科学記者のゆとりを味わう

今週の書物/
「科学者@Warの『言い分』」
武部俊一著(東大科哲の会会誌「科哲」第24号=2023年1月刊=所収

科学のページ(朝日新聞より)

「科哲」という言葉を聞いてピンとくるのは業界人だけかもしれない。ここで「業界」とは、私自身もその一隅にいた科学報道の職域を指している。1983年、私が朝日新聞社の科学部員になったとき、部の幹部(東京、大阪両本社の部長と次長)6人のうち5人が「科哲」出身者だった。科哲とは、東京大学教養学部「科学史・科学哲学」コース(*)の略。これが科学報道の本流なのか――私学出身の私は圧倒されたものだ。

顧みるに、それは学閥というより学派に近かった。言い方を換えれば、「科哲」の人々には独特の匂いがあったのだ。私の現役時代、科学報道も競争が激しくなり、科学記者は事件記者や政治経済分野の記者と同様、他紙を出し抜くことに躍起となったものだが、「科哲」出身者はどこかおっとりしていた。競争しないというのではない。いやそれどころか、他紙の追随を許さない記者も多くいた。それなのに、ガツガツした感じがない。

これが、教養というものかな――私は部になじむにつれて、そう思うようになった。東大教養学部の学生は1~2年生の課程を終えても東京・駒場キャンパスに残り、4年生まで教養を深めている。その後半の2年が、心のゆとりをもたらしているのではないか。

朝日新聞社の科学部は「科哲」出身者を多く擁した1960~1970年代に存在感を高めた。米ソの宇宙開発競争を追いかけ、日本初の心臓移植(1968年)の暗部も突いた。だが、後に大きな批判を浴びたこともある。原子力利用の旗を率先して振ったことだ。1979年、米国スリーマイル島原発事故が起こったとき、私は原発立地県の支局記者だったので覚えているが、国策を後押しするような科学部の報道姿勢は同じ社内でもどこか浮いていた。

その報道姿勢を「科哲」に結びつけるのは短絡というものだろう。ただ科学をめぐる教養の深さは、科学に対する批判の鋭さに必ずしも比例しないのかもしれない。

ここまでの記述でわかるように、私には「科哲」に対してアンビバレンスの思いがあった。片方は、自分もあの人々のように心にゆとりをもって科学を吟味したいという志であり、もう一方は、自分は在野の立場にとどまって批判精神を忘れまいという決意だった。

で、今週は、武部俊一著「科学者@Warの『言い分』」(東大科哲の会会誌「科哲」第24号=2023年1月刊=所収)。著者は1938年生まれ。私が科学記者になったときの朝日新聞東京本社科学部長で、論説委員も長く務めた。心のゆとりを体現したような科学記者。原子力についてもバランス感覚のある記事を書いてきた。私は尊敬している。お住まいがたまたま近隣の町にあるので先日カフェで落ちあい、この会誌をいただいたのである。

「科哲」第24号は特集の一つが「戦争と科学技術」であり、「科哲」ゆかりの人々が論考を寄せている。その一つが、著者の「科学者@War…」。古今東西の自然哲学者や科学者が戦争に際し、あるいは軍事に対し、どんな態度をとってきたかを総覧している。

冒頭の一節は、第2次世界大戦直後の欧州を描いた英国映画「第三の男」(キャロル・リード監督、1949年)の話。その一場面で、オーソン・ウェルズ演ずる「第三の男」が発した言葉が引かれている。イタリアでは名門ボルジア家が権力を握っていたころ、戦争や流血沙汰が後を絶たなかったが、ルネサンスも花ひらいた。スイスでは民主主義と平和が長く続いてきたが、生みだしたのはハト時計くらい――こんな趣旨の台詞だ。

著者によれば、この台詞は「戦乱の世を勝ち抜く国家の威信が文化の原動力にもなってきた」現実を言い表している。国家の威信を支える軍事と文化の一翼を担う科学は表裏一体だ。だから、「軍事の要請に科学者たちはつきあった」。そのつきあい方はさまざま。悩むことがあった。躊躇なく応じることもあった。研究資金や生活費のためと割り切ることも。とりあえず、その「言い分」を聞いてみようではないかというのが本論考の趣意らしい。

最初に登場するのは、古代ギリシャの植民国家シラクサの人で数理の達人として知られるアルキメデス。シラクサがローマ艦隊を相手に戦ったとき、「クレーン」や「投石」や「反射鏡」による反撃で功があったとされる。興味深いのは、兵器の設計図などを残していないこと。数学や力学の業績が記録されているのとは対照的だ。本人が軍事技術を低く見て、本業とみなさなかったためらしい。「余技」が国防に生かされたのか。それはそれで怖い。

ルネサンス期の人物では、レオナルド・ダ・ヴィンチが特記に値する。30歳のころ、ミラノ公への求職活動で自薦状をしたため、「頑丈で攻撃不可能な屋根付き戦車をつくります」などと提案。平時の貢献についても書き添え、彫刻もする、絵も描く、なんでもする、と売り込んではいるが、「就活」最大のセールスポイントは芸術ではなく、軍事だったわけだ。ただ、軍事技術の提案のほとんどは現実性に乏しく、受け入れられなかったという。

