今週の書物/
『第三の男』
グレアム・グリーン著、小津次郎訳、ハヤカワepi文庫、2001年刊
いつのまにか1年半の戦争になってしまった。ロシアによるウクライナ侵攻である。
第2次世界大戦後、国際社会はいくたびか戦争を経験した。それは、東西冷戦を反映した局地紛争のこともあった。民族間や宗教間の確執のこともあった。ただ、戦争の空気が地球全体を覆うことは一度もなかったように思う。ところが、今般は様相が異なる。
最大の理由は、そこにロシア対NATO(北大西洋条約機構)の大きな構図があることだ。ロシアは、もはや旧ソ連のように世界を二分する超大国ではない。だが、それがかえって不安定な要因を生みだしている。NATOは、北米と欧州の主要国が加盟しており、いわゆる西側陣営が実体化されたものだ。直接の戦争当事者ではないが、当事国ウクライナの後ろ盾となっている。この状況は、世界戦争の一歩手前だと言っても言い過ぎではあるまい。
私たちの世代が奇妙に思うのは、それなのに世界規模の反戦運動が起こらないことだ。ウクライナの抵抗を支援する声は世界中に広まっている。だが、「反戦」という言葉がなぜかあまり聞こえてこない。確かに真っ先に批判すべきは、ロシアの侵攻だ。隣国に踏み込んで人々の生命と財産を奪う行為はどんな理由があっても許されない。ただ、それだけではなく、戦争そのものに対して「ノー」を突きつける動きがもっとあってよい。
1960年代のベトナム反戦を思いだしてみよう。ベトナム戦争は、米国がアジアでの覇権を死守しようとする戦いだった。そのために蹂躙されたのが、ベトナムの人々の自決権だ。だから、私たちの世代は「米帝国主義」に反発を覚え、心情的にはベトナムの抵抗勢力に連帯感を抱いたものだが、それでも「反戦」という言葉は捨てなかった。私たちは、たとえ戦争当事者のどちらか一方に共感していたとしても「反戦」を訴えるべきなのだ。
論理に矛盾があるかなとは思いつつ、私がこんなことを言うのも、戦争が人を殺すことを合法化しているからだ。殺人の正当化は、悪の培地を用意することにほかならない。それゆえに私たちは、人々の抵抗を応援しつつ、戦争そのものには反対しなくてはならない。
で今週は、戦争とは何かについて考える。手にとった本は『第三の男』(グレアム・グリーン著、小津次郎訳、ハヤカワepi文庫、2001年刊)。第2次大戦後のオーストリア・ウィーンを舞台に、戦勝国の占領が敗戦国の社会を混乱に陥れる様子を描いている。
本書は、言うまでもなく不朽の映画作品「第三の男」(キャロル・リード監督、1949年、英国)の小説版だ。ただ、映画の小説化(ノベライズ)ではない。著者グリーン(1904~1991)は映画プロデューサーに頼まれ、ウィーン占領の「物語」を執筆した。それをたたき台にリードと議論を重ね、映画の脚本を仕上げた。たたき台の「物語」が、この小説版だ。新聞記者出身の作家が書いたものなので、ジャーナリスティックな感覚が見てとれる。
この映画のことは、先月の当欄で言及している(*)。名優オーソン・ウェルズ演ずる「第三の男」が戦争を肯定するような台詞を吐いたという話だ。その台詞は、イタリアでは戦争の時代にルネサンスが花開いた、という趣旨だった。ただ、この文言は小説版には出てこない。巻末解説「たそがれの維納」(川本三郎執筆)によると、脚本にもなかったらしい。ウェルズが19世紀の芸術家の文章をもとに考案したアドリブだという。
著者の度量を感じさせるのは、本書冒頭の序文で、映画が「物語」即ち小説版と同じではないことについて、「変更」は「いやがる著者に強制されたもの」ではないとことわっていることだ。「映画は物語よりも良くなっている」「映画は物語の決定版」と強調している。
とはいうものの、当欄は今回、映画ではなく、あくまでも小説版に沿って『第三の男』に迫ることにする。本書の原著は、1950年に刊行された。本書のもとになる邦訳は『グレアム・グリーン全集』第11巻(早川書房、1979年刊)に収められている。
さて、映画プロデューサーの企画通り、この作品の陰の主役はオーストリアの首都ウィーンである。1945年、ナチスドイツの支配から解放されたが、今度は戦勝国に占領された。市域は米国、ソ連、英国、フランスの「四大国」によって分割統治された。ただし、「環状道路(リング)」に囲まれる都心部「インナー・シュタット」は四大国の共同管理。月ごとの輪番制で一つの国が「議長」となり、「治安の責にあたる」というものだった。
