立花隆の宇宙は夢とロマンじゃない

今週の書物/
「宇宙船『地球号』の構造」(『諸君』1971年4月号初出)
=『文明の逆説――危機の時代の人間研究』(立花隆著、講談社文庫、1984年刊)所収

宇宙から見た地球(NASA画像)

もう、ふた昔も前に『サイアス』という雑誌があった。1996年秋に創刊された隔週刊の科学誌だ。朝日新聞社が出していた月刊『科学朝日』の改名後継誌。残念なことだが、やがて月刊に戻り、世紀末の2000年に「休刊」という名の店じまいとなった。

『サイアス』創刊号(1996年10月18日付)で表紙を飾ったのが、先日訃報が伝えられた希代のジャーナリスト、立花隆さんの顔の大写しである。その余白を埋めるように誌名『SCIaS』のロゴがあり、「連載/立花隆/100億年の旅」(/は改行)という大見出しもあった。見出しで大書されているのは連載名「100億年の旅」ではなく、筆者「立花隆」のほうだ。出版市場で、この人の集客力がどれほど強かったかがみてとれる。

創刊の半年前、私は新聞社内の異動で出版局へ移り、まもなく『サイアス』編集部の副編集長になった。副編の仕事は、編集長のもとで誌面を企画したり、寄稿者や記者の原稿を整えたりすることだ。副編は二人いたが、立花連載の担当は私になった。私は創刊の準備段階からかかわり、編集者となる部員とともに立花事務所をよく訪ねたものだ。それは「猫ビル」と愛称される建物で、階ごとに別分野の書物を詰め込んだ知の要塞だった。

「100億年の旅」は、立花さんが理系の研究室を訪れ、研究者に長時間のインタビューをして記事にまとめるというものだった。人工知能、ロボット、仮想現実感……当時はまだ目新しくもあった領域に分け入り、突っ込んだ質問をたたみかける。取材は、知的好奇心の赴くまま盛りあがったようだ。私が深夜、編集部で仕事をしていると、取材に付き添う部員から電話がかかり、「まだ続いています」とあきれ気味の報告を受けることもあった。

やがて、立花さんから原稿が届く。私はそれを副編として読むのだから、誤字脱字がないか、事実誤認がないか、中見出しをどうするか、など実務に気をとられた。いま思うと、立花流の科学筆法を第一読者としてもっと味わえばよかったな、という悔いがある。

立花流の特徴は、工学系の研究者を取材したときに際立つ。工学研究は、たいてい実社会に直結している。その成果は経済活動と密接不可分で、ベンチャービジネスを生みだしたり、知的財産権に実を結んだりする。だが、立花さんの主たる関心は、そこにはなかった。理学系の研究、たとえば素粒子物理に興味を抱くのと同じように、工学研究に魅せられていたように思えるのだ。ロボット工学ならば、ロボットを通じて人間を知るというように。

で、今週の書物は「宇宙船『地球号』の構造」(『諸君』1971年4月号初出、『文明の逆説――危機の時代の人間研究』=立花隆著、講談社文庫、1984年刊=所収)という論考だ。著者は1940年生まれだから、これは30代になりたてのころに書かれた。出世作「田中角栄研究」(1974年)が世に出るより3年前のことである。『文明の逆説』は、今回の一編を含む初期の論考を1冊にまとめたもので、単行本は1976年に講談社から出ている。

本題に入る前に、この本の冒頭に収められた「文明の逆説――序論と解題」に触れておこう。そこでは、自身がルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインに惹かれて論理学や現代数学に誘われ、科学哲学や言語哲学にも関心をもつに至ったことを打ち明けている。ローマ帝国史など史学の蘊蓄も披露している。衒学的なのは若さ故か。ただ、著者が田中角栄を書くときも、先端研究を論ずるときも、脳裏にこんな知的背景があったことは心にとめておきたい。

論考「宇宙船『地球号』…」は、地球を宇宙船に見立てる論法が「思想的流行」として席巻中、という話から切りだされる。「流行」の理由には、執筆の前々年、米国のアポロ宇宙船が人類を月に送り込んだということがあった。だが、それだけではない、と私は思う。

たとえば、『宇宙船地球号 操縦マニュアル』(R・バックミンスター・フラー著、芹沢高志訳、ちくま学芸文庫)。邦題にある「宇宙船地球号」は“Spaceship Earth”の直訳であり、原著の刊行は1969年。この本を読むと、1970年前後は人類が資源乱費の愚に気づく転換点だったことがわかる(「本読み by chance」2016年1月22日付「フラーに乗って300回の通過点」)。当時「地球号」という言葉には、そんな危機感が凝縮されていた。

立花論考「宇宙船『地球号』…」も、同様の危機感に根ざしている。だから、著者が宇宙を好きだとしても、それは、メディアが宇宙の話題をとりあげる場面で用いる常套句「夢とロマン」とはもっとも遠いところにある。これは、強調しておきたいことだ。