16~17世紀のガリレオ・ガリレイも軍事と無縁ではなかった。パドヴァ大学教授時代は研究資金を得るため、軍人の「家庭教師」をして要塞の建造法などを教えていた。望遠鏡を自作したときは、敵艦の発見にも使えると言ってヴェネチアの総督から「報奨金」をもらっている。自分は望遠鏡で木星の衛星を四つ見つけ、それらを「メディチ星」と呼んだ。「権力者の機嫌をとってすり寄らなければ、研究生活が成り立たない時代だった」のである。

近代に入ると、著名な発明家や科学者が次々登場する。アルフレッド・ノーベル、アルベルト・アインシュタイン、ヴェルナー・ハイゼンベルク、仁科芳雄らが名を連ねる。世間にもよく知られたエピソードに交ざって、ああそうだったのかという話も出てくる。

ここでは、二人に焦点を当てることにしよう。一人目は、空気中の窒素からアンモニアを生みだす技術に道を開き、「化学肥料の父」と呼ばれるドイツの化学者フリッツ・ハーバー(1868~1934)。この人にはもう一つ、「毒ガスの父」という恐ろしい異名がある。第1次世界大戦に際して化学兵器の開発を指導したからだ。その人は、こんな言葉を残している。「科学者は平和の時は人類に属するが、戦争の時は祖国に属する」

あぜんとするほどの割り切り方。ただ、見落としていることがある。私たちは、人類や祖国に「属する」以前に一個人であることだ。毒ガスをつくる自己も、毒ガスを浴びる他者も一個人だ。ここでは、その個人の生命も健康も権利も度外視されている。

もう一人は、米国で核兵器開発のマンハッタン計画を率いた物理学者ロバート・オッペンハイマー(1904~1967)。第2次世界大戦末期の核実験を「荘厳のかぎりだった。世界は前と同じでないことを私たちは悟った」と振り返っている。「技術的に甘美な(Technically sweet)ものを見た時には、まずやってみて、技術的な成功を確かめた後で、それをどう扱うかを議論する」という「判断」が自分にはあった、とも語っている。

オッペンハイマーは、原爆の開発や、それが広島、長崎に投下されたことの「非人間性」「悪魔性」に対して戦後は自責の念も感じていたようだ。主語を「物理学者は…」と一般化しているものの「内心ただならない責任を感じた」「罪を知った」と吐露している。

ここから見えてくるものは、科学技術には「荘厳」で「甘美」な一面があり、その魔力が科学者を「まずやってみて」という罠に陥れることだ。科学者の探究心が暴走するとは、こういうことを言うのだろう。科学者は核兵器でそのことを痛感したのである。

この論考では、著者の取材体験が一つだけ披露される。半世紀前、欧州出張の折、ドイツ・ミュンヘン大学の教授だったハイゼンベルク(1901~1976)に取材を申し込んだ。「快諾」の返事があり、約束の日時に大学を訪れたが、「体調」を理由にすっぽかされたという。ハイゼンベルクは戦時中、核をめぐるナチスの軍事研究に関与の噂があった人だ。被爆国の科学記者からそこをつつかれるのが疎ましかったのではないか、と著者は推察する。

ただ、ハイゼンベルクは礼儀正しい人だった。後日、著者に丁重な詫び状が届いたからだ。手紙には本人の署名があり、この論考には、その部分の接写画像が載っている。新聞記者には、あと一歩で特ダネを射止めていたのに……という残念譚が一つ二つある人が多いが、これもその一例だろう。それにしても、ハイゼンベルクがもし約束を守ってインタビューに応じていたら広島、長崎について何を語ったか。読んでみたかった気がする。

この論考のもう一つの魅力は、各項目のすべてにその科学者の記念切手が添えられていることだ。著者は、長年続けている切手収集の成果を「戦争と科学技術」という重い論題にも結びつけた。ここにも「科哲」のゆとりが見てとれる。学派の伝統は生きている。
* コースの正式名称は時代とともに変わっているようだが、当欄は会誌にある呼び名を採用した。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年7月7日公開、同年8月12日更新、通算685回
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日高敏隆、DNA時代の動物観

今週の書物/
『人間はどういう動物か』
日高敏隆著、ちくま学芸文庫、2013年刊

DNA

私が「科学記者」になったのは、1983年のことだ。私がいた新聞社で大阪にも「科学部」を置くことになり、その一員に加わったのだ。希望が叶っての異動だった。

とはいえ、科学記者になってみると戸惑うことが多かった。取材先は、たいてい大学の研究者。研究室をふらりと訪ねても会ってはくれない。警察署や役所の取材とは勝手が違った。アポイントメント(面会予約)という言葉を使うようになったのも、そのころだ。

そんなアポイントメント取材で印象深いのは、当時、京都大学理学部教授だった動物行動学者の日高敏隆さん(1930~2009)だ。昆虫類から鳥類、哺乳類まで動物世界の語り部としてメディア露出も多かった人だ。だが、それだけではない。動物の研究を通じて人間のありように関心を抱き、文明批評にも長けた教養人だった。虫ぎらいの私が幾度となく日高研究室にアポをとったのも、日高さんの幅広い好奇心に魅せられていたからだろう。

