今週の書物/
『北帰行』
外岡秀俊著、河出文庫、2022年9月刊
機体がふわりと浮かびあがり、秋空のど真ん中へ飛び込んでいく。某日午前、東京羽田発札幌千歳行きの航空便が離陸すると、私はポケットから文庫本をとりだした。『北帰行』(外岡秀俊著、河出文庫、2022年刊)である。今回、旅の道づれはこの本と決めていた。
外岡秀俊(1953~2021)は、勤め先の朝日新聞社で私と同期だった。卓抜な記者だっただけではない。言動に品位が漂い、社内外の敬愛を集めていた。だから、一線記者の立場から中間管理職を飛び越えて編集局長の任に就いた。その後、早期退職して故郷札幌に戻り、母親の介護を引き受ける。そんな見事な半生が去年暮れ、突然途絶した。心不全だった。私が北に旅するとき、この本を手にした心情もわかっていただけるだろう。(文中敬称略)
当欄は今年、外岡のことを繰り返し書いてきた。2月と3月には『3・11 複合被災』(外岡秀俊著、岩波新書)を2回に分けてとりあげた(*1、*2)。4月と5月には『世界 名画の旅4 ヨーロッパ中・南部編』(朝日新聞日曜版「世界 名画の旅」取材班、朝日文庫)に収められた著者の記事を紹介した(*3、*4)。今回、もう一度話題にしたら過剰感は否めない。だが、どうしてもそうしたい。それは、こういうことだ――。
『3・11…』『世界 名画の旅…』で私が注目したのは、外岡の新聞記者としての一面だった。前者は東日本大震災被災地からの報告、後者は欧州の絵画紀行。どちらにも、同業の身として心に響く話が盛り込まれていた。もちろん、彼は私にとってまぶしい記者だが、それでも共有するものはある。ひとことで言えば、同じ時代を取材者の立場で駆け抜けてきたという思いである。私は今年、当欄で4回を費やしてその共感に浸ったのである。
だが、それだけでは外岡の一面しか見ていない。彼は1977年に新聞記者になる以前から、すでに作家だった。前年、今回とりあげる長編小説『北帰行』で文藝賞を受けていたのだ(「文藝」1976年12月号に発表)。ただその後、記者の仕事に忙殺され、創作活動をほとんど休止している。人間外岡秀俊の内部では記者としてのエンジンが全開したが、この間、作家としての衝動はどこでどうなっていたのか。旧友としてはそれが知りたい。
ということで、今回は『北帰行』を熟読する。この小説は、北海道の炭鉱町U市から集団就職で東京に出た「私」が、流血沙汰を起こして町工場をやめさせられ、職を転々としたあげく帰郷を決心、歌人石川啄木の足跡に思いを馳せながら北へ北へと向かう物語だ。そこに、「私」の内面を去来する自身の回想や啄木の史実が織り込まれている。当欄は、例によって筋はたどらない。「私」の視点がどこにあったかに注目しようと思う。
まずは、時代背景を押さえておこう。今昔の隔絶を印象づけるものの一つは馬橇(ばそり)だ。「私」が小学生のころは馬が雪道で橇を引く様子が校舎の窓からも見えた。手綱を引き、馬を叱咤する馭者の源さん、その源さんを「私」と親友の卓也に引きあわせてくれた図工教師びっくりさん、そして源さんの小屋で見せてもらった仔馬。卓也と「私」は、その仔馬をジルゴという愛称で呼んだ。ジルゴをめぐる「私」の思い出は作品の随所で蘇る。
もう一つ、時代を特徴づけるのはテレビだ。「日一日と、屋根に林立するアンテナの数が増えていく」変化を「私」は10歳のころに現認した。「何か得体の知れないものがひたひたとU市に打ち寄せてくる」ように感じたという。人々の暮らしに家電製品やクルマが入り込み、町では道路工事やビル建設が進んだ。「私」の町では、そんな高度経済成長の起点が馬橇の行き交う光景だったのだ。飛躍の幅は大都会よりもはるかに大きかった。
ただ、炭鉱町の人々は高度成長の恩恵を受けたとは言い難い。いやむしろ、その犠牲者だったとも言えるだろう。石炭業界は1950年代後半から石油に市場を奪われ、廃山や閉山、規模縮小を余儀なくされていた。U市の炭鉱も、政府から「合理化」をせっつかれていた。この作品では、「私」が通う中学校に由紀という少女が東京から転校してくるのだが、彼女の父親も会社から「合理化」狙いで送り込まれた鉱山技師らしかった。
