植草甚一日記で「私」を再生する

今週の書物/
『植草甚一コラージュ日記①東京1976
植草甚一著、瀬戸俊一編、平凡社、2003年刊

経堂駅北口――かつて高層ビルがあった

先週の当欄は、私が敬愛する愛称J・J、評論家植草甚一の日記を読んだ。手にとったのは『植草甚一コラージュ日記①東京1976』(植草甚一著、瀬戸俊一編、平凡社、2003年刊)。手書きの文面が、そのまま読める。執筆時の空気が伝わってくる本だ。

私の場合、その感覚がいっそう強い。なぜならば、著者と私は同じ時代、同じ町に住んでいたからだ。もっと踏み込んで言えば、後述するように、著者は日記を書くとき、私から100mほどの地点にいた。風が吹けば同じ空気を吸うこともあっただろう。

個人的な事情を言えば、1976年という年も私には特別な意味がある。私はそのころ理系の大学院にいて、人生の前途をどのように歩むかで迷っていた。先輩の多くは電機会社の技術者になっていたが、それとは異なる道に進みたいと思っていたのだ。今振り返れば、あの一年は一瞬一瞬が私にとってカオス現象の初期値のようなものだった。それがちょっとずれていれば、今の私はこの私とまったく違う私になっていたに違いない。

だから、植草甚一日記の記述を今読んで、ああ、そんなこともあったなあ、と思い返すことは、私にとって青春期の心模様を再体験することでもある。著者J・Jの五感を通して47年前の自分が蘇ってくるのだ。私は今回、そんな不思議な気分になった。

ということで今回は、本書に収められた植草甚一1976年1~7月の日記から私にもかかわる断片を拾いあげ、私自身の1976年1~7月を再構築してみたいと思う。

まずは、日記の謎めいた記述から。1月2日の欄に「風呂にはいってから、こっちの部屋にくる」、1月4日には「ピザパイをたべ二時にこっちの部屋へ」――ここで「こっち」とは何だろうか。日記だからこその自分にしかわからない指示代名詞だ。脚注によると、著者は小田急経堂駅前の高層マンション10階に2室借りていて、うち一つを書庫兼書斎に使っていた。入浴や食事はあっちの部屋、日記を書くのは「こっち」というわけだ。

この記述だけで、私の脳裏に自身の1970年代が蘇ってくる。経堂駅北口付近は1960年代、小田急の車庫跡地にスーパーマーケットが出現、1971年にはそれが14階建てビルに生まれ変わった。下の階はスーパーや専門店街、上層階は賃貸マンションだった。著者は町内の線路沿いにある日本家屋に住んでいたのだが、駅前にビルが建つとまもなく移ってきた。現在、このビルはすでになく中層階の商業施設に代わっている(写真)。

日記から、このビルは著者にとってわが家同然だったことが見てとれる。先週の当欄では、著者が原稿の複写に文房具店のコピー機を使っていることを書いたが、その店はビル2階の専門店街にあった。各戸の郵便受けは1階にあったようで、元日には「一階へ年賀状を取りに行く」との記述がある。5月28日には「下の事務所へよったら一〇一二号室がとれたという」とも。「下の事務所」とは、階下にあったビル管理事務所のことだろう。

さて、1012号室が「とれた」とはどういうことか。脚注によれば、著者はすでに借りている2室では足らず、「三つめの部屋を借りることになった」のだ。10階の1010号室と1014号室に加えて、もう1室を手に入れた。著者はその夏、ニューヨーク行きの予定があり「これでこんどニューヨークで買うつもりの本の置き場所ができた」と安堵しているが、理由はそればかりではなさそうだ。日記を見ると、東京にいても本を買いまくっている。

実際、6月に入ると蔵書を新しい部屋へ運び込むようになる。「部屋が一つふえたので14号室のローカの本を移動しはじめる」(6月7日)、「九時に起きて14 号室の本を12号室にはこぶ」(6月8日、9時は午前)、「八時半から14号室の本を12号室へはこぶ」(6月10日、8時半は午後)。前述の「こっち」は1014号室だったのか。「このところ毎日つづけて本はこびをやっているので、くたびれて夜よく眠れるんだろう」(6月17日)

微笑ましいのは、著者が本の引っ越しにも愉悦を見いだしていることだ。6月18日には夫婦で渋谷に出かけ、美術展とコンサートのはしごをして午後10時に帰宅、それからまた、ひと仕事している。「二時まで本はこびと整理をやったが忘れていた本が出てくるから面白い」。1976年6月、著者は連日、書斎兼書庫の本を二つ隣りの部屋へヨイショヨイショと運んでいた。ときには朝、起床してすぐに、ときには深夜、午前零時を回っても。

で、これが私の世界と見事に交差する。そのころ、実家は経堂駅北口の商店街の裏手にあった。私の部屋は2階南面で、その窓辺に立つと前方100mほどのところに駅前ビルが聳えていた。見えるのは、ビル北面にある外廊下の列。階ごとに蛍光灯が等間隔に並んでいて、日が暮れると白い光が点々とともった。蛍光灯の配列は結晶格子のように規則正しく、無機的だった。毎夜毎夜、私はそんな寒々しい光景をぼんやり眺めていたのだ。

1976年6月も、その蛍光灯の列が私の視界に入っていたことだろう。私が目を凝らしていれば、10階の外廊下を高齢男性が本を抱えて歩く姿に気づいたのではないか。たとえ気がつかなくとも、私の網膜に著者が映っていた可能性は大いにある。(*1)

不思議な話だ。著者J・Jと私のニアミスは、本書を読まなければ私も気づくことなく一生を終えたことだろう。ところが半世紀ほどが過ぎて、著者入居のビルがあった場所の近くに古書店が生まれ、そこで本書に出あったことで私の過去が上書きされたのだ。