あのころのことを思いだそう。研究室に入ると、ゼミ室のような一角に案内された。真ん中に、木製の大机がどんと置かれている。その机を挟んでまず、日高さんと向きあう。日高さんは、当日私が取材させてもらう予定の研究をかいつまんで話し、愚問にも答えてくれた。ただ話の区切りがつくと、パッと立ちあがって、どこかへ消える。そのあと、実地調査の手順や観察の結果を具体的に説明してくれるのは、若手の研究者だった。

これは間違いなく、日高流の心づかいだった。大学の場合、科学論文が連名で発表されるとき、研究の中心にいる若手研究者が筆頭著者となり、指導役の教授が最終著者になることが多い。ところが、メディア報道では「〇〇教授のグループが発表した」とされるのが通例で、若手研究者の存在が隠されてしまう。日高さんは、それを避けようとして記者を若手に引きあわせたのだ。実際に私の記事では、その若手が主役として登場していた。

日高さんの思い出は尽きない。だが、それに浸っていては行数を費やすばかりだから、昔話は後日に譲ろう。今回焦点を当てたいのは、20世紀にあった生命観の変転だ。

生物学では今からちょうど70年前、1953年に遺伝子本体DNA(デオキシリボ核酸)の立体構造が突きとめられた。その結果、生命はDNAで説明されるようになったが、このとき私たちの念頭にあるのは細胞レベルの現象だった。いわばミクロの生物学だ。ところが、話はそれだけでは終わらない。ミクロに呼応するようにマクロの生物学にも変化が起こった。日高さんもマクロの側にいる生物学者だったが、DNAと無縁ではなかった。

で、今週の1冊は『人間はどういう動物か』(日高敏隆著、ちくま学芸文庫)。これは、『日高敏隆選集Ⅷ』(本郷尚子編集、ランダムハウス講談社、2008年刊)の文庫化だ。第一章の章題で書名同様に「人間はどういう動物か」と問いかけ、第二章「論理と共生」、第三章「そもそも科学とはなにか」と話の幅を広げている。学術書のような組み立てだが、読んでみると雰囲気がまったく違う。肩の凝らないエッセイ集という感じだ。

本書は第一章冒頭の一文で、「人間もまた動物である」と宣言する。これは当たり前の事実でありながら、なかなか受け入れられないという。近現代には「人間は動物よりもえらい」「人間には理性がある、知性がある」という人間観が強まった。だが著者は、現実には戦争が後を絶たないことを指摘する。だから、私たちは自身も動物であることを認め、「人間とはいったいどういう動物なのか」を問い直すべきだ、と提言する。

こうして第一章では、人間は「直立二足歩行」をするために体の構造をどう変えてきたのか、人間が「毛のないけもの」になった理由は何か、などが話題となる。人間社会も俎上にあがり、一夫一婦制や少子化が動物行動学の視点から考察される。

読み進むと「人間はなぜ争うのか」と題する一節にも出あう。ここでまず登場するのが、オーストリアの動物学者コンラート・ローレンツ(1903~1989)。動物行動学を切りひらいた人だ。その研究から引きだした結論は「すべての動物のすべての個体は攻撃性をもっている」。個体は、なわばりや食べもの、異性などをめぐって同類の仲間と争う。この攻撃性は「遺伝的に組みこまれたもの」であり、「種を維持するために不可欠なもの」だという。

ところが動物行動学が進展するにつれて、「個体の攻撃性」を「種族維持のため」とみるローレンツの学説に反論が現れる。そうではなくて、「個体自身の遺伝子をできるだけたくさん後代に残していく」ためだという。英国の進化生物学者であり、動物行動学者でもあるリチャード・ドーキンスが唱えた「利己的遺伝子」説だ。ドーキンスは「利己的なのは遺伝子であって、個体ではない」と主張する。個体は「遺伝子のロボット」なのか。

話を整理しよう。「攻撃性」をローレンツは「遺伝的」なものととらえた。ドーキンスは「遺伝的」なものを具体的に「遺伝子」としてイメージした。結果として主役は遺伝子に取って代わられ、生物の個体や種は遺伝子を運ぶ乗り物になってしまった――。

第二章「論理と共生」では、意外だが都市計画の論考が並んでいる。都市工学、環境工学系の雑誌に寄稿したものが集められているからだ。だが、そこにも動物行動学者の視点は見てとれる。たとえば、「計画と偶然の間」と題された一編を見てみよう。

そこではアリの巣が「じつにうまくできあがっている」ことなどを例に挙げ、「地球上の自然」は「あたかもデザインされたよう」であるという。これは、生物の「形」や「構造」や「機能」、生物種間の「関係」にもいえることだ。では背後に、だれかデザイナー(設計者)がいるのか? 著者は、ここでもドーキンスを引きあいに出す。ドーキンスは、デザイナーは不要として「偶然の突然変異と自然淘汰。それだけでじゅうぶん」と断じている。

著者の思考に広がりがあるのは、このドーキンス説を都市論に結びつけていることでもわかる。砂浜の美が「打ち寄せる波という偶然」から生まれたように、心地よい風景に「偶然」が果たす役割は大きい。これを踏まえて著者は言う。「人は都市計画によって『与えられた』ものだけでは、けっして心から満足することはないだろう」。この一編の初出は「日本都市計画学会」の刊行物への寄稿だが、そこで計画至上論をチクリと刺している。

