オーウェルは二つの社会主義を見た

今週の書物/
『ジョージ・オーウェル――「人間らしさ」への讃歌』
川端康雄著、岩波新書、2020年刊

右寄り

新聞記者の一線を離れてみると、後悔がたくさんある。現役時代、もうちょっと頭を働かせれば、あんなことが書けたな、こんなこともできたな、ということだ。

今夏、朝日新聞デジタルに「オーウェルの道をゆく――『労働者階級の街』から見た英国のいま」という記事が連載された(2023年7月26~29日、8月2日、16~20日、その後、短縮版が朝日新聞夕刊「現場へ!」欄に載った)。筆者は、ロンドン駐在の金成隆一記者。「英国の地方を訪ね、特別な肩書のない人々の話を聞きたい」と思い、作家ジョージ・オーウェル(1903~1950)がかつて歩いたイングランド鉱工業地帯の今を見たという。

心にズシンと響いたのは、「特別な肩書のない人々の話を聞きたい」の一言だ。これだ、こんな取材がしたかったのだ。私も1990年代、ロンドンに駐在していたが、科学記者という肩書に縛られ、ほとんど学者ばかりを追いかけていた。そのことが悔やまれる。

イングランド北部の空気は、ロンドン時代の出張取材や休暇旅行でなんども吸っている。鉱工業地帯でパブにふらりと立ち寄ると、労働者らしい男たちがビールを片手に陽気に語りあっていたものだ。店内に飛び交うのはもちろん英語だが、ケンブリッジやオックスフォードで耳にするそれとはまったく違った。ここにいる人々こそが英国社会の本体なのだ――私もそう認識していたが、話を聴いてまわろうとは思わなかった。

それをやってのけたのが、金成記者だ。いや、もとをたどればジョージ・オーウェルということになろう。オーウェルは1936年、ジャーナリストとしてイングランド北西部、マンチェスターに近い炭鉱町ウィガンを取材した。ロンドンからは鉄道やバスを乗り継ぎ、安宿や民家に泊まる旅だった。こうして英国労働者階級の「もっとも典型的な人たち」の声に触れたのだ。翌年、『ウィガン波止場への道』というルポルタージュを発表している。

で今週は、そのオーウェルの伝記であり解説書でもある一冊を読む。『ジョージ・オーウェル――「人間らしさ」への讃歌』(川端康雄著、岩波新書、2020年刊)だ。著者は1955年生まれ。近現代の英国文化や英文学が専門の研究者。オーウェルの邦訳も多く手がけている。本書では、オーウェルの生涯46年余を幼少期から死の当日までたどっている。文筆生活を始めてからの記述では、そこに作品世界を絡ませているのが読みどころだ。

中身に入ろう。著者は「はじめに」の一文を「いまでは不思議なことに思えるのだが」と切りだし、日本では昭和中期、「政治的左派」や「進歩的知識人」の大勢がオーウェルを嫌っていたことを振り返る。たぶん、若い人々にはピンとこないだろう。

実際、オーウェルの代表作『動物農場』(1945年)と『一九八四年』(1949年、*1*2)は東西冷戦期、ソ連型社会主義に対する批判の書として読まれた。右寄りと見られたわけだ。西側には、オーウェルを「反ソ・反共のイデオローグ」に担ぎあげる動きがあった。

「はじめに」は、その後の変転も跡づける。『一九八四年』がブームを呼んだ現実の1984年前後、左派のオーウェル嫌いは収まり、代わりに「『情報革命』『管理社会』といったキーワードを用いた『一九八四年』論が増えてきた」。当然の流れだな、と私は思う。ソ連東欧の体制が崩壊に向かいつつあったこと、世の中がコンピューターを中心とする情報技術(IT)の台頭で隅々まで管理されようとしていたことが影響したのだろう。

「はじめに」は、2010年代の政治情勢にも言及している。日本では、マイナンバー法や特定秘密保護法などの法制で「監視社会化」の流れが強まった。米国では、ドナルド・トランプ大統領という専制的権力者が登場して、「フェイク・ニュース」「代替的事実(オルタナティブ・ファクト)」などの流行語も生まれた。『動物農場』や『一九八四年』は「反ソ・反共」の色彩を弱め、「身近な世界の危機を表現した小説」になっているわけだ。

この構図の反転は大きな意味をもっている。『動物農場』や『一九八四年』の作品世界が当時のソ連型国家をモデルにしていることは間違いないが、そこにある「管理」や「監視」の過剰は社会主義そのものの病ではない、と本書は主張しているように思える。最近は、自由主義を別名にしていた資本主義が同じ病のリスクにさらされているではないか。病因は社会主義にあるわけではない。この一点は、心にとめておくべきだろう。

私が察するに、オーウェルの胸中には二つの社会主義像があった。一つは、陰湿な暗黒郷(ディストピア)の社会主義。もう一つは、それとは真反対に明朗な理想郷(ユートピア)の社会主義。本書によると、オーウェルはスペイン内戦で、その二つの違いを見てとった。1936年暮れ、現地ルポを書くつもりでバルセロナに赴くが、町の「雰囲気」に気押され、ほどなく民兵組織に入る。町の様子は著書『カタロニア讃歌』に描かれている。

建物の大半は労働者階級が占拠して、旗がひらめいていた。オーウェルが心揺さぶられたのは、商店の店員やカフェの給仕の言葉づかいだ。相手が客であっても「セニョール」などの敬称は用いない。「同志」「君」と呼びかけていたという。エレベーターボーイにチップを渡そうとして、たしなめられたこともあった。この町では店員も給仕もエレベーターボーイも客もみな「対等」だった。オーウェルは、ここに社会主義のあるべき姿を見る。

