サルトル的実存の科学観

今週の書物/
『実存主義とは何か――実存主義はヒューマニズムである』
ジャン-ポール・サルトル著、伊吹武彦訳、人文書院「サルトル全集第十三巻」、1955年刊

実存の更新

サルトルにせっかく再会したのだ。どうせなら、もうちょっとつきまとうことにしよう。ということで、先週の書物を今週もう一度(当欄2021年1月29日付「実存の年頃にサルトルを再訪する」)。巻末には講演後の「討論」がある。今回は、そこに的を絞る。

この本では、ただ問答が書きとどめられているだけだ。聴衆がどれほどいて、どんな人物がどんな表情で発言しているのかは想像するしかない。だが、それがどれほど熱を帯びていたかは、ちょっと読んだだけでもわかる。発言者は講演者を無用にもちあげない。「難しいので、もう少しかみ砕いていただいて」というように媒介役を演じているわけでもない。質問をぶつけるというよりも、真正面から論争を挑んでいるふうなのだ。

この空気感は講演当時、すなわち第2次大戦の直後、フランスの論壇でどんな思潮が優勢だったかをものの見事に表している。多くの知識人は左翼思想に傾倒していた。とりわけマルクス主義はロシア革命から30年足らず、まだ弱点を露呈していなかった。だから世論に浸透して、政界をも動かしている。そんなタイミングで、左派とみられる俊才がマルクス主義ではない看板を引っ提げて現れたのだ。素直に受け入れられるわけがない。

たとえば、この「討論」ではカール・マルクスの『共産党宣言』をめぐる興味深いやりとりがある。サルトルは、かつて哲学は哲学者の間で議論されるものだったが、今は「公衆の広場におろされている」と前置きして、『…宣言』はマルクスにとって「思想の通俗化」を意味する、と言う。これに、質問者は黙ってはいない。「通俗化」との表現に噛みついて「あれは闘争の武器だ」と反駁する。マルクス主義者のイデオロギー神聖視が見てとれる。

サルトルは、マルクスを相対化しているのだ。「自分をアンガジェすることが革命をおこすことであった時代には『宣言』を書くべきだった」と、『共産党宣言』を評価はする。だが、現代のように諸党派が百家争鳴の状態にあるときは「様々な革命派に働きかけようとする」ことこそが求められるという。「アンガジェ」(参加する)については前回も当欄で書いた。その選択肢は一つではない、という柔軟な思考がみてとれる。

こうした舌戦に興味は尽きないのだが、今回は、このやりとりに出てくる科学論争に焦点を当てたい。科学観にも、マルクス主義者と実存主義者サルトルの違いが見てとれる。それを科学の同時代史に重ねあわせて吟味すると、また格別の意味を帯びてくる。

マルクス主義者とみられる質問者は「われわれにとっては一つの世界、ただ一つの世界がある」と断言する。単純明快な世界観だ。これに対して、サルトルは「物の世界」は「蓋然の世界」であり、それが「唯一」なら「蓋然性の世界しかなくなってしまう」と反論する。「蓋然性」は「確実性」を土台にしており、その確実さは「主体」に由来するという。前者の立場では「人」も「物」も客観的な存在だが、後者の場合、「人」には主観がある。

すなわち、サルトルは「物を物として捉える」には「主体が必要」として、物理世界に向きあうにもデカルトの命題「われ考う、故にわれあり」に立ち返ろうとする。マルクス主義の理論ですら「主体性の地盤」の上に組み立てられる、とも論ずるのである。

因果律についても見解は対立する。マルクス主義の見方では、人間はこの世界に張りめぐらされた「因果の糸」によって「拘束」されている。ところが、実存主義は個々人の「われ考う」に立脚するので、分断された「非連続的な世界」しか見ないことになる、というのだ。対するサルトルは、マルクス主義が「唯一の全体を研究すること」にこだわり、「その全体のなかに一つの因果律を求めよう」としていることを強く批判する。

議論からは、当時のマルクス主義とサルトル流の実存主義が同時代の自然科学にどこまで追いついていたかが仄見えてくる。前者から感じとれるのは、20世紀半ば、マルクス主義者の多くは――もちろん、その一角を占める自然科学者、とりわけ物理専攻の人々は別だろうが――まだニュートン力学の呪縛に囚われていたらしいということだ。その世界像は絶対空間や絶対時間のなかにあり、あらゆる「物」が決定論に縛られていた。

後者は微妙だ。この討論でサルトルは、科学を「現実的な因果関係を研究するもの」とは見ていない、と表明する。それは「抽象的な諸因子の様々な変化を研究するもの」というのだ。ただ、ニュートン流の素朴な決定論を否定するような文言には出会わない。

この講演があった1945年は、物理学の新しい枠組みとして量子力学が登場して20年が過ぎたころである。この力学では、物理世界をつかさどる波動関数の波が観測の瞬間に収縮して、状態の重ね合わせが消え、一つの事実が選り出されるということが起こる。「抽象的な諸因子」という語句からは、波動関数の波の位相や振幅が連想されなくもない。観測によって事実が定まるという構図も、「主体」に重きを置く思想と相性が良いようにみえる。

