別役実、プチブル「善良」の脆さ

今週の書物/
『マッチ売りの少女/赤い鳥の居る風景』
別役実著、二十一世紀戯曲文庫、日本劇作家協会、2009年刊

マッチ

若かったころ、「プチブル」という言葉がよく飛び交った。プチブルジョワジー――日本語にすれば小市民、中産階級のことだが、そこにはどこか、「資本家階級のなりそこない」と蔑む響きがあった。デモに行かなければプチブル、授業を受けていたらプチブル……。革命の主力となる労働者階級に対して引け目があったからだろう。左翼運動に共感する青年たちは、そう後ろ指を指されないよう振る舞っていたように思う。

私自身は運動家ではなかったが、それでも「プチブル」と呼ばれたくはなかった。実家暮らしの身。アルバイトで小遣いは稼いだが、肉体を駆使して労働者を自覚することはほとんどなかった。「プチブル」そのものだったわけだが、それを認めたくなかったのだ。

「プチブル」でいいではないか――そう開き直ったのは1970年代半ば。山田太一のテレビドラマが話題を呼ぶようになったころだ。「それぞれの秋」(TBS系、1973年)が印象深い。東京郊外の私鉄沿線に住む中流家庭の物語。兄や妹や親があれやこれやの難題を抱え、次男坊が右往左往する。プチブルだって生きていくのは大変なのだ、と思わせる作品だった。それを見せつけられて、私は自分がプチブルであることを恥じなくなった。

だが、だが、である。「プチブル」は堂々たる存在なのかと問われれば、否と答えるしかない。生活水準で言えば、高くはないが低くもない状態にぽっかり浮かんでいて、低いほうに転落しないか、という脅えがいつも心の片隅にある。自分がいま立っている大地が一瞬のうちに瓦解するのではないか、という不安も強い。プチブルは、はかない。労働者階級とは異なる意味で、抑圧された存在と言ってよいだろう。

2020年の今、「プチブル」のはかなさは、いや増した。「それぞれの秋」の父は定年間近のサラリーマンで、当時の勤労者の平均像だったが、近年は、終身雇用制にのっとって一つの会社で最後まで勤めあげるという境遇にいられるのは恵まれた人に限られる。リストラがある。非正規・派遣で労働を切り売りする人もいる。今年は、それにコロナ禍が追い討ちをかけた。「プチブル」の名にふさわしい階層はどんどん薄くなっている。

で、今週は、『マッチ売りの少女/赤い鳥の居る風景』(別役実著、二十一世紀戯曲文庫、日本劇作家協会、2009年刊)から、戯曲「マッチ売りの少女」をとりあげる。今年3月に82歳で亡くなった劇作家の代表作の一つ。1966年に発表された。

登場人物は、「女」と「その弟」、「初老の男」と「その妻」の計4人。「初老の男」と「その妻」は、プチブルっぽい夫婦だ。その家庭の日常を、突然の訪問者「女」と「その弟」がかき乱し、波立たせる。

夫婦のプチブルぶりは、冒頭まもなく、二人が「夜のお茶の道具」を手に現れて、それをテーブルに置くときのト書きからもうかがわれる。「この家には、道具の並べ方について厳重な法則があるかのようである」。夫は「いいかね、食卓のつくり方と云うのは微妙でね」と言って、並べ方次第でレモンのツヤに違いが出る、などという自説を披露する。このあと夫婦は、「おむかい」の家が励行する並べ方を俎上に載せて、それを腐すのだ。

どうでもよいことに違いない。だが、このような些細なことにこだわっていられるのがプチブルの特権とは言えないか。

そんな夫婦の前に突然、一人の女が姿を現して「こんばんは」と声をかけてくる。見ず知らずの人物が自宅の一室に闖入してきたのだから、さっさと追い返してもよいはずだ。だが、夫は「どうでしょう、せっかくですから、ごいっしょに……?」と誘う。妻も「そうしなさい。お茶は夜に限らず、にぎやかな方が楽しいのよ」と歓迎する。疑うことをしない善良さ、あるいは善意の押し売り。これもまた、プチブルの特徴かもしれない。

