野に咲く花、あの社会党はどこへ

今週の書物/
『対立軸の昭和史――社会党はなぜ消滅したのか』
保阪正康著、河出新書、2020年刊

「花はどこへ行った」はピート・シーガーのフォークソングだ。「野に咲く花はどこへ……」(日本語詞・おおたたかし)と唄いだされる。最近、日本の社会民主党が分裂して究極のミニ政党になるというニュースに触れ、その歌を小声で口ずさんでいる自分がいる。

社民党と言えば、やや失礼な言い回しをすれば野党界の老舗だ。前身の日本社会党は戦後、日本政界の一角を占め、とりわけ1955年から約40年間は与党自由民主党と対峙する野党第一党であり続けた。まさに「野に咲く花」だったのだ。ところが、その花の末裔が今、枯れ落ちる寸前のように見える。私はここで、一党派の盛衰について書くつもりはない。ただ、社会党的なるものに存在感があったという史実を心にとどめておきたいとは思う。

意外かもしれないが、社会党はおしゃれだった、という印象が私にはある。1970年前後、街角で見かけた政党ポスターがそうだ。それをおぼろげな記憶をもとに再現すれば、ガランとした電車の車内風景を写真に撮って全面に刷り込んでいた。アングルが斜めに傾いている。座席には終着駅まで乗り過ごしたらしいサラリーマンがいたような気もするが、はっきりしない。ただ、都市生活の人間疎外を感じさせる一瞬を巧く切りだしていた。

ひとことで言うと、都会的だったのだ。この印象を裏づけるように、当時、社会党のポスターづくりには大手広告代理店がかかわっていたという話を聞いたことがある。もしそうなら、もちろんビジネスとして請け負ったのだろう。だが、かかわったクリエイターやアーティストたちの内心には仕事の域を超えて、この政党に対する愛着があったのではないか。それほどにリキが入っていた。社会党は、カタカナ書きの職業を味方につけていた。

これは、テレビを見ていてもわかることだった。芸能人・タレントたちを政治の座標軸に位置づけてみると、ゴリゴリの左翼系ではなくても、自民党を嫌う一群が存在していた。そういう人たちが、それとなく社会党に好意的な発言をする場面がままあったように思う。

あのころは農村部では保守が優勢、都市部では革新が強いという色分けもあった。だから、社会党が都会的に見えたのは不思議ではない。問題は、高度成長期とその後のバブル期に農村地帯がどんどん都市化していったのに、なぜ、この党は大きくならなかったのかということだ。皮肉にも、列島改造政策などで都市化を推し進めたのは自民党政権だった。政敵がチャンスをくれたのに、それを生かせなかったのだとも言える。

で、今週の1冊は『対立軸の昭和史――社会党はなぜ消滅したのか』(保阪正康著、河出新書、2020年刊)。著者は1939年生まれ、出版社の編集者出身の著述家。日本現代史、とりわけ昭和の戦前戦後史を学者とは異なる視点で読み解いてきた。あとがきによると、この本は「サンデー毎日」の連載「戦後革新の対立軸」をもとにしているというが、奇しくも社会党の後継政党に「消滅」の黄信号が灯る局面で世に出ることになった。

著者は、学者でないというだけではない。社会党関係者でもなかった。社会党嫌いであったわけでもない。序章では、自身が社会党の「熱烈とまでは言わないが、支持者であった」と打ち明け、「しかし次第にこの政党に関心を失った」と言い添える。この距離感がいい。

この立ち位置ゆえに、社会党のお家芸だった路線論争に深入りして、そこで唱えられたイデオロギーをマルクス主義の文献と突きあわせて吟味したりはしない。そうかと言って、社会党には追い風だった戦後民主主義まで否定したりもしない。むしろ、この政党が仲間うちの確執に明け暮れて、時代とともに移り変わってゆく人々の心模様を読みとることを怠り、世間の位相からどんどんずれていく様子を、これでもかこれでもかと指弾しているのだ。