この見方に、私は懐疑的だ。旧ソ連型の社会主義国では独裁的な指導者も「同志」と呼ばれる。それを「対等」とみるのは甘くはないか。実は『カタロニア讃歌』も「同志」という言葉が「たいていの国」では「まやかし」であることを認めている。ただ、オーウェルはスペイン内戦の民兵組織に参加した数カ月、「本当の同志的連帯」を経験したというのだ。ここでもまた、社会主義の本質は「階級のない社会」であることを強調している。

スペイン内戦は、選挙で政権に就いた人民戦線の共和国政府と、欧州のファシズム勢力を後ろ盾にするフランシスコ・フランコ将軍派との間で繰り広げられた。オーウェルは人民戦線の一翼を担う民兵組織「マルクス主義統一労働者党」(POUM)に入隊、スペイン北部で塹壕戦に加わった。著者によれば、『カタロニア讃歌』の戦場描写には「ずっこけた」印象がある。仲間を英雄視しなかったのは、「同志的連帯」のなせる業だったのだろう。

オーウェルはこの国で、もう一つの社会主義も現認する。入隊から4カ月後、1937年4月に休暇でバルセロナを再訪すると、町の空気が一変していたことを『カタロニア讃歌』は書きとめている。「同志」や「君」は消えつつあり、「セニョール」が復活していた。それだけではない。5月上旬には、共和国政府の内部抗争が激化してバルセロナで市街戦が起こり、オーウェルもPOUM本部を守るため、「歩哨任務」に駆りだされた。

本書には、この内部抗争の背景説明がある――。スペインの共和国政府はソ連を「最大の援助者」としており、ソ連の絶対的権力者ヨシフ・スターリンの意向を無視できなかった。POUMの方針は、スターリンとソ連共産党内で敵対したレフ・トロツキーの思想に近かったので、共和国政府主流派からは「ファシスト軍以上に危険」とみなされ、「粛清」を受けることになったというわけだ。その結果、POUMの党首は拷問の末に殺されている。

オーウェル自身も危うかった。本書によると、当局がオーウェル夫妻――妻も夫を追ってスペインに来ていた――を「狂信的なトロツキスト」とみていたことを示す文書が見つかっている。現に、オーウェルの戦友だった英国の青年は1937年6月に獄死している。

オーウェルは1937年5月、別の理由で死にかけた。バルセロナから戦場に戻ってまもなく、ファシスト軍の銃弾が首を貫いたのだ。動脈からずれていたことで一命をとりとめた。このあと療養施設で過ごした後、国外へ出る。列車に乗れたのは6月23日。共和国政府は6月16日にPOUMを非合法化していたから、間一髪で難を逃れたことになる。スターリン体制に対する警戒がオーウェルの皮膚感覚に根づいたとしても不思議はない。

本書でオーウェルのスペイン体験を知ると、彼は『動物農場』『一九八四年』でディストピアの社会主義を描きながらも、ユートピアの社会主義に対する思いは捨てなかったのだろうと推察される。それが、どんな理想郷なのか。次回もまた、本書を読む。
*1 当欄2022年6月24日付「オーウェル、嘘は真実となる
*2 当欄2022年7月1日付「オーウェル、言葉が痩せていく
(執筆撮影・尾関章)
=2023年11月24日公開、通算705回
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ノーベル物理学賞、踊り場の年に

今週の書物/
ノーベル賞発表資料(物理学賞、2023年)
スウェーデン王立科学アカデミー

ノーベル週

発表前》
今年のノーベル賞発表が進行中だ。すでに生理学・医学、物理学、化学、文学の4賞が決まった。今夕、平和賞の発表があり、来週初めには経済学賞も決定する。ただ私は、この日程に先立って今、受賞者がだれひとり決まっていない時点で本稿を書いている。

本稿の後段では、視点を現時点に戻す。賞の選考結果を見て、その発表資料を読み込むつもりだ。ノーベル賞理系部門の発表資料は、科学研究を私たち一般人がどう受けとめたらよいか、そのヒントを与えてくれる。今年もそれを味わうことにする。

事前事後2段階の執筆を思いついたのには訳がある。私は新聞社の科学記者だったころ、ノーベル賞発表前の数週間は心が張りつめていた。発表は日本時間の夜なので、翌朝の新聞に記事を間に合わせるには事前の準備が欠かせない。受賞者が日本人なら人物像や逸話もたっぷり紙面化するからなおさらだ。だから初秋になると、いつも受賞者の予想に思いをめぐらせていた。あのソワソワ感を当欄の作業でも再体験したい。そんな魂胆があった。

私が現役時代、理系3賞のうちもっとも注目していたのは物理学賞だ。物理領域を取材する機会が多かったからだが、科学の動向をみるときの指標になりやすいということもあった。ということで、今回も物理学賞について書く。ただ、私はいま退職の身で、近年どんな研究がもてはやされているかをつぶさには知らない。だから、あの人が受賞しそう、という予想はできない。賞全体の大きな流れについて四方山話風に語ることにしよう。

そんな視点で見ると、今年の物理学賞は踊り場の状態にあると言える。俗っぽい比喩を用いれば、狙っていた「大魚」をひととおり釣りあげた直後ということだ。だから今回は、ほっと一息ついて海を見つめ、次なる釣果を探しているところだろう。