ただ、これをもってサルトルが量子力学に通じていたと推察するのは、早とちりであり、買いかぶりでもあるだろう。実際、サルトルは質問者が「統計型式の因果律」という言葉をもちだしたとき、「それは何の意味もない」と一蹴している。量子力学は、教科書風の解釈では確率論の言葉で語られるから、そのことが頭の片隅にあれば「統計型式」をそう簡単には切って捨てられないはずなのである。欧州でも、文理の壁は厚かったのかもしれない。

ここで私は、当欄の前身で1年ほど前に読んだ『新実存主義』(マルクス・ガブリエル、廣瀬覚訳、岩波新書)をもう一度、思い返してみる(「本読み by chance」2020年3月27日付「なぜ今、実存主義アゲインなのか」)。あの本では、科学の話題が臆することなくとりあげられ、心と脳の問題をめぐって脳の神経回路についても語られていた。実存主義と新実存主義の違いは自然科学をどこまで強く意識したかにある――私には、そう思われる。

科学は哲学を更新する。その好例が実存主義の進化のなかにある、とは言えないか。
*引用では、仮名づかいを現代風に改めた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年2月5日公開、同月19日最終更新、通算560回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

実存の年頃にサルトルを再訪する

今週の書物/
『実存主義とは何か――実存主義はヒューマニズムである』
ジャン-ポール・サルトル著、伊吹武彦訳、人文書院「サルトル全集第十三巻」、1955年刊

人は石にあらず

年頭恒例の夏目漱石ものの表題は今年、「漱石の実存、30分の空白」(2021年1月8日付)だった。実存とは青臭い。それでもすんなりこんな言葉がひらめいたのも、実存が身についてきたからだ。人間、70年近くも生きていると、いつのまにか実存的になっている。

つまりは、こういうことだ。50年前、喫茶店で友人を相手に「実存」「実存」とまくし立てていたころは、現実の存在が本質に先立つなどと言っても絵空事に過ぎなかった。学生はこうあるべきだ、男子はこうあるべきだ……といろいろ「べきだ」はあったが、その強制力はたかが知れていた。あのころは、言われなくとも存在が先に立っていたのだ。だから、「実存」を振りまわしても、それは空回りするばかりだったように思う。

ところが、大人になると様相が一変する。職業とは自分が受けもつ任務を指すので、若者は就職によって――たとえ、その仕事が本人の希望に適っていたとしても――世間から一つの役目を押しつけられるかたちになる。ここで強引に、役目≒本質とみなせば、本質>存在の力関係が生まれる。存在と本質の立場が逆転するのだ。私自身も25歳で新聞記者になって以来、記者はこうあるべきだ、という「べきだ」に縛られてきた。

その間、実存はどうしていたのか? 私自身について言えば、あの青臭い言葉は意識の外に追い払われていた。忙しくて、それどころではなくなったのだ。だが今振り返って、自分の半生は実存的でなかったのかと自問すれば、そうとは言い切れないぞ、と思えてくる。

私は新聞社にいた36年間、日々押し寄せる「べきだ」の大波に抗してきた。心の片隅に、記者らしい記者ではいたくないとの思いがあったのだ。これは、本質に先立つ存在に立ち帰ろうという志向に通じている。その抵抗が実りあるものだったとは言えないが……。

そして70歳を目前にした今、私は――たぶん、同世代の人々の多くもまた――現役を離れたことで、実存の抵抗を内に秘める必要がなくなった。ようやく堂々、自覚的に実存的となる年頃になったのである。しかも昨今のコロナ禍は、私たちを否応なく実存的にさせる。

で、今週は『実存主義とは何か――実存主義はヒューマニズムである』(ジャン-ポール・サルトル著、伊吹武彦訳、人文書院「サルトル全集第十三巻」、1955年刊)。一昨年のことだが、近くの町にあった古書店で見つけた。この本は第2次大戦直後の1945年、パリのクラブであった講演をもとにしているので、口述の柔らかさがある。著者(1905~1980)は、言うまでもなく20世紀実存主義の中心にいたフランスの哲学者である。

まずは、実存主義を素描したくだりを見てみよう。そこには、私が若いころに聞きかじった「実存が本質に先立つところの存在」という言葉がちゃんと出てくる。著者のように「無神論的実存主義」の視点に立てば、人間はこうした存在にほかならない。

ここで注目すべきは、「実存が本質に先立つところの存在」を「何らかの概念によって定義されうる以前に実存している存在」と言い換えてもいることだ。著者によれば、人間は「最初は何者でもない」が、のちに「みずからが造ったところのものになる」。あなたも私も、もともとは未定義であり、本性を具えていないということだ。なぜなら「その本性を考える神が存在しないから」である――ここまでを、著者は「実存主義の第一原理」と呼ぶ。

