量子もつれをふつうの言葉で語る

今週の書物/
ノーベル物理学賞(2022年)プレスリリース
スウェーデン王立科学アカデミー、2022年10月4日発表

粒子のもつれ

盆と正月がいっぺんに来たとは、こういうことを言うのか。10月4日午後7時前、ノーベル物理学賞の発表をストックホルムからのインターネット中継で見ていたときのことだ。

発表前、そわそわする気持ちを静めるように私はつぶやいた。「とってほしいのはアラン・アスペ、アントン・ツァイリンガー……」。数分後、スウェーデン王立科学アカデミーの事務総長らが着席、おもむろに読みあげた発表文に彼らの名前があった。私にとって意中の人二人の受賞がいっぺんに決まったのである――。

発表によると、今年の物理学賞はアラン・アスペ(フランス)、ジョン・F・クラウザー(米国)、アントン・ツァイリンガー(オーストリア)の3氏に贈られる。授賞理由には「量子もつれの関係にある光子の実験で、ベルの不等式の破れを確かめ、量子情報科学を切りひらいた」とある。(以下、敬称略)

ここに出てくる「量子もつれ」「ベルの不等式」については後述する。「量子情報科学」は20世紀末に台頭した物理学の新分野。そこで実証された量子力学核心部の不可解さは、量子コンピューターや量子暗号など最近よく耳にする技術の土台になっている。

私は1990年代半ば、ロンドンの駐在記者だったとき、量子情報科学の潮流に気づいた。1995年の春夏、欧州各地の大学や研究所で取材して、東京帰任後の10~12月に朝日新聞科学面(夕刊)の連載「量子の時代」で報告した。紙面にすべてを書ききれなかったので、後日『量子論の宿題は解けるか――31人の研究者に聞く最前線報告』(講談社ブルーバックス、1997年刊)も上梓した。31人のうちの二人がアスペとツァイリンガーである。

ご両人の思い出は尽きない。アスペは、古い実験機材が眠る物置まで見せてくれた。ツァイリンガーは、量子力学研究の大御所に引きあわせてくれた……。ただ当欄は今回、そういう話はしない。今週は、ノーベル物理学賞のプレスリリース(スウェーデン王立科学アカデミー作成)に的を絞り、その英語版をノーベル賞の公式サイト(*)からとりだして「書物」として読もうと思う。Pdf化されたものを印字するとA4判1枚。とても短い。

短いことには理由がある。細部に立ち入らず、要点のみを書いているからこうなるのだ。

今回の受賞研究は、いずれも光子、即ち光の粒を扱っている。実験で観測するのは、光子の偏光という性質だ。サングラスを選ぶときに話題にのぼる、あの偏光だ。このため、受賞研究の全貌を理解するには、偏光とは何か、それが偏光フィルターを通るとどうなるかを予備知識として学んでおくことが必要になる。逆を言えば、話が具体論に入ると、そこに躓きの石がたくさん待ち受けているのだ。科学を語るときには、こういうことがままある。

科学は、ひと握りの科学者だけのものではない。それがもたらす新しい世界像は私たちも均しく分かちあうべきだ。細部は捨てても、要点だけは押さえておきたい。今回の受賞研究に即して言えば、「偏光」がわからなくとも「量子もつれ」が何かは知っておきたい。

で、プレスリリースは「量子もつれ」をこう説明する。「量子もつれの関係にある粒子対は、それらが遠く離れていても、一方の粒子に起こることがもう一方の粒子に起こることを決定する」。別の箇所には、量子もつれの状態では「二つの粒子が分離していても単一のもの(a single unit)のように振る舞う」とする記述もある。こんな話を聞けば、物理学では大変なことが起こっているのだな、と思う人がふえるに違いない。

それがどれほど大変かは、プレスリリースを離れて私自身が補足説明しよう。旧来の物理学では、A地点の出来事がB地点の出来事に影響を及ぼすとき、A地点の情報がB地点に届く必要があった。このとき、伝達速度が光速を超えることはない。ところが量子力学によれば、A地点の粒子aとB地点の粒子bが量子もつれの関係にあるとき、a、bの観測結果が〈いっせいのせい〉で一気に決まる。これは、世界観がひっくり返る話ではないか。

授賞理由には、もう一つ「ベルの不等式」という専門用語があった。これは、ジョン・スチュアート・ベルという北アイルランド生まれの理論物理学者が1960年代に考えだした不等式だ。これを解説したくだりを要約すると、こうなる――。

量子もつれの粒子対にみられる「相関」(correlation)は、それらが身につけた「隠れた変数」に起因するのではないか、という懐疑が長くくすぶっていた。隠れた変数は、粒子の観測結果がどうなるかをあらかじめ指示するなにものかだ。ベルの不等式は、粒子同士の相関が隠れた変数によるものなら、実験で示される相関度には上限値があることを示した。一方、量子力学はこの上限値を超えるような強い相関の存在を予言していた。

隠れた変数説は、〈いっせいのせい〉には台本があるという見方。この立場をとれば、量子力学が言う量子もつれは幻想だということになる。正しいのは隠れた変数説か量子力学か。ベルの不等式はそれを実験で検証するお膳立てをしてくれたのである。

受賞が決まった3人が登場するのは、ここからだ。量子もつれの光子対をつくり、2光子を逆方向に飛ばして相関を調べる実験に最初に挑んだのはクラウザーだった。実験は量子力学を支持したが、隠れた変数説を完全には否定できなかった。「抜け穴」があったのだ。