この論考で、著者は「宇宙空間は死の空間である」という。私たちが、地球の外に「裸のまま」で放置されたとしよう。そこには、紫外線が降り注いでいる。太陽風など高エネルギー粒子が吹きつけ、隕石や宇宙塵も高速で飛んでくる。もちろん、息を吸いたくても空気がない。新陳代謝に欠かせない物質もない。細かなことを言えば、太陽の方角を向けば焦熱、振り返れば極寒という極端な温度差もある。とても生きてはいけないのだ。

では、私たちはなぜ、地球ならば生きていけるのだろうか? 紫外線を大量に浴びずにいられるのは、上空にオゾン層があるからだ。太陽風の直撃を受けずに済むのは、地磁気が防御壁になっているからだ……。このように著者は、地球が私たちに与えてくれる恩恵を一つずつ挙げていく。著者にとっての宇宙は、人間の生存条件を考えるときの思考実験の舞台になっている。「宇宙船」に対する関心も、この文脈のなかにあると言ってよい。

この論考には、なるほどそうだな、と思うたとえ話がある。航空機のしくみを知りたいなら、「模型飛行機を作ってみれば、空気より重いものが空を飛ぶのに必要なメカニズムがわかる」。物事の本質に迫るには「いちばん簡単なモデル」を考察するのが最善であり、有人宇宙船は地球の「簡単なモデル」になる。「宇宙船と現実の地球を比較してみることによって、我々は地球をより本質的に知ることができるだろう」と、著者は言うのだ。

読みどころの一つは、物資の自給自足だ。著者によれば、アポロ司令船は乗組員の排泄物を液体なら外へ捨て、固体なら殺菌密封して持ち帰った。だが、次世代の「火星宇宙船」では、長期飛行になるので循環型のシステムが提案されているという。宇宙船に緑藻類クロレラの培養装置を置く。排泄物はクロレラの肥料にする。二酸化炭素も光合成の原料として吸収させる。その光合成が船内に食料と酸素を供給する――そんな案が紹介されている。

著者は、これを地球と比べる。結論は「地球のほうがはるかによくできている」。地球規模で「エコシステム(生態系)」という「物質循環系」が働いて、水も食料も酸素も「すべての必要物資の自給自足体制が完全にととのっている」からだ。生物界の食物連鎖も、大気と海洋の間で起こる気象現象も、この系の一翼を担う。著者は、エコロジーという環境保護思想を、世間に先んじて1970年代初頭から強く意識していたことになる。

この論考は、文明の失敗も箇条書きにしている。著者が筆頭に挙げるのは、食料増産が「エコシステムを単純化し、不安定なものにしたこと」だ。畑とは「自然の植物群落」を排除して、限られた作物だけを育てる「極度に特異な場所」にほかならない。それが地表の一角――著者が引く統計では陸地の15%――を占めて、「自然のダイナミックな均衡と進化」を阻害しているという(当欄2021年5月21日付「石さんが砂について書いた話」参照)。

気候変動に論及したくだりもある。「宇宙船でいえば、エアコン装置を破壊するようなことを、現に我々はやりつつあるのだ」。ここでは、地球の温暖化と寒冷化の両方が語られており、温暖化については原因の一つが「炭酸ガス」(二酸化炭素)の「温室効果」であることに触れている。温暖化がメディアで大きく扱われるようになったのは1980年代後半からだ。この点でも、著者の知的関心は未来の論題を先取りしていたのである。

立花さんの宇宙は、夢の宇宙でないばかりか実在の宇宙でもなかったように私には思える。それは、人間が地球に生存することの幸運を実感できる脳内空間ではなかったか。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年7月2日公開、同月9日最終更新、通算581回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

「識者」ファインマンの闘いに学ぶ

「ファインマン氏、ワシントンに行く――チャレンジャー号爆発事故調査のいきさつ」
=『困ります、ファインマンさん』(リチャード・P・ファインマン著、大貫昌子訳、岩波現代文庫、2001年刊)所収

氷水

コロナ禍で問われているのは、専門家と政治家の関係だ。政治家は、次の一手を聞かれると「専門家の意見をうかがって決める」と言う。ところが実際には、その真意を汲みとらないことがままある。都合のよいところだけつまみ食いしたりするのだ。

専門家という言葉にも罠がある。専門家とは、特定の分野に通じた人のこと。だから、A分野のことを聴きたければ、Aの専門家を集めなければならない。B分野ならB、C分野ならCだ。ところが現実にはA、B、Cの専門家が一堂に会して、バランスよく結論をまとめることになる。これは、専門家というよりも有識者の集団だ。世論が二分される問題で合意点を探るのなら話は別だが、危機に直面して専門知を求めているときには不向きだ。

