坪内祐三、都市辺縁のまち語り

今週の書物/
『玉電松原物語』
坪内祐三著、新潮社、2020年刊

世田谷線松原

〇〇坂、◇◇通り、△△横丁……。
なんのことか、と思われるだろう。これらはみな、私の散歩圏内にある。〇〇や◇◇や△△は、いずれも60年ほど前、小学生時代をともに過ごした級友たちの名前だ。

私は今、あのころ暮らしていた場所の近くに住んでいる。住まいを転々とした後、昔の町内に戻ってきたのだ。だが級友の多くはどこかへ引っ越したままで、ここにはいない。

10年近く前、退職したころのことだ。町内をぶらついたり、自転車を走らせたりする機会がふえて、この坂には〇〇くんの家があったな、この通りには◇◇さんが住んでいたな……と思いだすようになった。それで、散歩道のあちこちを級友の名で呼ぶことにしたのだ。折しもそのころ、クラス会が約50年ぶりに開かれた。〇〇くんも、◇◇さんも、△△くんも、この町に帰ってきた――。散歩道の風景に生気が吹き込まれたように私は感じた。

この私的体験はたぶん、だれもが共有するものではない。農漁村には地縁血縁があるから、いったん地元を離れても、里帰りすれば昔と同じ景色を眺めて昔と同じ人々に再会できる。都会はどうか。歴史のある市街地には、その町を象徴する名所旧跡や伝統行事が残っているから、転居しても「わが町」のイメージを抱き続けることが可能だ。わざわざ個人的な街路名までつくって町の記憶を今の風景に紐づけなくとも、それは逃げていかない。

ところが、都市辺縁部はそうはいかないのだ。私の町を例に挙げよう。ここは東京西郊にあり、かつては農村地帯だった。1927(昭和2)年に私鉄電車が開通すると、関東大震災に遭った商家が都心から移ってきて、駅周辺に商店街が生まれた。やがて、勤め人の家々が建ち並ぶ。住宅街の誕生だった。戦後は社宅など、集合住宅もふえた。住人の出入りは激しい。その入れ替わりに急かされるように、町の風景も次々に塗りかえられてしまった。

だから、意識して記憶を蘇らせたい。〇〇坂、◇◇通り、△△横丁……というように。

私が強調したいのは、都市辺縁部には都市辺縁部にしかない物語がある、ということだ。農村の地縁血縁はなく、旧市街の伝統文化もない、人々が中途半端に入れ替わっていく郊外ならではの小世界がそこには存在する。郊外といえば、米国文学に郊外(サバービア)生活を小説化する流れがあることを思いだす。だが、あのサバービアとは異なる郊外を私は実体験してきたのだ。今回は、その体験と響きあう読みものを紹介しようと思う。

で、今週の1冊は『玉電松原物語』(坪内祐三著、新潮社、2020年刊)。著者は1958年、東京生まれ。雑誌「東京人」の編集部員を経た後、評論家、エッセイストとして活動した。『慶応三年生まれ 七人の旋毛曲り』などの著書がある。2020年1月、心不全で急逝。この『玉電…』は、「小説新潮」誌に2019年5月号から2020年2月号まで連載したエッセイを本にしたものだ。さらに続くはずだったので、未完の「遺作」ということになる。

書名を解説しておこう。「玉電松原」は東急世田谷線松原駅の旧名だ。この駅は世田谷区北部の、小田急線より北、京王線より南という中間領域にある。世田谷線は、かつて東急玉川線(通称「玉電」)の支線だった。玉電本線は路面電車だったので、世田谷線にはチンチン電車の雰囲気が漂う。松原駅もどこか停留所っぽい。著者は3歳のときに渋谷区から世田谷区赤堤に引っ越してきた。それで最寄り駅となったのが、この玉電松原だった。

著者は本文冒頭の一文で、自分は東京生まれ東京育ちでありながら「『東京っ子』とは言い切れぬ思いがある」と打ち明けている。読み進むと「私は東京っ子ではなく世田谷っ子だ」という宣言にも出あう。このくだりでは、往時の「赤堤界隈」は「田舎」だったので「世間の人が思っている世田谷っ子ではない」ともことわっている。これこそ、前述した〈都市辺縁部には都市辺縁部にしかない物語がある〉ということの別表現だろう。

実は私も、その赤堤に近い町に生まれ育った。小中学校の校区は隣接する。だから、そこが「田舎」だという印象はかなりの部分、共有する。その象徴が、この本に出てくる「四谷軒牧場」だ。100頭超の乳牛を飼っていたことがあり、私が若かったころは「東京23区で最後の牧場」ともいわれていたが、1980年代半ばに閉鎖された。今回、「たしか名糖牛乳におろしていたと思う」という記述を見つけて、そうだ、そうだったな、と思った。

著者の四谷軒牧場をめぐる回想は事細かだ。通学していた赤堤小学校の隣接地が牧場の牛糞処理場だったこと、それがやがてトウモロコシ畑に変わったこと、作物の成長を目にするたびに「前身が前身だけに土地がよく肥えている」と納得したこと……1970年ごろには、牛が1頭脱走して牧場前の赤堤通りに「デンと座っている」のを教室から目撃したという。そのころは車の行き来が激しくなっていたから、大騒動だったらしい。

