ノーベル物理学賞、踊り場の年に

今週の書物/
ノーベル賞発表資料(物理学賞、2023年)
スウェーデン王立科学アカデミー

ノーベル週

発表前》
今年のノーベル賞発表が進行中だ。すでに生理学・医学、物理学、化学、文学の4賞が決まった。今夕、平和賞の発表があり、来週初めには経済学賞も決定する。ただ私は、この日程に先立って今、受賞者がだれひとり決まっていない時点で本稿を書いている。

本稿の後段では、視点を現時点に戻す。賞の選考結果を見て、その発表資料を読み込むつもりだ。ノーベル賞理系部門の発表資料は、科学研究を私たち一般人がどう受けとめたらよいか、そのヒントを与えてくれる。今年もそれを味わうことにする。

事前事後2段階の執筆を思いついたのには訳がある。私は新聞社の科学記者だったころ、ノーベル賞発表前の数週間は心が張りつめていた。発表は日本時間の夜なので、翌朝の新聞に記事を間に合わせるには事前の準備が欠かせない。受賞者が日本人なら人物像や逸話もたっぷり紙面化するからなおさらだ。だから初秋になると、いつも受賞者の予想に思いをめぐらせていた。あのソワソワ感を当欄の作業でも再体験したい。そんな魂胆があった。

私が現役時代、理系3賞のうちもっとも注目していたのは物理学賞だ。物理領域を取材する機会が多かったからだが、科学の動向をみるときの指標になりやすいということもあった。ということで、今回も物理学賞について書く。ただ、私はいま退職の身で、近年どんな研究がもてはやされているかをつぶさには知らない。だから、あの人が受賞しそう、という予想はできない。賞全体の大きな流れについて四方山話風に語ることにしよう。

そんな視点で見ると、今年の物理学賞は踊り場の状態にあると言える。俗っぽい比喩を用いれば、狙っていた「大魚」をひととおり釣りあげた直後ということだ。だから今回は、ほっと一息ついて海を見つめ、次なる釣果を探しているところだろう。

では、その「大魚」にはどんなものあったか。私が真っ先に挙げたいのは、去年の受賞研究「量子もつれ」だ(*1)。アラン・アスペ(フランス)、ジョン・F・クラウザー(米国)、アントン・ツァイリンガー(オーストリア)の3氏が、量子世界では光子(光の粒子)対が「量子もつれ」という強い相関関係をもちうることを確かめ、それがもたらす現象を調べた。量子コンピューター開発のような量子情報科学に道を開いたが、それだけではない。

量子もつれは、私たちがニュートン物理学によって頭に刷り込まれたものとは異なる世界像をはらんでいる。たとえば、状態の重ね合わせ。粒子の状態はAかBかだけではなく、AでもありBでもあることがありうるという。あるいは非局所性。A、Bの重ね合わせにある粒子対の片方がAと観測された瞬間、遠く離れたもう一方がBであることが確定するという。受賞者の研究で私たちの世界像は一変したと言ってよい。

だから、去年の受賞研究は超弩級だった、というのが私の個人的見解だ。私は1990年代にアスペ、ツァイリンガー両氏に対面取材しているので、とくに二人の受賞は待ち望んでいた。それが現実になったことで、今年はある種の虚脱感のなかにいる。

量子研究に対する物理学賞を振り返ると、世紀の変わり目に受賞ラッシュがあった。低温で現れる量子現象の研究が4回(1996年、1998年、2001年、2003年)、低温実験の手法開発が1回(1997年)。量子力学の基礎問題が再び注目されるようになった証しだった。

量子情報科学につながる研究が脚光を浴びたのは2012年だ。状態の重ね合わせを壊さずに保ち、操作する実験に成功したセルジュ・アロシュ(フランス)、デイビッド・ワインランド(米国)両氏が受賞した。それは、「シュレーディンガーの猫」という思考実験で空想される量子世界の不可解さを現実に見せつけるものだった。2012年と2022年の二つの受賞研究によって、量子力学の世界像はもはや疑う余地がなくなった。

「大魚」は量子の分野だけではない。2010年代以降の受賞研究を見てみよう。素粒子分野では、2013年のヒッグス粒子。質量の起源とされる粒子が巨大加速器実験で見つかったのを受けて、その粒子の存在を予言した理論研究者が賞を受けた。2015年には、ニュートリノ質量の発見。受賞者の一人は梶田隆章さんだ。巨大加速器がなくても自然界の観測で素粒子探究の最前線に立てることを示したという点で、物理学の新潮流を代表していた。

宇宙・天文分野では、2011年の受賞研究が宇宙の加速膨張の発見。これは、宇宙の成分表やシナリオを根底から見直すきっかけとなった。2017年には重力波の観測。アルバート・アインシュタインが一般相対論で予言していた時空の波を100年たって検出した。

わかりやすい話では2019年、太陽系外惑星の発見が受賞研究の一つに選ばれている。1990年代半ばまで、惑星は太陽系だけにあると思われていたが、それが覆ったのだ。地球外生命が存在する可能性も強まったわけだから、これもまた世界像を塗りかえる業績だった。

