今週の書物/
『量子力学の奥深くに隠されているもの――コペンハーゲン解釈から多世界理論へ』
ショーン・キャロル著、塩原通緒訳、青土社、2020年刊
危険思想という言葉がある。それは、異端者に対するレッテルとして使われることが多い。言うまでもないことだが、このレッテル貼りはよくない。人は心のなかでなら何を思い描いてもよいのだ。その自由が、ときに常識の呪縛を解き放ってくれることもある。
私もかつて、自分自身が危険思想の持ち主と見られているように感じたことがある。極左に走ったわけではない。極右に振れたわけでも、過激な宗教に染まったのでもない。そもそも一つの考えの信奉者になったことは、これまで一度もない。ただ、科学記者として一つのテーマを追いかけていて、常識外の見解に興味を抱き、それを記事にしたことはある。このとき、周りの視線に危険思想を遠ざけようとする気配があったことを覚えている。
「一つのテーマ」とは量子力学である。1920年代半ばに打ちたてられた新しい物理学だ。私は1995年、欧州に科学記者として駐在していたとき、量子力学の核心部を生かした量子コンピューターや量子暗号の研究が台頭していることを知り、取材に駆けまわって報告記事を書いた。それは、量子力学の不可解さをどう解釈するかという哲学めいた問いに深くかかわっていた。答えの一つが多世界解釈。これこそが上記の「常識外の見解」である。
ざっくり要約しよう。量子力学の世界は波動関数というもので記述される。ここでは、電子を例にとろう。その状態は波によって表される。位置一つとっても、電子は一点にあるのではなく、A点にもB点にもC点にも……あることになる。重ね合わせの状態だ。ところが、私がその位置を測ったとしよう。すると電子の在り処はA点かB点かC点か……どこか一カ所に定まる。何が起こったのか? これが量子力学の観測問題である。
定説としては、コペンハーゲン解釈が広まっている。コペンハーゲンは、量子論の先駆者ニールス・ボーアの本拠地だ。この解釈は、ボーアの系譜にある物理学者らが唱えたので教科書的な見解として受け入れられてきた。それによると、観測の瞬間に波束の収縮ということが起こる。電子がA点にあるとの測定結果が出たとしよう。このとき、波は膨らみを失い、A点の箇所だけに聳え立つ。もはやB点、C点……には波の影もかたちもない。
コペンハーゲン解釈の対抗馬が多世界解釈だ。この立場では、波束は収縮しない。波は観測後も続く。そこでは、電子がA点にあるのを見た私、B点にあるのを見た私、C点にあるのを見た私……が重なり合う。観測の瞬間に私はいくつにも分かれ、それぞれの分身がそれぞれの世界を生きていくのだ。〈多世界〉と呼ぶ理由はここにある。この考え方は量子力学誕生の約30年後、1957年に米国の大学院生ヒュー・エヴェレットが発表していた。
荒唐無稽な世界観ではある。危険視されるのも致し方ないか。いや、違う。常識外ではあるが、常識の世界を乱さないからだ。この解釈に従えば、私には無数の分身がいることになるが、一つの分身が別の分身のいる世界と行き来したり、分身同士がメールをやりとりしたりはできない。それぞれの私がそれぞれの世界で物理法則に従うのだから何も問題ない。だが、それでも冷たい視線が向けられた。少なくとも四半世紀前までは……。
で、今週は、その空気が今や大きく変わったことをうかがわせる一冊。『量子力学の奥深くに隠されているもの――コペンハーゲン解釈から多世界理論へ』(ショーン・キャロル著、塩原通緒訳、青土社、2020年刊)。著者は米国カリフォルニア工科大学の理論物理学者。序章で多世界の理論が「うさんくさい」とみられてきたことを認めつつ、それは「量子力学を理解する最も純粋な方法」(原文では太字箇所に傍点、以下も)と言って憚らない。
この本の組み立ては、大きくとらえればこんなふうだ――。前半は、読み手を量子力学の世界に招き入れ、それを素直に受けとめれば多世界理論に行き着くことを堂々と論じている。後半に入ると、別の解釈には何があるか、量子論が宇宙論の「時空」にどうかかわるか、といった問いにも答えていく。後半は、かなり難しい。当欄は、とりあえず前半に絞って話を進めたい。ただいずれの日か、この本に戻って後半部分にも触れたいとは思う。
第一章には著者の宣言がある。「量子力学が説明できないもの、理解できないものとだけは思われないようにする」という決意表明だ。これは、科学者でもないのに物理学の周辺をうろついてきた者には新鮮に聞こえる。私は科学記者として、量子力学の不可解さについて物理学者を質問攻めにしてきたが、最後には、日常の感覚ではとらえきれないんだよ、と突き放されたものだ。だが、この本は最後まで面倒をみてくれそうではないか。
