コロナ時代の嘘をあばく本の質感

今週の書物/
『ポエマー』
九島伸一著、思水舎、2021年刊

付箋

驚くべき書物がわが家に届いた。友人が、このコロナの1年間に書きとめた言葉や、書き込んだ文章を約300ページにまとめたものだ。『ポエマー』(九島伸一著、思水舎、2021年刊)。執筆から装丁まで、本づくりの作業を一から十まで自分でこなしたという。

封を開けて痛感したのは、本とはブツにほかならないということだ。私も最近は電子書籍を読むが、紙の本にはそれにはない物体としての存在感がある。なによりも重さと質感。これは電子書籍に真似ができない。しかもこの本は、紙の色が1ページずつ違う。縦書きのページがあれば、横書きのページもある。書体もゴチック風あり、明朝風あり、手書き風ありで、まちまちだ。本がブツであることをさまざまなかたちで主張している。

前書きとも言える「ポエマー」という文章――。「文字は 紙の上で跳ね 弾み 主張して/なかなか落ち着きを見せなかった」と書きだされ、「和の色を併せてみると/文字は色に馴染み」……と続く(/は改行、以下も)。そのあとの2行がいい。

 文字には色が必要だったのだ
 僕に君が必要なように

書名「ポエマー」は、詩人もどきを指す和製英語だ。ニコニコ大百科によれば、「こっ恥ずかしい」文章を「詩」と称してネットに公開する人を、そう呼ぶらしい。九島さんは、この前書きを「僕は詩人だ ポエマーではない」という絶叫で結んでいるが、その実、自身の内なる「ポエマー」に気づいているようだ。だからこそ、書名に選んだのだ。「僕に君が必要なように」から、私は1960年代のグループサウンズの空気を感じとった。

ここでまず、著者九島さんを紹介させていただこう。1952年生まれ。国連職員を30年間、ジュネーブなどで務めた。2012年の退職後は、豊富な読書経験をもとに『情報』(幻冬舎メディアコンサルティング、2015年)、『知識』(思水舎、2017年)を出版、2018年には『義政』(九島伸一著、幻冬舎メディアコンサルティング)という歴史小説風の著作を出した。(「本読み by chance」2018年4月20日付「歴史のはぐれ者に現代の思いを託す」)

で、いよいよ中身に入る。ただ、いつもとは違う。正直に告白すると、私はまだ全編を読んでいない。いや、これからも1ページから始めて294ページまで読み抜くことはないだろう。これは、そういう本ではないのだ。ある日、ぱらぱらとめくって目にとまったページに付箋を貼り、そこにある言葉を味わう。別の日、またぱらぱらとやり、別のページの別の言葉に付箋――そんな読み方があってよい。そんな読み方にふさわしい本もある。

いきなり、ぱらっと22ページを開いて驚くのは、詩でも、詩もどきでもなく、年表が出てくることだ。足利義政が東山殿(後の銀閣寺)を造営中の1483年から2022年までの満539年を77年ごとに区切っている。おもしろいことに、この切り分けだと1868年から1945年まで、即ち明治元年から昭和20年までが一つの時代区分にぴったり収まる。「強引な近代化を行い、軍事大国になっていったが、敗戦ですべてが水泡に帰した」とある。

著者は、この年表に未来までも引っ張り込んだ。再来年2023年から世紀末2100年までの77年間に「貧者の反乱 ナノボットの暴走 遺伝子操作の破綻など、人間の力が弱まっていった」と予言する。そうか、私たちは一つの時代の一歩手前にいるのだ。

49ページにも硬派の話。「統計データを使って導き出される結論は/思惑と欲望で穢れているし/シナリオ通りに使われるデータは/こざかしい予定調和で 輝きを失っている」。まったく、その通り。ニュースを見ていると、そう感じる論法がなんと多いことか。

著者の統計観は奥深い。「統計データを眺めていると/変化を表す必然と なにかの事情と偶然が/入りまじっているのが 見えてくる」。ここでは「事情」と「偶然」が曲者だ。統計のその成分がもっともらしく結論めいたものを引きだすが、騙されてはいけない。