その抜け穴をできる限り小さくしようと実験装置に工夫を凝らしたのが、アスペである。それは、量子もつれの光子対を光源から放った後、瞬時に測定システムの設定を切りかえて当初の設定が観測結果に影響を及ぼさないようにしたものだった。

ツァイリンガーも、ベルの不等式の破れを実験で調べているが、このプレスリリースでは主に量子テレポーテーションの開拓者として位置づけられている。これは粒子の量子状態を遠方の別の粒子にそっくり転送する試みで、量子もつれの応用例といえる。

このプレスリリースにはこんな記述がある。「言葉では言い表せない量子力学の効果(the ineffable effects of quantum mechanics)に応用の道が見えてきた。今や量子コンピューター、量子ネットワーク、量子暗号に守られた通信など広大な研究分野が存在する」

量子コンピューターや量子暗号は最近、成長戦略や経済安全保障の文脈でもてはやされている。ということは、物理学者でない私たちも無関心でいられない。変な使われ方をしないか、見張っていく必要もあるからだ。そのためには、量子力学とは何かをざっくり知っておかなくてはならない。「量子もつれ」が「言葉では言い表せない」ものでも、その本質はやはり言葉で語るべきなのだ。この点で、今回のプレスリリースは貴重な参考文献になる。
*ノーベル賞の公式サイトはhttps://www.nobelprize.org/
(執筆撮影・尾関章)
=2022年10月7日公開、同月9日最終更新、通算647回
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女王去って連邦は悩む

今週の書物/
読売新聞、東京新聞、朝日新聞各紙の2022年9月20日付朝刊

王室

英国はすごい、と目を見張ったのは1994年、ネルソン・マンデラ大統領の新体制となった南アフリカ共和国が直ちに英連邦(the Commonwealth)に再加盟したこと、そして翌年、エリザベス英女王の訪問を手厚く迎えたことだ。人種隔離政策アパルトヘイトによる「白人支配」を終わらせた政権がなぜ、かつて植民地支配していた旧宗主国になじみ、微笑みかけようとするのか。この展開に驚いた人や首を捻った人もいたに違いない。

南アは1931年に独立すると英連邦に加わるが、1961年には離脱している。人種隔離政策に国際社会の批判が集まっていたことが背景にある。その政策を捨てたのだから、元に戻れるということなのだろう。だが、わざわざ戻る必要もないではないか。

そのころ、私はロンドン駐在だった。新政権の樹立を挟む1993年と1995年には任地から南アへ出張もした。目的は南アの核兵器放棄について取材することだったが、その合間に現地で人種間の緊張も垣間見た。たとえば、タクシーで「黒人」の運転手と世間話をしていると、辛辣な「白人」観を聞かされたものだ。ただ、このとき「アフリカーナー」と呼ばれるオランダ系住人は散々な言われ方だったが、英国系はさほど嫌われていなかった。

運転手との世間話という小さな私的体験を根拠に英国の植民地主義をどうこう言うことは控えるべきだろう――そう自戒していたときに英女王の南ア訪問があったのだ。私が現地で受けた印象はあながち的外れではなかった。これは、大英帝国の植民地統治が巧妙だったのか。それとも、南アには欧州の入植者が複数の民族だったという特殊事情があって、英国系が相対的に善玉扱いされたということなのか。私には即断できない。

で今週は、書籍ではなく、エリザベス女王の国葬報道で英連邦を考えてみる。

私は女王国葬の当日、葬儀と葬列を米CNNでずっと見ていた。もっとも印象に残ったのは、英連邦に対する配慮が半端ではない、ということだった。葬儀の冒頭、要人たちが聖書を読む場面で、英国のリズ・トラス首相よりも先に朗読に立ったのがパトリシア・スコットランドという女性だ。肩書は「英連邦事務総長」。帽子の陰から褐色の顔がのぞく。この葬儀が、英国というよりも英連邦のものであることを感じさせる式次第だった。

スコットランド事務総長の横顔に触れておこう。英連邦の公式サイトによると、彼女はドミニカ国生まれ、カリブ海諸国出身では二人目、女性としては初の事務総長だという。いや、それだけを紹介したのでは不十分だ。英文ウィキペディアには、彼女が英国の外交官、弁護士であり、労働党の政治家だという記述がある。「英国とドミニカ国の二重国籍である」とも書かれている。この二重性こそが英連邦のありようを体現しているように思われる。

そもそも、英連邦とは何か。公式サイトにある一文を訳せば、こうなる。「英連邦は、対等な関係にある56の独立国の自発的意思にもとづく連合体である」――ただ、原文に「英連邦」はなく、“The Commonwealth”とあるだけ。「英連邦」は訳語に過ぎない。サイトには「加盟国政府は、開発や民主主義、平和のような目標を共有することで合意している」とも書かれている。この連合体は、ただの仲良しクラブということか。

ところが話は、そう簡単ではない。連邦は二重構造なのだ。そのことは英連邦の公式サイトに明記されていないが、英王室の公式サイトに入るとわかる。“Commonwealth realms”という用語が出てくるのだ。「エリザベス女王を君主とする国」(当欄の公開時点では、この記述が女王存命時のままとなっている)を指すという。邦訳は「英連邦王国」。英国以外の英連邦加盟国のうち14カ国は、英国と同一の人物を君主としているのである。

