』という全集(全41巻、晶文社、1976~1980年刊)の付録「月報」として発表されたものをもとにしている。編者はそのころ、晶文社の社員だったようだ。その前書きによると、「月報」掲載の手書き文はリアルタイムの日記そのものではなかった。それを、著者本人が「清書」したものだという。書名に「コラージュ」(貼り絵の一種)とある通り、ところどころにビジュアル素材が貼りつけられている。

元日は「一月一日・木・いい天気だ。十時に目があいた」という感じで始まる。午後2時、年賀状を出しに出かけた。だが、投函だけでは終わらない。「ブラブラ歩いて玉電山下から宮前一丁目に出たとき三時」「二十分して農大通りに出たころ日あたりがなくなった」

土地勘のない人のために補足すると、「玉電山下」は現・東急世田谷線の山下駅。小田急経堂の隣駅豪徳寺のすぐそばにある。ここで私が困惑したのは「宮前一丁目」。世田谷にこの地名はない。「二十分して農大通り」とあるから、たぶん「宮坂一丁目」、山下の隣駅宮の坂付近のことだろう。思い違いがあったのではないか。もし「宮坂一丁目」なら、著者は1時間で小田急1駅分、玉電1駅分を歩き、グルッと回って経堂に戻ったことになる。

J・Jの好奇心に敬服したのは、2月19日の記述。バス車内の読書を話題にしている。著者は当時、仕事で池波正太郎作品を多読しており、経堂から渋谷行きのバスに乗っても読みつづけようとした。ところが乗車すると「揺れどおしのうえガタンとくる」。このとき著者は、「池波用メモ帖」を持っていた。読んでいて気づいたことがあると書きとめるノートだ。それを開いて「タテ線をボールペンで引っぱってみた」。だが、「直線にならない」。

そのタテ線は本書で現認できる。著者が「メモ帖」の一部を貼りつけているからだ。線は地震計の記録のように揺れ動き、ところどころに「STOP」の文字がある。バスが一時停車したのだろう。揺れに困り果てながらも、それを楽しんでいた様子がうかがえる。

その証拠に7月5日の日記で、こんな一文に出あう。「散歩に出たら渋谷ゆきバスが来たので、池波の本を持ったまま乗ってしまう」。懲りていないのだ。しかも、この日はバスをはしごする。「渋谷で降りたら知らない方向へ行くバスがとまっているので乗ってみた」。その終点で、喫煙用パイプの買いものをして引き返している。「こんなにグルグル回りするバスもはじめてだった」とあきれているが、私は著者の気まぐれのほうにあきれる。

著者は、よほどバスが好きなのだ。3月14日は、病院帰りに新宿副都心の洋菓子店喫茶コーナーでアメリカ小説を読んだ後、路線バスに引き込まれている。「王子行きのバスに乗ったら新高円寺という停留場になったので降りてみた」。あてもないのに、やってきたバスに乗る。理由もないのに、たまたま目についたバス停で降りる。この日は新高円寺近辺で道に迷った挙句、古書店にふらりと入り、本をたくさん買い込んで持ち帰っている。

2月19日の日記に戻ろう。著者は「メモ帖」の話のあと、「ニューヨークのバスは、こんなには揺れなかったな」と思い、車輪の取りつけ方が違うのかもしれないと推理して、下車したら「車輪の位置」をよく見てみよう、と考える。ここまで読んで私は、この話は当欄ですでに書いたことがあるのではないか、と疑った。たしかに似た話はあった。ただ、バスではない。ニューヨークで地下鉄に乗ったとき、東京ほど揺れなかったという。(*1

地下鉄の揺れのことが書かれていたのは、『植草甚一自伝』(晶文社)だ。日記掲載の「月報」が添えられた「植草甚一スクラップ・ブック」の第40巻である。そういえば同第19巻『ぼくの東京案内』には、別件でバスの話が出ている。昔、歩行者用の陸橋がまだ珍しかったころ、その下をバスがくぐり抜けたときに「歩橋」という新語が思い浮かんだというのだ。その後「歩道橋」の呼び名が世間に定着して、的外れでなかったな、と悦に入る。(*3

