戦争の夏に「第三の男」を読む

今週の書物/
『第三の男』
グレアム・グリーン著、小津次郎訳、ハヤカワepi文庫、2001年刊

楽都ウィーン

いつのまにか1年半の戦争になってしまった。ロシアによるウクライナ侵攻である。

第2次世界大戦後、国際社会はいくたびか戦争を経験した。それは、東西冷戦を反映した局地紛争のこともあった。民族間や宗教間の確執のこともあった。ただ、戦争の空気が地球全体を覆うことは一度もなかったように思う。ところが、今般は様相が異なる。

最大の理由は、そこにロシア対NATO(北大西洋条約機構)の大きな構図があることだ。ロシアは、もはや旧ソ連のように世界を二分する超大国ではない。だが、それがかえって不安定な要因を生みだしている。NATOは、北米と欧州の主要国が加盟しており、いわゆる西側陣営が実体化されたものだ。直接の戦争当事者ではないが、当事国ウクライナの後ろ盾となっている。この状況は、世界戦争の一歩手前だと言っても言い過ぎではあるまい。

私たちの世代が奇妙に思うのは、それなのに世界規模の反戦運動が起こらないことだ。ウクライナの抵抗を支援する声は世界中に広まっている。だが、「反戦」という言葉がなぜかあまり聞こえてこない。確かに真っ先に批判すべきは、ロシアの侵攻だ。隣国に踏み込んで人々の生命と財産を奪う行為はどんな理由があっても許されない。ただ、それだけではなく、戦争そのものに対して「ノー」を突きつける動きがもっとあってよい。

1960年代のベトナム反戦を思いだしてみよう。ベトナム戦争は、米国がアジアでの覇権を死守しようとする戦いだった。そのために蹂躙されたのが、ベトナムの人々の自決権だ。だから、私たちの世代は「米帝国主義」に反発を覚え、心情的にはベトナムの抵抗勢力に連帯感を抱いたものだが、それでも「反戦」という言葉は捨てなかった。私たちは、たとえ戦争当事者のどちらか一方に共感していたとしても「反戦」を訴えるべきなのだ。

論理に矛盾があるかなとは思いつつ、私がこんなことを言うのも、戦争が人を殺すことを合法化しているからだ。殺人の正当化は、悪の培地を用意することにほかならない。それゆえに私たちは、人々の抵抗を応援しつつ、戦争そのものには反対しなくてはならない。

で今週は、戦争とは何かについて考える。手にとった本は『第三の男』(グレアム・グリーン著、小津次郎訳、ハヤカワepi文庫、2001年刊)。第2次大戦後のオーストリア・ウィーンを舞台に、戦勝国の占領が敗戦国の社会を混乱に陥れる様子を描いている。

本書は、言うまでもなく不朽の映画作品「第三の男」(キャロル・リード監督、1949年、英国)の小説版だ。ただ、映画の小説化(ノベライズ)ではない。著者グリーン(1904~1991)は映画プロデューサーに頼まれ、ウィーン占領の「物語」を執筆した。それをたたき台にリードと議論を重ね、映画の脚本を仕上げた。たたき台の「物語」が、この小説版だ。新聞記者出身の作家が書いたものなので、ジャーナリスティックな感覚が見てとれる。

この映画のことは、先月の当欄で言及している(*)。名優オーソン・ウェルズ演ずる「第三の男」が戦争を肯定するような台詞を吐いたという話だ。その台詞は、イタリアでは戦争の時代にルネサンスが花開いた、という趣旨だった。ただ、この文言は小説版には出てこない。巻末解説「たそがれの維納」(川本三郎執筆)によると、脚本にもなかったらしい。ウェルズが19世紀の芸術家の文章をもとに考案したアドリブだという。

著者の度量を感じさせるのは、本書冒頭の序文で、映画が「物語」即ち小説版と同じではないことについて、「変更」は「いやがる著者に強制されたもの」ではないとことわっていることだ。「映画は物語よりも良くなっている」「映画は物語の決定版」と強調している。

とはいうものの、当欄は今回、映画ではなく、あくまでも小説版に沿って『第三の男』に迫ることにする。本書の原著は、1950年に刊行された。本書のもとになる邦訳は『グレアム・グリーン全集』第11巻(早川書房、1979年刊)に収められている。

さて、映画プロデューサーの企画通り、この作品の陰の主役はオーストリアの首都ウィーンである。1945年、ナチスドイツの支配から解放されたが、今度は戦勝国に占領された。市域は米国、ソ連、英国、フランスの「四大国」によって分割統治された。ただし、「環状道路(リング)」に囲まれる都心部「インナー・シュタット」は四大国の共同管理。月ごとの輪番制で一つの国が「議長」となり、「治安の責にあたる」というものだった。

このインナー・シュタットには、「連合国警察」の巡回がある。四大国のそれぞれが憲兵一人ずつを送り込み、国際パトロール隊を急ごしらえしていた。「うまく気心が通じているとは義理にも言えないが、敵の国語をしゃべって話が通じていることは事実だった」。ここで「敵の国語」とはドイツ語のことか。そんなギクシャクぶりがよくわかるくだりが、小説後段にある。ここでは、その一節を、筋を明かさない範囲で紹介しよう。

ソ連が議長国のとき、国際パトロール隊のソ連兵が深夜、英国の占領地区にまで車を走らせ、女優を連行しようとした。他国の隊員には片言のドイツ語で「ソ連国民が、正当な書類も持たずにここに住んでいる」と説明した。米兵が「まずいドイツ語」で「ソ連はオーストリアの市民を逮捕する権利はない」と反発したが、ソ連兵は、女優はハンガリー人であると主張した。ハンガリーはソ連の一部だとでも言いたいのか。すでに東西冷戦の構図がある。

