ソシュールで歴史の呪縛を脱する

今週の書物/
『ソシュール』
ジョナサン・カラー著、川本茂雄訳、岩波書店「同時代ライブラリー」、1992年刊

共時的

今週も、スイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュール(1857~1913)の言語観を追いかけながら、私の青春期に一世を風靡した構造主義に迫ることにしよう。

思いだされるのは、構造主義が語られるときに「共時的」と「通時的」という一対の用語が必ずと言ってよいほど出てきたことだ。「意味するもの」(シニフィアン、能記)と「意味されるもの」(シニフィエ、所記)と同様、日常生活には馴染みのない概念だった。

「共時的」も「通時的」も、字面をじっと見ていれば意味が伝わってくる。数学の授業を思い起こしてみよう。先生が黒板に線を1本引いて「これは時間軸です」と言う。t=0分後、t=1分後、t=2分後……軸上の各点は異なる時点を表しているから「通時的」だ。ここでt=1分後の点で別の軸が直交していて、その軸上にx=0m、x=1m、x=2m……という地点があるとすれば、これらはどれもt=1分後の位置だから「共時的」だ。

私たちの日常は共時的でもあり、通時的でもある。職場の人間関係に悩むという状況を考えてみよう。悩みごとは、自分が今どんな人々とどういう仕事をしているか……といった現在の事情によって起こるから共時的だ。その一方で、自分はこれまで仲間たちと仲良くやってきたか……など過去の事情も影響してくるだろうだから、通時的ともいえる。私たちはふつう共時と通時を切り分けて考えないが、構造主義は違うらしい。

構造主義は世界を共時的にとらえる、と私は理解してきた。ただ、それは青春期の読書のおぼろげな記憶にもとづく。そこで今週も『ソシュール』(ジョナサン・カラー著、川本茂雄訳、岩波書店「同時代ライブラリー」、1992年刊)を読み、これを再確認したい。

実際、本書を読み進むと「言語体系の観点からは、重要な事実は共時的事実である」という記述に出あう。ソシュールが「共時」を重視しているのは間違いないらしい。当欄は前回、ソシュール言語学が「要素を創り出し、かつ画定するところの諸関係から成る根底所在の体系を提出する」という本書の記述を引いたが、実は、その「要素」にも「共時的体系の」という限定がついていた。「共時的体系の要素」しか相手にしないということだ。

本書によると、この問題でソシュールはfoot(足)とその複数形feetの変遷を初期アングロ・サクソン語の時代からたどっている。その音を片仮名書きで表すと、単数形はずっと〈フォート〉が続くが、複数形は最初〈フォーティ〉だったのが〈フェーティ〉となり、さらに〈フェート〉に変わった。これが現在の単数形〈フット〉、複数形〈フィート〉に行き着いたということだろう(母音を伴わないt音は便宜的に「ト」と表記した)。

ソシュールは、〈フォーティ〉→〈フェーティ〉→〈フェート〉の変化を偶然の仕業とみる。それは「あらたに取り込んだ意義をしるすべく運命づけられたものではない」。たまたま出現した一対の言葉を「単数・複数の別を立てるために流用」しているだけだ。

この話は、ソシュール言語学ではおなじみの「ラング」と「パロール」にもかかわる。ラングには「言語体系」、パロールには「発話行為」の意味あいがある。ソシュールの視点に立てばラングは「本質的」だが、パロールは「偶然的」だ。ソシュール言語学は、ラングすなわち「言語体系」の「単位」と「結合法則」を見定めようとしている。footの複数形の推移は、パロールすなわち「発話行為」の領域に属するから重要視しない。

ソシュールは「共時的事実」を「通時的事実」から切り離した。あくまでも注目するのは「同時に存在する二つの形式のあいだの関係ないしは対立」だ。〈フォート〉対〈フォーティ〉、〈フォート〉対〈フェーティ〉、〈フォート〉対〈フェート〉がこれに当たる。

この「共時」の重視は、当時の言語学界を根底から揺るがすものだった。「恣意性」への着眼などでソシュールにも影響を与えた米国の言語学者ウィリアム・ドワイト・ホイットニーも、「言語学は歴史的科学でなければならない」との立場は捨てなかった。「通時」の研究にこだわったのだ。だが、ソシュールが目を向けたのは「歴史上の連続性」ではなく、「共時」の次元で「意味の差異」を生みだす機能、すなわち「示差的機能」だった。

ただソシュールも、発話行為で生じる「歴史的変化」が言語体系に「影響を及ぼす」ことまでは否定していない。ラングも、パロールの「偶然的」なゆらぎに無縁でないわけだ。このことをどう考えるべきか、私にはまだわからない。これからの読書の課題としよう。

ここで、近代思想が歴史的なものの見方と切っても切れないことを思い返したい。ヘーゲルの歴史哲学がそうだろう。マルクスの史的唯物論も同様だ。だが、歴史にとらわれることには落とし穴がある。私たちが参照できる歴史が一つしかないことだ。歴史はやり直すことができない。これに対しては反論もあろう。世界にいくつもの文化圏があり、それぞれ歴史が異なるからだ。だが現実には、これまで欧州史が偏重されてきたのではあるまいか。