物理学には複雑系科学という分野があり、ここ数十年活発になっているが、ノーベル物理学賞はなぜか関心を示さなかった。ところが2021年に突然、「複雑系の理解に対する画期的な貢献」という授賞理由を掲げ、3氏に賞を贈った。その一人が、気候変動の数理研究が専門の真鍋淑郎さんだ。ノーベル賞が温暖化問題に着眼したことに世間は喝采したが、それだけではない。複雑系科学を正当に位置づけるという課題をようやく果たしたのである。

と、こう書き連ねてくると、物理学賞は諸分野の「大魚」のほとんどを釣りあげてきたと言ってよい。ただ、科学という大湖は広くて深い。私は気づかないでいるが、「大魚」に育ってまもない新顔の重要研究もきっとあるに違いない。発表が楽しみだ――。

発表後》
で10月3日、スウェーデン王立科学アカデミーは今年のノーベル物理学賞を発表した。賞が光を当てたのは「アト秒」。アトとは10のマイナス18乗のこと。時間幅がアト秒単位のきわめて短い光パルスをつくって物質内の電子の振る舞いを調べる手法を開発したピエール・アゴスティーニ(米国)、フェレンツ・クラウス(ドイツ)、アンヌ・ルイリエ(スウェーデン)各氏が受賞した。ここでカッコ内の国名は、所属先の所在地を示している。

発表を聞いて、なるほどと私は思った。アト秒の物理は10年ほど前、欧米の科学誌を賑わせていた。極微の探究はついに時間尺度にも及んだ、という文脈で語られていたように思う。その興奮を私はすっかり忘れていたが、ノーベル賞はしっかり覚えていた。

では、本題の発表資料に入ろう。今回読むのは、報道資料(press release、A4判1枚)と一般向け科学解説(popular science background、同5枚)の2種類。以下の記述では、それぞれ「報道」「解説」と略記する。

一読して気づくのは、物理世界の途方もなさを私たちがなんとなく実感できるよう工夫していることだ。アト秒については「報道」「解説」とも、宇宙誕生から今までの時間、即ち138億年に含まれる1秒の個数が、1秒間が含むアト秒の個数に比肩するとしている。

光パルスがなぜ役立つかでは、「解説」に次の一文がある。「高速度撮影やストロボ光があれば、素早く動く現象も詳細な画像でとらえられる」。パルスがストロボ光の役目を果たすというわけだ。ただ、このたとえはアト秒物理が注目されだしたころからあった。

問題は、十分に短い光パルスをどうつくるかだ。「解説」によると、かつてはフェムト秒(フェムトは10のマイナス15乗)より短くはできないとみられていた。ところが21世紀初め、アゴスティーニ、クラウス両氏が、それぞれ数百アト秒のパルスを生みだす。この成果の土台を築いたのが、ルイリエ氏の1980年代からの研究だった。「解説」は、その手法の要点を簡略な図と明快な文章で説明している。要約すればこうだ――。

レーザー光をガスのなかに通すと、ガスの原子内の電子が外へ飛びだす。電子はレーザー光からエネルギーを貰い、原子内に戻ると、余分なエネルギーを光として放つ。この光は、振動数がもとのレーザー光の整数倍になっている。音楽で言えば「倍音」に当たる。これら「倍音」の光をうまく重ね合わせれば、波の干渉で強めあったり弱めあったりして時間幅がアト秒のパルスが現れる――まるで光の手品のようではないか。

科学の醍醐味の一端が、この発表資料からは感じとれる。私たちは資料執筆者の筆力に導かれ、科学者の思考を追体験できるからだ。これも、ノーベル賞の効用だろう。

アト秒の物理は、当欄の関心事である時間論とも関係している(*2*3)。だから、これからも目が離せない。今年の物理学賞は、私に大事な宿題を思いださせてくれた。
*1 当欄2022年10月7日付「量子もつれをふつうの言葉で語る
*2 当欄2023年5月5日付「時間がない』と物理学者は言った
*3 当欄2023年5月12日付「時間の流れを感じる物理学
(執筆撮影・尾関章)
=2023年10月6日公開、通算698回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

村上春樹の90年代サバービア体験

今週の書物/
『やがて哀しき外国語』
村上春樹著、講談社文庫、1997年刊

円が強かった

私が初めて日本列島を離れたのは1984年のことだ。33歳の夏だった。農業分野のバイオ技術を取材するために欧州各地を回った。あのころは新聞社の懐事情も潤沢で、出張の日数はひと月半に及んだが、それでもやはり、旅は旅に過ぎなかった。

たとえば、ドイツ(当時は西ドイツ)・ケルンの食堂で昼食をとったときの話。「本日のメニュー」を頼むと、卵の黄身が5~6個連なる巨大な目玉焼きが運ばれてきた。ドイツ人はこんな豪快な卵料理を食べるのか――。ただ後日、この話をドイツ通の先輩にすると、そんなものは見たこともないと笑われた。せいぜい2~3個並べるだけらしい。あれは店主の思いつきだったのか。旅人は旅先で偶然出あったものを地元の文化と勘違いする。