去年夏、コロナ対策をめぐって医療か経済かという二項対立が際立ったとき、私は朝日新聞の言論ウェブサイト「論座」(2020年7月24日付)に「コロナ対策、いま必要なのは『識者会議』か?」という論考を書いた。必要なのは「分科会」という名の識者会議ではなく、政策判断に直接の助言を与える実働集団だ。医療系、経済系それぞれの専門家集団が連携して、人々の接触機会の節減目標などを試算すべきではないか、と主張したのである。

1年たって、状況は変わった。医療か経済かの二項対立は薄れ、医療崩壊を抑えることが経済回復への近道との見方が広まっている。その結果、専門家の声がまとまりやすくなり、政府を動かす局面もあった。だが、事がオリンピック・パラリンピックの開催にかかわるとなると、政府はかたくな。専門家の意見をつまみ食いして済まそうとしている気配が濃厚だ。再び、識者会議の弱点を見せつけているとは言えないだろうか。

そんなことを考えていたら、この話にも例外があることに気づいた。識者として呼ばれ、おそらくは大所高所の議論だけを求められていたのに、自ら実働集団の役目まで果たした人がいた。米国の理論物理学者リチャード・P・ファインマン(1918~1988)である。

で、今週は「ファインマン氏、ワシントンに行く――チャレンジャー号爆発事故調査のいきさつ」(『困ります、ファインマンさん』〈リチャード・P・ファインマン著、大貫昌子訳、岩波現代文庫、2001年刊〉所収)。著者は、素粒子論など理論物理学が専門。1965年、朝永振一郎らとともにノーベル物理学賞を受けた。この一編は1986年、スペースシャトル・チャレンジャー事故の調査を担う大統領委員会に加わったときの体験記である。

事故は1986年1月、チャレンジャーの打ち上げ直後に起こった。爆発で機体は壊れ、乗組員7人は帰らぬ人となった。固体燃料ロケットの継ぎ目付近に欠陥があったことが、しだいにわかってくる。その事故を調べたのが、この委員会だ。委員長は元国務長官のウィリアム・ロジャーズ弁護士。委員13人の大半は理系で、軍人や雑誌編集者もいる。だから、専門家会議というよりも識者会議に近い。著者も、宇宙工学のことでは門外漢だった。

委員会は、この年の6月まで続き、最終報告書をまとめた。そこでは、著者自身の「報告」が「付録」扱いとなった。いわば、少数意見の併記。著者は持論を譲らなかったということだ。委員会では、その存在感をフルに発揮したのだとも言えよう。

著者の委員としての動き方を知って敬意を禁じ得ないのは、二つのことだ。一つは、自分は専門家ではない、と強く認識していること。もう一つは、にもかかわらず、いや、だからこそ、専門家の話を遠慮することなく聴きまくっていることだ。

それは、事前準備の段階から見てとれる。著者は2月上旬、初会合のために夜行便でワシントンへ向かう当日、地元パサデナで動きだす。勤め先のカリフォルニア工科大学は、米航空宇宙局(NASA)の研究を担うジェット推進研究所(JPL)を運営している。そこで、シャトルに詳しい技師の一人ひとりから、知っていることを洗いざらい聞きだしたという。「とにかく彼らはシャトルのことなら隅から隅まで知りぬいていた」と驚嘆している。

このときに書きとめたメモの2行目に「Oリングに焦げ跡を発見」とある。「Oリング」は、問題の継ぎ目部分にぐるりと巻かれた合成ゴムの密封材だ。チャレンジャー事故の調査でにわかに世に知られるようになった。朝日新聞の当時の報道では、大統領委員会でも2月中旬に「Oリング」という用語が登場しているが、著者はそれに先だって、Oリングがシャトルの要注意箇所らしいとの知識を自前の聞き込みで仕入れていたのである。

Oリングに目をつけた委員の一人に空軍高官のドナルド・クティナ氏もいる。初会合の日、地下鉄で職場に帰ろうとしている姿を見て「運転手つきの特別車なんぞにふんぞり返って乗りたがる軍人どもとは大違いだ」と著者は好感を抱く。こうして二人は仲良くなる。

ある日、そのクティナ氏から電話がかかってくる。「実は今朝、車のキャブレターをいじっているうちにひょいと思いついたんですがね」「先生は物理の教授でしょう。いったい寒さはOリングにどんな影響を及ぼすものですか?」(太字箇所に傍点)。事故は極寒の日に起こっているから「目のつけどころ」の良い質問だ。著者は「硬くなるはず」と即答した。それにしても、車をガチャガチャやっているときに頭が冴えるとは米国人らしい。

Oリングについては、著者自身の武勇伝もある。委員会の席で実験をやってのけたのだ。同様のゴム材を手に入れ、工具で締めつけて氷水に浸けた。しばらくして水から取りだすと、工具を外しても形が元に戻らない。「この物質は三二度(セ氏〇度)の温度のときには、一、二秒どころかもっと長い間弾力を失うということです」。余談だが、この日は前回の会議で委員席に置かれていた氷入りの水が配られておらず、あわてて注文したという。

