社説にみる改憲機運の落とし穴

今週の書物/
社説「憲法75年の年明けに/データの大海で人権を守る」
朝日新聞2022年1月1日朝刊

憲法(三省堂刊『小六法』)

当欄の新年初回はきょう1月7日付になった。あすは松の内も明ける。去年は元日付だったので、私の古巣、朝日新聞の年頭社説について書いたが、今年はそうはいくまいと思っていた。だが、紙面を見て気が変わった。6日遅れでも元旦社説をとりあげる。

今年の朝日新聞1月1日付社説は、まず「憲法75年の年明けに」のカット見出しを掲げ、続く主見出しで「データの大海で人権を守る」とうたっている。改憲の流れが強まる今、朝日新聞社の立場を鮮明にしておこうという趣旨か、と一瞬思った。だが読んでみると、憲法の話はなかなか出てこない。巨大IT企業が個々人の情報をネット経由でかき集め、人々の意思決定にも影響を与える現状を重くみて、それに警告を発したという色彩が強い。

私は、このチグハグ感に朝日新聞の苦悩を見る。社説の執筆を担う論説委員室には、リベラル派のメディアとして巨大IT企業の情報支配を護憲の立場から論じるべきだとする委員が一定数いるのだろう。だが一方で、この問題は現行憲法の枠組みを超えているとみる委員もいるのではないか。さらに言えば、委員めいめいの内面に両論の葛藤があったようにも思う。そう推察して、共感とも同情ともつかない気持ちになったのである。

朝日新聞の論説委員室は護憲派の巣窟のように思われがちだが、それはちょっと違う。私自身が在籍した十余年前を振り返ってみよう。たしかに、改憲を公然と口にする同僚はいなかった。大勢は現行憲法に好感を抱いていたとも思う。だが、護憲を声高に叫ぶ人も見かけなかった。あえて言えば、右寄りの政治勢力が憲法をタカ派的なものに変えようとする動きに神経をとがらせていた。護憲派というよりも改憲警戒派という言葉がぴったりくる。

改憲警戒派は、現行憲法を平和憲法ととらえて議論の焦点を第9条に絞り込めた時代にはわかりやすい存在だった。さまざまな案件が政治的左右の座標軸に還元された時代には、改憲=保守派、護憲=リベラル派という単純な色分けができたのだ。逆に言えば、リベラル派はごく自然に改憲勢力を警戒することになり、護憲勢力を支持することに違和感を覚えなかった――朝日新聞は今も、その構図から脱け出していない感じがする。

現実には、今やいくつもの難題が政治的左右とは別次元で噴き出している。気候変動しかり、新型感染症しかり、そして、この社説のテーマ、巨大IT企業の情報支配も同様だ。これらの問題は、政治的な左右だけでは論じきれない。実際、今の政界ではリベラル系の野党にも改憲論議に前向きな人々がふえた。憲法も時代に合わせて改めるべきではないか、という立場だ。改憲警戒派は守旧派のレッテルを貼られそうな気配がある。

今回の社説は、そんな空気感のなかで書かれた。見出しに憲法の2文字を含めながら憲法論で押し切れない。そこに私は、今の朝日新聞が直面する現実を見てしまう。

中身を見てみよう。冒頭に登場するのは、米国の巨大IT企業4社。それらが、ネット空間に「検索や商品の売買、SNSなどの場」を提供する「プラットフォーマー」として、主権国家に比肩する「新たな統治者」ともみられていることから説きおこす。

具体例として出てくるのは、巨大IT企業の一つ、メタ(旧フェイスブック)社がいま大展開しようとしている「メタバース」事業だ。人々がネットの仮想空間に「自分の分身である『アバター』」を送り込み、「会話をしたり、買い物したりする」という。これは、私のようにSNS活動度の低い者にはピンとこない。遊び心の世界だろうから、目くじらを立てるまでもないのではないか――一瞬そう感じたのだが、思い直した。

というのも、同じ朝日新聞紙面に前日の大みそか、「仮想キャラに中傷『現実の自分傷ついた』」(2021年12月31日朝刊社会面)という裁判記事が載っていたからだ。それによると、動画のネット投稿を繰り返していた人が「自分の分身」である仮想のキャラクターを投稿サイトに登場させていたら、キャラに対する中傷のメッセージが殺到、その口火を切った人物の個人情報開示をプラットフォーマーに求める訴訟を起こした、という話である。

この記事から見えてくるのは、デジタル世代にとっては「仮想空間」が実空間と同様に生活の場となり、「アバター」や「仮想キャラ」が実在の自分並みに自己同一性を具えはじめたらしい、ということだ。この二重性が健全かどうかはわからない。ただ、自分のほかに分身も保有する生き方が珍しくない世界が到来しようとしているのは事実だ。その分身部分が巨大IT企業という「統治者」によって仕切られている、ということなのだろう。

この社説は「メタバース」について、憲法学が専門の山本龍彦・慶応義塾大学教授から話を聞いている。「我々の生活が仮想空間に移る。そこでのルールはザッカーバーグ(最高経営責任者)が作る」。私たちは「民主的手続きを経ていない『法』」に支配されるという。

では、「民間」企業がどうしてここまで大きな「権力」を手にしたのか。社説は「力の源泉は、ネットを通じ、世界中から手に入れている膨大な量の個人情報」と断じている。情報にものを言わせるからくりとして挙げるのは、個人の好みに合わせた「ターゲティング広告」や個々人に対する「『信用力』による格付け」だ。これらが市場経済を動かして世界そのものも変えていく。その威力は、各国政府などの公権力をしのぐほどなのだ。