このくだりでは、女優が服を着替える場面がある。ソ連兵は「部屋を離れることを拒否した」。だから、女優の一挙手一投足を監視しつづけた。米国兵は「無防備の女をソ連兵と二人だけにしておこうとはしなかった」。だから、後ろ向きに立ち、神経を集中させた。英国兵は「室内に留まることを拒否した」。フランス兵は「衣裳ダンスにうつる女の着替える姿を、冷ややかに楽しんでいた」――艶笑小話の感はあるが、四大国占領の混乱がわかる。

作品の輪郭を素描しておこう。主人公ロロ・マーティンズは英国の大衆作家。学校時代の友人ハリー・ライムに招かれ、ウィーンにやって来る。ハリーは現地で難民救済の仕事に携わっていたが、住まいのあるアパートを訪ねると、つい最近、車に轢かれ死んだとのことだった。事故は自宅前の路上で起こり、友人二人が目撃していたという。ただ、ロロが調べていくと、現場にはもう一人、謎の人物がいたらしい。これが「第三の男」である。

ロロは、ロンドン警視庁の警察官で今はウィーンに駐在しているキャロウェイ大佐と知りあい、占領下の都市の暗部を教えられる。そこにはびこっているのは闇商売だった。物資の不足につけ込んで「法外な値段」を吹っかける商いが横行しているという。

キャロウェイ大佐が捜査しているのが、抗生物質ペニシリンの密売だ。大佐によれば、ペニシリンは「軍の病院」――ここで「軍」とは占領軍のことだろう――に優先的に配給される。それを看護兵が掠めとり、オーストリアの医師たちに横流しするという犯罪が組織化されていた。大儲けするのはボスで、実行犯の分け前はわずか。それでも実行犯は、自分を「賃金労働者」のように感じて納得する。「全体主義の政党に酷似している」のだ。

作中では、このペニシリン闇商売が医療犯罪として悪質なものになっていく様子も大佐の言葉で語られているが、それはここでは書かない。作者グリーンは序文で「闇ペニシリンの物語は悲惨な事実にもとづいている」としているが、細部は虚構の可能性もあるからだ。ただ、ペニシリンは第2次大戦中に感染症の特効薬として注目されるようになり、戦後の医療現場では垂涎の的だった。それを「闇」に取り込む悪党がいても不思議はない。

作者は、ウィーンの「闇」を都市構造と結びつけている。この物語によれば、ウィーンの街角にあるポスター用の広告塔は内部が地下の下水路網へ通じている。それは「ウィーン中のほとんどどこへでも」抜けられる地下道であり、脱走兵や泥棒の隠れ家でもあった。

作者は本書序文で、ウィーンでの取材時に英国の情報将校から、下水路の内部には四大国の管理が及んでいないことを教えられたという。「各国の情報部員は何の制限もなく自由に行き来できる」のである。この作品では、その下水路網で大捕りものが繰り広げられる。「滝」がある、「急流」がある、「洞穴」もある。「われわれのほとんど誰もが知らない、奇妙な世界が、われわれの足の下に横たわっている」――それは文字通り「闇」の世界だった。

戦争の結末は、戦勝国にとっても決して好ましいものではない。分割占領が新たな紛争のタネをまくことがある。闇の商いで暴利を貪る地下組織が根を張ったりもする。やはり、戦争には良いことなどない。「反戦」という言葉を捨ててはならない、と改めて思う。
* 当欄2023年7月7日付「科学記者のゆとりを味わう
(執筆撮影・尾関章)
=2023年8月18日公開、通算691回
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8・12の回想を歴史にする

今週の書物/
『墜落の夏――日航123便事故全記録』
吉岡忍著、新潮文庫、1989年刊

鎮魂の日々

先週のまくらでも書いたように、日本の8月は鎮魂の空気に包まれる。6日、9日は原爆投下の日、15日は終戦の日。これらはいずれも1945年の出来事だった。すでに近現代史の1ページであり、だからこそ記憶の風化が懸念されている。これに対して、12日の日航ジャンボ機墜落事故は終戦の40年後、1985年に起こった。まだ、歴史ではないと思ってきたが、本当にそうか。今30代半ばより若い人は、すべて事故後に生まれている。(*1

で、今週は1985年を歴史の軸に位置づけ、その視点であの事故をとらえ直してみよう。

1945年を起点に日本戦後史を復興期→高度成長期→バブル期→バブル崩壊期……と区分けしていくと、1985年は、高度成長期が1973年の石油ショックで終わり、しばらく緩やかな成長が続いた後、1980年代後半のバブル期に突入しようとしていたころだ。

私は30代半ば。新聞社に勤めて8年が過ぎたころだったが、給料は毎年、前年を上回っていたように思う。右肩上がりの時代だった。当時は大阪本社勤務で、夜も北新地界隈を飲み歩くことが多かった。近くの道路には酔客目当てのタクシーがぎっしり並んでいた。

当欄は今春、上岡龍太郎さんの死を悼む拙稿で、1980年代半ばに関西圏で放映されていた深夜番組「ぼくらは怪しいサラリーマン」(毎日放送)のことを書いた(*2)。「最終電車でジャンケンポン」というコーナーは、終電の時間帯、駅頭で酔客らしい二人にジャンケンしてもらい、勝者には高級ハイヤーに乗って帰る権利を与えるという趣向だった。当時のサラリーマン生活では、会社の仕事と夜の飲み歩きが一体だったことがわかる。