こうして、Oリングの低温による硬化が密封機能を弱め、事故の引きがねになったことがわかってくる。これは著者の手柄話のように巷間伝えられたが、この体験記は、それもクティナ氏が「手がかり」をくれたからこそ、とことわっている。著者は公正な人だった。

もう一つ、著者の面目が躍如なのは、NASAがシャトル打ち上げの失敗率を低くみている事実を突きとめたことだ。技術者の一人は、それを1%(100回に1回)とはじき出していた。無人ロケットの実績をもとに、有人飛行時の安全対策も見込んで試算したという。ところがNASA上層部は、失敗は「10万回に1回」と言い張った。これだと1日1回打ち上げても300年間は成功が続くことになる、と著者はあきれる。

ちなみにこの技術者は、シャトルが上空で制御不能になる事態を想定して、墜落による地上の被害を小さくするために機体を爆破する装置を積むかどうかを決める立場にあった。技術者は任務を果たすために、失敗のリスクを直視しなくてはならないのである。

理系の有識者が果たすべきは、こうした理系思考を報告や提言や答申に反映することにあるのだろう。著者は、NASAの「10万回に1回」論を追及していくが、先方も譲らない。著者が米国の宇宙開発に対して抱いた最大の違和感は、ここにあったように思う。

苦笑いしたのは、忖度というものが米国にもあることだ。著者によれば、NASAではこんなことが起こっているらしい――。シャトル計画の予算を議会で通すには、それが安全で経済的であると言わなくてはならない。だから、上層部は「そんなに何回も飛べるわけがありません」という現場の声を聞いたとたん、議会で嘘をつく立場に追い込まれることになる。現場は、上層部から疎ましがられたくないから黙る。これが、NASA版の忖度だ。

2年後、著者は永眠した。素粒子だけでなく、官僚の振る舞いまで見抜いた最晩年だった。有識者とはこういう人を言うのだろう。お見事ですね、ファインマンさん!
(執筆撮影・尾関章)
=2021年6月25日公開、同年7月9日更新、同月9日更新、通算580回
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新実存をもういっぺん吟味する

今週の書物/
『新実存主義』
マルクス・ガブリエル著、廣瀬覚訳、岩波新書、2020年刊

自転車

今週は、いつもと異なる趣向で。先日、当欄でジャン-ポール・サルトルの『実存主義とは何か――実存主義はヒューマニズムである』(伊吹武彦訳、人文書院「サルトル全集第十三巻」、1955年刊)をとりあげたとき、その2回目「サルトル的実存の科学観」(2021年2月5日付)に虫さんからコメントをいただいた。「総論賛成、各論反対」「『新実存主義』は私も読みましたが、あの主張が実存主義の進化形とは思えませんでした」というのである。

『新実存主義』は、私が去年春、当欄前身の「本読み by chance」最終回で読んだ本だ(2020年3月27日付「なぜ今、実存主義アゲインなのか」)。ドイツ気鋭の哲学者マルクス・ガブリエルが学究仲間との対話形式で論陣を張った書物である。前述の拙稿「…実存の科学観」では、この1年前の読書体験を呼び起こして実存主義の変遷に言及したのだが、その変わり方を過大に評価したということか。気になって改めて『新実存…』を開いてみた。

まずは、その再読で大失態に気づいた。拙稿「…実存の科学観」で「あの本では、情報科学の神経回路網(ニューラルネットワーク)や人工知能(AI)などが中心的な論題となっていた」と書いたのだが、これは記憶違いによる誤り。ガブリエルはこの本で科学の話題を積極的にとりあげているが、情報科学やAIには踏み込んでいない。ただ、脳の神経回路については論じていた。ということで拙稿を本日付で更新、記述を改める。お詫びします。

で今回、当欄で考えてみようと思うのは、科学の視点でみたときにサルトルの旧実存主義(サルトルには失礼だが、当欄では仮に「旧」と呼ぶ)とガブリエルの新実存主義のどこが違うか、ということだ。その一つは、物質世界をどうとらえるか、である。

新旧の実存主義は、どちらも唯物論にノーを突きつける。だが、その言説には違いがある。「旧」は素朴で牧歌的だ。サルトルによれば、実存主義は「人間を物体視しない」。それのみならず、「人間界を、物質界とは区別された諸価値の全体として構成しよう」との思惑もある。その根底には、絶対的な真理としてルネ・デカルトの命題「われ考う、故にわれあり」が据えられていた。(当欄2021年1月29日付「実存の年頃にサルトルを再訪する」)

これに対して、「新」の唯物論批判は具体論に立ち入って組み立てられる。軸となるのは、心と脳の関係をどうとらえるか、という問いだ。そこには、唯物論者に歩み寄ったようにも見える記述が出てくる。たとえば、「非物質的な魂などありはしない」「私が死後も生き続けることはありえない」……。ちなみにここで「非物質的な魂」とは、物質やエネルギーの関与なしに自然界の因果関係に影響を与える「作用因」だという。

