アルバムにしたい本を見つけた

今週の書物/
『東京懐かし写真帖』
秋山武雄著、読売新聞都内版編集室編、中公新書ラクレ、2019年刊

カメラ

水害が頻発している。最近は、その怖さがすぐニュース映像になる。たとえば、濁流が家々を押し流す場面。住人はすでに現場から避難していると聞いても気がかりはある。一瞬、頭をよぎるのは、家を出るときにアルバムを持ちだせただろうか、ということだ。

アルバムに対する思いは、高齢の人ほど強い。写真が画像データとは呼ばれなかった時代、それをUSBメモリーやSDカードに保存したり、ネットの雲(クラウド)に載っけたりはできなかった。だから、紙焼き写真の値打ちは今よりずっと高かったのだ。

2011年の東日本大震災では、津波にさらわれた写真を復元するボランティア活動が広がった。被災者は、さぞうれしかっただろう。失いかけた写真は、家庭が営まれた記録であり、家族が生きた証でもあった。とくに、その家族が帰らぬ人となっていたならば……。

アルバムは特別な存在なのだ。かつて「岸辺のアルバム」(脚本・山田太一、TBS系列、1977年)というテレビドラマが人々の心をとらえたのも、家族の結びつきの危うさを、家屋が流されれば消えてしまうアルバムのはかなさに重ねあわせたからだろう。

と、ここまで書いてきて、自身のことを顧みるとゾッとする。私の家は幸いにも震災にも火災にも水害にも遭っていないが、幼少期のアルバムをどこに仕舞っているかがわからない。ただ、ずぼらなのだ。探そうとは思うが、もう散逸しているかもしれない。

色あせた写真には二つの意義がある。一つは、自分自身の記録という側面だ。家族でこんなところへ旅した、親戚にはこんなおじさんやおばさんがいた……というようなことだ。もう一つは、時代の記憶。あのころはこんな服が流行っていた、町にはこんな乗りものが走っていた……といったことである。「私」と「公」の過去を「こんな」だったね、と実感させてくれるわけだ。アルバムには、そんないくつもの「こんな」が詰め込まれている。

「私」についていえば、アルバムの代替品を見つけるのは難しい。だが、「公」は違う。世相をとらえることに長けた写真家が一人いれば、その作品群を通じて「あのころ」の「こんな」を蘇らせることができる。で、私は最近、そんな作品集に出あった。

書名は『東京懐かし写真帖』(秋山武雄著、読売新聞都内版編集室編、中公新書ラクレ、2019年刊)。著者は1937年生まれの写真家。東京・浅草橋で家業の洋食店を営みながら、仕事の合間に東京都内、とりわけ下町の風景やそこに生きる人々の姿を撮ってきた。まえがきによると、「カメラを始めたのは15歳」で「撮り溜めたネガは数万枚」に及ぶ。「写真と洋食屋のどちらが趣味でどちらが本業なのか、分からないくらい」なのだ。

編者名からもわかるように、この本は読売新聞の連載をもとにしている。都内版の一つ、「都民版」に週1回のペースで載ったものから、2011~2018年の72本を選んだという。読売新聞記者のあとがきによれば、担当記者は毎週、秋山さんの洋食店に足を運ぶ。写真1枚1枚について、じっくり話を聞くためだ。そして「『一本指打法』でしかキーボードをたたけない秋山さんに代わり記事を書く」。だから本文からは、語りの口調が感じとれる。

その文章には、秋山さんの被写体に対する思いがあふれている。ただ、この本の主役は、あくまでも写真だ。1編に2枚ほど載せているから全部で百数十枚。ただ、写真は文章のように、これはという言葉を引用できない。当欄では何をどう書こうか。さあ、困った。

ふと思いついたのは、ここにある写真を私本位の視点で味わってみる、ということだ。秋山さんが写真を始めたのが1952年だとすれば、それは私が生まれた翌年だ。実際、作品の撮影年は、多くが私の幼年期から少年期、青年期に重なっている。「公」の記憶ということなら、この本は「アルバム」の役目を果たしてくれるのだ。だから当欄では、作品群を自分の写真のように眺め、あのころは「こんな」だった、と懐旧に耽ることにしよう。

最初にニヤッとしたのは、「羽根をさがす子供」(1957年)だ。男の子たちが路地裏でバドミントンをしていたら、羽根が板塀を越え、道沿いの家の庭に飛び込んだ。一人は、身をかがめた友だちの背中に乗り、背伸びして塀の向こうを見下ろしている。ほかの子たちも、しゃがみ込んで板の隙間から庭を覗いている。そういえばあのころ、ゴムまりの野球で塀越えのファウルを飛ばし、「ボール、とらせてください」と大声を出すことがよくあった。

子どもたちが遊ぶ写真には、ローラースケート(1957年)、ベーゴマ(1966年)、馬跳び(1974年)、相撲(1980年)、縁台将棋(1983年)などがある。どれも路上の光景だ。道の真ん中で、女の子が馬をぴょんと跳び越えている。路面に、ひしゃげた土俵が白線で描かれている。あのころ、私たちは「道路で遊ぶな」と注意されても言うことを聞かなかった。今は車が通らない路地裏でも、子どもたちの遊び声がほとんど聞かれない。

男の子が独り、ハーモニカを吹いている写真もある(1957年)。格子縞のジャンパーの胸元から、猫の顔がのぞいている。愛猫をすっぽりくるんで暖めているのか、それとも、愛猫の体温で自分が暖まりたいのか。寒い季節であることだけは確かだ。それなのに、その子は戸外にいる。気になるのは、背後に見える波板らしき物体だ。あのころは、ありあわせの材木やトタン板で即製した建物があちこちにあった。これも、そんな物置小屋ではないか。