第二章では、「緊縮量子力学(austere quantum mechanics)」と呼ばれる立場が「勇気ある定式化」として紹介される。「緊縮」では硬いので、節約型の量子力学と言い換えてもよいだろう。波動関数だけに注目して、余計なことを考えない。著者は、量子力学をもっとも素直に受けとめれば、世界は一つではない、世界はたくさんある、とみるのが自然であることを論じている。多世界理論が「最も純粋」というのは、そのことである。
著者は、節約型の量子力学に二つの側面を見てとる。一つは、波動関数を「知識の整理を助けるだけの帳簿作成装置」とみないことだ。それを「現実をそのまま写し取ったもの」ととらえる――「認識論的」ではなく、「存在論的」な考え方に立とうというのである。
もう一つは、波動関数について「それは決定論的な規則にしたがって時間発展し、それ以外は何も関係しない」とみることだ。ここでは「決定論的」の一語に注目したい。量子力学は確率論の物理学とも言われるが、波動関数に限れば方程式通りの決定論に従う。
では、存在論的であり、決定論的でもある波動関数の正体とは何か? 著者によれば、それは量子状態だ。ならば量子状態とは? 「私たちが観測をしてみた場合のあらゆる可能な結果の重ね合わせ」だという。重ね合わせがまるごと方程式に従って移りゆくのである。
著者はこの「緊縮量子力学」を、前述のコペンハーゲン解釈――この本では「教科書量子力学」と呼んでいる――に対置して議論を進めていく。観測という行為のとらえ方について両者を対比しているところが読みどころだ。ここでは、それをなぞっておこう。
「教科書…」は、原子や電子のように微視的なものの観測では観測される側と観測する側の間に線を引いて考える。観測される側は量子力学に支配されているが、観測する側は古典力学の法則に従う、とみるのだ。ところが「緊縮…」は、この仕切りを取っ払う。たとえば、電子を写せるカメラがあったとして電子をカメラで観測する場合を考えてみよう。このとき、カメラの様子も電子と同様に波動関数によって表現するのである。
それでは、カメラの波動関数とはどんなものでどのように変化するのか。カメラが観測装置として電子の位置を見極めるとき、その波動関数が観測前に意味しているのは「これはカメラで、まだ電子を見ていない」ということだ。ところが、電子を被写体としてとらえた途端、「電子がここにいるのを見たかもしれないし、あそこにいるのを見たかもしれない」……に変わる。カメラの状態も、電子の重ね合わせに引きずられて重ね合わさるのだ。
えっ、カメラの重ね合わせだって? 重ね合わせは、電子のような微視世界でなら許せるが、私たちが暮らす巨視世界ではありえない――そんな違和感に応えるように、著者は私たちがこの不気味な重ね合わせを見ないで済む理屈を種明かししてくれる。
それは、量子力学では「二つの異なる物体」も「一つの波動関数だけ」で表されるということだ。こうして電子とカメラはつながる。その波動関数は、電子とカメラの「あらゆる可能な組み合わせの重ね合わせ」だ。ただ、なんでもあり、というわけではない。「電子はこの場所にあって、カメラはその同じ場所で電子を観測した」という整合性は求められる。一定の条件に縛られているのだ。このつながりが「量子もつれ」である。
観測とは、観測する側と観測される側が量子もつれを起こすことだ。ここで著者は、カメラをあなたに置き換えることを促す。あなたは当初、「まだその電子を見ていない」が、観測するとともにもつれが生じて「電子が見つかる可能性のある場所それぞれ」について電子とつながる。その結果、「ちょうどその場所にいる電子を見つけたあなた」が重ね合わせ状態になる。あなたまで重なり合うのだ。分身の登場である。ここに多世界が成立する。
さあ、ようやく多世界理論にたどり着いた。次回も引きつづき、この話を続ける。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年11月12日公開、通算600回
*当欄は今年、「量子」の話題を継続的にとりあげています。
「量子の世界に一歩踏み込む」(2021年5月28日付)
「量子力学のリョ、実存に出会う」(2021年6月4日付)
「量子力学の正体にもう一歩迫る」(2021年9月10日付)
「量子のアルプス、「波」の登山路」(2021年9月17日付)
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