量子力学のリョ、実存に出会う

今週の書物/
『NIELS BOHR
仁科芳雄著、青空文庫(底本は『岩波講座物理學Ⅰ.B. 學者傳記』、岩波書店、1940年刊)

デルタエックス(文末に注)

量子ほど、科学者は馴染んでいるのに世間に通用しない言葉はない。そんなこともあるからだろう、量子をめぐってはさまざまな誤解がある。量子論=量子力学と受けとめる向きがあるが、これは正しくない。あえて不等号を用いれば量子論>量子力学となる。

量子論の元年は、ドイツの物理学者マックス・プランクが量子仮説を提案した1900年と言えよう。それは先週の当欄でも触れたように、物体が電磁波を放ったり吸い込んだりするとき、やりとりされるエネルギーがとびとびの値をとる、という仮説だった。エネルギーには、1個、2個……と数えられる塊があるというわけだ。物理学者たちは、このような塊を「量子」と呼ぶようになった。(2021年5月28日付「量子の世界に一歩踏み込む」)

量子の概念を取り込んで生まれた物理学の体系が量子力学だ。1920年代半ばに確立された。建設者としてはウェルナー・ハイゼンベルクとエルウィン・シュレーディンガーの名がまず挙がるが、欧州の物理学者群像が知を持ち寄って築いたという色彩が強い。

量子仮説の登場から量子力学の誕生までに四半世紀が過ぎている。この間に物理学者は、原子がどんなつくりになっているか、などの懸案を量子論に沿って説明しようとした。こうした試みを前期量子論という。ニールス・ボーアは前期量子論の中心人物と言ってよい。

先週とりあげた『NIELS BOHR』(仁科芳雄著、青空文庫=底本は『岩波講座物理學Ⅰ.B. 學者傳記』、岩波書店、1940年刊)は、ボーアの業績として、量子仮説を踏まえた原子模型や、量子論と古典論の折り合いをつける対応原理の提案を挙げている。当欄も前回は、この二点に的を絞った。それで幕を引こうとも思ったのだが、考えを変えた。この『傳記』がさらっと触れている量子力学のことも触れておこう。そう思い直したのだ。

この一編は、量子力学が産声をあげて間もないころに書かれた。それが誕生直後、どう受けとめられていたかを、欧州にゆかりのある物理学者が語っているのである。素通りする手はない。もう1回とりあげて、リョウシリキガクのリョくらいまでは掬いあげておこう。

読んでわかったのは、そこにある量子力学の記述が1970年代に出回っていた解説書に近いことだ。初期の解釈が数十年も健在だったということか。ところが1980年代以降、事態は大きく動く。先端技術のおかげで、量子力学のつかさどる世界が実験室で再現できるようになり、そこから新しい量子力学観が台頭したのだ。当欄は今後、この潮流を追いかけていくつもりだが、そのまえに1930年代風の見方を復習しておきたいと思う。

『傳記』本文に入ろう。著者は「量子力学の発見には、直接にボーアの手で行われた部分はない」とことわったうえで、ボーアの薫陶を受けた人々が見いだした量子力学にボーア自身がどうかかわったかを論じている。それによると、ハイゼンベルクの不確定性原理には格別の興味を抱いたらしい。自分にも似た発想があったようで、「ハイゼンベルクの思考実験中の行論を訂正し」「原理の因って来る所を明かにした」とある。

この原理によると、「正規共役」という関係にある一対の量――たとえば粒子の位置と運動量――では、「一方を測定する実験を行うと、量子論的実在にあっては其実験の為に無視し得ない影響を他方の量に与えることを避け得ない」。片方を「非常に正確に」突きとめようとすると、もう一方は「全く解らなくなって了う」。ボーアはこれを「相補性理論」と呼んで、アルバート・アインシュタインの相対性理論に対置させた、という。

量子力学の世界では、位置を見極めるか、運動量を測るか、で事態がガラッと変わる。著者の言葉によれば「観測の仕方によって現象が規定せられる」のである。これは「物は観方による」という日常の教訓に言い換えられることも書き添えられている。

このくだりには、こんな記述も見かける。「観測に於て、観測体と被観測体とが古典論の場合のように截然たる区別をつけられない」――これを読んだとき、実存主義のイメージが頭をよぎった。そういえば、サルトルは「物を物として捉える」には「主体が必要」と言い切っていた。20世紀前半、量子力学と実存主義という別分野の潮流に響きあうものがあったように私には思える。(当欄2021年2月5日付「サルトル的実存の科学観」)

『傳記』によれば、ボーアは量子力学がはらむ波動説と粒子説の相克も「相補性の考察」で「解決した」。光の正体は19世紀には波動と見られていたが、1905年にアインシュタインが光量子仮説を唱えたことで粒子としての側面が無視できなくなった。1920年代前半にはルイ・ド・ブロイが電子のような物質にも波動としての側面があることを理論づけた。光も物質も、波と粒の両面を併せもつことがわかったのだ。これをどう考えるか。

ボーアが、この難題と向きあうときにもちだしたのは、私たちが現象のどこに着眼するかという、視点の相補性だ。量子力学の世界では「時間空間」内の「伝播」や「運動」を議論するときは波動らしく見えるが、「エネルギー、運動量」を問題にする場合は粒子らしくなる、というのである。二つの側面は相容れないが「一方が問題となって居る時は他方は自然に姿を消して了う」。だから、両説ともそれなりに正しいことになる。