この「権力」の制御手段として社説が手本にするのが、欧州連合(EU)の「一般データ保護規則」(2018年施行)だ。自分の個人情報の何が企業の手にあるかを知る権利や、企業保有の個人情報の扱いに本人が関与できる諸権利を定めている。情報をもとに「自動処理で人物像を予測する」こと、即ち「プロファイリング」に異議を申し立てる権利や、情報をネットから削除するよう求める権利などだ。後者は「忘れられる権利」と呼ばれている。

人権を重んじると言うなら、こうした法制は欠かせない。ところが日本国内では、それが整えられていない。この不備をなんとかしようというのが、この社説のメッセージだ。

ただ、その法整備をどう実現するのか、ということになると社説の歯切れは悪くなる。一方では、「個人が自分に関する情報を自分で管理する権利」は現行憲法第13条の「個人の尊重」から導けるとして、個人情報保護法に「自己情報コントロール権」を明記するという案を例示する。だが他方では、衆議院憲法審査会の議論で「データに関する基本原則を憲法にうたうべし」という意見もあったことを、論評を控えたまま紹介している。

実は、この二者のうちどちらを選ぶかが肝心なのだ。2022年、メディアはそこに踏み込むべきだ。私自身の考えを言えば、ここまで改憲論が強まってきても、安易に「憲法にうたうべし」論に乗っかってはいけないように思う。そこには、落とし穴があるからだ。

それは、社説最後の数段落に書き込まれたことに関係する。一つには、「個人が自分に関する情報を自分で管理する権利」は人々の「知る権利」とバランスをとりながら尊重しなくてはならないということだ。そうでなければ、私たちは社会の真相から遠ざけられてしまう。もう一つは、巨大IT企業の情報支配にとらわれて国家の情報支配を許してはならないということだ。憲法を変えるならば、これら要件を十分に満たさなくてはならない。

2022年は、改憲論議が具体論の域に入りそうだ。このときに戒めるべきは、9条の改定ばかりに目を奪われることだ。「憲法にうたうべし」の声が出てきそうな新しい懸案、即ち気候変動や新型感染症、個人情報保護などの問題でも論点を見逃してはならない。大切なのは、憲法は人々の諸権利を国家の権力から守るためにある、という基本思想だ。この視点から憲法を組み立て直そうという強い決意がないなら、その改憲論に同調すべきではない。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年1月7日公開、通算608回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

友の句集、鳥が運ぶ回想の種子

今週の書物/
『句集 鳥の緯度』
土屋秀夫著、山河叢書32、青磁社、2021年刊

椅子の脚

古くからの友人が句集を出した。友と私は小学校以来、すべて同じ学校を出た。職場は違ったが、どちらもメディア界だった。ふつう以上には濃厚な関係だ。俳句という、読みようでどのようにも読める作品群を私が読むことは、それなりに意味があるだろう。

友人は俳句の素人ではない。プロというわけではないが、有名な句会に出たり、結社に加わったりして修業を積んできた。いくつかの賞も受けている。だから、句集の掲載句はすべて水準以上だ。当欄でその一部を紹介する意味は小さくないように思われる。

で、今週は『句集 鳥の緯度』(土屋秀夫著、山河叢書32、青磁社、2021年刊)。著者、即ちわが友は1951年生まれ、山河俳句会の同人であり、現代俳句協会会員でもある。

本の帯に「北から南から鳥は日本に渡ってくる/赤い実を食べた鳥が私の荒地に種を落とした/…(中略)…/俳句の交わりから、詩のミューズから/到来した種が育って荒地は草原になった」とある。「あとがき」によれば、著者は散歩していて空き地にムラサキシキブを見つけ、鳥の落とし種が実を結んだのだろう、と推察した。「鳥の作った庭、私の句もそれに似ている」と思ったという。さっそく、その庭をのぞいてみよう――。

まず、私が世代的共感を抱いた句から。
舐めて貼る八十二円レノンの忌
封書が82円だったのは、2014年~2019年。一方、ジョン・レノンがニューヨークで暴漢に射殺されたのは1980年12月8日。切手貼りなどの些細な動作で、ふと昔の出来事が思い浮かぶことはよくある。私たちの年齢では、その時間幅が数十年に及ぶ。

「レノン撃たる」の一報を、私は初任地北陸の小都市で聞いた。場所は、県庁の記者クラブ。通信社の記者が東京本社から聞きつけたのだ。一瞬、茫然とした。あの日、窓の外は雪模様の曇天で……。作者にもきっと、同じような体験があるのだろう。この句には、郵便料金82円が時間軸の基点になるという妙がある。それにしてもコロナ禍の今、切手ペロリはたしなめられそうだ。古い手紙の82円切手は「舐めて貼る」時代の証言者か。

冬木立どの木も過去に遇ったひと
落葉樹の魅力は、初夏の新緑や晩秋の色づきだけではない。裸木(はだかぎ)と呼ばれる冬木立の姿もいい。枝分かれの細部が露わになり、木々の個性が見えてくる。「あの枝ぶりは毅然としていて、どこかあの人に似ている」「あの枝のあの曲がり方は、あいつの心の屈折そっくりだ」――並木道を歩きながら、樹木1本ずつを「過去に遇ったひと」に見立て、甘口辛口の思いを巡らせる。リタイア世代、冬の散歩道ならではの愉悦か。