では、その「大魚」にはどんなものあったか。私が真っ先に挙げたいのは、去年の受賞研究「量子もつれ」だ(*1)。アラン・アスペ(フランス)、ジョン・F・クラウザー(米国)、アントン・ツァイリンガー(オーストリア)の3氏が、量子世界では光子(光の粒子)対が「量子もつれ」という強い相関関係をもちうることを確かめ、それがもたらす現象を調べた。量子コンピューター開発のような量子情報科学に道を開いたが、それだけではない。

量子もつれは、私たちがニュートン物理学によって頭に刷り込まれたものとは異なる世界像をはらんでいる。たとえば、状態の重ね合わせ。粒子の状態はAかBかだけではなく、AでもありBでもあることがありうるという。あるいは非局所性。A、Bの重ね合わせにある粒子対の片方がAと観測された瞬間、遠く離れたもう一方がBであることが確定するという。受賞者の研究で私たちの世界像は一変したと言ってよい。

だから、去年の受賞研究は超弩級だった、というのが私の個人的見解だ。私は1990年代にアスペ、ツァイリンガー両氏に対面取材しているので、とくに二人の受賞は待ち望んでいた。それが現実になったことで、今年はある種の虚脱感のなかにいる。

量子研究に対する物理学賞を振り返ると、世紀の変わり目に受賞ラッシュがあった。低温で現れる量子現象の研究が4回(1996年、1998年、2001年、2003年)、低温実験の手法開発が1回(1997年)。量子力学の基礎問題が再び注目されるようになった証しだった。

量子情報科学につながる研究が脚光を浴びたのは2012年だ。状態の重ね合わせを壊さずに保ち、操作する実験に成功したセルジュ・アロシュ(フランス)、デイビッド・ワインランド(米国)両氏が受賞した。それは、「シュレーディンガーの猫」という思考実験で空想される量子世界の不可解さを現実に見せつけるものだった。2012年と2022年の二つの受賞研究によって、量子力学の世界像はもはや疑う余地がなくなった。

「大魚」は量子の分野だけではない。2010年代以降の受賞研究を見てみよう。素粒子分野では、2013年のヒッグス粒子。質量の起源とされる粒子が巨大加速器実験で見つかったのを受けて、その粒子の存在を予言した理論研究者が賞を受けた。2015年には、ニュートリノ質量の発見。受賞者の一人は梶田隆章さんだ。巨大加速器がなくても自然界の観測で素粒子探究の最前線に立てることを示したという点で、物理学の新潮流を代表していた。

宇宙・天文分野では、2011年の受賞研究が宇宙の加速膨張の発見。これは、宇宙の成分表やシナリオを根底から見直すきっかけとなった。2017年には重力波の観測。アルバート・アインシュタインが一般相対論で予言していた時空の波を100年たって検出した。

わかりやすい話では2019年、太陽系外惑星の発見が受賞研究の一つに選ばれている。1990年代半ばまで、惑星は太陽系だけにあると思われていたが、それが覆ったのだ。地球外生命が存在する可能性も強まったわけだから、これもまた世界像を塗りかえる業績だった。

物理学には複雑系科学という分野があり、ここ数十年活発になっているが、ノーベル物理学賞はなぜか関心を示さなかった。ところが2021年に突然、「複雑系の理解に対する画期的な貢献」という授賞理由を掲げ、3氏に賞を贈った。その一人が、気候変動の数理研究が専門の真鍋淑郎さんだ。ノーベル賞が温暖化問題に着眼したことに世間は喝采したが、それだけではない。複雑系科学を正当に位置づけるという課題をようやく果たしたのである。

と、こう書き連ねてくると、物理学賞は諸分野の「大魚」のほとんどを釣りあげてきたと言ってよい。ただ、科学という大湖は広くて深い。私は気づかないでいるが、「大魚」に育ってまもない新顔の重要研究もきっとあるに違いない。発表が楽しみだ――。

発表後》
で10月3日、スウェーデン王立科学アカデミーは今年のノーベル物理学賞を発表した。賞が光を当てたのは「アト秒」。アトとは10のマイナス18乗のこと。時間幅がアト秒単位のきわめて短い光パルスをつくって物質内の電子の振る舞いを調べる手法を開発したピエール・アゴスティーニ(米国)、フェレンツ・クラウス(ドイツ)、アンヌ・ルイリエ(スウェーデン)各氏が受賞した。ここでカッコ内の国名は、所属先の所在地を示している。

発表を聞いて、なるほどと私は思った。アト秒の物理は10年ほど前、欧米の科学誌を賑わせていた。極微の探究はついに時間尺度にも及んだ、という文脈で語られていたように思う。その興奮を私はすっかり忘れていたが、ノーベル賞はしっかり覚えていた。

では、本題の発表資料に入ろう。今回読むのは、報道資料(press release、A4判1枚)と一般向け科学解説(popular science background、同5枚)の2種類。以下の記述では、それぞれ「報道」「解説」と略記する。

一読して気づくのは、物理世界の途方もなさを私たちがなんとなく実感できるよう工夫していることだ。アト秒については「報道」「解説」とも、宇宙誕生から今までの時間、即ち138億年に含まれる1秒の個数が、1秒間が含むアト秒の個数に比肩するとしている。

光パルスがなぜ役立つかでは、「解説」に次の一文がある。「高速度撮影やストロボ光があれば、素早く動く現象も詳細な画像でとらえられる」。パルスがストロボ光の役目を果たすというわけだ。ただ、このたとえはアト秒物理が注目されだしたころからあった。