私は著者より7歳年長だ。赤堤がもっと「田舎」だったころも知っている。思い違いがあるかもしれないが、幼少期の記憶を一つ披瀝しよう。当時は赤堤通り――その街路名がまだなかったかもしれないが――が牧場の近くで北沢用水という小川をまたいでいたが、その橋が土管だったのだ。川幅いっぱいに土管を並べ、水流を土管に通し、土管の上に板を載せたような簡易な橋だった。ちなみに今、この川は暗渠化されて緑道になっている。

この本の主題の一つは、あのころの小さな商店街だ。フランチャイズの店の出店攻勢が始まる前で、個人商店が存在感を示していた。印象深いのは、玉電松原駅近くの書店。著者は小学生のころから常連で、漫画誌「ガロ」を買ったりしていた。その書店も、今はコンビニになった。東京では昭和30~50年代、「さほど規模の大きくない町にもちゃんと商店街があった」。そのことを証言しておくのが、エッセイ執筆の最大の「動機」だったという。

実際、本の巻頭には「松原・赤堤エリアの昭和40年代MAP」が見開きで載っている。手描き風。このマップでもっとも入念に描き込まれているのが、玉電松原駅を挟んで東西に延びる商店街だ。鮮魚店がある、青果店がある、薬局もある、家具店もある……。

店々からは、いくつかの特徴が見てとれる。その一つは、〈よろづや〉性であるように私は思った。くだんの書店は、店舗の3分の2が本屋で残りは文房具屋、たばこ売り場の一角もあった。もう一つ、この本に出てくるのは、玩具店の役目も果たしていた菓子店。子どもに人気の「プラモデルやメンコ」「怪獣のブロマイド」「2B弾やカンシャク玉」……などが置かれていた。〈よろづや〉性には、どこか田舎町の雰囲気がある。

店が商売以外で地元と結びついていたことにも、私は心を動かされた。それは、著者が子ども時代に弟や友だちと「三角野球」に興じた話に見てとれる。三角野球は、二塁抜きの野球ごっこ。両チーム合わせて6人ほどは必要だが、4人しか集まらないこともあった。そんなときは蕎麦店に電話して安い麺類を断続的に注文、出前に来る店員を一人二人とメンバーに引き込んだという。店主は、事情を知りながら助っ人を送りだしていたらしい。

最後の章――本当の遺稿ということだ――では、著者が子ども心に感じた商店街の謎を二つ挙げている。まずは「人が入っていく姿が見えなかった」というスナック。子どもが寝入った時間帯に賑わっていたのだろうか。もう一つは、住宅地なのに結婚式場があったこと。「そもそも商売は成り立っていたのだろうか」「一度で良いから足を踏み入れておけばよかった」と綴っている。著者は世を去る直前まで、あの町に思いをめぐらせていたのだ。

著者は1989年まで赤堤にいて転居した。この本に書かれていることの大半は、著者の少年期、1960年代半ばから1970年代半ばまでの話だ。これは奇しくも、私が近隣の町で過ごした青春期に重なる。あの一帯は、心が挫けた夜にひとりで歩きまわった場所ではないか。今回、この本を読んで赤堤小学校周辺や世田谷線松原駅界隈を再訪してみた。町並みからは個性が薄れ、むかし私を癒してくれた「田舎」の空気は感じられなかった。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年6月17日公開、通算631回
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宗匠のかくも過激な歌自伝

今週の書物/
歌集『202X
藤原龍一郎著、六花書林、2020年3月刊

時の流れ

趣味で俳句をつくっていると、短歌がぜいたくに思えてくる。7+7=14音分だけ言いたいことが言える、季語も気にしないでよい――素人には、この自由度がうらやましい。だが、句づくりを重ねていると、これらの制約が俳句の醍醐味らしいとわかってくる。

翻って、短歌の魅力は何か。俳句と比べてみよう。俳句は原則5+7+5=17音なので、言葉をどう削り込むかに作者は腐心する。削られやすいのは、詠み手の内面描写。物体をどんと置く、風景を一望する、出来事にめぐり遭う……それをどう受けとめるかは受け手の側に委ねましょう、といった感がある。ところが短歌は違う。作者の心模様を包み隠さずに表現できる。ときに物体や風景や出来事が内面と絡みあう様子まで露わになるのだ。

ただ、いにしえの和歌では内面と絡みあうものが自然界の事物であることが多かった。詠み手はまず花鳥風月を愛で、それに重ねるように心情を紡いでいたように思う。ところが、現代短歌は違う。作者は人の世のすべてを視野にとり込んでいる。

つまりは、任意性が大きくなったのだ。家庭内の些事が詠まれる。職場の日常が題材になる。街の景色が素描されることもある。そうかと思えば、いきなり国際情勢のニュースが出てきたりする。あるいは、社会の矛盾が切りだされることも……。ただ、日々の暮らしを描いてもエッセイではない。時事問題に触れても新聞のコラムとは異なる。なぜなら、散文ではなく韻文だからだ。短歌はあくまで詩であって、ふつうの文章ではない。

で、今週は、当欄として初めて歌集を話題にする。『202X』(藤原龍一郎著、六花書林、2020年3月刊)。著者は、前衛短歌の系譜に連なる著名な歌人。短歌作品の合間に織り込まれた自己紹介文をもとに、ウィキペディアも参照しながら略歴を紹介しよう。1952年、福岡生まれ。幼少期から少年期にかけて東京・下町に暮らし、大学を卒業後、ニッポン放送に就職。1990年に「ラジオ・デイズ」30首で短歌研究新人賞を受けている。