夕暮れどき、子どもたちが連れだって家路の途上にある写真も2枚載っている。どちらも橋の上。片方の写真(1965年)では、向こう岸に工場の煙突が並び、煙がもくもくと上がっている。もう一方(1959年)は、男の子と女の子が総勢7人。はだしの子は靴を手にぶら下げている。「工事現場の水たまりで、泥だらけになって遊んでいたんだ」と秋山さん。あのころ「水たまり」は、それだけで子どもたちの遊びを成立させた。

道路を生活の場にしていたのは、子どもだけではない。大人も、それをただの通り道とは考えていなかった。「嫁入りの日」(1964年)では、花嫁が仲人に導かれ、商店街をしずしずと歩いている。婚礼となれば、新婦が白無垢角隠しの晴れ姿をご近所に見せて回ったのだ。一行を見守っているのは、割烹着姿の女性や子どもたち。通りの華やいだ声を聞きつけて、家から飛び出してきたのだろう。道路が一世一代の大舞台になっている。

「ご近所さん」(1987年)は、近くの住人十数人が路地の道幅いっぱいに並んでいる文字通りの記念写真。食事会の折に撮ったものだという。「こうして勢ぞろいした姿を見ると、お互いの家族を見守りながら暮らしていたんだなと、しみじみ思うよ」。路地は、向こう三軒両隣の私生活をそれとなくつなげる空間だった。それを窮屈と感じるのが今の私たちだが、「見守りながら暮らしていた」と思うゆとりがあのころにはあった。

道路は商いの場にもなった。「部品売り」(1957年)という写真では、露天商が橋のたもとに中古自転車の部品を並べている。よく見ると、値札がついているのはタイヤが多い。「壊れた自転車を安く仕入れて、使える部品だけ抜き取ったんだろうね」。おもしろいのは「橋の上では、硬くなった大福を温め直して売っている人もいたよ」という話。戦後の空気が残っていたあのころ、大人たちはなんでも売りものにして、どこでも店を開いたのだ。

道路の写真をもう1枚。「無理が通れば」(1965年)では、大型トラックが2台、狭い道をギリギリすれ違っている。「今なら立派な物損事故だね」とあるが、この写真ではそうとは断定できない。ただ、秋山さんの証言は含蓄に富む。「運転手がどうしたかって。お互いにそのまま目的地へと走り去っていったよ」――あのころ、運転手の最優先事項はものを運ぶことであり、武骨な車体にかすり傷がついたかどうかは二の次だったように思う。

写真は嘘をつかない。この本では、私が子どもだったころの社会の実相が露呈している。あのころの大人は、法律よりも融通を優先させていたのではないか。だから、道路という公空間で互いに折りあいをつけていた。子どもが道路にいても、近隣の緩いつながりのなかで見守っていた。それがすべて良かったとは言わない。法律や決まりごとは当然、尊重されるべきだ。ただ同時に、あのころにあって今は失われた美風も忘れたくはない。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年9月3日公開、通算590回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

あの夏、科学者は広島に急いだ

今週の書物/
『荒勝文策と原子核物理学の黎明』
政池明著、京都大学学術出版会、2018年刊

8月6日

東京五輪2020はまもなく閉幕だが、コロナ禍の拡大はとどまるところを知らない。気がかりなことが多い夏だが、今週は公開日が8月6日にぴったり重なった。折しも政府は7月、広島の原爆で「黒い雨」を浴びた人々に対して「被爆者」認定の幅を広げることを決めた。当事者たちが起こした訴訟で下級審による原告勝訴の判決を受け入れ、上告を見送ったのだ。そこで今回は76年前、広島の現実に科学者がどう向きあったかに着目する。

それならばあの本がある、と思い浮かんだのが『荒勝文策と原子核物理学の黎明』(政池明著、京都大学学術出版会、2018年刊)。著者は1934年生まれ、京都大学出身で、素粒子研究が専門の物理学者だ。京大教授などを務めた後、2000年代半ばに日本学術振興会ワシントン研究連絡センター長として現地に駐在した。本書は、このときに米国の議会図書館や公文書館の資料を調べ、さらには国内の文献も読み込んでまとめた大著である。

著者は私にとっても、おつきあいの深い物理学者だ。若手記者のころは素粒子物理の取材でお世話になった。新聞社を退職してからは同じサイエンスカフェに参加していた。そう言えば去年2月、コロナ禍のマスク生活に突入する直前、会食をご一緒している。

その席での話題の一つが、本書が跡づけた京都帝国大学の戦時研究だった。表題にある荒勝文策は敗戦前後、京大教授だった原子核物理学者。戦中は海軍の委託で原子核エネルギーの解放を軍事に用いる可能性を探った。「F研究」である。それが原爆開発にどれほど近づいていたのか。著者から教わることは多かった。だから、いずれは当欄で本書を紹介したいと考えていた(書名だけは2020年8月28日付「戦時の科学者、国家の過剰」で言及)。

この流れで言えば、本書を手にとったならば、まずはF研究の記述を読み込むのが筋だ。だが今回はあえて、もう一つの読みどころをとりあげることにする。荒勝を中心とする京大チームが被爆直後の広島を踏査した記録である。新型爆弾は、一瞬にして都市一つを全壊させるほどのものなので核エネルギーの解放である疑いがきわめて濃厚だったが、即断はできない。現地調査の第一の使命は、その正体を確定させることだった。