問題は、十分に短い光パルスをどうつくるかだ。「解説」によると、かつてはフェムト秒(フェムトは10のマイナス15乗)より短くはできないとみられていた。ところが21世紀初め、アゴスティーニ、クラウス両氏が、それぞれ数百アト秒のパルスを生みだす。この成果の土台を築いたのが、ルイリエ氏の1980年代からの研究だった。「解説」は、その手法の要点を簡略な図と明快な文章で説明している。要約すればこうだ――。

レーザー光をガスのなかに通すと、ガスの原子内の電子が外へ飛びだす。電子はレーザー光からエネルギーを貰い、原子内に戻ると、余分なエネルギーを光として放つ。この光は、振動数がもとのレーザー光の整数倍になっている。音楽で言えば「倍音」に当たる。これら「倍音」の光をうまく重ね合わせれば、波の干渉で強めあったり弱めあったりして時間幅がアト秒のパルスが現れる――まるで光の手品のようではないか。

科学の醍醐味の一端が、この発表資料からは感じとれる。私たちは資料執筆者の筆力に導かれ、科学者の思考を追体験できるからだ。これも、ノーベル賞の効用だろう。

アト秒の物理は、当欄の関心事である時間論とも関係している(*2*3)。だから、これからも目が離せない。今年の物理学賞は、私に大事な宿題を思いださせてくれた。
*1 当欄2022年10月7日付「量子もつれをふつうの言葉で語る
*2 当欄2023年5月5日付「時間がない』と物理学者は言った
*3 当欄2023年5月12日付「時間の流れを感じる物理学
(執筆撮影・尾関章)
=2023年10月6日公開、通算698回
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村上春樹の90年代サバービア体験

今週の書物/
『やがて哀しき外国語』
村上春樹著、講談社文庫、1997年刊

円が強かった

私が初めて日本列島を離れたのは1984年のことだ。33歳の夏だった。農業分野のバイオ技術を取材するために欧州各地を回った。あのころは新聞社の懐事情も潤沢で、出張の日数はひと月半に及んだが、それでもやはり、旅は旅に過ぎなかった。

たとえば、ドイツ(当時は西ドイツ)・ケルンの食堂で昼食をとったときの話。「本日のメニュー」を頼むと、卵の黄身が5~6個連なる巨大な目玉焼きが運ばれてきた。ドイツ人はこんな豪快な卵料理を食べるのか――。ただ後日、この話をドイツ通の先輩にすると、そんなものは見たこともないと笑われた。せいぜい2~3個並べるだけらしい。あれは店主の思いつきだったのか。旅人は旅先で偶然出あったものを地元の文化と勘違いする。

海外文化をある程度は齧ったかなと私が思ったのは、1992~1995年に英国ロンドンで暮らしたときだ。毎朝、同じバスや電車に乗る、職場では現地スタッフの日常を垣間見る、夕刻には馴染みのパブでビールを飲む。その繰り返しが、見たもの聞いたものから偶発の要素をそぎ落とし、地元の人々が身につけている思考様式や行動様式を紡ぎだしてくれる。外国には住んでみなければわからないことがたくさんある、とつくづく思った。

外国が本当はどんなものかを日本人の多くが知ったのは1990年前後ではなかったか。当時は日本経済が強かったので、欧米に対しても引け目を感じないようになっていた。そのせいか、海外生活者の間に異文化を突き放して論評する余裕が生まれたのだ。

で、今週の一冊は『やがて哀しき外国語』(村上春樹著、講談社文庫、1997年刊)。本書は、著者が1991~1993年、米国東部の大学町ニュージャージー州プリンストンで暮らした日々をエッセイ風に綴った16編の文章から成る。1992~1993年に講談社のPR誌「本」に連載されたものが初出。単行本は1994年に同社が刊行している。著者はそのころ40代半ば。長編小説『ノルウェイの森』(1987年)ですでに人気作家になっていた。

このプリンストン住まいも、著名作家だからこそ実現したようだ。巻頭「はじめに」によれば、著者が米国人との雑談でプリンストンのような「静かなところ」で作家活動をしたいと漏らしたら、プリンストン大学が家まで用意して招待を申し出たという。

著者は巻末「あとがき」で、執筆にあたっては米国社会について「少し引いたところから時間をかけていろんなことを考えてみたかった」と打ち明けている。理由は、そこに自分が「一応『属して』生活している」からだ。著者には、本書よりも早く世に出した『遠い太鼓』という欧州滞在記があるが、そちらは「旅行者の目」でものごとを見ていた。それに対して、このプリンストン便りは居住者の視点に立っていることを強調している。

16編のうち、私がついつい引き込まれたのは「大学村スノビズムの興亡」。著者が「トレントン・タイムズ」という地方紙を定期購読している話が出てくるからだ。トレントンはニュージャージー州の州都で、プリンストンからは車で20分ほど。この新聞は地元の「奇妙な出来事」や「細かい事件」をとりあげ、火事や交通事故も1面トップで扱う。「読んでいると、その辺にいる普通のアメリカ人の暮らしぶりが少しずつわかってくる」という。

ちなみに著者は、「ニューヨーク・タイムズ(NYタイムズ)」も併読しているが、それは土曜日曜だけ配ってもらうというとり方にした。書評やテレビ番組の紹介、レジャーやアートの記事がたっぷりあり、これで「だいたい十分」と判断したわけだ。