そんな状況を知ってか知らずか、ソシュールは歴史をスパッと切り捨てた。「共時的体系」に焦点を当てた探究ならば、一つの文化圏に目を奪われることなく、それぞれの文化圏の言語を相対化できる。欧州という一地域の事情に惑わされることもなく、地球規模の言語学を築くこともできるだろう。こうしてみると、ソシュールが言語学で採用した構造主義の手法が文化人類学など別分野にも取り込まれていった展開が腑に落ちる。

本書によれば、文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースは「言語学と人類学における構造分析」という論文で、ソシュールが「辞項間の関係」の研究で、話し手が意識していない「関係」の体系にも迫ろうとしたことに注意を喚起している。人類学者も「行為」や「事物」を「記号」として考察するとき、人々の意識にはない「関係」の体系にも目を向けるべきだという。「関係」重視の構造主義はこのようにして裾野を広げたのである。

構造主義は1960~1970年代、ポスト構造主義と呼ばれる新しい思潮の台頭で批判にさらされた。背景には、研究者風の客観的な姿勢に対する不満もあったらしい。これは私が若いころ、構造主義をマルクス主義や実存主義と同列に扱うことに違和感を覚えた経験に一脈通じている。俗な言い方をすれば、私たちの生き方にヒントを与えてくれないのだ。とはいえ、構造主義はポスト構造主義によって全否定されてはいない。

私が一つつけ加えれば、構造主義は科学の要素還元主義批判にも結びついている。今や物理世界を探るには、物質の最小単位クォークを見つければよいわけではない。生物世界を理解するにも、DNA塩基配列の遺伝情報を読みとるだけではダメだ。要素と要素の「関係」を調べるところから始めなくてはならない。一方、今日のネットワーク社会は文字通り、私たち自身を人と人との「関係」の海に誘い込んでいる。「構造」は今や旬なのだ。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年7月15日公開、通算635回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
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ソシュールで構造主義再び

今週の書物/
『ソシュール』
ジョナサン・カラー著、川本茂雄訳、岩波書店「同時代ライブラリー」、1992年刊

色の差異

「主義」が輝いていた時代があった。私が学生だったころがそうだ。自己紹介で「僕はナニ主義者」と名乗るべきか、そのナニを何にしようか、といつも考えていた。

1970年代初め、よその大学で開かれる自主ゼミに通ったことがある。それを「自主ゼミ」と呼ぶのが正しいかどうかは、定義にもよるだろう。主宰者の男性若手教員は工学系だったが、テーマは彼の専門領域に限定されなかった。灯ともしごろの研究室に週1回、学内外の若者が勝手に集まり、なんでもよいからしゃべりたいことをしゃべり合うという感じ。その議論でも、「主義」という言葉には隠然とした重みがあった。

ただ興味深いのは、このときすでに社会主義の輝きが薄れかけていたことだ。主宰者の教員は新左翼への共感を明言したものだが、だからといってマルクス主義を説くことはなかった。連合赤軍事件が発覚するより前のことだが、新左翼運動はすでに衰退していた。

そのゼミで私が忘れられないのは、ある晩、初参加の青年が持論を延々と展開したことだ。芸術系の学生だったと思う。言葉の端々から、古今東西の書物を読み漁っていることがわかった。そこで飛びだした用語が「構造主義」である。私には、青年がこう言っているように聞こえた。マルクス主義は古い、実存主義も古い、今は構造主義だ――。さらに「ポスト構造主義」にも言及していたかもしれないが、そこまでの記憶はない。

そのころ、私も「構造主義」という言葉は知っていた。新書版の解説書はすでに読んでいたと思う。ただ、ピンとこなかった。その意図がつかみ切れなかったのだ。ところが、くだんの青年は弁舌さわやかに、それを思想史の時間軸に位置づけている!

私が構造主義に惹き込まれなかった理由は明らかだ。それは、新鮮ではある。「意味するもの」「意味されるもの」といった耳慣れない用語を駆使して、物事の本質を読み解いてくれる。だが、そこにとどまっていないか? 少なくとも私には、そう思えた。構造主義は、世界のしくみを理解するための方法論に過ぎない。自分がどう生きてどう行動するかという問いには、なにも指針を与えてくれない――そんな不満を拭えなかった。

だから、マルクス主義や実存主義は古い、構造主義は新しいという仕分けには納得できない面があった。これらは同列の品目ではないので、新旧を比べるのは適当でないように思えたのだ。私は青年の話ぶりに気おされながらも、心の片隅に違和感を宿しつづけた。

で、今週は『ソシュール』(ジョナサン・カラー著、川本茂雄訳、岩波書店「同時代ライブラリー」、1992年刊)。フェルディナン・ド・ソシュール(1857~1913)はスイスの言語学者。その研究は構造主義の原点に位置づけられている。著者は1944年生まれ、米国出身の近代語、比較文学の研究者。本書の原著が刊行された1976年時点では、英国の大学で教職に就いていた。邦訳の単行本は1978年、岩波書店が出している。

当欄は先週、ジョージ・オーウェルの小説『一九八四年』に登場する新言語「ニュースピーク」を素描した(*1)。痛感したのは、言語と思考が密接不可分なことだ。この機会に言語のしくみそのものも考察したい。そう思ったのも、本書を選んだ理由である。

