文章にも陰翳をみる谷崎日本語論

今週の書物/
「文章読本」
=『陰翳礼讃・文章読本』(谷崎潤一郎著、新潮文庫、2016年刊)所収

どうしてこんなことに、ああだ、こうだ、と頭を悩ますのだろうか。当欄を書いていて、そんなふうに苦笑することがままある。たいていは文章作法にかかわる。たとえば、「だだだ」の問題。末尾が「だ。」の文が何回も繰り返されてしまうことだ。見苦しいというより聞き苦しい。黙読してそう感じる。で、「だ。」の一つを「である。」に置き換えたりする。「〇〇だ。」の「〇〇」が名詞なら、「〇〇。」と体言止めにすることもある。

ただ、この切り抜け策にも難がある。「である。」でいえば情報密度の問題だ。私は新聞記者だったので、文を短くするよう叩き込まれてきた。ニュース記事では「だ。」が好まれ、「である。」は嫌われた。だから今も、文末を「である。」とすることには罪悪感がある。

体言止めについては、社内で別の視点から追放運動が起こったことがある。「容疑者を逮捕。」のような文が槍玉にあがったのだ。これでは、「逮捕した。」なのか「逮捕する。」なのかがわからない。私たちは、文の完結を求められた。辟易したのは、これで体言止めそのものが悪者扱いされたことだ。私は、納得がいかなかった。文章のところどころを名詞で区切ることは、ときにリズム感をもたらす。だから、当欄では遠慮なく体言止めを使っている。

「たたた」の問題もある。過去の事象を綴るときに「た。」の文が続くことだ。こちらは、「だだだ」ほど耳障りではない。「た。」「た。」……とたたみかけることは韻を踏んでいるようで、詩的ですらある。だが半面、文章が単調になってしまうことは否めない。

そんなこともあって、私は「た。」も続かないように工夫している。一つは、「た。」のうちのどれかを「たのである。」に替える方法だ。ただ、これは「だ。」の「である。」化と同様、簡潔さを損なう副作用がある。もう一つの解決法は、「た。」の一部を現在形にしてしまうことだ。日本語は時制が厳格でないので、読者が過去の世界に誘い込まれた後であれば、「した。」が「する。」にすり替わっていても、現在に引き戻されることはない。

一介のブログ筆者でも、このように苦心は尽きない。なかには馬鹿馬鹿しいこともあるが、気になりだしたら振り払えないのだ。これは、文筆を生業としてきた人間の宿命だろうか。同じ悩みは文豪も抱えていたらしい。そのことがわかる一編を今週はとりあげる。

谷崎潤一郎が1934年に発表した『文章讀本』(中央公論社刊)。今回は、『陰翳礼讃・文章読本』(谷崎潤一郎著、新潮文庫、2016年刊)というエッセイ集に収められたものを読む。「陰翳礼讃」は私が好きな文化論で、こちらについても語りたいが別の機会にしよう。

「文章読本」の目次をみると、第一部は「文章とは何か」、第二部は「文章の上達法」、第三部は「文章の要素」。この一編が文字通り、作文の指南書とわかる組み立てだ。第一部は「現代文と古典文」「西洋の文章と日本の文章」の比較論が読みどころ。第二部では「文法に囚われないこと」という章も設け、日本語の融通無碍さを論じている。第三部は、文章を「用語」「調子」「文体」「体裁」「品格」「含蓄」の切り口で考察している。

谷崎流の指南は話が具体的だ。たとえば、本稿のまくらで触れた「だだだ」や「たたた」の問題もきちんと扱っている。その箇所を読んで気づかされたのは、「だだだ」「たたた」は日本語ならではの悩みということだ。日本語の文は、ふつう主語、目的語、述語の順なので、文末は「だ」や「た」や「る」になりやすい。これに対して、英語は文の終わりに目的語の名詞がくることが多いので、“is,is,is”問題や“was,was,was”問題はありえない。

この「読本」によれば、同一音の文末が反復されると、その音が「際立つ」という。「最も耳につき易い」のは、「のである」止めと「た」止め。「のである」には「重々しく附け加えた」印象があり、「た」は「韻(ひびき)が強く、歯切れのよい音」だからだ。「た」止め回避の手だてとして、著者は「動詞で終る時は現在止めを」と提案している。「た。」の一部を現在形にしてしまうという私の切り抜け策は、文豪も推奨していたことになる。

この助言からうかがえるのは、著者が文章を人間の五感でとらえていることだ。「た」止めを避けるというのは聴覚の重視である。別の箇所では太字でこうも書く。「音読の習慣がすたれかけた今日においても、全然声と云うものを想像しないで読むことは出来ない

この「読本」は作文教室でありながら、日本語論としても読める。日本語の特徴を見定めながら、それを生かした文章のあり方を探っていると言ってもよいだろう。

「文法に囚われないこと」の章には「日本語には、西洋語にあるようなむずかしい文法と云うものはありません」と書かれている。一例は、時制の緩さ。規則があるにはあるが「誰も正確には使っていません」。だから、「たたた」も切り抜けられるわけだ。あるいは、主語なしの許容。日本語文は「必ずしも主格のあることを必要としない」――。これらの特徴が「文法的に正確なのが、必ずしも名文ではない」という日本語の美学に結びついている。