実は著者は、私にとっては俳句の先生だ。去年暮れの当欄に書いたように、私はある句会に参加しており、その会に宗匠としておいでいただいている(2021年12月17日付「友の句集、鳥が運ぶ回想の種子」)。すなわち、著者は俳人でもあるのだ。拙稿「友の句集…」に対して感想メールをくださり、併せてご褒美のように、ご自身の歌集を送っていただいた。畏れ多いことだが、そこで今週はその歌集をご紹介することにした。

まずは、宗匠(以下、「作者」と記述)が育った時代の空気から――。
散髪屋にて読む「少年サンデー」の「海の王子」を「スリル博士」を
ラジオから聞こえる歌に声合わせ「黒いはなびら、静かに散った」
『少年サンデー』の創刊も「黒い花びら」の大ヒットも、1959年だった。その春、作者も私も小学2年生。理髪店での楽しみは、長椅子で順番を待つ間の漫画本ではなかったか。店のラジオからは歌謡番組が流れていた。たぶん、水原弘のドスのきいたあの声も。

ミラクルボイス練習したる少年ぞ日光写真の少年ジェット
同じ年、テレビドラマ「少年ジェット」の放映が始まった。私たちはジェットをまねて「ウーヤーター」の奇声を発したものだ。そういえば、雑誌の付録に「日光写真」というものがあった。ブラウン管であれ感光紙であれ、像が浮かびあがればそれだけで嬉しかった。

次に、作者が父を詠んだ歌を2首。
後楽園球場巨人国鉄戦見つつホットドッグを父と食みしよ
野球馬鹿とぞ思いおりしに父親の遺品の中の『共産党宣言』
私たちの父親はだれも、戦中戦後をくぐり抜けている。だが、父の姿が記憶に鮮明なのは、巨人でONが打ち、国鉄で金田が投げていたころからだ。高度成長を担った父も青年期には左翼本をかじっていたのか?  焼け跡の青空は、私たちの世代の手に届かない。

作者の原風景は、東京・深川である。
縦横に運河ははしり右左東西南北橋は架かるを
同級生チノ・タケシ君イカダから運河に落ちて溺死せし夏
子どもは水が好き。私は東京西郊で育ったので、身近な水辺は宅地の下水を集める農業用水だった。ヘドロまみれで遊んだこともある。運河の町では、その水がときに牙をむく。歌集にはチノ君の母の号泣を詠んだ歌も。心に刻まれた友の名は永遠に消えない。

橋渡り北へ向かえば旧洲崎遊郭にしてそのパラダイス
この歌集には運河周辺の夕景を描いた一文も織り込まれている。昭和32(1957)年、作者は5歳。「『洲パラダイス崎』という順番に字が並んでいる洲崎パラダイスのネオンが点る」と「逃げるように洲崎弁天の境内を抜けて」帰宅した。1957年は売春防止法の施行年。猶予期間を経て翌年、「遊郭」は消滅した。今思えば、これは日本社会にとって、終戦に比するほどの転換点ではなかったか。作者は物心もつかぬまま、それを目撃したのだ。

青春期にも、私と共有する記憶がある。
銀幕に孤独孤絶のヒロインの凛々しき黒衣まばゆき裸身
国家こそ暴力装置この闇にさそりの毒のみなぎる棘を
「女囚さそり」と題する章に収められた2首。章の末尾で作者は、1972~73年に封切られた映画「女囚さそり」三部作(伊藤俊也監督、東映)への共感を綴っている。「梶芽衣子扮する女囚松島ナミが国家権力を象徴する刑務官や警察官僚たちから凄絶なリンチを受けながら、捨て身の反撃で復讐をなしとげる」――その構図は、当時の若者の心情をくすぐった。私自身もオールナイト上映を、どこかの町の場末の映画館で観た記憶がある。

それでは、今の日本社会はどうか。
或る朝の目覚めの後の悲傷とて歌人十人処刑のニュース
昨今、朝方のテレビ画面に流れるニュース速報に死刑執行の発表がある。報道から、凶悪犯罪を許さないとの決意は伝わってくるが、国家が人間の生命を絶つことへの躊躇は感じとれない。作者は、197X年と202X年の落差にたじろいでいるように見える。

オーウェルの『一九八四年』が日常と混濁し溶解し我も溶けるを
この歌集の通奏低音はジョージ・オーウェル『一九八四年』(1949年刊)だ。このディストピア小説を作者が読んだのは1968年。高校生だった。その時点で「近い未来にこんな統制された社会が実現するとは思えなかった」と「あとがき」にはある。

『一九八四年』の管理社会を支配するのは、「ビッグ・ブラザー」という独裁者だ。実在しているのかどうかさえ曖昧な存在だが、頭に思い描けるイメージはある。202X年の管理社会はもっと不気味だ。ロボットや端末機器がペットのような顔をしてなついてくる。
それからはネコにルンバに監視されイヌにスマホに密告されよ

“Good Afternoon TOKYO”と題する章には、飼いならされた私たちの自画像がある。喫茶店は、おひとりさま席が並ぶコーヒーショップに取って代わり、男も女も「画面」と対話している。「死を忘れるな」と言われるまでもなく生気を欠き、沈滞のなかにいる。
まずは「タリーズにて」――
カフェオレを飲む間にスマホ画面にはピエール瀧の動画がよぎる
次いで「エクセルシオールカフェにて」――
一心にパソコン画面凝視する男女女男男女男メメント・モリぞ