私が、この記録に惹かれたのには理由がある。原子核物理学者が被爆現場を歩くというのは、科学者が科学の生みだした地獄を目撃することだ。そこで何を思い、どんな動きをとったかを見れば、そこから科学者特有の思考様式や行動様式が浮かびあがってくるように思われた。で、今回は本書第1編「通史」の第2部「原爆の調査」に的を絞る。京大が1945年8月から9月にかけて都合3回、広島へ送りだした調査団の活動が詳述されている。

まずは8月6日、広島に原爆が落とされた後、荒勝グループにはどんな情報がどのようなかたちで届いたのか。本書によると、荒勝は7日夕、同盟通信の記者から「情報を得た」。情報の中身は書かれていないが、米国のハリー・トルーマン大統領が原爆投下を公表したのが日本時間7日未明だから、そのことも含まれていたのだろう。同じ日、東京でも同盟通信記者が理化学研究所の物理学者仁科芳雄に接触、大統領声明文を手渡したという。

さすが理系集団と思わせるのは、グループの一員である京大化学研究所の所員が、米国の短波放送を聞いて原爆の詳報を得ていたことだ。それは大統領声明だけでなく、原爆開発にどれほどの資金と人員が投じられ、核実験がどんなものだったかについても伝えていた。

8月9日、京大調査団が広島に向けて出発する。京都駅午後9時半発の夜行に乗った。荒勝を団長とする総勢11人。「理学部班」と「医学部班」の2班編成で、理学部班には荒勝グループの助教授や大学院生が含まれ、陸海軍の技術将校も加わっていた。広島到着は翌10日正午前。調査団は「広島駅近くで死傷者を積んだ無蓋貨車とすれ違い、さらに駅前の屍を見て衝撃を受ける」。これは、団員の日記をもとにした記述である。

調査団は土壌などの試料採取を駅裏の東練兵場から始め、続いて市内を回った。荒勝ら幹部は、陸海軍が仁科ら東京の調査団と開いていた「合同特殊爆弾研究会」に合流する。興味深いのは、会議で新型爆弾の正体について問われたとき、仁科は「原子爆弾だと思います」と答えたが、荒勝は「そう思います」と同調しつつ「今科学的な調査をやっているから、それが出来たら判断します」と確答を控えたことだ。科学者らしい見解ではある。

実際、この時点では原爆否定説もあった。陸軍がまとめた報告書によれば、米軍が夜のうちに上空から発火剤や閃光剤を撒き散らし、夜が明けてから火をつけて爆発させたという説などが出ていたらしい。大本営発表流のフェイクか、情報収集力の乏しさゆえの妄想か。

荒勝チームは10日夜、帰途につく。二夜連続の列車泊。一刻も早く「確証を得たい」と考えたのだ。11日昼前、京都着。大学では大学院生や学部生が待ち構えていて、手づくりのガイガーカウンターで放射能を測った。本書は、当時の学部生が60年余の歳月を経て、当日を振り返った私信を紹介している。試料に人骨が混ざっていたこと、「練兵場の砂」から「自然放射能の3倍以上」を検知して「ゾー」としたこと……その記憶は生々しい。

ただ、これでも「科学的」には不十分だった。著者によれば、荒勝にとって原爆の確証を得るとは「核分裂によって生ずる放射性物質」や「核分裂の際発生する中性子による誘導放射能」をとらえることを意味した。「核分裂」の直接証拠を押さえようとしたのだ。それには、試料がもっと要る。そこでグループは12日夜、広島へ第2次調査団を送りだす。今度は合わせて9人。理学部の研究者と海軍の技術陣が中心で学部生も動員された。

第2次調査団もまた、市内を歩き回って試料を集めた。背中のリュックは試料で満杯になる。「焼け跡の泥棒に間違えられた」ことが一度ならずあったという。集めたのは、土壌や金属片、馬の骨片など。倒壊電柱の碍子からは接着剤の硫黄成分が、焼け跡に残る電力計からは部品の磁石やアルミニウム回転板が、それぞれ採取された。馬の骨(カルシウムを含む)、硫黄、磁石(たぶん鉄製)、アルミ板……目のつけどころが、ちょっと違う。

荒勝の目論見は、海軍に提出した「調査結果」の文書に載っている。その筋書きはこうだ。爆弾がウランの核分裂によるものなら、爆発時に中性子が放たれ、地上の物質にぶち当たる。その結果、物質は放射能を帯びる。放射化による誘導放射能だ。カルシウムも硫黄も鉄もアルミも、中性子によって放射化されればβ線を放つ――。実際、収集した試料にはどれも「強烈なβ放射能」があり、「高速中性子による誘導放射能」の存在が歴然だった。

荒勝は8月15日、結論を下して、海軍技術研究所の将校宛てに電報を打つ。
「シンバクダンハゲンシカクバクダントハンテイス」
この日、日本は敗戦したのである。

本書は、科学者の心にときに悪魔が顔をのぞかせることも見逃さない。たとえば、調査団の学生が後年、自著に記した反省の弁を引用している。この人は、自分が拾った試料の放射能が京大調査団のなかで最高値を記録したことに「少し気をよくしていた」。そんな自分が「恥ずかしくなる」と振り返っている。本書を読むと、当時すでに放射線被曝の怖さはかなりの程度まで知られていたことがわかるが、それでもこんな心理状態に陥ったのだ。

もっと怖い話もある。荒勝が第1次調査団の帰洛を急がせたのは、調査報告を早めるためだけではなかったとする側近の証言だ。京都にも原爆投下があるらしいという噂を広島で聞きつけ、爆発の一部始終を比叡山頂で観測しようと思い立ったからだという。本書は『昭和史の天皇――原爆投下』(読売新聞社編、角川文庫)を引いているだけで、それを裏打ちする史料はない。もし本当なら、科学者の探究心の底知れなさに背筋が寒くなる。