日本語の語彙の乏しさを論じたくだりも必読だ。ここで、日本語とは大和言葉を指す。

例に挙がるのは「まわる」。大和言葉では、独楽の自転に対しても地球の公転に対しても「まわる」という動詞を使うが、これに対応する中国語(原文では「支那語」)、すなわち漢字の種類は多い。「転」「旋」「繞」「環」「巡」「周」「運」「回」「循」……。これらの文字を使い分けることによって、独楽の自転のように「物それ自身が『まわる』」ことと、地球の公転のように「一物が他物の周りを『まわる』」ことの区別もできるのだ。

語彙が豊かでないのは、大和言葉の欠点だ。それは著者も認めている。だから、日本語は「漢語」を取り入れ「旋転する」などの動詞を生みだしてきた。さらに「西洋語」やその「翻訳語」も取り込んで語彙を増強している。「翻訳語」には「科学」「文明」などがある。

著者は、この欠点を「我等の国民性がおしゃべりでない証拠」とみている。続けて「我等日本人は戦争には強いが、いつも外交の談判になると、訥弁のために引けを取ります」と述べているのは1930年代だからこそだが、いま読むと心に突き刺さる。

だが、欠点は長所の裏返しでもある。そのことを、著者は『源氏物語』須磨の巻を題材に解説している。光源氏が都を離れ、須磨の漁村に移り住んだときの心理描写に「古里覚束なかるべきを」という表現があるが、その英訳を「彼が最も好んだ社交界の人々の総べてと別れることになるのは」と訳し戻して、原文と比べている。ちなみに、この英訳は英国の東洋学者アーサー・ウェイリー(原文では「ウエーレー」と表記)の手になるものだ。

著者によれば、光源氏を悲しませているのは、社交界の人々との離別だけではない。「古里覚束なかるべきを」には「いろいろの心細さ、淋しさ、遣る瀬なさ」を「取り集めた心持」が凝縮されているのだ。この「心持」を精密に分析しようとすればキリがなく、分析を重ねるほど輪郭がぼやけてくる。こういう心理状態を描くとき「わざとおおまかに、いろいろの意味が含まれるようなユトリのある言葉」を用いるのが、日本流というわけだ。

『更科日記』を引いた一節では、足柄山を描いた文章に「おそろしげ」という言葉がなんども出てくることを著者は見逃さない。日本の古典文学には、このように同一の言葉の反復が多いという。ただ著者によれば、同じ言葉であっても、それぞれが「独特なひろがり」を伴っている。「一語一語に月の暈のような蔭があり裏がある」というのだ。これは、文章にも「陰翳」を見ていることにほかならない。さすが谷崎と言うべきだろう。

私たちは今、ワープロソフトを使うので文章を何度も推敲することが習慣になってしまった。だが、墨と筆を使っていた時代は違う。いったん墨書した文言は消えずに残った。だから、頭に浮かぶ言葉がそのまま作品になったのだ。大和言葉の文学では、語彙が限られる分、同じ言葉が書きとめられやすい。だから私たち読者は、同じ言葉から別々のニュアンスをかぎ分けなくてはならない。いや、かぎ分ける自由を手にしたのだともいえる。

同じ言葉の繰り返しは、私がブログを書くときに避けようとしていることの一つだ。だが著者谷崎の卓見によれば、それは排除すべきものではなく、美点にさえなりうる。同じ言葉のそれぞれに多様な「蔭」があるだなんて、なんと素晴らしい言語観だろうか。
☆引用箇所にあるルビは原則省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年3月31日公開、同年4月3日更新、通算672回
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竹中労が大杉栄で吠える話

今週の書物/
『断影 大杉栄』
竹中労著、ちくま文庫、2000年刊

アナーキーな色

古書店の書棚で背表紙に懐かしい名を見つけた。竹中労(たけなか・ろう)。知らない、という人が若い世代には多いだろう。私もよく知っているわけではない。ただ、その人が1960~1970年代、メディア界で“危険視”されていたことは印象に残っている。

名前は、週刊誌でよく見かけた。と言っても、書かれる側にいたわけではない。書く側である。肩書はルポライター。政治に首を突っ込み、芸能界にも興味津々だった。タブーのない人。テレビに出ると何を言い出すかわからない。見るほうも気が気でなかった。

竹中労は謎めいている。今回経歴を調べていて、そのことを痛感した。たとえば出生年。ネット検索すると「1930年生まれ」としている記述が多い。竹中が1991年に死去したときの朝日新聞記事(1991年5月20日付朝刊)も、1930年生まれで没年齢を計算している。ところがウィキペディア(2023年3月20日最終更新)によると、1930年は「戦災後復活した戸籍」に載っている生年であり、1928年生まれとする記録もあるという。

最終学歴もはっきりしない。ネット検索では「東京外語大学除籍」としているものを見かけるが、ウィキペディアでは「甲府中学(現・山梨県立甲府第一高等学校)中退」となっている。東京外大に入ったかどうかが判然としないのだ。ちなみに旧制甲府中の中退は、校長に退陣を迫り、ストライキを打ったことが問題化して「退学勧告」を受けたためらしい(ウィキペディアによる)。竹中の青春は波乱に富んだものだったらしい。