最後に、切りとられた情景が私の心をとらえて離さない1首。
店頭の均一本は雨に濡れ『ローザ・ルクセンブルクの手紙』
革命家ルクセンブルクの書簡集は、岩波文庫にも収められている。もし古書店の100円均一コーナーで見つけたら、私もきっと手にとることだろう。木箱にぎっしり詰め込まれ、吹きつける風雨にさらされた背表紙が、彼女の抵抗精神とダブって見えるからだ。

前述したように、作者はニッポン放送に勤めていた。その後、フジテレビに移り、扶桑社では執行役員も務めた。これはすなわち、政治的に右寄りといわれるフジサンケイグループの一員だったということだ。その人が青春期、「女囚さそり」に打ち震わせた心を2017年の退職までもちつづけた。葛藤は、歌集の端々からもうかがえる。敬意をもって推察すれば、作者はそぼ濡れたローザ本に自身の姿を重ねていたのではないだろうか。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年1月21日公開、通算610回
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社説にみる改憲機運の落とし穴

今週の書物/
社説「憲法75年の年明けに/データの大海で人権を守る」
朝日新聞2022年1月1日朝刊

憲法(三省堂刊『小六法』)

当欄の新年初回はきょう1月7日付になった。あすは松の内も明ける。去年は元日付だったので、私の古巣、朝日新聞の年頭社説について書いたが、今年はそうはいくまいと思っていた。だが、紙面を見て気が変わった。6日遅れでも元旦社説をとりあげる。

今年の朝日新聞1月1日付社説は、まず「憲法75年の年明けに」のカット見出しを掲げ、続く主見出しで「データの大海で人権を守る」とうたっている。改憲の流れが強まる今、朝日新聞社の立場を鮮明にしておこうという趣旨か、と一瞬思った。だが読んでみると、憲法の話はなかなか出てこない。巨大IT企業が個々人の情報をネット経由でかき集め、人々の意思決定にも影響を与える現状を重くみて、それに警告を発したという色彩が強い。

私は、このチグハグ感に朝日新聞の苦悩を見る。社説の執筆を担う論説委員室には、リベラル派のメディアとして巨大IT企業の情報支配を護憲の立場から論じるべきだとする委員が一定数いるのだろう。だが一方で、この問題は現行憲法の枠組みを超えているとみる委員もいるのではないか。さらに言えば、委員めいめいの内面に両論の葛藤があったようにも思う。そう推察して、共感とも同情ともつかない気持ちになったのである。

朝日新聞の論説委員室は護憲派の巣窟のように思われがちだが、それはちょっと違う。私自身が在籍した十余年前を振り返ってみよう。たしかに、改憲を公然と口にする同僚はいなかった。大勢は現行憲法に好感を抱いていたとも思う。だが、護憲を声高に叫ぶ人も見かけなかった。あえて言えば、右寄りの政治勢力が憲法をタカ派的なものに変えようとする動きに神経をとがらせていた。護憲派というよりも改憲警戒派という言葉がぴったりくる。

改憲警戒派は、現行憲法を平和憲法ととらえて議論の焦点を第9条に絞り込めた時代にはわかりやすい存在だった。さまざまな案件が政治的左右の座標軸に還元された時代には、改憲=保守派、護憲=リベラル派という単純な色分けができたのだ。逆に言えば、リベラル派はごく自然に改憲勢力を警戒することになり、護憲勢力を支持することに違和感を覚えなかった――朝日新聞は今も、その構図から脱け出していない感じがする。

現実には、今やいくつもの難題が政治的左右とは別次元で噴き出している。気候変動しかり、新型感染症しかり、そして、この社説のテーマ、巨大IT企業の情報支配も同様だ。これらの問題は、政治的な左右だけでは論じきれない。実際、今の政界ではリベラル系の野党にも改憲論議に前向きな人々がふえた。憲法も時代に合わせて改めるべきではないか、という立場だ。改憲警戒派は守旧派のレッテルを貼られそうな気配がある。

今回の社説は、そんな空気感のなかで書かれた。見出しに憲法の2文字を含めながら憲法論で押し切れない。そこに私は、今の朝日新聞が直面する現実を見てしまう。

中身を見てみよう。冒頭に登場するのは、米国の巨大IT企業4社。それらが、ネット空間に「検索や商品の売買、SNSなどの場」を提供する「プラットフォーマー」として、主権国家に比肩する「新たな統治者」ともみられていることから説きおこす。

具体例として出てくるのは、巨大IT企業の一つ、メタ(旧フェイスブック)社がいま大展開しようとしている「メタバース」事業だ。人々がネットの仮想空間に「自分の分身である『アバター』」を送り込み、「会話をしたり、買い物したりする」という。これは、私のようにSNS活動度の低い者にはピンとこない。遊び心の世界だろうから、目くじらを立てるまでもないのではないか――一瞬そう感じたのだが、思い直した。

というのも、同じ朝日新聞紙面に前日の大みそか、「仮想キャラに中傷『現実の自分傷ついた』」(2021年12月31日朝刊社会面)という裁判記事が載っていたからだ。それによると、動画のネット投稿を繰り返していた人が「自分の分身」である仮想のキャラクターを投稿サイトに登場させていたら、キャラに対する中傷のメッセージが殺到、その口火を切った人物の個人情報開示をプラットフォーマーに求める訴訟を起こした、という話である。