日記には、これ以外にも著者J・Jと私を結ぶ糸がある。元日の欄に「青野さんが青ちゃんの本ができたといって来てくれたうえ青野の羊かんをもらった」とあることだ。「青野さん」は東京・六本木の和菓子店主(脚注は店の所在地を「赤坂」としているが、この「青野」は「六本木」の店だと思う)。「青ちゃん」は店主の兄で、新劇俳優の青野平義。著者の親友だった。1974年に死去しているので、この本は「追悼文集かもしれない」と脚注にある。

和菓子店「青野」や青野平義については、当欄ですでに書いている(*2)。私の祖父と青野兄弟が遠い親戚の関係にあったのだ。私は幼いころ、正月には親に連れられて六本木の店を年始で訪ねていた。で、私は本書のこの記述に引っかかってしまった。

元日、青野の主人が経堂に来ていたらしい。ということは、私の実家にも立ち寄ったのか。当時は祖父も存命だったので、その可能性はある。覚えがないのは私が外出していたからか。ただ、青野の主人はこの日、兄ゆかりの人々に本を届けるためだけにあちこち訪ねまわっていたのであり、さほど近しくない親戚の家には足を延ばさなかったのかもしれない……。こうして私は、遠い昔の親戚づきあいの濃淡にまで気を揉むことになった。

余談になるが、1976年の冬から夏にかけては、日本社会を揺るがしたロッキード事件の捜査が進んだ時期にぴったり重なる。新聞の報道合戦は熾烈を極めた。著者も、これに無関心だったわけではない。5月5日の欄に「『週刊ピーナッツ』をまとめて買った」(原文のママ)という一文があったりするからだ。「ピーナッツ」は、疑惑の領収書に出てきた符牒。「週刊ピーナツ」は、事件を追及する市民グループが出した週刊紙の名前だ。

だが、事件のヤマ場、田中角栄元首相が逮捕された7月27日前後の日記に事件への言及はまったくない。27日は午後、出張で札幌へ発ち、翌28日は朝方ホテルで原稿「ペラ12枚」を書いた後、トークイベントかなにかで「若い人たち相手にしゃべった」とある。

植草甚一日記は、いわゆる偉人の回顧録ではない。市井の文人が個人的な些事を書きとめたものだ。だが、だからこそ、忘れかけていた時代の日常が詰め込まれている。迷うことばかりだった一青年の心模様が半世紀後に蘇るのは、そのせいだろう。
*1 外廊下にはフェンスがあるから、著者の姿が陰に隠れてしまったことはありうる。ただ、私はこのビルが映り込んだ画像をネット検索で見つけ、フェンスが少なくとも上部は柵状で見通しがよいことを確認した。
*2 当欄2020年5月22日付「もうちょっとJJにこだわりたい
(執筆撮影・尾関章)
=2023年4月14日公開、通算674回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

植草甚一の「気まま」を堪能する

今週の書物/
『植草甚一コラージュ日記①東京1976
植草甚一著、瀬戸俊一編、平凡社、2003年刊

古書店という風景

めずらしく、うれしい話である。隣駅の近くに古書店が出現した。店開きは去年秋のことだが、以来、散歩の途中にときどき立ち寄るようになった。平日はがらんとしていることもあるが、週末は賑わっている。本好きは多いのだ。それがわかってまた、うれしくなる。

固有名詞を書くことにためらいはあるが、あえて店名を明かしておこう。拙稿に目を通してくださる方には良質な古書店を探している人が少なくないと思われるからだ。「ゆうらん古書店」。小田急線経堂駅北口を出て数分、緩い上り坂を登りかけてすぐのところにある。

都内世田谷区の経堂には古書店がいくつもあった。有名なのは、北口すずらん通りの遠藤書店、南口農大通りの大河堂書店。どちらも風格があった。ところが前者は2019年、後者は2020年に店をたたんだ。そのぽっかり開いた穴を埋めてくれるのが、この店だ。

店内の様子を紹介しておこう。狭い。だが、狭さをあまり感じさせない。秘密は、店のつくりにある。たとえは悪いが、ちょっとした独居用住宅のようなのだ。部屋数3室。仕切りのドアこそないものの、リビングダイニングとキッチンと納戸という感じか。それぞれの区画は壁を書棚で埋め尽くした小部屋風。客はそのどれか一つに籠って自分だけの空間をもらったような気分に浸れる。心おきなく立ち読みして、本選びができるのだ。

気の利いた店内設計は、店主が若いからできたのだろう。昔の古書店は書棚を幾列も並べて、品ぞろえの豊富さを競った。店主は奥にいて、気が向けば客を相手に古書の蘊蓄を傾けたりしていた。だが、今風は違う。客一人ひとりの本との対話が大事にされる。

おもしろいのは、本の配置が小部屋方式のレイアウトとかみ合っていることだ。店に入ってすぐ、“リビングダイニング”部分の壁面には主に文学書が並んでいる。目立つのは、海外文学の邦訳単行本。背表紙の列には、私たちの世代が1960~1980年代になじんだ作家たちの名前もある。一番奥、“納戸”はアート系か。建築本や詩集が多い。そして、“キッチン”の区画は片側が文庫本コーナー、その対面の棚には種々雑多な本が置かれている。

この棚の前で私は一瞬、目が眩んだ。目の高さに植草甚一(愛称J・J、1908~1979)の本がずらりと並んでいたのだ。「ゆうらん」は心得ているな、と思った。J・Jはジャズや文学の評論家で、古本が大好きな人。経堂に住み、この近辺は散歩道だった(*1*2*3)。そこに新しい古書店が現れ、棚にはJ・J本がある。これは「あるべきものがあるべき場所にある」ことの心地よさ、即ちアメニティそのものではないか(*4*5)。

