今週の書物/
『ポエマー』
九島伸一著、思水舎、2021年刊
驚くべき書物がわが家に届いた。友人が、このコロナの1年間に書きとめた言葉や、書き込んだ文章を約300ページにまとめたものだ。『ポエマー』(九島伸一著、思水舎、2021年刊)。執筆から装丁まで、本づくりの作業を一から十まで自分でこなしたという。
封を開けて痛感したのは、本とはブツにほかならないということだ。私も最近は電子書籍を読むが、紙の本にはそれにはない物体としての存在感がある。なによりも重さと質感。これは電子書籍に真似ができない。しかもこの本は、紙の色が1ページずつ違う。縦書きのページがあれば、横書きのページもある。書体もゴチック風あり、明朝風あり、手書き風ありで、まちまちだ。本がブツであることをさまざまなかたちで主張している。
前書きとも言える「ポエマー」という文章――。「文字は 紙の上で跳ね 弾み 主張して/なかなか落ち着きを見せなかった」と書きだされ、「和の色を併せてみると/文字は色に馴染み」……と続く(/は改行、以下も)。そのあとの2行がいい。
文字には色が必要だったのだ
僕に君が必要なように
書名「ポエマー」は、詩人もどきを指す和製英語だ。ニコニコ大百科によれば、「こっ恥ずかしい」文章を「詩」と称してネットに公開する人を、そう呼ぶらしい。九島さんは、この前書きを「僕は詩人だ ポエマーではない」という絶叫で結んでいるが、その実、自身の内なる「ポエマー」に気づいているようだ。だからこそ、書名に選んだのだ。「僕に君が必要なように」から、私は1960年代のグループサウンズの空気を感じとった。
ここでまず、著者九島さんを紹介させていただこう。1952年生まれ。国連職員を30年間、ジュネーブなどで務めた。2012年の退職後は、豊富な読書経験をもとに『情報』(幻冬舎メディアコンサルティング、2015年)、『知識』(思水舎、2017年)を出版、2018年には『義政』(九島伸一著、幻冬舎メディアコンサルティング)という歴史小説風の著作を出した。(「本読み by chance」2018年4月20日付「歴史のはぐれ者に現代の思いを託す」)
で、いよいよ中身に入る。ただ、いつもとは違う。正直に告白すると、私はまだ全編を読んでいない。いや、これからも1ページから始めて294ページまで読み抜くことはないだろう。これは、そういう本ではないのだ。ある日、ぱらぱらとめくって目にとまったページに付箋を貼り、そこにある言葉を味わう。別の日、またぱらぱらとやり、別のページの別の言葉に付箋――そんな読み方があってよい。そんな読み方にふさわしい本もある。
いきなり、ぱらっと22ページを開いて驚くのは、詩でも、詩もどきでもなく、年表が出てくることだ。足利義政が東山殿(後の銀閣寺)を造営中の1483年から2022年までの満539年を77年ごとに区切っている。おもしろいことに、この切り分けだと1868年から1945年まで、即ち明治元年から昭和20年までが一つの時代区分にぴったり収まる。「強引な近代化を行い、軍事大国になっていったが、敗戦ですべてが水泡に帰した」とある。
著者は、この年表に未来までも引っ張り込んだ。再来年2023年から世紀末2100年までの77年間に「貧者の反乱 ナノボットの暴走 遺伝子操作の破綻など、人間の力が弱まっていった」と予言する。そうか、私たちは一つの時代の一歩手前にいるのだ。
49ページにも硬派の話。「統計データを使って導き出される結論は/思惑と欲望で穢れているし/シナリオ通りに使われるデータは/こざかしい予定調和で 輝きを失っている」。まったく、その通り。ニュースを見ていると、そう感じる論法がなんと多いことか。
著者の統計観は奥深い。「統計データを眺めていると/変化を表す必然と なにかの事情と偶然が/入りまじっているのが 見えてくる」。ここでは「事情」と「偶然」が曲者だ。統計のその成分がもっともらしく結論めいたものを引きだすが、騙されてはいけない。
ぱらっと、次は86ページ。茶色系統の紙にわずか7行が縦書きで並ぶ。男が店に入って、アルコール消毒液をシュッとやる。「これは儀式のようなもので」。それに応える女将の声が店の奥から聞こえる。「気休めよ」。で、「僕」は思う。「気休めの儀式か」
108ページは黄色い紙に12行。こちらは横書きだ。散歩の途中、畑仕事をしていた老人から「この辺りは海だった」という話を聞く。遺跡はあるが、それは海になる前のものばかり。「海だった頃には人が住んでいなかったから/その頃の遺跡はない」――不在の痕跡はない、ということか。「研究者たちの論文より/その老人の言葉のほうが/本当のように聞こえるのは/なぜだろう」。このページでは、海にかかわる記述箇所で文字が青くなる。
213ページに飛ぼう。「監視社会」がテーマだ。それは「暗黒」と思われてきたが、そこで「監視されている人々」は「暗黒とは程遠い暮らし」を享受している。「監視のためのテクノロジー」が「キャッシュを持たない暮らし」や「犯罪者がすぐに見つかる安心」をもたらし、健康管理までしてくれるのだから「見張られるなんて」「なんでもない」――これは反語ではあろうが、コロナ禍の今、棘のように心に突き刺さる。
249ページには、同じテーマについて著者の真意と思われる懸念が書き込まれている。ある大企業が公表したAI(人工知能)時代の人権擁護ポリシー(指針)を読んで、偽善を感じた体験から話は始まる。「顔認証ひとつとっても/プライバシーを侵害しない顔認証システムなんて/ありえない」と指摘して、このポリシーは「いったいなんなのか」と問う。技術の本質がはらむ危うさを美辞麗句で言い繕うな、ということだろう。
このページでは、AIの話を情報技術一般へ広げていく。たとえば、モノのインターネットIoT(Internet of Things)。機器類がネットワークにつながる、という技術である。「カメラやセンサーが/ありとあらゆるところにあって/その数が人の数よりはるかに多い/という現実の前では/IoTと人権のことは/もう誰も話すことができない」。逃げ場のない世界を先に用意しておいて、さあ人権について語ろうと言われても空しい、と私も思う。
ブロックチェーンやビッグデータの話も出てくる。ネットの向こうに仮想の台帳があり、自分が1滴の水となる巨大貯水池のようなデータ貯蔵庫があるのだから、人権という概念そのものが揺らいでいる。その現実に目をつぶるな、という著者の声が聞こえるようだ。
著者は、この本でいろいろな嘘を暴いている。それは、ぱらぱらめくりで私が偶然に開いたページからだけでもわかる。嘘の多くは、この1年のコロナ禍ではからずも化けの皮をはがされたものであるように私は思う。著者はやはり、ただのポエマーではない。
最後に余談。私が惹かれるのは173ページ。「東京には崖線という/川や海の浸食でできた/崖の連なりが/あちらこちらにある」――著者がここで描く風景を、私もこよなく愛してきた。たまたま、そのことに因む話を書こうと思っていたところだ。来週はその話題を。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年4月16日公開、同日更新、通算570回
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