こうして会話が始まる。おもしろいのは、夫が「どちらから」と問うたときの女の返事。「市役所から参りました」。夜の訪問なので、市役所職員が公務で訪れるわけがない。市役所経由でやって来たということなのだろう。このあとのやりとりが読みどころだ。

妻「で、市役所では何て云ってました、私達のことを……?」
女「別に……。」
夫「善良な市民だと……?」
女「ええ。」
妻「モハン的な……?」
女「ええ。」
夫「ムガイな……?」
女「ええ。」

これを受けて妻は、自分たちが「この上なく善良な、しかも模範的で無害な市民」と自負する。夫は、市内には「善良」「模範的」「無害」な市民が362人いると表明した市長の演説を引いて、自分たち夫婦はその端数の2人だと言う。

夫婦は、自分たちの「善良」ぶりも列挙する。「市民税は、沢山ではありませんけど、キチンキチンと納めておりますし、ゴミも沢山は出さない」(妻)、「私共はどちらかと云うと、進歩的保守派です。革新派の奴等は品が悪くてね」(夫)……。女が「ここは……あたたかいわ……」とほめると、妻は図に乗って、それだけでなく「上品です」と言ってのける。豊かではないが過度につましくもない、とも。まさに、プチブル宣言である。

で、夫婦は、市役所が女を自分たちのところへ「差し向けた」と勝手に解釈するが、女はこれをきっぱり否定する。自分は、市役所で「こちら」の様子について聞いただけであり、「こちら」へは「お訪ねしたくなって……お訪ねしたのです」と言い張る。

女は身の上話をこう語り始める――。自分は七歳のころ、マッチを売っていた。20年ほども前のことで自分でも「知らなかった」のだが、最近、ある小説を読んで、登場人物の「マッチ売りの少女」は「私だった」と気づいたという。不条理劇の作家らしい筋の展開だ。

マッチ売りの少女については、背後でナレーションが説明してくれる。「その頃、人々は飢えていた。毎日毎日が暗い夜であった」「その街角で、その子はマッチを売っていた。マッチを一本すって、それが消えるまでの間、その子はその貧しいスカートを持ちあげてみせていたのである」――この作品が書かれたのは1960年代半ば、「その頃」は終戦直後に符合する。高度成長期のプチブル家庭に焼け野原の闇が闖入してきた感がある。

このあと、女はさらに驚くべきことを口にする。それについては、ネタばらしになるので引用を控えよう。一つだけ明かせば、「善良」「模範的」「無害」な夫婦がおぞましい小児虐待の告発を受けることになるのだ。女は自らのマッチ売り体験について、こう問いかける。「何故あんなことをしたのか。誰かが教えてくれたのだとすれば、それは誰なのか」。最後には、女の弟という男まで現れて、プチブルの家庭は大混乱に陥って……。

この作品を読んでいると、私たちの世代のかなりの人々が享受してきた生活の安定が、どれほど脆いものかが見えてくる。プチブルとして「善良」「模範的」「無害」な暮らしをしていても、それは、今のかりそめの姿に過ぎない。突然の訪問者から、振り込め詐欺もどきの嘘っぽい話を聞かされただけで、自らの実像が揺らぎ、自己同一性が危うくなる。コロナ禍で先行きが見通せない時代、その脆さがいっそう怖く感じられる。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年6月5日公開、通算525回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

コロナの時代に新聞は変わる

今週の書物/
新聞オピニオン面の「新型コロナ」インタビュー

エマニュエル・トッド氏(聞き手・高久潤記者)、朝日新聞2020年5月23日朝刊

時差

最近の新聞は、世の論客に大舞台を提供するようになった。私の古巣、朝日新聞について言えば、オピニオン面の大型インタビューがこれに当たる。1ページの2/3ほどを費やして、思いのたけを語ってもらうのだから、読みごたえはある。

新型コロナウイルス感染禍をめぐっても、このインタビュー欄に内外の論客が次々登場している。すぐに気づくのは、聞き手がビデオ電話、テレビ会議システムなどを通して遠くから問いかける例が目立っていることだ。在社の後輩から漏れ伝わる話によると、コロナ禍が広まってからは日常の取材でも直接の面談を避け、遠隔対話方式をとることがふえているという。オピニオン面が、それに同調するのも当然だろう。