ガブリエルは、心脳関係をサイクリングと自転車のかかわり方にたとえる。「自転車は、サイクリングのために必要な物質的条件である」。言い換えれば、物質世界に自転車がなければサイクリングはできない。それと同様に、脳は心の必要条件であり、物質世界に脳がなければ心は成り立たないというのである。ここでは、サルトルの「人間界を、物質界とは区別された諸価値の全体として構成しよう」という野心が失われているように思われる。

ただ、ガブリエルは決して唯物論に転向したわけではない。このたとえ話で念を押されるのは、「自転車はサイクリングの原因ではない」「自転車はサイクリングと同一ではない」ということだ。新実存主義では、「人間の心的活動に必要な条件の一部」が「自然の過程」すなわち物質世界の出来事と言えるに過ぎない。必要条件は、ほかにいくつもある。それらが「組み合わさって十分条件が整う」――こうして心が成立するというのだ。

1年前の「本読み by chance」で書いたように、ガブリエルは脳の「神経回路」を「洗練した心的語彙に対応する自然種と同一視すること」(「自然種」は「自然界の事物」といった意味)を批判しているが、これも同様の視点から言い得ることなのだろう。

どうしても知りたくなるのが、ガブリエルが心の必要条件として脳以外に何を想定しているのか、ということだ。今回の再読で私は答えを探したが、わかりやすい説明は見つからなかった。ただ、物質世界に対応物を見いだせないものの一つが「何千年ものあいだ志向的スタンスで記述されてきた現象」という指摘はヒントになる。人間は過去に歴史を背負う存在、未来になにごとかをめざす存在である――そんなことを示唆しているように思う。

新実存主義は、実在を「ひとつのもの」とも「心的なものと物質的なもののふたつ」ともみない。それを「たがいに還元不可能な多様なものの集まり」ととらえる。ここに、実存主義「旧」版から「新」版への移行がある。これは、進化と呼べないかもしれないが――。

ここであえて一つ、ツッコミを入れれば、現代の科学技術がAIによって「志向的スタンス」まで再現できるようになれば、心模様に対応する物質世界もありうるという話になってしまう。実存が人間の占有物でなくなる日がやがては来るのだろうか。

ガブリエルはこの本で、自身の科学に対する「姿勢」も宣言している。「無窮の宇宙についてわれわれが科学的知識を積み重ねてきた」という史実も「この宇宙にかんしてはいまだ無知同然」という現実も、どちらも認めるという。そんな立場に、今日の哲学者はいる。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年2月19日公開、同月20日更新、通算562回
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小柴さんはアメリカに船で渡った

今週の書物/
『物理屋になりたかったんだよ――ノーベル物理学賞への軌跡』
小柴昌俊著、朝日選書、2002年刊

氷川丸

ワタクシ的に言えば、今年は父喪失の年だった。本物の父が5月に97歳で逝った。8月には科学記者仲間の父親的存在だった柴田鉄治さんが85歳で永眠した(当欄2020年9月11日付「新聞記者というレガシー/その1」、当欄2020年9月18日付「新聞記者というレガシー/その2」)。そして11月、日本の物理学界の巨星とも言える物理学者、小柴昌俊さんが94歳で生涯の幕を閉じた。小柴さんもまた、「父親」という言葉が似合う人だった。

3人に共通するのは、昭和戦前を知り、昭和戦後を生き抜いて、平成を見届けたことだ。その世代が今、次々に退場する。やがては代わって高齢層の先頭集団となる私たちは、父親たちが世の中の第一線にいた昭和戦後のことを語り継ぐ義務があるのかもしれない。

で、今回は、小柴さんについて書く。物理学者としての快挙は1987年、岐阜・富山県境部の神岡鉱山地下にしつらえた巨大な水タンクで、銀河系のすぐそばに現れた超新星が放つ素粒子ニュートリノを検知したことだ。この水タンクがカミオカンデである。

カミオカンデは、もともと陽子崩壊という現象を発見する狙いでつくられた。ところが、なかなか見つからない。それならば、とニュートリノの観測もしやすいように改造したら、その数カ月後に超新星ニュートリノが飛び込んできた。幸運と言えば幸運。ただそこには、一つの的が外れたときに備えて二つめ、三つめの的を用意する、という周到さがあった――そんなことを先日、私は「評伝」に書いた(朝日新聞2020年11月19日朝刊科学面)。

当欄は「評伝」とは異なるので、個人的な感慨も披歴しよう。小柴さんは幸運だったが、私自身もまた幸運だったのだ。私は1987年3月、朝日新聞科学部員として小柴グループの超新星ニュートリノ捕獲を記事にしたが、その機会に恵まれたのは同年1月の持ち場替えで物理・天文担当になっていたからだ。カミオカンデが改造から数カ月で超新星ニュートリノを捕まえたように、私も担当になって数カ月で科学の大ニュースと遭遇したのだ。