京大は9月、第3次の調査団を広島へ送り込んだ。理学部班の目的は残留放射能を調べることだった。ところが17日、枕崎台風が中国地方を襲い、深夜に宿舎の陸軍病院が山津波の直撃を受ける。11人が犠牲となった。本書は、そのいきさつも入念に記している。

被爆直後の広島に入った京大の科学者は志の高い人々だった。一つには、一都市を壊滅状態にさせた元凶の正体をあくまでも科学によって突きとめようとしたことだ。もう一つは、そのためならば、ということで、放射線によって自らが受けるリスクも顧みず、焼け野原を歩きまわったことだ。いずれも、科学者らしいと言えば科学者らしい。だが、その科学者らしさは、ときに理性と矛盾する。そんな痛切な教訓が本書からは見てとれる。
*この拙稿本文では、本書に登場する人物の敬称を省いた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年8月6日公開、同日更新、通算586回
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1964+57=2021の東京五輪考

今週の書物/
『1964年の東京オリンピック――「世紀の祭典」はいかに書かれ、語られたか』
石井正己編、河出書房新社、2014年刊

57年間

「TOKYO2020」という名の祭典が、1年遅れで開幕した。その思いは後段で綴ることにして、まずは同じ東京の地で1964年にあった東京オリンピックの開会式を思い返してみよう。当欄がひと月ほど前にとりあげた『1964年の東京オリンピック――「世紀の祭典」はいかに書かれ、語られたか』(石井正己編、河出書房新社、2014年刊)をもう一度開いて、「開会式」の部を読んでみる(2021年6月18日付「五輪はかつて自由に語られた)。

「開会式」の部に収められた5編は、5人の作家が会場に足を運んだ現地報告だ。

三島由紀夫が毎日新聞(1964年10月11日付)に寄せた一文には、「やっぱりこれをやってよかった。これをやらなかったら日本人は病気になる」という感慨が述べられている。秋晴れに恵まれた式典が「オリンピックという長年鬱積していた観念」を吹き飛ばしたというのである。その観念は日本人が胸のうちに抱え込んだ「シコリ」のようなものだというが、具体的な説明はない。だが、私たちの世代にはなんとなくその正体がわかる。

シコリの原因を、かつて日中戦争のもとで東京五輪が返上されたという史実に帰する見方はあるだろう。ただ、それが日本社会の積み残し案件になっていたかと言えば、そうではない。1964年に中一の少年だった私の印象批評で言えば、あのころの大人たちは国際社会に名実ともに復帰したいと切望していたように思う。屈辱と反省が染みついた戦後という時代区分を一刻も早く終わらせたい、という焦りだ。三島は、それを見抜いていた。

この一編には、はっと思わせる一文がある。聖火リレー最終走者の立ち姿について書いたくだりだ。「胸の日の丸は、おそらくだれの目にもしみたと思うが、こういう感情は誇張せずに、そのままそっとしておけばいい」――絶叫は無用、演説も要らない、というのだ。オリンピックは「明快」だが、民族感情は「明快ならぬものの美しさ」をたたえているという見方も書き添えている。その重層的な思考が、6年後の三島事件にどう短絡したのか?

石川達三の一編(朝日新聞1964年10月11日付)は、ごく常識的にみえて、三島よりも国家にとらわれている。石川は、五輪を「たかがスポーツ」と冷ややかにみていたが、開会式の光景には心動かされたことを告白する。理由の一つは、「新興独立国」が続々と参加したこと、もう一つは敗戦後の記憶が呼び覚まされたことだ。「わが日本人はわずか二十年にして、よくこの盛典をひらくまでに国家国土を復興せしめたのだ」と大時代風に言う。

5人の作家たちは、いずれも戦時体験のある人たちだった。その生々しい記憶を開会式に重ねあわせたのが、杉本苑子だ(共同通信1964年10月10日付配信、本書掲載分の底本は『東京オリンピック』=講談社編、1964年刊)。「二十年前のやはり十月、同じ競技場に私はいた」。精確には21年前、1943年の学徒出陣壮行会だ。杉本たち女子学生は、男子学生を見送る立場だった。「トラックの大きさは変わらない」という言葉に実感がこもる。

今、即ち1964年、皇族が席についているあたりに東条英機首相が立ち、訓示。銃後に残る慶応義塾大学医学部生が壮行の辞。出征する東京帝国大学文学部生が答辞。「君が代」「海ゆかば」「国の鎮め」の調べが「外苑の森を煙らして流れた」――1964年にとっての1943年は、2021年の現在からみれば2000年に相当する。米国でジョージ・W・ブッシュ対アル・ゴアの大統領選挙があった年である。杉本の記憶が鮮明なのもうなずける。

国立競技場の観客席を埋め尽くす観衆7万3000人に目を向けたのは、大江健三郎だ(『サンデー毎日』1964年10月25日号)。自身が群衆の一人となって、周辺の席にいる外国人女性の一群を詳しく描写する。皇族たちの姿を双眼鏡で眺めて「プリンス、プリンセス!」とはしゃいでいる。そんな祝祭気分を、大江は「子供の時間」と表現する。「鼓笛隊の行進」「祝砲」「一万個の風船」……言われてみれば、その通りだ。

大江は、その「子供の時間」に膨大な「金」と「労力」がつぎ込まれ、ときに「労務者の生命」までが犠牲にされたことを指摘して、こう言う。それらを償うために「大人の退屈で深刻な日常生活は、オリンピック後に再開され、そしてはてしなくつづくのである」と。