今回はJ・J本を選んだせいか、J・J流に脇道にそれて、話の収拾がつかなくなった。ここらで日記から浮かびあがる著者の日常を素描して、まとめに入ることにしよう。

ひとことでいえば、著者はいつも原稿に追われている。だが、執筆をさぼっているわけではない。昼も夜も時間を見つけては原稿を量産している。たとえば1月8日。午前10時に目覚め、コーヒーを飲んで「『太陽』の原稿に取りかかる。十二時にペラ十枚」とある。「太陽」は平凡社のグラフィック月刊誌。「ペラ」は200字詰め原稿用紙を指している。午前10時から書きだしたのだとすれば時速約1000字、なかなか快調ではないか。

3月6日には「文房具店で池波原稿のできた半分だけゼロックスにする」とある。「ゼロックス」は複写機のメーカー名。当時は、コピーのことをこう呼んだものだ。脚注によると「植草氏は書けた分だけ原稿を渡すので控えが必要だった」。ファクスの普及以前であり、eメールなど想像すらできなかった時代なので、原稿は手渡しか郵送しかない。締め切りが迫れば、書きあげたところから手放していくことになったのだろう。自転車操業状態だ。

それなのに著者は仕事を適当に切りあげ、地元の商店街を歩き、バスや電車で三軒茶屋や下北沢、渋谷、新宿に出て、古書や雑貨を買いあさり、展覧会や演奏会をのぞき、コーヒーを飲んで楽しげな一日を過ごしているのだ。これぞ、人生上手と言うべきだろう。

さて、当欄もようやくここまでたどり着いたが、途中、入りそこねた脇道も多い。その脇道に今度こそ踏み込んで、来週もまたJ・Jワールドにどっぷり浸かる。
*1 当欄2020年4月24日付「JJに倣って気まぐれに書く
*2 当欄2020年5月22日付「もうちょっとJJにこだわりたい
*3「本読み by chance」2015年5月22日「植草甚一のハレにもケをみる散歩術
*4 当欄2022年5月13日付「あるべきものがあるアメニティ
*5 当欄2022年9月16日付「アメニティの本質を独歩に聴く
(執筆撮影・尾関章)
=2023年4月7日公開、同月27日更新、通算673回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

2・26で思うkillとmurder

今週の書物/
『二・二六事件』
太平洋戦争研究会編、平塚柾緒著、河出文庫、2006年刊

決起の破綻

ウクライナのニュースを見ていると、頭がクラクラすることがある。「敵国に兵士×××人の損害を与えた」というような報道発表に出あったときだ。要するに「敵兵×××人を殺した」ということではないか。それなのに、どこか誇らしげですらある。

これは、邦訳がなせる業かもしれない。英文の記事でよく見かける言い方は“×××troops were killed.”ここで用いられる動詞は“kill”であって“murder”ではない。日本語にすれば、どちらも「殺す」だが、英語では両者に大きな違いがある。

“kill”は幅広く、なにものかを死に至らしめることを言う。目的語が人とは限らない。生きものはもちろん、無生物であっても、機能を無効化するときに使われる。主語も人に限定されない。事故や災害が原因でも“kill”であり、犠牲者は受動態で“be killed”と言われる。だから「殺す」と訳すにしても、意味をかなり広げなくてはならない。日本語でも「はめ殺しの窓」のような用法があるが、あれと同じような殺し方である。

これに対して“murder”は、ミステリーの表題で「~殺人事件」と訳されるように故意の「殺人」を指す。日本語で「故殺」「謀殺」などと言うときの「殺す」だ。

ウクライナ報道で私が覚える違和感は何か。それは、情報の発信源が“kill”と言っているのを“murder”と受けとめたことにあるのだろう。だが、私が間違っているとは思わない。戦場で“kill”された人々も、結果としてやはり“murder”されたのである。