海外文化をある程度は齧ったかなと私が思ったのは、1992~1995年に英国ロンドンで暮らしたときだ。毎朝、同じバスや電車に乗る、職場では現地スタッフの日常を垣間見る、夕刻には馴染みのパブでビールを飲む。その繰り返しが、見たもの聞いたものから偶発の要素をそぎ落とし、地元の人々が身につけている思考様式や行動様式を紡ぎだしてくれる。外国には住んでみなければわからないことがたくさんある、とつくづく思った。

外国が本当はどんなものかを日本人の多くが知ったのは1990年前後ではなかったか。当時は日本経済が強かったので、欧米に対しても引け目を感じないようになっていた。そのせいか、海外生活者の間に異文化を突き放して論評する余裕が生まれたのだ。

で、今週の一冊は『やがて哀しき外国語』(村上春樹著、講談社文庫、1997年刊)。本書は、著者が1991~1993年、米国東部の大学町ニュージャージー州プリンストンで暮らした日々をエッセイ風に綴った16編の文章から成る。1992~1993年に講談社のPR誌「本」に連載されたものが初出。単行本は1994年に同社が刊行している。著者はそのころ40代半ば。長編小説『ノルウェイの森』(1987年)ですでに人気作家になっていた。

このプリンストン住まいも、著名作家だからこそ実現したようだ。巻頭「はじめに」によれば、著者が米国人との雑談でプリンストンのような「静かなところ」で作家活動をしたいと漏らしたら、プリンストン大学が家まで用意して招待を申し出たという。

著者は巻末「あとがき」で、執筆にあたっては米国社会について「少し引いたところから時間をかけていろんなことを考えてみたかった」と打ち明けている。理由は、そこに自分が「一応『属して』生活している」からだ。著者には、本書よりも早く世に出した『遠い太鼓』という欧州滞在記があるが、そちらは「旅行者の目」でものごとを見ていた。それに対して、このプリンストン便りは居住者の視点に立っていることを強調している。

16編のうち、私がついつい引き込まれたのは「大学村スノビズムの興亡」。著者が「トレントン・タイムズ」という地方紙を定期購読している話が出てくるからだ。トレントンはニュージャージー州の州都で、プリンストンからは車で20分ほど。この新聞は地元の「奇妙な出来事」や「細かい事件」をとりあげ、火事や交通事故も1面トップで扱う。「読んでいると、その辺にいる普通のアメリカ人の暮らしぶりが少しずつわかってくる」という。

ちなみに著者は、「ニューヨーク・タイムズ(NYタイムズ)」も併読しているが、それは土曜日曜だけ配ってもらうというとり方にした。書評やテレビ番組の紹介、レジャーやアートの記事がたっぷりあり、これで「だいたい十分」と判断したわけだ。

ここで著者は、「僕の知っているプリンストン大学の関係者」の愛読紙について書く。それによると、だれもが「NYタイムズ」を毎日読んでおり、「トレントン・タイムズ」はとっていない。自分が「トレントン…」の定期購読者だと告白すると「あれっというような奇妙な顔」をされ、「NY…」を毎日はとっていないと言うと「もっと変な顔」になる。米国社会の知識人層が1990年代にどうであったかがまざまざと見えてくるくだりである。

「スティーヴン・キングと郊外の悪夢」という一編は、米国社会のゆとりを象徴する「平和なるサバービア(郊外地)」の暗部に焦点を当てる。プリンストンは、まさにサバービア。その「平和」ぶりは新聞ダネを見てもわかる。たとえば、大学内の自転車泥棒。あるいは、著名作家が被害者となる追突事故。後者の記事には、作家が「やれやれ」という表情で車の脇に立つ写真が載っていたそうだから、深刻な事故ではなかったらしい。

ところが、そんなサバービアにも「事件」が起こる。プリンストンに住む女性が、ホラー作家スティーヴン・キングの『ミザリー』は自分の作品だと言い張り、キングに手紙を書きつづけて、ついにはキングを告訴したというのだ。著者は、その騒ぎを新聞報道に沿ってたどる。この女性は「ちょっと変な人」というのが著者の見方だ。当欄は又聞きの又聞きをなぞるわけだから断定は控えるが、私もキングが盗作したようには思えない。

この騒ぎは思わぬ副産物を生みだした。米東部メイン州にあるキング邸でキングの妻が偽物の爆弾によって脅されるという事件が起こったのだ。幸い妻は逃げ、犯人の男性は捕まったが、彼は「叔母」の作品が盗まれたから犯行に及んだ、と説明した。ところがプリンストンにいるくだんの女性は、自分にはそんな甥はいないと一蹴して、爆弾騒動は「キングが仕組んでやった狂言」「自己宣伝のためにやったこと」と八つ当たりした。

この件では、例の「トレントン・タイムズ」も奮起した。フロリダ州にいる女性の叔父に電話をかけ、偽爆弾男と同一名の人物が親類にはいないことを証言してもらったのだ。地元の「奇妙な出来事」を執拗に追いかける地方紙の面目躍如というところだ。

新聞報道によれば、キング側の弁護士はこの女性を「フラストレイティッド・オーサー(芽の出ない作家)」とみている。偽爆弾男も『ミザリー』の続編を自分が書こうとの野心があったようなので、やはり「芽の出ない作家」の部類に入るというのが著者の見立てだ。

