今週の書物/
『ゴドーを待ちながら』
サミュエル・ベケット著、安堂信也、高橋康也訳、白水uブックス、2013年刊
「見ているやかんは沸かない」。英語には、こんな諺がある。
“A watched kettle doesn’t boil.”とも、
“A watched kettle never boils.”ともいう。
私がこの言葉に出あったのは1995年。科学記者としてロンドンに駐在していたころだ。物理学界で量子情報科学という新潮流が生まれ、量子コンピューターや量子暗号が話題になりはじめていた。私は欧州各地を回り、物理学者たちから取材した。このときに聞いた量子力学の不可解さの一つが、原子や電子の世界では観測の頻度を高めると状態が変わりにくくなるという話だ。観測が変化のブレーキになる。これを「量子ゼノン効果」という。
似たようなことは日常生活にもある。湯沸かしのやかんを火にかけて、もう沸くか、もう沸くか、と見ているとなかなか沸かない。ところが、ちょっとのあいだキッチンを出て戻ってくると泡を噴いている。あるいは、バス停でバスが来る方向をじっと見つめていてもバスは現れないが、一瞬目を離すと目の前に来ている――。量子ゼノン効果は、そんな「あるある」を連想させる。だから物理学者も、譬えに「見ているやかん…」をもちだすのだ。
量子ゼノン効果という命名は、ギリシャの哲学者ゼノンの「飛んでいる矢は止まっている」という逆説に因む。ゼノンの逆説では、矢は実際には飛んでいるが、ある瞬間をとらえると1カ所に止まっている。一方、量子ゼノン効果はこうだ――。原子の状態が電波照射によってAからBへ跳び移る現象を考えよう。照射時間を延ばして状態Bへ移る確率を高めていっても、観測を頻繁にしていると原子は状態Aに留まることが多いという。
量子力学には、観測する側が観測される側に影響を及ぼすのではないかという問題提起がある。量子ゼノン効果も、その一つだ。ただ、これはそのまま実生活に当てはめられない。「見ているやかんは沸かない」は、たぶん心理的な効果だ。私たちは、お湯がなかなか沸かなくてイライラした体験ばかりを記憶する。だから、「見ていると沸かない」を法則のように思ってしまうのだ。これは、人間の「待つ」という習性に起因するらしい。
で今週も、先週に続いて『ゴドーを待ちながら』(サミュエル・ベケット著、安堂信也、高橋康也訳、白水uブックス、2013年刊、*)。エストラゴン、ヴラジーミルという二人組が夕刻、田舎道でひたすらゴドーを待っているという話だ。ゴドーは神のようであり、そうでないようでもある、と先週は書いた。今週は「待つ」とは何かを考えよう。ゴドーを待つというのは、湯が沸くのを待ったりバスが来るのを待ったりするのと同じなのか。
作品を読んで実感するのは、ゴドーの到来は湯の沸騰やバスの到着と違うことだ。お湯は100℃になれば煮えたぎる。バスは時刻表に沿って運行されていて、渋滞の遅れはあってもほぼ確実にやって来る。ところがゴドーの来着は、はっきりしない。
これは先週も書いたことだが、ゴドーはいつ来るかが不確かだ。待っている場所がここでよいのかも確信がもてない。そもそも、ゴドーから待つように指示されたのか、あるいはゴドーと待ち合わせの約束をしたのかさえ定かではない。なにもかもぼやけている。
私の頭を一瞬よぎったのは、ゴドーとは死のようなものか、ということだ。死は、いつ身に降りかかるかわからない。どんな状況下で起こるかも見通せない。ぼんやりしているところはそっくりだ。ただ、死はいずれ必ずやって来るが、ゴドーは現れるかどうか不明だ。
そして、私たちは――少なくとも私は――死を待ってはいない。いずれは死ぬと覚悟して死を予期することはあっても、それを積極的に望むことはない。「待つ」とは違うのだ。これに対して、エストラゴンとヴラジーミルはゴドーを待っている。ヴラジーミルが「希望」めいたものをゴドーに頼んだと打ち明けていることからも、そうとわかる。著者自身が訳した『ゴドー…』英語版の題名も“Waiting for Godot”。ゴドーは死ではなさそうだ。