想像力の作家らしいな、と思わせるのは最終段落だ。開会式が終わり、人々が帰途についたとき、大江は人波に押しだされるように競技場を去りながら、後ろを振り返ってみる気にはならなかった。「あのさかさまの大伽藍が巨大な空飛ぶ円盤さながら、空高く飛びさってしまっているかもしれない」――そんな思いが頭をかすめたからだという。五輪が「子供の時間」なら、それはひとときの移動遊園地であっても不思議ではない。

開高健は、競技場の群衆に「血まなこになったり」「いらだったり」する人が皆無なのを見て、同じ人々がかつて「焼け跡を影のようにさまよい、泥のようにうずくまっていた餓鬼の群れ」であったことに思いを巡らせている(『週刊朝日』1964年10月23日号)。

観客の行儀良さは選手の生真面目さに通じている。日本選手団の入場行進は、こう描写される。「男も女も犇(ひし)と眦(まなじり)決して一人一殺の気配。歩武堂々、鞭声粛々とやって参ります」。直前に入場したソ連選手団は女子選手たちが「赤い布をヒラヒラ、ヒラヒラふって愛嬌たっぷりに笑いくずれてる」ほどの自然体だったから、日本の隊列の緊張ぶりは際立った。開高は、国内スポーツ界には「鬼だの魔女だの」がいると皮肉っている。

5編を読み通して気づいたのは、5人の作家のうち3人、三島と大江と開高が、式の幕切れに起こった小さなハプニングを肯定的に書きとめていることだ。数千羽の鳩(三島、開高によれば8000羽、大江によれば3000羽)が秋空に向けて放たれたとき、1羽だけが離陸を拒み、競技場の大地にとどまっていた、という微笑ましい話である。政治的立場がどうあれ、作家の関心は群衆のなかでも失われない強烈な自我に向かう、ということだろうか。

……と、ここまで書いて、それにTOKYO2020開会式の感想をつけくわえる、というのが本稿で私が構想していたことだ。ところが、今になって気づいたのだが、式は午後8時からではないか。東京五輪の開会式は快晴の日の昼下がり、という固定観念が頭に焼きついている世代ゆえの誤算だった。ということで、本稿公開の時刻はテレビで式を見終えた後の深夜になる。ただ、それを見届けなくとも書ける感想は多々ある。

たとえば、開会式直前のゴタゴタ。4日前に楽曲担当の音楽家が辞任、前日には演出家が解任された。いずれも過去の過ちを問われてのことだ。一方は、少年時代のいじめ、もう一方は芸人時代、コントに織り込んだユダヤ人大虐殺の揶揄。ともに人権の尊重という普遍の価値に反している。今回の五輪は、世界がコロナ禍という人類規模の災厄のさなかにあることから開催に賛否が分かれていたが、押し詰まって事態はさらに混迷したのだ。

二人の過ちについては、私は詳細を知らないのでここでは論じない。ただ一つ気になるのは、音楽家が自身のいじめ体験を雑誌で得意げに語ったのも、演出家がユダヤ人大虐殺を笑いの種にしたのも、1990年代だったことだ。あのころの社会には、いじめも大虐殺も笑い話風に受け流してしまう空気があったのかもしれない。それは、ミュージシャンやお笑い芸人の世界に限ったことではあるまい。私たちも同じ空気を吸っていたのだ。

思いは再び1964年へ。あの五輪が戦争の記憶とともにあったことは作家5人の文章からも読みとれる。だが、戦争の罪深い行為に触れた記述はほとんど見当たらない。石川を除けば戦時の大半を少年少女期に過ごした世代だからだろうか。強いて言えば、大江が原爆に言及しているくらいだ。そこには、聖火の最終走者に原爆投下の日に広島で生まれた青年が選ばれたことを米国人ジャーナリストが「原爆を思いださせて不愉快」と評したとある。

「思いださせて不愉快」のひとことは、東京五輪1964の本質を突いている。当時の大人たちは20年ほど前の過ちを思いだしたくなかったのだ。それは敗戦国であれ、戦勝国であれ同様だったのだろう。あの五輪は戦争の罪悪を忘却するための儀式ではなかったか。

さて、今回の開会式辞任解任劇で思うのは、当事者の音楽家や演出家が抱え込んだ重荷は、私たちにも無縁ではないということだ。今はだれもが、自身の過去を振り返り、過ちを置き忘れていないか点検を迫られているような気がする。おそらく1964年には、そんな問いも封印されていたのだろう。私たちの社会は、あのときよりもいかばかりか倫理的になったのかもしれない。私たちの心がその倫理に耐えられるほど強靭かどうかは不明だが……。

午後8時、開会式が始まった。どこまでが生映像でどこからが録画なのかわからないパフォーマンスが続く。そして、各国選手団の入場。みんなお祭り気分、スマホ片手に動画を撮っている選手もいるから行進とは言えない。まさに、大江の言う「子供の時間」だ。

ここには、開高が言う「犇と眦決して」の気配もない。式が進行する間、選手は勝手気ままな姿勢でいる。だが、不思議なことにここに自由があるとは思えない。そう、この57年間で世界は変わったのだ。今、私たちは目に見えない束縛のなかにいる。
*引用箇所にあるルビは原則として省いた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年7月23日公開、通算584回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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五輪はかつて自由に語られた

今週の書物/
『1964年の東京オリンピック――「世紀の祭典」はいかに書かれ、語られたか』
石井正己編、河出書房新社、2014年刊

五つの輪

日本列島には1億人余が暮らしている。今この瞬間も、喜んでいる人がいれば、悲しみにくれている人もいる。どこかで結婚式があれば、別のどこかで葬式も同時進行中だ。世に明と暗が共存することは、私たちが受け入れなければならない現実だろう。

