新聞記者というレガシー/その1

今週の書物/
『新聞記者という仕事』
柴田鉄治著、集英社新書、2003年刊

鉛筆

8月、柴田鉄治という先輩が逝った。1935年生まれ、85歳だった。朝日新聞の社会部記者として活躍、社会部長や論説委員を務め、退職後も言論活動を続けた。テレビを賑わす有名人ではない。だが、業界では「シバテツ」の愛称で慕われていた。私が社会部経験もないのに「先輩」と書くのは、シバテツが一時――それは私が科学部員になるより前だが――科学部長だったことがあるからだ。晩年は自らも科学ジャーナリストと名乗っていた。

柴田さんの人となりは、私も幾分かは知っている。記者の集まりなどで会食する機会があったからだ。そのほのかな交流の思い出も踏まえて言えば、シバテツは戦後民主主義を体現する社会部記者だったように思う。

その行動様式と思考パターンを一つずつ挙げておこう。行動様式は〈現場主義〉だ。これは自身の取材歴が立証している。1965~66年に南極の観測隊に同行した。69年には米国でアポロ11号の月探査を取材した。思考パターンでは、なにごとも〈情報公開〉に結びつける傾向があった。脳死臓器移植のように世論が二分される問題について論じるのを幾度か聞いたことがあるが、透明性が不可欠という結論に落ち着くことが多かったように思う。

2020年の今、シバテツがめざした新聞記者の〈現場主義〉も〈情報公開〉も厳しい局面に立たされている。〈現場主義〉を売りものにできなくなったのはIT全盛のせいだ。ネット空間にはソーシャルメディアが広まり、だれもが現場から発信できるようになった。〈情報公開〉にも強敵がいる。個人情報の保護が壁になっているのだ。最近は政官界の不祥事でも当事者が「個人情報にかかわる」と言って、だんまりを決め込むことがある。

シバテツは、新聞記者が戦後民主主義を大らかに謳歌していた時代を生きた人と言えよう。当欄は、彼の追求した記者像が今どこまで成り立つかを見極めることで、その価値観のどの部分が過去のものとなり、どの部分を受け継いでいくべきかを考えてみようと思う。で、今週は『新聞記者という仕事』(柴田鉄治著、集英社新書、2003年刊)。米国の同時多発テロから2年、春にイラク戦争が勃発した年の夏に刊行された本だ。

冒頭の一文は「日本の新聞はいま、戦後最大の危機に直面している」。それは「新聞の地位」が「多メディア時代」で低下したことではない、と著者はことわる。「産業としての新聞」ではなく「ジャーナリズムとしての新聞」が危ないというのだ。この「産業」と「ジャーナリズム」の切り分けは、2020年の視点に立つと楽観的に過ぎる。そのことについては後で論じることにしよう。まずは、2003年の著者の声に耳を傾ける。

著者は、この年にあったイラク戦争の報道を1960~70年代のベトナム戦争のそれと比べる。後者では、日本の新聞社も戦地に記者を送り込んだ。ところが、前者では「全社がバグダッドを離脱してしまった」。これは「日本の新聞のジャーナリスト精神の衰退」を表しているという。危険地帯の取材について「死地に赴くような社命は出すべきではない」としながら、「最終的な判断は現地の記者に任せるべきなのだ」と主張する。

背景には、少年期の体験があるようだ。この本によれば、著者は戦時中、機銃掃射で「戦闘機が急降下しながらこちらに向かってくるときの恐怖」を実感した。1945年3月の大空襲では東京・麹町の自宅を失っている。焼け跡には「敷地を覆い尽くすばかりに焼夷弾の殻が落ちていた」。戦場にも、そこに住む人がいる。そのことを身をもって知っているから〈現場主義〉なのだろう。(当欄2020年8月14日付「コロナ禍の夏、空襲に思いを致す」)

戦後ほどなく姉を亡くしてもいる。栄養失調に陥り、病死したという。「つくづく戦争はいやだと子ども心に刻みつけられた」。その裏返しで日本国憲法に共鳴する。東京大学理学部に進み、地球物理を学ぶが、一方で東大新聞研究所(現在は東大大学院情報学環に統合)でも受講した。「就職するなら、平和と人権を守る仕事、すなわちジャーナリズムの仕事をしたい」。そんな思いから新聞記者になった。まさに、戦後民主主義が生んだ記者である。

1959年に朝日新聞社に入った後、支局や支社を経て社会部員となり、最初の大仕事が南極取材だった。65年出発の観測隊に同行したのである。そこで見たものは、61年発効の南極条約のもとで国境線が引かれず、「パスポートもいらなければ、税関もない」世界だった。ソ連の基地に近づいて無線通信で訪問を打診してみると、「どうぞ、どうぞ」。訪ねてみると「基地をくまなく案内してくれた」だけでなく「ウオツカの乾杯攻め」にも遭った。

米ソ冷戦の真っ盛りで、東西両陣営の間には見えない壁が立ちはだかる時代だったから、さぞかし強烈な印象を残したことだろう。これが、著者晩年の一念につながってくる。地球上から戦争をなくすにはどうするか、そのヒントは南極にある、という主張だ。