超新星ニュートリノの捕獲は、科学史の上でも大きな転換点だった。これによって、素粒子物理を粒子加速器のような超大規模の実験装置ではなく、自然観測を通じて探究する流れが再評価された。巨大科学(ビッグサイエンス)の潮流に一石を投じたのである。その動きを追いかけることができたのは記者冥利に尽きる。それだけではない。私は取材を通じて、小柴昌俊という魅力あふれる科学者の人間像を間近に見ることができたのだ。

で今週は、小柴さんの自伝『物理屋になりたかったんだよ――ノーベル物理学賞への軌跡』(小柴昌俊著、朝日選書、2002年刊)から、とっておきの話をいくつか紹介する。

この本をとりあげることには、ためらいもある。自身が本づくりにかかわったからだ。その経緯は、巻末に収めた「インタビューを終えて」という一文で明かしている。2002年晩夏、私は小柴さんに計3回、約10時間のインタビューをした。当時、朝日新聞出版局の編集者だった赤岩なほみが、この記録をもとに参考文献に照らしてまとめあげたものを小柴さんが推敲したのである。その結果、小柴さんらしい語り口が残る自伝となっている。

考えてみれば、この方式をとったからこそ、小柴さんがストックホルムでノーベル物理学賞を受けた15日後に刊行するという早業が実現したのだ。その夏、赤岩と私の間には「小柴さんのノーベル賞は近い」という共通認識があったが、そこにとどまらず「インタビューの聞き手を引き受けてほしい」ともちかけてきた彼女の英断に脱帽する。ここにもまた、幸運をつかみとる用意周到さがあったとみるのは、こじつけ過ぎだろうか。

さて今回、当欄で焦点を当てようと思うのは、小柴さんが1950~60年代に経験した米国生活だ。最初は1953年、ニューヨーク州のロチェスター大学に留学したときだ。横浜港で氷川丸に乗り込み、米西海岸のシアトルまで10日間余の船旅をしたという。

注目すべきは、そのころから小柴さんが用意周到だったことだ。船に同乗していた女子留学生二人から滞米時の連絡先をしっかり聞きだしていたのである。そのこまめさが、米国に渡ってからものを言う。マサチューセッツ工科大学に留学中の友人を訪ねたとき、近くに住む彼女たちに声をかけ、4人でデートしたのだ。「海岸に行って、それから晩飯をおごって、それでさようなら」というから「かわいらしいもの」だった。念のため。

もちろん、遊んでいたばかりではない。博士論文を書こうという学生には、そのまえに厳しい関門があった。まず語学試験に、次いで1週間ぶっ通しの集中試験に合格しなければならなかったのだ。語学では、二つの外国語の習得が求められた。英語はもちろん、日本語も外国語扱いされない。「それで、高等学校時代についばんだドイツ語とフランス語を、ハイネやモーパッサンを思い出しながら勉強した」。さすが、旧制高校出身者だ。

小柴さんが学位論文にまっしぐらだったのには訳がある。懐事情だ。留学中、当時の日本の感覚で言えば破格の月額120ドルが支給されていたが、物価が高いので生活は苦しかったという。交通費を切り詰めようとして「古いフォードを一五ドルで買ったところ、一カ月くらい乗ったらエンジンが破裂してしまった」というような日々。こんなときに指導教授から、博士号をとれば「月に最低四〇〇ドルは保証される」と聞きつけていたのだ。

学位論文のテーマは「宇宙線中の超高エネルギー現象」だった。指導教授のグループが「原子核乾板」という道具を風船(気球)につけて上空に浮かべ、宇宙線を観測していたので、そのデータを解析した。借金を背負いながらの研究だったそうだ。論文を指導教授に提出するときには「これで学位をくれないなら、日本へ帰る」と、啖呵まで切った。そのひとことが功を奏したわけではないだろうが、論文は異例の速さで審査を通過したという。

圧巻は、2度目の渡米後の1960年、シカゴ大学を拠点とする国際共同実験の指揮を任されたときの失敗談だ。ジョージア州の海軍基地から、原子核乾板搭載の観測機器を風船につないで飛ばした。機器は時間がくると風船から離され、落下傘で舞い降りる、という仕掛けになっている。ところが、切り離しのタイマーが雷の直撃を受けたらしく、機器はいつまでも風船にぶら下がったままだ。飛行機から切り離しの信号を飛ばしてもダメだった。

この窮地に、小柴さんはどうしたか。本人の回想によれば、米海軍の幹部に電話して、風船を落下させるために軍用機を出動させてほしい旨の要求をまくし立てた。「言いたい放題」だ。「敗戦国民のわたしが、アメリカの海軍にああしろ、こうしろと命令するのは、正直言って気分がよかった」と振り返る。実際、海軍は軍用機で風船を銃撃したらしい。それでも風船は太平洋上空まで流され、観測機器はついに行方知れずになったという。