ここで著者は、「僕の知っているプリンストン大学の関係者」の愛読紙について書く。それによると、だれもが「NYタイムズ」を毎日読んでおり、「トレントン・タイムズ」はとっていない。自分が「トレントン…」の定期購読者だと告白すると「あれっというような奇妙な顔」をされ、「NY…」を毎日はとっていないと言うと「もっと変な顔」になる。米国社会の知識人層が1990年代にどうであったかがまざまざと見えてくるくだりである。

「スティーヴン・キングと郊外の悪夢」という一編は、米国社会のゆとりを象徴する「平和なるサバービア(郊外地)」の暗部に焦点を当てる。プリンストンは、まさにサバービア。その「平和」ぶりは新聞ダネを見てもわかる。たとえば、大学内の自転車泥棒。あるいは、著名作家が被害者となる追突事故。後者の記事には、作家が「やれやれ」という表情で車の脇に立つ写真が載っていたそうだから、深刻な事故ではなかったらしい。

ところが、そんなサバービアにも「事件」が起こる。プリンストンに住む女性が、ホラー作家スティーヴン・キングの『ミザリー』は自分の作品だと言い張り、キングに手紙を書きつづけて、ついにはキングを告訴したというのだ。著者は、その騒ぎを新聞報道に沿ってたどる。この女性は「ちょっと変な人」というのが著者の見方だ。当欄は又聞きの又聞きをなぞるわけだから断定は控えるが、私もキングが盗作したようには思えない。

この騒ぎは思わぬ副産物を生みだした。米東部メイン州にあるキング邸でキングの妻が偽物の爆弾によって脅されるという事件が起こったのだ。幸い妻は逃げ、犯人の男性は捕まったが、彼は「叔母」の作品が盗まれたから犯行に及んだ、と説明した。ところがプリンストンにいるくだんの女性は、自分にはそんな甥はいないと一蹴して、爆弾騒動は「キングが仕組んでやった狂言」「自己宣伝のためにやったこと」と八つ当たりした。

この件では、例の「トレントン・タイムズ」も奮起した。フロリダ州にいる女性の叔父に電話をかけ、偽爆弾男と同一名の人物が親類にはいないことを証言してもらったのだ。地元の「奇妙な出来事」を執拗に追いかける地方紙の面目躍如というところだ。

新聞報道によれば、キング側の弁護士はこの女性を「フラストレイティッド・オーサー(芽の出ない作家)」とみている。偽爆弾男も『ミザリー』の続編を自分が書こうとの野心があったようなので、やはり「芽の出ない作家」の部類に入るというのが著者の見立てだ。

さて、ここで著者のサバービア論を紹介しよう――。米国の郊外住宅はとにかく広大だ。敷地が400~500坪はざらで、車寄せの道は長く、芝の前庭は広い。そこに地縁のない人々が住みつくのだから「何かしら深い孤独感、孤絶感のようなもの」が漂っている。この地域社会では「ごく普通のおばさん」に見える隣人が「ベストセラー作家への脅迫の手紙をせっせと書きつづけている」としても気づかない。サバービアには、そんな怖さがある。

実際、サバービアには「フラストレイティッド」(frustrated)な空気が淀んでいるのだろう。挫折してイライラした、という感じか。この一編には「芽の出ない作家」だけでなく、「エリート弁護士のふりをした銀行強盗」の話も出てくる。近隣の町に住む「ヤッピー風」の人物は、弁護士でありながら本業の不振で強盗稼業に手を染め、逮捕劇のさなかに銃撃を受けて死んだという。こんな現実を「サバービア的な悪夢」と著者は表現する。

著者によれば、米国社会には郊外に車2台を置けるガレージ付きの家を手に入れれば「人生は一応あがり」(太字部分に傍点)という共通認識があった。私たちが1960年代、米国製ホームドラマで見せつけられた生活風景だ。だが、その「アメリカの夢」は「もうだんだん通用しなくなっている」。逆に疼いているのが「サバービア的な悪夢」だ。「今のアメリカの中産階級が心の底で感じているある種の不安」がサバービアにはあるという。

2023年の今、米国社会で「夢」はとうに瓦解し、「不安」が現実のものになっているのではないか。郊外の住宅地は物理的には残っても心理的に変質し、そこに住む人々からゆとりを奪っているのだろう。分断社会の過酷さも、そのことに一役買っているように思う。

1990年代、その予兆を日本人居住者が感じとっていた。その人が作家ならではの観察眼をもっていたこともあるだろう。だが、それだけではない。私たちはあのころ、米国社会を対等目線で見るようになり、ホームドラマの幻影にもう惑わされなかったのだ。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年9月15日公開、同月19日更新、通算695回
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8・12の回想を歴史にする

今週の書物/
『墜落の夏――日航123便事故全記録』
吉岡忍著、新潮文庫、1989年刊

鎮魂の日々

先週のまくらでも書いたように、日本の8月は鎮魂の空気に包まれる。6日、9日は原爆投下の日、15日は終戦の日。これらはいずれも1945年の出来事だった。すでに近現代史の1ページであり、だからこそ記憶の風化が懸念されている。これに対して、12日の日航ジャンボ機墜落事故は終戦の40年後、1985年に起こった。まだ、歴史ではないと思ってきたが、本当にそうか。今30代半ばより若い人は、すべて事故後に生まれている。(*1

で、今週は1985年を歴史の軸に位置づけ、その視点であの事故をとらえ直してみよう。

1945年を起点に日本戦後史を復興期→高度成長期→バブル期→バブル崩壊期……と区分けしていくと、1985年は、高度成長期が1973年の石油ショックで終わり、しばらく緩やかな成長が続いた後、1980年代後半のバブル期に突入しようとしていたころだ。