この本は、1969年のアポロ11号報道にも触れている。著者は、月面の生中継を米国ヒューストンにある航空宇宙局(NASA)の施設で見た。記者室は、宇宙飛行士たちが月面で動きまわる様子に沸いていたが、著者の脳裏に焼きついたのは「月から見た地球」の映像だったらしい。写っているのは「青く、小さい、ガラス玉のように輝く美しい星」であり、「この広い宇宙で人間が住めるところは地球しかなさそうだ」と思わせるものだった。

興味深いのは、この映像の衝撃が世相の変転と結びつけて語られていることだ。日本列島は1960年代にすでに公害や自然破壊に蝕まれていたが、著者によれば、それが社会の一大事になったのは70年代初頭だった。「新聞報道によって社会が燃え上がる」には「燃料(具体的な事実)」「酸素(人々の関心)」「発火点以上の温度(新聞の報道)」の三つが揃わなくてはならない。60年代はまだ、その「人々の関心」が足りなかったのではないか――。

で、「月から見た地球」の出番だ。著者は、その「小さく頼りなげな」姿が環境問題に対する「人々の関心」を呼び起こしたとの仮説を示す。地球の遠望映像はアポロ8号も撮っていたので、11号で世情が一変したとは言い難い。ただ一連の月探査が、当時はやりだした「宇宙船地球号」という言葉とも呼応して、1970年代に環境保護の機運を高めたとは言えよう。(「本読み by chance」2016年1月22日付「フラーに乗って300回の通過点」)

余談だが、この柴田仮説は、情報の広がり方を燃焼という化学現象になぞらえている点で寺田寅彦の随筆「流言蜚語」を思いださせる(当欄2020年7月31日付「寅彦のどこが好き、どこが嫌い?」)。二人は、地球物理つながりで響きあうところがあるのかもしれない。

さらにもう一つ、余談を。この本には出てこないのだが、私にはシバテツのアポロ取材でどうしても触れておきたい記事がある。見出しは「『月より地上の飢え』黒人が抗議のデモ」(朝日新聞1969年7月16日付夕刊)。フロリダ州ケネディ宇宙センター発の柴田特派員電だ。11号の打ち上げ直前、その足もとで開かれた集会を取材、公民権運動家の演説を記事にしたのだ。さすが社会部記者。月探査の報道でも地球の現実を忘れていない。

と、ここまで書いてきてわかるのは、著者の〈現場主義〉がいつも地球観と結びついているということだ。南極では戦時とは真逆の体験をして、地球に平和がありうることを確信した。アポロ取材では、月のことよりも地球を気づかって、エコロジー思想の台頭も予感した。そこには、鋭い洞察がある。ただ駆けつけるだけの〈現場主義〉とは違うのだ。来週は、そのシバテツ流の可能性と限界を〈情報公開〉にも話を広げて考察してみよう。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年9月11日公開、同年10月18日更新、通算539回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

戦時の科学者、国家の過剰

今週の書物/
『湯川秀樹の戦争と平和――ノーベル賞科学者が遺した希望』
小沼通二著、岩波ブックレット、2020年刊

戦中戦後

今年の終戦記念日、NHKが「太陽の子」というドラマを放映した。先の戦時、日本でも陸軍と海軍がそれぞれ原爆開発を画策したことは知られているが、このドラマでは京都帝国大学の物理学徒たちが海軍の委託を受けて原爆研究にかかわったことが主題となった。

で今週は、その渦中にいた科学者たちの現実を近刊の書物を通じて垣間見てみよう。『湯川秀樹の戦争と平和――ノーベル賞科学者が遺した希望』(小沼通二著、岩波ブックレット、2020年刊)。著者は1931年生まれ、素粒子論が専門の物理学者。東京大学出身だが京都大学にも勤務、理論物理で日本初のノーベル賞を受けた湯川秀樹の活動を支えた。現在は慶應義塾大学、東京都市大学の名誉教授、世界平和アピール七人委員会のメンバーでもある。

個人的な話をすれば、著者は私にとって最大の恩人の一人だ。新聞社で科学部員になって3年目の1985年、湯川のノーベル賞研究「中間子論」の論文発表50年を記念する国際会議(開催地・京都)でお世話になったのが始まりだった。2007年に湯川の個人日記を記事にしたときは、湯川家との話しあいから記述内容の読み解きまで、全面的なお力添えをいただいた(朝日新聞2007年1月23日付朝刊「中間子着想 湯川博士の4日間」)。

この個人日記は、湯川家が保存していたもので、主に1930年代、日米開戦前の日々のあれこれを記していた。ヤマ場は、中間子論を完成させた1934年の記述分。これについては、著者が編者となって『湯川秀樹日記――昭和九年:中間子論への道』(小沼通二編、朝日選書)という本が出ている。一方で湯川は京都大学にも、本来は研究室日誌と呼ぶべき日記を大量に残していた(京大湯川記念館資料室所蔵)。ここには開戦後のことも綴られている。

今週の書物『…戦争と平和』は、湯川の生い立ちまで遡ってその人となりが描かれ、1981年に亡くなるまでの平和運動家としての足どりも跡づけられている。とはいえ、最大の読みどころは「第二章 戦火の時代に」だろう。この章では京大所蔵の日記をもとに、湯川が戦時中にどんな学究生活を送ったかを浮かびあがらせている。気になるのは、軍事色の強い活動だ。それらのどこまでが自発的で、どこからが強制されたものだったのか――。