で私は、ここで『植草甚一コラージュ日記①東京1976』(植草甚一著、瀬戸俊一編、平凡社、2003年刊)という本を手にとった。ぱらぱらめくると、1976年1月~7月の日記が手書きのまま印刷されている。さっそく買い入れた。今週は、この1冊を読もう。

折から当欄は「めぐりあう書物たち」の看板を掲げて、この4月で満3年になる。最初の回に読んだのもJ・J本だった。今回は、初心を思い返してJ・Jイズムに立ち戻る。

本書は、『植草甚一スクラップ・ブック』という全集(全41巻、晶文社、1976~1980年刊)の付録「月報」として発表されたものをもとにしている。編者はそのころ、晶文社の社員だったようだ。その前書きによると、「月報」掲載の手書き文はリアルタイムの日記そのものではなかった。それを、著者本人が「清書」したものだという。書名に「コラージュ」(貼り絵の一種)とある通り、ところどころにビジュアル素材が貼りつけられている。

元日は「一月一日・木・いい天気だ。十時に目があいた」という感じで始まる。午後2時、年賀状を出しに出かけた。だが、投函だけでは終わらない。「ブラブラ歩いて玉電山下から宮前一丁目に出たとき三時」「二十分して農大通りに出たころ日あたりがなくなった」

土地勘のない人のために補足すると、「玉電山下」は現・東急世田谷線の山下駅。小田急経堂の隣駅豪徳寺のすぐそばにある。ここで私が困惑したのは「宮前一丁目」。世田谷にこの地名はない。「二十分して農大通り」とあるから、たぶん「宮坂一丁目」、山下の隣駅宮の坂付近のことだろう。思い違いがあったのではないか。もし「宮坂一丁目」なら、著者は1時間で小田急1駅分、玉電1駅分を歩き、グルッと回って経堂に戻ったことになる。

J・Jの好奇心に敬服したのは、2月19日の記述。バス車内の読書を話題にしている。著者は当時、仕事で池波正太郎作品を多読しており、経堂から渋谷行きのバスに乗っても読みつづけようとした。ところが乗車すると「揺れどおしのうえガタンとくる」。このとき著者は、「池波用メモ帖」を持っていた。読んでいて気づいたことがあると書きとめるノートだ。それを開いて「タテ線をボールペンで引っぱってみた」。だが、「直線にならない」。

そのタテ線は本書で現認できる。著者が「メモ帖」の一部を貼りつけているからだ。線は地震計の記録のように揺れ動き、ところどころに「STOP」の文字がある。バスが一時停車したのだろう。揺れに困り果てながらも、それを楽しんでいた様子がうかがえる。

その証拠に7月5日の日記で、こんな一文に出あう。「散歩に出たら渋谷ゆきバスが来たので、池波の本を持ったまま乗ってしまう」。懲りていないのだ。しかも、この日はバスをはしごする。「渋谷で降りたら知らない方向へ行くバスがとまっているので乗ってみた」。その終点で、喫煙用パイプの買いものをして引き返している。「こんなにグルグル回りするバスもはじめてだった」とあきれているが、私は著者の気まぐれのほうにあきれる。

著者は、よほどバスが好きなのだ。3月14日は、病院帰りに新宿副都心の洋菓子店喫茶コーナーでアメリカ小説を読んだ後、路線バスに引き込まれている。「王子行きのバスに乗ったら新高円寺という停留場になったので降りてみた」。あてもないのに、やってきたバスに乗る。理由もないのに、たまたま目についたバス停で降りる。この日は新高円寺近辺で道に迷った挙句、古書店にふらりと入り、本をたくさん買い込んで持ち帰っている。

2月19日の日記に戻ろう。著者は「メモ帖」の話のあと、「ニューヨークのバスは、こんなには揺れなかったな」と思い、車輪の取りつけ方が違うのかもしれないと推理して、下車したら「車輪の位置」をよく見てみよう、と考える。ここまで読んで私は、この話は当欄ですでに書いたことがあるのではないか、と疑った。たしかに似た話はあった。ただ、バスではない。ニューヨークで地下鉄に乗ったとき、東京ほど揺れなかったという。(*1

地下鉄の揺れのことが書かれていたのは、『植草甚一自伝』(晶文社)だ。日記掲載の「月報」が添えられた「植草甚一スクラップ・ブック」の第40巻である。そういえば同第19巻『ぼくの東京案内』には、別件でバスの話が出ている。昔、歩行者用の陸橋がまだ珍しかったころ、その下をバスがくぐり抜けたときに「歩橋」という新語が思い浮かんだというのだ。その後「歩道橋」の呼び名が世間に定着して、的外れでなかったな、と悦に入る。(*3

今回はJ・J本を選んだせいか、J・J流に脇道にそれて、話の収拾がつかなくなった。ここらで日記から浮かびあがる著者の日常を素描して、まとめに入ることにしよう。

ひとことでいえば、著者はいつも原稿に追われている。だが、執筆をさぼっているわけではない。昼も夜も時間を見つけては原稿を量産している。たとえば1月8日。午前10時に目覚め、コーヒーを飲んで「『太陽』の原稿に取りかかる。十二時にペラ十枚」とある。「太陽」は平凡社のグラフィック月刊誌。「ペラ」は200字詰め原稿用紙を指している。午前10時から書きだしたのだとすれば時速約1000字、なかなか快調ではないか。

3月6日には「文房具店で池波原稿のできた半分だけゼロックスにする」とある。「ゼロックス」は複写機のメーカー名。当時は、コピーのことをこう呼んだものだ。脚注によると「植草氏は書けた分だけ原稿を渡すので控えが必要だった」。ファクスの普及以前であり、eメールなど想像すらできなかった時代なので、原稿は手渡しか郵送しかない。締め切りが迫れば、書きあげたところから手放していくことになったのだろう。自転車操業状態だ。