風景句で気に入った2句。
菜畑の奥に廃業ラブホテル
菜畑という言葉で目に浮かんだのは、ドイツの風景だ。その春、私はミュンヘン郊外の量子光学研究所を訪れていた。荷電粒子を宙に浮かせ、光を当てる実験について取材しながら、窓外に広がる菜畑に目を奪われた。物理は無機の極みだが、菜の花はムッとするほど有機的。その対比が際立った。この句にもそれがある。ラブホは有機的なはずだが、ここでは看板の文字が欠け、窓の鎧戸も破れて無機の気配が漂う。「廃業」の一語が絶妙。

赤とんぼ物流倉庫という荒野
春の句「菜畑…ラブホ」の秋版。こちらの句では「赤とんぼ」が有機的、一方、「物流倉庫」はただでさえ無機的だが、その印象が「荒野」のひとことでいっそう強まった。川べりの敷地にはコンテナが野積みされている。庫内はロボットがいるだけか。

次に、静物句をいくつか。
じゃが芋が鈍器のように置かれあり
私の記者経験では、警察は窃盗事件の発生を発表するとき、「ドアをバール様のものでこじ開け」という表現を多用した。バールは鉄梃(かなてこ)。窃盗犯は、鉄梃かどうかわからないが、鉄梃状のモノを使ったということだ。モノから道具としての属性を差し引く「様のもの」。この句の「鈍器のよう」にも同様の作用がある。じゃが芋から、ポテサラやおでんの材料という性格が引きはがされている。芋を実存にしてしまった句。

寒晴の肉感的な椅子の脚
過去のあるビロードの椅子青嵐
作者は、椅子という家具に強いこだわりがあるようだ。前者は、冬の陽光が差し込む部屋にいて、無人の椅子に目をとめた句だろう。太陽が低いから、日差しは斜め。脚部にも光が届くのだ。「肉感的」とあることで、この椅子はかつてそこに座った人の分身となる。作者は、その人との交流を追憶しているのかもしれない。後者は、椅子が呼び起こす回想性をより直截的に詠んだ句。「ビロード」の質感が体温の名残のように思えてくる。

ここで打ち明け話をすると、私は作者が発起人である句会に参加している。指導役の宗匠を歌壇俳壇から招いて開かれる。メンバーにも句歴豊かな人が多いが、私のような純然アマチュアもいる。定例の句会では、メンバーが匿名で投句した作品から秀句を互選する。この句集には、作者がその句会に出したものも含まれている。そのなかには、私が会では選ばなかったが今回選びたくなった作品もある。そんな句を二つ挙げよう。

木守柿通勤準急加速する
木守柿は、収穫後の木にあえて残した柿の実を言う。翌年の結実を願う風習らしい。この常識を知らなかったために私は選句しなかった。反省。梢に一つ二つ残る鮮烈な柿色。それが車窓に見えたなら絶対に目で追うだろう。動体視力を振り切る通勤準急が憎い。

叡山をむこうにまわし赤蛙
この句を選ばなかったのは、無知ゆえではない。京都に単身で住んだとき、鴨川沿いに寓居を借りた。対岸に五山送り火の大文字が見え、彼方には叡山も望めた。私は、赤蛙に自分の京都を奪われた気がしたのだ。選句には、ときにそんな嫉妬心が作用する。

次いで、社会派風ともとれる2句。
アロハ着てパチンコ打ちにいく自由
これも句会に出され、私は1票を投じた。「アロハ」を唐突に感じる向きもあろうが、句会の兼題(課題のようなもの)が「アロハシャツ」だったのだ。「アロハ」の軽装感と「パチンコ」の騒然感を「自由」という高邁な概念に結びつけた。散文風なのがいい。

電気ケトルの先に原子炉すべりひゆ
湯はガスで沸かすもの、というのは過去の話、うちはオール電化です、と悦に入っていたら、電気湯沸かしの大もとに原発という核分裂の湯沸かしがあることに気づいた――そんな感じか。私は一瞬、下の句「すべりひゆ」を古めかしい動詞かと思った。調べてみると、雑草の一種ではないか。ここでも、自らの無知に赤面。作者は植物に詳しいので、この草を夏の季語として下の句に置いたのだろう。だがなぜ、スベリヒユなのか?

電力と雑草という異世界のアイテムを出会わせる。俳句の極意はそこにあるのだから、理由を詮索するのは無粋だ。でも、どこかで異世界同士が通じあっていないか。そう思ってスベリヒユの画像をネット検索すると、茎が地を這うように枝分かれしていた。送電網(グリッド)の図面に見えなくもない。作者にはこのイメージがあって、そこに電力を重ねあわせたのか、それとも意図はないのに偶然、ぴったり重なりあったのか。

蛇足を言い添えれば、スベリヒユはトウモロコシなどと同様、光合成を高能率にこなす植物(C4植物)だという。光合成→二酸化炭素固定→脱炭素社会と、この一面もエネルギー・環境問題につながる。こうみてくると、スベリヒユは下の句に適任だったのか。

最後に、この句集でもっとも危うい句。
古本のような女をめくり遅日
「古本のような女」と読んで、ギクッとする。ふつうなら言ってはいけない言葉だ。「古本」と言えば、ネット通販の注意書きにある「一部にヤケ、表紙にスレ」を連想してしまう。だが裏を返せば、その本はたくさんの旅をして、多くの人に出会ってきたのかもしれない。動詞「めくり」もきわどいが、この句の主人公は本の頁を繰るように「女」の話を聴いているのだ、と解釈しよう。早春の午後遅く、傾く陽射しを受けながら……。