このあとに出てくるのが「投企」だ。これもまた、実存主義用語として懐かしい。英訳すれば“project”。「人間は苔や腐蝕物や花キャベツではなく、まず第一に、主体的にみずからを生きる投企なのである」。あなたも私も「未来にむかってみずからを投げる」ことによって「みずからが造ったところのものになる」。だから、本来は「何者でもない」のに「石ころや机よりも尊厳」と言えるのだろう。人間を動詞でイメージしている点が新鮮だ。

ここで著者は、投企と意志とを分けて考えている。投企は意志の根っこにある、というのだ。たとえば、ある党派に入ろうとすること、ある本を書こうとすること、ある人と結婚しようとすること――こうした意志は「一そう根原的な、一そう自発的な或る選択の現れにほかならない」。人間には、まずどんな自分をつくるかという根本の選択、すなわち投企があり、その結果として意志が個別の決定をする、ということらしい。

著者は、この本で「われわれの出発点は個人の主体性」と主張している。「投企」の主語は、一人ひとりの個人ということだ。だから、17世紀の哲学者ルネ・デカルトが提起したコギトの命題を引いて「出発点において、『われ考う、故にわれあり』という真理以外の真理はあり得ない」と言い切っている。なにごとを議論するにしても、おおもとに絶対的な真理を必要としている。それは「自分自身を捉える意識」にほかならない、というわけだ。

この文脈で、著者は実存主義が唯物論と相容れないことを明言している。唯物主義は「あらゆる人間を物体として扱う」。これに対して、実存主義は「人間を物体視しない」。むしろ、「人間界を、物質界とは区別された諸価値の全体として構成しよう」としている――こう表明するのだ。著者は、自身の立場とマルクス主義の間に一線を引いていた。それなのに言論界では一貫して左派陣営に身を置いて、マルクス主義にも近づいた。それはなぜか。

本稿では、この疑問点を探ろうと思う。そのまえに押さえておきたいのは、著者は「われ考う」を重んじるものの、唯我論には迷い込んでいないことだ。そこには「われわれは『われ考う』によって、他者の面前でわれわれ自身をとらえる」との記述がある。自己を意識するとき、自己は他者に関係づけられているということか。「他者は、私が自分に関して持つ認識に不可欠」であり、「私の存在にとっても不可欠」というのが著者の論理だ。

これは、現象学の間主観性を示唆しているようにも思えるが、その用語は見当たらない。代わりに出てくるのが「相互主体性」だ。「私の内奥」に「他者」を発見することで「相互主体性」が見えてくるという。こうして、実存主義に社会派の視線が芽生える。

実際、著者はこの本の随所で、実存主義の社会性を強調している。たとえば、さきほどの「投企」を論じたくだり。実存主義は「みずからの実存について全責任を彼に負わしめる」と述べた後、次のような趣旨のことを言い添えるのだ。「彼」の責任は「彼個人」に対するものにとどまらない、それは「全人類」に及ぶのである、と。ちょっと飛躍が過ぎるのではないか、と問い返したくなる。だが、これにも答えが用意されている。

私たちは「あれかこれか」を選ぶとき、選んだほうの「価値」を「肯定」している、と著者はみる。「われわれが選ぶものは常に善であり、何物も、われわれにとって善でありながら万人にとって善でない、ということはあり得ない」。実存は普遍の善を好むということか。著者の論理では、こうして「私」が万人につながり、「私の行動は人類全体をアンガジェしたことになる」。サルトル哲学ならではの用語、アンガージュマンの登場である。

アンガジェは“engager”。縛る、かかわらせる……といった意味の動詞だ。その名詞形が“engagement”。フランス語読みでは、アンガージュマンとなる。1960~70年代、それは〈参加〉と訳され、政治性を帯びた意味合いで用いられたものだ。この本を読むと、著者がなぜ、この言葉を多用したかが痛いほどわかる。マルクス主義を強く意識しながら、それとは違う方法で社会とかかわり、政治に〈参加〉しようとしたからにほかならない。

巻頭では「コミュニストたちからの非難」を例示して、それに反論している。巻末所収の講演後の討論では、マルクス主義の視点から浴びせられる質問に反駁している。そこから見てとれるのは、実存主義を行動の伴わない「静観哲学」とみなす批判に対する強い反発だ。

著者は、左派論客として政治へのアンガージュマンを行使するときも、その行動の根源に投企があると言っておきたかったのだ。戦後、マルクス主義者と共闘したときも、その思いを内心に秘めていたのだろう。実存を「物体視しない」。私も、それに同意する。
*引用では、本文を現代風の仮名づかいに改めた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年1月29日公開、通算559回
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■公開後の更新は最小限にとどめます。

そんなアメリカがあの頃はあった

今週の書物/
「ともだち」
『その日の後刻に』(グレイス・ペイリー著、村上春樹訳、文春文庫、2020年刊)所収

アメリカの連帯

去年、アメリカ合衆国の混乱は目を覆うばかりだった。だが振り返れば、あの国は昔から混乱続きだったのだ。私が少年だった1960年代に限っても、公民権運動があった、大統領暗殺もあった、ベトナム戦争があり、それに対する抗議活動もあった。