さて、ここで著者のサバービア論を紹介しよう――。米国の郊外住宅はとにかく広大だ。敷地が400~500坪はざらで、車寄せの道は長く、芝の前庭は広い。そこに地縁のない人々が住みつくのだから「何かしら深い孤独感、孤絶感のようなもの」が漂っている。この地域社会では「ごく普通のおばさん」に見える隣人が「ベストセラー作家への脅迫の手紙をせっせと書きつづけている」としても気づかない。サバービアには、そんな怖さがある。

実際、サバービアには「フラストレイティッド」(frustrated)な空気が淀んでいるのだろう。挫折してイライラした、という感じか。この一編には「芽の出ない作家」だけでなく、「エリート弁護士のふりをした銀行強盗」の話も出てくる。近隣の町に住む「ヤッピー風」の人物は、弁護士でありながら本業の不振で強盗稼業に手を染め、逮捕劇のさなかに銃撃を受けて死んだという。こんな現実を「サバービア的な悪夢」と著者は表現する。

著者によれば、米国社会には郊外に車2台を置けるガレージ付きの家を手に入れれば「人生は一応あがり」(太字部分に傍点)という共通認識があった。私たちが1960年代、米国製ホームドラマで見せつけられた生活風景だ。だが、その「アメリカの夢」は「もうだんだん通用しなくなっている」。逆に疼いているのが「サバービア的な悪夢」だ。「今のアメリカの中産階級が心の底で感じているある種の不安」がサバービアにはあるという。

2023年の今、米国社会で「夢」はとうに瓦解し、「不安」が現実のものになっているのではないか。郊外の住宅地は物理的には残っても心理的に変質し、そこに住む人々からゆとりを奪っているのだろう。分断社会の過酷さも、そのことに一役買っているように思う。

1990年代、その予兆を日本人居住者が感じとっていた。その人が作家ならではの観察眼をもっていたこともあるだろう。だが、それだけではない。私たちはあのころ、米国社会を対等目線で見るようになり、ホームドラマの幻影にもう惑わされなかったのだ。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年9月15日公開、同月19日更新、通算695回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

処理水放出を倫理の次元で考える

今週の書物/
朝日新聞社説「処理水の放出/政府と東電に重い責任」
2023年8月23日朝刊

社説の見出し(*)

東京電力福島第一原発が大事故を起こしてから12年、ついにこの日が来てしまった。処理水の海洋放出だ。事故で破綻した原発が、たまる一方の難物をとうとう抱えきれなくなった、という意味で大きな区切りである。当欄も黙ってはいられない。

ということで、今回は予定を変更して朝日新聞の社説を読み、この問題を考える。というのも、このテーマは、新聞社の論説委員にとって論評が甚だ難しいものだからだ。現役の委員諸氏もたぶん、悩んだに違いない。その悩ましさを、ここで共有してみたい。

朝日新聞は2023年8月23日朝刊の社説「処理水の放出」で、「政府と東電に重い責任」という見出しを掲げた。第1段落でいきなり、「内外での説明と対話を尽くしつつ、安全確保や風評被害対策に重い責任を負わなければならない」と釘を刺している。

そこに的を絞ったか。私は瞬時にそう思った。処理水の放出は政府が決定し、東電が実行する。両者に責任があるのは当然だ。社説は、その念を押すことに力点を置いている。

半面、気になるのは最後の1行まで、処理水海洋放出に対する賛否を明らかにしていないことだ。これは、ひとり朝日新聞だけのことではない。処理水問題を伝えるテレビ報道などを見ていても、放出の是非について立場を表明しない例が多いように思う。

理由はこういうことだろう――。処理水は原子炉から出る汚染水から放射性物質の大半を除いたものなので、「処理」済みではある。だが、そこには水分子に紛れ込んだ水素の放射性同位体トリチウム(半減期約12年)が残っている。今回は、処理水を大幅に薄めて海に流す。生物や生態系への影響が心配だが、政府や国際原子力機関(IAEA)は「安全」と言っている。さて、それを鵜呑みにしてよいかどうか。メディアはそこで悩む。

環境省や資源エネルギー庁の公式ウェブサイトは、トリチウムが自然界にも一定程度存在すること、それが放射するベータ線はエネルギーが弱いこと、生体に入っても水とともに排出されてしまうので蓄積されにくいことなどを強調している。こう言われると、健康被害のリスクは無視できるほどなのだろうと思わないでもないが、その一方で、まだわかっていないこともあるのではないかと疑ってしまう。ジャーナリストとは、そういうものだ。

だから、メディアは処理水の放出について、積極的に賛成とは言えない。だが、逆に反対とも言いにくい。なぜなら、福島第一原発敷地内のタンク容量がほとんど限界に達しているからだ。もはや、処分を先延ばしにできないという言い分もわからないではない。

反対を主張しにくい事情は、もう一つある。もしメディアの一部が、安全問題の未解決を理由に放出に異を唱えたとしても、政府はそれを強行するだろう。すると、そのメディアは地元海産物の安全を疑問視しているような構図になる。その結果、風評被害に手を貸している、という糾弾を招きかねない。のみならず、海外の日本産海産物禁輸の動きに迎合していると揶揄される可能性もある。それは、メディアにとって本意ではないだろう。