独立、対等を旨とする国々の連合体でありながら、加盟国の約4分の1はうち一つの国の君主を自国の君主に定めている。英連邦王国のつながりはふつう〈同君連合〉とみなされないが、形式的にはそう呼んでもおかしくない状態にある。矛盾を含む構造である。

その英連邦が、国葬で格別の扱いを受けたのは聖書朗読だけではなかった。読売新聞のロンドン電は「参列者の席順/英連邦を重視」と伝えている。会場では、女王の棺に近いところから英連邦王国、そのほかの英連邦諸国の順に参列者の席が並んだという。記事は、米国大統領に用意された座席が14列目だったという地元の報道に触れ、英国は英米関係を特別視しているが「国葬では英連邦の関係性を優先させた」と分析している。

東京新聞は、英連邦に焦点を当てたロンドン電でこんな見方もしている。「欧州連合(EU)からの離脱で国際的な評価が傷ついた英国は、以前よりも英連邦を重視している」。これも腑に落ちる指摘だ。私の実感では、英国人の欧州大陸に対する距離感は私たちが想像するよりも大きく、アジア・アフリカに対するそれは想像以上に小さい。このことは、英国メディアがどんな国際ニュースを頻繁にとりあげているかを見るとよくわかる。

手厚いアジア・アフリカ報道からは旧宗主国の〈上から目線〉も感じられる。だが、それだけではない。英国には、旧植民地からやって来た人々やその子孫が大勢いる。そのなかには、前述のスコットランド氏や先日の保守党党首選を最後まで争ったリシ・スナク氏のように社会の中枢を占める人たちもいる。英国は多民族社会であり、英連邦はそれを支える〈ふるさと連合〉なのだ。ただ、それはあくまで英国側の視点に立った話と言えよう。

現実に、英連邦の内部には反発もある。朝日新聞国際面の記事は「アフリカ大陸からは、女王への追悼の声が上がる一方で、英国の過去の植民支配や弾圧への憤りも聞かれた」としている。「憤り」の例に挙がるのは、ケニア人女性のツイッター発信だ。1950~60年代の独立闘争では祖父母世代が英国に「弾圧された」、だから自分は女王を「追悼することができない」――。これを読むと、私が南アで受けた印象はやはり例外的なのかとも思う。

英連邦王国では、その変則的な君主制に対して違和感が生じているようだ。同じ朝日新聞国際面の記事によると、英連邦王国の一つ、カナダのトルドー政権は国葬当日を休日扱いにしたが、国内にはこれに同調しない州も複数あったという。かつてフランス人の入植も盛んで、フランス語で暮らす人々が多いケベック州はその一つ。州首相は「子どもの登校日を減らすのは避けたい。パンデミックで既に、十分だ」と語ったという。

同様に英連邦王国であるオーストラリアには、君主制をやめようという動きがある。「与党労働党は共和制移行を党方針に掲げている」(東京新聞)、「アルバニージー首相は共和制移行に向けた議論をするため、担当副大臣を任命した」(朝日新聞)という状況なのだ。女王への追悼機運で移行にブレーキがかかっているようだが、英連邦王国の人々には、なぜ王様を海の向こうから借りてこなくてはならないのか、という思いもあるだろう。

東京新聞のロンドン電には思わず苦笑した言葉がある。女王弔問の列に並んでいた人から聞きとったひとことだ。その人の妹は英連邦王国の一つ、ニュージーランドに在住だが、「共和制になったら『変な大統領』が誕生しかねない」と心配している、という。この懸念は、ここ10年ほどで急に現実味を帯びるようになった。君主制をやめるときには「変な大統領」が出てこないしくみを考えなくてはならない。これは心にとめておくべきだろう。

それにしても、である。私たちは――少なくとも私は――英女王の国葬にうっとり見とれてしまった。そこには、生涯の職務を全うした人に対する敬意があった。伝統に裏打ちされた厳かさがあった。そしてなによりも、美しかった。と同時に、凋落した旧帝国の思惑が見え隠れしていた。過去の植民地支配の苦い記憶も聞こえてきた。さらに、君主制懐疑の風も吹きつけている。女王は死してなお、歴史を映す鏡になっているとは言えないか。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年9月30日公開、通算646回
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女王で思うミス・マープル噂の村

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『ミス・マープル最初の事件――牧師館の殺人』
アガサ・クリスティ著、山田順子訳、創元推理文庫、2022年刊

ティー

初秋の朝、英国からエリザベス女王の訃報が届いた。私の心に残ったのは、英国放送協会BBCの第1報だ。年配のキャスターが暗い色調の服に身を包み、淡々と伝える。「王室の発表によれば、女王はきょう午後、バルモラル城で“peacefully”に逝去しました」。“peacefully”は、この文脈では「安らかに」と訳すべきだろう。だが、私には「平和裏に」と聞こえた。その静かな死は、女王がキナ臭い世界に向けて発した遺言のように思えたからだ。

英国の王室というのは、不思議な存在だ。「君臨すれども統治せず」というが、その「君臨」とは何か。私がロンドン駐在の記者時代に驚いたのは、議会での女王演説だ。女王が、施政方針を読みあげる映像がテレビに流れていた。その政策はもちろん、議会によって選ばれた内閣が決めたものであり、女王の見解ではない。ここには女王の人権を度外視した虚構があるが、なぜかそれを問わない。どうしてこんなことを続けているのだろうか。