第三章「そもそも科学とはなにか」には、ローレンツが再登場する。ローレンツが動物の行動は「遺伝的にもともと決まっていて」、そのもって生まれた性質が「あるきっかけで」顕在化すると気づいたのは1930年代のことだ。著者によれば、そのころは動物の行動は学習によって身につけたものとみる考え方が主流だった。そんな思潮が背景にあったので、ローレンツの学説は「古い」「保守反動」と冷ややかに扱われたという。

当時は旧ソ連が台頭したころだ。ソ連では、農学者T・D・ルイセンコが遺伝よりも環境の影響を重くみる学説を提唱、それが政治思想と結びついた。動物の行動を生得的ととらえるローレンツの学説に「保守反動」のレッテルが貼られても不思議はない。

ところが20世紀半ば、形勢が逆転する。ローレンツは、本書の見出しにあるように「時代の『すこし先』をいっていた」のだ。1953年、DNA立体構造の発見で遺伝子の正体がわかり、生命現象の多くがDNAの働きに還元されるようになった。DNAの探究はミクロの領域にあるが、その影響はミクロにとどまらない。遺伝の実体がつかめたことでマクロ生物学も変わった。ドーキンスの利己的遺伝子説はその代表例だろう。

ただ、DNA重視の流れは人間のゲノム(遺伝情報一式)解読に行き着いて、今度は偏重の兆しが見られるようになった。親が子の遺伝情報を設計しようというデザイナーベビーの発想も一例だ。その落とし穴を日高さんならどう論じるか。読んでみたい気がする。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年6月30日公開、通算684回
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小池真理子が抉る家庭幻想のひび

今週の書物/
「妻の女友達」
=『妻の女友達』(小池真理子著、集英社文庫、1995年刊)所収

コロナ禍の3年間にもっとも存在感を示したのは、「家」かもしれない。家といっても、社会のあちこちに残滓が残っている家制度のことではない。入れものとしての家だ。戸建てであれ、集合住宅であれ、外部世界を物理的に遮断した空間のことである。

新型コロナウイルス感染症が広まりだすと、「ステイホーム」が叫ばれた。高齢者だけではなく働き盛りの世代まで、なるべく家にとどまるように促された。在宅勤務が推奨され、「テレワーク」「リモートワーク」も広まった。家が生活の主舞台となったのだ。

買いものも外食も極力控えた。それでふえたのが宅配サービスだ。通販で買ったもの、デリバリーを頼んだものが家に届けられる。その結果、「置き配」が日常化した。配達人は玄関先に物品を置いて帰る。支払いも今はデジタル決済で済ますことができるから、直接の受け渡しがなくとも用は足りた。コロナ禍の脅威が高まり、人と人の接触を減らすことが叫ばれていた一時期、私たちは貝が殻に身を潜めるように家に籠ったのだった。

ただ、家が閉鎖空間の性格を強めたときでも、その内側には多彩な社会が存在した。そこにあるのは、社会の最小単位としての家庭だ。夫婦二人ということがある。夫婦に子が一人もしくは複数という構成がある。親一人に子がいるというパターンがある。老老介護のような高齢者世帯がある。そして、独り住まいの家庭も少なくない。私たちはコロナ禍によって内向きに暮らしたことで、いつになく家庭を意識したのではないか。

それでふと思うのは、今は家庭がとらえどころないということだ。家庭が多様なのは昔も変わらない。私が幼かったころは戦争が終わって間もなかったから、寡婦や父のない子もあちこちにいた。だが、それでも当時の人々には、家庭らしい家庭というものに固定観念があった。父がいて母がいて子どもがいる、ときには子の祖父母もいる――そんな絵に描いたような家庭像を描くホームドラマが、ラジオやテレビにあふれ返っていた。

で、今週の一編は、そんな家庭像がまだ辛うじて有効だった時代に書かれた短編ミステリー。小池真理子の「妻の女友達」だ。同名の短編集(小池真理子著、集英社文庫、1995年刊)所収のものを読む。この作品は1989年、日本推理作家協会賞(短編部門)を受けている。1989年といえばバブル経済期。日本社会には、まだ高度経済成長の遺産があった。ここで提示された家庭のイメージは、その遺産の一部といえないこともない。

主人公の広中肇は、38歳の地方公務員。市役所の出張所に勤めている。担当は戸籍係で、「やるべきことを機械的にやっていればいい」という仕事をこなしていた。出張所は、田園地帯の面影が残る私鉄沿線の住宅街にある。肇は毎朝、妻の志津子から手製の弁当を受けとり、自転車を漕いで出勤、毎夕きっかり午後5時に職場を離れた。帰路、寄り道することはなかった。安定しているが、退屈といえば退屈。でも、不満な様子はない。

結婚は5年前。見合いだった。志津子は「優しくて気配りのきく家庭的な女」であり、「少ない給料をやりくりする能力」も持ちあわせていた。「清楚で控え目な感じ」が魅力だったし、「平穏な家庭生活を育もう」という姿勢も好ましかった。肇は「満点をやってもまだ足りないいい女房」と思っていたのだ。「家庭的」「やりくり」「控え目」……配偶者は専業主婦であって当然、とみる当時の男性目線を反映した言葉が並んでいる。