そういえばあのころは、サラリーマンという言葉がふつうに使われていた。その裏返しで、女性事務員はOL(オフィスレディ)と呼ばれたものだ。1985年は男女雇用機会均等法が定められた年だが、職場の主戦力は男たちである、という固定観念が拭い難くあった。大手企業のほとんどは終身雇用制をとり、社内人事では年功序列が重視されていた。そこには、戦後昭和の枠組みがある。高度成長期をそのまま引きずっていたといってもよい。

ただ、変化もあった。たとえば、町にフランチャイズの店がふえたことだ。ファストフード店、ファミリーレストラン、コンビニエンスストア、百円均一の店、衣料量販店……。この大波にのまれるように商店街から個人商店が消えていき、町の風景はのっぺりしてしまった。ただ、フランチャイズ店の商いは概して価格帯が手ごろだ。皮肉なことに、そうした店がふえることでバブル崩壊後の暮らしの基盤が用意されていたともいえる。

1980年代は日本人が国際化した時代でもあった。今、JTB総合研究所のウェブサイトを開くと、日本人出国者数の推移がグラフ化されている。1980年代に急増、1986年に年間500万人に達して1990年には1000万人を突破した。高度成長期には考えられなかった規模感だ。戦後、為替レートは1ドル=360円の時代が続き、1ドル=308円の過渡期を経て1973年に変動相場制になった。日本人が大挙して海外に飛び出た背景には強い円があった。

国際化は外国旅行だけではない。経済もグローバル化した。資本や労働力の移動に対して国境の壁が低くなったのだ。1980年代は日本企業が海外へ進出することばかりが目立ったが、逆方向の流れが起こるリスクもあのころに抱え込んだように思う。

こうしてみると、1980年代半ばの日本社会は高度成長期を抜け出て、次の時代に入る移行期にあった。だが当時、私たちには見抜けなかったことがある。一つには、右肩上がりが突然途絶したことである。数年後、その見通しの甘さを痛いほど思い知らされる。

それだけではない。私たちは次の時代がどんなものになるかを思い描けなかった。1985年の時点で、10年後にインターネット元年が到来してネット社会が出現すると予言できた人がどれだけいただろう。四半世紀後に電車の乗客がそろってスマートフォンに指を走らせる光景を想像できた人がどれほどいただろう。今やモノのやりとりよりも情報のやりとりのほうが一大関心事となり、後者が新しい価値を次々に生みだしている。

1985年をひとことで表現すれば、私たちの先行世代が高度成長の時代を駆け抜けた後の踊り場ではなかったか。石油ショック後のなだらかな成長期でバブルの気配は漂っていたが、次の展開は1990年代まで見えてこなかった。バブル経済の崩壊しかり、ネット社会の幕開けしかり。私たちはそれを予感できず、高度成長の遺産がもたらす恩恵に浴して、のほほんとしていたのだ。そんなとき、あのジャンボ機の機影が消えた――。

で、今週も『墜落の夏――日航123便事故全記録』(吉岡忍著、新潮文庫、1989年刊)を読む。焦点を当てるのは先週同様、第3章「ビジネス・シャトルの影」だ。そこには、事故機の乗客509人の統計的な分析も詳細に書き込まれている。これは、毎日新聞(1985年9月12日朝刊)が、123便の乗客やその家族の全体像を記事にしたものを出典としている。そのデータからも、日本社会が1985年にどんな位相にあったかが浮かびあがってくる。

乗客の職業をみると、事故機が東京発大阪行きの夕方の便ということを反映して、日本経済の主力ともいえる人々が多数を占めていた。「企業経営者」31人、「会社役員」42人、「管理職もふくめた男女一般社員」219人、「自営業者」15人……企業のトップを含む経営陣が1割強を占めている。この客層は、著者が空港ロビーに見いだした「新しさのざわめき」や「陰影のない照明」が醸しだす高揚感と波長がぴったり合っている。

出張の行き帰りが多かった。単独で乗っていた「会社員」のうち、出張中は133人。内訳をいえば、関西方面へ向かう人が32人、東京方面から帰る人が101人だった。

興味深いのは、乗客たちが携わっていた仕事の領域だ。本書の文言を使えば「ビジネスマンたちの業種」だ。まだ、ビジネスパーソンという言葉は定着していなかった。著者が順不同で並べた「業種」は「ガラス、製麺、繊維、化粧品、食品、銀行、家具、精密機器、リース業、レジャー開発……」。すぐ気づくのは、今でいうIT関係がほとんどないこと。わずかに「コンピュータ」という項目があるくらいだ。まだ、情報よりモノの時代だった。

乗客には、夏休みということで観光客も101人いた。このうち76人は、東京ディズニーランド(浦安市)とつくば科学万博(つくば市)の両方、もしくは片方を楽しんで家路についていた人だった。こうしてみると、観光にもどこか高揚感があった。

本書は、墜落直前の機内を1985年の世相に照らしあわせている。著者は取材で、この便に客として乗っていた客室乗務員職の女性生存者から話を聞いていた(第2章「三十二分間の真実」)。その証言によれば、救命胴衣は非常口を出てから膨らますものなのに機内で膨らませてしまう乗客が何人かいたという。あわててしまったのだ。著者が座席番号から割りだすと、一流企業の「ビジネスマン」ばかりだった。企業戦士もまた人間だったのだ。