そのあたりの見極めは難しい。湯川の日記は身辺の出来事の記録が中心で、心情の吐露が少ないからだ。戦時の心模様を推し量るには、戦後の日々に焦点を当てた「第三章 思索の人から行動の人へ」が助けになる。この章では、湯川が反核平和運動に奔走した姿が描きだされている。戦後の平和に対する熱情が戦中に戦争がもたらした深淵の底深さを逆に照らしだす。戦中戦後を貫いて湯川の「戦争と平和」に迫ったこの本の意義は、そこにある。

では、第二章に立ち戻って、日記の要点を拾いあげていこう。1941年12月8日の日米開戦から1943年末まで、湯川自身は軍事研究に近づいていないようだ。目立って見えてくるのは、一人の国民――臣民と言うべきか――としての心情だけ。開戦の日の夜、帰宅して夕刊を開くと「ハワイにて米主力艦オクラホマを撃沈等幸先よきニュース」が載っていた。「久しい間の暗雲晴れ、天日を望むが如き爽快の感に満つ」と書いている。

この本では1943年、湯川が地元の京都新聞に寄せた年頭所感も引用されている。「既存の科学技術の成果を出来るだけ早く、戦力の増強に活用すること」を「今日の科学者の最も大いなる責務」としつつ、「科学の真の根基をわが国土に培養する」必要を説き、それなしには「科学、技術の源泉は久しからずして枯渇する」と警告している。すぐには応用できない基礎研究のことも忘れるな、という科学者の危機感がそう言わせたのだろう。

この年4月、湯川は文化勲章を受けた。そのことで国家主義的な団体とのかかわりが出てくる。6月には東京で大日本言論報告会総会に出席、受章を祝う記念品を贈られる。機関誌『言論報告』創刊号には、湯川の午餐会での「卓上演説」が収録されている。「言論界で日本的世界観の樹立が力強く言われている、自然科学の方面からそういう思想に何らかの基礎づけができればしたい」と述べたという。こじつけの感は否めない。

日記によれば、湯川の軍事接近は1944年初めから。前年、文部省が科学者の「動員」策を打ちだした影響があるのだろう。1月27日、神奈川県横須賀で海軍の航空機研究施設などを見学した。2月13日には東京にある財界人の大倉喜七郎男爵邸で、当時は海軍軍人だった高松宮や物理学者の仁科芳雄を交えた会合に出ている。大倉財閥は海軍の電波兵器開発に敷地を提供しており、会合は「海軍の研究に関係があると思う」と著者はみる。

この本の強みは、湯川と軍事とのかかわりを日記の記述から定量的に浮かびあがらせた点にある。余談だが、これができる人は著者を措いてほかにいない。日記は、湯川流の癖字だらけでふつうの人には太刀打ちできないが、著者には読める。さらに周辺事情も知っているから、メモ書き一つでも意味を汲みとれる。その解読の結果は、こうだ。湯川の「軍事研究関連の会合や訪問や視察」は1944年が27回29日、45年が12回16日――。

この数字の見方は、さまざまだろう。私自身は、湯川の学究生活のかなりの部分が「軍事」に割かれていた、あるいは攪乱されていたように感じる。活動件数は1944年1月~45年8月の20カ月に計39回なのだから月2回のペースだ。新幹線がない時代、京都から横須賀へ、東京へ出張もしている。湯川は戦争末期に及んで、基礎科学を「国土に培養する」などと言っているだけでは済まされず、自身もキナ臭い世界に引きずり込まれたのだ。

その最たるものが、「太陽の子」でドラマ化された「F研究」だろう。海軍が荒勝文策京大教授に委託した研究。ウランの原子核分裂(nuclear fission)を軍事利用する道を探ろうとした。日記には1944年9月22日、「荒勝氏と核分裂の件相談」とある。10月4日には大阪で海軍との相談会にも出た。出席者が残した記録によれば、湯川も「連鎖反応の可能性」を解説したらしい。核分裂の「連鎖反応」は、原爆のエネルギーを得る要件である。

日記をさらにたどろう。1945年5月には、F研究が正式の「戦時研究」となり、6月23日には「第一回打合せ会」が学内で開かれる。7月21日には滋賀県大津の琵琶湖ホテルへ。著者によれば、海軍との会合があり、湯川は「世界の原子力」について語ったらしい。

湯川の終戦までの1年をどうみるか。占領軍は、湯川は原発開発計画に「全く関与していなかったか、わずかしか関与していなかった」と判定した。「湯川自身が非常に抽象的な物理学にしか興味を持っていない」事実が、関与のなさ、もしくは小ささと「符合している」とされたのだ。(占領軍に協力した米国の物理学者P・モリソン執筆の「秘密報告」=本書が引用した政池明著『荒勝文策と原子核物理学の黎明』〈京都大学学術出版会〉による)

私は、この判定に敵国の科学者にもあった湯川への敬意を感じつつ、違和感も覚える。引っかかるのは「非常に抽象的な物理学にしか興味を持っていない」とある点だ。湯川は、買って出たことではないかもしれないが、軍人を相手に原子核物理の先生役を務めている。心の片隅には、開戦の日に真珠湾の戦果を称えた素朴な心情があり、自分は「非常に抽象的な物理学」を「国土に培養する」のだという自負が芽生えていたのではないか。