英国の議会と王室をめぐる諸々のしきたりについては、先輩記者からいろいろと教わった。そこには、かつて国王との間にあった緊張感を今も忘れない、という議会の決意があるという。なるほど、そうかもしれない。民主主義国家であっても絶対君主のような権力者がいつ現れるかわからない。それを抑えるのは、民主主義が王権よりも優位にあることの不断の確認だ。この作業で仮想の敵役を演ずるのが女王ということになる。

つまり、女王はたまたま王室の一員として生まれたために、自分の人権を一部犠牲にしてきた。それでも、一個人として自分を見失うことはなかったように思える。考えてみれば、あの“annus horribilis”(ラテン語で「酷い年」)発言も、ただの弱音ではなかった。

1992年11月、私がロンドンに着任後まもなくのことだ。この年、英国では王族夫婦の別居や離婚が相次ぎ、ウインザー城の火災もあった。女王にとっては在位40年の区切りだったが、その記念式典で「酷い年となった」と内心の思いを吐露したのだ。私はこの言葉を聞いたとき、ずいぶん率直な人だなあと思った。率直というのは理知的であるということだ。自分を客観視して心の整理をつけているからこそ正直になれる。

そんな英国人高齢女性の利発さを思い返していてすぐに思いだされるのが、クリスティ作品の素人探偵ミス・マープルだ。で、今週はマープルものを読もう、と思って書店に出かけた。選んだのが『ミス・マープル最初の事件――牧師館の殺人』(アガサ・クリスティ著、山田順子訳、創元推理文庫、2022年刊)だ。原著の発表は1930年。この邦訳は、出版元の東京創元社が「名作ミステリ新訳プロジェクト」の1冊として刊行している。

マープルは、当欄やその前身ブログに一度ならず登場している(*1、*2)。『予告殺人』(アガサ・クリスティー著、羽田詩津子訳、ハヤカワ文庫)と、『パディントン発4時50分』(アガサ・クリスティー著、松下祥子訳、ハヤカワ文庫)だ。幸い、行きつけの書店に在庫があった『牧師館…』は未読だった。ならばこれにしよう、と決めたわけだ。余談だが、Agatha Christieの日本語表記がハヤカワと創元で異なることを今回初めて知った。

さっそく『牧師館…』を開いてみると、マープルものの「最初の事件」らしく、事件はジェーン・マープルが暮らすセント・メアリ・ミード村で起こっている。それも、マープル邸の隣地が現場だ。読者にとってうれしいことに、巻頭にはその一帯の地図がある。

駅から表通りが延び、片側に商店が並んでいる。向かい側には庭付きの住宅群。うち一つがマープル邸だ。その隣に牧師夫妻の居宅牧師館や開業医の家がある。表通りの四つ辻には教会、そしてパブ兼宿屋「ブルーボア(青い猪)亭」。周辺には畑地もあり、住宅群の後方に森も広がっている。森の小径は治安判事の屋敷「オールドホール」に通じているらしい。あるべきものがあるべき場所にある――典型的な英国の田園風景だ(*3)。

この作品は、牧師の一人称で書かれている。だからマープル像は、牧師の目に映ったものだ。「ミス・マープルはおだやかで、ものしずかな白髪の老婦人」、それでいて「危険な人物」でもある――。こんなふうに描写されるのは、村の高齢女性4人が午後のひととき牧師館に集まり、お茶会を楽しむ場面。マープルの発言を聞いていると村の人々に対する観察も人物評もお茶会仲間より一枚上手、通りいっぺんの見方をしないのだ。

たとえば、古墳発掘のために村に滞在し、青い猪亭に宿泊している男女が話題になったとき。男性は考古学者を名乗り、女性はその秘書だという。どちらも結婚していないらしい。お茶会仲間の一人が、その秘書をあげつらって「育ちのいい女性ならあんなまねはしませんよ」「独身男性の秘書になるなんて」と顔をしかめると、マープルは「おや」と驚いてみせて「わたしは既婚男性のほうが油断ならないと思いますよ」と言ってのける。

村には、若手の画家が畑の一角の小屋に住みついている。この青年の行状もお茶会仲間の関心事だ。画家は治安判事の娘をモデルに水着姿の絵を描いており、それを知った判事との間でひと悶着あったという話も飛びだす。仲間の一人は「この若いふたりのあいだには、なにかあるんでしょうかね?」「ありそうな気がするんだけど」と勘ぐるが、マープルは「そうは思えないわね」と同調しない。「なにかある」のは別人だ、とにらむのだ。

お茶会の終わり、牧師はマープルに直言する。この村の人々は「おしゃべりがすぎる」という苦言だった。これに対して、マープルは「あなたは世間をごぞんじない」と切り返す。「長いあいだ人間性なるものを観察していると」「多大な期待などしなくなる」と打ち明けて、「根も葉もない噂」にも「真実」が潜んでいることがよくある、と諭すのだ。噂は無批判に信じてはいけないが、「真実」に迫るには聞いておいたほうがよいということか。

その日の後刻、牧師は画家と女性のキスシーンを目撃する。女性は、治安判事の娘ではない。彼女の継母、即ち判事の妻だった。「自制的」と思われている人だ。「マープルの眼力」が「目先の出来事」に惑わされず「物事の本質」を見抜いたことに牧師は感心する。