経歴の不透明は、戦後の混乱のせいだけではない。竹中の父英太郎(1906~1988)は画家で、戦前は探偵小説や怪奇小説に挿絵を描いていたが、労働運動にもかかわり、アナキズム(無政府主義)に惹かれていた。労の型破りな言動には父の影響もあっただろう。

で、今週の1冊は、その竹中労がアナキズムについて語った『断影 大杉栄』(竹中労著、ちくま文庫、2000年刊)。大正期のアナキスト大杉栄の軌跡をたどりながら、その思想に対する共感を思う存分書き込んでいる。だから本書は、ただの評伝ではない。

巻頭の「凡例(はじめに)」によれば、本書は竹中没後、本人が大杉について書いていた文章を「夢幻工房」を名乗る人物、もしくは集団がまとめたものだ。一部は現代書館刊『大杉栄』(FOR BEGINNERSイラスト版、1985年)の原稿、あとは未発表の原稿という。

「凡例」は、著者竹中のテキストには誤った表記が多く、固有名詞や数字の確認作業はしたが「パーフェクトではありません」と言う。しかも、著者は自著に文献を引くとき、「資料を見ないで」記憶を頼りに書いていたので、「引用文は原著と相当ことなっています」とことわっている。「夢幻工房」氏は、そのほうが「原文よりずっと意味が明解」と開き直り、悪びれた様子がない。本のつくりそのものがアナーキーなのだ。

ということで、当欄も今回はアナーキーにならざるを得ない。いつもは、書物の要点を原文にできる限り忠実に紡ぎだしているが、本書については通読後の感想をそのまま書きつけることにしよう。そのほうが著者の主張を正確に汲みとれるような気がする。

私の印象では、本書は日本では無政府主義が正当に扱われてこなかったことへの抗議の書であるように思われる。著者の念頭にはアナ・ボル抗争がある。無政府主義即ちアナキズムとマルクス・レーニン主義即ちボルシェヴィズムの対立である。人々が国家権力に抵抗して自由を求める運動は、無政府主義がマルクス・レーニン主義によって切り捨てられたことでやせ細ってしまった。著者は1980年代半ばにそのことを肌で感じている。

1980年代半ばといえば、国内では学生運動が勢いを失ったころだ。旧ソ連・東欧圏では民主化の動きが台頭して、マルクス・レーニン主義に翳りが見えていた。そんな折、著者は若者に向けて、反体制は「ボル」だけではない、「アナ」もある、と言いたかったのだろう。だからこそ、大杉栄をFOR BEGINNERSシリーズでとりあげたのではないか。ちなみに著者自身も日本共産党員だったが、1967年に「除籍」で党を離れたという。

FOR BEGINNERSシリーズ『大杉栄』の「あとがき」は本書巻末にも収められているが、そこには、こんな記述がある。「アナキズムは鉄の規律を強制せず、個別の情動と創意とを連動する。自由を求めるものは、みずから自由でなければならない……」

ところが、日本の左翼運動史では無政府主義は党派の統制を逸脱するものとされ、ときに「反革命」のレッテルも貼られた。代表的なアナキスト大杉栄にいたっては、男女関係の刃傷沙汰「葉山日蔭茶屋」事件で被害者となったことや、関東大震災後に軍人の手で伴侶や甥ともども殺害されたことばかりが語り継がれ、大杉周辺に漂う自由の精神が正当に評価されていない――著者の思いをすくいとれば、そういうことになるだろう。

ここでは、1916(大正5)年秋の日蔭茶屋事件に焦点を当てよう。そのころ、大杉は女性A、B、Cと「一対三の多角恋愛」の関係にあった。Aは妻、Bは愛人、Cは新しい愛人だ。Bは新聞記者、Cは結婚していて夫は女学校時代の恩師だった。大杉とCが神奈川県葉山の旅館「日蔭茶屋」にいるところへ突然、Bがやって来る。Cは帰京。Bは大杉と言い争いになり、彼の首を切りつけた――大杉は逗子の病院へ運び込まれて一命をとりとめる。

この事件は映画の題材となり、1970年に公開された。「エロス+虐殺」(吉田喜重監督)。出演陣は、大杉が細川俊之、Bが楠侑子、Cが岡田茉莉子だった。私は封切り後まもなく、その作品を新宿のアートシアターで観ている。映像は美しいが、衝撃的だった。

著者はこの事件を論じるとき、アナキズムは「個人の自我」を「ただちに全的に解放」して「社会制度」の「解体」をめざす、と強調している(太字は原文では傍点、以下も)。ここが、ポルシェヴィズムと違うところだ。問うているのは「個々人の悟性」であり「マルクス・レーニン流の弁証法的理性」は関心外、というのだ。「自由恋愛」は「個別人間の覚悟」を重んずる点で、「革命運動」「出家遁世」「テロリズム」と同根という。

このくだりで著者が批判の目を向けるのは、戦後の既成左翼だ。性をめぐって「道徳的に最も保守であり」「徹底した公序良俗を金看板にしている」ことを見逃さない。「むしろ今日のほうが、“自由な魂”への軛(くびき)はより重くきびしいのでありますまいか」