実験そのものは失敗だった。だが小柴さんは、ここから二つのことを学ぶ。巧妙な交渉術と実験家の心得だ。指南役は、イタリア出身の物理学者ジュゼッペ・オッキャリーニだった。軍人とのやりとりでは「喧嘩の仕方をいろいろコーチしてくれた」。実験のことでは、観測装置に信号が伝わらない事態を想定して、その場合でもデータを回収できるしくみにしておくよう「お説教」したという。小柴流用意周到の原点は、ここらへんにありそうだ。

不可解なのは、小柴さんが米海軍に対し、風船相手の作戦にU2を使うよう求めたとしていること。U2は偵察機だから、ちょっとおかしい。1960年、この機種は旧ソ連上空で地対空ミサイルに撃ち落とされるなど注目の的だったので、思わず口を突いて出たのだろうか。

この逸話には、違和感を覚える人が少なくないだろう。1960年は、日本で日米安保条約反対のうねりが高まった年だ。知識人の間には、文系であれ理系であれ、反戦、反米の思いが強かった。そんな時流を知らぬげに米軍と屈託なくかかわったのだから、批判されても不思議はない。そこにあったのは、人道に反しないなら使えるものは使うという合理主義か。ただ一つ言えるのは、小柴さんは日本社会のものさしに収まらない人だったということだ。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年12月11日公開、同月14日最終更新、通算552回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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偶然のどこが凄いかがわかる本

今週の書物/
『この世界を知るための人類と科学の400万年史』
レナード・ムロディナウ著、水谷淳訳、河出文庫、2020年刊

多面ダイス

先週に引きつづいて、科学史の大著『この世界を知るための人類と科学の400万年史』(レナード・ムロディナウ著、水谷淳訳、河出文庫、2020年刊)をとりあげる。当欄恒例の本文冒頭のまくら代わりに、今回はこの本に出てくる印象深い余話を一つ。

著者にはテレビドラマの脚本家というもう一つの顔があることは前回、すでに書いた。著者が「新スタートレック」の企画会議に出たときのことだ。太陽風という物理現象にかかわる筋書きを提案した。「そのアイデアとそのおおもとにある科学を熱心に細かく説明した」のである。してやったり、という感じか。ところが、プロデューサーの反応は予想外だった。「不可解な表情で一瞬私をにらみつけ、大声で言った。『黙れ、くそインテリ野郎!』」

その場に居合わせた人で物理学の学究は、著者一人。一方、くだんのプロデューサーはニューヨーク市警の刑事出身という人物だった。このエピソードは、科学者の思考様式が俗世間でどう見られているのかを如実に物語っている。ひとことで言えば、面倒くさいヤツだと煙たがられているのだ。著者の本に好感がもてる理由は、著者自身が世間の空気にどっぷり浸かり、自らが煙たがられる立場に身を置いてきた科学者だからだろう。

著者は世俗の事情をよく知っている。だから、科学思考を世俗の関心事と照らしあわせることを忘れない。私がかつて書評した著者の本『たまたま――日常に潜む「偶然」を科学する』(田中三彦訳、ダイヤモンド社)も、そうだった(朝日新聞2009年11月8日朝刊)。そもそも、世情に通じているから「偶然」にこだわるのだろう。この『…400万年史』も、科学がそれぞれの時代、偶然をどう位置づけてきたかを跡づけている。

で、今回は、この本の近現代史部分に的を絞って偶然観の変転を切りだす。それは、劇的だった。脇役がいきなり主役に躍り出たのだ。そこで表題は、先週の「科学のどこが凄いかがわかる本」(当欄2020年11月20日付)の「科学」を「偶然」に置き換えてみた。

最初に登場願いたいのは、アイザック・ニュートンだ。1687年に刊行した著書『プリンキピア』で、この世の物体は三つの運動法則に従うこと、物体には遍く万有引力が働いていることを示した。そこから導かれたのが、方程式通りに変化する決定論の世界観である。

この本では、ニュートン没後の18世紀半ば、物理学者ルジェル・ボスコヴィッチが書き記した見解が引用されている。「力の法則がわかっていて、ある瞬間におけるすべての点の位置と速度と方向がわかれば、そこから必然的に起こるすべての現象を予測できる」。数学者で天文学者のピエール=シモン・ラプラス(1749~1827)が未来の完全予見はありうるとして思い描いた〈ラプラスの魔〉も、同様の見方に支えられていると言えよう。

この世界観を崩したのが、20世紀の量子論だ。本書を参照しながら、その流れをたどろう。まず19世紀末の1900年、マックス・プランクが、エネルギーは1個、2個……と数えられるとする量子仮説を提起した。これに従って、ニールス・ボーアは原子核周辺の電子の軌道半径を「量子化」して考えた。1913年のことだ。電子は「許されるある軌道から別の軌道へ跳び移る」のであり、このときに「エネルギーを『塊』として失う」とみたのだ。

ボーアの理論は、裏返せば「電子が原子核へ向かって連続的に落ちていってエネルギーを失うことは不可能」(太字に傍点、以下の引用でも)ということだ。これは、ニュートン物理学と相容れない。なによりも、惑星や衛星の運動とまったく違うではないか。たとえば、人工衛星が落下するときは緩やかに弧を描いて高度を落としてくる。ところが、電子はぴょんと跳ぶというのだ。軌道から軌道へ移る間、それはいったいどこに存在するのか?