事件は翌日の夕、牧師館で起こる。治安判事が書斎で牧師の帰宅を待っていたとき、後頭部を銃で撃たれ、息絶えたのだ。謎めいたことが多かった。その一つは、牧師が面談を約束した時刻に不在だったことだ。彼は、教区に住む病人が危篤との電話を受けてその家に出向いたのだ。ところが訪ねると、病人の体調は安定していた。だれかがニセの電話をかけたらしい。殺人事件として捜査が始まると、画家が警察に自首してきた――。

このあたりから、ミス・マープルが事件の謎解きにかかわってくる。当欄は、その過程で見えてくるマープル流推理のクセを拾いあげたいのだが、それはやめる。ネタばらしを避けるためだけではない。この小説では、事件解決の途中段階でマープルが考えていたことが終盤になってひっくり返ることも少なくないからだ。彼女は時々刻々、自分の考えを変えている。なにごとも疑ってかかり、疑ってかかる自分自身も疑っているような気配だ。

一つだけ、謎解きの途中経過を紹介しておこう。警察が殺害動機のある人物を二人に絞り込んだとき、マープルは、ほかにも「少なくとも七人はいます」と反論した。後段の記述によると、彼女は実際に7人を思い描いていた。その顔ぶれから、あらゆる可能性を排除していないことがわかる。世間の常識にとらわれないのだ。この幅広の推理こそがマープル流の真骨頂だろう。そのときに役立つのが人間観察であり、噂の収集である。

マープルは、村に飛び交う噂に耳を塞がない。噂を参考にして理詰めの思考を組み立てる。ただ、そこから導いた仮説は自分自身でも懐疑しているから、めったに口にしない。受信には積極的だが、発信は慎重。情報社会にあって、もっとも賢明な態度と言えよう。

マープルものを読んでいると、英国で愛読した大衆紙を思いだす。英国人は噂好きで、社会全体がセント・メアリ・ミード村なのだ。新聞報道をお茶会に見立てれば、英王室はお茶会の会話に噂話のタネを提供してきた。ただ王室の人々は総じて、噂に煩わされながらもそれを巧妙にかわし、自分の思考を貫いてきたのではないだろうか。噂とのつきあい方という一点で、女王の姿はミス・マープルに重なっているように私には思える。
*1 当欄2020年10月30日付「アガサで知る英国田園の戦後
*2 「本読み by chance」2016年2月5日付「クリスティーの〈英〉列車で行こう
*3 当欄2022年9月16日付「アメニティの本質を独歩に聴く
☆引用部分のルビは原則、省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年9月23日公開、通算645回
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アメニティの本質を独歩に聴く

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「武蔵野」
国木田独歩著、新潮文庫『武蔵野』所収、1949年刊

落葉樹

半年ほど前、当欄はアメニティを話題にした(*1)。あるべきものがあるべき場所にある、という景観の心地よさだ。読んだ本は『歴史的環境――保存と再生』(木原啓吉著、岩波新書、1982年刊)だった。ただ、あのときに突きつめて考えなかったことがある。あるべき場所にあってほしい〈あるべきもの〉とは何か、という問題だ。そもそも、どんなものを指してあるべきだ、と言えるのか。今回は、この難題と向きあいたい。

その前に先日、図書館で貴重な収穫があったことを報告する。朝日新聞縮刷版で木原啓吉さんが新聞記者時代に書いた記事(*2)を再読したとき、そこに〈あるべきもの〉の例示があったのだ。英国の都市計画家コーリン・ブキャナン氏が、アメニティを「英国人にとっては、はだでわかる価値の尺度」と説明して、その価値の代表例を「村に伝わる一本の樹、麦畑の向こうに見える教会の塔、きれいにデザインされた川のセキ」と列挙している。

ここから浮かびあがるアメニティの本質とは何か。「一本の樹」「麦畑」「川」から、植物や水の流れなど自然の風景が必須要素であることがわかる。「村に伝わる」からは、過去と切り離せないことも感じとれる。「麦畑」「教会の塔」とあるから、人間社会の生活や文化にもかかわるようだ。いや、それどころではない。「きれいにデザインされた川のセキ」も例に挙がる。アメニティは、土木工学的な自然改変すら含むということだ。

アメニティを定義づけることは難しい。それは、一つの物差しで測れない。自然度だけを見れば原生林がもっとも望ましいことになるが、代表例の「一本の樹」や「麦畑」はそれとは趣が異なる。人工美に目を向ければ超高層ビル群や巨大ダムもアメニティの源になりうるが、それを〈あるべきもの〉の勘定に入れるかどうかでは賛否が分かれるだろう。「川のセキ」に添えられた形容句「きれいにデザインされた」には、ほどほどの人工感がある。

くだんの記事では、ブキャナン氏もアメニティが「数量化しにくい要素」であることを指摘している。それは「貨幣価値には換算しにくい」ので、大型公共工事の環境影響評価があったときなど、費用便益分析の項目としてほとんど考慮されない、というのだ。

私の脳裏には学生時代の1975年、この記事を紙面掲載時に読んだ日の感想が蘇る。あのころは、アメニティはやがては金銭に代えがたい価値として認められ、社会に組み込まれるだろうと思っていた。だが、50年近くが過ぎた今、予想は半分当たり、半分は外れた。私たちの身のまわりのアメニティは豊かになったが、それは商業施設だったりリゾートだったりして貨幣価値に結びつけられている。新自由主義の時代らしい展開である。