締めは、友人に敬意と謝意を込めて拙句を。
友の句を巡りたずねて暦果つ(寛太無)
(執筆撮影・尾関章)
=2021年12月17日公開、通算605回
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「家政婦は見た」という長閑な監視

今週の書物/
「熱い空気」
松本清張著(初出は『週刊文春』、1963年に連載)
=『事故 別冊黒い画集(1)』(松本清張著、文春文庫、新装版2007年刊)所収

家事

こんなふうに1週1稿の読書ブログを続けていると、ときに小さな発見に恵まれる。世界観にかかわるような大発見ではない。ちっぽけな驚き。今年で言えば、「2時間ミステリー、蔵出しの愉悦(当欄2021年7月30日付)で読んだ本にそれがあった。

『2時間ドラマ40年の軌跡』(大野茂著、発行・東京ニュース通信社、発売・徳間書店、2018年刊)。巻末に収められたデータ集には、2時間ミステリー(2H)の視聴率ランキングが載っていた。驚いたのは、テレビ朝日系列の「土曜ワイド劇場」(土ワイ)で歴代1位、2位、5位の高視聴率を獲得したドラマが、あの「家政婦は見た!」の作品群だったことだ。1983年に始まったシリーズの第1~3作が軒並み上位に名を連ねている。

副題を見てみよう。堂々の1位は「エリート家庭の浮気の秘密 みだれて…」(1984年放映、視聴率30.9%)、2位は「エリート家庭のあら探し 結婚スキャンダルの秘密」(1985年、29.1%)。そして5位は、主タイトルが「松本清張の熱い空気」、副題に「家政婦は見た! 夫婦の秘密“焦げた”」とある(1983年、同27.7%)。この作品が当たったので副題を前面に出してシリーズ化したら、後続がそれをしのいで大当たりしたということらしい。

ちなみに第2作の視聴率30.9%は、2時間ミステリー史に聳える金字塔だ。『2時間ドラマ40年…』のデータ集によると、この数字は、土ワイ最大の競争相手「火曜サスペンス劇場」(火サス、日本テレビ系列)のドラマ群も超えられなかった。

シリーズの主人公は、新劇出身の市原悦子が演じる地味な「家政婦」。芝居の黒衣(くろご)のような立場なのに、雇い主の「エリート家庭」に潜む「浮気」や「スキャンダル」を鋭い観察眼で見抜き、巧妙な計略で取り澄ましている人々を窮地に追い込む。

ミステリーだが、殺人事件は出てこない。家庭が舞台だから派手さもない。人殺しのない推理小説は、ときに「コージーミステリー」と呼ばれる(*文末に注)。“cozy”――英国風の綴りなら“cosy”――は「心地よい」の意。では、このドラマに心地よさがあったかと言えば、そうではない。「家政婦」の意地悪さが半端ではないので、寒気が走るほどだ。それなのになぜ、こんなに受けたのか。当欄は、そこに注目してみよう。

まず押さえておきたいのは、シリーズ第1作の主タイトルに「松本清張」が冠せられていることだ。すなわち、第1作は正真正銘、清張の小説を原作にしている。第2作以降はドラマの枠組みを清張作品に借り、個々の筋書きは脚本家に委ねられたという。

で、今週手にとったのは「熱い空気」(『事故 別冊黒い画集(1)』〈松本清張著、文春文庫、新装版2007年刊〉所収)という中編小説。シリーズ第1作の原作である。1963年春から夏にかけて『週刊文春』に連載され、1975年には文春文庫に収められている。

小説が描くのは昭和30年代後半、すなわち高度成長半ばの世界だ。これに対して土ワイ枠でドラマ化されたのは、昭和で言えば50年代後半、日本社会が石油ショックをくぐり抜け、バブル期に差しかかろうとするころだ。同じ昭和でも、この20年間の差は大きい。

小説の作中世界で時代感を拾いだしてみよう。作品冒頭部に住み込み家政婦の報酬が明かされている。「食事向う持ちで一日八百五十円」。時給ではない。日給である。別の箇所には「ラーメン代百円」の記述も。あのころの物価水準は、そんなものだった。

家政婦の稼ぎについては「食べて月平均二万五千円の収入」という表現もある。850円×30日=25,500円だから、ここから推察できるのは、家政婦は、一つの家に雇われると期間中は3食付きで、ほとんど休みなくぶっ通しで働いたらしいということだ。実労働1日8時間の縛りはあったようだが、家事は「労働と休息のけじめがはっきりしない」。早朝から深夜まで10時間を超えて「拘束」されることが「ふつう」であったという。

主人公の河野信子――シリーズ第2作からは「石崎秋子」に代わる――は東京・渋谷の家政婦会から、青山の高樹町にある大学教授の稲村達也邸に送り込まれる。初日の描写から、当時の家政婦が受けていた待遇がわかる。挨拶の後、「その家の三畳の間に入れられた」「そこですぐにスーツケースを開き、セーターとスカートを穿き替えて、エプロンをつけた」。三畳間は前任の「女中」が辞めた後、物置として使われていたらしい、とある。

そう言えば……と私が思いだすのは、あのころ屋敷町の家にはたいてい、三畳や四畳半の小部屋があったことだ。私の周りでは住み込みの使用人がいる家はすでに少なかったが、それでもそんな一室があり、「女中部屋」と呼ばれることもあったと記憶する。