皮肉なのは、それが日本の新聞の国際化を後押ししていることだ。Aという国にXという識者がいたとしよう。これまでなら担当記者は、まずX氏から取材予約をとり、海外出張を申請してA国へ飛ぶことになろう。新聞には電話やメールによる一問一答の記事がないわけではないが、大型インタビューとなれば昔ながらの「足で稼げ」型の取材手法が当然視されたに違いない。ところが、今回は防疫の観点から、それができなくなった。

それが、興味深い効果をもたらした。遠隔対話方式ならば、相手が海外にいようと国内にいようと大差ない。言語の壁さえ乗り越えることができれば、地球の反対側にいる人でも目の前にいて話しかけられているように感じられる。日本の新聞記者にとって、世界は内と外に二分された取材対象ではなくなったのだ。コロナ後の日本社会を見通すとき、新聞のつくり方も記者の世界観も大きく変わっていくだろうと思われる。

で、今週の「書物」は、朝日新聞2020年5月23日朝刊に載ったオピニオン面「新型コロナ」インタビュー。フランスの論客エマニュエル・トッド氏の見解を高久潤記者が聞いている。トッド氏は1951年生まれ、歴史家であり、人口学者でもある。(以下、敬称略)

このインタビュー記事の最上段に掲げられた見出しは「『戦争』でなく『失敗』」。トッドは、自国のマクロン大統領が今回の感染禍を「戦争」にたとえたことを批判して、こう言う。「フランスで起きたことのかなりの部分は、この30年にわたる政策の帰結です」。人工呼吸器の不足などを例に挙げ、医療に充てるべき人材や資金を削り込んで「新自由主義的な経済へ対応させていく」路線をとったことが「致命的な失敗」だったと主張する。

「私たちは、医療システムをはじめとした社会保障や公衆衛生を自らの選択によって脆弱(ぜいじゃく)にしてきた結果、感染者を隔離し、人々を自宅に封じ込めるしか方策がなくなってしまった」――この見方は、「失敗」の核心を突いている。

私なりに、それを思考実験で裏づけてみよう。たとえば、感染禍の初期からあまねく公衆がPCR検査を受けられ、陽性となった人に療養・治療の場が用意されていたとする。その場合でも感染者の隔離は欠かせないが、すべての人々を「自宅に封じ込める」必要は薄れる。理屈のうえでは、陽性者に活動を控えてもらい、陰性者が社会生活を営むことで経済を回すことができただろうからだ。だが実際は、そうならなかった。

このあとトッドは、こう切り込む。「人々の移動を止めざるを得なくなったことで、世界経済はまひした。このことは新自由主義的なグローバル化への反発も高めるでしょう」。新自由主義は社会保障や公衆衛生を蔑ろにした結果、自滅寸前の状態に陥ったのである。

トッドによれば、「新自由主義的な経済政策が、人間の生命は守らないし、いざとなれば結局その経済自体をストップすることでしか対応できないこと」がはっきりした。その先を見通すとき、復権しそうなのが国ごとに生活必需品を自給する経済だという。

以上が、このトッド・インタビューを貫く主題だが、このほかにもコロナ禍を考える際の論点がいくつかある。

一つは、戦争とコロナ禍の違いを人口学者の目でとらえた箇所。戦争は、大勢の若者の生命を奪うので「社会の人口構成を変える」。ところが、今回の感染禍は、高齢者が犠牲になることが多いので「人口動態に新しい変化をもたらすものではありません」。なるほど、そんな見方もあるのか。ただ、そうであっても今の社会は、なべて高齢者など高リスク群の救命第一で動いている。これは、私のような高齢者にとっては、ただただありがたいことだ。

世界中に人道精神の発露がある――この一点こそ、今回のコロナ禍を「戦争」にたとえることが適切でない最大の理由ではないか。私には、そう思えてならない。

もう一つ興味を覚えるのは、人々と政治家の関係を語った部分。トッドによれば、英仏では政府が有効な施策を打ちだせず、政治家はただ「ひとまず家にいてください」と言うばかりだった。「でも市民は、それなりに秩序立った社会を維持した」。その結果、「エリートが機能しなくても社会の統制はとれる」と人々が実感した意味は大きい、という。日本社会でも私たちは、緊急事態宣言下の「自粛」で同様の体験をしたと言ってよいだろう。