この社説は、今回の放出を「国際的な安全基準に合致」しているとみるIAEAの見解に触れ、「計画通りに運用される限り、科学的に安全な基準を満たすと考えられるが、それを担保するには、厳格な監視と情報開示が不可欠」と述べている。とりあえずは「安全基準に合致」の判断を尊重しよう、ただ、それには条件がある、監視を続け、結果を公表することだ――これが、安全について打ちだせるギリギリの立場だったのかもしれない。

ただ私としては、社説にはもう一歩、踏み込んでほしいと思う。安全とは別の次元で、処理水放出の是非を論じられるのではないか、ということだ。その次元とは倫理である。

放出が安全かどうかはひとまず措こう。安全が不確かならやめるほうがよいが、先延ばしできないなら条件付きで受け入れざるを得ない。ただ、条件は「監視」と「開示」のほかにもある。それは、処理水の放出を倫理の座標軸に位置づけることだ。

自然界では、宇宙線などの作用でトリチウムが生まれている。そこに人間活動によって出現したものを上乗せするのが、今回の処理水放出だ。そのトリチウムの生成は、人間が巨大なエネルギーを手に入れるために原子核の安定を崩したことに由来する。人類は20世紀半ばまで、原子核の中に“手を突っ込む”ことはなかった。トリチウムの上乗せは、その一線を越えたことのあかしでもある。そのことは心に刻まなくてはならない。

それが何だ、という見方はあるだろう。だが、自然界のバランスに私たちは鋭敏でなければならない。バランスの攪乱は、たとえ小さなものでも長く続けば不測の結果をもたらすことがあるからだ。この認識を共有することは、後継世代に対する倫理的責務ではないか。

トリチウムの放出が世界の原子力施設で日常化しているのは事実だ。それらが法令や基準の範囲内ならば、違法とはいえない。だが、この一点を理由に正当化できるわけでもないだろう。原子力利用の是非にまで遡って未来の放出を避ける選択肢も考える必要がある。

メディアの論評は、現実的でなければならない。だが、だからと言って現実的でありすぎてもいけない。たとえ現実を受け入れても、言うべきことは言っておくべきだろう。
* 朝日新聞8月22日朝刊と翌23日朝刊から
(執筆撮影・尾関章)
=2023年8月25日公開、同日更新、通算692回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

戦争の夏に「第三の男」を読む

今週の書物/
『第三の男』
グレアム・グリーン著、小津次郎訳、ハヤカワepi文庫、2001年刊

楽都ウィーン

いつのまにか1年半の戦争になってしまった。ロシアによるウクライナ侵攻である。

第2次世界大戦後、国際社会はいくたびか戦争を経験した。それは、東西冷戦を反映した局地紛争のこともあった。民族間や宗教間の確執のこともあった。ただ、戦争の空気が地球全体を覆うことは一度もなかったように思う。ところが、今般は様相が異なる。

最大の理由は、そこにロシア対NATO(北大西洋条約機構)の大きな構図があることだ。ロシアは、もはや旧ソ連のように世界を二分する超大国ではない。だが、それがかえって不安定な要因を生みだしている。NATOは、北米と欧州の主要国が加盟しており、いわゆる西側陣営が実体化されたものだ。直接の戦争当事者ではないが、当事国ウクライナの後ろ盾となっている。この状況は、世界戦争の一歩手前だと言っても言い過ぎではあるまい。

私たちの世代が奇妙に思うのは、それなのに世界規模の反戦運動が起こらないことだ。ウクライナの抵抗を支援する声は世界中に広まっている。だが、「反戦」という言葉がなぜかあまり聞こえてこない。確かに真っ先に批判すべきは、ロシアの侵攻だ。隣国に踏み込んで人々の生命と財産を奪う行為はどんな理由があっても許されない。ただ、それだけではなく、戦争そのものに対して「ノー」を突きつける動きがもっとあってよい。

1960年代のベトナム反戦を思いだしてみよう。ベトナム戦争は、米国がアジアでの覇権を死守しようとする戦いだった。そのために蹂躙されたのが、ベトナムの人々の自決権だ。だから、私たちの世代は「米帝国主義」に反発を覚え、心情的にはベトナムの抵抗勢力に連帯感を抱いたものだが、それでも「反戦」という言葉は捨てなかった。私たちは、たとえ戦争当事者のどちらか一方に共感していたとしても「反戦」を訴えるべきなのだ。

論理に矛盾があるかなとは思いつつ、私がこんなことを言うのも、戦争が人を殺すことを合法化しているからだ。殺人の正当化は、悪の培地を用意することにほかならない。それゆえに私たちは、人々の抵抗を応援しつつ、戦争そのものには反対しなくてはならない。

で今週は、戦争とは何かについて考える。手にとった本は『第三の男』(グレアム・グリーン著、小津次郎訳、ハヤカワepi文庫、2001年刊)。第2次大戦後のオーストリア・ウィーンを舞台に、戦勝国の占領が敗戦国の社会を混乱に陥れる様子を描いている。