著者によれば、「時間空間」の問題で波動らしさが際立つことは、不確定性原理によって支持されている。この原理の通りなら、観測によってさまざまな状態が現れるわけだから、こうならばああなるという古典論の因果律は成り立たない。私たちには「確率が与えられるだけ」であり、因果律は「統計的結果」に反映されるだけだ。状態が統計的に散らばる様子は波として表現できる。だから、波動らしさが卓越する――なるほどそうか、と思う。

一方、「エネルギー、運動量」は量子力学でも「不滅則」に従うので古典論の因果律が成立する、と著者はみる。不滅則、即ち保存則が粒子らしさの源泉というのである。ビリヤードの球がエネルギーや運動量を保存するように転がる様子をイメージすると、なんとなくわかったような気分になるが、私は十分には納得できていない。不確定性原理は、粒子の位置を絞り込めば運動量がばらつく、と言う。このとき、運動量の保存則はどうなるのか。

この『傳記』で残念なのは、量子力学最大の謎が語られていないことだ。状態の重ね合わせである。ボーアの学派が広めたコペンハーゲン解釈によれば、量子力学の世界では複数の状態が重ね合わさることがあり、観測の瞬間にそれが一つに定まる。この解釈は、物理学徒の間では教科書の知識のように定着しているが、不自然な印象を拭えない。ボーア自身はどう考えていたのか。そのことを知るには、別の書物を探さなければなるまい。
〈注〉⊿は、ばらつきを表す記号デルタ。⊿xは位置xのばらつきを表している。
*引用では文字づかいを現代風に改め、原語で書かれた人名も片仮名表記にした。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年6月4日公開、同年7月1日最終更新、通算577回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

8 Replies to “量子力学のリョ、実存に出会う”

  1. 尾関さん

    いやはや難しい。何かコメントか質問をと思ったのですが、何を質問したら良いのかも分からない、といった塩梅です。

    でも、あえてひとつ。不滅則(保存則)についてです。高校時代でしたか(中学?)位置と運動エネルギーについて学んだ記憶があります。物体が落下すると位置エネルギーは減少するけれど、運動エネルギーは増大するので全体としてのエネルギーは一定というやつです(尾関さんブログに登場する『不滅則(保存則)』が別のものであれば、質問はここで頓挫します)。

    これは私達が生活している「時間・空間」内での出来事ですよね。不滅則(保存則)を量子力学の世界に適用するにはまず、古典論の世界でも量子力学の世界でも「時間・空間」の性質が一様であることが前提されている必要があるように思います。

    量子力学レベルの微視的世界では、「時間・空間」が古典論の世界の「時間・空間」とは全く異なる性質を持っているという可能性は無いのでしょうか?

    1. 虫さん
      《いやはや難しい》
      書いている私も、まったく同感です。
      物理学を日常の言葉で理解するのは、どだい無理なのかな、と思いつつ、なんとかそれを乗り越えたいと考えて、手がかりとなる書物を読みつないでゆこうというのが、当欄量子シリーズの基本精神です。
      私が最近思うのは、いきなりすべてがわかることはありえない、ということ。
      無理をせず、わかるところだけを掬いとっていく、というのがよいのではないでしょうか。
      「波動説」「粒子説」の相補性で言えば、物理世界の確率論的な側面は「波」として見え、保存則的な側面は「粒」として見える、というあたりを押さえて、とりあえず今回は満足する――高望みしなければ心の安定が得られます。
      物理学徒でもない物理好きは、それでよいのではないか、と開き直っている次第。
      それにしても、読み手の方まで混乱に巻き込んでしまっているのなら、大変に恐縮。
      これからも、わからないことをわからないと打ち明けつつ、物理本をとりあげていくつもりですので、こいつはわかっていないなあと苦笑いしつつ、おつきあいいただければ。

  2. 尾関さん

    ご返信に感謝。心の安定は保っております、笑。
    前回の貴ブログでしたか、画然と区別されてきた古典論と量子力学の境界線がぼやけてきた、という言葉に刺激を受けました。

    やはり、自分も含めた「存在」に究極の関心があります。ならば、量子力学に興味を抱かざるを得ない、というわけです。

    ラインホルト・ニーバーの「変えられることを変える勇気を、変えられないことを受容する勇気を、そして変えられることと変えられないことを見極める知恵を」という言葉がありましたね (記憶頼りゆえ恐縮)。

    この「変えられる」を「分かる」に置き換えて、尾関さんの連載を通して「分かることと分からないことを見極める知恵」が得られればと思っております。楽しみにしています。

    1. 虫さん
      励ましのお言葉、ありがとうございます。
      「尾関さんの連載」と書かれていたので、あらかじめことわっておきますと、「量子シリーズ」は毎回連続ということでは決してなく、気まぐれにときどき、という感じになります。
      「浅見光彦シリーズ」「十津川警部シリーズ」のようなものですね。
      そんなわけで、次回はずいぶん空気が違ったものになるはずです。

  3. 尾関さん

    なるほど、了解致しました。
    「浅見光彦」や「十津川警部」となると、気まぐれに時々に加え、おや、今日の光彦はこの人か、十津川警部はあの人か、となるものと理解致しました。

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