1960年代前半は、ちょうど「女中」が「お手伝いさん」に言い換えられたころだ。作中でも教授の妻春子が信子の前任者のことを語るとき、あるときは「お手伝いの娘」、別の場面では「女中」と呼んでいる。奉公という封建制の名残が絶滅の直前だった。

著者は、そんな時代の曲がり角で「家政婦」という職種に目をつけた。「家政婦」は「女中」の仕事を引き継ぐのだから奉公人の一面を残す。だが実は、家政婦会を介して雇用契約を結ぶ労働者だ。だから、雇い主の家庭を突き放して観察することができる――。

興味深いのは、ドラマの「家政婦は見た!」が世の中の脱封建化が進んだ1980年代に放映されても、違和感がなかったことだ。すでに中間層が分厚くなっていた。だから視聴者は、家政婦という労働者が自分に成り代わってエリート階層を困らせることには、さほど快感を覚えなかったように思う。ではなぜ、魅力を感じたのか? 理由の一つは、家政婦の眼が隠しカメラのように「秘密」をあばく様子がスリリングだったからだろう。

小説「熱い空気」から、そんな場面を切りだしてみよう。ただ、ネタばらしは避けたいので深入りはしない。信子が達也の「秘密」をかぎつける瞬間だけをお伝えしよう。

信子が食器を洗っていると、玄関から声が聞こえる。急いで出ていくと「郵便配達人が板の間に速達を投げ出して帰ったあとだった」。ここで気づくのは、配達人が玄関に勝手に入り込んだらしいことだ。たしかに1960年代前半、昼間は施錠しない家も多かった。郵便物の扱いも今より緩い感じがする。速達だから居住人が留守なら郵便受けに入れればよいのだが、この配達人は不在かどうかを確かめる様子もなく、置いただけで立ち去っている。

茶色の封筒には「稲村達也様」の表書き。裏面には「大東商事株式会社業務部」と印刷されている。いかにも「社用」だ。だが信子は、「稲村…」が「女文字」で書かれていることにピンとくる。今ならば、この手の郵便物の宛て名は、ワープロ文書を印字したものを切りとって貼っていることが多い。かりに手書きであっても、その文字に性差を感じることはほとんどない。1960年代半ばは、宛て名書き一つにも人間の匂いがしたのだ。

信子は、封筒を「懐ろに入れて台所に戻った」。隠し場所が「懐ろ」というのだから、着物を仕事着にしていたのだろう。ガスレンジでは折よく、湯が沸き立っている。だれも台所に入ってきそうもないのを見極めて、封筒をかざし、「封じ目を薬罐の湯気に当てた」。糊が緩んで、封は容易に開く。封筒をまた懐ろにしまって、トイレへ。便箋を広げると、待ち合わせの時刻や場所を知らせる文面で、末尾には女性の名があった――。

1960年代は、スキだらけの時代だった。家庭の「秘密」は、黒衣として紛れ込んだ人物の直感や悪知恵に偶然が味方すれば、いともたやすくあぶり出された。1980年代はどうだったか。そんなドラマの筋書きが不自然ではないほどに世間はまだ緩かった。

だが、今は違う。「秘密」は、とりあえずパスワードで守られているはずだ。だが、ネットワークの向こう側に正体不明の黒衣がいる。スマートフォンとともに暮らしていると、自分が何に興味を抱いているか、いつどこへ出かけたか、など私的事情が筒抜けのことがある。街に出れば、防犯カメラが見下ろしている。通りを歩けば、車載カメラが横目で通り過ぎていく。「家政婦」が見ていなくても、生活がまるごと、巨大な黒衣に監視されている。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年12月10日公開、通算604回
*コージーミステリーについては、当ブログの前身「本読み by chance」で幾度か言及しています。以下の回です。ご参考まで。
佐野洋アラウンド80のコージー感覚」(2015年3月20日付)
佐野洋で老境の時間軸を考える」(2017年2月10日付)
ことしはジーヴズを読んで年を越す」(2018年12月28日付)
**引用箇所のルビは原則、省きました。
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アルバムにしたい本を見つけた

今週の書物/
『東京懐かし写真帖』
秋山武雄著、読売新聞都内版編集室編、中公新書ラクレ、2019年刊

カメラ

水害が頻発している。最近は、その怖さがすぐニュース映像になる。たとえば、濁流が家々を押し流す場面。住人はすでに現場から避難していると聞いても気がかりはある。一瞬、頭をよぎるのは、家を出るときにアルバムを持ちだせただろうか、ということだ。

アルバムに対する思いは、高齢の人ほど強い。写真が画像データとは呼ばれなかった時代、それをUSBメモリーやSDカードに保存したり、ネットの雲(クラウド)に載っけたりはできなかった。だから、紙焼き写真の値打ちは今よりずっと高かったのだ。

2011年の東日本大震災では、津波にさらわれた写真を復元するボランティア活動が広がった。被災者は、さぞうれしかっただろう。失いかけた写真は、家庭が営まれた記録であり、家族が生きた証でもあった。とくに、その家族が帰らぬ人となっていたならば……。

アルバムは特別な存在なのだ。かつて「岸辺のアルバム」(脚本・山田太一、TBS系列、1977年)というテレビドラマが人々の心をとらえたのも、家族の結びつきの危うさを、家屋が流されれば消えてしまうアルバムのはかなさに重ねあわせたからだろう。