ただ、それは結婚式と葬式の話だ。いずれも私的な行事だから、世にあまねく影響を与えることはない。だが、明暗の一対がオリンピック・パラリンピック(オリパラ)とパンデミック(疫病禍)となると事情が違ってくる。人類の祝祭が、世界中の人々の生命を脅かすわざわいの最中に催されようとしているのだ。オリパラがもたらす歓喜も、疫病禍に起因する苦難や悲嘆も、すべて公的な領域にある。私的明暗の同時進行とは質が異なる。

国内ではこのところずっと、今夏のオリパラが論争の的になっている。1年の延期でコロナ禍制圧を祝う機会になる、という楽観論が見当違いとわかったからだ。開催の是非をめぐっては、いくつかの模範解答があった。たとえば、選手の思いを第一に考えるべきだという主張。あるいは、開催の可否は科学の判断に委ねるべきだという意見。いずれも、もっともだ。ただ、私たちが考慮すべきは「選手の思い」と「科学の判断」だけではない。

第一に、オリパラがただのスポーツ大会ではないとの認識は、五輪誘致派の間に当初からあったのではないか。それは、震災からの復興と関係づけられたり、外国人観光客需要を押しあげるとして期待されたりした。五輪は、社会心理や経済活動と密接不可分なのだ。

第二に、オリパラ開催を科学で決める、という話も一筋縄ではいかない。科学の視点で言えば、コロナ禍を抑え込むには人流を減らすのがよいに決まっている。正解は、中止か延期しかないだろう。だが、実際には開催を前提にして感染制御策を立案することにとどまりがちだ。前提条件に、すでに政治的、経済的な思惑が紛れ込んでいる。政治家はそのことに触れず、科学者に諮ったという手続きだけをもって「科学の判断」を仰いだと言い繕う。

昨今のオリパラ問題は小学校の科目にたとえると、こうなる。体育が中心にあるのだが、その枠に収まりきらない。理科に関係しているが、理科が答えを出してくれるわけでもない。実際のところは、社会科の時間に考えるべき論題がいっぱい詰まっているのだ。本稿冒頭の話題も、あえて言えば社会科の守備範囲だ。公的な災厄のさなかに公的な祝祭に心躍らせられない人々が多くいるのではないか――そういう慮りがもっとあってよい。

で、今週は『1964年の東京オリンピック――「世紀の祭典」はいかに書かれ、語られたか』(石井正己編、河出書房新社、2014年刊)。1964年の東京五輪について、新聞や雑誌に載った小説家や評論家、文化人、知識人ら総勢34人の寄稿や鼎談対談を集めている。編者は1958年生まれの国文学、民俗学の研究者。序文によれば、64年東京五輪前後の国内メディアには作家たちが次々に登場して「筆のオリンピック」の状況にあったという。

この本は大きく分けると、五輪そのものに密着した「開会式」「観戦記」「閉会式」の3部から成るが、それらに添えるかたちで「オリンピックまで」「オリンピックのさなか」「祭りのあと」という章も設けている。五輪を取り巻く世相も視野に入れているのだ。

開催まで1カ月という今この時点に同期させるという意味で、今回は「オリンピックまで」に焦点を絞ることにする。この章だけでも、井上靖、山口瞳、松本清張、丸谷才一、小田実、渡辺華子という7人の筆者が競うように感慨を綴り、持論を述べている。

あのころの平均的な日本人の心情を汲みとっていて正攻法の作家だな、と思わせるのは井上靖だ。その一文は1964年10月10日付の「毎日新聞」に掲載されたから、10日の開会式直前の心境を語ったものとみてよい。それは、4年前にローマ五輪を現地で観たときの体験から書きだされる。閉会式で、電光掲示板に浮かぶ「さようなら、東京で」という次回予告を目にした瞬間、「本当に東京で開かれるだろうか」と心配になったという。

その理由は、突飛なものではない。五輪のためには道路を整えなくてはならないし、競技場も必要だ。「果たして四年間のうちにできるだろうか」。そんな思いがあったという。ところが4年後の今、道路も競技場もできあがっている。井上は、ローマの不安が「杞憂(きゆう)だった」として、それらを仕上げた人々に素直に謝意を表す。ここで目をとめたいのは、井上が五輪の整備項目を列挙するとき、道路→競技場の順で書いていることだ。

この記述から、64年東京五輪が都市の建設事業とほぼ同義であった構図が見えてくる。

もちろん、その構図の裏側に目をやる人もいる。開催前年に書かれた山口瞳の「江分利満氏のオリンピック論」がそうだ(『月刊朝日ソノラマ』1963年10月号)。五輪は1年先だが、「オリンピックはもう終ってしまった、と考えている人もあるに違いない」。五輪にかかわる政治家や財界人、建設業者やホテル経営者の胸中には「もう予算はきまってしまった、もう何も出てこない」という認識があるはずだ、と見抜くのだ。鋭いではないか。

小田実は、五輪を間近にした東京の各所を見てまわり、その感想を寄稿している(共同通信1964年10月7日付配信、本書掲載分の底本は『東京オリンピック』=講談社編、1964年刊)。それによると、「オリンピックに関係するところ」と「しないところ」に「あまりにも明瞭な差異」があったという。五輪にかかわる場所には巨費が投じられ、新しい建築や道路が出現している。かかわりがなければ「ゴロタ石のゴロゴロ道のまま」だ。