肇と志津子には、ちえみという3歳の娘がいる。一家はリビングと二間から成る貸家住まいだが、あちこちに縫いぐるみやモビール、人形の家などが飾られていた。娘を思う母親が手づくりしたものばかりだ。志津子は、良妻賢母の見本のような女性だった。

この作品は、その家庭の安定にひびが入っていく様子を淡々と描きだしている。志津子は初夏の或る晩、夕食を終えた後、肇に新聞の折り込み広告を見せながら「おずおずと」切りだす。「通ってもいいかしら」。駅前でカルチャーセンターが開校した、フランス料理の講座もある、週一度だから受講してもよいか――そんな話だった。「でも、あなたがその必要がない、とおっしゃるのなら、やめます」と、どこまでも控え目だ。

夫「きみが通いたいなら、かまわないよ」。妻「ほんと? いいの?」。夫「いいとも」。このやりとりには、妻は夫の管理下にあるという大前提があるように感じられる。

同じ夜のことだった。広中家にはもう一つ、異変が起こる。午後9時近く、突然電話が鳴り響いたのだ。肇が受話器を取ると、「もしもし? 広中志津子さんのお宅でしょうか」。女性の声だ。多田美雪と名乗った。肇は志津子に向かって「きみの友達じゃない?」と聞く。「美雪さん? まさか、あの美雪さんじゃ……」。志津子には心当たりがあるようだった。高校時代の級友。渡米して帰国後「女流評論家」となり、今はメディアの寵児だ。

志津子は電話口に出ると、短い会話を交わしてすぐ受話器を下ろした。多田美雪は今から立ち寄りたい、と言ったという。もう、そばまで来ているというのだから強引な話だ。だが、志津子に迷惑がる気配はない。「いいでしょう?」と肇に同意を求める。

志津子は、多田美雪がどれほどの著名人かを語って聞かせる。筆名が「ジャネット・多田」であることや「アメリカ人の男の人と結婚して、別れた話を書いた本」が話題を呼んだことだ。その本は「あなたに見せたでしょう?」と言う。肇も、そのことは覚えている。『ブロンドの胸毛と暮らした日々』というエッセイ集だった。題名に嫌悪を感じて読む気にはならなかったが――。このあたりから、家庭の安定を脅かす異物の影が見えてくる。

筋を逐一たどるのはネタばらしになる恐れもあるので、このくらいでやめよう。ただ、ミステリーにかかわらない範囲で、もう少しだけ話を進めておく――。多田美雪は、たしかに来宅する。「講演会の帰り」ということで、そのいでたちは「映画やテレビでしか見ることのできない女優のようだった」。ハイヤーで帰途についたら「志津ちゃんのこと」が思い浮かんで電話をかけたという。それは、旧友に対する友情の表れとばかりは言えなかった。

美雪の本音は、志津子に「身の回りの世話」をしてもらえないか、ということにあった。家政婦のような見ず知らずの人は家に入れたくない、週に一度でいいから留守中に合鍵で入って掃除や片づけをしておいてくれないか――。志津子は困惑しつつ、うれしそうな表情も見せて、肇の顔をうかがう。肇は「きみの好きにしたらいいよ」と言うしかない。こうして話はまとまる。これが家庭の安定を揺るがす一連のゴタゴタの始まりだった。

作者が巧妙なのは、1980年代末の価値観の移ろいをあぶり出すのに、二つの極端を遭遇させたことだ。片方には専業主婦、良妻賢母という旧来の女性像がある。もう一方には、自身の体験を赤裸々に語って飛躍する女性の生き方がある。両者は互いに異物であり、相互作用がないように見えながら、実はどこかで通じている。どちらの側の女性も同時代人だからだ。或る夜、片方がもう一方と接触したことで、そこに化学反応が起こる。

家が殻になった今、美雪が志津子の家にふらりと現れることもあるまい。私たちは異物に触れる機会がめっきり減った。それがよいかどうかは別の話だが。
☆引用箇所にあるルビは原則省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年6月23日公開、通算683回
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「週刊朝日」に愛を込めて

今週の書物/
朝日新聞写真館since1904「週刊朝日『ジャンプ’63』上・下」
朝日新聞2023年5月27日付夕刊、同年6月3日付夕刊

上記「写真館」の見出し

先週に続けて今週も、当欄は特別番組を組む。2週連続で本から離れるというのは心苦しいが、今を逃すとタイミングを失するので決行させていただこう。

バタバタした理由は、私のうっかりにある。「週刊朝日」の休刊についてはすでに書いているが(*1)、最終号が5月30日に出たら、それも読み、改めて話題にしようというのが私の構想だった。ただ30日から2日間、温泉旅行の予定があった。最終号は旅先でも買えるだろうと高を括っていたが、最近は週刊誌を置く駅の売店がなかなか見つからない。31日に東京に戻り、わが町の昔ながらの書店に駆け込むと、もう売り切れだった。