米国が凄いのは、そんな混乱を隠そうとはしないことだ。あのころも、私たちには米国社会の実相をのぞける窓があった。報道しかり、文学しかり、音楽しかり。だが、なんと言っても、米国の人々がもっとも正直に素顔を見せたのは、映画ではなかっただろうか。

とりわけ、1960年代から70年代にかけて封切られたアメリカン・ニューシネマと呼ばれる一群の作品には、そういう傾向があった。もちろん、フィクションだから筋書きはつくりもので誇張表現もある。私たちも、俳優の演技を見ているに過ぎない。だが、その言葉やしぐさにはホンモノ感があり、嘘のない心情が感じとれた。ひとことで言えば、時代の袋小路に迷い込んで戸惑う米国人の実像がスクリーンに大写しになったのだ。

その直前、1950年代から60年代にかけては、米国は誇り高い存在だった。それが実感できたのは、テレビ草創期の米国製ホームドラマだろう。邦題を言えば「パパは何でも知っている」「うちのママは世界一」などだ。米国社会に戦勝国としての自信があふれていたころで、その象徴が中流家庭の頼りになるパパやママであり、大ぶりのクルマや白物家電だった。町では大量生産されたモノが量販店の棚にあふれ、消費文化を開花させていた。

そんな米国を子ども時代に見せつけられていたから、アメリカン・ニューシネマが描く世界は衝撃だった。語りたい作品は尽きないのだが、ここでは一つだけ言及しておこう。国内では1975年に公開された『アリスの恋』(マーティン・スコセッシ監督)――。

エレン・バースティン演じるアリスは、トラック運転手の夫を突然の事故で失い、12歳の息子と二人で生きていくことになる。歌手になる夢を実現しようと旅に出て、いろんな男と出会う――そう言うと身もふたもないが、細部がいいのだ。アリスは歌の仕事になかなかありつけず、安レストランで働いたりする。そのウェイトレス姿が健気に見えた記憶がある。邦題よりも、原題“Alice Doesn’t Live Here Anymore”のほうがピンとくる作品だ。

で、今週の1冊は『その日の後刻に』(レイス・ペイリー著、村上春樹訳、文春文庫、2020年刊)という短編小説集。この本を読んでいて思い浮かんだのが、なぜか「アリスの恋」だった。今回は『その日の…』のなかの「ともだち」という1編に的を絞る。

著者ペイリーの横顔から紹介しよう。ニューヨーク・ブロンクス出身の作家(1922~2007)。父母はユダヤ系ロシア人で、ウクライナから米国に渡ってきたという。訳者村上春樹のあとがき「大骨から小骨までひとそろい」によると、小説や詩の執筆だけでなく、大学で教えたり、フェミニズム運動やベトナム反戦にかかわったりもした。日本で言えば大正生まれだが、私たち戦後世代とも響きあう。結婚歴は2回、最初の夫との間に二人の子がいる。

「なかなかタフな人生を送った人だが、フィクションに関して言えば、きわめて寡作な作家」と「大骨から…」にある。出版されたものは「たった三冊の比較的薄い短編小説集」だけらしい。村上は、そのすべてを訳している。3冊目が『その日の…』だ。原題は“Later the Same Day”。1985年に発表された。私は、この書名の響きが――英語でも日本語でも――気に入って読もうと思ったのだが、所収の小説17篇に同じ題名のものはない。

「大骨から…」には、村上自身のペイリー翻訳史がつぶさに記されている。著者の短編を最初に訳したのは1988年。『その日の…』邦訳を単行本(文藝春秋刊)として上梓したのが2017年。3冊の完訳に、実にほぼ30年を費やしたのだ。ペイリー作品には「大骨から小骨までひとそろい」が詰まっていて細部まで気を抜けないからだという。「何度読んでも真意がわかりかねる」箇所が多いとも。邦訳を読んでいても、その苦労はよくわかる。

で、「ともだち」だ。この一編では、長く友だちづきあいをしている3人の女性が「死の床にある私たちの親友セリーナ」を見舞う。3人は、スーザンとアンと私。私の名はフェイスだ。冒頭、まずセリーナの部屋――どうやら病院ではなく自宅の一室らしい――の情景から切りだされ、それに続けて、帰りの列車に同乗する3人の様子が描かれる。読み手も気を抜けないのは、列車内の描写のなかに、さっきまでいた部屋の場面が交ざり込むからだ。

時間の前後などお構いなく、話が次から次へつながっていく。友人がしゃべる言葉も、「私」が口にする言葉も、「私」の内面の思いも、すべてがカギかっこなしに綴られる。流れるような文体なのだ。この文学手法は〈意識の流れ〉と呼んでよいように思われる。だが、そうと決めつけにくいのは、登場人物たちの言葉が混入することだ。意識の流れは複数あり、それらが会話として飛び交う肉声によって干渉しあう――そんな感じだろうか。