本書は、言うまでもなく不朽の映画作品「第三の男」(キャロル・リード監督、1949年、英国)の小説版だ。ただ、映画の小説化(ノベライズ)ではない。著者グリーン(1904~1991)は映画プロデューサーに頼まれ、ウィーン占領の「物語」を執筆した。それをたたき台にリードと議論を重ね、映画の脚本を仕上げた。たたき台の「物語」が、この小説版だ。新聞記者出身の作家が書いたものなので、ジャーナリスティックな感覚が見てとれる。

この映画のことは、先月の当欄で言及している(*)。名優オーソン・ウェルズ演ずる「第三の男」が戦争を肯定するような台詞を吐いたという話だ。その台詞は、イタリアでは戦争の時代にルネサンスが花開いた、という趣旨だった。ただ、この文言は小説版には出てこない。巻末解説「たそがれの維納」(川本三郎執筆)によると、脚本にもなかったらしい。ウェルズが19世紀の芸術家の文章をもとに考案したアドリブだという。

著者の度量を感じさせるのは、本書冒頭の序文で、映画が「物語」即ち小説版と同じではないことについて、「変更」は「いやがる著者に強制されたもの」ではないとことわっていることだ。「映画は物語よりも良くなっている」「映画は物語の決定版」と強調している。

とはいうものの、当欄は今回、映画ではなく、あくまでも小説版に沿って『第三の男』に迫ることにする。本書の原著は、1950年に刊行された。本書のもとになる邦訳は『グレアム・グリーン全集』第11巻(早川書房、1979年刊)に収められている。

さて、映画プロデューサーの企画通り、この作品の陰の主役はオーストリアの首都ウィーンである。1945年、ナチスドイツの支配から解放されたが、今度は戦勝国に占領された。市域は米国、ソ連、英国、フランスの「四大国」によって分割統治された。ただし、「環状道路(リング)」に囲まれる都心部「インナー・シュタット」は四大国の共同管理。月ごとの輪番制で一つの国が「議長」となり、「治安の責にあたる」というものだった。

このインナー・シュタットには、「連合国警察」の巡回がある。四大国のそれぞれが憲兵一人ずつを送り込み、国際パトロール隊を急ごしらえしていた。「うまく気心が通じているとは義理にも言えないが、敵の国語をしゃべって話が通じていることは事実だった」。ここで「敵の国語」とはドイツ語のことか。そんなギクシャクぶりがよくわかるくだりが、小説後段にある。ここでは、その一節を、筋を明かさない範囲で紹介しよう。

ソ連が議長国のとき、国際パトロール隊のソ連兵が深夜、英国の占領地区にまで車を走らせ、女優を連行しようとした。他国の隊員には片言のドイツ語で「ソ連国民が、正当な書類も持たずにここに住んでいる」と説明した。米兵が「まずいドイツ語」で「ソ連はオーストリアの市民を逮捕する権利はない」と反発したが、ソ連兵は、女優はハンガリー人であると主張した。ハンガリーはソ連の一部だとでも言いたいのか。すでに東西冷戦の構図がある。

このくだりでは、女優が服を着替える場面がある。ソ連兵は「部屋を離れることを拒否した」。だから、女優の一挙手一投足を監視しつづけた。米国兵は「無防備の女をソ連兵と二人だけにしておこうとはしなかった」。だから、後ろ向きに立ち、神経を集中させた。英国兵は「室内に留まることを拒否した」。フランス兵は「衣裳ダンスにうつる女の着替える姿を、冷ややかに楽しんでいた」――艶笑小話の感はあるが、四大国占領の混乱がわかる。

作品の輪郭を素描しておこう。主人公ロロ・マーティンズは英国の大衆作家。学校時代の友人ハリー・ライムに招かれ、ウィーンにやって来る。ハリーは現地で難民救済の仕事に携わっていたが、住まいのあるアパートを訪ねると、つい最近、車に轢かれ死んだとのことだった。事故は自宅前の路上で起こり、友人二人が目撃していたという。ただ、ロロが調べていくと、現場にはもう一人、謎の人物がいたらしい。これが「第三の男」である。

ロロは、ロンドン警視庁の警察官で今はウィーンに駐在しているキャロウェイ大佐と知りあい、占領下の都市の暗部を教えられる。そこにはびこっているのは闇商売だった。物資の不足につけ込んで「法外な値段」を吹っかける商いが横行しているという。

キャロウェイ大佐が捜査しているのが、抗生物質ペニシリンの密売だ。大佐によれば、ペニシリンは「軍の病院」――ここで「軍」とは占領軍のことだろう――に優先的に配給される。それを看護兵が掠めとり、オーストリアの医師たちに横流しするという犯罪が組織化されていた。大儲けするのはボスで、実行犯の分け前はわずか。それでも実行犯は、自分を「賃金労働者」のように感じて納得する。「全体主義の政党に酷似している」のだ。