そう考える理由は、湯川自身が終戦後まもなく発した言葉にある。第三章の冒頭では『週刊朝日』(1945年11月4日付)への寄稿「静かに思ふ」が引かれている。そのなかで湯川は、「道義の頽廃」を招いた原因に「個人・家族・社会・国家・世界といふやうな系列の中から、国家だけを取り出し、これに唯一絶対の権威を認めたこと」を挙げたという。科学者として戦中、国家ばかりにとらわれた浅慮を悔いているように思える。

湯川は戦後、世界政府の樹立をめざす運動にかかわった。その構想は冷戦時、夢想の産物に見えた。自国第一主義台頭の今は、なおさらだ。それは実現しても遠い先のことだろう。ただ、一人の科学者の内面を思い、国家意識の過剰を戒めることなら今でもできる。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年8月28日公開、同年9月20日最終更新、通算537回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

特別な8月、コロナと核の接点

今週の書物/
広島、長崎の平和宣言
松井一實・広島市長、田上富久・長崎市長(2020年8月)

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今年の夏を「特別な夏」と呼んだのは、小池百合子東京都知事だ。コロナ禍は夏の風景を一変させた。人気の花火大会がとりやめになった、甲子園の応援合戦が消えた……そんな話ばかりではない。私たちは、いつもの年とは違う思いで鎮魂の日を迎えた。

8月と言えば、すぐに頭に浮かぶのは6日、9日、15日だ。俳句では、それを詠み込んだ類似句がたくさんできている(「本読み by chance」2016年12月9日付「俳句に学ぶ知財の時代の生き方」)。二つの被爆と一つの敗戦は今年、満75年の節目だったのだが、いずれも感染を避けるため、規模を小さくして挙行された。人々がまばらに並ぶ光景は、私たちがいま置かれている異様な事態を強く印象づけるものだった。

私は毎年、これらの式典で要人が語る言葉――宣言や挨拶や式辞――に注目している。いずれも平和の尊さを訴えていることに変わりはない。きれいごとの羅列という印象も拭えない。だが結構、読みどころがあるのだ。そのときならではの問題意識が織り込まれていることがある。行間ににじませた思いが伝わってくることもある。だからなるべく、テレビの生中継やニュースで聞くだけではなく、テキスト全文を熟読するようにしている。

2013年には松井一實・広島市長と田上富久・長崎市長の平和宣言を拙著『科学をいまどう語るか――啓蒙から批評へ』(岩波現代選書)で引いたこともある。このときに私が注目したのは、両市長ともその夏の宣言で東京電力福島第一原発事故に触れ、核エネルギーの危うさが原爆と原発に共通することを強く匂わせた点だ。日本社会は戦後長く、核の軍事利用と原子力の平和利用を別件として論じてきたが、それに疑問符を投げかけたのである。

今年は両市長がコロナ禍に言及するだろうと予想していたら、案の定そうだった。ということで今回は、松井・広島市長と田上・長崎市長の2020年版「平和宣言」(それぞれ8月6日と9日に発表)をとりあげる。全文は、広島市と長崎市の公式サイトで読んだ。

ではまず、広島市の平和宣言から。松井市長は第2段落でさっそく、新型コロナウイルス禍に言及している。その脅威は「悲惨な過去の経験を反面教師にすることで乗り越えられるのではないでしょうか」という。その反面教師とは、約100年前のスペイン風邪だ。

それは第1次世界大戦中の1918年にはやり始め、翌19年にかけて流行の波が3度も押し寄せた。世界保健機関(WHO)は、全人類の25~30%ほどが感染したと推計している(国立感染症研究所感染症情報センターの公式ウェブサイトによる)。宣言はこのいきさつを踏まえて、こう強調する。「敵対する国家間での『連帯』が叶わなかったため、数千万人の犠牲者を出し、世界中を恐怖に陥(おとしい)れました」

スペイン風邪を「連帯」欠如の悪しき前例と見ているのだ。このことは、上記サイトの記述に照らすと腑に落ちる。流行の第1波に襲われたのは、大戦真っ盛りの2018年春から夏にかけて。このときの対策が手ぬるかったことは容易に推察される。参戦国は防疫と経済の両立どころではない。戦争に国力を注がねばならなかったのだ。結局は感染を第1波で封じ込められず、終戦前後の晩秋、より強烈な第2波を招いた。(季節は北半球のもの)

コロナ禍で「国家間」の「連帯」というと、医療資源を融通しあう国際協力がまず思い浮かぶ。これについては、スロベニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクも、感染拡大の初期に執筆した「監視と処罰ですか?/いいですねー、お願いしまーす!」(松本潤一郎訳、『現代思想』2020年5月号所収)で論じている。ジジェクは、そこにコミュニズム再生の可能性を見ているのだ。(当欄2020年7月10日付「ジジェクの事件!がやって来た」)