2023年の今、大杉の女性とのつきあい方や、それを前向きに受けとめる著者の恋愛観に違和感を覚える人は多いだろう。昨今は婚前の自由恋愛を認めつつ、結婚している人の婚外恋愛はダメという見方が標準仕様だからだ。不倫は、週刊誌の鉄板ネタになっている。

もう一つ、著者が「自由恋愛」を「テロリズム」と同列視していることも、今ならば炎上騒ぎを呼びおこしたはずだ。これは、若者がまだ「武力闘争」という言葉を平気で使っていたころだからこそ公言できた論法。要らぬ誤解を招く例示と言うべきだろう。

こう見てくると、竹中労は“out of date”の人だ。時代遅れというよりも、時代の枠からはみ出しているという感じか。だが私は、「個人の自我」の「解放」にとことんこだわる姿勢には心惹かれる。今の時代、そんな解放志向の精神があまりにもなさすぎる。

大杉はAと別れてCと連れ添い、5人の子に恵まれた。本書によれば、1923年の震災前は「子供らの面倒」をみて「乳母車を押して歩く」日々だったという。この情景は今のジェンダー観にもぴったりくる。大杉はやはり、先駆的な人だったのだ。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年3月24日公開、通算671回
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原発被害「閾値」行政の不条理

今週の書物/
『その後の福島――原発事故後を生きる人々』
吉田千亜著、人文書院、2018年刊

20mSv!

今回も『その後の福島――原発事故後を生きる人々』(吉田千亜著、人文書院、2018年刊)を引きつづき読む。先週は、東京電力福島第一原発事故の汚染被害地域で年間線量20mSv(ミリシーベルト)という数値が独り歩きしている現実を見た。

このことでは、科学担当の元新聞記者として書いておきたいことが一つある。「閾(しきい)値なし直線(LNT)仮説」と呼ばれる考え方をどうみるか、ということだ。この仮説は、被曝による健康リスクが或る線量から急に現れるものではないと考える。リスクの有無は不連続でないというのだ。リスクは、線量がふえるにつれてしだいに高まることになる。国際放射線防護委員会(ICRP)の勧告も、この立場をとっている。

LNT仮説に対する評価は、専門家や科学記者の間でばらついているようだ。理由はよくわかる。被曝線量が低いときのリスク増は、あったとしても増え幅が小さくて見極めにくいからだ。だが、だからこそ、この仮説は尊重されるべきものだと私は思う。

なにごとであれ、不確定さを伴う問題に対処するときは最悪の筋書きを心にとめるべきだからだ。その筋書きに対する根拠が現時点では不十分でも、それを織り込んで対策をとっておくことが最悪の事態を回避できる。これは、予防原則の一つと言ってよいだろう。

そのことを踏まえて本書を読むと、現実はそうなっていない。福島第一原発事故で本来の生活を乱された人々は被災地支援の諸政策に囲まれているが、それらはLNT仮説と逆向きの思想で成り立っているように見える。著者は福島県内に住む人々や県外に避難した人々を取材して、それぞれが抱える問題を浮かびあがらせているが、そこにあるのは〈閾値〉の行政だ。〈閾値〉以下の世界では3・11は強制終了されようとしている。

もちろん、政府や自治体が被災地を支援するとき、支援先を無制限には広げられないので、どこかで線を引くことになる。線引きを公正にするには基準値が必要だからだ。行政に閾は欠かせない。問題は、閾の決め方や扱い方に道理があるかどうかではないか。

本書の冒頭部では、福島県富岡町の放射線量が詳述されている。富岡町は福島第一原発の南方約10kmにあり、事故後は全域に避難指示が出された。このうち2017年4月に指示が解除された区域の元住人がその年の秋に自宅の線量測定のため「一時帰宅」したとき、著者は同行取材している。この区域は2012年3月時点で年間積算線量20mSv超とみられていたが、それが年間20mSv以下に減ったとされ、避難指示の解除に至ったのである。

この取材時、元住人宅の1時間当たりの放射線量、即ち線量率は次の通りだった。μSvはマイクロシーベルト、1mSvの1000分の1である。(*)
ベランダ   毎時0.7μSv(事故前の約17倍)
庭の植え込み 毎時3μSv(事故前の約75倍)
玄関脇雨樋下 毎時10μSv以上(測定器の上限超え)

数値を見てまず知りたくなるのは、それが避難指示解除の要件の一つ、年間線量20mSv以下を満たしているかどうかだ。このことについては、私が独自に調べてみた。環境省公式サイトのQ&Aコーナー(2016年度版)には、公衆の被曝線量限度(自然界の放射線や医療用の放射線を除く)年間1mSvを1時間当たりの線量率で表すと毎時0.23μSvになる、とされていた。そうならば、年間20mSvはその20倍なので毎時4.6μSvとなる。

先へ進む前に、年間1mSvから毎時0.23μSvを導きだした計算法を跡づけておこう。環境省の説明によれば、こうなる――。住人が屋外で過ごす時間が1日のうち8時間だとみなすと、残り16時間は屋外の空間線量の4割程度しか被曝しないことになる。ここで屋外の空間線量率が毎時xμSvとすると、年間線量限度には次の数式が成り立つ。
1mSv=1000μSv=(x×8+0.4x×16)×365μSv