著者は人間に希望も見ている。たとえば、この女性生存者の隣席にいた男性Kさん。彼女とともに、救命胴衣を今は膨らまさないよう周りに呼びかけ、彼女が、もしものときは乗客避難に力を貸してほしいと頼むと「任せておいてください」と応じた。Kさんは40歳、東京に単身赴任中の建設会社員だった。著者は、そこに「冷静なだけではない品位」をみて「一人ひとりの実質がむきだしにされるときも、輝くものを失わない人がいる」と書く。

最後の32分間には乗客5人が遺書を残した。手帳に「どうか仲良く/がんばって/ママをたすけて下さい」、ノートに「しっかり生きろ」「立派になれ」、時刻表に「死にたくない」、紙袋に「子供よろしく」、社名入り封筒に「みんな元気でくらして下さい」……これら「ぎりぎりの言葉」や「愛と惜別の言葉」を読んでいて、著者は一つのことに気づく。「〈ビッグ・ビジネス・シャトル〉のなかでは、乗客のだれも仕事のことを書き残さなかった」

今年も8月12日がめぐってくる。私たち戦後生まれは、この出来事を後続世代に語り継がなければならない。事故が、ふわふわした高揚感のある時代に起こったということ、その惨事にも、人間は捨てたものではないと思わせる事実が潜んでいたということを――。
*1 当欄2023年8月4日付「812に戦後史の位相を見る
*2 当欄2023年6月9日付「上岡龍太郎の筋を通す美学
☆引用箇所にあるルビは原則省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年8月11日公開、通算690回
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8・12に戦後史の位相を見る

今週の書物/
『墜落の夏――日航123便事故全記録』
吉岡忍著、新潮文庫、1989年刊

鎮魂の日々

鎮魂の夏がやって来た。8月といえば6日、9日、15日と、先の戦争の被爆犠牲者、戦没者、銃後の死者に思いを馳せる機運が高まる。三つの日付を読み込んだ俳句もあり、類似句がいくつも出てきている()。当欄も8月には関心がそこに向かい、戦争がらみの本を読むことが多かった。ただ忘れてならないのは、8月にはもう一つ、鎮魂の日があることだ。1985年8月12日、日航ジャンボ機が群馬県山中に墜落、520人が生命を落とした。

あの日、私は何をしたか。ここでは、そのことを正直に打ち明けなければならない。当時、私は新聞社の大阪本社科学部に在籍していた。私の記憶では、午後7時のNHKニュースが終わる間際、松平定知アナウンサーが緊急ニュースとして「日航機の機影が消えた」という第1報を伝えた。そのとき私は部内にいたので、編集局全体が騒然となるのがわかった。記者の習性として、自分もなにかしなくてはならないと思った。

こんなとき、科学記者が真っ先に手をつけるべきは、遭難したと思われる航空機について記事を用意することだ。第1報によれば、機種はボーイング747だという。愛称ジャンボ機だ。ジャンボ機がどれほど巨大であり、工学面でどんな安全策がとられているか。それらのデータを過去記事などの資料をもとにまとめなくてはならない。だが、科学記者3年目の若輩にその役目は回ってこなかった。社会部の応援に回されたのである。

命じられた仕事は、乗客の関係者に電話をかけることだった。遭難は確からしいが、墜落の情報はなく不時着の可能性もある。安否を気遣う気持ちを関係者から聞きだし、乗客の旅がどんなものだったかについても聞ける範囲で聞く――そんな指示を受けた。

今ならばありえない取材だ。航空会社が遭難の時点で直ちに乗客名簿を公表することは、今はないように思う。ところが当時は、名簿が大まかな住所付きで公開された。新聞記者は電話帳でそれらしい番号を探しだし、手当たり次第に架電した。関係者は藁をもつかむ思いで最新情報を求めていたから、新聞社からの電話でも拒むことなく応じてくれた人が多い。家族や友人の心を不用意に波立たせた罪は深かった。今もなお、心が痛む。

個人情報尊重の機運は今ほど高まっておらず、個人情報保護の規制も緩い時代だった。メディアは、実名報道を基本とするジャーナリズムの原則をひたすら主張していた。あれから38年、私たちの価値観は変わった。情報の扱い方にかかわる企業やメディアの行動原理だけではない。人々の生活様式や思考様式も一変した。この視点に立って8・12を回顧することは意義深い。今夏は機を失しないよう、もう一つの鎮魂に思いをめぐらせる。

手にとったのは、『墜落の夏――日航123便事故全記録』(吉岡忍著、新潮文庫)。事故の1年後、1986年8月に新潮社が出した単行本を1989年に文庫化したものだ。なお、本書本文には、著者が「新潮45」誌で発表したルポルタージュも組み込まれている。

著者は1948年生まれのノンフィクション作家。学生時代はベトナム戦争に反対する市民運動の活動家だった。作品のテーマは教育や技術化社会にも及んでいる。本書は1987年、講談社ノンフィクション賞(現・講談社本田靖春ノンフィクション賞)を受けた。

本書は六つの章から成る。第1章「真夏のダッチロール」、第2章「三十二分間の真実」は日航ジャンボ機墜落事故そのものの実相に迫っているが、第3章以降では事故を多角的な視点でとらえ直している。たとえば第4章「遺体」は、遺体収容や身元確認に焦点を当てた。第5章「命の値段」は補償をめぐる保険業界の動きを追った。そして第6章「巨大システムの遺言」は、航空機を一つのシステムとしてとらえ直している。