で、今週は国木田独歩の「武蔵野」を読む。短編小説集『武蔵野』(国木田独歩著、新潮文庫、1949年刊)の冒頭に収められた表題作だ。この一編は1898(明治31)年、「国民之友」誌で発表された。初出時の題名は「今の武蔵野」。著者(1871~1908)は千葉県銚子生まれで、教師や新聞記者などの職を転々としたが、やがて詩人、小説家の道を歩むようになった。この作品も「小説」とされているが、私にはその分類に違和感がある。

恥ずかしい話だが、私はこの一編を今回初めて読んだ。未読の言い訳をすれば、それが小説とされていたからだ。自然の風景を題材にした小説ということなので花鳥風月を愛でることに終始しているのではないか、と思ったのだ。ところが、一読して私が感じたのは、これは都市論として読めるということだった。「論」といっても学者のそれではない。記者経験者らしく、見たもの、聞いたものを取り込んだエッセイ風の仕立てになっている。

この作品は、江戸時代文政年間(1818~1830)の古地図には武蔵野のおもかげはわずかに入間郡(いるまごおり)に残るだけと書かれていた、という話から始まる。ここで入間郡は、埼玉県南部一帯を指している。「昔の武蔵野」は、江戸後期ですらかなり姿を消していた、明治時代の今ならなおさらだろう、と言っているわけだ。だが著者は、「昔の武蔵野」の消失を惜しんではない。「武蔵野の美今も昔に劣らず」と言い切っている。

この話の切りだし方からもわかるように、著者の関心はひとえに「今の武蔵野」にある。だからこそ、作品の原題も「今の武蔵野」だったのだ。この冒頭部では、「今見る武蔵野」が自分の心を動かすのはそこに「詩趣」があるからだ、と述べている。

では、「昔の武蔵野」と「今の武蔵野」はどこが違うのか。読み進むと、その答えが明記されている。前者は「萱原のはてなき光景を以て絶類の美を鳴らして居た」。ひとことで言えば、原っぱだったのだ。一方、後者の主役は「楢の類」から成る「林」。雑木林である。江戸時代、江戸の近郊では新田開発が進められ、それに伴って樹木が植えられた。落ち葉は堆肥に、伐採木は薪炭の材料になる。こうして人々の生活と分かち難い林が広がった。

著者は、このくだりで文化論にも立ち入っている。日本人は、和歌や絵画で「松林」ばかりを愛で、「楢の類の落葉林の美を余り知らなかった」とみる。「冬は悉く落葉し、春は滴るばかりの新緑萌え出ずる」という変化の妙を最近まで理解しなかったという。だが、洋風は違う。ここでは、ロシアの作家ツルゲーネフの小説「あいびき」(二葉亭四迷訳)が引用されている。作中では、樺の林の落ち葉が金色に輝く様子などが描かれていた。

林は著者の身近にあった。著者は1896(明治29)年秋、東京郊外の渋谷村(現・東京都渋谷区松濤付近)に引っ越した。この作品には、当時の日記が紹介されている。9月7日の欄には、南風が吹き、雲が流れ、雨が降ったりやんだりの日々が続いていることを記した後、「日光雲間をもるるとき林影一時に煌めく」(太字部分は原文では傍点)とある。そのころの渋谷では雨あがりの日、樹林が陽射しにキラキラ輝いて見えたのだろう。

著者は雑木林の魅力を視覚で感じているだけではない。聴覚でもとらえている。「鳥」の羽ばたきやさえずり、「風」のざわめき、「虫」の鳴き声、「荷車」の響き、「村の者」の話し声……雑多な音が林の奥から、あるいは林の向こうから聞こえるという。著者のお薦めは「時雨の音」。そこに「私語(ささや)くが如き趣」があるからだ。この一編は、そんな林の「物音」を体験できる場所として中野、渋谷、世田谷、小金井の地名を挙げている。

この作品がただの風景礼讃でないのは、そこに著者の分析があるからだ。たとえば、高台に林と畑がどのように分布しているかを論じたくだり。林が長さ1里(約4km)未満の規模感であり、畑が林に三方を囲まれていたり、農家があちこちに散らばっていたりすることに触れ、畑と林が「ただ乱雑に入組んで居て、忽ち林に入るかと思えば、忽ち野に出る」と書く。「ここに自然あり、ここに生活あり」――北海道の「大原野大森林」とは違う。

著者が「武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない」と説いている点も見逃せない。武蔵野には「迂回の路」があるという。道が「林にかくれ、谷にかくれ、野に現われ」といったことを繰り返すのだ。それで、次のような指南もある。道が三つに分かれたら、杖を倒して倒れたほうへ進め、林の奥で道が分岐したら、小さなほうを選べ。「妙な処」へ行けるかもしれない……。散歩の極意は偶然任せ、無駄を楽しめということか。

このくだりを読んで、私は当欄の前身ブログでとりあげた『ぼくの東京案内(植草甚一スクラップ・ブック)』(植草甚一著、晶文社)を思いだした(*3)。散歩の達人植草甚一はこの本で、自分が住む町の迷路性とゴチャつきを得意げに語っているのだった。