このインナー・シュタットには、「連合国警察」の巡回がある。四大国のそれぞれが憲兵一人ずつを送り込み、国際パトロール隊を急ごしらえしていた。「うまく気心が通じているとは義理にも言えないが、敵の国語をしゃべって話が通じていることは事実だった」。ここで「敵の国語」とはドイツ語のことか。そんなギクシャクぶりがよくわかるくだりが、小説後段にある。ここでは、その一節を、筋を明かさない範囲で紹介しよう。
ソ連が議長国のとき、国際パトロール隊のソ連兵が深夜、英国の占領地区にまで車を走らせ、女優を連行しようとした。他国の隊員には片言のドイツ語で「ソ連国民が、正当な書類も持たずにここに住んでいる」と説明した。米兵が「まずいドイツ語」で「ソ連はオーストリアの市民を逮捕する権利はない」と反発したが、ソ連兵は、女優はハンガリー人であると主張した。ハンガリーはソ連の一部だとでも言いたいのか。すでに東西冷戦の構図がある。
このくだりでは、女優が服を着替える場面がある。ソ連兵は「部屋を離れることを拒否した」。だから、女優の一挙手一投足を監視しつづけた。米国兵は「無防備の女をソ連兵と二人だけにしておこうとはしなかった」。だから、後ろ向きに立ち、神経を集中させた。英国兵は「室内に留まることを拒否した」。フランス兵は「衣裳ダンスにうつる女の着替える姿を、冷ややかに楽しんでいた」――艶笑小話の感はあるが、四大国占領の混乱がわかる。
作品の輪郭を素描しておこう。主人公ロロ・マーティンズは英国の大衆作家。学校時代の友人ハリー・ライムに招かれ、ウィーンにやって来る。ハリーは現地で難民救済の仕事に携わっていたが、住まいのあるアパートを訪ねると、つい最近、車に轢かれ死んだとのことだった。事故は自宅前の路上で起こり、友人二人が目撃していたという。ただ、ロロが調べていくと、現場にはもう一人、謎の人物がいたらしい。これが「第三の男」である。
ロロは、ロンドン警視庁の警察官で今はウィーンに駐在しているキャロウェイ大佐と知りあい、占領下の都市の暗部を教えられる。そこにはびこっているのは闇商売だった。物資の不足につけ込んで「法外な値段」を吹っかける商いが横行しているという。
キャロウェイ大佐が捜査しているのが、抗生物質ペニシリンの密売だ。大佐によれば、ペニシリンは「軍の病院」――ここで「軍」とは占領軍のことだろう――に優先的に配給される。それを看護兵が掠めとり、オーストリアの医師たちに横流しするという犯罪が組織化されていた。大儲けするのはボスで、実行犯の分け前はわずか。それでも実行犯は、自分を「賃金労働者」のように感じて納得する。「全体主義の政党に酷似している」のだ。
作中では、このペニシリン闇商売が医療犯罪として悪質なものになっていく様子も大佐の言葉で語られているが、それはここでは書かない。作者グリーンは序文で「闇ペニシリンの物語は悲惨な事実にもとづいている」としているが、細部は虚構の可能性もあるからだ。ただ、ペニシリンは第2次大戦中に感染症の特効薬として注目されるようになり、戦後の医療現場では垂涎の的だった。それを「闇」に取り込む悪党がいても不思議はない。
作者は、ウィーンの「闇」を都市構造と結びつけている。この物語によれば、ウィーンの街角にあるポスター用の広告塔は内部が地下の下水路網へ通じている。それは「ウィーン中のほとんどどこへでも」抜けられる地下道であり、脱走兵や泥棒の隠れ家でもあった。
作者は本書序文で、ウィーンでの取材時に英国の情報将校から、下水路の内部には四大国の管理が及んでいないことを教えられたという。「各国の情報部員は何の制限もなく自由に行き来できる」のである。この作品では、その下水路網で大捕りものが繰り広げられる。「滝」がある、「急流」がある、「洞穴」もある。「われわれのほとんど誰もが知らない、奇妙な世界が、われわれの足の下に横たわっている」――それは文字通り「闇」の世界だった。
戦争の結末は、戦勝国にとっても決して好ましいものではない。分割占領が新たな紛争のタネをまくことがある。闇の商いで暴利を貪る地下組織が根を張ったりもする。やはり、戦争には良いことなどない。「反戦」という言葉を捨ててはならない、と改めて思う。
* 当欄2023年7月7日付「科学記者のゆとりを味わう」
(執筆撮影・尾関章)
=2023年8月18日公開、通算691回
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