この代数を中学生に戻った気分で解くと、答えはx=0.19μSvになる。ただ、これは実測値ではない。自然界にはもともと毎時約0.04μSvの放射線があるから、両方を足し合わせた毎時0.23μSvを測定すれば、公衆の線量限度年間1mSvの水準ということになる。

この計算の当否はわからない。屋内被曝を屋外の4割としたり、屋外滞在を1日8時間とみたりという仮定が入っているからだ。前者は、木造家屋かコンクリート建築かで違ってくるだろう。後者も、当人の年齢や職業によってまちまちだろう。ただ、避難指示を解く区域の線を引くには、ざっくりした仮定をもちこんで基準値をはじき出すしかない。このとき頭に叩き込んでおくべきは、その数値が大まかな目安に過ぎないということだ。

では、前述の元住人宅の測定結果をこの目安と比べよう。ベランダや庭先は毎時4.6μSv以下だが、玄関付近の雨樋付近はそれを超えている。場所によっては年間20mSv超もあるということだ。住宅1戸の敷地内に限っても、放射線量は大きくばらついている。

線量のばらつきを示す記述は本書のあちこちに出てくる。たとえば、「ホットスポットファインダー」という空間線量計を紹介するくだり。この機器は「一歩進むごとの放射線量を正確に数値化」できる。その測定で「放射性物質は風雨によって移動し、溜まりやすい場所にとどまる」ことがはっきりした。たとえば、路面の舗装がアスファルトなら線量は低いが、透水性のものだと放射性物質が染み込んで居すわり、高い値を示すことがあるという。

線量のばらつきは行政の判断に影響を与え、人々の生活設計を左右することもある。南相馬市の住人の一人は、その不条理を露骨なかたちで体験した。この人が住んでいる地域では2011年、政府の政策に従って年間積算線量20mSv超とされる家々が「特定避難勧奨地点」の指定を受けた。この人の場合、「両隣」(原文は傍点)は勧奨地点になったが、自分の家は外された。その判定結果は「賠償額の決定的な違い」にも直結しているという。

この話で痛感するのは、政府の施策が一見科学的でありながら実は非科学的なことだ。毎時の線量率を隣家と比べたとき、違いがμSvで小数点以下ならば「測定の誤差の範囲」であり、そのことは政府もわかっているはず、と著者は主張する。私もそう思う。

本書は、放射能除染の不条理も突いている。衝撃的なのは、福島県内では「県面積の約八〇パーセントが除染されない」という現実があるらしいことだ。除染は特措法のもとで政府や自治体が進めているが、田畑や山林では「ほぼ行われないに等しい」と著者は言う。

田畑は、農作業で放射性物質が土壌に交ざり込んでいる場合、表土を剥ぐだけでは除染にならないということで対象外になった。山林は、腐葉土を除くと土量が嵩む、土壌除去が防災に悪影響を与えかねない、といった理由で住宅の周辺以外は手つかずになっている。

著者は、除染で出た土の行方にも関心を向けている。本書によると、郡山市内では汚染土が児童公園の地中に埋められたことがあった。ブルーシートで覆われただけですべり台のそばに放置されたこともあった。埋設場所が住人に知らされなかったという事実も明らかになっている。福島第一原発の一部が立地する双葉町では、汚染土の行き場とされる中間貯蔵施設の用地確保がままならならず、汚染土の「仮置き場」が散在しているという。

ここでもう一度思い返したいのは、セシウム137は原子炉にとどまっても、汚染土の一部になっても、地中に埋められても、仮置き場に山積みされても、放射能の半減期が約30年で一定していることだ。私たちは原子核物理の時間尺度に縛られているのである。

私たちは被曝のリスクに向きあうとき、線量に閾値があると思わないほうがよいし、測定値には誤差があると考えたほうがよい。一方、放射性物質を扱うときは、半減期という数値に厳格に支配されていることを忘れてはならない。数字とのつきあい方は難しい。
*前回述べたように、本書では福島県内の空間線量率を「事故前」は毎時0.04μSvとしている。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年3月17日公開、同日更新、通算670回
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3・11原発事故という進行形

今週の書物/
『その後の福島――原発事故後を生きる人々』
吉田千亜著、人文書院、2018年刊

20mSv?

3・11がまた巡ってくる。今年は特別な思いでその日を迎える。12年ひと回りが過ぎたことが感慨深いだけではない。先週の当欄にも書いたように、人の世の忘却の速さに驚かされているのだ。現政権が原発回帰策に舵を切っても世間は静かなままだ。(*)

12年前に時計の針を戻してみよう。東京電力福島第一原発の電源喪失を耳にしたのは、3月11日夕方のことだ。津波が東北地方太平洋岸を襲う様子をテレビ映像でリアルタイムで見て、途方に暮れていたときだった。追い討ちをかけるような原発の危機。発電所が電力を失うなんて悪い冗談ではないか、と一瞬思った。私は新聞社内で、同じ職場にいるベテラン原発記者から「大変なことになるよ」と聞いて事態の深刻さを知った。