このことからわかるのは、人間は相手が漠としたものであっても待とうとすることだ。この作品でそれが際立つのは、時代背景と関係しているかもしれない。戯曲が刊行されたのは、第2次世界大戦終結の7年後。人々の精神世界には、まだ解放感があった。著者ベケット自身は戦時中、ナチス占領下のフランスでレジスタンス運動にかかわっていたから、なおさらだったに違いない。希望を漠然と待つというのは、いかにも戦後の風景だ。
だが希望めいたものは、おいそれとは手に入らない。そもそも、ヴラジーミルがそれを人に頼んだことに無理がある。ゴドーが即答を避けたのも当然だ。安請け合いしていたら、逆に怪しげな輩ということになる。生半可な返事をしたのもうなずける。
ということで、ゴドーはなかなか現れない。代わりに登場するのが、ポッツォとラッキーの二人連れだ。ポッツォは地主を名乗り、ラッキーを牛馬のように扱っている。この二人がエストラゴンやヴラジーミルと交わす意味不明の会話に私たちはまた、引っかき回される。
意味不明の極みはラッキーの長口舌だ。それは、ポッツォの「考えろ!」のひとことでスイッチが入る。「単調に」とト書きにある。「前提としてポアンソンとワットマンの最近の土木工事によって提起された白い髭の人格的かかかか神の時(じ)かか間(かん)と空間の外における存在を認めるならばその神的無感覚その神的無恐怖その神的失語症の高みからやがてわかるであろうが」(太字は本書原文では傍点)……これが延々2ページ半も続く。
ここに至って観客は、この作品では言語がただの音に還元されていることを思い知る。舞台では登場人物が訳のわからないことをしゃべっているが、それを逐語的に追いかけることが馬鹿馬鹿しくなる。意味するものから意味されるものがどんどん離れていく感じだ。
この作品には、反対に脳裏に焼きつく台詞がある。先週の当欄でも引用したエストラゴンとヴラジーミルの言葉の投げ合いだ。エ「もう行こう」、ヴ「だめだよ」、エ「なぜさ?」、ヴ「ゴドーを待つんだ」、エ「ああ、そうか」――同趣旨のやりとりは第一幕、第二幕を通じて繰り返し出てくる。細部が微妙に異なっても、エストラゴンが先を急ごうとするのをヴラジーミルが引きとめ、ゴドーを待たなければならないと戒める構図は変わらない。
ここで、「なぜさ?」「ゴドーを待つんだ」「ああ、そうか」の問答には含蓄がある。一つには、ヴラジーミルがこの場を離れない理由を「ゴドーを待つ」ためと言い切っていることだ。これまでも述べてきたようにゴドーが来るかどうかは曖昧だが、それにもかかわらず決然としている。さらに言えば、第三者のエストラゴンも当事者の決意を当然のことと受け入れている。人間は、当てにならないものでも待とうとするものなのか。
舞台では、第一幕が終わるころ、ゴドーの使用人で「山羊(やぎ)の番」をしているという「男の子」が登場してヴラジーミルに言う。「ゴドーさんが、今晩は来られないけれど、あしたは必ず行くからって言うようにって」。そして、ゴドー宛てにことづけがないかを尋ねる。ヴラジーミルは、男の子が自分やエストラゴンに「会った」という事実をきちんと伝えるよう頼む。ゴドーとヴラジーミルとの関係性がみてとれる場面だ。
こうして日は暮れ、第一幕は終わる。第二幕は「翌日」の「同じ時間」「同じ場所」だ。登場人物もまったく変わらない。エストラゴンとヴラジーミルに何が起こるかは大体察しがつくだろう。だから、ここには書かない。こうして毎日が過ぎていく――。
翻って今、私たちには漠然と待とうとするゴドー的なものがあるのだろうか。「希望」を「嘆願」するような相手が見つからないということだ。大変な時代だと改めて思う。
* 当欄2023年7月14日付「あのゴドーの『ゴドー』とは誰か」
(執筆撮影・尾関章)
=2023年7月21日公開、通算687回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。