作中では、このペニシリン闇商売が医療犯罪として悪質なものになっていく様子も大佐の言葉で語られているが、それはここでは書かない。作者グリーンは序文で「闇ペニシリンの物語は悲惨な事実にもとづいている」としているが、細部は虚構の可能性もあるからだ。ただ、ペニシリンは第2次大戦中に感染症の特効薬として注目されるようになり、戦後の医療現場では垂涎の的だった。それを「闇」に取り込む悪党がいても不思議はない。

作者は、ウィーンの「闇」を都市構造と結びつけている。この物語によれば、ウィーンの街角にあるポスター用の広告塔は内部が地下の下水路網へ通じている。それは「ウィーン中のほとんどどこへでも」抜けられる地下道であり、脱走兵や泥棒の隠れ家でもあった。

作者は本書序文で、ウィーンでの取材時に英国の情報将校から、下水路の内部には四大国の管理が及んでいないことを教えられたという。「各国の情報部員は何の制限もなく自由に行き来できる」のである。この作品では、その下水路網で大捕りものが繰り広げられる。「滝」がある、「急流」がある、「洞穴」もある。「われわれのほとんど誰もが知らない、奇妙な世界が、われわれの足の下に横たわっている」――それは文字通り「闇」の世界だった。

戦争の結末は、戦勝国にとっても決して好ましいものではない。分割占領が新たな紛争のタネをまくことがある。闇の商いで暴利を貪る地下組織が根を張ったりもする。やはり、戦争には良いことなどない。「反戦」という言葉を捨ててはならない、と改めて思う。
* 当欄2023年7月7日付「科学記者のゆとりを味わう
(執筆撮影・尾関章)
=2023年8月18日公開、通算691回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

8・12の回想を歴史にする

今週の書物/
『墜落の夏――日航123便事故全記録』
吉岡忍著、新潮文庫、1989年刊

鎮魂の日々

先週のまくらでも書いたように、日本の8月は鎮魂の空気に包まれる。6日、9日は原爆投下の日、15日は終戦の日。これらはいずれも1945年の出来事だった。すでに近現代史の1ページであり、だからこそ記憶の風化が懸念されている。これに対して、12日の日航ジャンボ機墜落事故は終戦の40年後、1985年に起こった。まだ、歴史ではないと思ってきたが、本当にそうか。今30代半ばより若い人は、すべて事故後に生まれている。(*1

で、今週は1985年を歴史の軸に位置づけ、その視点であの事故をとらえ直してみよう。

1945年を起点に日本戦後史を復興期→高度成長期→バブル期→バブル崩壊期……と区分けしていくと、1985年は、高度成長期が1973年の石油ショックで終わり、しばらく緩やかな成長が続いた後、1980年代後半のバブル期に突入しようとしていたころだ。

私は30代半ば。新聞社に勤めて8年が過ぎたころだったが、給料は毎年、前年を上回っていたように思う。右肩上がりの時代だった。当時は大阪本社勤務で、夜も北新地界隈を飲み歩くことが多かった。近くの道路には酔客目当てのタクシーがぎっしり並んでいた。

当欄は今春、上岡龍太郎さんの死を悼む拙稿で、1980年代半ばに関西圏で放映されていた深夜番組「ぼくらは怪しいサラリーマン」(毎日放送)のことを書いた(*2)。「最終電車でジャンケンポン」というコーナーは、終電の時間帯、駅頭で酔客らしい二人にジャンケンしてもらい、勝者には高級ハイヤーに乗って帰る権利を与えるという趣向だった。当時のサラリーマン生活では、会社の仕事と夜の飲み歩きが一体だったことがわかる。

そういえばあのころは、サラリーマンという言葉がふつうに使われていた。その裏返しで、女性事務員はOL(オフィスレディ)と呼ばれたものだ。1985年は男女雇用機会均等法が定められた年だが、職場の主戦力は男たちである、という固定観念が拭い難くあった。大手企業のほとんどは終身雇用制をとり、社内人事では年功序列が重視されていた。そこには、戦後昭和の枠組みがある。高度成長期をそのまま引きずっていたといってもよい。

ただ、変化もあった。たとえば、町にフランチャイズの店がふえたことだ。ファストフード店、ファミリーレストラン、コンビニエンスストア、百円均一の店、衣料量販店……。この大波にのまれるように商店街から個人商店が消えていき、町の風景はのっぺりしてしまった。ただ、フランチャイズ店の商いは概して価格帯が手ごろだ。皮肉なことに、そうした店がふえることでバブル崩壊後の暮らしの基盤が用意されていたともいえる。

1980年代は日本人が国際化した時代でもあった。今、JTB総合研究所のウェブサイトを開くと、日本人出国者数の推移がグラフ化されている。1980年代に急増、1986年に年間500万人に達して1990年には1000万人を突破した。高度成長期には考えられなかった規模感だ。戦後、為替レートは1ドル=360円の時代が続き、1ドル=308円の過渡期を経て1973年に変動相場制になった。日本人が大挙して海外に飛び出た背景には強い円があった。

国際化は外国旅行だけではない。経済もグローバル化した。資本や労働力の移動に対して国境の壁が低くなったのだ。1980年代は日本企業が海外へ進出することばかりが目立ったが、逆方向の流れが起こるリスクもあのころに抱え込んだように思う。