宣言は、思想にまでは踏み込まない。感じとれるのは、連帯の第一歩は戦争しないことという素朴な訴えだ。幸いなことに今、世界規模の戦争はない。だが、政治権力者の顔ぶれを見渡すと、自国中心の発想が際立つ人があちこちにいる。紛争のタネは尽きず、その先には核戦争の危険がある。そこで市長は「私たち市民社会は、自国第一主義に拠ることなく、『連帯』して脅威に立ち向かわなければなりません」と強調するのだ。

広島宣言の要点は、「脅威」という一語に新型コロナウイルスの感染拡大と核戦争の危険増大をダブらせたことだろう。それは裏返せば、コロナ禍対策でもし世界に連帯の機運が蘇れば、核兵器禁止の流れも再び強まるかもしれないという淡い期待を抱かせる。

次に長崎平和宣言に進もう。こちらは後段で、コロナ禍の話が出てくる。とりあげているのは、医療関係者が緊迫した状況下で検査や治療に追われていたとき、世の人々が拍手を送ったことだ。この最近の出来事を振り返りながら、田上市長は呼びかける。「被爆から75年がたつ今日まで、体と心の痛みに耐えながら、つらい体験を語り、世界の人たちのために警告を発し続けてきた被爆者」にも「心からの敬意と感謝を込めて拍手を」と。

私がはっとさせられたのは、市長が被爆者を患者や感染者ではなく医療スタッフになぞらえたことだ。被爆者は核の被害者だが、同時に核の不条理を体現して核戦争を食いとめてきた人々でもある。だから、「敬意」と「感謝」を表明したのだ。私は子どものころのキューバ危機を思いだす(「本読み by chance」2015年11月13日「米大統領選で僕の血が騒ぐワケ」)。人類は被爆の怖さを教えられていたからこそ、破滅を回避できたのだろう。

長崎宣言には、コロナ禍ももちだしながら、若い世代に語りかけたくだりもある。「新型コロナウイルス感染症、地球温暖化、核兵器の問題に共通するのは、地球に住む私たちみんなが“当事者”だということです」。含蓄に富む一文だ。

新型コロナウイルス感染症や地球温暖化に対して、私たちが「当事者」というのはよくわかる。言葉を換えれば、被害者然としてはいられないということだ。前者で、人々は自分がうつされるリスクだけでなく、自分がうつすリスクも負わされている。後者では、その影響と思われる異常気象に右往左往しているのも自分、その元凶とされる温室効果ガス大量放出に手を貸しているのも自分という構図がある。

では、核兵器はどうか。これは政治家が扱う案件であり、私たちの大勢はもっぱら危険にさらされる側にいるというのが世間の常識だろう。ところが宣言は、それをコロナ禍や温暖化と並べたのである。そこから感じとれるのは、あなたの国の政治家が核戦略に執着したり、核不拡散に無関心だったりするならば、そんな人物を選んだあなたにも責任がありますよ、という理屈だ。市長がそこまで意図したかどうかはわからないが……。

2020年夏、広島と長崎の平和宣言は、核廃絶とコロナ禍克服をそれぞれの視点で結びつけた。広島は国際連帯の文脈で、長崎は市民の意識に引き寄せて。どちらも、来年の宣言ではコロナ禍がどう書かれることになるだろうか、と思わせるものではあった。

で、最後は楽屋話を。この拙稿は速報性ということでは先週公開したほうがよかったが、1週遅らせた。安倍晋三首相が15日の全国戦没者追悼式で読みあげる式辞もコロナ禍に言及するだろうから、その話を盛り込もうと思っていたのだ。たしかに、コロナは出てきた。ただ、「現下の新型コロナウイルス感染症を乗り越え……」とあるだけだった。首相の人間観や歴史観に格別の関心があるわけではないのだが、ちょっと拍子抜けだった。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年8月21日公開、通算536回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

コロナ禍の夏、空襲に思いを致す

今週の書物/
『東京大空襲――未公開写真は語る』
NHK
スペシャル取材班/山辺昌彦著、新潮社、2012年刊

頭巾

市中に無症状の感染者が数多くいる、という現実は怖い。無症状者が怖いわけではない。自分だってその一人かもしれないからだ。怖いのは、被感染→感染という一大事がいつとも知らず身にふりかかってくるという状況だ。運命を確率に委ねるしかない。

夏になって今年もメディアが戦争の話題をとりあげ始めたとき、私には一つ、思いついたことがある。もしかしたら、私たちの先行世代は同じような確率任せを過去に体験していたのではないか――。太平洋戦争末期、日本列島では米軍の本土空襲が始まり、B29爆撃機が焼夷弾投下を繰り返した。都市住民は、わが町がいつ火の海になってもおかしくない状況に置かれたのだ。それは、コロナ禍の今とどこか似ているのではないか?