4人がどんな「ともだち」かは、文章の流れを注意深くたどっていくと見えてくる。セリーナが部屋のどこかから、子どもたちが公園の木の枝に腰掛けた写真を取りだしてきて、みんなに見せる――。「これも楽しい一日だったわね」「あなたたち二人が男たちの品定めをしていたのを覚えている」「私にも男友だちがいた。そう思っていた。けっこうお笑いよね」。彼女のおしゃべりの一部をカギかっこで括って拾いだせば、こんな具合になる。

ママ友。公園デビュー。そんな語句が頭に浮かぶ。「男たちの品定め」とか「男友だち」とかいった言葉からは、「パパは何でも知っている」や「うちのママは世界一」のようなホームドラマの安定とは縁遠いところに彼女たちがいたことが察せられる。

実際、4人の私生活は波乱に満ちていた。セリーナは親を早くに失い、施設で育った。男と同居して「楽しい時を持てた」こともあるが、彼は今、別の相手と結婚している。娘を育てあげたが、「ある夜に、遠い町のとある下宿屋で、死体となって発見された」。娘の18歳当時の写真がテーブルに飾られている。つまり、現在は独り暮らし。その彼女が病床から立ちあがり、身振りをつけて「あの頃は楽しかったわよね、マイ・フレンド……」と歌う。

訳注によれば、この歌は「悲しき天使」(原題“Those Were the Days”、作詞ジーン・ラスキン)。1968年にメリー・ホプキンが歌ったヒット曲だ。原詞に“Those were the days, my friend”とあるのを「あの頃は…」と訳したのだ。私は、懐かしさが込みあげた。

スーザンは「私は夫がほしいわけじゃないの。男の人がそばにいてほしいだけ」と言って憚らない。今も、不倫の恋を引きずっている。相手は一応妻子のもとへ帰ったが、妻から「ねえスージー、あと二年経ってまだ彼のことが欲しいなら、あなたにそっくりあげるわ」と言われたという。興味深いのは、スーザンがその妻を労働組合の活動家として尊敬していることだ。アンも、息子が15歳のときに失踪したまま。みんな問題を抱えている。

「私」すなわちフェイスは、わりと穏やかな境遇にある。息子が二人いて一人は欧州を放浪中だが、それでもコレクトコールで電話をかけてくる。列車でアンに向かって「私の人生にもまあ、いくつかのひどいことは起こったわ」とつぶやくと、「何ですって? あなたが女として生まれたこと?」と言い返される。そんなやりとりで、アンの内面に宿る「敵意」の芽を察知する。穏やかであることが罪深いような世界を、彼女たちは生きている。

圧巻は、「私たち」が学校のPTAでスペイン系の子らを支援した日々の回顧。教師たちが「小さな中産階級的優等生たちの面倒をみることで精いっぱい」なのに業を煮やしたのだ。「私」は週1回、校内の廊下で個人授業を受けもった。セリーナは看護師なので、年少の子のトイレ指導をした。校長や教育委員会は迷惑顔だったが、「私たち」は「タフでアナーキーな魂」で強行突破したのである。そのころ、米国社会には分断ではなく連帯があった。

「私」は最終盤で、「私たち」の出会いを想起する。砂場の傍らで自分の子を抱き、「砂だらけになった子供たちの頭越しに微笑みを交わした」。その瞬間から彼女たちは結ばれたのだ。難題を抱えた人々が手をつなぐ。そんなアメリカをもう一度、見てみたい。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年1月22日公開、通算558回
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漱石の時代、新聞社はサロンだった

今週の書物/
「長谷川君と余」
『思い出す事など 他七篇』(夏目漱石著、岩波文庫、1986年刊)所収

題字

「新聞社の人だな、きっと」。半世紀も昔のことだ。夕方、下り電車に乗っていたとき、近くに立っている男性の二人連れを見て、そう思った。当時、私は学生の身。新聞記者になる以前のことだ。だから、この「新聞社の人だな」は直感に過ぎない。

年の頃は40~50代だろうか。紳士然としている。勤め先の見当をつける手がかりは、外見の緩さだった。記憶はおぼろだが、髪は長め、ジャケットに色違いのズボンを穿いていたように思う。あのころ商社・金融・メーカー系のサラリーマンは、七三分けに上下揃いの背広姿がふつうだったから、そうでないというだけでマスコミ系の記号となりえた。服装の色調が地味なので、テレビ系や広告系が外され、新聞系か出版系に絞られた。

「新聞社の人だな」の決め手は、二人の会話だった。年長の一人がつり革につかまり、上半身を揺らして、とめどなく話している。楽しげで、得意そうでもある。もう一人は聞き役に徹している感じだ。話の流れはつかめなかったが、話題はもっぱら海外のこと。中南米だったように思う。政治情勢を論じていたのか、世情のあれこれを語っていたのかは覚えていない。ただ私にも感じとれたのは、それが現地の見聞にもとづく話だったことだ。

この人は特派員だったのだ、と確信した。在外経験が豊かで、今は日本に帰任して、本社の部署にいるのだろう。世の中には、こういう部類の人もいるのだ。つり革にぶらさがりながら、遠い国の出来事を隣町のことのように話して聞かせる人が――。