小田は、さすが反骨の人である。世の中に、五輪という「世界の運動会」に興味がなく、「ヒルネでもしていたほうがよい」と思う人がいることを忘れない。そうした人もいてよいはずなのに、「政治」は「ヒルネ組をまるで『非国民』扱い」――そう指弾する。

ここで私がとりわけ目を惹かれたのは、こうした「政治」がジャーナリズムを巻き込んで、人々の間に「既成事実の重視」「長いものにまかれろ」という社会心理を根づかせた、と指摘していることだ。それは、「きみが反対だって、もう施設はできてしまった。こうなった以上は一億一心で」と、ささやきかけてくるという。1964年の五輪前夜、街にはそんな気分があふれ返っていたらしい。それは、オリパラ2020直前の今と共通する。

ただ、「ヒルネ組」も黙ってはいない。松本清張は『サンデー毎日』1964年9月15日臨時増刊号への寄稿で「いったい私はスポーツにはそれほどの興味はない」と冷ややかだ。自身の青春期、スポーツ好きの若者には大学出が多かったとして、「学校を出ていない私」はスポーツに無縁だったことを打ち明ける。「何かの理由で、東京オリンピックが中止になったら、さぞ快いだろうなと思うくらい」。そんな異論も、あのころは堂々と言えたのだ。

丸谷才一の一編(『婦人公論』1964年10月号)は、英会話術の指南。“You won’t come up to my room?”(「君はぼくの部屋へ来ないんだね?」)と聞かれたとき、「ゆきません」のつもりで“Yes.”と答えたなら「ゆきます」の意にとられると警告、「ラジオは本当はレイディオ」など、指導は細やかだ。だが、「会話というものは言葉だけでおこなわれるものでは決してない」と「態度」「表情」などの効能も説いて、読み手を安心させている。

最後の一文は、渡辺華子が1961年7月8日付「読売新聞」に寄せた論考。彼女はその前年、ローマで五輪に続けて開かれた「国際下半身不随者オリンピック」(第1回パラリンピック)を観戦していた。それは、選手が応援の側にも回ったり、観客がどの国にも声援を送ったりで、まるで「草運動会」のよう。「対抗意識と緊張感の過剰な一般オリンピック」より「ずっと楽しかった」という。この感想は、結果として五輪批判にもなっている。

1960年代前半、東京五輪が刻々と迫るなかでも、その祝祭をめぐって、なにものにも縛られない議論がメディアで展開された。今は、型破りの論調がほとんど見当たらない。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年6月18日公開、通算579回
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そんなアメリカがあの頃はあった

今週の書物/
「ともだち」
『その日の後刻に』(グレイス・ペイリー著、村上春樹訳、文春文庫、2020年刊)所収

アメリカの連帯

去年、アメリカ合衆国の混乱は目を覆うばかりだった。だが振り返れば、あの国は昔から混乱続きだったのだ。私が少年だった1960年代に限っても、公民権運動があった、大統領暗殺もあった、ベトナム戦争があり、それに対する抗議活動もあった。

米国が凄いのは、そんな混乱を隠そうとはしないことだ。あのころも、私たちには米国社会の実相をのぞける窓があった。報道しかり、文学しかり、音楽しかり。だが、なんと言っても、米国の人々がもっとも正直に素顔を見せたのは、映画ではなかっただろうか。

とりわけ、1960年代から70年代にかけて封切られたアメリカン・ニューシネマと呼ばれる一群の作品には、そういう傾向があった。もちろん、フィクションだから筋書きはつくりもので誇張表現もある。私たちも、俳優の演技を見ているに過ぎない。だが、その言葉やしぐさにはホンモノ感があり、嘘のない心情が感じとれた。ひとことで言えば、時代の袋小路に迷い込んで戸惑う米国人の実像がスクリーンに大写しになったのだ。

その直前、1950年代から60年代にかけては、米国は誇り高い存在だった。それが実感できたのは、テレビ草創期の米国製ホームドラマだろう。邦題を言えば「パパは何でも知っている」「うちのママは世界一」などだ。米国社会に戦勝国としての自信があふれていたころで、その象徴が中流家庭の頼りになるパパやママであり、大ぶりのクルマや白物家電だった。町では大量生産されたモノが量販店の棚にあふれ、消費文化を開花させていた。

そんな米国を子ども時代に見せつけられていたから、アメリカン・ニューシネマが描く世界は衝撃だった。語りたい作品は尽きないのだが、ここでは一つだけ言及しておこう。国内では1975年に公開された『アリスの恋』(マーティン・スコセッシ監督)――。

エレン・バースティン演じるアリスは、トラック運転手の夫を突然の事故で失い、12歳の息子と二人で生きていくことになる。歌手になる夢を実現しようと旅に出て、いろんな男と出会う――そう言うと身もふたもないが、細部がいいのだ。アリスは歌の仕事になかなかありつけず、安レストランで働いたりする。そのウェイトレス姿が健気に見えた記憶がある。邦題よりも、原題“Alice Doesn’t Live Here Anymore”のほうがピンとくる作品だ。

で、今週の1冊は『その日の後刻に』(レイス・ペイリー著、村上春樹訳、文春文庫、2020年刊)という短編小説集。この本を読んでいて思い浮かんだのが、なぜか「アリスの恋」だった。今回は『その日の…』のなかの「ともだち」という1編に的を絞る。

著者ペイリーの横顔から紹介しよう。ニューヨーク・ブロンクス出身の作家(1922~2007)。父母はユダヤ系ロシア人で、ウクライナから米国に渡ってきたという。訳者村上春樹のあとがき「大骨から小骨までひとそろい」によると、小説や詩の執筆だけでなく、大学で教えたり、フェミニズム運動やベトナム反戦にかかわったりもした。日本で言えば大正生まれだが、私たち戦後世代とも響きあう。結婚歴は2回、最初の夫との間に二人の子がいる。