こと戦争にかかわる限り“kill”と“murder”は切り分けられない。こう確信するのは、私が戦後民主主義に育てられた世代だからだろう。戦後民主主義は、生命の尊重を最優先する。だから、仮にたとえ崇高な目的があったとしても、そのために他者の生命を奪ってよいとは考えない。敵兵を攻撃して生命を絶つ行為を“murder”ではないと言い切れないのだ。平和ボケと冷笑されても、この認識は私の思考回路に染みついている。

ただ心にとめておきたいのは、私たちの社会にも“kill”と“murder”を切り分ける人々がかつてはいたことだ。だからこそ、大日本帝国は戦争を始め、ドロ沼に陥っても立ちどまることができず、膨大な犠牲を払った末にようやくそれを終えたのだ。

で今週は、そんな戦前日本社会にあった“kill”の正当化に焦点を当てる。とりあげる書物は、『二・二六事件』(太平洋戦争研究会編、平塚柾緒著、河出文庫、2006年刊)。1936年2月26日、陸軍青年将校と有志民間人の一群が起こした政権中枢に対する襲撃事件の顛末を、史料を渉猟して再構成したものだ。この文庫版は、河出書房新社「ふくろうの本」シリーズの1冊、『図説 2・26事件』(2003年刊)をもとにしている。

著者は、1937年生まれの出版人。明治期以降の戦史を中心に日本の近現代史を扱った編著書が多い。在野のグループ「太平洋戦争研究会」の主宰者でもある。

本書の中身に立ち入る前に、2・26事件とは何かをおさらいしておこう。昭和初期の日本経済は世界恐慌の大波を受け、失業者の増加や農村の疲弊が深刻になっていた。政治に対する不満が高まるとともに軍部の影響力が強まり、軍内部に権力闘争が起こった。そんな情勢を背景に、尉官級の陸軍将校が天皇親政の国家体制をめざそうと決起したのが、この事件である。クーデターを企てたわけだ。だが軍上層部は同調せず、頓挫した。

本書では、事件の全容が一覧表になっている。決起将校は20人、これに下士官や兵士、民間人らを加えた参加者の総勢は1558人。襲撃場所は16カ所。即死者は計9人。高橋是清蔵相ら政府・宮中の要人だけでなく、巡査部長、巡査級の警察官も含まれる。

本書は、2・26事件の一部始終をほぼ時系列に沿って再現している。血なまぐさい場面が続出するので、それを一つひとつなぞりたくはない。ここでは、岡田啓介首相がいた官邸や高橋蔵相の私邸に対する襲撃に焦点を絞り、何があったかを見てみよう。

首相官邸を襲撃したのは、歩兵第一連隊(歩一)機関銃隊の約290人。歩一は、今の東京ミッドタウン所在地に駐屯していた連隊だ。未明に出動、午前5時には官邸を取り囲んだ。「挺身隊」が塀を越えて門を開け、将兵がなだれ込み、官邸内の首相居宅(公邸)へ突入した。「屋内は真暗だった。手さぐりで進むのだが予備知識がないのでさっぱり見当がつかない」と、二等兵の一人は振り返っている(埼玉県編纂『二・二六事件と郷土兵』所収)。

この二等兵は、和室を一つずつ見てまわる。警官の拳銃の発砲音も聞こえてくるので油断はできない。前方の廊下で「白い影」が動いた。後を追い、「ココダ!」と思って飛び込むと、お手伝いさんの部屋だったらしく、女性の姿があった。当てが外れて部屋を出た途端、銃弾が腹を直撃する。這って洗面所まで逃げたところで意識が途絶えた――。手記を残したのだから、一命はとりとめたわけだが、生きるか死ぬかの攻防が、そこにはあった。