私は30代半ば。新聞社に勤めて8年が過ぎたころだったが、給料は毎年、前年を上回っていたように思う。右肩上がりの時代だった。当時は大阪本社勤務で、夜も北新地界隈を飲み歩くことが多かった。近くの道路には酔客目当てのタクシーがぎっしり並んでいた。

当欄は今春、上岡龍太郎さんの死を悼む拙稿で、1980年代半ばに関西圏で放映されていた深夜番組「ぼくらは怪しいサラリーマン」(毎日放送)のことを書いた(*2)。「最終電車でジャンケンポン」というコーナーは、終電の時間帯、駅頭で酔客らしい二人にジャンケンしてもらい、勝者には高級ハイヤーに乗って帰る権利を与えるという趣向だった。当時のサラリーマン生活では、会社の仕事と夜の飲み歩きが一体だったことがわかる。

そういえばあのころは、サラリーマンという言葉がふつうに使われていた。その裏返しで、女性事務員はOL(オフィスレディ)と呼ばれたものだ。1985年は男女雇用機会均等法が定められた年だが、職場の主戦力は男たちである、という固定観念が拭い難くあった。大手企業のほとんどは終身雇用制をとり、社内人事では年功序列が重視されていた。そこには、戦後昭和の枠組みがある。高度成長期をそのまま引きずっていたといってもよい。

ただ、変化もあった。たとえば、町にフランチャイズの店がふえたことだ。ファストフード店、ファミリーレストラン、コンビニエンスストア、百円均一の店、衣料量販店……。この大波にのまれるように商店街から個人商店が消えていき、町の風景はのっぺりしてしまった。ただ、フランチャイズ店の商いは概して価格帯が手ごろだ。皮肉なことに、そうした店がふえることでバブル崩壊後の暮らしの基盤が用意されていたともいえる。

1980年代は日本人が国際化した時代でもあった。今、JTB総合研究所のウェブサイトを開くと、日本人出国者数の推移がグラフ化されている。1980年代に急増、1986年に年間500万人に達して1990年には1000万人を突破した。高度成長期には考えられなかった規模感だ。戦後、為替レートは1ドル=360円の時代が続き、1ドル=308円の過渡期を経て1973年に変動相場制になった。日本人が大挙して海外に飛び出た背景には強い円があった。

国際化は外国旅行だけではない。経済もグローバル化した。資本や労働力の移動に対して国境の壁が低くなったのだ。1980年代は日本企業が海外へ進出することばかりが目立ったが、逆方向の流れが起こるリスクもあのころに抱え込んだように思う。

こうしてみると、1980年代半ばの日本社会は高度成長期を抜け出て、次の時代に入る移行期にあった。だが当時、私たちには見抜けなかったことがある。一つには、右肩上がりが突然途絶したことである。数年後、その見通しの甘さを痛いほど思い知らされる。

それだけではない。私たちは次の時代がどんなものになるかを思い描けなかった。1985年の時点で、10年後にインターネット元年が到来してネット社会が出現すると予言できた人がどれだけいただろう。四半世紀後に電車の乗客がそろってスマートフォンに指を走らせる光景を想像できた人がどれほどいただろう。今やモノのやりとりよりも情報のやりとりのほうが一大関心事となり、後者が新しい価値を次々に生みだしている。

1985年をひとことで表現すれば、私たちの先行世代が高度成長の時代を駆け抜けた後の踊り場ではなかったか。石油ショック後のなだらかな成長期でバブルの気配は漂っていたが、次の展開は1990年代まで見えてこなかった。バブル経済の崩壊しかり、ネット社会の幕開けしかり。私たちはそれを予感できず、高度成長の遺産がもたらす恩恵に浴して、のほほんとしていたのだ。そんなとき、あのジャンボ機の機影が消えた――。

で、今週も『墜落の夏――日航123便事故全記録』(吉岡忍著、新潮文庫、1989年刊)を読む。焦点を当てるのは先週同様、第3章「ビジネス・シャトルの影」だ。そこには、事故機の乗客509人の統計的な分析も詳細に書き込まれている。これは、毎日新聞(1985年9月12日朝刊)が、123便の乗客やその家族の全体像を記事にしたものを出典としている。そのデータからも、日本社会が1985年にどんな位相にあったかが浮かびあがってくる。

乗客の職業をみると、事故機が東京発大阪行きの夕方の便ということを反映して、日本経済の主力ともいえる人々が多数を占めていた。「企業経営者」31人、「会社役員」42人、「管理職もふくめた男女一般社員」219人、「自営業者」15人……企業のトップを含む経営陣が1割強を占めている。この客層は、著者が空港ロビーに見いだした「新しさのざわめき」や「陰影のない照明」が醸しだす高揚感と波長がぴったり合っている。

出張の行き帰りが多かった。単独で乗っていた「会社員」のうち、出張中は133人。内訳をいえば、関西方面へ向かう人が32人、東京方面から帰る人が101人だった。

興味深いのは、乗客たちが携わっていた仕事の領域だ。本書の文言を使えば「ビジネスマンたちの業種」だ。まだ、ビジネスパーソンという言葉は定着していなかった。著者が順不同で並べた「業種」は「ガラス、製麺、繊維、化粧品、食品、銀行、家具、精密機器、リース業、レジャー開発……」。すぐ気づくのは、今でいうIT関係がほとんどないこと。わずかに「コンピュータ」という項目があるくらいだ。まだ、情報よりモノの時代だった。