その後の推移は同僚の予言通りだった。翌12日には1号機で水素爆発があった。14日には3号機でも同様の爆発が起こる。このころから、事故の本質が世間の人々にも見えてくる。原子炉は冷却水の循環が絶たれると、原子核の崩壊によって出る熱で水素が発生し、爆発に至ること、爆発で放射性物質が飛散すると福島県内のみならず、県境を越えて広域の大気や水を汚してしまうこと――そう知って不安感は恐怖感に変わった。

実際、私の周りにも首都圏を一時離れた人たちがいる。その時点で放射性物質は首都圏にも届いており、放射線のレベルがどれほど高くなるか見通しが立たなかった。メディアは事故炉へ注水を続ける現場の作業を報じ、私たちはその悪戦苦闘に気を揉んだ。

私は先週、「原子の火」と「ふつうの火」の混同に論及した(*)。福島第一原発の事故後、私たち科学記者が別部門の記者から「炉内はいつ鎮火するのか」と聞かれ、核崩壊は火事とは異なり、水をかけても止まらないことを説明した、という話である。原子核は物理法則に忠実であり、その理論が予測する時間幅で壊れていくのだ。たとえば、セシウム137では放射性物質の量が半分になる半減期が約30年――。これは水で速められない。

ここで私が思うのは、物理学の視点でみれば福島第一原発事故は終わっていないということだ。事故炉に放射性物質が残り、核崩壊を繰り返しているだけではない。外部に撒き散らされた放射性物質も崩壊を続けている(除染しても除染土のなかで続行する)。私たちは、事故で人間の時間尺度を超える原子核現象を抱え込んでしまった。しかも、その現象の一部は原発の管理された区域内ではなく、公共の空間でも進行中なのだ。

事故から12年しかたっていないのに、私たちの多くはあのときの危機感を忘れかけている。だが、忘れることのできない人々が大勢いるのも間違いない。その理由の一つも、事故原発周辺の生活圏に原子核物理の時間尺度が刻印されていることにあるのだろう。

で、今週は『その後の福島――原発事故後を生きる人々』(吉田千亜著、人文書院、2018年刊)帯の惹句に「オリンピックの忘れもの」とある。福島第一原発事故を過去の出来事にしようとする動きを戒める書だ。著者は出版社出身のフリーライターで、この事故で被害に遭った人々に取材を重ね、ノンフィクション作品を発表してきた。『孤塁 双葉郡消防士たちの3・11』(岩波書店、2020年刊)は講談社本田靖春ノンフィクション賞を受けている。

本書を開いて著者のセンスの良さを感じたのは、「はじめに」に次の注書きを見つけたときだ。「空間放射線量を記した際は、原発事故前の何倍にあたる数値かを添えてある」――。事故前の空間線量率とされたのは、毎時0.04μSv(マイクロシーベルト)。福島県内で1990~1998年に実測された値の平均だ。或る地点がいま毎時0.7μSvであると記したくだりでは、それが事故前の約17倍に相当することをカッコ書きで明記している。

事故前に基準を置くという著者の視点に私は共鳴する。放射線被曝によって受ける健康面のリスクをめぐっては、住人が浴びる線量をどこまで抑えるべきかが論点となり、現時点の値がどのくらいかに関心が集まる。だが、それだけで十分だろうか。線量が事故前に比べてどれほど増えたかにも目を向けたほうがよいのではないか。集団の被曝線量が一気に底上げされるという現象は、リスク要因を分析するときに無視できないように思える。

政府は、福島第一原発周辺の汚染被害地域で避難指示解除の要件の一つに、放射線の年間積算線量が20mSv(ミリシーベルト)以下であることを挙げている。端的に言えば、住人に年間20mSvまでは我慢してほしいと求めたのである。そう言われてもピンとこないだろうが、本書で線量のカッコ書きを見ると愕然とするに違いない。年間線量が20mSv以下であっても、事故前と比べればはるかに高くなった場所がいっぱいあるからだ。

本書から離れるが、事故前に福島県内の年間積算線量がどうだったかを私自身で計算してみよう。毎時の線量率が本書の数値だとすれば、単純計算でこうなる。
毎時0.04μSv×24時間×365日=年間350μSv=年間0.35mSv
ここでは毎時の線量を屋内外で一律に見ているので、これはあくまでもザクっとした値だ。それでも、20mSvが事故前の水準に比べると桁違いに大きいことがわかる。

本書も、そのことをズバリ突いている。「公衆の被ばく線量限度」(自然界の放射線や医療用の放射線を除く)はこれまで年間1mSvだったが、それが福島の事故対応では年間20mSvに「引き上げられ」、その限度内なら「安全」ということになった、というのだ。

私は40年余り前、原発が集中する福井県で記者になった。そのころ、原子力推進側がいつももちだす公衆の線量限度は年間100mrem(ミリレム)だった。今の単位では1mSvだ。当時もし、原発周辺で年間1mSv超が記録されれば大ニュースになっていただろう。

本書で印象に残るのは、福島第一原発事故で不安や苦難を強いられる人々がリスクコミュニケーションの風圧を受けている現実だ。リスクコミュニケーションとは、安全や健康を脅かす危険因子について当事者と関係機関が情報を共有することをいう。ところが、政府はこの言葉を「政府の考える『正解』をあの手この手で授け、納得させる」という意味で使っている、と著者は指摘する。政府主導の「不安の解消」策にほかならない、というのだ。