別の二等兵は、居宅部分の中庭に逃げ込む「老人」を目撃した。報告を受けた少尉は、すぐさま射殺の命令を下す。二等兵は「老人」の顔と腹を撃ったが、それだけでは絶命しなかった。襲撃部隊を率いる中尉は、上等兵の一人にとどめの発砲を命じる。胸と眉間に2発。「老人」は息絶えた。ここで信じられないことが起こる。中尉が「老人」の顔を岡田啓介首相の写真と突きあわせ、その男が首相本人であると見誤ったのだ。

「老人」は実は首相の義理の弟で、「首相秘書官事務嘱託」の立場にある松尾伝蔵陸軍予備役大佐だった。面立ちがもともと首相に似ていたが、髪を短く刈ってわざわざ首相に似せていた可能性もある。結果として、影武者の役を果たすことになったのは間違いない。襲撃部隊は、人違いの銃殺に万歳の声をあげ、樽酒を運び込ませて乾杯までしたという。本物の首相は「お手伝いさんの部屋」の押し入れに隠れ、難を逃れたという。

高橋是清蔵相の殺害では、将校たちが直接手を下した。蔵相の私邸は東京・赤坂にあり、蔵相は二階の十畳間で床に就いていた。近衛歩兵第三連隊の中尉や鉄道第二連隊の少尉らが二手に分かれて押し入り、寝室へ。中尉が「『国賊』と呼びて拳銃を射ち」、少尉は「軍刀にて左腕と左胸の辺りを突きました」――事後、少尉自身が憲兵隊にこう供述したという。この場面からは、相手が「国賊」なら“kill”は正当化できるという論理が見てとれる。

こうみてくると、2・26事件の青年将校らは人間の生命よりも国家の体制を大事に思う人々だったのだろうと推察される。だが、そう決めつけるのはやめよう。本書を読み進むと、意外なことに気づく。彼らにとっても生命はかけがえのないものであったらしい――。

青年将校らに対する軍法会議のくだりだ。1936年6月に死刑を求刑された少尉(前出の少尉二人とは別人。階級は事件当時、以下も)は手記にこう書く。「死の宣告は衝撃であった」「全身を打たれたような感じがして眼の前が暗くなった」。同様に死刑の求刑を受けた民間人(元将校)の手記にも「イヤナ気持ダ、無念ダ、シャクニサワル、が復讐のしようがない」とある。“kill”を正当化した人々が“be killed”に直面して動揺した様子がわかる。

この心理は人間的ではある。前出の元将校は仲間に「軍部は求刑を極度に重くして、判決では寛大なる処置をして我々に恩を売ろうとしている」と楽観論を披瀝したらしい。7月の判決では「眼の前が暗くなった」少尉が無期禁固、楽観論の元将校は死刑だった。

自分の生命はだれもが可愛い。こう言ってしまえば、それまでだ。だがだからこそ、他人の生命を粗末にすることは罪深い。人の生命は“kill”されても“murder”されるのと同等の結果をもたらす。キナ臭いにおいがする今だからこそ、そのことを再認識したい。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年2月24日公開、通算667回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

「週刊朝日」デキゴトの見方

今週の書物/
『デキゴトロジーRETURNS
週刊朝日編、朝日文庫、1995年刊

「週刊朝日」2023年2月24日号

「週刊朝日」が5月末に終わる。公式発表によれば「休刊」だが、これは出版業界では実質「廃刊」を意味する。朝日新聞社が1922(大正11)年に創刊して、最近はグループ企業の朝日新聞出版が引き継いでいたが、満100歳超えの年に退却することになった。

私にとっては古巣の新聞社の刊行物なので、落胆はひとしおだ。メディアの紙ばなれが進み、新聞報道と結びついた出版文化の担い手が退場するのは、ジャーナリストの一人としても残念に思う。だが、それだけではない。この雑誌には私的にも思い出がある。

私が大学に入った1970年代初め、「週刊朝日」は表紙に毎号、同じ一人の女子を登場させていた。その女子の名は「幸恵」。10代で、私よりも少し年下だった。週がわりでポーズや表情を変えてくる。私は彼女の可憐さに惹かれ、この雑誌の愛読者になった。