そんななかで異彩を放つのは、第3章「ビジネス・シャトルの影」だ。ざっと読むと、墜落事故に直結しない話が書かれている。とくに章の前半では、羽田空港ロビーと空港周辺地域の空気感を比べている。興味深いのは、その対比によって戦後日本社会が1985年の時点でどんな位相にあったかが浮かびあがってくることだ。これもまた、あの事故が私たちに突きつけた現実にほかならない。ということで当欄は今回、第3章の前半に的を絞る。

第3章冒頭の一節は、空港ロビーの描写だ。そこには「新しさのざわめき」があり、「明るく、陰影のない照明」がある。床面には「硬質の輝き」、周りには「先端のテクノロジーの気配」。売店の新聞や雑誌は「最新の話題」を発信し、乗客たちは「もう飛行機を降りた先のことを考えている」。場内に流れる「くぐもった音調のアナウンス」も、乗客の心を煽っているように聞こえる。前のめり感があふれる特別な空間なのだ。

これは、今も言えることかもしれない。私はごく最近、ある空港の国内線搭乗口で出発を待つ間、同様の印象を受けた。周りに、スマートフォンの電話で会社の同僚と仕事談議に没頭する人がいても違和感がなかったのだ。昨今は業務連絡をメールで済ますことが多いが、空港には電話を多用するビジネスパーソンがいる。自分の肉声が会社を動かしていると自負する人が、ここには結構いるのではないか。これもまた、一つの前のめり感である。

「新しさ」「陰影のない」「硬質」「先端」……これらの言葉が似合うのが現代の空港だ。だがときに、それが虚構に過ぎないことに気づかされる瞬間もある。著者はここで、自身が米国西海岸の空港で出あった光景をもちだす。ロビーにはアジア系の難民らしい家族がいたが、一家が立ち去った直後、近くの乗客が声を発して立ちあがった。遠くの席へ避難した人もいる。磨きたての床面に幼子のものと思われる固形排泄物が残されていたのだ。

空港の「新しさ」「陰影のない」「硬質」「先端」……を演出するのは、床面の「ぴかぴか」に象徴される「清潔感」だろう。だが一皮剥けば、そこも人間という生きものの生息空間にほかならない。著者は、ジャンボ機墜落事故を描くときもこの一点にこだわる。

本書は、この視点に立って考察の対象を空港の外にも広げている。空港周辺には倉庫や工場が建ち並び、水路に土砂やゴミの運搬船が行き交う。著者は、その町を歩いてみる。

1985年11月、この地域では女子中学生の飛び降り自殺という不幸な事件が起こった。マンションのベランダに残されたメモによれば、少女は女子のツッパリ集団から「舎弟」となるよう迫られたのだという。著者は、「舎弟」の一語に引っかかる。「最新のテクノロジーを駆使した空港施設に隣接する街区」にふさわしくないと思えたからだ。「先端のビジネスマン」が集まる空間の足もとで、少女たちが「舎弟」などと言いあっているとは。

著者は、その違和感に吸い寄せられる。少女の中学校は「空港ロビーから徒歩で二十分ほどの距離」にあった。著者は「高速道路やモノレールから見える巨大な電飾看板」の裏面を見あげながら学校方面へ向かう。電柱に「旋盤工員」や「女子パート」の求人広告。商店街はなく工場、また工場。その屋根越しに機影が見える。「中学校があるどころか、人が住んでいることすら信じられなかった」が、やがて高層住宅群や低層アパートが姿を現した。

中学校は下水処理場の工事現場に面していた。現場を取り囲む塀には、処理場完成後の風景がペンキで描かれている。水路の水は青々として、魚やエビが飛び跳ねている。高速道路やモノレール、空港ビルの向こうには青空が広がり、ジャンボ機の飛び立つ姿も。いかにもありそうな未来図だ。そこに「豊かで潤いのある生活環境をつくる下水道」の標語が……。「しかし、このあたりの町並は、標語を裏切っていた」と、著者は率直に書く。

著者の観察結果を要約すればこうだ。高度成長末期、工場地帯の敷地に空きができて集合住宅が建ち並んだ。それは首都圏への労働力流入の受け皿となったが、町は未成熟のままだった。あふれ返るのは、住人たちのクルマくらい。空疎な標語ばかりが目につく――。

東京と大阪を結ぶ日航123便の墜落は、ビジネスパーソンを大勢乗せていたということで日本社会の最先端を襲った惨劇だった。だが、その最先端は、高度経済成長が放置した社会の歪みと隣りあわせでもあった。来週も引きつづき、本書のこの章を読もう。
* 「本読み by chance」2016年12月9日付「俳句に学ぶ知財の時代の生き方
☆引用箇所にあるルビは原則省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年8月4日公開、通算689回
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「戦後」を風化させない鉄道の話

今週の書物/
『歴史のダイヤグラム〈2号車〉――鉄路に刻まれた、この国のドラマ』
原武史著、朝日新書、2023年5月刊

特急

戦争の記憶が風化した、と言われて久しい。だが、そう嘆いているうちに風化が始まっているのが、戦後の記憶だ。放っておいたら、1945年の終戦と1995年のインターネット元年の間にある50年が、私たちの歴史からすっぽり抜け落ちてしまうのではないか。

先の大戦については、先行世代が記憶を史実に落とし込んできた。自らの体験を綴った文筆家がいる。年長者の話を聞き書きしたジャーナリストがいる。史料を掘り起こして隠された事実をあばき出した史家もいる。史実の集積は、すでに一定の分量に達している。
 