この一編を私が都市論と呼びたいのは、武蔵野の景観に人間の関与を見ているからだ。著者は、ただの自然ではなく人の営みとともにある自然に「詩趣」を見いだす。その営みは、歴史とも無縁ではない。雑木林が広がった背景には、江戸時代の開墾がある。落葉樹に人々が魅せられる理由には、幕末の開国や明治時代の文明開化で洋風文化が浸透したこともあるだろう。アメニティは人々の生活や感性と結びつき、歴史ともつながっている。

そのことは、前述の「村に伝わる一本の樹、麦畑の向こうに見える教会の塔、きれいにデザインされた川のセキ」と見事に重なる。独歩は19世紀末、すでにアメニティの本質をつかんでいた。鋭い観察眼で、その本質がどう立ち現れるかまで見てとっていたのだ。
*1 当欄2022年5月13日付「あるべきものがあるアメニティ
*2 朝日新聞1975年11月26日付解説面連載「歴史的環境を訪ねて」第20回
*3 「本読み by chance」2015年5月22日付「植草甚一のハレにもケをみる散歩術
☆引用箇所にあるルビは原則、省きます。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年9月16日公開、通算644回
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へんな夏の終わりに清張

今週の書物/
『絢爛たる流離』
松本清張著、文春文庫、2022年刊

針金

へんな夏が終わった。

一つには、「3年ぶりの行動制限のない夏」とメディアが連呼したことだ。コロナ禍第7波で全国の新規感染者数が1日当たり数十万人に及んだというのに、政権はこの言葉の軽やかさに乗っかってほとんど動かなかった。感染症蔓延の盛りに行動制限をなくすというのなら、それによってどんな事態が生じるかを考えて、ああなったらこうする、こうなったらああする、と手筈を整えるのが為政者の務めだろう。その準備があったとは思えない。

もう一つ、元首相の不慮の死もあった。それで私の脳裏には、1960年代に相次いだ暗殺事件が蘇った。小学生のころだ。社会党委員長の刺殺では、夕刻のニュースで17歳の少年が委員長に体当たりする映像が繰り返し流された。米大統領銃撃のときは早朝、テレビ界初の日米宇宙中継が予期せぬ凶事を報じていた――。たぶん、今の子どもたちは今回の事件を現場に居合わせた人々のスマホ映像などで記憶しつづけることになるのだろう。

今回の事件は「暗殺」という用語がなじまない。当初は、動機が世間に対する漠然とした恨みのように思えた。やがて、それは社会問題に根ざしており、政治にも深くかかわっていることがわかったが、「暗殺」と呼ぶにはあまりに日常的な風景がそこにはあった。

それは、事件現場が近鉄大和西大寺駅前だったからかもしれない。私は学生時代、関西旅行の折にこの駅で降りたことがある。東大寺ならぬ西大寺なのだから、辺りには古代の雰囲気が漂っているのだろうと勝手に思い込んでいたのだが、歩いてみるとふつうの住宅街だった。元首相が襲われたのは、日比谷公会堂ではなく、ダラスの大通りでもなく、私鉄沿線のどこにでもある町。「暗殺」の舞台の要件ともいえる劇場性をぼやかしていた。

前代未聞の疫病禍でも政権は動じない。政界の有力者が凶弾に倒れても「暗殺」の感じがしない。それをどうみるかは別にして世間はすっかり凪なのだ。冒頭に「へんな夏」と私が書いたのは、以上のようなことによる。この夏は将来、歴史に記録されるのだろうか。

で、今週は清張の昭和史。といってもノンフィクションではない。連作短編小説『絢爛たる流離』(松本清張著、文春文庫、2022年刊)。1963年に「婦人公論」誌に連載された12編から成る。それぞれが独立した話だが、全編に登場する同じ一つのモノがある。3カラット純白の丸ダイヤだ。これをバトンにして昭和の風景断片をリレーする。1971年に『松本清張全集2』(文藝春秋社)に収められ、2009年に文庫化、今回読むのはその新装版だ。

私がこの本をとりあげようと思ったのは、松本清張記念館名誉館長の藤井康栄さんが執筆した巻末解題に「話の筋は、著者の創作」だが「中身には、著者自身の体験が色濃く反映されている」とあるからだ。この記述で、私は納得した。この本に、日本の近現代史を動かした立役者は出てこない。戦時中の外地、占領時代の地方都市、高度成長初期の東京……。それぞれの時代、それぞれの場所にあったかもしれない市井の物語を紡いでいる。

当欄は各編の筋を追わず、印象に残る光景だけを切りだしてみる。ちょっと驚いたのは、第八話「切符」だ。敗戦の数年後、山口県宇部市の古物商が乗りだした新商売は古い針金を売ることだった。きっかけは、同業者から「あんたンとこに針金はないかのう?」と聞かれたことだ。岡山周辺の箒(ほうき)製造業者が「針金がのうて困っちょる」という。戦後の物不足がそんな生活用品にも及んでいたことを、私は初めて知った。

古物商は、人を介して大手針金メーカーの幹部に話をもち込み、針金のつくり損ない(ヤレ)を格安価格で仕入れて売る算段をつけた。当時の経済は統制下にあったので針金メーカーも臨時物資需給調整法に縛られ、製品を「切符」のある業者にしか売れなかった。ただ、ヤレは「廃品同様」だから「横流し」ではない、という理屈が立った。難題は一つ。ヤレは巻き取り装置の不調で出てくるので「メチャクチャに縺れて」いたことだ。