そのことを物語る証拠物件が先日、見つかった。学生時代に友人たちと出したガリ版刷りの同人誌である。私も短編小説を載せたが、そこに彼女が登場していた。作中人物というわけではない。ただ、冒頭にいきなり顔を出す。「アスファルトの上に週刊朝日。表紙の幸恵が雨にぬれてびしょびしょだ」。自賛になるが、雨の路面に「週刊朝日」が貼りついているなんてイカシタ情景ではないか。読み手に作品世界を予感してもらう効果はあった。

当時の青年層には「朝日ジャーナル」が人気の雑誌だったが、高度成長が極まり、反抗の季節が過ぎるころには世相とズレが生じていた。これに対して「週刊朝日」は透明感があり、端然としていてかえって新鮮だった。その象徴が「表紙の幸恵」だったともいえる。

私は1977年、朝日新聞社に入社。「週刊朝日」は職場のあちこちに置かれていたから、読む機会がふえた。お気に入りは、1978年に始まった「デキゴトロジー」という企画。小話のような体裁で、ラジオ番組で聴取者のはがきが読まれるのを聴いている感じたった。

で、今週の1冊は『デキゴトロジーRETURNS』(週刊朝日編、朝日文庫、1995年刊)。誌面に1993~1995年に載った100話余りを収めている。本書カバーの惹句によれば、それらは「ウソみたいだけど、ホントのホントの話ばかり」。新聞社系の雑誌なのでホントを載せるのは当然だが、新聞とは違ってホントであればよいわけではない。そのホントが「ウソみたい」なところに当誌は価値を見いだしているのだ――そんな宣言である。

たとえば、1995年1月17日、阪神・淡路大震災が起こった朝の話。神戸市東灘区の女性66歳は激しい揺れと大きな音に驚き、「やっぱり高速道路が落ちよった。渋滞しすぎたんや」と思った。阪神高速のそばに住んでいるので、高架が車列の重みにいつまで耐えるか日ごろから気がかりだったのだ。「心配してたとおりやろ」。その見当外れのひとことに「地震でどこかに頭、打ったんか」と息子。母は「地震ってなんや」と答えた――。

「ウソみたい」な話ではある。だがあのころ、関西圏の直下で大地震が起こると考えていた人はそんなに多くなかった。強烈な揺れと音に襲われて地震以外のことを思いつく人がいても不思議はない。一家族のこぼれ話でありながら、一面の真理を突いている。

この親子のやりとりは漫才もどきだ。「地震ってなんや」のひとことはオチにもなっている。大震災を題材にすることは不謹慎と非難されかねないから難しいが、この一編に後味の悪さはない。話術に長けていても、無理に笑いをとろうとしていないからだろう。

もちろん、デキゴトロジーにはただの笑い話も多い。東大阪市の「女性カメラマン」38歳の体験談。大の犬好きで、散歩で白い雑種犬と出会ったとき、「犬に会釈した」。犬は、これを勘違いしたらしく「すれちがいざま、すばやく左フトモモに噛みついた」。飼い主がその場で詫びて別れたが、帰宅後に噛まれた箇所を見ると、歯形が残り、血が出ているではないか。彼女は動転してタウンページで獣医の番号を探しあて、電話をかけた――。

オチは獣医のひとこと。「人間のお医者さんに診てもらったらどうでしょうか」。要約すればそれだけの話だが、原文の筆致は軽やかだ。この話題からは特段の教訓が汲みとれるわけではない。ただ、私たちが日常しでかしそうな失敗の“あるある”である。

このように、デキゴトロジーは個人レベルの話を主体にしている。ここが、官庁を情報源とすることが多い新聞記事と大きく異なるところだ。官庁情報は公益に寄与する価値を帯びており、建前本位であり、統計的である。無駄な情報がまとわりついていても、それらは削ぎ落とされて発表される。これに対し、個人の体験談はたいてい無駄な情報が満載の世間話に過ぎない。だが、「ウソみたい」な「ホントの話」の多くはそこに宿る。