空襲の恐怖は、そんなものじゃないよ――先行世代からは、そう叱られそうだ。だから、誤解のないように念を押しておくと、私は空襲という惨事そのものではなく、〈いつ火の海になってもおかしくない状況〉に類似点があると推察しているのだ。

たとえば今、テレビでは「こんなときだからこそ、気持ちだけは明るくしていたいですね」といった言葉が飛び交っている。これは、「欲しがりません勝つまでは」などの戦時標語を連想させる。米軍機が列島住人の忍耐によって上空から追い払えなかったのと同じように、快活な心だけでコロナ禍は封じられない。それなのに「元気」の大量配布でなんとかしのごうとしているようにも聞こえて、かえって無力感を覚える。

もっとも類似を感じとれるのは、政治のありようだ。戦時中、戦況が悪くなってからでも日本政府には停戦に向かわせる外交手段がいくつもあったはずだ。それなのに本土空襲という事態になっても舵を切ることができなかった。隣組の団結心や竹やりの訓練で戦況を好転できると、本当に思っていたのか。これは感染拡大が猛烈な勢いでぶり返しても、人々の3密回避や手洗い励行を頼みの綱にしている今の政治風景と重なりあう。

で、今週は空襲に目を向けよう。空襲が人々の心模様にどんな影を落としていたかもうかがえる写真集をとりあげる。『東京大空襲――未公開写真は語る』(NHKスペシャル取材班/山辺昌彦著、新潮社、2012年刊)。掲載写真は、旧陸軍の宣伝機関「東方社」に呼び集められた写真家たちが撮影したものだ。これらは、東京大空襲・戦災資料センターに寄贈された。山辺氏はそのセンターの研究者として解説を執筆している。

では、さっそく本を開こう。ページを繰るごとにモノクロ画像が、これでもかこれでもかと空襲の実態を見せつけてくる。そこに軍部の意向がどう入り込んでいるかは判別し難い。空襲の威力は強調したくない、その一方でそれが人道にもとることは訴えたい――そんな相反感情があっただろうからだ。これは、写真家にとっては好都合だったのかもしれない。結果として、自らの心に忠実に写真家魂を反映できたようにも思えるからだ。

見開き2ページの全面を費やした写真を見てみよう。二階建て家屋の屋根に隣家から火が燃え移ろうとしている。一人が階下の軒先に梯子を掛けて昇り、ホースの筒先らしきものを上方に向けて放水している。煙のせいか、逆光のせいか、あるいは暗くて露光時間を長くとったためか、画調は薄ぼんやりとしている。キャプションには「夜間空襲(撮影地不詳)」「昭和20年(1945)5月26日 撮影:光墨弘」とだけある。

光墨は報道分野で活躍した人。ということは、空襲と知って押っ取り刀で現場に駆けつけ、パチリと収めた1枚のように思える。私はこれを見て、戦場カメラマンのロバート・キャパが第2次大戦中に撮ったノルマンディー上陸作戦の写真を思いだした。ぼやけている。だが、それがかえって迫真。もっとも、あれは暗室作業の手抜かりに原因があったらしいが……。(「本読み by chance」2017年5月12日付「キャパのパチリ、報道の核心」)

掲載写真の1枚1枚を紹介したいのはヤマヤマだが、当欄の性格上、それはできない。ということで、本文やキャプションの助けを借りて印象に残ることをすくいあげていこう。

巻頭では、本書刊行前に放映されたNHKスペシャル「東京大空襲 583枚の未公開写真」の取材班が序文を書いている。「兵隊でもないごく普通の日本人」にとって、空襲は「最も“ポピュラー”な戦争体験」だった。それなのに「祖父や祖母がその時どのような顔をしていたのか、私たちは知らない」というのだ。さらに一つ私が加えれば、B29がいつ飛来するかもしれないときに人々がどんな心持ちでいたのか、それもわからない。

本編ではまず、東京空襲が本格化した1944年11月24日のことが記述されている。東京に対する空襲は開戦4カ月後にもあったが、それは続かなかった。その後、太平洋海域が米軍の手に落ちてから、B29の大挙飛来が始まったのだ。この日の標的は現武蔵野市の中島飛行機武蔵製作所だったが「その周辺のみならず、遠くはなれた荏原区(現・品川区)の民家や町工場も被災した」。人々が面的で無差別の攻撃に慄いた最初の瞬間だった。

3日後、こんどは原宿界隈が被災する。ここには、海軍軍人東郷平八郎を祀る東郷神社がある。本書によると、警視庁のこの日の記録には「爆弾四個、焼夷弾四個」が境内に落ちたが「異常なし」とされている。ところが小山進吾撮影の1枚をよく見ると、拝殿の屋根に穴が開いている。空襲後に神官の拝礼風景を写したもので、ぱっと見では拝殿が守られたことを伝える図柄になっている。ところが画面上部にはぽっかり……。写真は嘘がつけない。

この日、原宿駅周辺の現場写真では、防空頭巾をかぶってバケツをやり取りする人が写っている。本文にも、東方社の写真家が「バケツリレーによって懸命に消火に当たる人々の姿」をとらえたとの記述がある。人々は、空襲本格化の時点ですでに訓練されていたのだ。

実際、防空訓練は日米開戦よりも前からあった。1933年には関東地方で大演習が展開されている。このとき信濃毎日新聞主筆の桐生悠々が訓練の虚しさを社説で論じ、軍部周辺の反発を招いて退社した。この本では、その社説の要点が引用されている。敵機襲来が現実になれば「如何に冷静なれ、沈着なれと言い聞かせても」「逃げ惑う市民の狼狽目に見るが如く」であり、あちこちから火が出て「阿鼻叫喚の一大修羅場」になるだろうというのだ。