デジタル時代に入ると、文書データの多くが電子化され、そのうちの相当部分がインターネットで共有されるようになった。ザクッといえば、世界の動きが同時進行で記録され、保存されていくという感じ。アーカイブズ機能がリアルタイムで稼働している。

これに対して、大戦とデジタル時代に挟まれた50年間は影が薄い。復興期や高度成長期、バブル期を含む半世紀にもかかわらず、である。私たちの世代にとっては幼少期、思春期と青壮年期に対応するので思い出深い。とりわけ忘れがたいのは高度経済成長がもたらした社会変容だが、それを戦時中の事象のように歴史化しようという機運はない。しかも、その記録は、ネット検索してもデジタル時代の事象ほどに蓄積されていない。

ということで、今回は日本社会の戦後史に思いを馳せる本を読もう。戦後というだけではあまりにも漠然としているので、それを一つの切り口から覗いてみることにする。切り口に選んだのは鉄道だ。これならば、夏休みの旅気分も味わえるだろう。

手にとった本は『歴史のダイヤグラム〈2号車〉――鉄路に刻まれた、この国のドラマ』(原武史著、朝日新書、2023年5月刊)。著者は1962年、東京生まれ。日本政治思想史の研究者だが、興味の幅は広い。大の鉄道好きで、自称「鉄学者」。本書は朝日新聞土曜別刷り「be」の連載(2021年6月5日~2023年2月11日掲載分)をまとめたものだ。書名に「2号車」とあるのは、〈1号車〉にあたる本を2021年に出しており、その続編だからだ。

本書は、明治以降の鉄道余話を多く集めている。だが、それだけではない。自身の個人史にも触れて、少年期以来の鉄道体験を懐かしそうに語っている。当欄は今回、後者に的を絞る。そこから、高度経済成長後1970~1980年代の世相が見えてくるからだ。

最初に紹介したいのは、「あの駅前食堂はどこへ」という一編。1973年初め、著者が小学4年生のころの話だ。「中学受験のための進学塾が開催するテストを受けるため、毎週日曜日に代々木まで通っていた」とある。あのころは駅前に食堂がつきものだった。代々木駅周辺にも、そんなたたずまいの店があった。白地に黒字の看板。店内のテーブルには12星座のおみくじ器……。著者はテスト終了後、この店で五目そばを注文していたという。

この思い出話に私はちょっと驚いた。1973年は、私自身も毎週日曜日、代々木の進学塾に通っていたのだ。ただし、私の立場は学生アルバイト。試験監督や採点をする側だった。この一編の記述をみる限り、著者が通う塾は私のバイト先ではなかったようだ。私も昼食は駅周辺で調達したが、その食堂に入った記憶はない。ともあれ1970年代、著者と私は10年ほどの年齢差を保ちながら同じの空気を共有していたことになる。

「大阪万博からの帰り道」という一編では、その年齢差が露わになる。これは1970年、著者が小学2年の夏休みに大阪・千里丘陵で開かれていた日本万国博覧会を見学した話だ。父親と二人、東京・大阪日帰りの強行軍だった。東京・羽田空港8時発大阪空港8時45分着の日航DC8機に乗り、空港から直行バスで会場入り。帰途は北大阪急行と地下鉄御堂筋線で新大阪へ。東京23時40分着の最終列車「ひかり88号」で帰京した。

ここで思うのは、当時19歳の私には万博を見にゆこうという意志も、見に行きたいという願望も皆目なかったことだ。1970年はまさに70年安保の年であり、学園にも街頭にも若者たちの反体制運動が渦巻いていた。私自身はこうした運動に加わったわけではないが、体制側の応援団にはなりたくなかった。政府が旗振り役となり、大企業が参加し、国民的歌手が「こんにちは、こんにちは」と呼びかける行事は体制側の祝祭そのものだった。

私も10年遅く生まれていたら、1970年には親にねだって万博に出かけたことだろう。時代の表と裏を見る役回りが10年の年齢差によって分かたれたのである。

本書では、著者も10年の時間差に言及している。それが出てくるのは「鶴見事故が左右する運命」という一編だ。著者が小学生だった1970年代前半は「鉄道は安全な乗り物と思われていた」と振り返ったうえで「もう一〇年早く生まれていたら、そうは思わなかっただろう」と書く。そこで例示されるのが、1962年の三河島事故、1963年の鶴見事故。死者数はそれぞれ160人と161人で、戦後の2大国鉄衝突事故といわれる。

この規模の大事故が大都市圏で起これば、知人の知人くらいの範囲に犠牲者が出てくるようだ。鶴見事故のとき、私は小学6年生。義理の伯母から親類の一人が亡くなったという話を聞いた記憶がある。本書によると、作家小池真理子も当時11歳。事故で叔父を失っていた。彼女は後に列車事故を題材にして『神よ憐れみたまえ』という作品を書いている。あの事故は、子どもにとっても心に突き刺さる出来事だったことがうかがわれる。

これも年齢差の仕業だろうか、この一編には物足りないことが一つある。鶴見事故が起こった1963年11月9日、日本ではもう一つ大事故があったが、その言及がないのだ。福岡県・三井三池炭鉱の炭塵爆発だ。死者458人。戦後最大の炭鉱災害だった。同じ日に戦後最大級の惨事が重なるという偶然。同じ月の22日(日本時間23日)には、米国でジョン・F・ケネディ大統領が暗殺されている。三つの事象はひとかたまりで私の脳内にある。