序章は、「社会党に代表された戦後社会の姿あるいはイメージ」が私たちに残したものを辛辣な筆致で箇条書きにしている。「平和、自由、進歩といったプラスイメージの語彙を空虚にさせた」「生活の中の現実主義を糊塗するために空論を弄(ろう)することになった」……。現実を見て解決策を探らず、ただ立派なスローガンを掲げた。その結果、「空虚」な言葉の「空論」ばかりが飛び交うことになった。ずれていく、とはそういうことだ。

私は社会党のポスターを「都会的」と感じたが、著者は、1960年代から党の要職を務めた江田三郎に「都会的なスマートさ」を見ている。彼の存在は「党の人気を底上げする力」を秘めていたという。白髪のエネルギッシュな風貌で「テレビ映りも良い」と評しているが、「都会的」で「スマート」なのは外見のことではないだろう。思考の「柔軟性」がその印象を与えたのだ。それがかたちになったのが、構造改革論に根ざした江田ビジョン。

江田ビジョンでは、英国の議会政治、米国の豊かさ、ソ連の福祉、日本の平和憲法を理想像として提示している。この説明は、人々の胸にすとんと落ちた。ところが、これを「改良主義」と切り捨てる左派勢力が党内には強く、党の方針とはならなかったのだ。

江田は1977年、ついに社会党を離れる。このときの話が同じ著者の『昭和史 忘れ得ぬ証言者たち』(講談社文庫)に出てくる。党は離党届を、本部のある社会文化会館では受けとろうとしなかった。党に近づくな、ということか。江田は会館建設の資金集めに貢献した人だ。著者は、党の仕打ちを「許せない」と断じている。(「本読み by chance」2015年4月10日付「『昭和』を聞きつづける人の本」)。同じ視点は、この『対立軸の…』にもある。

著者は、今回の本でも「昭和30年代、40年代の東西冷戦下にあって教条左派の論者たちは、戦前の陸軍の青年将校のようなタイプが多かったと思う」と述べている。振りかざす旗が「天皇絶対」から「社会主義絶対」に代わっただけで、「正義は我にあり」「自らに抗するものは非正義」とする点は共通だという。私も同感だ。社会党の社会主義者たちには、自分たちはなぜ社会主義をめざすのか、という自問がなかったように見える。

私がこの本でもっとも強く興味を覚えたのは、社会党の成長経済との向きあい方を振り返った箇所だ。「社会党は高度経済成長を受け入れていながら、そしてそれに見合う生活上の豊かな部分を満喫しているのに、体質は社会主義の路線や理論に甘えていた」という著者の指摘は図星だろう。あのころ、支持母体の労組は毎年の春闘で高度成長の分け前を手にしていた。その後ろ盾となるだけで義務を果たしている気になっていたのではないだろうか。

実際、高度成長の恩恵が相当なものであったことは、著者も認めている。「私自身、経済社会の豊かさの中で文筆業に入っただけに、当時の経済成長の一端に触れる実感があった」と打ち明け、「私のような実感を持っている者が、社会党の支持から離れ、いわゆる『支持政党なし』に変わっていったのであろう」と分析する。支持者たちが社会党の「古い体質」、すなわち「イデオロギーに固執している状態」を見限ったのである。

では社会党は、あの時代に存在理由を取り戻すことができたのか――それが私の関心事だ。この本は、その問いに真正面からは答えてくれない。ただ、高度成長期の社会を論述したくだりから、存在理由は失ってはおらず、見失っていただけらしいことがわかる。

著者は、1960年代後半から日本社会に「二つの特徴」が現れたという。一つは豊かさの不公平。ところが、個々人の所得増に惑わされて「分配が公平にいっているような錯覚」が生じた。もう一つは公害。それは「高度成長に伴う不可避的な問題」にほかならなかった。

この二つに、社会党はもっと目を向けるべきだったのだ。その後、分配の不公平は市場経済万能論や経済のグローバル化で深刻度を増し、格差社会を生みだしていく。公害は、住民対企業の構図に収まらないエコロジー思想を育て、地球環境に対する危機感が強まっていく。一つの左派政党が1960年代、この展開を予想できたとは思わない。だがせめて、その激流に取り残されないだけの思考の準備をしていてほしかった。そう思わざるを得ない。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年12月18日公開、通算553回
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