古物商は女性の作業員を10人ほど雇い、人力で縺れをほどいた。そこに30代半ばの男がふらりとやって来る。作業場の様子を見学して「あれじゃ工賃ばかり嵩んで仕事にはならんだろうな」と感想を漏らし、「ひとつ機械化してみては?」ともちかける。男は「W大学の機械科」卒を名乗り、自分が図面を引く、木造だから組み立ては大工に任せる、というのだ。怪しげではある。古物商も初めは半信半疑だったが、やがてその話に乗せられて……

戦後の混乱期、人々がどれほどしたたかだったかが、これだけの話からも見えてくる。藤井解題によると、この一編の背後には「復員後、生活のためにアルバイトで箒の仲買を商売としていた著者自身の体験」があるという。著者は針金不足を間近に見ていたのだ。

「復員」の一語でわかるように、著者は軍隊生活を送ったことがある。1944年に召集を受け、朝鮮半島南部(韓国全羅北道)に駐屯する部隊に配属となる。衛生兵だった。解題によれば、第三話「百済の草」と第四話「走路」にこのときの体験が生かされている。

第三話の主人公は、全羅北道の小都市に内地から赴任した日本企業の鉱山技師。妻と社宅で暮らしていたが、戦争末期に兵隊にとられる。その技師が衛生兵となり、ひょんなことから社宅に近い軍司令部へ転任となる。社宅には妻が今も住んでいる。だが、兵隊は司令部のある農学校の建物で起居して、兵営の外には出られなかった。通信が禁じられているので、すぐ近所にいることを妻に知らせることもできない。会いたい、だが会えない……。

技師には営内に頼りになる上官が一人いた。階級は下士官の軍曹だが、会社勤め時代には部下だったので、なにかと力になってくれる。軍曹は、公用外出のときに技師宅を訪ね、夫が兵営にいることを妻に伝えてくれた。それからまもなく、技師に一つの情報がもたらされる。若い高級参謀が高級将校に許された「営外居住」の特権を行使して、技師宅の一部屋を賄いつきで借りている――技師の心に波風が立ったことは想像に難くない。

兵隊も例外的には営外に出ることができた。現に高級参謀付きの上等兵は「公用腕章」を着けて衛兵所がある門を自由に出入りしている。技師は覚悟を決めて、腕章を貸してほしいと、その上等兵に頼む。幸いに「奥さんに逢いに行くのか?」という笑顔が返ってきた。発覚すれば「重営倉もの」だが、上等兵は好人物だった……。それにしても、高級将校なら営外居住、下士官は公用で町を歩ける、兵隊は兵営に缶詰め、という縦社会は見苦しい。

藤井解題によると、著者自身も朝鮮半島で衛生兵だったころ、公用腕章の恩恵に浴して「町を歩き回り、古本屋で本を買ったり」していた。人々は苛酷な軍国主義下でもときにワル賢く頭を働かせて、人間らしい欲求を満たそうとしていたことがわかる。

さて、話は60年安保に飛ぶ。第十話「安全率」では、1960年6月に新しい日米安保条約が自然承認される直前、東京・成城にある大手鉄鋼会社会長邸に学生運動家二人が訪ねてくる。一人は「総学連の財政副部長」。学生服には「T大」の襟章がある。「われわれの目的はあくまでも革命」「内閣に絶えず脅威を与え、ゆさぶりつづけます」と持論をぶち、会長から「指導者階級をギロチンにかけるのかね?」と問われても否定しない。

興味深いのは、総学連幹部のねらいがカンパにあったことだ。二人は会長からの支援金3万円を手にして帰っていく。1960年の3万円は、ザクっといえば今の50万~60万円ほどか。当時の学生運動に、こんな資金の流れがあったかどうかはわからない。ただ、鉄鋼会社トップと学生運動指導者の間にどこか通じあうものがあったようには思われる。著者は、その危うさを架空の団体「総学連」の話として具象化したのではないか。

鉄鋼会社会長には、その3万円で「革命の虐殺から助かるかもしれない」という思惑もあった。自分は防衛産業の柱である鉄鋼業界の経営者だが、「革命家の理解者になること」で自身や家族、そして愛人も助命されるのではないか、と思ったりするのだ。

会長はその夜、銀座に出かける。目当ては、愛人がマダムをしている高級バーだ。店内では紫煙が漂うなか、「文化人と称する連中が女の子を引きつけ、大きな声でしゃべり合っては酒を飲んでいた」。会長は、カウンター席の一隅に腰を下ろす。それは、マダムのパトロンに用意された言わば指定席だった。店から2kmほどしか離れていない国会議事堂周辺では学生たちのデモが渦巻いているというのに、その緊迫感がここにはない。

この一編がおもしろいのは、60年安保を描くとき、視座を成城という高級邸宅街や銀座という高級歓楽街に置いたことだ。その構図の妙で、そこにあった空虚さが浮かびあがってくる。デモの映像を小学生の目で眺めていた私は、あのころから時代が急に明るくなったように記憶しているのだが、それは的外れではなかった。あの出来事は所得倍増政策を呼び込み、高度経済成長の跳躍台となった。その事情も、この作品を読むと腑に落ちる。

さて2022年の夏は、へんだった。災厄が進行中なのに人々は日常の一角にいて、世の変転に無関心のように生きている――そんな感じか。だが、そういうことは昔からあったのかもしれない。清張がこの本の各編で描きだした人々を見ていると、そう思えてくる。
☆引用部分にあるルビは原則、省きます。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年9月9日公開、通算643回
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