乗客には、夏休みということで観光客も101人いた。このうち76人は、東京ディズニーランド(浦安市)とつくば科学万博(つくば市)の両方、もしくは片方を楽しんで家路についていた人だった。こうしてみると、観光にもどこか高揚感があった。

本書は、墜落直前の機内を1985年の世相に照らしあわせている。著者は取材で、この便に客として乗っていた客室乗務員職の女性生存者から話を聞いていた(第2章「三十二分間の真実」)。その証言によれば、救命胴衣は非常口を出てから膨らますものなのに機内で膨らませてしまう乗客が何人かいたという。あわててしまったのだ。著者が座席番号から割りだすと、一流企業の「ビジネスマン」ばかりだった。企業戦士もまた人間だったのだ。

著者は人間に希望も見ている。たとえば、この女性生存者の隣席にいた男性Kさん。彼女とともに、救命胴衣を今は膨らまさないよう周りに呼びかけ、彼女が、もしものときは乗客避難に力を貸してほしいと頼むと「任せておいてください」と応じた。Kさんは40歳、東京に単身赴任中の建設会社員だった。著者は、そこに「冷静なだけではない品位」をみて「一人ひとりの実質がむきだしにされるときも、輝くものを失わない人がいる」と書く。

最後の32分間には乗客5人が遺書を残した。手帳に「どうか仲良く/がんばって/ママをたすけて下さい」、ノートに「しっかり生きろ」「立派になれ」、時刻表に「死にたくない」、紙袋に「子供よろしく」、社名入り封筒に「みんな元気でくらして下さい」……これら「ぎりぎりの言葉」や「愛と惜別の言葉」を読んでいて、著者は一つのことに気づく。「〈ビッグ・ビジネス・シャトル〉のなかでは、乗客のだれも仕事のことを書き残さなかった」

今年も8月12日がめぐってくる。私たち戦後生まれは、この出来事を後続世代に語り継がなければならない。事故が、ふわふわした高揚感のある時代に起こったということ、その惨事にも、人間は捨てたものではないと思わせる事実が潜んでいたということを――。
*1 当欄2023年8月4日付「812に戦後史の位相を見る
*2 当欄2023年6月9日付「上岡龍太郎の筋を通す美学
☆引用箇所にあるルビは原則省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年8月11日公開、通算690回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

8・12に戦後史の位相を見る

今週の書物/
『墜落の夏――日航123便事故全記録』
吉岡忍著、新潮文庫、1989年刊

鎮魂の日々

鎮魂の夏がやって来た。8月といえば6日、9日、15日と、先の戦争の被爆犠牲者、戦没者、銃後の死者に思いを馳せる機運が高まる。三つの日付を読み込んだ俳句もあり、類似句がいくつも出てきている()。当欄も8月には関心がそこに向かい、戦争がらみの本を読むことが多かった。ただ忘れてならないのは、8月にはもう一つ、鎮魂の日があることだ。1985年8月12日、日航ジャンボ機が群馬県山中に墜落、520人が生命を落とした。

あの日、私は何をしたか。ここでは、そのことを正直に打ち明けなければならない。当時、私は新聞社の大阪本社科学部に在籍していた。私の記憶では、午後7時のNHKニュースが終わる間際、松平定知アナウンサーが緊急ニュースとして「日航機の機影が消えた」という第1報を伝えた。そのとき私は部内にいたので、編集局全体が騒然となるのがわかった。記者の習性として、自分もなにかしなくてはならないと思った。

こんなとき、科学記者が真っ先に手をつけるべきは、遭難したと思われる航空機について記事を用意することだ。第1報によれば、機種はボーイング747だという。愛称ジャンボ機だ。ジャンボ機がどれほど巨大であり、工学面でどんな安全策がとられているか。それらのデータを過去記事などの資料をもとにまとめなくてはならない。だが、科学記者3年目の若輩にその役目は回ってこなかった。社会部の応援に回されたのである。

命じられた仕事は、乗客の関係者に電話をかけることだった。遭難は確からしいが、墜落の情報はなく不時着の可能性もある。安否を気遣う気持ちを関係者から聞きだし、乗客の旅がどんなものだったかについても聞ける範囲で聞く――そんな指示を受けた。

今ならばありえない取材だ。航空会社が遭難の時点で直ちに乗客名簿を公表することは、今はないように思う。ところが当時は、名簿が大まかな住所付きで公開された。新聞記者は電話帳でそれらしい番号を探しだし、手当たり次第に架電した。関係者は藁をもつかむ思いで最新情報を求めていたから、新聞社からの電話でも拒むことなく応じてくれた人が多い。家族や友人の心を不用意に波立たせた罪は深かった。今もなお、心が痛む。

個人情報尊重の機運は今ほど高まっておらず、個人情報保護の規制も緩い時代だった。メディアは、実名報道を基本とするジャーナリズムの原則をひたすら主張していた。あれから38年、私たちの価値観は変わった。情報の扱い方にかかわる企業やメディアの行動原理だけではない。人々の生活様式や思考様式も一変した。この視点に立って8・12を回顧することは意義深い。今夏は機を失しないよう、もう一つの鎮魂に思いをめぐらせる。

手にとったのは、『墜落の夏――日航123便事故全記録』(吉岡忍著、新潮文庫)。事故の1年後、1986年8月に新潮社が出した単行本を1989年に文庫化したものだ。なお、本書本文には、著者が「新潮45」誌で発表したルポルタージュも組み込まれている。