「ダイヤを入手、原点の論文に」は、著者の鉄道少年ぶりを物語る一編。1970年代半ば、中学生時代の夏休みに取り組んだ自由研究の思い出だ。著者が選んだテーマは、もちろん鉄道。1年のときは南武線と青梅線、2年では横浜線をとりあげた。中1の夏はまず、東京駅前にある国鉄本社1階の「国鉄PRコーナー」窓口で質問攻勢をかけたが、期待したほどのことは聞きだせなかった。すごいのは、これであきらめなかったことだ。

「守衛の目を盗まなければならなかった」がビルの内部に紛れ込み、当該部署で直接話を聞いた。職員の多くは「怪しむことなく、親切に質問に答えてくれた」という。それで中2の夏は、この方式を大展開する。最大の収穫は、横浜線のダイヤグラムを入手したことだ。職員は「これは部外秘だよ」と言いながら手渡したとか。今ならば、少年が相手であってもコンプライアンスの一語に阻まれるだろう。世間には、ほどほどの緩さがあった。

ダイヤグラムは斜めの線が各列車の行程を表している。これを、車両基地の出入りが記された「日程表」と突きあわせると、「どの日に横浜線のどの区間を走る電車がどういう車両で編成されているか」がわかる。著者は車両基地を訪ね、その日程表も手に入れた。新聞記者も顔負けの取材力だ。横浜線は当時、他線の中古車両で列車を編成していたから車体の色がまちまち。その運用ぶりを「内部資料」をもとに再現、「論文」にまとめあげた。

私の心に残るのは、「壁のように見えた山並み」という一編だ。著者が1980年、高校2年の冬に友人と東北地方を旅したときのことが綴られている。二人は山形県の今泉駅で、長井線(現・山形鉄道フラワー長井線)から米坂線に乗り換えた。このとき、著者が跨線橋から撮った写真が本書には載っている。一面の雪原にまっすぐ延びる米坂線の鉄路。その向こうには、飯豊山地の量感のある山並みが屏風のようにそびえ立っている。

その風景を見て、友人は「どうやってあの山並みを越えてゆくんだろう」とつぶやいた。二人は米坂線で日本海側に出て羽越本線に乗る予定だったので、山を越さなくてはならない。「私には山並みが、これからの人生に立ちはだかる壁のように見えた」。青春期の不安がちらついた瞬間といえるだろう。ただこの日、著者たちを乗せた列車は「難無く勾配を上り、いつの間にか峠を越えた」「山並みは、蜃気楼だったのかと思った」という。

これは、1970~1980年代の私たちを正しく映している。高度成長が終わり、不安はあったが、世の中はなんとかなっていた。あの空気感も史実として記録しておくべきだろう。
☆引用箇所にあるルビは原則省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年7月28日公開、通算688回
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あのゴドーの「待つ」とは何か

今週の書物/
『ゴドーを待ちながら』
サミュエル・ベケット著、安堂信也、高橋康也訳、白水uブックス、2013年刊

続・樹木の傍らで

「見ているやかんは沸かない」。英語には、こんな諺がある。
“A watched kettle doesn’t boil.”とも、
“A watched kettle never boils.”ともいう。

私がこの言葉に出あったのは1995年。科学記者としてロンドンに駐在していたころだ。物理学界で量子情報科学という新潮流が生まれ、量子コンピューターや量子暗号が話題になりはじめていた。私は欧州各地を回り、物理学者たちから取材した。このときに聞いた量子力学の不可解さの一つが、原子や電子の世界では観測の頻度を高めると状態が変わりにくくなるという話だ。観測が変化のブレーキになる。これを「量子ゼノン効果」という。

似たようなことは日常生活にもある。湯沸かしのやかんを火にかけて、もう沸くか、もう沸くか、と見ているとなかなか沸かない。ところが、ちょっとのあいだキッチンを出て戻ってくると泡を噴いている。あるいは、バス停でバスが来る方向をじっと見つめていてもバスは現れないが、一瞬目を離すと目の前に来ている――。量子ゼノン効果は、そんな「あるある」を連想させる。だから物理学者も、譬えに「見ているやかん…」をもちだすのだ。

量子ゼノン効果という命名は、ギリシャの哲学者ゼノンの「飛んでいる矢は止まっている」という逆説に因む。ゼノンの逆説では、矢は実際には飛んでいるが、ある瞬間をとらえると1カ所に止まっている。一方、量子ゼノン効果はこうだ――。原子の状態が電波照射によってAからBへ跳び移る現象を考えよう。照射時間を延ばして状態Bへ移る確率を高めていっても、観測を頻繁にしていると原子は状態Aに留まることが多いという。

量子力学には、観測する側が観測される側に影響を及ぼすのではないかという問題提起がある。量子ゼノン効果も、その一つだ。ただ、これはそのまま実生活に当てはめられない。「見ているやかんは沸かない」は、たぶん心理的な効果だ。私たちは、お湯がなかなか沸かなくてイライラした体験ばかりを記憶する。だから、「見ていると沸かない」を法則のように思ってしまうのだ。これは、人間の「待つ」という習性に起因するらしい。

で今週も、先週に続いて『ゴドーを待ちながら』(サミュエル・ベケット著、安堂信也、高橋康也訳、白水uブックス、2013年刊、)。エストラゴン、ヴラジーミルという二人組が夕刻、田舎道でひたすらゴドーを待っているという話だ。ゴドーは神のようであり、そうでないようでもある、と先週は書いた。今週は「待つ」とは何かを考えよう。ゴドーを待つというのは、湯が沸くのを待ったりバスが来るのを待ったりするのと同じなのか。