市井の個人情報を中心にしているので、危うい話はたくさんある。翻訳業に就いている大阪府在住の女性34歳の目撃談。初夏の午後、電車に乗って仕事がらみの資料を読んでいると、女子高生二人組の大声が聞こえてきた。目をあげると、二人は向かい側の座席でソックスを脱いでいる。いや、それだけでは終わらない。「平然とパンストをはき始めた」。まるで「女子更衣室」状態。近くに座る若い男性は「恥ずかしそうに下を向いていた」――。

考えてみれば、この一話が書かれたのは、電車で化粧することの是非が世間で議論の的になっていたころだ。女子高生二人もパンスト着用後、化粧に着手したという。そう考えると、電車の「更衣室」状態は公共空間の私物化が極まったものと言えなくもない。

危うさはときに警察のご厄介にもなる。今ならばコンプライアンス(遵法)尊重の立場から記事にしにくい領域にも、当時のデキゴトロジーは果敢に踏み込んだ。たとえば、「名門女子大」の学生が「駅前から撤去されて集積所に置かれた放置自転車」を「試乗」して見つかり、警察署で始末書を書く羽目になったという話。記事には「窃盗現行犯」とあるが、正しくは占有離脱物横領の疑いをかけられ、署で油をしぼられたということだろう。

デキゴトロジーによれば、この女子大生は「借用」に許容基準を設けていた。自転車が撤去から時を経て、所有者も愛着を失うほど「ぼろぼろ」なことだ。「他人の迷惑は最低限に、資本主義社会における罪を最小限に」という「良識」だった。この大学町では、その後も「借用」と思われる自転車が散見されたという。緩い時代だった。今は昔だが、私たちの社会にも法令違反をこのくらいの緩さで考える時代があったことは記憶にとどめたい。

とはいえ、日本社会の緩さはたかが知れている。世界基準はずっと大らかだ。米東海岸在住の日本人女性が西海岸からの帰途、カリフォルニア州オークランド空港でシカゴ行きの便に乗ったときのことだ。座席に着くなり機内放送があった。乗務するはずのパイロットが行方不明。「家に電話したけれど、だれも出ないし心配です」と言う。待たされた挙句、代役のパイロットが乗り込んで離陸したが、それからが大変だった。

代役パイロットが機内放送で、自分は「シカゴ空港に慣れていない」からとりあえずコロラド州デンバーまでお連れする、と説明したのだ。着陸直前には「デンバーは素晴らしいところです」「今度はぜひご滞在を」というアナウンスまで聞かされた。そこでパイロットが入れ代わり、シカゴに到着。東海岸には3時間遅れで戻った。航空会社に悪びれた様子は感じられない。ちなみにこの一話では、女性も航空会社も実名で登場している。

さて、こうした「ウソみたい」な「ホントの話」はだれがどう取材していたのか。本書巻末に収められた「週刊朝日」編集部員の一文によると、執筆陣の主力はフリーランスのライターたちであったようだ。登場人物の職業に「カメラマン」など出版関係が目立つのも、それで合点がいった。デキゴトロジー掲載記事のかなりの部分は、書き手が自分の交際範囲にアンテナを張りめぐらして手に入れた情報をもとにしているらしい。

そう考えると、デキゴトロジーはSNS以前のSNSとみることもできそうだ。ツイッターやインスタグラムなどが広まっていなかったころ、個人発の情報を分かちあうには既存メディアの助けを借りるしか手立てがなかった。そういう情報共有の場を用意したという点で「週刊朝日」は時代を先取りしていたのである。ところが今、個人発の情報は伝達手段を含めて個人が扱える。「週刊朝日」休刊はその現実も映している。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年2月17日公開、通算666回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。