著者は1948年生まれのノンフィクション作家。学生時代はベトナム戦争に反対する市民運動の活動家だった。作品のテーマは教育や技術化社会にも及んでいる。本書は1987年、講談社ノンフィクション賞(現・講談社本田靖春ノンフィクション賞)を受けた。

本書は六つの章から成る。第1章「真夏のダッチロール」、第2章「三十二分間の真実」は日航ジャンボ機墜落事故そのものの実相に迫っているが、第3章以降では事故を多角的な視点でとらえ直している。たとえば第4章「遺体」は、遺体収容や身元確認に焦点を当てた。第5章「命の値段」は補償をめぐる保険業界の動きを追った。そして第6章「巨大システムの遺言」は、航空機を一つのシステムとしてとらえ直している。

そんななかで異彩を放つのは、第3章「ビジネス・シャトルの影」だ。ざっと読むと、墜落事故に直結しない話が書かれている。とくに章の前半では、羽田空港ロビーと空港周辺地域の空気感を比べている。興味深いのは、その対比によって戦後日本社会が1985年の時点でどんな位相にあったかが浮かびあがってくることだ。これもまた、あの事故が私たちに突きつけた現実にほかならない。ということで当欄は今回、第3章の前半に的を絞る。

第3章冒頭の一節は、空港ロビーの描写だ。そこには「新しさのざわめき」があり、「明るく、陰影のない照明」がある。床面には「硬質の輝き」、周りには「先端のテクノロジーの気配」。売店の新聞や雑誌は「最新の話題」を発信し、乗客たちは「もう飛行機を降りた先のことを考えている」。場内に流れる「くぐもった音調のアナウンス」も、乗客の心を煽っているように聞こえる。前のめり感があふれる特別な空間なのだ。

これは、今も言えることかもしれない。私はごく最近、ある空港の国内線搭乗口で出発を待つ間、同様の印象を受けた。周りに、スマートフォンの電話で会社の同僚と仕事談議に没頭する人がいても違和感がなかったのだ。昨今は業務連絡をメールで済ますことが多いが、空港には電話を多用するビジネスパーソンがいる。自分の肉声が会社を動かしていると自負する人が、ここには結構いるのではないか。これもまた、一つの前のめり感である。

「新しさ」「陰影のない」「硬質」「先端」……これらの言葉が似合うのが現代の空港だ。だがときに、それが虚構に過ぎないことに気づかされる瞬間もある。著者はここで、自身が米国西海岸の空港で出あった光景をもちだす。ロビーにはアジア系の難民らしい家族がいたが、一家が立ち去った直後、近くの乗客が声を発して立ちあがった。遠くの席へ避難した人もいる。磨きたての床面に幼子のものと思われる固形排泄物が残されていたのだ。

空港の「新しさ」「陰影のない」「硬質」「先端」……を演出するのは、床面の「ぴかぴか」に象徴される「清潔感」だろう。だが一皮剥けば、そこも人間という生きものの生息空間にほかならない。著者は、ジャンボ機墜落事故を描くときもこの一点にこだわる。

本書は、この視点に立って考察の対象を空港の外にも広げている。空港周辺には倉庫や工場が建ち並び、水路に土砂やゴミの運搬船が行き交う。著者は、その町を歩いてみる。

1985年11月、この地域では女子中学生の飛び降り自殺という不幸な事件が起こった。マンションのベランダに残されたメモによれば、少女は女子のツッパリ集団から「舎弟」となるよう迫られたのだという。著者は、「舎弟」の一語に引っかかる。「最新のテクノロジーを駆使した空港施設に隣接する街区」にふさわしくないと思えたからだ。「先端のビジネスマン」が集まる空間の足もとで、少女たちが「舎弟」などと言いあっているとは。

著者は、その違和感に吸い寄せられる。少女の中学校は「空港ロビーから徒歩で二十分ほどの距離」にあった。著者は「高速道路やモノレールから見える巨大な電飾看板」の裏面を見あげながら学校方面へ向かう。電柱に「旋盤工員」や「女子パート」の求人広告。商店街はなく工場、また工場。その屋根越しに機影が見える。「中学校があるどころか、人が住んでいることすら信じられなかった」が、やがて高層住宅群や低層アパートが姿を現した。

中学校は下水処理場の工事現場に面していた。現場を取り囲む塀には、処理場完成後の風景がペンキで描かれている。水路の水は青々として、魚やエビが飛び跳ねている。高速道路やモノレール、空港ビルの向こうには青空が広がり、ジャンボ機の飛び立つ姿も。いかにもありそうな未来図だ。そこに「豊かで潤いのある生活環境をつくる下水道」の標語が……。「しかし、このあたりの町並は、標語を裏切っていた」と、著者は率直に書く。

著者の観察結果を要約すればこうだ。高度成長末期、工場地帯の敷地に空きができて集合住宅が建ち並んだ。それは首都圏への労働力流入の受け皿となったが、町は未成熟のままだった。あふれ返るのは、住人たちのクルマくらい。空疎な標語ばかりが目につく――。

東京と大阪を結ぶ日航123便の墜落は、ビジネスパーソンを大勢乗せていたということで日本社会の最先端を襲った惨劇だった。だが、その最先端は、高度経済成長が放置した社会の歪みと隣りあわせでもあった。来週も引きつづき、本書のこの章を読もう。
* 「本読み by chance」2016年12月9日付「俳句に学ぶ知財の時代の生き方
☆引用箇所にあるルビは原則省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年8月4日公開、通算689回
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