本書によると、ソシュールは自身の研究の全体像について、ほとんどなにも書き残さなかった。このため、ジュネーブ大学での講義録『一般言語学講義』がよく読まれる。学生のノートなど複数の筆記記録をもとに関係者がまとめたものだ。著者は、これをノート原本と突きあわせると、ソシュール本人の真意を伝えていない面があることを指摘する。本書は随所で『講義』を参照しつつ、一方で著者なりのソシュール思想「再構築」をめざしている。

中身に入ろう。第Ⅱ章「ソシュールの言語理論」を開くと、さっそく「言語は記号の体系である」という一文に出あう。「音」はふつうにはただの音だが、それが「観念を表現ないし伝達するのに役立つ」場合にだけ、「言語」の価値を帯びる。では、どんなときに音は観念を伝えられるのか。音が「慣習の体系の一部」「記号の体系の一部」であるときだという。この「体系の一部」という表現に、私は構造主義の空気を感じとった。

ここで「記号」とは何だろうか。それは、「記号表示する形式」と「記号表示される観念」の「合一」だという。ソシュールの用語に従えば、前者はsignifiant(能記)、後者はsignifié(所記)。片仮名書きすると、シニフィアンとシニフィエになる。懐かしい響きだ。これらこそが〈意味するもの〉と〈意味されるもの〉だった。音がなにものかを意味し、なにものかがそれによって意味されるとき、言語という記号が成立するのである。

次いで本書は「言語記号は恣意的である」と書く。「能記と所記との特殊な結合」は気まぐれというのだ。所記として哺乳類の一種(日本語圏で「犬」と呼ばれるもの)を思い浮かべよう。英語圏の人は、これに対する能記にdogをあてがうが、それはlodやtetであっても一向にかまわない。いくつもある能記候補のうちの一つが最適という「内在的理由」はないのだ。これが、ソシュール言語学が言語記号に見いだした基本原理だという。

ただ、この恣意性は一筋縄ではいかない。本書がまず指摘するのは、言語によって所記が異なるということだ。フランス語にaimerという動詞がある。これを英訳するときは、like(好き)かlove(愛する)のどちらかを選ぶことになる。フランス語では「好き」と「愛する」が一つの概念をかたちづくり、一つの所記となっている。ところが、英語では別々の概念であり、所記なのだ。世界の「分節」の仕方が言語次第で多様なことがわかる。

所記が「可変的・偶発的な概念」であることも具体的に語られている。例示される言葉は形容詞のsillyだ。もとは「幸いな」「恵まれた」「信仰深い」だったが、「無垢な」「力のない」などに変わり、今では「愚か」を意味するに至った。「能記sillyに付着された概念が継続的に境界を移し変え」「世界を一時代から次の時代へと異った仕方で分節した」わけだ。この間に能記も変化して、片仮名で表記すればセリーがシリーになったという。

著者によれば、ソシュールが恣意的とみてとったのは能記と所記の関係にとどまらない。所記が恣意的であり、能記も恣意的なのだ。「能記も所記もともに、純粋に関係的ないしは差異的な存在体である」――これがどうやら、ソシュール言語学の核心であるらしい。

本書では、いくつかの具体例が挙がっている。色名語、すなわち色の名前がその一つだ。brown(褐色)がどんな色であるかを学ぶときのことを考えよう。生徒は、brownという色がred(赤)やtan(黄褐色)、grey(灰色)、yellow(黄)、black(黒)と「区別」されることを教わるまでは「brownの意味を知るに至らない」。brownを「独立の概念」とみてはいけない。それは「色名語の体系中の一辞項」ととらえるべきなのだ。

「重要なのは区別」であることを実感する例には列車の呼び方もある。8時25分ジュネーブ発パリ行き急行とは何か? この列車は連日運行されるが、日によって車両も乗務員も入れ代わる。発車時刻がダイヤの乱れで8時25分より遅れる日もある。だが私たちは、それを同じ8時25分ジュネーブ発パリ行き急行と呼ぶのだ。理由は、この列車が10時25分ジュネーブ発パリ行き急行などとは別の列車であるからにほかならない。

本書には「言語学における説明は構造的」という記述がある。ソシュールが切りひらいた近代言語学は「要素を創り出し、かつ画定するところの諸関係から成る根底所在の体系」を提示して、そこにある「諸形式」と「結合法則」を説明づけようとしているという。難しい! これを私なりに意訳すれば、言語学は能記や所記の差異に目を向け、その関係図を描きだすことで言語の形式と法則を突きとめる試みである、ということか。

構造主義がようやく目に見えてきた。ソシュールはAやBを語るとき、A、BそのものよりもAとBの差異や関係から成る「構造」に注目したのだ。これは私たちの生き方に直接はかかわらないが、世界の見方に影響を与える。来週もソシュール思想を追いかける。
*1 当欄2022年7月1日付「オーウェル、言葉が痩せていく
(執筆撮影・尾関章)
=2022年7月8日公開、通算634回
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森の暗がりで哲学に触れる