それなのに著者は仕事を適当に切りあげ、地元の商店街を歩き、バスや電車で三軒茶屋や下北沢、渋谷、新宿に出て、古書や雑貨を買いあさり、展覧会や演奏会をのぞき、コーヒーを飲んで楽しげな一日を過ごしているのだ。これぞ、人生上手と言うべきだろう。

さて、当欄もようやくここまでたどり着いたが、途中、入りそこねた脇道も多い。その脇道に今度こそ踏み込んで、来週もまたJ・Jワールドにどっぷり浸かる。
*1 当欄2020年4月24日付「JJに倣って気まぐれに書く
*2 当欄2020年5月22日付「もうちょっとJJにこだわりたい
*3「本読み by chance」2015年5月22日「植草甚一のハレにもケをみる散歩術
*4 当欄2022年5月13日付「あるべきものがあるアメニティ
*5 当欄2022年9月16日付「アメニティの本質を独歩に聴く
(執筆撮影・尾関章)
=2023年4月7日公開、同月27日更新、通算673回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

ヴィアン、実存熱をジャズで笑う

今週の書物/
『うたかたの日々』
ボリス・ヴィアン著、野崎歓訳、光文社古典新訳文庫、2011年刊

ピアノ

ジャズと実存主義は相性がいい。ジャン=ポール・サルトル『嘔吐』には、主人公のロカンタンがキャフェでジャズのレコードを聴く場面が出てくる。その曲は、女性歌手がしゃがれ声で歌う“Some of These Days”(「いつか近いうちに」)だ。

このくだりについては、拙稿「サルトルを覚えてますか」(「文理悠々」2010年6月17日付、当時、朝日新聞ウェブサイトに連載)で話題にした。そのときに引用した一節を再引用しよう。「振動は、流れ押し合い、そして行き過ぎながら乾いたひびきで私を撃ち、消えて行く」。ロカンタンはそれをつかまえたいが、そうはいかないことも心得ている。「それは私の指の間に、つまらない、すぐに衰えて行く一音としてしか、残らないだろう」

この体験は、ロカンタンに心地よさをもたらす。「〈嘔気〉の中のささやかな幸福」と呼べるものだった。しかも、歌が“some of these days……”というサビの部分にさしかかると、〈嘔気〉はどこかへ消えてしまう(白井浩司訳=人文書院版『嘔吐』による)。

実存主義は、人間を「実存が本質に先立つところの存在」とみる(*1)。これはジャズの楽曲が「つまらない、すぐに衰えて行く一音」の連なりであることに似ている。一つの音がリズムに乗って一つの歌になるように、人間も一瞬一瞬の〈投企〉によって人生をつくりあげていく――この相似関係ゆえに、実存主義はジャズと相性が合うのだろう。こうして両者は第2次大戦後のフランスで共振し、世界中の若者たちにも広がったのである。

では、2022年の今、ジャズと実存主義はどんな状況にあるだろうか。ジャズの心地よさは、人類に定着したと言ってよい。そのことは、私たちが日常の空間で聞き耳を立てていればすぐわかる。ショッピングモールであれ、ヘアカットの店であれ、居酒屋であれ、そこに小さな音量で流れるBGMはジャズ、ということが多くなった。私たちが若かった1970年代にはジャズはジャズ喫茶で聴くものだったのだが、最近は空気のように遍在する。

では、実存主義はどうか。「新実存主義」という更新版が、20世紀後半の科学の進展などを取り込んで提案されてはいる(*2、*3)。だが、かつてフランス知識人の心をとらえた左翼思想としての実存主義は見る影もない。今春のフランス大統領選挙をみると、左派そのものが衰退している。社会主義の退潮は世界的傾向だが、だからこそ実存主義が右派思想に正面から対抗してもよいはずだ。ところが、その気配はほとんど感じとれない。

で、今週は『うたかたの日々』(ボリス・ヴィアン著、野崎歓訳、光文社古典新訳文庫、2011年刊)。著者(1920~1959)は、フランスの小説家。国立中央工芸学校卒の理系エリートで、エンジニアの仕事をしながら多分野で活躍した。創作のほか翻訳、批評も手がけ、ジャズのトランペット奏者、シャンソン歌手でもあった。この小説は1946年に書きあげた。本書の略歴欄によれば、死後に評価が高まり「現代恋愛小説の古典」になったという。

巻頭「まえがき」には、いきなり「ひとは集団になると間違いを犯す」が、「個人はいつだって正しい」という文言が出てくる。これが、フランス人の多くがナチスドイツに抵抗した直後に執筆されたことを思うと納得する。続けて著者は、人生で「大切」なものは「きれいな女の子相手の恋愛」と「デューク・エリントンの音楽」であり、「ほかのものは消えていい」と言ってのける。実際、この作品では恋物語がジャズの軽快さで語られていく。

「まえがき」には、もう一つ奇妙な宣言もある。この作品について「全部が本当にあった話」と言いながら、「何から何まで、ぼくが想像した物語」と打ち明けているのだ。どういうことか。答えらしき説明もある。著者は創作にあたって、現実を「不規則に波打った歪みのある基準面」に「投影」したという。小説という表現形式に現実世界を虚構世界に移しかえる一面があるのは事実だ。それを理系風に味つければ、こういう言い方になるのだろう。

では、本文に入ろう。冒頭に「コランはおめかしを終えるところだった」とある。風呂あがり、バスタオルで体を巻いている。「爪切りを手に取って、目つきに神秘的な感じを出すために、くすんだまぶたの端をぱちんと斜めにカットした」――???だ。男子が目もとに化粧を施すことはあってよい。だが、まぶたを爪切りで切るなんて自傷行為だ。これが本当の話とは思えない。やはり、「何から何まで、ぼくが想像した物語」なのだろう。