と、ここまで書いてきて、自身のことを顧みるとゾッとする。私の家は幸いにも震災にも火災にも水害にも遭っていないが、幼少期のアルバムをどこに仕舞っているかがわからない。ただ、ずぼらなのだ。探そうとは思うが、もう散逸しているかもしれない。

色あせた写真には二つの意義がある。一つは、自分自身の記録という側面だ。家族でこんなところへ旅した、親戚にはこんなおじさんやおばさんがいた……というようなことだ。もう一つは、時代の記憶。あのころはこんな服が流行っていた、町にはこんな乗りものが走っていた……といったことである。「私」と「公」の過去を「こんな」だったね、と実感させてくれるわけだ。アルバムには、そんないくつもの「こんな」が詰め込まれている。

「私」についていえば、アルバムの代替品を見つけるのは難しい。だが、「公」は違う。世相をとらえることに長けた写真家が一人いれば、その作品群を通じて「あのころ」の「こんな」を蘇らせることができる。で、私は最近、そんな作品集に出あった。

書名は『東京懐かし写真帖』(秋山武雄著、読売新聞都内版編集室編、中公新書ラクレ、2019年刊)。著者は1937年生まれの写真家。東京・浅草橋で家業の洋食店を営みながら、仕事の合間に東京都内、とりわけ下町の風景やそこに生きる人々の姿を撮ってきた。まえがきによると、「カメラを始めたのは15歳」で「撮り溜めたネガは数万枚」に及ぶ。「写真と洋食屋のどちらが趣味でどちらが本業なのか、分からないくらい」なのだ。

編者名からもわかるように、この本は読売新聞の連載をもとにしている。都内版の一つ、「都民版」に週1回のペースで載ったものから、2011~2018年の72本を選んだという。読売新聞記者のあとがきによれば、担当記者は毎週、秋山さんの洋食店に足を運ぶ。写真1枚1枚について、じっくり話を聞くためだ。そして「『一本指打法』でしかキーボードをたたけない秋山さんに代わり記事を書く」。だから本文からは、語りの口調が感じとれる。

その文章には、秋山さんの被写体に対する思いがあふれている。ただ、この本の主役は、あくまでも写真だ。1編に2枚ほど載せているから全部で百数十枚。ただ、写真は文章のように、これはという言葉を引用できない。当欄では何をどう書こうか。さあ、困った。

ふと思いついたのは、ここにある写真を私本位の視点で味わってみる、ということだ。秋山さんが写真を始めたのが1952年だとすれば、それは私が生まれた翌年だ。実際、作品の撮影年は、多くが私の幼年期から少年期、青年期に重なっている。「公」の記憶ということなら、この本は「アルバム」の役目を果たしてくれるのだ。だから当欄では、作品群を自分の写真のように眺め、あのころは「こんな」だった、と懐旧に耽ることにしよう。

最初にニヤッとしたのは、「羽根をさがす子供」(1957年)だ。男の子たちが路地裏でバドミントンをしていたら、羽根が板塀を越え、道沿いの家の庭に飛び込んだ。一人は、身をかがめた友だちの背中に乗り、背伸びして塀の向こうを見下ろしている。ほかの子たちも、しゃがみ込んで板の隙間から庭を覗いている。そういえばあのころ、ゴムまりの野球で塀越えのファウルを飛ばし、「ボール、とらせてください」と大声を出すことがよくあった。

子どもたちが遊ぶ写真には、ローラースケート(1957年)、ベーゴマ(1966年)、馬跳び(1974年)、相撲(1980年)、縁台将棋(1983年)などがある。どれも路上の光景だ。道の真ん中で、女の子が馬をぴょんと跳び越えている。路面に、ひしゃげた土俵が白線で描かれている。あのころ、私たちは「道路で遊ぶな」と注意されても言うことを聞かなかった。今は車が通らない路地裏でも、子どもたちの遊び声がほとんど聞かれない。

男の子が独り、ハーモニカを吹いている写真もある(1957年)。格子縞のジャンパーの胸元から、猫の顔がのぞいている。愛猫をすっぽりくるんで暖めているのか、それとも、愛猫の体温で自分が暖まりたいのか。寒い季節であることだけは確かだ。それなのに、その子は戸外にいる。気になるのは、背後に見える波板らしき物体だ。あのころは、ありあわせの材木やトタン板で即製した建物があちこちにあった。これも、そんな物置小屋ではないか。

夕暮れどき、子どもたちが連れだって家路の途上にある写真も2枚載っている。どちらも橋の上。片方の写真(1965年)では、向こう岸に工場の煙突が並び、煙がもくもくと上がっている。もう一方(1959年)は、男の子と女の子が総勢7人。はだしの子は靴を手にぶら下げている。「工事現場の水たまりで、泥だらけになって遊んでいたんだ」と秋山さん。あのころ「水たまり」は、それだけで子どもたちの遊びを成立させた。

道路を生活の場にしていたのは、子どもだけではない。大人も、それをただの通り道とは考えていなかった。「嫁入りの日」(1964年)では、花嫁が仲人に導かれ、商店街をしずしずと歩いている。婚礼となれば、新婦が白無垢角隠しの晴れ姿をご近所に見せて回ったのだ。一行を見守っているのは、割烹着姿の女性や子どもたち。通りの華やいだ声を聞きつけて、家から飛び出してきたのだろう。道路が一世一代の大舞台になっている。