数年後、私が新聞社に就職したとき、そうか、自分も通勤電車で世界を語るような業界に入るのだな、と覚悟した。そうなりたいとは思わなかった。だからと言って、そうなった人を嫌ったこともない。私が入社したころ、そういう記者はたしかに存在した。ただ年々減って、今では絶滅危惧種になっている。私自身も特派員経験者だが、電車で友人と交わす会話は、沿線のレストランはどこが旨いかというような世間話ばかりだ。

新聞社にはかつて、あのつり革の紳士に象徴される文化があった。たとえて言えば、雲に乗って世界を飛び回っているような思考様式だ。それが今、消えつつある。なぜか? ひと昔前、外国は別世界だった。行商人が得意客に峠の向こうの話を聞かせるように、メディアは海外事情を伝えた。だが、ネット時代の今は違う。外国もリアルタイムでつながっている。同じ世界になったのだ。でもなぜか、つり革の紳士の文化が懐かしい。

で、今週は「長谷川君と余」。先週の『思い出す事など 他七篇』(夏目漱石著、岩波文庫、1986年刊)に収められた「他七篇」の一つである(当欄2021年1月8日付「漱石の実存、30分の空白」)。同じ本を2週続きでとりあげることになるが、この一篇は漱石が朝日新聞社に入ってから同僚とどんな交遊をしていたかを知る手がかりになるので、話題にしない手はない。そこからは、往時の新聞社の空気を感じとることもできるだろう。

題名にある「長谷川君」とは、二葉亭四迷のこと。日本で近代小説の分野を切りひらいたとされる作家だ。本名を長谷川辰之助という。この一篇で、冒頭の一文は「長谷川君と余は互いに名前を知るだけで、その他には何の接触もなかった」(ルビは原則省く、以下も)。その二人がたまたま居合わせることになったのが、朝日新聞社だった。四迷が先に在社していて、そこに著者が加わったということのようだが、「つい怠けて」挨拶にも行かずにいた。

ここでわかるのは、漱石が入社した1907(明治40)年ころの新聞社の長閑さだ。もちろん、著者や四迷は別格の社員で、ふつうの記者とは違ったのだろう。この一篇には「用が出来て社へ行った」という記述があるから、通勤などという習慣はなかったようだ。新聞社では今でも外回りの記者が社内に滞在する時間は短いが、それは取材に走りまわっているからだ。著者の目に映った新聞人像からは、そんなせわしさは見えてこない。

入社後しばらくして、著者は四迷と顔を合わす機会を得る。東京朝日新聞主筆の池辺三山が、大阪朝日新聞主筆の鳥居素川がやって来たとき、社の幹部ら10人余を「有楽町の倶楽部」へ招いて接待した。そのなかに著者も四迷もいたのである。四迷の第一印象は「かねて想像していた所を、あまりに隔たっていた」。背丈があり、肩幅も広く、「どこからどこまで四角」だ。「到底細い筆などを握って、机の前で呻吟していそうもない」と感じたのだ。

著者はこのとき、四迷と会話らしい会話を交わしていない。四迷がしゃべるときは、ただ聞く側に回った。そこで受けた第二印象は、けちのつけようのないものだ。いま話をしているのは「文学者でもない、新聞社員でもない、また政客でも軍人でもない」。では、どんな人か。「あらゆる職業以外に厳然として存在する一種品位のある紳士」にほかならないと感じたというのである。人物評としては、最高級の賛辞と言ってよいだろう。

おもしろいのは、ここで著者が四迷の品位を分析していることだ。それは「貴族的のものではない」として、「性情」や「修養」に由来するとみる。そして、さらに「修養」の成分を探り、その一部は「学問の結果」だが、「俗にいう苦労」の跡もあるという。

著者のダンボ耳は、やがて「品位のある紳士」の海外談議を聞きとっていく。四迷が、主筆の池辺を相手にロシアの「政党談」を始めたのだ。「大変興味があると見えて、何時まで立っても已めない」「まるで露西亜へ昨日行って見て来たように、例の六(む)ずかしい何々スキーなどという名前がいくつも出た」。いつまでも続く話、きのう見てきたような話――このくだりにさしかかって、私はくだんのつり革の紳士を思いだしたのである。

この連想は見当外れではない。四迷は1908(明治41)年、朝日新聞の特派員としてロシアのサンクトペテルブルクに駐在するのだ。その人事が固まったころ、著者は四迷、鳥居と三人で昼食を囲んだ。場所は、神田のうなぎ屋。四迷は「現今の露西亜文壇の趨勢の断えず変っている有様」や「露西亜へ行ったら、日本人の短篇を露語に訳して見たいという希望」を語ったという。政治から文学まで、分野を問わないロシア通だったのだ。

ただ赴任後、サンクトペテルブルクから届いたはがきでは「此方の寒さには敵(かな)わない」と弱音を吐いていた。著者は、それを見て「気の毒のうちにも一種の可笑味(おかしみ)を覚えた」。ところが、四迷は現地で肺結核を患って1909(明治42)年、帰途の船上で帰らぬ人となる。「まさか死ぬほど寒いとは思わなかった」。だが、ほんとうに「死ぬほど寒かった」のである。著者の哀惜の念が痛いほど伝わってくる。