バケツの写真を見る限り、市民たちは戦前からの訓練のおかげで「狼狽」や「阿鼻叫喚」を押し殺し、「冷静」「沈着」に行動できるようになっていた。ただ、そのバケツは文字通り、〈焼け石に水〉でしかなかったはずだ。桐生はこの社説で、空襲が一度で終わらず、なんども繰り返されるおそれを指摘している。敵機の東京襲来を「我軍の敗北そのもの」とも断じている。炯眼と言うべきだろう。その通りのことが十余年後に起こったのだ。

この写真集には、意外にも笑顔が散見される。九段から神田にかけての一帯は1945年3~5月の空襲で焼け野原になった。バラック住まいの少女は、洗濯物を干しながらカメラ目線で笑っている。丸刈りでパンツ一丁の少年も、はにかみ笑いを浮かべている。

被写体となった人々が「カメラを意識してポーズをとった」(同様の笑顔写真に添えられたキャプション)ことはあるだろう。山辺氏の解説にあるように、東方社の「対外宣伝」戦略が反映された一面も否定できない。「爆撃を受けても日本の国民は戦意をなくさないで明るくがんばっている」と見せるためにだ。ただ、どうもそれだけではない。洗濯物に手をやる少女の笑顔に嘘はなさそうだ。撮影は6月8日ごろ。まだ終戦前だというのに……。

この人たちは、失うべきものをすべて失ってしまった。もはや人に見せるものはなにもない。ただ笑うしかないのだ。そんなふうに私には感じられる。だから、この笑顔は額面通りには受けとれない。そこに至るまでの時間こそが彼女や彼の戦争だったのだ、と思う。

改めて言おう。戦争末期、日本列島の人々は自分たちがいつ火に包まれてもおかしくない状況をくぐり抜けてきた。うちつづく恐怖はいかばかりのものだったか――その想像を絶する心理に、戦争を知らない私たちはコロナ禍の今、初めて思いを致すのである。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年8月14日公開、同日更新、通算535回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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「人種」というかくも人為的な言葉

今週の書物/
『「他者」の起源――ノーベル賞作家のハーバード連続講演録』
トニ・モリスン著、荒このみ訳・解説、森本あんり寄稿、集英社新書、2019年刊

人為の区分け

米国で「黒人」差別に対する抗議行動が広がっている。きっかけは、中西部ミネアポリスで「黒人」市民ジョージ・フロイドさんが「白人」警官に首を押さえつけられて亡くなった、という事件。公民権法の制定から56年。半世紀余の歳月を思うと、絶望感に襲われる。

フロイド事件を特徴づけるのは、「黒人」対「白人」の構図だ。米国では警官が「白人」、市民が「黒人」という組み合わせで加害行為があると、それが全土を揺るがす事件となる。犠牲者は一個人ではなく、「黒人」の象徴としての役回りを担わされる。

「黒人」と「白人」――。考えてみれば怖い区分けだ。肌の色の違いで分けたのだとしたら、粗っぽすぎる。「黒人」と呼ばれる人々の顔にはさまざまな色調があり、一概に黒いとは言えない。「白人」たちも同様で、白いとは言い切れない。米国社会では、そうした個人差をすべて捨象して人々の間に線を引いたのだ。今でこそ「アフリカ系」「欧州系」という呼び方があるが、今回のような事件の報道では「黒人」「白人」の用語が飛び交う。

抗議行動では、“Black Lives Matter”という標語が掲げられている。「黒人の命は大切だ」と訳される。今風に政治的公正(ポリティカル・コレクトネス)の表現にこだわれば“African-American Lives Matter”(アフリカ系米国人の生命は大切だ)と言うべきかもしれないが、差別に抗う側自身が“Black Lives”を前面に出していることに注目すべきだろう。“Black”には情念が感じられるからか。いや、それだけではなさそうだ。

たぶん、米国の「黒人」たちには「アフリカ系」という言葉で括れないなにかがあるのだろう。それは、自分たちもまた米国をつくってきたのだという自負のように思える。私たち日本人は第2次大戦後、太平洋の対岸から吹きつける米国文化の風にさらされてきた。だから、「黒人」なしの米国はありえないことを実感している。「黒人」は米国全人口の1割強に過ぎないが、文化の担い手としての存在感は半端ではない。

「黒人」なしでは絶対に生まれなかったものは、ジャズだ。あのリズム感はアフリカ由来だが、アフリカ大陸ではジャズが育たなかった。「白人」たちの音楽資源――たとえばピアノやベースやサックスなど――を取り込んで新しいジャンルを切りひらいたのである。ジャズの最大の魅力は、アフタービートだろう。ズンチャッ、ズンチャッ……のチャッが強調されるリズムだ。そこには、「白人」文化のクラシック音楽に乏しい躍動感がある。

「黒人」は、ジャズに代表される米国文化の担い手であることに誇りを感じている。その象徴が、“Black”なのだろう。だが、米国社会が「黒人」を正当に受け入れてきたとは到底言えない。だからこそ、今も“Black Lives Matter”の声がわきあがるのだ。