この記事から見えてくるのは、デジタル世代にとっては「仮想空間」が実空間と同様に生活の場となり、「アバター」や「仮想キャラ」が実在の自分並みに自己同一性を具えはじめたらしい、ということだ。この二重性が健全かどうかはわからない。ただ、自分のほかに分身も保有する生き方が珍しくない世界が到来しようとしているのは事実だ。その分身部分が巨大IT企業という「統治者」によって仕切られている、ということなのだろう。

この社説は「メタバース」について、憲法学が専門の山本龍彦・慶応義塾大学教授から話を聞いている。「我々の生活が仮想空間に移る。そこでのルールはザッカーバーグ(最高経営責任者)が作る」。私たちは「民主的手続きを経ていない『法』」に支配されるという。

では、「民間」企業がどうしてここまで大きな「権力」を手にしたのか。社説は「力の源泉は、ネットを通じ、世界中から手に入れている膨大な量の個人情報」と断じている。情報にものを言わせるからくりとして挙げるのは、個人の好みに合わせた「ターゲティング広告」や個々人に対する「『信用力』による格付け」だ。これらが市場経済を動かして世界そのものも変えていく。その威力は、各国政府などの公権力をしのぐほどなのだ。

この「権力」の制御手段として社説が手本にするのが、欧州連合(EU)の「一般データ保護規則」(2018年施行)だ。自分の個人情報の何が企業の手にあるかを知る権利や、企業保有の個人情報の扱いに本人が関与できる諸権利を定めている。情報をもとに「自動処理で人物像を予測する」こと、即ち「プロファイリング」に異議を申し立てる権利や、情報をネットから削除するよう求める権利などだ。後者は「忘れられる権利」と呼ばれている。

人権を重んじると言うなら、こうした法制は欠かせない。ところが日本国内では、それが整えられていない。この不備をなんとかしようというのが、この社説のメッセージだ。

ただ、その法整備をどう実現するのか、ということになると社説の歯切れは悪くなる。一方では、「個人が自分に関する情報を自分で管理する権利」は現行憲法第13条の「個人の尊重」から導けるとして、個人情報保護法に「自己情報コントロール権」を明記するという案を例示する。だが他方では、衆議院憲法審査会の議論で「データに関する基本原則を憲法にうたうべし」という意見もあったことを、論評を控えたまま紹介している。

実は、この二者のうちどちらを選ぶかが肝心なのだ。2022年、メディアはそこに踏み込むべきだ。私自身の考えを言えば、ここまで改憲論が強まってきても、安易に「憲法にうたうべし」論に乗っかってはいけないように思う。そこには、落とし穴があるからだ。

それは、社説最後の数段落に書き込まれたことに関係する。一つには、「個人が自分に関する情報を自分で管理する権利」は人々の「知る権利」とバランスをとりながら尊重しなくてはならないということだ。そうでなければ、私たちは社会の真相から遠ざけられてしまう。もう一つは、巨大IT企業の情報支配にとらわれて国家の情報支配を許してはならないということだ。憲法を変えるならば、これら要件を十分に満たさなくてはならない。

2022年は、改憲論議が具体論の域に入りそうだ。このときに戒めるべきは、9条の改定ばかりに目を奪われることだ。「憲法にうたうべし」の声が出てきそうな新しい懸案、即ち気候変動や新型感染症、個人情報保護などの問題でも論点を見逃してはならない。大切なのは、憲法は人々の諸権利を国家の権力から守るためにある、という基本思想だ。この視点から憲法を組み立て直そうという強い決意がないなら、その改憲論に同調すべきではない。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年1月7日公開、通算608回
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友の句集、鳥が運ぶ回想の種子

今週の書物/
『句集 鳥の緯度』
土屋秀夫著、山河叢書32、青磁社、2021年刊

椅子の脚

古くからの友人が句集を出した。友と私は小学校以来、すべて同じ学校を出た。職場は違ったが、どちらもメディア界だった。ふつう以上には濃厚な関係だ。俳句という、読みようでどのようにも読める作品群を私が読むことは、それなりに意味があるだろう。

友人は俳句の素人ではない。プロというわけではないが、有名な句会に出たり、結社に加わったりして修業を積んできた。いくつかの賞も受けている。だから、句集の掲載句はすべて水準以上だ。当欄でその一部を紹介する意味は小さくないように思われる。

で、今週は『句集 鳥の緯度』(土屋秀夫著、山河叢書32、青磁社、2021年刊)。著者、即ちわが友は1951年生まれ、山河俳句会の同人であり、現代俳句協会会員でもある。

本の帯に「北から南から鳥は日本に渡ってくる/赤い実を食べた鳥が私の荒地に種を落とした/…(中略)…/俳句の交わりから、詩のミューズから/到来した種が育って荒地は草原になった」とある。「あとがき」によれば、著者は散歩していて空き地にムラサキシキブを見つけ、鳥の落とし種が実を結んだのだろう、と推察した。「鳥の作った庭、私の句もそれに似ている」と思ったという。さっそく、その庭をのぞいてみよう――。

まず、私が世代的共感を抱いた句から。
舐めて貼る八十二円レノンの忌
封書が82円だったのは、2014年~2019年。一方、ジョン・レノンがニューヨークで暴漢に射殺されたのは1980年12月8日。切手貼りなどの些細な動作で、ふと昔の出来事が思い浮かぶことはよくある。私たちの年齢では、その時間幅が数十年に及ぶ。