いったいどうして、私たちは自律的に「秩序」を保てたのか。人々が知的に進化してリスクに敏感になったのか。規制に盾つく気骨を失い、従順になったからか。それとも、ネット社会が同調効果を強めたのか――この謎は、ぜひとも解き明かしてみたい。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年5月29日公開、通算524回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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■公開後の更新は最小限にとどめます。

もうちょっとJ・Jにこだわりたい

今週の書物/
『植草甚一自伝』
著者代表・植草甚一、植草甚一スクラップ・ブック40、晶文社、新装版2005年刊

自転車

おいおい、ひと月前の本と同じではないか、と叱られそうだ。先月のJ・Jに倣って気まぐれに書くだけでは語りたいことのすべてを語れなかった。本来なら2週続きがよいのだが、まずはコロナ禍に対する関心を優先させた。今週はまた、J・Jに戻りたい。

こだわりがあるのは、J・J、即ち植草甚一が赤の他人とは思えないからだ。先方は当方を知らないが、当方は先方を知っているというかたちでご縁があった。私の少年期から青春期にかけて、彼は同じ町内の住人だったのだ。東京・世田谷の地味な町、経堂である。遭遇は一度ではない。駅で会った、電車でも会った、地元の古書店でも……。彼は意識していないのだから「会った」は厳密には正しくない。だが、「見かけた」よりは強烈な体験だった。

視野に入った瞬間、すぐにその人とわかった。白髪交じりの長髪とひげ。ジャケットとも半コートとも見分けがつかない上着。たいていは肩からバッグを提げていたように思う。当時の風俗に照らせば、ヒッピー風のおじいさんということになろう。

J・Jは、同じ町内の別の住人にも鮮烈な印象を残した。小田急線経堂駅の近くには、かつて「ワンダーランド」というジャズバーがあって、私も常連だったのだが、その店主、健さんの脳裏にもJ・Jは生きていた。いつもの癖で肩を上げ下げしながら、「自転車屋の前でさ、他人(ひと)の自転車の修理をずっと見てるんだよね」と言ったものだ。健さんは5年前に亡くなり、「ワンダー…」は閉店した。だが、自転車屋の店先に立つJ・Jの姿は私の心に受け継がれた。

奇しくも、「ワンダー…」という店名はJ・Jが深くかかわった雑誌の誌名と同じだ。J・Jに因んで名づけたのか、と健さんに尋ねると、そうではないという答えが返ってきた。それを聞いて、私は不思議な思いにかられた。同じ町内という小宇宙に、二つのワンダーランド文化が同居していた。それは偶然の共存なのに、片やジャズ評論家、片やジャズバーということで響きあっている。

ということで、『植草甚一自伝』(著者代表・植草甚一、植草甚一スクラップ・ブック40、晶文社、新装版2005年刊)をもう一度とりあげるわけだが、今回はこの本に私の個人的な思いを重ねあわせてみよう。前回は読みどころを紹介するとき、植草さんを「著者」と呼んだ。今回は「J・J」にする。ご町内で見かける一風変わったおじいさんという感じを醸しだすには、そのほうがよいように思えるからだ。

まずは、1970年代半ばの首都圏電車事情にからむ話から。そのころ、J・Jは東京・青山にある雑誌『宝島』(『ワンダーランド』誌の後身)の編集室によく顔を出していたらしい。午後8時、退室して帰途につく。そこで、さてどう帰ろうかと思案する。「青山一丁目から地下鉄で表参道で乗り換え、ちょい歩いて千代田線で代々木公園まで乗ってから、こんどは小田急で経堂まで帰ったほうがいいな」

懐かしさを覚えるのは、「代々木公園まで乗って」の記述だ。地下鉄千代田線は今は代々木上原駅で小田急線に乗り入れているが、あのころはひと駅手前の代々木公園駅が終点で、小田急に乗り継ぐには代々木八幡駅まで歩かなくてはならなかった(余計な詮索だが、上記引用でJ・Jは「代々木公園まで乗ってからちょい歩いて」と書こうとして、「ちょい歩いて千代田線で」と筆を走らせてしまったのではないか)。