この一篇には、当時の新聞社の社内風景もちらりと出てくる。「汚ない階子段を上がって、編輯局の戸を開けて這入ると、北側の窓際に寄せて据えた洋机を囲んで、四、五人話をしている」。これは東京朝日新聞の社屋が、まだ銀座並木通りにあったころのことだ。階段の描写から埃っぽさも感じとれるが、数人の会話には議論というより談笑の気配がある。蛍光灯のもと、だれもが黙ってキーボードを叩いている今どきの編集局とは大違いだ。

著者と四迷が風呂場で湯に浸かる場面も。「ある日の午后」のことだ。洗い場で「ふと向うむきになって洗っている人の横顔を見ると、長谷川君である」――これは銭湯か? いや、社内のようだ。そう言えば私が若いころにも、新聞社には社員用の浴場があった。

漱石や四迷がいたころ、新聞社はサロンでもあったのだ。情報がリアルタイムで押し寄せ、それをリアルタイムで選びとり、伝えなくてはならない今日、その雰囲気は望むべくもない。だが、あのゆとりは新聞社の片隅にあっていい。私には、そう思える。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年1月15日公開、同月20日最終更新、通算557回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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漱石の実存、30分の空白

今週の書物/
「思い出す事など」
『思い出す事など 他七篇』(夏目漱石著、岩波文庫、1986年刊)所収

不連続

年を越しても、コロナ禍の収束は見えない。いや、深刻さの度合いが増すばかりだ。今年の暮れに世界はどうなっているのか。まったく先が見通せない1年である。

過ぎ去った年を振り返ってみよう。その年頭、当欄の前身「本読み by chance」では、カズオ・イシグロの小説『日の名残り』(土屋政雄訳、ハヤカワepi文庫)を引いて、これからの1年がイングランドの風景のように穏やかであればよいが、たぶんそうはならないだろう、と書いた(2020年1月3日付「漱石が新聞小説に仕掛けた遭遇の妙」)。終わってみると、この嫌な予感が恐ろしいほどに的中したことに驚く。

もっとも、あの拙稿で2020年を波乱含みと予想する理由の筆頭に挙げたのは、米国の大統領選だった。たしかに選挙は混迷した。だが、それよりも早く、それどころではない災厄が地球をそっくり覆っていた。新型コロナウイルス感染症の蔓延である。コロナ禍を巨大地震にたとえれば、米国のトップ選びのゴタゴタは、そのときにテーブルに載っていたコップの水の揺れに過ぎないように思える。そして、その激震はまだ続いている。

とんでもないことが起こったのだ。たとえば、町の風景。だれもかれもがマスクをしている。マスク姿は、日本では冬はインフルエンザ予防で、春先には花粉症対策でよく見かけるようになっていたが、欧米にそんな習慣はなかった。それが今、世界標準だ。たぶん、未来の史家が21世紀の映像資料を整理するとき、マスク顔の群衆が見えたら「2020年代初め」のフォルダーに入れるだろう。これだけでも、人類史的な事件と呼びたくなる。

変化は、目に見えるものだけではない。去年の春先からずっと、私たちの内面に恐怖が棲みついている。「うつる」「うつす」という言葉が頭から離れないのだ。そして、その2語の先にちらつくのは生命の危機。そんな心模様を世の多くの人々が共有している。

で、今週は1月恒例の漱石。「思い出す事など」(『思い出す事など 他七篇』=夏目漱石著、岩波文庫=所収、1986年刊)という随筆を選んだ。私事をさらけ出し、大患から生還するまでを綴った作品。そこで露わとなる文豪の心境は、今の私たちの心にも響いてくる。1910(明治43)年秋から翌春にかけて、「東京朝日新聞」「大阪朝日新聞」に断続して連載されたもの。こんな経緯もあって随筆とはいえ分量があり、全33章から成る。

まず、巻末注解(古川久編)にもとづいて、そのころの著者が持病の胃潰瘍とどう向きあっていたかをたどっておこう。日付に沿って言えば1910年6月18日、東京・内幸町の長与胃腸病院に入院、7月末に病院を出て伊豆・修善寺の温泉旅館「菊屋本店」で療養生活に入った。ところが、8月24日に大量の吐血がある。そのまま伊豆にとどまって回復に努め、10月11日東京に戻って、再び長与病院で入院治療を受けることになった――。

第一章にはこうある。「漸くの事でまた病院まで帰って来た」「転地先で再度の病に罹って、寐たまま東京へ戻って来ようとは思わなかった」(引用部のルビは原則省く、以下も)。病院にいない2カ月半ほどが、予想外に過酷な日々であったことがうかがわれる。

第二章では、この長与病院で著者の不在期間に不幸があったことが明らかとなる。院長が亡くなったのだ。春以来体調を崩していたが、8月末から病状が悪化したという。それは著者自身が吐血後に危篤に陥ったころとぴったり重なっていた。この一篇の通奏低音となるような出来事だ。ちなみに院長は、蘭方医緒方洪庵に師事した長与専斎の息子、称吉。ドイツへの留学経験もある胃腸病の専門家だった。弟には作家長与善郎がいる。