「レノン撃たる」の一報を、私は初任地北陸の小都市で聞いた。場所は、県庁の記者クラブ。通信社の記者が東京本社から聞きつけたのだ。一瞬、茫然とした。あの日、窓の外は雪模様の曇天で……。作者にもきっと、同じような体験があるのだろう。この句には、郵便料金82円が時間軸の基点になるという妙がある。それにしてもコロナ禍の今、切手ペロリはたしなめられそうだ。古い手紙の82円切手は「舐めて貼る」時代の証言者か。

冬木立どの木も過去に遇ったひと
落葉樹の魅力は、初夏の新緑や晩秋の色づきだけではない。裸木(はだかぎ)と呼ばれる冬木立の姿もいい。枝分かれの細部が露わになり、木々の個性が見えてくる。「あの枝ぶりは毅然としていて、どこかあの人に似ている」「あの枝のあの曲がり方は、あいつの心の屈折そっくりだ」――並木道を歩きながら、樹木1本ずつを「過去に遇ったひと」に見立て、甘口辛口の思いを巡らせる。リタイア世代、冬の散歩道ならではの愉悦か。

風景句で気に入った2句。
菜畑の奥に廃業ラブホテル
菜畑という言葉で目に浮かんだのは、ドイツの風景だ。その春、私はミュンヘン郊外の量子光学研究所を訪れていた。荷電粒子を宙に浮かせ、光を当てる実験について取材しながら、窓外に広がる菜畑に目を奪われた。物理は無機の極みだが、菜の花はムッとするほど有機的。その対比が際立った。この句にもそれがある。ラブホは有機的なはずだが、ここでは看板の文字が欠け、窓の鎧戸も破れて無機の気配が漂う。「廃業」の一語が絶妙。

赤とんぼ物流倉庫という荒野
春の句「菜畑…ラブホ」の秋版。こちらの句では「赤とんぼ」が有機的、一方、「物流倉庫」はただでさえ無機的だが、その印象が「荒野」のひとことでいっそう強まった。川べりの敷地にはコンテナが野積みされている。庫内はロボットがいるだけか。

次に、静物句をいくつか。
じゃが芋が鈍器のように置かれあり
私の記者経験では、警察は窃盗事件の発生を発表するとき、「ドアをバール様のものでこじ開け」という表現を多用した。バールは鉄梃(かなてこ)。窃盗犯は、鉄梃かどうかわからないが、鉄梃状のモノを使ったということだ。モノから道具としての属性を差し引く「様のもの」。この句の「鈍器のよう」にも同様の作用がある。じゃが芋から、ポテサラやおでんの材料という性格が引きはがされている。芋を実存にしてしまった句。

寒晴の肉感的な椅子の脚
過去のあるビロードの椅子青嵐
作者は、椅子という家具に強いこだわりがあるようだ。前者は、冬の陽光が差し込む部屋にいて、無人の椅子に目をとめた句だろう。太陽が低いから、日差しは斜め。脚部にも光が届くのだ。「肉感的」とあることで、この椅子はかつてそこに座った人の分身となる。作者は、その人との交流を追憶しているのかもしれない。後者は、椅子が呼び起こす回想性をより直截的に詠んだ句。「ビロード」の質感が体温の名残のように思えてくる。

ここで打ち明け話をすると、私は作者が発起人である句会に参加している。指導役の宗匠を歌壇俳壇から招いて開かれる。メンバーにも句歴豊かな人が多いが、私のような純然アマチュアもいる。定例の句会では、メンバーが匿名で投句した作品から秀句を互選する。この句集には、作者がその句会に出したものも含まれている。そのなかには、私が会では選ばなかったが今回選びたくなった作品もある。そんな句を二つ挙げよう。

木守柿通勤準急加速する
木守柿は、収穫後の木にあえて残した柿の実を言う。翌年の結実を願う風習らしい。この常識を知らなかったために私は選句しなかった。反省。梢に一つ二つ残る鮮烈な柿色。それが車窓に見えたなら絶対に目で追うだろう。動体視力を振り切る通勤準急が憎い。

叡山をむこうにまわし赤蛙
この句を選ばなかったのは、無知ゆえではない。京都に単身で住んだとき、鴨川沿いに寓居を借りた。対岸に五山送り火の大文字が見え、彼方には叡山も望めた。私は、赤蛙に自分の京都を奪われた気がしたのだ。選句には、ときにそんな嫉妬心が作用する。

次いで、社会派風ともとれる2句。
アロハ着てパチンコ打ちにいく自由
これも句会に出され、私は1票を投じた。「アロハ」を唐突に感じる向きもあろうが、句会の兼題(課題のようなもの)が「アロハシャツ」だったのだ。「アロハ」の軽装感と「パチンコ」の騒然感を「自由」という高邁な概念に結びつけた。散文風なのがいい。

電気ケトルの先に原子炉すべりひゆ
湯はガスで沸かすもの、というのは過去の話、うちはオール電化です、と悦に入っていたら、電気湯沸かしの大もとに原発という核分裂の湯沸かしがあることに気づいた――そんな感じか。私は一瞬、下の句「すべりひゆ」を古めかしい動詞かと思った。調べてみると、雑草の一種ではないか。ここでも、自らの無知に赤面。作者は植物に詳しいので、この草を夏の季語として下の句に置いたのだろう。だがなぜ、スベリヒユなのか?