そう言えば、と思いだすことがある――。私は小田急電車の座席に腰掛けている。そこに乗り込んできたのがJ・J。前方の席の0.5人分ほどの隙間にお尻をぐいぐい食い込ませて、すわった。そしてすぐさま本を開き、読書に耽ったのだ。たぶんあれは、私が新宿から乗ってきた下り電車が代々木八幡駅に停まったときのことではなかったか。その、ほんの一瞬の出来事が、ほぼ半世紀の歳月を経て自伝を通じて蘇ったのである。

「ちょっとひと休みして、ぼくのアパートの二階にある本屋レイク・ヨシカワへ出かけたが、買おうと思った本が二冊ともない」。この一文も、私の記憶をくすぐる。1970年代初めのことだ。経堂駅北口に14階建ての「小田急経堂ビル」が姿を現した。J・Jは同じ町内の一戸建てから、その高層階へ引っ越してきた。低層階にはスーパーや飲食店、専門店が入り、床面積の大きな書店もあったから、階下に書庫をしつらえたような気分だったのだろう。

そのビルは取り壊され、今は4階建て、屋上庭園付きの瀟洒な商業施設「経堂コルティ」に生まれ変わった。J・Jが旧ビルの何階に住んでいたかは知らないが、いまコルティ正面の大階段を見あげると、上空にJ・Jの空間が浮かんでいるような錯覚に陥る。

この「ぼくのアパート」の話や、前回とりあげたニューヨークの地下鉄話は「『ムッシュー・ブルー』という喫茶店かバーをやると喜ぶだろうなあ」という一編に出てくる。ここで「ムッシュー・ブルー」とあるのは青野平義という俳優。その死を悼もうとして筆を執ったらしいのだ。それなのに、前段で地下鉄やら書店やらに雑談の輪を広げていく。これがJ・J流だ。そのあと、ようやく始まったムッシュー・ブルーとの交流談に私は引き込まれた。

青野平義(1912~1974)は戦前からの新劇人。文学座のメンバーで、後に劇団NLTを旗揚げした。1960年前後、テレビの子ども番組におじいさん役などで出演していたことを私はしっかり覚えている。というのも、一緒に観ていた祖父が「おっ、ヒラヨシが出ているぞ」と自慢げに話していたからだ。口伝えに聞いたので確証はないのだが、青野と私の祖父とは親戚づきあいの間柄にあった。私自身、幼いころに青野の実家に年始回りをした経験があるから、血はつながっていなくともなにがしかの縁があったのだ。

その青野とJ・Jとの関係は濃密だった。それは、J・Jが青野の葬儀で弔辞を読んだことからもわかる。この一編では、その弔辞をなぞるように思い出を綴っている。戦前から、二人には演劇仲間としてのつきあいがあったようだ。東京・東中野の喫茶店に6人ほどでたむろしては夜中まで語りあっていたという。「青ちゃんは、あの芝居を読んだけれど面白いよ。あれをやろうと言って筋を話しながら、みんなをたきつけるんです」

これに続く一文は、詩的ではあるが意味不明でもある。「真冬のことで雪がさかんに降っていましたが、そのとき青ちゃんは行きたくなったなあ、どうだいみんなと言って遠くのほうを見たのでした」。みんなでどこへ繰りだそうというのか。その答えは、後の段落で正直に種明かしされているのだが、良所であるはずがない。書きぶりからみると弔辞でも同じことを暴露したらしい。親戚づきあいをしていた立場からみれば、困ったものだ。

ただ、J・Jの喪失感は痛切だ。それは、青野の訃報に触れたときの描写から読みとれる。「うちの者が」とあるのは妻のことだろう。朝、彼女が新聞を手に部屋へ入ってきて「青野さんが……」と言ったきり、黙る。J・Jは、それですべてを察知した。「ちょっとばかり心配になっていたことが、ほんとうにそうなったんだ」「おまえみたいな呑気なやつはいないぞと自分にむかってつぶやきました」。年をとって友を失うとは、こういうことなのか。