今週の書物/
『樹木たちの知られざる生活――森林管理官が聴いた森の声』
ペーター・ヴォールレーベン著、長谷川圭訳、ハヤカワ文庫NF、2018年刊

新緑

「森」という言葉で思いだすのは、東京西郊の某学園構内にあった小樹林だ。正門を入ってグラウンドに下りる斜面に高木が生い茂っていた。私が幼かったころは万事鷹揚な時代で、学園は近所の住人が構内を散歩するのを黙認していた。その学園町に住んでいた母方の祖母も、孫をそこに連れていったものだ。「さあ、モリへ行きましょう」――。あの樹林は今もあるだろうか。昔のようには立ち入れないだろうから、すぐには確かめられない。

この思い出話からもわかるように、日本で都会の住人が思い描く森林像はつましい。ちっぽけな緑陰を見ても森と思ってしまう。東京の住宅街に限っていえば、それは斜面の自然であることが多い。当欄が昨春とりあげた大岡昇平『武蔵野夫人』でいえば、多摩川の河岸段丘がつくりだした国分寺崖線の緑ということになる(*1、*2)。では私たちは、森というものの本質を取り違えているのだろうか。必ずしも、そうとは言えない。

たとえば、あの学園の「森」は十分に暗かった。部活の選手たちがグラウンドで発する声を聞きながら、下り坂にさしかかると、いつのまにか陽射しが翳り、辺りはひんやりして湿った空気に包まれた。このこと一つをとっても、森らしい森といえる。森イコール木々の葉叢(はむら)に覆われた空間ととらえれば、あの「森」も間違いなく森だった。ただ、都会の森は小さい。一瞬のうちに通り抜けられるので、多くのことを見逃してしまう。

話は、幼時から青春期に飛ぶ。そのころになると私も頭でっかちになり、森林のことを理屈っぽく考えた。ちょうど、生態学(エコロジー)という学問領域が生態系(エコシステム)という用語とともに脚光を浴び、それが環境保護思想(エコロジー)に結びついた時期と重なる。その生態系を体現するものが森だった。森は樹木だけのものではない。鳥がいる、虫がいる、獣もいる、草がある、キノコも――それが「系」だと頭で理解した。

たとえば、拙宅玄関わきの落葉広葉樹。植木職人に聞くとムクノキだという。私たち家族が引っ越してきてから実生で育った。春先に新芽が出て葉が繁りだすころ、数種類の鳥たちがやってきて、ときに愛らしく、ときに騒々しく、鳴き声をあげる。これも生態系だ。

だが、それは思いあがりかもしれない。庭木の生態系は所詮、人工の産物だ。森の生態系を再現してはいない。森は、ただ多種の生物が共存するという意味での生態系ではない。その暗がりは、人間の尺度を超えた自然の営みを秘めているらしい――。

で、今週の1冊は『樹木たちの知られざる生活――森林管理官が聴いた森の声』(ペーター・ヴォールレーベン著、長谷川圭訳、ハヤカワ文庫NF、2018年刊)。著者は、ドイツで森林管理に携わる人だ。1964年、ボン生まれ。大学で林学を学び、営林署勤めを20年余続けた後、独立した。ドイツには「フリーランス」の森林管理家がいるということか。原著は2015年刊。邦訳は、単行本が2017年に早川書房から出て、翌年に文庫化された。

本書は、エッセイ風の短文37編から成る。著者が日々、森を見回っていて気づいたことを思いのままに綴り、その合間に生物学の文献などを引いて、最新の研究結果を織り込んでいる。多種多彩な樹木やキノコ、鳥、虫が次から次に登場するので、読むほうは途中でついていくのがしんどくなる。ということで当欄は、森の生態系について系統立てて論ずることはあきらめた。印象に強く残った話をいくつか拾いあげてみることにする。

「友情」と題する一編では、森の木々の間にある友愛が語られている――。著者は、ブナの群生林で「苔に覆われた岩」らしいものを見かけた。近づいてみると「岩」は見間違いで、それは古木の切り株だった。驚いたことに、樹皮をナイフで剥いでみると「緑色の層」が顔を出した。植物にとって生の証しともいえる「葉緑素」である。その木は400~500年ほど前に伐採されたと推察されるが、それでもまだ生きつづけていたのだ。

「私が見つけた切り株は孤立していなかった」と著者は書く。その解説によれば、切り株が「死なずにすんだ」のは、周囲の木々が根を通じて「糖液を譲っていた」からにほかならない。容易には信じがたいが、樹木の間では「根と根が直接つながったり」「根の先が菌糸に包まれ、その菌糸が栄養の交換を手伝ったり」ということが起こる。ご近所で「栄養の交換」をしているのだ。昭和期の町内で隣家同士が醤油の貸し借りをしていたように。

興味深いのは、樹木が栄養を譲る先は同種の仲間に限らない、とあることだ。競合する樹種に分け与えることもあるのだという。なぜか。理由は「木が一本しかなければ森はできない」ということに尽きる。樹木が風雨や寒暖から身を守るにも、十分な水分とほどよい湿度を手に入れるにも、1本ではダメで森が必要だ。ただ、相手を「どの程度までサポートするか」はまちまちで「愛情の強さ」が関係している、と著者は考える。