部数が減ったことで、休刊に追い込まれる。ところが最終号が店頭に並ぶと、飛ぶように売れる。なんとも皮肉な話だ。とまれ、私の計画は泡と消えた。

そんなときだ。古新聞の切り抜きをしていて、おもしろい記事に出あった。土曜日夕刊に「朝日新聞写真館since1904」という連載があるのだが、5月27日と6月3日に上下2回で「週刊朝日『ジャンプ’63』」と題する写真特集が掲載されていた。新聞が届いた日にはうっかり見逃したが、後日切り抜き作業で目にとまり、被写体となった人物たちのポーズに思わず見とれてしまったというわけだ。だれもかれも、無邪気に跳んでいるではないか。

「ジャンプ’63」は、「週刊朝日」1963年の新年企画。「編集部の要請で各界のスターら約100人が次々跳ね、新年から3号にわたってグラビア誌面を埋めた」(「写真館」下の回の前文記事)ということらしい。「写真館」では、上下9人ずつ計18人が登場する。芸術家がいる、俳優がいる、映画監督がいる、経営者もいる、そして政治家も……。アトリエで跳んだり、稽古場や撮影所で跳ねたり、自宅応接間でジャンプしたり……。

私が思わずうなったのは、当時の「週刊朝日」が押さえるべきところを押さえていたことだ。1963年年頭の時点で、的確な先物買いをしている。たとえば政界では、1964年から8年間の長期政権を担った衆議院議員の佐藤栄作がいる。文化の領域では、1970年の大阪万博で「太陽の塔」をデザインした前衛芸術家の岡本太郎がいる。2023年の現在に至るまで国民的スターであり続けている女優の吉永小百合もいる。(敬称略、以下も)

もちろん、今回の「写真館」上下2回では約100人を18人に絞っているわけだから、歴史に名を刻んだ人物が選ばれているということはあるだろう。それにしても、である。

佐藤栄作は1963年、すでに有力政治家で閣僚経験も豊富だったが、63年年頭に限れば一代議士に過ぎなかった。当時の首相は池田勇人で、自民党内では官僚出身の佐藤と党人派の河野一郎が跡目を争うライバルだったが、大衆の人気だけでいえば河野に分があったように思う。もしかすると、この企画では河野にも跳んでもらっているのかもしれない。ただ、佐藤に声をかけることを忘れなかった。抜け目のない判断といえるだろう。

佐藤の跳び姿を見てみよう。両手を挙げ、スーツ姿で跳びあがっている。撮影場所は自宅応接間。背後にドアがあり、床には絨毯が敷かれているようだが、全体として質素な印象を受ける。驚くのは、佐藤が革靴を履いていることだ。この部屋は、靴を脱がない欧米式なのか。いかにもだな、と思わせるのは、こんなときでもワイシャツの袖口がカフスボタンで留められていることだ。一分の隙もない感じ。人気が出ないのももっともだ。

このとき佐藤は61歳。ジャンプ力はなかなかのもので、両手はほとんど天井に届いている。そのポーズを見て、私は51年前のバンザイを思いだした。1972年、沖縄復帰記念式典で佐藤首相は「日本国万歳、天皇陛下万歳」と発声し、会場は万歳三唱に包まれた。変な気分だった。日本は高度経済成長を果たし、戦争の傷跡を忘れかけている。ところが、それとは逆に自由の空気はしぼんでいる。その中心にいたのが佐藤首相だった。

「ジャンプ’63」の顔ぶれは、いずれも時代を映しだしている。松下電器産業会長の松下幸之助は自社の会長室で、拳を握りしめ、右手を高々と挙げて跳んでいる。1960年代前半といえば、電化製品が去年はあれ、今年はこれ、というように家庭になだれ込んだ時期に当たる。家電を買えるだけの給与増があったという意味でも、家事労働が軽減されたという意味でも、豊かさを実感できる時代だった。松下の跳び姿には、その勢いがある。

俳優の三船敏郎は海老反りで豪快なジャンプだ。三船といえば、疲労回復薬やビールのCMが猛烈サラリーマンの心をつかんだ。高度成長を象徴する人物だったといえよう。

ただ、高度成長期は猛烈だったが、優しい一面もあった。あのころの大人は戦争が人間性を毀損する記憶から逃れられず、ヒューマニズムを渇望していたのではないか。シナリオ作家松山善三と俳優高峰秀子夫妻が自宅で仲良く跳ぶ姿を見ると、そんなふうに思える。

これらの写真群のなかで、もっともジャンプに似合わない人は、映画監督の小津安二郎だろう。和服をキリっと着こなして自宅の客間で跳んでいるのだが、小津映画風のローアングルで見あげても、爪先は床の間の段差ほども上がっていない。それはそうだ。小津はこのときまでに代表作のほとんどを撮り終えていたからだ。このころは、すでに静かな境地にあったのではないか。それ以降に飛躍したのは、小津の世界的な名声だった。

作家有吉佐和子も和室で着物姿。当時すでに『紀ノ川』などの作品で人気作家だったが、1970年代に入ると果敢に社会問題に挑んだ。『恍惚の人』、そして『複合汚染』。ジャーナリスティックなテーマを次々見つけ、飛び石を渡るようにぴょんぴょん跳んでいった。