青野の実家は、東京・六本木で今も続く和菓子の老舗だ。平義は長男だが店を継がなかった。J・Jはそんな家業の話にも触れながら、「ムッシュー・ブルー」という「青ずくめの喫茶店」がほしいとの願いを披歴する。「もし『ムッシュー・ブルー』ができたら青い服を着て出かけるとしよう」。私が知る限り、その夢は実現しなかった。ここでは、J・Jが商人の息子らしく、亡き友を「店」という形態で想起しようとしたことを記憶しておこう。

この本を読んで、私は不思議な感覚に襲われる。J・Jと私は同じ町の空気を吸っていたに過ぎない。青野平義と私は遠戚のような関係に過ぎない。どちらもかぼそい糸だが、その先にいる人物が大昔、同じ青春を謳歌していたのだ。世界はやはり狭いのか。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年5月22日公開、同月25日最終更新、通算523回
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ヒト以外と線を引く、という生き方

今週の書物/
句誌の掌編エッセイ
大上朝美著、「鏡」第31号、鏡発行所、2019年4月刊

線の引き方

新型コロナウイルス禍は、その発端をめぐって諸説が入り乱れている。ただ一つ、ほぼ間違いないと思われるのは、これが「人獣共通感染症」であろう、ということだ。ヒトが獣(この用語では、哺乳類に限らず広く脊椎動物を指している)からうつされる感染症である。今回の病原体は今のところ、コウモリを宿主としていたウイルスに由来するとみられている。それが21世紀の今、なぜヒトに乗り移ったのか?

先々週5月1日付の当欄(「物理系作家リアルタイムのコロナ考」)でとりあげた『コロナの時代の僕ら』(パオロ・ジョルダーノ著、飯田亮介訳、早川書房、2020年刊)で、ジョルダーノはこう書いている。「今回のパンデミックのそもそもの原因」は「自然と環境に対する人間の危うい接し方、森林破壊、僕らの軽率な消費行動にこそある」と。コロナの疫病禍は、ヒトにヒト以外の生物種とのつきあい方を見直すよう迫っていると言えるだろう。

で、今週は、句誌「鏡」第31号(鏡発行所、2019年4月刊)にある掌編エッセイ(大上朝美著)。著者本人が、エッセイと標榜しているわけではない。題名もない。投句者として、自句掲載のページの余白に寄せた1000字に満たない文章だ。

著者は、朝日新聞文化くらし報道部(旧学芸部)で活躍した人。私にとっては新聞社の1年先輩にあたる。新聞記事らしからぬ機知に富んだ文章を書く記者として私は尊敬してきた。その人と退職後、とある句会で席を並べることになった。それが縁で「鏡」をいただいた。

「ふと窓を見ると、ベランダの柵に一羽の鳩が止まって、横顔をこちらに向け、じっと観察している風である」――掌編エッセイは、こんな一文で始まる。都会のマンション生活にありそうな情景を、過不足なく切りとった描写だ。それは、どうやらキジバトらしい。1羽ではなく、「夫婦」でいるようだ。窓を開けると、当然のことながら飛び去った。著者は「営巣の下見に来ていたらしい」とみてとる。

ここで著者は、過去の記憶を呼び起こしていく。数年前はドバトがやって来た。見ると、ベランダのコンクリートに松葉や枯れ葉が並べられていた。巣づくりは完工しなかったが、着工はされていたのだ。ずっと昔、大阪に住んでいたころには「スズメの家主」になったこともある。巣は、ベランダ外壁のエアコン用に開けられた穴のあたり。雨除けのためのパイプを巧妙に借用した下向きのつくりで、雨露をしのげるタイプだった――。

著者が問いかけるのは、鳥たちは「どうしてこんな無機的な場所に来ようとするのだろう」ということだ。今の住まいは、近くに樹木の緑がたくさんあり、鳥たちにとって営巣地に事欠かない。かつての大阪の住まいも、広大な緑地のそばにあったので同様だった。

……と、ここまで読んでくると、著者は動物を苦手とする人、もっと言えば、動物嫌いと早とちりする人が出てくるかもしれない。だが、それは大いなる誤解だ。ご一緒する句会で投句や選句の傾向を見ていると、彼女の鳥や虫に対する愛着はなまなかではない。