「木の言葉」という一編には、根のネットワークが栄養だけでなく、情報のやりとりにも使われることが書かれている。1本の木が害虫に襲われたとしよう。木は虫の撃退物質をつくって自衛する一方、周りの仲間に向けて警報を発する。その通信経路の一つが根っこ。警報は化学物質や電気信号のかたちをとって伝わる、と本書にはある。このときも一役買うのが菌糸で、根っこ同士が接していなければそれらを仲立ちするという。

菌糸とは菌類から伸びた糸だ。菌類はキノコなどのことである。本書によれば、森の土くれスプーン1杯には菌糸が長さ数km分も畳み込まれているらしい。菌糸のネットワークには、“www”になぞらえて「ウッドワイドウェブ」の愛称もあるという。

著者によれば、木の根には脳の役割があるという説も有力らしい。根の先にある電気信号の伝達組織で、樹木に「行動の変化」を促す信号を検知した研究もあるという。「行動の変化」の一例は、成長組織に伸びる方向を変えさせることだ。根が、地中で岩石や水分、あるいは有害物質を感じとったとしよう。これをもとに樹木を取り巻く「状況を判断」、成長組織に「指示」を出して「危険な場所に進まないように」仕向けるわけだ。

興味深いのは、植物学者の多くが木の根の「判断」や「指示」を「知性」とはみなさないことに著者が異論を唱えている点だ。違いは、樹木では情報の感知が「行動」に結びつくまでに「時間がかかる」こと。「生き物として価値が低いということにはならない」と書く。

木がものを考えるということでは、こんな話もある――。著者は、ナラの木々が一カ所に並んでいても秋に葉が色づくタイミングがまちまちなことに気づく。落葉樹は日照時間が縮まり、温度が下がると、光合成をやめて冬眠態勢に入ろうとするが、一方で、翌春に備えて「できるだけたくさんの糖質をつくっておこう」という指向もある。「判断」は「木によって違っている」と、著者はみる。二つの思惑の間で悩むことが木にもあるのか。

著者は本書で、森の樹木を人間に見立てて描いている。樹木に対して「愛」とか「知性」とかいう言葉を使うことには、科学の見地から眉をしかめる向きもあるだろう。ただ、森には人間社会とは次元の異なる「愛」や「知性」があるのだと思えば、納得できる。

圧倒されるのは、木の時間の長さだ。著者が管理する森ではブナの若木が樹齢80歳超だが、約200歳の母親から「根を通じて」糖分を受けている。まだ、赤ちゃんなのだ。様相が変わるのは、いずれの日か母親の命が尽きるときだろう。母親が倒れれば若木の一部も倒れるが、残りは「親がいなくなってできた隙間」の恩恵を受ける。「好きなだけ光合成をするチャンス」をようやく手にするのだ。こうして若木同士の競争が起こり、勝者が跡目を継ぐ。

木の空間も長い。それは、森は動くという話からわかる。欧州の中部や北部には300万年前、すでにブナ林があったが、一部の種類は氷河期にアルプスを越え、南欧で生き延びた。間氷期の今は北上を続け、北欧の南端にまでたどり着いたという。ブナの種子は、鳥や風の力では遠くに移動しにくい。それでも生息地を、最適の場所へ少しずつずらしていくのだ。移動速度は年速400mほど。地球の生態系が動的であることに感嘆する。

森にはやはり、時間的にも空間的にも人間の尺度を超えた何かがある。私が幼い日に感じた暗がりの正体は、ものの見方を広げてくれる哲学の影だったのかもしれない。
・引用部にあるルビは原則、省きました。
*1 当欄2021年4月23日付「武蔵野夫人、崖線という危うさ
*2 当欄2021年4月30日付「武蔵野夫人というハケの心理学
(執筆撮影・尾関章)
=2022年6月3日公開、通算629回
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ウィーンでミューズは恋をした

「ココシュカ 風の花嫁」
外岡秀俊執筆
『世界 名画の旅4 ヨーロッパ中・南部編』(朝日新聞日曜版「世界 名画の旅」取材班、朝日文庫)所収

ウィンナコーヒー〈濃いめ〉

ウィーンは、ただの芸術の都ではない。芸術革新の都でもあった。19世紀末から20世紀初めにかけて、繁栄と貧困が混在する帝都に絵画や建築の新潮流が起こる。分離派である。官能の画家グスタフ・クリムトも、その旗を振った。そんなことを先週は書いた。(*)

分離派の運動は、芸術分野で旧時代と切り離された新時代の作品群を生みだそうというものだった。それで気づくのは、同様の動きが別分野にもあったことだ。分離派よりもやや遅れて1920~1930年代、学術分野に旋風を巻きおこしたのが「ウィーン学団」だ。

ウィーン学団は、ウィーン大学を拠点に文系理系の研究者が専門の違いを超えて議論をたたかわせた学者集団である。形而上学を排して哲学の科学化をめざし、論理実証主義を重んじた。物理学者であり、哲学者でもあるエルンスト・マッハの影響を強く受けている。