この施策の背後には、地元を苦しめる「風評被害」がある。福島産の農産物や水産品が不当に扱われることのないようにしたい、という動機は正しい。だが実際には、政府や学者の一部が「安全だ」と連呼したことで、「放射能汚染の事実」までが「『風評被害』と言われるようになった」と著者は批判する。「事実関係を丁寧に議論すべきこと」も「風評」扱いされるわけだから「これほど実害を隠す便利な言葉はない」と嘆いている。

著者は、この問題に「『被ばく防護』vs『風評対策』」「『健康・命』vs『経済・金』」の対立構図をみる。「健康」と「経済」は本来、前者を第一に考えながら後者も追い求めるべきものだが、それが「vs」の関係にされたところに福島の不幸があるように私は思う。

本書には、政府版「リスクコミュニケーション」の例がいくつか出てくる。一例は、政府の「低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ」が2011年暮れに出した報告書。年間20mSvでがんになるリスクについて、喫煙や肥満、野菜不足などよりも低いとしている。著者は、年間10mSv未満の被曝でがんが増えるという論文も多いことから「この報告書が科学的に正しいと結論づけることはできない」と反駁する。

報告書の説明には別の問題もあるように、私には思える。それは、がんのリスクについて年間20mSvの被曝と喫煙とを比べていることだ。たばこががんの原因になることは明白であり、この報告書の記述が正しいとしても、年間20mSvでがんになる人の割合が喫煙のそれよりも小さいことを言っているに過ぎない。知りたいのは、年間20mSvの発がんリスクが事故前のそれ――自然界の放射線の発がんリスク――よりも高まったかどうかなのだ。

福島第一原発事故で地元の人々が背負い込んだ重荷の多くは、あのときを境に生活圏に飛び交う放射線が桁違いにふえたことに起因するのではないか。しかも、その線量は半減期に縛られてなおも減らない。原発事故は終わっていないのだ。次回も、本書を読む。
*当欄2023年3月3日付原子の火』1950年代の原子力観
(執筆撮影・尾関章)
=2023年3月10日公開、通算669回
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「原子の火」1950年代の原子力観

今週の書物/
『原子力発電所――コールダーホール物語』
ケネス・ジェイ著、伏見康治、森一久、末田守訳、岩波新書、1957年刊

黒鉛を使う

12年という時間幅は忘却に十分なのか。日本の現政権は東京電力福島第一原発事故の傷が癒えず、事故炉の後始末も道半ばだというのに、原子力発電の推進路線に回帰した。懲りない面々だ。私はそこに、歴史に学ぼうとしない姿勢を見てしまう。

原子力発電の歴史でまず注目すべきは勃興期の1950年代だ。この時代に何があったのか、どんな議論があったのか――それは2020年代の今、原発にどう向きあうかという問題につながっている。そこで今週は、原子力の古文書ともいえる書物を読む。

『原子力発電所――コールダーホール物語』(ケネス・ジェイ著、伏見康治、森一久、末田守訳、岩波新書、1957年刊)。著者は、英国のハーウェル原子力研究所の研究者で、金属物理学が専門。原著は、コールダーホール原子力発電所が稼働を始めた1956年に出た。

中身に入る前に予備知識を仕入れておこう。コールダーホール原発(すでに運転停止)は、英国イングランド北西部カンブリア地方にある。1号機は、商用発電を実現した第1世代の原子炉といえる。発電方式は、私たちがいま原発と聞いてイメージする軽水炉とは大きく異なっている。まず、燃料は濃縮ウランでなく天然ウラン。冷却材に水を使わず、二酸化炭素ガスで冷やした。中性子の減速材も液体の水ではなく、固体の黒鉛だった。

この炉は1950年代後半、日本でも関心を集めた。日本初の商用炉をどうするか、という懸案があったからだ。政府の原子力委員会がめざしたのが、実用化を果たしたコールダーホール型原子炉の輸入だった。だが、それが論争を巻き起こす。問題視されたのは、炉内に黒鉛をレンガのように積みあげる構造だ。英国のように大地震が少ないところならばともかく、地震国日本では不安を拭えない。日本学術会議も批判的な立場をとった。(*1)

政府は結局、コールダーホール型を改良して使う方針で押し切った。これが、日本原子力発電東海発電所(16.6万kw、1966年営業運転開始、廃炉の工程が進行中)である。

本書の邦訳も、この経緯と無縁ではないだろう。刊行年の1957年は原子力委員会発足の翌年。翻訳陣をみると、伏見は執筆当時、大阪大学教授(素粒子論)で原子力委の参与でもあった。森はジャーナリスト出身で日本原子力産業会議に身を置いていた。末田も同会議のスタッフだ。伏見は学術会議でも発言力があったから、コールダーホール型炉の安全性にも関心が深かったと思われる。ただ本書の翻訳は、別の動機で手がけたらしい。

訳者あとがきによれば、本書は「原子力の基礎についての解説書」と「原子力発電所の実際の建設記録」との両面を併せもっている。いわば、原発の初等教科書といった感じだ。章立ては「解説書」→「建設記録」の順なので、当欄もその流れに従う。