俳優森光子は、和服姿で膝を曲げ、数十センチも跳びあがっている。森といえば舞台でのでんぐり返しが有名だが、その素養は若いころからあったのだ。俳優岡田茉莉子はシックな洋装で、体操選手のように跳んでいる。この人は1970年、夫吉田喜重監督の「エロス+虐殺」でアナーキストの愛人になった(*2)。2時間ドラマの人気シリーズ「温泉若おかみの殺人推理」では憎めない大おかみも演じている……半世紀余の記憶が脳裏を駆けめぐる。

「ジャンプ’63」で懐かしさを覚えるのは、評論家大宅壮一のいでたち。「写真館」登場の18人で男性の和服姿は小津と大宅の二人きりだが、小津のキリッに対して大宅はグダッ。おとうさんが勤めから帰って、夕飯のために着物に着かえたという感じだ。あのころは、そんなおとうさんがどこにもいた。大宅は、書物がぎっしり並ぶ自宅書庫の書棚に挟まれた空間で、結構な高さまで跳んでいる。ジャーナリズムが元気な時代ではあった。

考えてみれば、1963年は、戦後日本がもっとも明るさに満ちていたころだった。その時代精神を「ジャンプ」という動作で可視化した「週刊朝日」編集部には脱帽だ。「跳んでください」と言われた人々もまんざらではなかったのだろう。思いっきり跳べば高みに手が届くはず、という期待があのころはみんなにあった。各界で活躍する人たちなら、その期待は確信に近かったに違いない。だから、みんなうれしそうに跳んでくれたのだ。

いま痛感するのは、「週刊朝日」の過去号(バックナンバー)は私たちにとってかけがえのない財産である、ということだ。そこにあるのは、新聞の縮刷版が具えた記録性と同じものではない。雑誌の過去号には、その号が出た時代の空気が詰まっている。雑誌は、いわば街角。過去号があればタイムマシンにでも乗るようにあのころの街角に戻り、あのころの空気を吸える。雑誌のアーカイブズを大事にしなくてはならない、とつくづく思う。
*1 当欄2023年2月17日付「『週刊朝日』デキゴトの見方
*2 当欄2023年3月24日付「竹中労が大杉栄で吠える話
(執筆撮影・尾関章)
=2023年6月16日公開、通算682回
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上岡龍太郎の筋を通す美学

今週の書物/
「上岡龍太郎さん死去」の記事
朝日新聞2023年6月3日付朝刊第二社会面

3段扱い?(上記の紙面)

今週の当欄は特別番組。元テレビタレント上岡龍太郎さんの訃報に接して思うことを書く。面識はないが、忘れがたい人だ。書きとめておきたいことがいっぱいある。

上岡さんは5月19日、81歳で亡くなった。肺がんと間質性肺炎を患っていたという。この死亡記事を朝日新聞東京本社版は第二社会面に中くらいの大きさで載せた(業界用語でいえば3段の扱い。といっても変則的で、2段見出しに顔写真を添えて3段にしてある)。大江健三郎や坂本龍一級の著名人が死去したときは記事本記とは別に評伝風の記事や関係者のコメントが載るものだが、それもない。ひとことでいえば地味な扱いだった。

これを見て私の頭をよぎったのは、大阪本社版ではもっと大きいだろうなという推察だった。確認していないので断言はできないが、たぶんそうだと思う。上岡龍太郎という人物をどうみるか、その評価には東西で温度差がある。理由は、上岡さんが出演したテレビ番組やラジオ番組が主に関西圏で放送されていたからというだけではない。上岡さんの話芸を支える知性が関西の文化と密接不可分だったこともあるのではないか。

私は東京生まれ東京育ちだが、20代半ばで新聞社に入ってからは転勤を重ね、関西での生活が通算10年余に及んだ。だから、関東人のものの見方も関西人のものの見方もそれなりに理解できる。今回は、その比較のなかで上岡龍太郎的なるものを位置づけたいと思う。

さて私が10代の少年だった1960年代、テレビがもたらしたものの一つに東西文化の相乗りがあった。東京にいても週に幾本かは在阪局制作の番組を見せられることになる。大村崑の「とんま天狗」(よみうりテレビ)を観た。藤田まことの「てなもんや三度笠」(朝日放送)も観た。そういえば「番頭はんと丁稚どん」(毎日放送)という人気番組もあった。関東の少年少女にとって、関西人のギャグはただひたすら笑えたのである。

私が上岡さんをテレビで初めて見たのも1960年代だ。「漫画トリオ」の横山パンチとして「パンパカパーン、パパパパンパカパーン、今週のハイライト」とやっていた。当時は、横山ノックというおどけた主役を引き立てるハンサムな脇役という程度の印象だった。

1960年代も後半になると私の関西観も変わってくる。そのきっかけは在阪民放局制作のトーク番組だった。番組名が何か、どの局がいつ放映していたかはもはや思いだせないのだが、スタジオに在関西の知識人が顔をそろえていた。京都大学の教授がいた。人気SF作家もいた。出演者自身が座談を楽しんでいるのだが、その話に思わず引き込まれる。そこには、とんま天狗とも、てなもんやとも、パンパカパーンとも異なるおもしろさがあった。