読み進むうちに、コランは22歳男子であり、コック兼執事のような使用人を雇えるほど金持ち、ということがわかってくる。友人のシックに自慢げに見せるのが、発明したばかりの「カクテルピアノ」だ。鍵盤の一つひとつに各種酒類や香料があてがわれている。足もとの強音ペダルは卵を泡立てたもの、弱音ペダルは氷。曲を奏でれば、望みのカクテルのできあがりというわけだ。これも「ぼくが想像した物語」にほかならない。

この小説はなんでもあり――そのことを読者はあらかじめわきまえておくべきだろう。

私が驚いたのは、この「ぼくが想像した物語」が21世紀を先取りしていることだ。たとえば、コラン邸のキッチン風景。コックのニコラは「計器盤を見守っていた」。ローストターキーをオーブンから取りだす頃合いをうかがっているのだ。「ニコラが緑のボタンを押すと、味見センサーが起動した」。センサーがターキーに突き刺さり、計器の針が「ちょうどよし」を指した。五感がセンサーに取って代わられる時代への予感があったのだろうか。

この小説の筋は、このあとコランの結婚やシックの恋愛に突き進んでいくが、それは意表を突く出来事の連続だ。当欄は、そのほとんどをすっ飛ばして、シックが実存主義哲学者ジャン=ソール・パルトルの追っかけだったという一点に焦点を合わせようと思う。パルトルがサルトルのもじりであることは、だれでも気づくだろう。シックは、サルトルゆかりのものならば書物であれ物品であれ、手持ちの金を惜しみなくつぎ込んでいく。

シックが、恋人のアリーズらとパルトルの講演会をのぞく場面がある。偽造のチケットが市中に出回るほどの前人気。会場はごった返していた。後方には片足立ちの人もいる。そこにパルトルが、象の背に設えたハウダ(かご)に乗って登場する。「象は群衆を切り裂いて大またで進み、四本の柱のような脚がにぶい音を立てて人々を踏みつぶしながら情け容赦なく近づいてきた」――実存主義が人間を押しつぶすとは、なんという戯画化か。

パルトルは演壇で講演の準備に入る。そのしぐさには「恐るべき魅力」があり、聴衆のなかには「失神」する女性もいた。まるで往年のロカビリーブームのようではないか。

このときシックは「大きな黒い箱」を持ち込んだ。録音機だ。1940年代だからテープレコーダーということはない。レコード盤に音を刻むのだろう。女友だちの一人が言う。「いいアイデアねえ……」「講演を聞かなくてもすむわね!……」。シックも「家に帰ってから一晩中でも聞けばいいんだ」と答え、レコード会社に掛けあって「商品化」してもいい、という思いつきまで口にする。実存主義を量産品にしてしまうあたりも、時代の先取りだ。

ちなみに、この催しはパリで1945年10月にあったサルトルの講演会「実存主義はヒューマニズムである」をモデルにしているという。現実の講演は、当欄が去年とりあげた『実存主義とは何か――実存主義はヒューマニズムである』(ジャン-ポール・サルトル著、伊吹武彦訳、人文書院「サルトル全集第十三巻」、1955年刊)で追体験できる。聴衆との対話などを通じて、実存主義がマルクス主義とどう違うかを際立たせていた。(*4、*5)

さて、シックは書店で、パルトルの『文字とネオン(レトル・エ・ル・ネオン)』という本を見つける。中身は「電飾看板についての批評的研究」とされているが、これも『存在と無(レトル・エ・ル・ネアン)』のもじりだ。ここでシックは、本の表面にパルトルの指紋まで見つける。日ごろから「指紋採取パウダー」や『模範的警察官便覧』を持ち歩いていて、その小道具を使って検出したのだ。この話にもオチがあるのだが、ここには書かない。

書店主は、パルトルのズボンやパイプも売り込む。ズボンは本人が講演中、自分でも気づかないまま脱がされたものらしい。さらに『嘔吐百科全書』全20巻の原稿も書店に入荷できそうだ、とも思わせぶりに言う。シックは全部をほしがるが、手が出ない……。

この小説は、実存主義のブームを徹底的に笑い飛ばす。ところがその同じ著者が、ジャズを語るくだりでは居住まいを正しているふうだ。たとえば、アルトサックス奏者ジョニー・ホッジスの演奏については「天上的な何かがあった」「説明のできない、完璧なまでに官能的な何か」「肉体から自由になった、純粋状態の官能性」――といった言葉が書き連ねられる。この本の注によると著者はジャズ批評家でもあったようで、その面目躍如だ。

コランがカクテルピアノを骨董屋に売りにだす場面では、骨董屋がデューク・エリントンの「ヴァガボンドのブルース」を弾く。著者はそれを「バーニー・ビガードのクラリネットの真珠を転がすような響きにも劣らない天上的な音色が舞い上がった」と書く。エリントン楽団員ビガードのクラリネット演奏を真珠の転がりにたとえ、骨董屋のピアノ演奏は、それに比肩するほど「天上的」というのだ。ジャズのことは実存主義のようには茶化さない。

この理由を考えるとき、巻末の訳者解説が参考になる。訳者によれば、著者の作品に登場する若者たちは、若い世代が「反体制」的であることが当然視された時代に「政治的意識」と無縁だった。「趣味」に耽り、「消費生活」に浸り、友人関係は「狭い範囲」にとどめている。この行動様式は、たぶん著者自身の生き方に重なっているのだろう。著者にとって、「反体制」熱に浮かされた実存主義ブームはパロディのネタでしかなかった。

私見だが、主人公のコランも、そして著者のヴィアンも、ジャズを愛することで真に実存的だったように思える。「本当にあった話」を「ぼくが想像した物語」に転化する軽快さは即興演奏にも似ていて「肉体から自由になった」実存に近づいているのではないか。