この問題を驚くべき発想で解決したのが、ヴェルナー・ハイゼンベルクだ。前提として受け入れたのは、電子の居場所はニュートン物理が対象とする天体や振り子のようには観測できない、ということだ。「位置や速さ、経路や軌道という古典的な概念が原子のレベルでは観測不可能だとしたら、それらの概念に基づいて原子などの系の科学を構築しようとするのはやめるべきかもしれない」――こうして1925年、量子力学を築いたのである。

その量子力学では、電子がエネルギーを失うときに放たれる光の色(振動数)や強さ(振幅)といった観測可能量だけをもとに数の行列(マトリクス)を組み立てる。理論から「イメージできる電子軌道」を外して「純粋に数学的な存在」に仕立て直したのだ。

余談になるが、ここらあたりは、学生たちが授業で量子力学を教わるときに最初につまずくところだ。物理学を学んでいるはずなのに数学の勉強を強いられる。数学が苦手な若者は、ここで物理世界に分け入る道を遮断されてしまう。私もその一人だった。ただ、この場を借りて私見を述べさせてもらえば、そこで諦めてしまうのは残念なことだ。数式をきちんと読めなくとも量子世界の空気は感じとれる。それは、世界観を豊かにしてくれる。

数学ずくめに不満な学生にとっては、助け舟もある。それを用意してくれたのが、量子力学のもう一人の建設者とされるエルヴィン・シュレーディンガーだ。彼は、ハイゼンベルクが行列で表した力学を、別のかたちで表現した。波動方程式である。波のイメージは、ニュートン物理の世界像にまだ囚われていた学界に受け入れられやすかったことが、この本からもわかる。学者でなければなおさらだ。私も波のイメージにだいぶ助けられた。

ハイゼンベルクも黙ってはいなかった。1927年、「古典的なイメージ」に追撃を加える。「不確定性原理」と呼ばれるものだ。それによれば「物体は位置や速度といった正確な性質は持っておらず」、位置と速度は「一方を精確に測定すればするほどもう一方の測定精度は落ちてしまう」関係にあるという。これは技術の限界ではなく、物理そのものの制約だ。「ニュートンのように運動をイメージするのは無駄」とダメを押したのである。

量子力学が教えてくれるのは、「これらのうちのどれかが起こる」ということだ。そこには「確率しか存在しない」と言ってもいい。「この宇宙は巨大なビンゴゲームのようなもの」――そんな世界像を量子論は示した、と著者は言う。ラプラスの魔はいなかったのだ。フィリップ・K・ディックのSF作品『偶然世界』(小尾芙佐訳、ハヤカワ文庫SF)が思いだされる(「本読み by chance」2020年3月20日付「ディックSFを読んでのカジノ考」)。

近代人は長くニュートン流の決定論を信じてきた。いや、今でもふつうには信じている。この本にも言及があるように、地震は予知できるという見方があるのも、社会科学者が未来予測に憧れるのも、この通念に根ざしている。ところが20世紀物理学は、決定論の方程式は限られた範囲だけで通用するものであり、世界の根底には偶然をはらんだ方程式があるらしいという見方にたどり着いたのだ。「偶然」の勝利である。

で、ここで著者は、またまた父を登場させる。ナチスがユダヤ人を整列させていたときのことだ。父はたまたま、列の後尾に並んでいた。親衛隊士官は、必要なのはユダヤ人3000人だとして、父を含む4人だけを切り離して連れ去った。3000人は墓掘りを強いられたうえ銃殺されたという。それは「父にとっては理解しがたい偶然だった」。この体験のせいか、父は後年、著者が語る量子論の不確定性を「容易に受け入れてくれた」そうだ。

最後に付け足しになってしまうが、著者が立派なのは、自らの専門分野を離れて生物学系の科学史にも踏み込んでいることだ。ここでは、著者がページを割いて詳述しているのが19世紀半ばに登場したチャールズ・ダーウィンの進化論であることに注目したい。

ダーウィンによれば、生物は「ランダムな変異と自然選択」によって進化する。考えてみれば、そこにある自然観も量子力学同様、アリストテレスの目的論やニュートンの決定論になじまない。偶然は凄いのだ。この本を読み切って、その思いを改めて強くする。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年11月27日公開、通算550回
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