「ご近所さん」(1987年)は、近くの住人十数人が路地の道幅いっぱいに並んでいる文字通りの記念写真。食事会の折に撮ったものだという。「こうして勢ぞろいした姿を見ると、お互いの家族を見守りながら暮らしていたんだなと、しみじみ思うよ」。路地は、向こう三軒両隣の私生活をそれとなくつなげる空間だった。それを窮屈と感じるのが今の私たちだが、「見守りながら暮らしていた」と思うゆとりがあのころにはあった。

道路は商いの場にもなった。「部品売り」(1957年)という写真では、露天商が橋のたもとに中古自転車の部品を並べている。よく見ると、値札がついているのはタイヤが多い。「壊れた自転車を安く仕入れて、使える部品だけ抜き取ったんだろうね」。おもしろいのは「橋の上では、硬くなった大福を温め直して売っている人もいたよ」という話。戦後の空気が残っていたあのころ、大人たちはなんでも売りものにして、どこでも店を開いたのだ。

道路の写真をもう1枚。「無理が通れば」(1965年)では、大型トラックが2台、狭い道をギリギリすれ違っている。「今なら立派な物損事故だね」とあるが、この写真ではそうとは断定できない。ただ、秋山さんの証言は含蓄に富む。「運転手がどうしたかって。お互いにそのまま目的地へと走り去っていったよ」――あのころ、運転手の最優先事項はものを運ぶことであり、武骨な車体にかすり傷がついたかどうかは二の次だったように思う。

写真は嘘をつかない。この本では、私が子どもだったころの社会の実相が露呈している。あのころの大人は、法律よりも融通を優先させていたのではないか。だから、道路という公空間で互いに折りあいをつけていた。子どもが道路にいても、近隣の緩いつながりのなかで見守っていた。それがすべて良かったとは言わない。法律や決まりごとは当然、尊重されるべきだ。ただ同時に、あのころにあって今は失われた美風も忘れたくはない。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年9月3日公開、通算590回
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2時間ミステリー、蔵出しの愉悦

今週の書物/
『2時間ドラマ40年の軌跡』
大野茂著、発行・東京ニュース通信社、発売・徳間書店、2018年刊

テレビ欄(朝日新聞)

緊急事態の巣ごもりで、テレビをつければ、こちらの局も五輪、あちらの局も五輪……。これがテレビの宿命か。そう思いつつも、ここで大上段に構えてテレビを論ずるつもりはない。暑気払いということで、肩の凝らないテレビ史話に浸ることにしよう。

2Hという言葉がある。テレビ界の友人によれば、2時間ドラマ、即ち2-hour dramaの略だ。私はその2Hのファンなので、当欄の前身「本読み by chance」では「2時間ミステリー(2H」というジャンルを設けていた。「2時間ドラマの旅で考える鉄道論」(2014年10月31日付)、「ハムレットを2時間ドラマに重ねる」(2015年9月11日付)、「2時間ドラマまったり感の崖っぷち」(2017年7月14日付)など7本を収めている。

熱烈なファンであっても、私の2H鑑賞法は手抜きのそしりを免れない。夕食後、寝っころがって、ボーッと視聴する。たいていはほろ酔い状態なので、ドラマの中盤、事件の輪郭が見えてくるあたりでうとうとしてしまう。はっと目が覚めるのは最終盤。崖の突端やら湖の畔やらに関係者一同が顔をそろえている。この大団円で刑事や検事、素人探偵が謎を解き、事件の一部始終を説明してくれる。中抜けでもちゃんとゴールできるのがいい。

この鑑賞法は、テレビドラマを芸術作品とみなすなら不真面目の極みだろう。だが、2Hは趣が違う。「どうぞみなさん、お好きなようにご覧ください」――耳元で、作品そのものがそんなふうにささやいているように思える。脱力を促している気配だ。

ただ、脱力していても得られるものはある。私にとって2Hは近過去の史料だ。これは、テレビ各局が2H新作の時間枠を次々に取り払ってしまったことに起因する。このため最近は、BSやCSで蔵出しの再放映を見たり、再放映を録画して後日再生したりすることが多くなった。作品の空気にどっぷり浸かっていると、制作年代の記憶が蘇る。電話などの通信事情や鉄道などの交通事情から、それがいつごろの作品か言い当てる楽しみもある。

たとえば、DNA型鑑定が事件捜査の現場に広まった時期は、日本テレビ系列「火曜サスペンス劇場」で見当がつく。この技術は「女監察医室生亜季子」シリーズでは「もう一つの血痕」(1992年)に、「女検事霞夕子」シリーズでは「青い指」(1993年)に初出する。1990年代前半にドラマの題材になるほど浸透したわけだ。余談だが後年、シリーズ名から「女」が抜け、それぞれ「監察医…」「検事…」になった。この改名にも史料的意味がある。

こんなふうに私は2Hを分析してもいるのだ。ただ、ボーッと画面を眺めているだけではない。だから、いずれは2H評論家を標榜できるのではないか、と心の片隅で思ったこともある。だが、それは奢りだった。そのことを思い知らされる本に最近、出会った。

『2時間ドラマ40年の軌跡』(大野茂著、発行・東京ニュース通信社、発売・徳間書店、2018年刊)。著者は1965年生まれ、電通出身の阪南大学教授。専門分野は「メディア・広告・キャラクター」という。「おわりに」によると、この本は『TVガイド』誌発行元である東京ニュース通信社の「地下倉庫の資料整理」によって生まれた。倉庫は、2H史料の宝庫だったわけだ。著者は往時の関係者にも取材して、臨場感のある史話に仕立てあげた。