最後に一つ、訳者解説から仕入れた余話を紹介すれば、サルトルは、この作品でパルトルが風刺されていることを大いにおもしろがったという。ブームとしての実存主義をもっとも冷静に見ていたのは、あるいはサルトル自身だったのかもしれない。
*1 当欄2021年1月29日付「実存の年頃にサルトルを再訪する
*2 「本読み by chance」2020年3月27日付「なぜ今、実存主義アゲインなのか
*3 当欄2021年2月19日付「新実存をもういっぺん吟味する
*4 *1に同じ
*5 当欄2021年2月5日付「サルトル的実存の科学観
(執筆撮影・尾関章)
=2022年5月20日公開、通算627回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

ウィーンでミューズは恋をした

「ココシュカ 風の花嫁」
外岡秀俊執筆
『世界 名画の旅4 ヨーロッパ中・南部編』(朝日新聞日曜版「世界 名画の旅」取材班、朝日文庫)所収

ウィンナコーヒー〈濃いめ〉

ウィーンは、ただの芸術の都ではない。芸術革新の都でもあった。19世紀末から20世紀初めにかけて、繁栄と貧困が混在する帝都に絵画や建築の新潮流が起こる。分離派である。官能の画家グスタフ・クリムトも、その旗を振った。そんなことを先週は書いた。(*)

分離派の運動は、芸術分野で旧時代と切り離された新時代の作品群を生みだそうというものだった。それで気づくのは、同様の動きが別分野にもあったことだ。分離派よりもやや遅れて1920~1930年代、学術分野に旋風を巻きおこしたのが「ウィーン学団」だ。

ウィーン学団は、ウィーン大学を拠点に文系理系の研究者が専門の違いを超えて議論をたたかわせた学者集団である。形而上学を排して哲学の科学化をめざし、論理実証主義を重んじた。物理学者であり、哲学者でもあるエルンスト・マッハの影響を強く受けている。

ここまでのことでわかるのは、ウィーンはオーストリア・ハンガリー二重帝国の末期、芸術と学術の坩堝であったことだ。その片鱗をうかがわせる記述は、先週とりあげた記事「クリムト 接吻」(外岡秀俊執筆、朝日新聞日曜版連載「世界 名画の旅」1985年8月4日付)にもあった。当時の帝都には、性を禁忌とする表の顔と性に耽溺する裏の顔があったが、その「二重基準」と向きあった科学者に精神医学のシグムント・フロイトがいたという。

そんなウィーンの空気が横溢するのが、同じ連載の別の回「ココシュカ 風の花嫁」(外岡秀俊執筆、朝日新聞日曜版連載「世界 名画の旅」1987年2月8日付)という記事だ。これも、『世界 名画の旅4――ヨーロッパ中・南部編』(朝日新聞日曜版「世界 名画の旅」取材班著、朝日文庫、1989年刊)で読むことができる。オスカー・ココシュカ(1886~1980)はオーストリア出身の画家、「風の花嫁」は彼が1914年に仕上げた油彩画である。

「風の花嫁」に描かれた女性のモデルは、アルマ(1879~1964)だ。記事に姓はない。彼女の人生を語るときに姓が馴染まないからだろう。父親は貴族の家系に連なる画家だったが早逝、その後、母は父の弟子と結ばれる。自身も長じてから、結婚を3回経験している。だから、彼女の生涯を一つの姓で括ることには無理があった。いや、それだけではない。アルマ自身が家に縛られることのない自由な生き方を追求していたのである。

アルマの恋人や夫たちを並べてみると、その顔ぶれに驚く。初恋の相手は、当欄が先週とりあげた絵描きのクリムトだった。ただ、この恋は、アルマの母親が割って入って打ち切られる。母は娘の日記を盗み見て「早すぎる」と判断したのだ。最初の結婚相手は、すでに名声を博していたオーストリアの作曲家・指揮者のグスタフ・マーラーだ。二人の結婚生活は8年間続き、子どもにも恵まれたが、マーラーの病没によって終止符が打たれた。

二人目の夫は、ドイツで活躍していた建築家ヴァルター・グロピウス(記事の表記では「グローピウス」)だ。モダニズム建築の巨匠である。三人目はオーストリアの詩人で、劇作家、小説家でもあるフランツ・ウェルフェルだ。アルマの恋人や夫たちが打ち込んだものは、絵画、音楽、建築、そして文学。芸術のほぼ全領域を覆う。別々の分野でそれぞれ大仕事をしていた芸術家たちが同じ一人の女性に魅せられたという事実には圧倒される。

ウィーンの芸術家人脈は科学者人脈にもつながっていた。たとえば、マーラーはフロイトに接触している。夫婦仲がギクシャクしていることに悩み、精神医学にすがったのだ。もともとの原因は、マーラーが結婚当初、音楽の才能に秀でたアルマの作曲活動を認めようとしなかったことにあるのだが、彼は精神分析を依頼した。夫は妻に母親像を追い求め、妻は夫に父親像を見ようとしている、というのがフロイトの見立てだった。

で、今回の本題。アルマを取り囲む華麗な人脈でとりわけ輝いて見えるのが、「風の花嫁」の作者ココシュカだ。見かけのうえでは、アルマの最初の結婚と二番目の結婚の間で中継ぎの恋愛相手を務めたに過ぎない。だがその関係は、短くとも強烈なものだった。

ココシュカは1912年春、アルマ邸に呼ばれる。肖像画の発注を受けたのだ。マーラーは前年に亡くなっている。アルマは喪服姿だった。横顔のスケッチが始まる。「深く澄んだ目。通った鼻筋。ふくよかな成熟を示すほお」。アルマはピアノを奏でる。ココシュカは、その姿を描きとめようとした。瞬間、咳き込み、ハンカチを口に当てる。血がにじんでいた。この出来事に「ココシュカはいきなりアルマを抱きすくめ、逃げ去った」という。