ここまでのことでわかるのは、ウィーンはオーストリア・ハンガリー二重帝国の末期、芸術と学術の坩堝であったことだ。その片鱗をうかがわせる記述は、先週とりあげた記事「クリムト 接吻」(外岡秀俊執筆、朝日新聞日曜版連載「世界 名画の旅」1985年8月4日付)にもあった。当時の帝都には、性を禁忌とする表の顔と性に耽溺する裏の顔があったが、その「二重基準」と向きあった科学者に精神医学のシグムント・フロイトがいたという。

そんなウィーンの空気が横溢するのが、同じ連載の別の回「ココシュカ 風の花嫁」(外岡秀俊執筆、朝日新聞日曜版連載「世界 名画の旅」1987年2月8日付)という記事だ。これも、『世界 名画の旅4――ヨーロッパ中・南部編』(朝日新聞日曜版「世界 名画の旅」取材班著、朝日文庫、1989年刊)で読むことができる。オスカー・ココシュカ(1886~1980)はオーストリア出身の画家、「風の花嫁」は彼が1914年に仕上げた油彩画である。

「風の花嫁」に描かれた女性のモデルは、アルマ(1879~1964)だ。記事に姓はない。彼女の人生を語るときに姓が馴染まないからだろう。父親は貴族の家系に連なる画家だったが早逝、その後、母は父の弟子と結ばれる。自身も長じてから、結婚を3回経験している。だから、彼女の生涯を一つの姓で括ることには無理があった。いや、それだけではない。アルマ自身が家に縛られることのない自由な生き方を追求していたのである。

アルマの恋人や夫たちを並べてみると、その顔ぶれに驚く。初恋の相手は、当欄が先週とりあげた絵描きのクリムトだった。ただ、この恋は、アルマの母親が割って入って打ち切られる。母は娘の日記を盗み見て「早すぎる」と判断したのだ。最初の結婚相手は、すでに名声を博していたオーストリアの作曲家・指揮者のグスタフ・マーラーだ。二人の結婚生活は8年間続き、子どもにも恵まれたが、マーラーの病没によって終止符が打たれた。

二人目の夫は、ドイツで活躍していた建築家ヴァルター・グロピウス(記事の表記では「グローピウス」)だ。モダニズム建築の巨匠である。三人目はオーストリアの詩人で、劇作家、小説家でもあるフランツ・ウェルフェルだ。アルマの恋人や夫たちが打ち込んだものは、絵画、音楽、建築、そして文学。芸術のほぼ全領域を覆う。別々の分野でそれぞれ大仕事をしていた芸術家たちが同じ一人の女性に魅せられたという事実には圧倒される。

ウィーンの芸術家人脈は科学者人脈にもつながっていた。たとえば、マーラーはフロイトに接触している。夫婦仲がギクシャクしていることに悩み、精神医学にすがったのだ。もともとの原因は、マーラーが結婚当初、音楽の才能に秀でたアルマの作曲活動を認めようとしなかったことにあるのだが、彼は精神分析を依頼した。夫は妻に母親像を追い求め、妻は夫に父親像を見ようとしている、というのがフロイトの見立てだった。

で、今回の本題。アルマを取り囲む華麗な人脈でとりわけ輝いて見えるのが、「風の花嫁」の作者ココシュカだ。見かけのうえでは、アルマの最初の結婚と二番目の結婚の間で中継ぎの恋愛相手を務めたに過ぎない。だがその関係は、短くとも強烈なものだった。

ココシュカは1912年春、アルマ邸に呼ばれる。肖像画の発注を受けたのだ。マーラーは前年に亡くなっている。アルマは喪服姿だった。横顔のスケッチが始まる。「深く澄んだ目。通った鼻筋。ふくよかな成熟を示すほお」。アルマはピアノを奏でる。ココシュカは、その姿を描きとめようとした。瞬間、咳き込み、ハンカチを口に当てる。血がにじんでいた。この出来事に「ココシュカはいきなりアルマを抱きすくめ、逃げ去った」という。

こうして二人の恋が始まる。アルマ32歳、ココシュカ26歳。ココシュカは斯界では「強烈な表現」や「挑戦的な言辞」で知られた存在だった。アルマに対しても、いきなり「生涯の伴侶(はんりょ)になって下さい」と書いた手紙を送る。本人は求婚のつもりだったようだが、アルマはこれを求愛とだけ解釈して受け入れた。こうして二人は2013年、スイスとイタリアに旅行する。このときに着想されたのが「風の花嫁」だった。

その絵は、深い青を基調にしている。荒波の海だ。風が吹いている。一組の男女が小舟に揺られ、横たわっているように見える。女性が男性の肩に頬を寄せているから、恋人同士なのだろう。女性は「うっとり」目を閉じている。これに対して、男性の「虚空にすえたまなざし」は「不安とも悲愁ともつかない色」をたたえている。ココシュカは、恋愛の絶頂期でも不吉な予感を拭えなかったのだろう。そして現実も、その通りの展開となる――。

1914年、アルマはココシュカの子を身ごもる。ココシュカは子をほしがったが、アルマは産まなかった。この年、第1次世界大戦が勃発する。ココシュカは結婚の望みを絶たれ、志願して軍隊に入った。このとき「風の花嫁」を売り払い、その代金で馬を買いつけて出征したという。絶望感が深かったのだろう。一方、アルマは翌年にはグロピウスの妻となっている(この結婚年は、ウィキペディア英語版=2022年4月24日最終更新=による)。