電力と雑草という異世界のアイテムを出会わせる。俳句の極意はそこにあるのだから、理由を詮索するのは無粋だ。でも、どこかで異世界同士が通じあっていないか。そう思ってスベリヒユの画像をネット検索すると、茎が地を這うように枝分かれしていた。送電網(グリッド)の図面に見えなくもない。作者にはこのイメージがあって、そこに電力を重ねあわせたのか、それとも意図はないのに偶然、ぴったり重なりあったのか。

蛇足を言い添えれば、スベリヒユはトウモロコシなどと同様、光合成を高能率にこなす植物(C4植物)だという。光合成→二酸化炭素固定→脱炭素社会と、この一面もエネルギー・環境問題につながる。こうみてくると、スベリヒユは下の句に適任だったのか。

最後に、この句集でもっとも危うい句。
古本のような女をめくり遅日
「古本のような女」と読んで、ギクッとする。ふつうなら言ってはいけない言葉だ。「古本」と言えば、ネット通販の注意書きにある「一部にヤケ、表紙にスレ」を連想してしまう。だが裏を返せば、その本はたくさんの旅をして、多くの人に出会ってきたのかもしれない。動詞「めくり」もきわどいが、この句の主人公は本の頁を繰るように「女」の話を聴いているのだ、と解釈しよう。早春の午後遅く、傾く陽射しを受けながら……。

締めは、友人に敬意と謝意を込めて拙句を。
友の句を巡りたずねて暦果つ(寛太無)
(執筆撮影・尾関章)
=2021年12月17日公開、通算605回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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■公開後の更新は最小限にとどめます。

「家政婦は見た」という長閑な監視

今週の書物/
「熱い空気」
松本清張著(初出は『週刊文春』、1963年に連載)
=『事故 別冊黒い画集(1)』(松本清張著、文春文庫、新装版2007年刊)所収

家事

こんなふうに1週1稿の読書ブログを続けていると、ときに小さな発見に恵まれる。世界観にかかわるような大発見ではない。ちっぽけな驚き。今年で言えば、「2時間ミステリー、蔵出しの愉悦(当欄2021年7月30日付)で読んだ本にそれがあった。

『2時間ドラマ40年の軌跡』(大野茂著、発行・東京ニュース通信社、発売・徳間書店、2018年刊)。巻末に収められたデータ集には、2時間ミステリー(2H)の視聴率ランキングが載っていた。驚いたのは、テレビ朝日系列の「土曜ワイド劇場」(土ワイ)で歴代1位、2位、5位の高視聴率を獲得したドラマが、あの「家政婦は見た!」の作品群だったことだ。1983年に始まったシリーズの第1~3作が軒並み上位に名を連ねている。

副題を見てみよう。堂々の1位は「エリート家庭の浮気の秘密 みだれて…」(1984年放映、視聴率30.9%)、2位は「エリート家庭のあら探し 結婚スキャンダルの秘密」(1985年、29.1%)。そして5位は、主タイトルが「松本清張の熱い空気」、副題に「家政婦は見た! 夫婦の秘密“焦げた”」とある(1983年、同27.7%)。この作品が当たったので副題を前面に出してシリーズ化したら、後続がそれをしのいで大当たりしたということらしい。

ちなみに第2作の視聴率30.9%は、2時間ミステリー史に聳える金字塔だ。『2時間ドラマ40年…』のデータ集によると、この数字は、土ワイ最大の競争相手「火曜サスペンス劇場」(火サス、日本テレビ系列)のドラマ群も超えられなかった。

シリーズの主人公は、新劇出身の市原悦子が演じる地味な「家政婦」。芝居の黒衣(くろご)のような立場なのに、雇い主の「エリート家庭」に潜む「浮気」や「スキャンダル」を鋭い観察眼で見抜き、巧妙な計略で取り澄ましている人々を窮地に追い込む。

ミステリーだが、殺人事件は出てこない。家庭が舞台だから派手さもない。人殺しのない推理小説は、ときに「コージーミステリー」と呼ばれる(*文末に注)。“cozy”――英国風の綴りなら“cosy”――は「心地よい」の意。では、このドラマに心地よさがあったかと言えば、そうではない。「家政婦」の意地悪さが半端ではないので、寒気が走るほどだ。それなのになぜ、こんなに受けたのか。当欄は、そこに注目してみよう。

まず押さえておきたいのは、シリーズ第1作の主タイトルに「松本清張」が冠せられていることだ。すなわち、第1作は正真正銘、清張の小説を原作にしている。第2作以降はドラマの枠組みを清張作品に借り、個々の筋書きは脚本家に委ねられたという。

で、今週手にとったのは「熱い空気」(『事故 別冊黒い画集(1)』〈松本清張著、文春文庫、新装版2007年刊〉所収)という中編小説。シリーズ第1作の原作である。1963年春から夏にかけて『週刊文春』に連載され、1975年には文春文庫に収められている。

小説が描くのは昭和30年代後半、すなわち高度成長半ばの世界だ。これに対して土ワイ枠でドラマ化されたのは、昭和で言えば50年代後半、日本社会が石油ショックをくぐり抜け、バブル期に差しかかろうとするころだ。同じ昭和でも、この20年間の差は大きい。

小説の作中世界で時代感を拾いだしてみよう。作品冒頭部に住み込み家政婦の報酬が明かされている。「食事向う持ちで一日八百五十円」。時給ではない。日給である。別の箇所には「ラーメン代百円」の記述も。あのころの物価水準は、そんなものだった。