こうして二人の恋が始まる。アルマ32歳、ココシュカ26歳。ココシュカは斯界では「強烈な表現」や「挑戦的な言辞」で知られた存在だった。アルマに対しても、いきなり「生涯の伴侶(はんりょ)になって下さい」と書いた手紙を送る。本人は求婚のつもりだったようだが、アルマはこれを求愛とだけ解釈して受け入れた。こうして二人は2013年、スイスとイタリアに旅行する。このときに着想されたのが「風の花嫁」だった。

その絵は、深い青を基調にしている。荒波の海だ。風が吹いている。一組の男女が小舟に揺られ、横たわっているように見える。女性が男性の肩に頬を寄せているから、恋人同士なのだろう。女性は「うっとり」目を閉じている。これに対して、男性の「虚空にすえたまなざし」は「不安とも悲愁ともつかない色」をたたえている。ココシュカは、恋愛の絶頂期でも不吉な予感を拭えなかったのだろう。そして現実も、その通りの展開となる――。

1914年、アルマはココシュカの子を身ごもる。ココシュカは子をほしがったが、アルマは産まなかった。この年、第1次世界大戦が勃発する。ココシュカは結婚の望みを絶たれ、志願して軍隊に入った。このとき「風の花嫁」を売り払い、その代金で馬を買いつけて出征したという。絶望感が深かったのだろう。一方、アルマは翌年にはグロピウスの妻となっている(この結婚年は、ウィキペディア英語版=2022年4月24日最終更新=による)。

筆者外岡は、この失恋の理由をココシュカ資料保管所長のウィンケラー氏から聞いている。氏の見解によれば、ココシュカもアルマに「母親像」を見ようとしたが、アルマが欲したのは「自由」と「旅」だった。「風の花嫁」はもともと「情熱的な赤の色調」だったが、それを「憂いを含む青ざめた色調」に塗りかえていったという。ここまでなら、年下のマザコン男が年上の恋多き女にふられる話だ。だが、この顛末はそれにとどまらない。

外岡はウィーンのカフェで、アルマの孫にも会っている。マーラーとの間にできた子どもの子で、名は祖母と同じアルマだ。夜泣きしても「祖母の姿を見ただけでぴたりと泣きやんだ」という幼時体験を披露しつつ、祖母を「さまざまな芸術家に霊感を与えたミューズ」と位置づけた。ウィンケラー氏も同じ言葉を用いて、アルマがココシュカの求婚を拒んだ深層心理を読み解く。「彼女は、ミューズの地位を失うことを恐れたのかもしれない」

ミューズとは、ギリシャ神話に出てくる9人姉妹の女神たちのことだ。詩神と呼ばれたりもするが、もともとはあらゆる知的営みをつかさどる存在を指したという。だから、祖母アルマに「ミューズ」を見いだした孫アルマの目は的を外していない。

この記事を読むと、当時のウィーンでは芸術や学問の濃度が比類ないほど高かったことを実感する。高濃度だから、ミューズを結節点とするネットワークが生まれたのだ。
*当欄2022年4月29日付「ウィーン、光と翳りとアドルフと
(執筆撮影・尾関章)
=2022年5月6日公開、通算625回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

「渡し」で出会う人生の偶然

今週の書物/
『「渡し」にはドラマがあった――ウーラントの詩とレーヴェの曲をめぐって』
ウーラント同“窓”会編、発行所・荒蝦夷、2022年1月刊

リースリング

今週も渡し船に乗り続ける。19世紀ドイツのロマン派詩人ルートヴィヒ・ウーラントの「渡し場」という詩と、それを旋律に乗せたカール・レーヴェの歌曲をめぐる話だ。詩は、ライン川水系ネッカー川が舞台。主人公は、かつて同じ渡しに乗った亡き友に思いを寄せて……。その情景が日本人の心も動かし、詩想を語りあう人々の交流が新聞の投書欄を経由して広がったことを先週は書いた。それを「昭和版ネットワーク」と呼んだのである(*)。

私が読んだのは、『「渡し」にはドラマがあった――ウーラントの詩とレーヴェの曲をめぐって』(ウーラント同“窓”会編、発行所・荒蝦夷、2022年1月刊)という本。昭和版ネットワークに連なる人々が、めいめいの視点で交流秘話を綴っている。

当欄が今回とりあげようと思うのは、人間社会にネットワークが生まれるとき、そこに偶然が関与してくることだ。この本には、この人とあの人がつながったのは偶然の妙があったからだ、とわかるエピソードが随所に出てくる。そのいくつかを拾いあげよう。

偶然がいっぱい詰まっているのは、松田昌幸さんの回顧だ。松田さんは電機会社の社員だった1970年代半ば、NHKのラジオ番組「趣味の手帳」で「渡し場」のことを知った。番組は、1956年の朝日新聞「声」欄がきっかけとなり、この詩を愛でる人々がつながったことを伝えていた。一度聴いて心に残ったが、幸運にも再放送があった。松田さんはそれをとっさに録音し、話の要点をカードにメモして、ファイルに綴じ込んでおいた。

松田さんが60歳代半ばになった1990年代末のことだ。妻が掃除中、ファイルからはみ出たカードを見つけた。偶然にも、この録音のメモだった。もう一度聴きたいと思ったが、テープが見つからない。ここで、たまたまテープのコピーを友人に贈っていたことが幸いする。その音源で番組を再聴した。「渡し場」について、もっと知りたくなる。思い立つとまず、「声」欄投書の反響を記事にした『週刊朝日』1956年10月7日号を探した。