筆者外岡は、この失恋の理由をココシュカ資料保管所長のウィンケラー氏から聞いている。氏の見解によれば、ココシュカもアルマに「母親像」を見ようとしたが、アルマが欲したのは「自由」と「旅」だった。「風の花嫁」はもともと「情熱的な赤の色調」だったが、それを「憂いを含む青ざめた色調」に塗りかえていったという。ここまでなら、年下のマザコン男が年上の恋多き女にふられる話だ。だが、この顛末はそれにとどまらない。

外岡はウィーンのカフェで、アルマの孫にも会っている。マーラーとの間にできた子どもの子で、名は祖母と同じアルマだ。夜泣きしても「祖母の姿を見ただけでぴたりと泣きやんだ」という幼時体験を披露しつつ、祖母を「さまざまな芸術家に霊感を与えたミューズ」と位置づけた。ウィンケラー氏も同じ言葉を用いて、アルマがココシュカの求婚を拒んだ深層心理を読み解く。「彼女は、ミューズの地位を失うことを恐れたのかもしれない」

ミューズとは、ギリシャ神話に出てくる9人姉妹の女神たちのことだ。詩神と呼ばれたりもするが、もともとはあらゆる知的営みをつかさどる存在を指したという。だから、祖母アルマに「ミューズ」を見いだした孫アルマの目は的を外していない。

この記事を読むと、当時のウィーンでは芸術や学問の濃度が比類ないほど高かったことを実感する。高濃度だから、ミューズを結節点とするネットワークが生まれたのだ。
*当欄2022年4月29日付「ウィーン、光と翳りとアドルフと
(執筆撮影・尾関章)
=2022年5月6日公開、通算625回
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箱男の気持ち、今ならよくわかる

今週の書物/
『箱男』
安部公房著、新潮文庫

箱の内側

コロナの春がまためぐってきた。咲き誇る桜並木の下を、乱れ散る花びらの中を、行き交う人々と距離をとりながらマスク姿で歩くのも3年連続となった。おととし「今年ばかりは仕方ない」と思って受け入れた急場の作法だったが、それがもはや習慣になっている。

長閑なり距離を取りあう箱男(寛太無)

こんな行動様式がすっかり身についてしまったからか。街をぶらついていて頭に浮かんだのが「箱男」という言葉だ。顔面は口も鼻も頬もすべて覆っている。人が近づいてくれば、無意識にその人から遠のいている。これなら、だれかとすれ違っても気づかれないだろう。挨拶しなくても済みそうだ――そんな自分の姿は、頭からダンボール箱をかぶった人間と同じではないか。それで、前掲の拙句を先日の句会に出したのである。

「箱男」は小説の題名だ。前衛の作風で知られる安部公房(1924~1993)の長編小説である。発表は1973年。第1次石油ショックが高度成長を終わらせた年だが、日本社会が石油高騰の直撃を受けたのは晩秋のことなので、高度成長最末期の作品と言ってよい。

考えてみれば、「箱男」という発想はあの時代にぴったり合っていた。なによりも「箱」が世間にあふれ返っていたからだ。私の幼少期は高度成長期に入る前で、物を入れる大ぶりの箱といえば木製のリンゴ箱だったが、それがいつのまにかダンボール箱に代わっていた。軽量で組み立て式のところが、大量生産品の包装に適したのだろう。スーパーの倉庫にダンボール箱が山積みになっている光景は、高度成長期の象徴の一つだった。

人が箱をかぶるというのも、あの時代らしい思いつきだ。高度成長期の象徴には団地の風景もあった。直方体の建物がずらりと並んでいる。同一規格の建物それぞれに同一規格の居住空間が詰め込まれている。これだけでもう、「箱男」と言えるではないか。

高度成長期は人間関係が一変したころでもあった。農漁村部にあった地縁血縁の社会が縮まる一方、大都市圏では縁の希薄な社会が膨らんだ。都市の人間は多かれ少なかれ、人間関係を節減したのだ。「箱男」のたたずまいには、そんな状況が投影されている。

で今週は、その『箱男』(安部公房著、新潮文庫、1982年刊)を読む。筋はあるのだが、その流れを入念に追いかけていると読みどころを見逃してしまう――そんな作品だ。背景には、1950~60年代にフランス文学界を席巻した「新しい小説(ヌーヴォー・ロマン)」「反小説(アンチロマン)」の影響もあるだろう。著者は切り抜き帳を作成するように、さまざまな文章の――ときには画像の――切れ端をぺたんぺたんと貼りつけていく。

それは、冒頭4ページを見ただけでもわかる。
1ページ目 ネガフィルムの1コマ(被写体は判別困難)
2ページ目 新聞記事(東京・上野で「浮浪者」の取り締まり)
3ページ目 「ぼくは今、この記録を箱のなかで書きはじめている」など
4ページ目 「箱の製法」と題して「材料」「工具」を列挙

5ページ目からは「箱の製法」が詳述される。たとえば、ダンボールの大きさは縦横それぞれ1m、高さ1.3mぐらいが最適なこと。強さについていえば、標準品でも「一応の防水加工」が施されているのだが、雨季に耐えるものがほしければ、ビニール被膜で覆われた「蛙(かえる)張り」があること。底蓋を内側に折り込み、針金やテープでとめておけばポケット代わりに使える、といった体験者ならではの知恵も伝授されている。