意外だったのは、出演者のなかに落語家が一人いたことだ。上方落語の継承者で文化勲章も受けた故・桂米朝の中堅時代だ。どんな話をしていたかは思いだせない。ただ、居並ぶ学界、文壇の重鎮たちに気押されることなく堂々と持論を述べていたことが忘れられない。

私たちの世代が子どもだったころ、東京の噺家には屈折した町人気質のようなものがあり、「俺っち、むずかしいことはわからないが……」と、知識人とは距離を置く傾向が強かった。ところが関西では様相が違うらしい。落語が町人文化である点は同じだが、それが公家や武家の文化と対等だという認識が人々の間にあるようだ。江戸時代、大坂(現・大阪)は商いで存在感を示したが、そのころの自負心が今も脈々と受け継がれているのだろうか――。

私が1980年代、関西で暮らしはじめたとき、上岡さんがピン芸人として活躍しているのをよく見かけるようになって気づいたのは、彼にはどこか桂米朝に通じるものがあるということだった。学歴などとは関係なく、自ら知性を磨いた人。そんな共通項がある。

今回の訃報報道で知ったのだが、上岡さんは日ごろから「米朝師匠」に対する尊敬を口にしていたらしい。2000年の芸能界引退後は自身の連絡窓口を米朝事務所に置いていたともいう。二人にはきっと響きあうものがあったのだ。私はそう思いたい。

ただ、ひとことことわっておくと、上岡さんは知的であっても知識人然とはしていなかった。それは彼が出演した番組を思い返せばわかる。今回の訃報報道ではあまり触れられていなかったが、1980年代半ば、関西圏で深夜の時間帯に放映されていた「ぼくらは怪しいサラリーマン」(毎日放送)というバラエティーを例にとろう。「最終電車でジャンケンポン」というコーナーが私のお気に入りだったが、バカバカしいといえばバカバカしかった。

カメラが中心街に出て、駅頭でサラリーマンを呼びとめる。誘いに応じた二人がジャンケンポンをして、勝ったほうはテレビ局差しまわしの高級ハイヤーで家路につく。負けたほうはすごすごと電車で帰宅――と私は覚えていたのだが、今回ネット情報を調べると、終電はすでに駅を出ていて敗者は路頭に迷う、とする記述があった。1980年代といえば、私も夜遅くまで働き、そして飲み歩いていた時代だ。身につまされる企画ではあった。

この番組については特記しておきたいことがある。これはやらせだろう、という疑念が私には微塵も生じなかったことだ。一つには、関西では街の人々がテレビの企画によろこんで乗ってくるからだ。タレントとの間で、気後れすることもなく絶妙の受け答えをする。

もう一つは、司会が上岡龍太郎だったからだ。この人はうそをつかない、という確信めいたものが私にはあった。今回の訃報を受けて爆笑問題の太田光が、上岡さんはやらせを決して許さなかったという逸話をテレビで披露していたが、やはりそうだったのかと思った。

当欄でとくに強調したいのは、上岡龍太郎は筋を通す人だったということだ。なにごとも、自分の頭で論理的に考えて結論を出す。あいまいなかたちでは妥協しない。

たとえば、上岡さんは呪術、オカルト、占いに類することに批判的だった。バラエティー系の番組は往々にして、こうした話題をおもしろおかしくとりあげたりするが、そういう風潮を拒んだ。いや、それどころか真っ向から反証を試みることもあった。

私には、忘れられない場面がある。スタジオに占い師たちが数十人並んでいる。上岡さんは傍らに立って、占い師集団に問いかける。どんなことを聞いたかはまったく思いだせないが、あえて例題を示せば「今季、阪神タイガースは優勝しますか?」といったような質問だ。ここで「優勝する」と答えた占い師が5割を占めたとしよう。「はい、これで占い師さんの半数は当てにならないことがわかりました」――こんなふうに進行したように思う。

タイガースの例題は私のつくり話だ。ただ、番組が占い師を大勢集め、予言の統計をとれば占いの不確かさが歴然とすることを見せつけたのは確かだ。ここからは私の推測だが、この企画は上岡さん自身の着想によって生まれたとみるのが自然だろう。

これが、なんという番組だったかははっきりしない。大阪発の「11PM」(よみうりテレビ制作、日本テレビ系列)であろうと私は思っていたのだが、どうもそれは間違いで、1990年に「11PM」が終了した後、その後継として放映された「EXテレビ」だったらしい。

上岡さんは、この番組でよみうりテレビ制作の回の司会役だった。ちょうど「探偵!ナイトスクープ」(朝日放送制作、テレビ朝日系列)の局長役で全国的に知名度が高まった時期だ。上り坂の勢いもあり、自分が仕切る番組で積年の主張を裏づけてみせたのではないか。

上岡さんは2000年、タレントとして脂の乗り切った絶頂期に引退を決め、以後23年、隠居を貫徹した。ここでもまた筋を通したのである。今の世に珍しく、美学の人だった。

☆今回の拙稿は主に、私の覚束ない記憶をもとに書きました。ネット検索で得た情報も参考にさせていただいたのですが、それを読んで、私の記憶が細部では当てにならないことを教えられました。間違いのご指摘があれば、随時再検討して直していくつもりです。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年6月9日公開、通算681回
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