この作品で、私がもっとも心を動かされたのは、炭鉱事故に震撼するU市を描いたくだりだ。「けたたましいサイレンの唸りが鳴り響いたのは、寒空に初雪が舞う冬の昼下がりのことだった」。このとき、「私」は中学校で数学の授業中。教師が幾何図形を板書する手をとめた。チョークが「ぼきんと折れて粉を散らした」。炭鉱町で、「コヨーテの遠吠え」のようなサイレンは不吉な報せだ。その音を聞いて、校内がざわめきはじめる。
まもなく、校内放送が流れる。三番坑で落盤があったという。「皆のお父さんがいるかもしれん。兄さんが居るかもしれん」……。「私」も、父親は炭鉱で働いている。学校を出て、坑口へ直行した。そこはもう人々が大勢群がり、殺気立っている。救急車が次々に駆けつける。毛布や握り飯も運び込まれる。坑内には二十数人が取り残されているらしい。「お父ちゃんが中に入ってんだよ」。そんな悲鳴が聞こえる。「私」の父は坑口のそばにいた。
坑口を封じなければ大爆発が起こる、というのが会社の判断だった。これに対して、封鎖すれば坑内の家族や仲間が「生殺し」にされる、というのが群衆の声だ。両者の間で、「私」の父は保安長という微妙な立場にあった。「坑夫」でありながら、会社側に立たされる役回り。父は「裏切り者」と指弾されると、自身を含む有志11人で救助隊をつくり、坑内へ突入する。結果として、そのことで事故の犠牲者が11人追加されることになった。
一方に資本家や経営者がいる。他方に労働者たちがいる。その狭間で、中間管理層が板挟みになっている。考えてみれば1960~70年代は、こういう構図で社会を読み解くことができる時代だった。著者は郷里北海道の炭鉱町に、その雛形を見いだしたのだろう。
2020年代の今は、これほどには単純でない。社会問題を階級の構図だけでとらえきれなくなった。貧しさは労働者階級にとどまらず、社会の隅々に浸潤している。経済だけで論じ切れない難題も顕在化した。その一つに、誰から先に助けるかというトリアージの問題がある。ある人を救うのに別の人を見捨ててもよいか、というトロッコ問題もある。そんな究極の選択が現代社会では避けられないとの認識を、著者は1970年代に先取りしていた。
その意味で、この作品は著者が新聞記者となることの予兆だった。今、記者外岡秀俊が遺した仕事を顧みるとき、阪神大震災(1995年)と東日本大震災(2011年)の取材は欠かせない。両震災で浮かびあがった今日的な難題に、こうした究極の選択があった。
記者活動の予兆といえば、このくだりで著者が報道のあり方に目を向けていることも見逃せない。報道陣は、「坑夫」の家族や仲間が待機する小学校に押し寄せてきた。「フラッシュを焚いたりテレビ・カメラを回したりするのを、私は苛立ちながら見詰めていた」。このとき、もっとも罪深いのは「不躾な質問」ではなかった。それよりも「同情の大袈裟な身振りをそのままなぞるような言葉」が「深く人々の腹に食い込んだ」と書いている。
著者や私が新聞記者になったころは、報道機関に対する風当たりが今ほどには強くなかった。事件事故の関係者を追いかけて取り囲む、という報道攻勢は今ではメディアスクラムと呼ばれて批判の的だが、当時はふつうにあった。自省を込めていえば私も、そしておそらくは著者も、若手のころは一線の記者としてその片棒を担いだのだ。著者は、やがては自身が背負わされるかもしれないそんな負の重荷を予感していたのだろうか。
本稿前段で書いたように私は、新聞記者外岡が30年余の記者生活を通じて作家外岡をどのように抱え込んでいたかを知りたかった。だが、炭鉱事故のくだりを読んでいると、彼の内面では作家としての視点が記者としての視点と重なりあい、新聞記事に影響を与えていたように思えてきた。人間に関心を寄せる文学者としての側面が、社会に目を凝らす報道人としての側面と共鳴している。その徴候が『北帰行』にすでに見てとれるのだ。
当欄はもう1回この作品をとりあげ、文学と報道とのかかわりを見ていこうと思う。
*1 当欄2022年2月4日付「外岡秀俊の物静かなメディア批判」
*2 当欄2022年3月4日付「外岡秀俊、その自転車の視点」
*3 当欄2022年4月29日付「ウィーン、光と翳りとアドルフと」
*4 当欄2022年5月6日付「ウィーンでミューズは恋をした」
(執筆撮影・尾関章)
=2022年10月28日公開、通算650回
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