「なかなかタフな人生を送った人だが、フィクションに関して言えば、きわめて寡作な作家」と「大骨から…」にある。出版されたものは「たった三冊の比較的薄い短編小説集」だけらしい。村上は、そのすべてを訳している。3冊目が『その日の…』だ。原題は“Later the Same Day”。1985年に発表された。私は、この書名の響きが――英語でも日本語でも――気に入って読もうと思ったのだが、所収の小説17篇に同じ題名のものはない。

「大骨から…」には、村上自身のペイリー翻訳史がつぶさに記されている。著者の短編を最初に訳したのは1988年。『その日の…』邦訳を単行本(文藝春秋刊)として上梓したのが2017年。3冊の完訳に、実にほぼ30年を費やしたのだ。ペイリー作品には「大骨から小骨までひとそろい」が詰まっていて細部まで気を抜けないからだという。「何度読んでも真意がわかりかねる」箇所が多いとも。邦訳を読んでいても、その苦労はよくわかる。

で、「ともだち」だ。この一編では、長く友だちづきあいをしている3人の女性が「死の床にある私たちの親友セリーナ」を見舞う。3人は、スーザンとアンと私。私の名はフェイスだ。冒頭、まずセリーナの部屋――どうやら病院ではなく自宅の一室らしい――の情景から切りだされ、それに続けて、帰りの列車に同乗する3人の様子が描かれる。読み手も気を抜けないのは、列車内の描写のなかに、さっきまでいた部屋の場面が交ざり込むからだ。

時間の前後などお構いなく、話が次から次へつながっていく。友人がしゃべる言葉も、「私」が口にする言葉も、「私」の内面の思いも、すべてがカギかっこなしに綴られる。流れるような文体なのだ。この文学手法は〈意識の流れ〉と呼んでよいように思われる。だが、そうと決めつけにくいのは、登場人物たちの言葉が混入することだ。意識の流れは複数あり、それらが会話として飛び交う肉声によって干渉しあう――そんな感じだろうか。

4人がどんな「ともだち」かは、文章の流れを注意深くたどっていくと見えてくる。セリーナが部屋のどこかから、子どもたちが公園の木の枝に腰掛けた写真を取りだしてきて、みんなに見せる――。「これも楽しい一日だったわね」「あなたたち二人が男たちの品定めをしていたのを覚えている」「私にも男友だちがいた。そう思っていた。けっこうお笑いよね」。彼女のおしゃべりの一部をカギかっこで括って拾いだせば、こんな具合になる。

ママ友。公園デビュー。そんな語句が頭に浮かぶ。「男たちの品定め」とか「男友だち」とかいった言葉からは、「パパは何でも知っている」や「うちのママは世界一」のようなホームドラマの安定とは縁遠いところに彼女たちがいたことが察せられる。

実際、4人の私生活は波乱に満ちていた。セリーナは親を早くに失い、施設で育った。男と同居して「楽しい時を持てた」こともあるが、彼は今、別の相手と結婚している。娘を育てあげたが、「ある夜に、遠い町のとある下宿屋で、死体となって発見された」。娘の18歳当時の写真がテーブルに飾られている。つまり、現在は独り暮らし。その彼女が病床から立ちあがり、身振りをつけて「あの頃は楽しかったわよね、マイ・フレンド……」と歌う。

訳注によれば、この歌は「悲しき天使」(原題“Those Were the Days”、作詞ジーン・ラスキン)。1968年にメリー・ホプキンが歌ったヒット曲だ。原詞に“Those were the days, my friend”とあるのを「あの頃は…」と訳したのだ。私は、懐かしさが込みあげた。

スーザンは「私は夫がほしいわけじゃないの。男の人がそばにいてほしいだけ」と言って憚らない。今も、不倫の恋を引きずっている。相手は一応妻子のもとへ帰ったが、妻から「ねえスージー、あと二年経ってまだ彼のことが欲しいなら、あなたにそっくりあげるわ」と言われたという。興味深いのは、スーザンがその妻を労働組合の活動家として尊敬していることだ。アンも、息子が15歳のときに失踪したまま。みんな問題を抱えている。

「私」すなわちフェイスは、わりと穏やかな境遇にある。息子が二人いて一人は欧州を放浪中だが、それでもコレクトコールで電話をかけてくる。列車でアンに向かって「私の人生にもまあ、いくつかのひどいことは起こったわ」とつぶやくと、「何ですって? あなたが女として生まれたこと?」と言い返される。そんなやりとりで、アンの内面に宿る「敵意」の芽を察知する。穏やかであることが罪深いような世界を、彼女たちは生きている。

圧巻は、「私たち」が学校のPTAでスペイン系の子らを支援した日々の回顧。教師たちが「小さな中産階級的優等生たちの面倒をみることで精いっぱい」なのに業を煮やしたのだ。「私」は週1回、校内の廊下で個人授業を受けもった。セリーナは看護師なので、年少の子のトイレ指導をした。校長や教育委員会は迷惑顔だったが、「私たち」は「タフでアナーキーな魂」で強行突破したのである。そのころ、米国社会には分断ではなく連帯があった。

「私」は最終盤で、「私たち」の出会いを想起する。砂場の傍らで自分の子を抱き、「砂だらけになった子供たちの頭越しに微笑みを交わした」。その瞬間から彼女たちは結ばれたのだ。難題を抱えた人々が手をつなぐ。そんなアメリカをもう一度、見てみたい。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年1月22日公開、通算558回
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