ここでも、偶然のいたずらがある。松田さんが国会図書館に行くと、この雑誌は1956年10月分だけが欠落していたという。探しものに限ってなかなか出てこない――これは、私たちがよく体験することだ。結局、この号は東京・立川の公立図書館で見つけた。

松田さんの話で最大の偶然は、小出健さんとの出会いだ。小出さんは1956年、渡しが主題のあの詩は誰の作品か、と問うた猪間驥一さんの「声」欄投書に返信を寄せた人の一人である。『週刊朝日』にはウーラント「渡し場」の邦訳も載り、猪間さんとの共訳者として小出さんの名があった。この人に会ってみたい――幸い、誌面には住所が載っていた。番地こそないが、町域は記されている。個人情報保護に敏感な今ならばなかったことだろう。

このときの興奮を、松田さんはこう書く。「私の脳裏にボンヤリと“小出健”なる表札のイメージが浮かんでくるではないか。それもその筈、私の家から7軒目にあることに気が付くのに時間はかからなかった」。こうして二人はめぐりあい、意気投合するのである。

小出さんは2006年、松田さんに誘われてレーヴェの音楽会に出かける。そこで歌曲「渡し」を聴き終えたとき、立ちあがって一礼した。その光景が朝日新聞のコラム『窓』で紹介され、「ウーラント同“窓”会」という21世紀版のネットワークが芽生えたのだ。

「同“窓”会」は、昭和版ネットワークを引き継ぎながら新しい様相も帯びている。IT(情報技術)を取り込んで、さらなる広がりを見せているからだ。松田さんは、自身のウェブサイトでウーラント「渡し場」の話題を広めた。それを見て同“窓”会の存在を知り、仲間に入ったのが当欄に前回登場した中村喜一さんだ。先週書いたことだが、中村さんも今、自分のサイト内に「友を想う詩! 渡し場」のサブサイトを開設している。

中村さんが松田さんに初対面するまでの経緯も微笑ましい。松田さんのウェブ発信で、松田邸が小出邸の近所にあるとの情報を得た。小出邸の所在地は『週刊朝日』の記事で大まかにはわかっている。それをもとに「住宅地図とGoogle Street View」を駆使して松田邸の住所を突きとめ、「書状」で打診してから訪問したという。ストリートビュー、住宅地図、手紙、面談。デジタルとアナログが見事に組み合わされているではないか。

この本は、「渡し場」の詩だけではなく、その歌曲「渡し」にこだわる人々の軌跡もたどっている(邦題で「場」の有無は、原題に前置詞“auf”があるかないかに拠っている)。猪間さんも、詩がウーラント作だとわかると今度は曲探しに乗りだした。1961年の欧州滞在時には、ドイツの新聞に働きかけて記事にしてもらった。この時点では歌曲があるかどうかも不確かだったので、曲がないなら曲をつくってほしい、とも呼びかけたという。

詩「渡し場」にレーヴェが曲をつけているという情報は1973年、朝日新聞名古屋本社版「声」欄の投書でもたらされた。ウーラントの故郷テュービンゲンに留学経験のある大学教授からのものだった。曲の探索でも新聞が情報の交差点になっていたことがわかる。

1973~1975年には、譜面を手に入れたい、という投書が「声」欄に相次いだ。このうち1975年の1通に対しては、ドイツからも反響があった。国際放送局ドイチェ・ヴェレのクラウス・アルテンドルフ日本語課長からの報告だ。レーヴェの曲について作品番号まで調べてくれていたが、「これまでの確認では、この曲の録音はない。もちろん、楽譜ならあると思うのだが」と書かれていた。本国でも、そんなに有名な歌ではなかったらしい。

ところが、ここから急進展がある。丸山明好さんという人が、アルテンドルフさんに書面でさらなる探索を頼んだのだ。丸山さんは中央大学で猪間さんの教え子だった。手紙には恩師とウーラント「渡し場」との縁なども記した。ドイチェ・ヴェレはこれで奮起したのだろう。大学の研究者の力も借りて「渡し」の楽譜を発掘、それだけではなく東ドイツ(当時)の歌手が歌ったという音源が西ベルリンの放送局に残っていることも突きとめてくれた。

1975~1976年、楽譜と録音が丸山さんの手もとに届く。その結果、レーヴェの歌曲「渡し」もウーラントの詩「渡し場」と同様、日本の愛好家に共有されたのである。

余談だが、丸山さんには、この録音をめぐって忘れがたい思い出がある。1988年、ドイツを旅行中のことだ。特急列車に乗ったとき、アタッシェケースに「渡し」のカセットテープを入れていた。あの歌をハイデルベルクのネッカー川河畔で聴きたい、そんな思いがあったからだ。ところが、駅で下車したとき、手荷物がないことに気づく。置き引きに隙を突かれたのだろう。テープは、アタッシェケースもろとも失われてしまった。

ところが2日後、アタッシェケースが警察からホテルに届けられる。中身の金品は奪われ、テープレコーダーもなかったが、なぜかテープは残されていた。「ドイツの泥棒さん」は「几帳面で親切(?)だ」と感じ入り、いっぺんにドイツ好きになったという――。この本には、こんな小さなドラマがいっぱい詰め込まれている。書名のもととなった元朝日新聞論説委員高成田享さんのコラム表題のように「『渡し』にはドラマがある」のである。

考えてみれば、私たちの日常は偶然の積み重なりで進行している。偶然が人と人との間に思いがけない出会いをもたらし、そのつながりが人生をドラマチックに彩ってくれるのだ。この本は、そのことをさりげなく教えてくれる先輩たちからの贈りものと言ってよい。
*当欄2022年2月18日付「渡し』が繋ぐ昭和版ネットワーク
(執筆撮影・尾関章)
=2022年2月25日公開、同月27日最終更新、通算615回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。