そして、読ませどころは最後の段落。ベランダで鳩が卵をかえしたことを喜ぶ人が自分の知人にもいることに触れた後、毅然として言う。「私は鳩には来てほしくない派だ。生き物の気配はうれしい。しかし一線は引きたい」――このひとことに、私はしびれる。

この句誌は、去年4月1日の発行となっている。平穏だったあのころは、都市の日常を描く身辺雑記として読まれたのだろうが、1年後の今になってみると、そこに深い意味が潜んでいることに気づかされる。ヒトとヒト以外の動物の間には一線を引き、一定のディスタンス(距離)を置くべきだったのだ。それを怠ったため、今の私たちはヒトとヒトの間にディスタンスをとるよう求められている。なんという皮肉だろうか。

ヒトという生物種は、森を切りひらき、ほかの生物種を追い払っただけではない。そこに、わけのわからない「第二の森」を築きあげて、ほかの生物種を呼び寄せてしまった。ベランダの風景は、そのことを如実に物語っている。

余談だが、この句誌では、ほかの投句者が書いた掌編エッセイも味わい深い。そのなかの一編は文字通り、都市生活での人と人との距離のとり方を話題にしていて秀逸だった。「鏡」第31号は、俳句好きの感性がとらえた「距離」論としても読めるのである。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年5月15日公開、通算522回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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「ペスト」考、拙稿再読で知る怖さ

今週の書物/
「僕たちは、カミュ的状況にいるのか」
尾関章執筆、ブック・アサヒ・コム「文理悠々」、2011年3月31日付

市門を閉じる

新型コロナウイルスの感染禍が、日本列島にも押し寄せたころからだろうか、アルベール・カミュの長編『ペスト』の書名をメディアで目にすることが多くなった。もっともな話だ。この小説を読んだことのある人は、今まさに進行中の出来事を見て既視感のような感覚に囚われたのではないか。だが、それは錯覚としての既視感ではない。この作品世界に入り込んだとき、コロナ状況と酷似した現実を仮想体験していたのである。

この小説は、ペストという今では抗菌薬で対抗できる感染禍を題材にしている。だから、私は新型コロナウイルス感染禍の当初、あえてとりあげようとは思わなかった。だが、この闘いが長期戦とわかった今、その作品世界を再訪することは大いに意味がある。

この小説のことは9年前、当欄の前身で書いている。それはブック・アサヒ・コム(現・好書好日)欄に残っていたのだが、残念なことに今は外されてしまった。それならば、と当時の拙稿を私のPCから掘りだして再読してみることにする。自分が書いた記事を話題にする、という行為には気おくれを感じる。だが、9年前の自分を赤の他人と思って突き放してみれば、そこに過去と現在の対話が生まれそうな気もする。

その拙稿は、「僕たちは、カミュ的状況にいるのか」(ブック・アサヒ・コム「文理悠々」、2011年3月31日付)。公開日は3・11――東日本大震災とそれに伴う福島第一原発事故――から間もない。私たちが津波被害の深刻さに呆然とし、放射能の脅威に慄いていたころだ。私は、そこに実存哲学の「限界状況」を感じとり、「カミュ的状況」と名づけた。カミュの文学は本人の意思とはかかわりなく、実存主義の文脈で語られることが多いからだ。

拙稿の中身に入るまえに、作品そのものについて――。私がこのときに再読したのは、宮崎嶺雄訳『ペスト』(新潮文庫、1969年刊)だ。カミュ(1913~1960)が30代半ばだった1947年に発表した作品。フランスの植民地だったアルジェリアの港町オランで40年代にペストが蔓延する、という筋書きになっている。オランは実在の都市だが、ペスト禍はフィクション。それでも迫真なのは、著者の想像力が半端ではないからだろう。

私は拙稿で「カミュ的状況」をこう要約した。オランでは「この町から出てはいけないという強権」が行使され、市民たちは「ハイリスクの空間に閉じ込められる」――緊急事態宣言下で遠出の自粛を求められている今の私たちは、これに似た状況にある。

実際のところ、この小説の筋書きは驚くほど2020年の状況に重なる。類似点を挙げておこう。(以下、「」は拙稿からの引用、〈〉は『ペスト』本文からの引用、ルビは省く)