さすが『TVガイド』の発行元だな、と思わせるのが、巻末の「とっておきデータ集」。それによると、1977年にテレビ朝日系列で老舗「土曜ワイド劇場」(土ワイ)が始まり、対抗馬「火曜サスペンス劇場」(火サス)が1981年から追いかけた。私が知らなかったのは、このあとに2時間ドラマ乱立期がつづくことだ。キー局によっては時間枠を二つ三つ設けるところも出てきて、1990年前後には4局8枠が競い合ったこともある。

草創期の事情を本文に沿って跡づけてみよう。興味深いのは、2時間ドラマの原点が米国にあることだ。米国のテレビ界には、劇場用映画の時間枠にテレビ用「映画」を流す試みがあった。テレビ局がオリジナル作品の制作を映画会社に発注したのだ。これなら、時間の長短も画面の横幅もテレビ仕様にできる。ヤマ場をCMのタイミングに合わせて設定したり、「新聞のテレビ欄で思わず見たくなる」ようにタイトルを工夫したり、も自在だ。

この試みの妙味に気づいた人がNET(現・テレビ朝日)にいた。1960年代末、映画番組用に洋画を買い入れる仕事をしていた外画部員だ。米国のテレビ専用作品を「テレフィーチャー」という和製英語で呼び、導入の可能性を探っていた。その人が1975年、編成開発部に移って手がけたのが「国産テレフィーチャーの実現」だ。上司も、この構想を応援してくれた。こうして土ワイが、最初は90分ドラマとして産声をあげたのである。

土ワイは当初、ミステリーと決まってはいなかった。最初の数カ月は「ミステリーを中心としながら、文芸もの、青春もの、メロドラマと模索が続いた」。やっぱりミステリー、という方向性が見えたのは、1978年に「江戸川乱歩の美女シリーズ」第2作の「浴室の美女」が高視聴率を獲得してから。天知茂主演。ヒロイン女優が脱いだ。コメディアンが笑いをとって猟奇性を和らげた。こうして「娯楽ミステリー路線」が定着したのである。

土ワイの初代チーフプロデューサーが1977年に社内向けに宣言した制作方針が、この本では公開されている。「メインターゲットは20~35歳の女性」「娯楽性・話題性を最優先」「風俗、流行も反映」「裸(健康的なお色気、美しい映像)はOK」「茶の間の涙と感動も無視できません」――といった内容だ。今では通用しない価値観もみてとれるが、あの時代に戻って解釈すれば、小難しくなく楽しめる作品を、ということだったのだろう。

土ワイを論じるときに忘れてならないのは、在阪局ABC朝日放送の参入だ。1979年、土ワイが90分枠から2時間枠に拡げられると同時に制作に加わっている。放映4回のうち1回はABCが受けもつことになった。その結果として誕生した人気シリーズの双璧が、藤田まこと主演「京都殺人案内」と、古谷一行、木の実ナナ主演「混浴露天風呂連続殺人」。2Hの切り札ともいえる「京都」と「温泉」のカードをいち早く切ったのである。

そのころはゴタゴタもあったようだ。たとえば、「京都殺人案内」第1作の原作者は山村美紗だが、第2~32作は和久峻三に代わっている。土ワイがもう1枚の切り札「鉄道」を前面に押しだした「西村京太郎トラベルミステリー」シリーズも不可解だ。ABCが1979年に始めたが、まもなくテレビ朝日の手に移った。これらの異変の背景には、原作者とテレビ局の間の確執があったらしいことを著者は匂わせる。2Hにふさわしい話ではある。

初期の土ワイにかかわったテレビ朝日とABCのOB対談からは、制作現場の空気感が伝わってくる。当時は映画が斜陽産業だったので、テレビドラマは「映画界の失業者を救済する事業」でもあったという。テレビ人には、映画人の心理が屈折しているようにみえたのだろう。「映画はテレビをバカにしてましたからね」「娯楽の王座が映画からテレビに移ったっていうのを彼らも完全に知ってて、でもやっぱり虚勢を張りたかったんじゃないかな」

さて1981年、いよいよ火サスの出番である。この本で、ああそうだったのかと納得したのが、土ワイとの比較論だ。私は一視聴者として両者の芸風の違いを感じながらも、それをうまく言い表せなかった。著者によれば、火サスは「犯人さがしやアリバイ崩し」ではなく「人間ドラマ」を優先して「登場人物が背負っているもの」や「愛が憎しみに変わる瞬間」などを描いた。「謎解き」より「緊張や不安」――だから「サスペンス」だったのだ。

そして1980年代、TBS系列にもフジテレビ系列にも同種の番組が現れ、2Hの視聴率競争は過熱する。その時代の象徴は、新聞のテレビ欄を舞台とする場外乱闘だ。欄の枠内に「松本清張の事故 国道20号線殺人トリック 怖い!あの女が今日も私を見張ってる…」(土ワイ、1982年)というような長い文言が載るようになった。2時間分のスペースから主要出演者の列記分などを差し引いて、残る余白を刺激的な言葉で埋め尽くしたのである。

この本は、2Hをつくる側の裏話にあふれている。だから私は、業界事情がわかって興味深かった。だが、見る側に立って作品をどんなふうに楽しむかという話はあまりない。2H評論家としての活路はまだまだあるぞ。そう思って、今夜もまた1本、きっと見る。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年7月30日公開、同年8月1日更新、通算585回
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