で、今週は『「他者」の起源――ノーベル賞作家のハーバード連続講演録』(トニ・モリスン著、荒このみ訳・解説、森本あんり寄稿、集英社新書、2019年刊)。著者は1931年、米国オハイオ州で生まれた。大手出版社で編集者を務めるかたわら、作家として活動。代表作に『青い眼がほしい』『ビラヴド』などがある。93年、アフリカ系米国人として初めてノーベル文学賞を受けた。この本は、2016年のハーバード大学連続講演をもとにしている。

第一章冒頭のエピソードは強烈だ。著者がまだ物心もつかなかった1930年代前半、一族のなかで尊敬を集めていた曽祖母――「腕利きの助産師だった」――が訪ねてきた。自身は「漆黒の肌の持ち主」。その人が著者姉妹を見て「この子たち、異物が混入しているね」と言ったというのだ。「黒人」として「純血ではない」ということだろう。著者が逆説のようにして、米国社会の底流にある心理を知った瞬間だった、と言ってよいだろう。

この章には、米国やその周辺地域で「混血」がどのように進んでいたかを暗示する史実も明らかにされる。18世紀半ば、一人の英国青年が自国の植民地ジャマイカでサトウキビ畑の農園主となり、「反省あるいは識見の欠落している事実のみの日記」を遺した。それは、当人の奴隷女性たちに対する「性的活動」を「相手と会った時間、満足度、行為の頻度、とくに行為のなされた場所について記録している」ものだったという。

驚くべきは、この記録がラテン語交じりで書かれていたことだ。「午前一〇時半ごろ」「コンゴ人、サトウキビ畑のスーパー・テラム(地面の上で)」などというように。著者は、ここに「奴隷制度を『ロマンス化』する文学的試み」をみてとる。

ただ、その「文学」が欺瞞に満ちたものであることは、巻末の「訳者解説」を読むとよくわかる。「奴隷制度のもとでは、白人の農園主たちは奴隷女と関係を持ち、奴隷を増やすことが奨励された」というのだ。「奴隷は財産」であり、「奴隷女から生まれた子どもも奴隷」として扱われたから、「農園主は自分の財産を増やすためにも関係を持った」――「ロマンス化」の裏側には、人間を人間と見ない醜悪な経済原理が横たわっていたのである。

講演録本文に戻ろう。著者は、ウィリアム・フォークナーの小説『アブサロム、アブサロム!』をとりあげる。この作品では、近親相姦と「人種」混交を比べれば後者のほうが「おぞましい」とみる南部「白人」社会にあった価値観が描かれている。「白人」による「ロマンス化」を「白人」自身が否定していたのだ。作中では、「黒人」の血を16分の1だけ受け継ぐ男が悲劇に見舞われる。「黒人」の血は「一滴」であれ「異物」とみなされたからだ。

主従の関係にまかせた性的活動は、当時の道徳観からみても許しがたかったのだろう。著者は「奴隷が『異なる種』であることは、奴隷所有者が自分は正常だと確認するためにどうしても必要だった」とみる。このときに都合よく使われたのが、「人種」という概念だ。

この歴史を踏まえると、著者が講演で「他者」「よそ者」に焦点を当てた理由が見えてくる。生物分類学の視点に立てば「わたしたちは人間という種」(より厳密に言えば、現生人類か)にほかならない。にもかかわらず、人間は同じ社会の空気を吸っていても「人種」という小分類にこだわり、わざわざ「他者」「よそ者」をこしらえていく。「一滴の血」ですら「他者」「よそ者」の証明にしてしまうのだから、そこにあるのは排除のベクトルでしかない。

この本からは、著者が米国社会を蝕む「他者化」のバカバカしさ、愚かさをどのように見破ってきたかを知ることができる。そこにあるのは、作家としての技法を凝らした作品群だ。ここでは、二つの方法論を紹介しておこう。

一つは、「人種消去」。短編小説『レシタティフ』で試みたものだ。登場人物のだれがどの「人種」か、一切わからないようにした。これは、従来の「黒人文学」が「黒人の登場人物を描き出し、力強い物語をつむぐ努力をしてきた」のとは逆向きの姿勢だ。著者が駆逐したかったのは、「安っぽい人種主義」や「お気軽に手に入る『カラー・フェティッシュ』」だという。「カラー・フェティッシュ」とは、肌の色に対する過剰な思い入れである。

もう一つは、「黒人町」。南部オクラホマ州には、「黒人」が「白人から可能なかぎり遠く離れて」暮らすために、自分たちの町をいくつも建設したという現実の歴史がある。著者は『パラダイス』という長編小説で、この州に開かれた「ルビー」という架空の黒人町を描いた。そこでは「もっとも黒い肌――ブルー・ブラック」が「受容可能な決定的要因」となっている。曽祖母の視点が導入され、「一滴の血」の反転とも言える思考実験をしたのだ。

『パラダイス』を読んでいないので、私は作品の要点を書けない。ただ、著者がこの講演で披露した自作解説からうかがい知れるのは、ルビーという純血社会にも住人の間に「軋轢」があり、それを取りのぞくため、外によそ者を見いだそうとする人がいることだ。

人は、他者を勝手につくりたがる。それも、自分に都合のよい他者を。他者とは本来、自分ではない存在のことであり、存在の一つひとつで異なっているはずなのに、そんなことはお構いなしにひとくくりにして「異物」のかたまりにしてしまう。困ったものだ。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年7月24日公開、同日更新、通算532回
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