一つには、ペスト禍で「はじめは役所の発表も抑え気味」だったこと。オランの県当局は〈悪性の熱病〉について〈果して伝染性のものであるか否かはまだなんともいえない〉と即断を避け、〈若干例がオラン市区に発生した〉としか言っていない。これは、私たちがコロナ禍の始まりに経験したことに近い。なべて行政官には、大げさに騒いで混乱を増幅させたくないという心理が働くのか。カミュは、その落とし穴を見抜いている。

「そうこうするうちに、病院は満床になり、死者の数も日に日に増して」というペスト禍の展開もコロナ禍に似ている。そんな事態になって、市の閉鎖命令が出される。市門が閉ざされたのだ。〈この瞬間から、ペストはわれわれすべての者の事件となった〉。今回、日本政府も医療崩壊が懸念されるようになってから緊急事態宣言を出した。その結果、私たちは不要不急の活動を控えるよう求められ、コロナが〈すべての者の事件〉となったのである。

私は改めて思う。感染症を封じる手だては、人と人とを隔てることよりほかにないのか――このことは先週紹介した『コロナの時代の僕ら』(パオロ・ジョルダーノ著、飯田亮介訳、早川書房、2020年刊)で、理系出身の作家ジョルダーノが指摘していたことでもある。有効な予防医療がなく、確実に治るという特効薬も見つからない未知の病原体に向きあうとなると、結局は人と人との接触を絶つことから始めなくてはならない。

近代以後の人類は生命科学の領域でいくつもの大発見を重ね、いくつもの画期的な技術を手に入れた。20世紀後半には、生物の仕様書がDNAという核酸分子に刻まれた暗号文であることを見いだした。21世紀に入ると、細胞を未分化の状態に戻して生体組織を再生する医療も夢ではなくなった。それなのに、ヒトが新顔のウイルスに乗っ取られると手も足も出ない。100年前と同じように、人は人から離れることを余儀なくされている。

もっとも、1940年代のペスト禍と2020年代のコロナ禍では違いもある。オランでは閉鎖命令を受けて、市域の内と外をつなぐ通信が制限されていく。手紙は菌を媒介するということでダメ。不急の電話も回線をパンクさせるからダメ。電報だけが頼りだった。

これに対して、私たちにはIT(情報技術)がある。あるときはメールで、あるときはソーシャルメディアで。そして、みんなでわいわいやりたければウェブ会議システムを介して仲間の顔を見ながら語りあうこともできる。その結果、市内と市外の間だけでなく、同じ市内にいる人々の間でも物理的な接触を減らせるようになった。私たちが、生存の枠組みである実空間をどこまでネット空間に置き換えられるかは心もとないが……。

ここで、私が9年前の拙稿には書かなかったことを追記しておこう。『ペスト』の主人公ベルナール・リウー医師が入居するアパートの門番、ミッシェルの死についてだ。階段で鼠の死骸が見つかっても〈この建物には鼠はいない〉と譲らない老人。住人にとっては身近な人物だった。その門番が体調を崩し、高熱を発して弱っていく。リウーは治療を施し、救急車に乗せて病院に向かうのだが、門番は〈鼠のやつ!〉とつぶやきながら息を引きとる。

そのあとの一文が、心に刺さるのだ。〈門番の死は、人をとまどいさせるような数々の兆候に満ちた一時期の終了と、それに比較してさらに困難な一時期――初めの頃の驚きが次第に恐怖に変って行った時期――の発端とを画したものであったということができる〉

今回のコロナ禍で、私たちが〈恐怖〉を感じはじめたのは有名人の感染死が伝えられたころではなかったか。有名人は、メディアを通じてのことだが、門番同様に私たちが身近に感じる人物だ。人々は、有名人の死の向こうに市民社会の危機をのぞき見たのである。

9年前、私は〈門番の死〉のくだりを拾いだして拙稿に書き込んではいない。ところが今、もう一度『ペスト』のページをぱらぱらめくってみると、この一節に目がとまり、心に残った。それは、私たちが今まさに実空間の感染禍を体験しているからだろう。

この作品の登場人物の多くは、疫病禍の限界状況と対峙して「人としての生き方を変えていく」。私たちもコロナ後に生き延びているならば、今と異なる生き方をするに違いない。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年5月8日公開、同年6月1日最終更新、通算521回
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