家政婦の稼ぎについては「食べて月平均二万五千円の収入」という表現もある。850円×30日=25,500円だから、ここから推察できるのは、家政婦は、一つの家に雇われると期間中は3食付きで、ほとんど休みなくぶっ通しで働いたらしいということだ。実労働1日8時間の縛りはあったようだが、家事は「労働と休息のけじめがはっきりしない」。早朝から深夜まで10時間を超えて「拘束」されることが「ふつう」であったという。

主人公の河野信子――シリーズ第2作からは「石崎秋子」に代わる――は東京・渋谷の家政婦会から、青山の高樹町にある大学教授の稲村達也邸に送り込まれる。初日の描写から、当時の家政婦が受けていた待遇がわかる。挨拶の後、「その家の三畳の間に入れられた」「そこですぐにスーツケースを開き、セーターとスカートを穿き替えて、エプロンをつけた」。三畳間は前任の「女中」が辞めた後、物置として使われていたらしい、とある。

そう言えば……と私が思いだすのは、あのころ屋敷町の家にはたいてい、三畳や四畳半の小部屋があったことだ。私の周りでは住み込みの使用人がいる家はすでに少なかったが、それでもそんな一室があり、「女中部屋」と呼ばれることもあったと記憶する。

1960年代前半は、ちょうど「女中」が「お手伝いさん」に言い換えられたころだ。作中でも教授の妻春子が信子の前任者のことを語るとき、あるときは「お手伝いの娘」、別の場面では「女中」と呼んでいる。奉公という封建制の名残が絶滅の直前だった。

著者は、そんな時代の曲がり角で「家政婦」という職種に目をつけた。「家政婦」は「女中」の仕事を引き継ぐのだから奉公人の一面を残す。だが実は、家政婦会を介して雇用契約を結ぶ労働者だ。だから、雇い主の家庭を突き放して観察することができる――。

興味深いのは、ドラマの「家政婦は見た!」が世の中の脱封建化が進んだ1980年代に放映されても、違和感がなかったことだ。すでに中間層が分厚くなっていた。だから視聴者は、家政婦という労働者が自分に成り代わってエリート階層を困らせることには、さほど快感を覚えなかったように思う。ではなぜ、魅力を感じたのか? 理由の一つは、家政婦の眼が隠しカメラのように「秘密」をあばく様子がスリリングだったからだろう。

小説「熱い空気」から、そんな場面を切りだしてみよう。ただ、ネタばらしは避けたいので深入りはしない。信子が達也の「秘密」をかぎつける瞬間だけをお伝えしよう。

信子が食器を洗っていると、玄関から声が聞こえる。急いで出ていくと「郵便配達人が板の間に速達を投げ出して帰ったあとだった」。ここで気づくのは、配達人が玄関に勝手に入り込んだらしいことだ。たしかに1960年代前半、昼間は施錠しない家も多かった。郵便物の扱いも今より緩い感じがする。速達だから居住人が留守なら郵便受けに入れればよいのだが、この配達人は不在かどうかを確かめる様子もなく、置いただけで立ち去っている。

茶色の封筒には「稲村達也様」の表書き。裏面には「大東商事株式会社業務部」と印刷されている。いかにも「社用」だ。だが信子は、「稲村…」が「女文字」で書かれていることにピンとくる。今ならば、この手の郵便物の宛て名は、ワープロ文書を印字したものを切りとって貼っていることが多い。かりに手書きであっても、その文字に性差を感じることはほとんどない。1960年代半ばは、宛て名書き一つにも人間の匂いがしたのだ。

信子は、封筒を「懐ろに入れて台所に戻った」。隠し場所が「懐ろ」というのだから、着物を仕事着にしていたのだろう。ガスレンジでは折よく、湯が沸き立っている。だれも台所に入ってきそうもないのを見極めて、封筒をかざし、「封じ目を薬罐の湯気に当てた」。糊が緩んで、封は容易に開く。封筒をまた懐ろにしまって、トイレへ。便箋を広げると、待ち合わせの時刻や場所を知らせる文面で、末尾には女性の名があった――。

1960年代は、スキだらけの時代だった。家庭の「秘密」は、黒衣として紛れ込んだ人物の直感や悪知恵に偶然が味方すれば、いともたやすくあぶり出された。1980年代はどうだったか。そんなドラマの筋書きが不自然ではないほどに世間はまだ緩かった。

だが、今は違う。「秘密」は、とりあえずパスワードで守られているはずだ。だが、ネットワークの向こう側に正体不明の黒衣がいる。スマートフォンとともに暮らしていると、自分が何に興味を抱いているか、いつどこへ出かけたか、など私的事情が筒抜けのことがある。街に出れば、防犯カメラが見下ろしている。通りを歩けば、車載カメラが横目で通り過ぎていく。「家政婦」が見ていなくても、生活がまるごと、巨大な黒衣に監視されている。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年12月10日公開、通算604回
*コージーミステリーについては、当ブログの前身「本読み by chance」で幾度か言及しています。以下の回です。ご参考まで。
佐野洋アラウンド80のコージー感覚」(2015年3月20日付)
佐野洋で老境の時間軸を考える」(2017年2月10日付)
ことしはジーヴズを読んで年を越す」(2018年12月28日付)
**引用箇所のルビは原則、省きました。
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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