作品を読んで実感するのは、ゴドーの到来は湯の沸騰やバスの到着と違うことだ。お湯は100℃になれば煮えたぎる。バスは時刻表に沿って運行されていて、渋滞の遅れはあってもほぼ確実にやって来る。ところがゴドーの来着は、はっきりしない。

これは先週も書いたことだが、ゴドーはいつ来るかが不確かだ。待っている場所がここでよいのかも確信がもてない。そもそも、ゴドーから待つように指示されたのか、あるいはゴドーと待ち合わせの約束をしたのかさえ定かではない。なにもかもぼやけている。

私の頭を一瞬よぎったのは、ゴドーとは死のようなものか、ということだ。死は、いつ身に降りかかるかわからない。どんな状況下で起こるかも見通せない。ぼんやりしているところはそっくりだ。ただ、死はいずれ必ずやって来るが、ゴドーは現れるかどうか不明だ。

そして、私たちは――少なくとも私は――死を待ってはいない。いずれは死ぬと覚悟して死を予期することはあっても、それを積極的に望むことはない。「待つ」とは違うのだ。これに対して、エストラゴンとヴラジーミルはゴドーを待っている。ヴラジーミルが「希望」めいたものをゴドーに頼んだと打ち明けていることからも、そうとわかる。著者自身が訳した『ゴドー…』英語版の題名も“Waiting for Godot”。ゴドーは死ではなさそうだ。

このことからわかるのは、人間は相手が漠としたものであっても待とうとすることだ。この作品でそれが際立つのは、時代背景と関係しているかもしれない。戯曲が刊行されたのは、第2次世界大戦終結の7年後。人々の精神世界には、まだ解放感があった。著者ベケット自身は戦時中、ナチス占領下のフランスでレジスタンス運動にかかわっていたから、なおさらだったに違いない。希望を漠然と待つというのは、いかにも戦後の風景だ。

だが希望めいたものは、おいそれとは手に入らない。そもそも、ヴラジーミルがそれを人に頼んだことに無理がある。ゴドーが即答を避けたのも当然だ。安請け合いしていたら、逆に怪しげな輩ということになる。生半可な返事をしたのもうなずける。

ということで、ゴドーはなかなか現れない。代わりに登場するのが、ポッツォとラッキーの二人連れだ。ポッツォは地主を名乗り、ラッキーを牛馬のように扱っている。この二人がエストラゴンやヴラジーミルと交わす意味不明の会話に私たちはまた、引っかき回される。

意味不明の極みはラッキーの長口舌だ。それは、ポッツォの「考えろ!」のひとことでスイッチが入る。「単調に」とト書きにある。「前提としてポアンソンとワットマンの最近の土木工事によって提起された白い髭の人格的かかかか神の時(じ)かか間(かん)と空間の外における存在を認めるならばその神的無感覚その神的無恐怖その神的失語症の高みからやがてわかるであろうが」(太字は本書原文では傍点)……これが延々2ページ半も続く。

ここに至って観客は、この作品では言語がただの音に還元されていることを思い知る。舞台では登場人物が訳のわからないことをしゃべっているが、それを逐語的に追いかけることが馬鹿馬鹿しくなる。意味するものから意味されるものがどんどん離れていく感じだ。

この作品には、反対に脳裏に焼きつく台詞がある。先週の当欄でも引用したエストラゴンとヴラジーミルの言葉の投げ合いだ。エ「もう行こう」、ヴ「だめだよ」、エ「なぜさ?」、ヴ「ゴドーを待つんだ」、エ「ああ、そうか」――同趣旨のやりとりは第一幕、第二幕を通じて繰り返し出てくる。細部が微妙に異なっても、エストラゴンが先を急ごうとするのをヴラジーミルが引きとめ、ゴドーを待たなければならないと戒める構図は変わらない。

ここで、「なぜさ?」「ゴドーを待つんだ」「ああ、そうか」の問答には含蓄がある。一つには、ヴラジーミルがこの場を離れない理由を「ゴドーを待つ」ためと言い切っていることだ。これまでも述べてきたようにゴドーが来るかどうかは曖昧だが、それにもかかわらず決然としている。さらに言えば、第三者のエストラゴンも当事者の決意を当然のことと受け入れている。人間は、当てにならないものでも待とうとするものなのか。

舞台では、第一幕が終わるころ、ゴドーの使用人で「山羊(やぎ)の番」をしているという「男の子」が登場してヴラジーミルに言う。「ゴドーさんが、今晩は来られないけれど、あしたは必ず行くからって言うようにって」。そして、ゴドー宛てにことづけがないかを尋ねる。ヴラジーミルは、男の子が自分やエストラゴンに「会った」という事実をきちんと伝えるよう頼む。ゴドーとヴラジーミルとの関係性がみてとれる場面だ。

こうして日は暮れ、第一幕は終わる。第二幕は「翌日」の「同じ時間」「同じ場所」だ。登場人物もまったく変わらない。エストラゴンとヴラジーミルに何が起こるかは大体察しがつくだろう。だから、ここには書かない。こうして毎日が過ぎていく――。

翻って今、私たちには漠然と待とうとするゴドー的なものがあるのだろうか。「希望」を「嘆願」するような相手が見つからないということだ。大変な時代だと改めて思う。
* 当欄2023年7月14日付「あのゴドーの『ゴドー』とは誰か
(執筆撮影・尾関章)
=2023年7月21日公開、通算687回
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