大量吐血前後の話が語られるのは第八章からだ。それに先だって食欲が失せ、吐き気を催すようになった。著者は、吐瀉物の色がそのときどきに変わっていく様子を克明に記録している。金盥に「黒ずんだ濃い汁」を見たとき、医師は「これは血だ」と言ったが、信じられなかった。ところが、黒い色に赤が交じり、生臭さが鼻をついたときは違った。「余は胸を抑えながら自分で血だ血だといった」。漱石らしい余裕の文体が、ここにはない。

医師は金盥の中を見て「こういうものが出るようでは」と眉をひそめ、すぐに帰京するよう促した。ただ、吐血の報が長与病院に電話で伝わると、医師が朝日新聞の社員とともに伊豆に来ることになった。「この時の余は殆んど人間らしい複雑な命を有して生きてはいなかった」「余の意識の内容はただ一色の悶に塗抹されて、臍上方三寸の辺を日夜にうねうね行きつ戻りつするのみであった」。文豪もまた、一つの生命体に過ぎなかったのだ。

そして、8月24日が巡ってくる。それは、長与病院副院長が東京から往診に訪れたちょうどその日だ。「意外にもさほど悪くない」との見立てを聞いてから1時間ほどたち、日が暮れようとするころ、「忘るべからざる八百グラムの吐血」に突然見舞われたのである。

実はこのとき、著者は奇妙な体験をする。大吐血から翌朝にかけてずっと覚醒していたように思っていたのだが、枕もとの妻に尋ねると違った。脳貧血で「人事不省」となった時間があったというのだ。著者本人の弁をそのまま引けば、「余は、実に三十分の長い間死んでいた」。もちろん、それは死ではないだろう。ただ、そう表現しても不思議でないほどの意識の空白があり、しかも自身、その空白の存在にすら気づかなかったのである。

覚醒時の描写も凄い。医師二人が左右の手首を握りながら、ドイツ語で会話する。著者が目をつぶっていたので「昏睡」と思われたのか。「弱い」「ええ」「駄目だろう」「ええ」「子供に会わしたらどうだろう」「そう」――語学に通じた著者には意味がわかった。「余はこの時急に心細くなった」が、「自分の生死に関するかように大胆な批評」に「反抗心」も湧きあがる。目を見開いて「私は子供などに会いたくはありません」と言い返したという。

巻末解説(執筆・竹盛天雄)を読むと、これと似た場面が朝日新聞社の社員、坂元雪鳥が書き残した記録にもある。その描写によれば、副院長と雪鳥が著者の左右の手を握り、かぼそくなった脈をとっていたとき、「キンドは……」という言葉が交わされている。「キンド」はドイツ語のkind(キント=子)のことだろう。著者は、これを医師二人のやりとりと誤解したのではないか。ただし、この記録によれば、著者が反発した気配はない。

著者は自身の「三十分の死」を考察している。それは「時間からいっても、空間からいっても経験の記憶として全く余に取って存在しなかった」。だから、「死とはそれほど果敢(はか)ないものか」と思わざるを得ない。その死の世界に自分はいったん迷い込み、生の世界に舞い戻ってきた。「余をして忽(たちま)ち甲から乙に飛び移るの自由を得せしめた」のは「二つの世界が如何なる関係を有する」からなのか。そう自問するが答えは見つからない。

さすが、明治の知識人と思わせるのは、著者がここで古代ギリシャの哲人ゼノンの逆説をもちだしていることだ。「アキレスと亀」である。アキレスが、いま亀のいる地点に到達したときには亀も少しだけ先に進んでいる。人の意識が日々半分ずつ失われるのなら、アキレスが亀に追いつけないように「いくら死に近付いても死ねない」。ところが、現実は違った。著者は「俄然として死し、俄然としてわれに還る」という不連続を体験したのだ。

著者は、自分が「幽霊」の信者だったことも打ち明けている。8~9年前から、欧州の民俗学者や心霊学者が著した「幽霊」や「死後」を題材とする書物を読み漁ってきた、という。ところが、「三十分の死」をくぐり抜けた今、霊界に対する懐疑の念が強まった。そのとき、「余は余の個性を失った」「余の意識を失った」のだ。はっきりしているのは「失った」結果の不存在だけである。「どうして幽霊となれよう」と思うようになる。

著者漱石はこのとき、不連続の彼方に個性も意識も存在しない無を垣間見て、自らの実存を自覚したとは言えないか。それは実際の死より6年前のことである。

この作品でもう一つ心に残るのは、漱石が医師や看護婦(当時の呼び方)の献身を「報酬」目当て、「義務」感ゆえの行為とは見ず、そこに「好意」を感じとろうとしていることだ。ふつうの年なら読み流してしまいかねないが、コロナ禍の今、深い共感を覚える。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年1月8日公開、通算556回
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