私の目にまずとまったのは、「原子の火」という言葉だ。著者は、そこで「火」を二つに分けて論じている。「ふつうの火」と「原子の火」である。前者の燃料は、石炭、石油、ガス、木材などさまざまある。これに対して「原子の火をもえつづけさせることのできる天然の物質」は「ただ一つ」で、それがウランだという。原発が生みだすのは熱なのだから「火」にたとえたくなる気持ちはよくわかる。だが、この類推には無理がある。

著者も「素人からしばしばうける質問」をもちだす。「その原子の火をともすにはどうすればよいのか?」。これに対する答えは、こうだ。「原子の火は、連鎖反応を持続させるようなうまい条件で、じゅうぶんな量のウランが原子炉にあつめられたときにしかおこらない」。これでは「素人」も戸惑うだろう。油に火をつけるのに油がいっぱいなければない、ということはない。核分裂という原子核反応と酸化という化学反応は同列に語れない。

それなのに、原子力報道では「原子の火」などの言葉がしばしば用いられてきた。日本では1957年8月、茨城県東海村の実験用原子炉が核分裂の連鎖反応を続けること(臨界)に成功したとき、新聞各紙が「原子の火」(朝日)「第三の火」(毎日)「太陽の火」(読売)という大見出しを掲げている。このたとえには問題があるのではないか、と私はかねがね考えてきた。そのことは福島第一原発事故後、いっそう強く思うようになっている。

福島の事故直後、私たち科学記者のもとには社内の別部門から問い合わせが殺到した。その一つが「炉内はいつになったら鎮火するのか?」だ。炭火が燻っているなら水をかければ消える。だが、放射性物質の崩壊現象は一定の時間幅で続くので、炉内の発熱は放水では止まらない。科学記者は受け売りの知識でそう答えたが、なかなか納得してもらえなかった。「原子の火」は、どうしても「ふつうの火」の延長線上に置かれてしまうのだ。(*2)

今回、私は「原子の火」をめぐって二つのことに気づいた。一つは、原子力を「火」にたとえる論法が日本だけのものではないこと。もう一つは、本書の刊行が1957年4月なので、それが東海村「原子の火」報道に影響を与えたかもしれないということだ。

さて、話を「建設記録」に進めよう。ああ、そうだったのかと教えられたのは、コールダーホール型炉の主目的が発電ではなかったことだ。本書によれば、1950年前後、原子炉研究は軍事優先の状況にあった。「あたらしいアイディアがでてくると、それがプルトニウム生産という目的に貢献するかどうかをしらべ、これにプラスするかぎりでのみ受けいれられた」と著者は書く。プルトニウムには「原爆材料」としての用途があった。

研究拠点のハーウェル原子力研究所では、発電炉(愛称「ピッパ」)の設計が進行中だったが、そこに軍部の意向が届いた。「軍事用プルトニウムの生産を増強してほしい」というのだ。その結果、ピッパは「発電を主としあわせてプルトニウム生産をも行なうもの」から「プルトニウム生産設備であってあわせて発電もするもの」に性格を変えた。1953年、政府はピッパ型の原子炉の建設を決める。これがコールダーホール原発だった。

発電炉では、タービンの熱効率を高めるため、炉から高温で熱を取りだそうとする。ところがプルトニウム生産炉は、その生産量さえふえればよいので高温の必要はない。この折り合いをつけるために技術陣が悪戦苦闘したことが、この本には詳述されている。

こうみてくると、第2次大戦後に颯爽と登場した原子力平和利用の試みは戦中の核兵器開発とひとつながりだったことを改めて思い知らされる。軍民両用(デュアルユース)が露骨なかたちで姿を現しているのだ。1953年は、米国のドワイト・アイゼンハワー大統領が「平和のための原子力(atoms for peace)」を提唱した年である。麗句によって核保有国の既得権を守りつつ核拡散を牽制したわけだが、その空虚さを感じてしまう。

コールダーホール原発は湖水地方の一隅にある。この地方は「ピーターラビットの里」とも呼ばれ、観光客の人気を集めている。本書は、原発所在地の地誌にも触れている。それによると、近くにはコールダー川が流れ、原子炉は荘園領主の館コールダー・ホールの農場に建てられた。原発名に、立地場所の自然と歴史が刻まれたわけだ。このくだりを読んで、そうか、あのあたりも本来はイングランドの田園地帯だったのだなと思った。

私は1993年にこの地域を訪れている。稼働準備中の核燃料再処理施設ソープ(THORP)を取材するためだった。一帯には原子力施設が集まり、セラフィールドの名で呼ばれるようになっていた。だだっ広い平原にコンクリート建造物が点在する様子は寒々しかった。

私には、その風景が日本国内の原発密集地とだぶって見えた。1970年代、新人記者として北陸福井に赴任したころ、半島部には原子炉が建ち並び、さらに増設されようとしていた。原子力は過疎地を狙い撃ちする。これも洋の東西を問わない現実のようだ。

*1 言論サイト「論座」2021年6月21日付「学術会議史話――小沼通二さんに聞く(3)=尾関章構成」(一部有料)
*2 『科学をいまどう語るか――啓蒙から批評へ』(尾関章著、岩波現代選書)
(執筆撮影・尾関章)
=2023年3月3日公開、同年4月10日更新、通算668回
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