「製法」指南をもう少し続けよう。箱の内壁には、針金を使って鉤(かぎ)を取りつける。ここに「ラジオ」や「湯呑(ゆの)み」や「魔法瓶」や「懐中電燈」や「手拭(てぬぐ)い」などをぶら下げるのだ。箱は移動可能の住居であって、衣服ではない。

微に入り細を穿って説明されるのが、「覗(のぞ)き窓の加工」だ。窓の寸法の参考値は上下28cm、左右42cm。結構、大きい。ただしそこには、縦方向に切れ目がある「艶消しビニール幕」を垂らしておく。箱男がまっすぐに立っているときは「目隠し」になるが、体を傾ければ切れ目に「隙間(すきま)」ができて「向うが覗ける」。隙間には「目つき」のような「表情」を生みだす効果があり、箱男の身を外敵から守ってくれる。

この開口部にこそ箱男の本質がある。向こうからこちらは覗けないが、こちらから向こうは覗ける、ということだ。これは、コロナ禍で日常のいでたちとなったマスク姿にも通じる。だからこそ、私は拙句のように春の街に箱男の影を感じとったのである。

人はどんな事情で箱男になるのか。「Aの場合」はこうだ――。きっかけは、自宅のあるアパートの周辺に箱男が住みはじめたことだ。ビニールの切れ目からのぞく片眼が不気味だった。Aは、その箱をめがけて空気銃を撃つ。急所を外したつもりだが、箱男は血痕かとも思われる黒ずみを地面に残して去っていった。2週間ほど後、Aが冷蔵庫を買い替えたとき、ダンボールの包装を解くと「いきなり箱男の記憶がよみがえってきた」。

Aは「しばらくあたりの様子をうかがってから、窓のカーテンを閉め」「おずおずと箱の中に這い込んでみた」。これが、箱の空気を初めて吸った瞬間だ。翌日には箱に窓を開け、中に入ってみる。そのとたん箱からとび出て、それを蹴り飛ばした。胸がドキドキして危険さえ感じたのである。だが3日目になると、箱の内側にとどまって、窓から「外」を覗けるようになった。こうして、しだいに箱男の世界に引き込まれていく。

窓越しに見た「外」の様子はこうだ。「すべての光景から、棘(とげ)が抜け落ち、すべすべと丸っこく見える」。古雑誌の山も、小型テレビも、灰皿代わりの空罐も、実は「棘だらけで、自分に無意識の緊張を強いていたことにあらためて気付かせられた」とある。これを私なりに解釈すれば、私たちは日々、身のまわりのあらゆるものに敵意を感じ、警戒しているということだろう。箱は、その敵意に対する盾にほかならない。

4日目は箱の中からテレビを視聴した。5日目は室内では原則、箱のなかにいた。6日目、箱を脱いで街に出かけ、生活用品一式と食料を買い込んだ。これが何の準備かは容易に想像がつくだろう。興味深いのは、このときポスター・カラー7色を買ったことだ。帰宅して箱に戻り、内壁に吊るした手鏡に向きあい、懐中電燈を灯して、顔面にポスター・カラーを塗りたくった。箱は、自身の変身願望を満たしてくれる装置にもなるらしい。

7日目、「Aは箱をかぶったまま、そっと通りにしのび出た。そしてそのまま、戻ってこなかった」――こうして箱男が誕生したのである。いや、アパート周辺をうろついていた箱男の記憶がAの欲望に火をつけたのだから、箱男が増殖したと言ったほうが正確だ。

このくだりの結語部分で著者は、箱男になりたいという衝動はA一人のものではないことを強調している。それは「匿名(とくめい)の市民だけのための、匿名の都市」を「一度でもいいから思い描き、夢見たことのある者」にとって「他人事ではない」という。

ここでは「匿名の都市」について言い添えられた注釈が欠かせない。その都市では「扉という扉」が「誰のためにもへだてなく」開放されている。逆立ち歩きをしようが、道端で眠りこけようが、道行く人を呼びとめたり、歌を歌ったりしようが、すべてが「自由」。しかも、「いつでも好きな時に、無名の人ごみにまぎれ込むことが出来る」のだ。箱男は引きこもりの一形態のように見えて、そうではない。匿名でいるのは自由がほしいからだ。

では、今の世の中はどうか。匿名性は高まったように思う。報道では、当事者の名前が出ない記事がふえた。ネットには、ハンドルネームの書き込みが飛び交っている。だが、その一方で私たちは個人番号で管理され、防犯カメラで監視されている。ネットの向こう側に行動履歴や閲覧履歴が筒抜けで、広告戦略に利用されたりもする。匿名で自己を隠しているように見えて、いつもどこかから見られているのだ。匿名でも自由ではない。

現代の匿名は、箱男の箱ほどの効力もない。こういう時代だからこそ、箱男の気持ちがよくわかる。マスクで顔を覆い、人に近づかないようにしながら歩く――その日常に箱男との類似をみても怒りが湧いてこないのは、そんな理由からかもしれない。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年4月1日公開、通算620回
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