こうしてみると、1980年代半ばの日本社会は高度成長期を抜け出て、次の時代に入る移行期にあった。だが当時、私たちには見抜けなかったことがある。一つには、右肩上がりが突然途絶したことである。数年後、その見通しの甘さを痛いほど思い知らされる。

それだけではない。私たちは次の時代がどんなものになるかを思い描けなかった。1985年の時点で、10年後にインターネット元年が到来してネット社会が出現すると予言できた人がどれだけいただろう。四半世紀後に電車の乗客がそろってスマートフォンに指を走らせる光景を想像できた人がどれほどいただろう。今やモノのやりとりよりも情報のやりとりのほうが一大関心事となり、後者が新しい価値を次々に生みだしている。

1985年をひとことで表現すれば、私たちの先行世代が高度成長の時代を駆け抜けた後の踊り場ではなかったか。石油ショック後のなだらかな成長期でバブルの気配は漂っていたが、次の展開は1990年代まで見えてこなかった。バブル経済の崩壊しかり、ネット社会の幕開けしかり。私たちはそれを予感できず、高度成長の遺産がもたらす恩恵に浴して、のほほんとしていたのだ。そんなとき、あのジャンボ機の機影が消えた――。

で、今週も『墜落の夏――日航123便事故全記録』(吉岡忍著、新潮文庫、1989年刊)を読む。焦点を当てるのは先週同様、第3章「ビジネス・シャトルの影」だ。そこには、事故機の乗客509人の統計的な分析も詳細に書き込まれている。これは、毎日新聞(1985年9月12日朝刊)が、123便の乗客やその家族の全体像を記事にしたものを出典としている。そのデータからも、日本社会が1985年にどんな位相にあったかが浮かびあがってくる。

乗客の職業をみると、事故機が東京発大阪行きの夕方の便ということを反映して、日本経済の主力ともいえる人々が多数を占めていた。「企業経営者」31人、「会社役員」42人、「管理職もふくめた男女一般社員」219人、「自営業者」15人……企業のトップを含む経営陣が1割強を占めている。この客層は、著者が空港ロビーに見いだした「新しさのざわめき」や「陰影のない照明」が醸しだす高揚感と波長がぴったり合っている。

出張の行き帰りが多かった。単独で乗っていた「会社員」のうち、出張中は133人。内訳をいえば、関西方面へ向かう人が32人、東京方面から帰る人が101人だった。

興味深いのは、乗客たちが携わっていた仕事の領域だ。本書の文言を使えば「ビジネスマンたちの業種」だ。まだ、ビジネスパーソンという言葉は定着していなかった。著者が順不同で並べた「業種」は「ガラス、製麺、繊維、化粧品、食品、銀行、家具、精密機器、リース業、レジャー開発……」。すぐ気づくのは、今でいうIT関係がほとんどないこと。わずかに「コンピュータ」という項目があるくらいだ。まだ、情報よりモノの時代だった。

乗客には、夏休みということで観光客も101人いた。このうち76人は、東京ディズニーランド(浦安市)とつくば科学万博(つくば市)の両方、もしくは片方を楽しんで家路についていた人だった。こうしてみると、観光にもどこか高揚感があった。

本書は、墜落直前の機内を1985年の世相に照らしあわせている。著者は取材で、この便に客として乗っていた客室乗務員職の女性生存者から話を聞いていた(第2章「三十二分間の真実」)。その証言によれば、救命胴衣は非常口を出てから膨らますものなのに機内で膨らませてしまう乗客が何人かいたという。あわててしまったのだ。著者が座席番号から割りだすと、一流企業の「ビジネスマン」ばかりだった。企業戦士もまた人間だったのだ。

著者は人間に希望も見ている。たとえば、この女性生存者の隣席にいた男性Kさん。彼女とともに、救命胴衣を今は膨らまさないよう周りに呼びかけ、彼女が、もしものときは乗客避難に力を貸してほしいと頼むと「任せておいてください」と応じた。Kさんは40歳、東京に単身赴任中の建設会社員だった。著者は、そこに「冷静なだけではない品位」をみて「一人ひとりの実質がむきだしにされるときも、輝くものを失わない人がいる」と書く。

最後の32分間には乗客5人が遺書を残した。手帳に「どうか仲良く/がんばって/ママをたすけて下さい」、ノートに「しっかり生きろ」「立派になれ」、時刻表に「死にたくない」、紙袋に「子供よろしく」、社名入り封筒に「みんな元気でくらして下さい」……これら「ぎりぎりの言葉」や「愛と惜別の言葉」を読んでいて、著者は一つのことに気づく。「〈ビッグ・ビジネス・シャトル〉のなかでは、乗客のだれも仕事のことを書き残さなかった」

今年も8月12日がめぐってくる。私たち戦後生まれは、この出来事を後続世代に語り継がなければならない。事故が、ふわふわした高揚感のある時代に起こったということ、その惨事にも、人間は捨てたものではないと思わせる事実が潜んでいたということを――。
*1 当欄2023年8月4日付「812に戦後史の位相を見る
*2 当欄2023年6月9日付「上岡龍太郎の筋を通す美学
☆引用箇所にあるルビは原則省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年8月11日公開、通算690回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。