ぱらっと、次は86ページ。茶色系統の紙にわずか7行が縦書きで並ぶ。男が店に入って、アルコール消毒液をシュッとやる。「これは儀式のようなもので」。それに応える女将の声が店の奥から聞こえる。「気休めよ」。で、「僕」は思う。「気休めの儀式か」

108ページは黄色い紙に12行。こちらは横書きだ。散歩の途中、畑仕事をしていた老人から「この辺りは海だった」という話を聞く。遺跡はあるが、それは海になる前のものばかり。「海だった頃には人が住んでいなかったから/その頃の遺跡はない」――不在の痕跡はない、ということか。「研究者たちの論文より/その老人の言葉のほうが/本当のように聞こえるのは/なぜだろう」。このページでは、海にかかわる記述箇所で文字が青くなる。

213ページに飛ぼう。「監視社会」がテーマだ。それは「暗黒」と思われてきたが、そこで「監視されている人々」は「暗黒とは程遠い暮らし」を享受している。「監視のためのテクノロジー」が「キャッシュを持たない暮らし」や「犯罪者がすぐに見つかる安心」をもたらし、健康管理までしてくれるのだから「見張られるなんて」「なんでもない」――これは反語ではあろうが、コロナ禍の今、棘のように心に突き刺さる。

249ページには、同じテーマについて著者の真意と思われる懸念が書き込まれている。ある大企業が公表したAI(人工知能)時代の人権擁護ポリシー(指針)を読んで、偽善を感じた体験から話は始まる。「顔認証ひとつとっても/プライバシーを侵害しない顔認証システムなんて/ありえない」と指摘して、このポリシーは「いったいなんなのか」と問う。技術の本質がはらむ危うさを美辞麗句で言い繕うな、ということだろう。

このページでは、AIの話を情報技術一般へ広げていく。たとえば、モノのインターネットIoT(Internet of Things)。機器類がネットワークにつながる、という技術である。「カメラやセンサーが/ありとあらゆるところにあって/その数が人の数よりはるかに多い/という現実の前では/IoTと人権のことは/もう誰も話すことができない」。逃げ場のない世界を先に用意しておいて、さあ人権について語ろうと言われても空しい、と私も思う。

ブロックチェーンやビッグデータの話も出てくる。ネットの向こうに仮想の台帳があり、自分が1滴の水となる巨大貯水池のようなデータ貯蔵庫があるのだから、人権という概念そのものが揺らいでいる。その現実に目をつぶるな、という著者の声が聞こえるようだ。

著者は、この本でいろいろな嘘を暴いている。それは、ぱらぱらめくりで私が偶然に開いたページからだけでもわかる。嘘の多くは、この1年のコロナ禍ではからずも化けの皮をはがされたものであるように私は思う。著者はやはり、ただのポエマーではない。

最後に余談。私が惹かれるのは173ページ。「東京には崖線という/川や海の浸食でできた/崖の連なりが/あちらこちらにある」――著者がここで描く風景を、私もこよなく愛してきた。たまたま、そのことに因む話を書こうと思っていたところだ。来週はその話題を。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年4月16日公開、同日更新、通算570回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

ヴェーバー資本主義の精神はどこへ

今週の書物/
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
マックス・ヴェーバー著、大塚久雄訳、岩波文庫、1989年改訳刊

時は金なり

資本主義という言葉ほど、この半世紀でイメージが反転したものはないのではないか。年寄りの思い出話をさせてもらえば、日本社会では高度成長真っ盛りの1960年代、資本主義はフル回転で私たちを豊かにしてくれたわりに良い印象がなかった。

なぜだろうか。すぐに思いあたるのは、あのころはまだ資本主義と対立する社会主義が健在だったことだ。今も、この一対は対義語として成立する。ただ、片方がすっかりかすんでしまった。社会主義と言ってもピンと来ない人がふえてしまったのである。

1960年代は違った。人々の何割かは確実に社会主義の思潮に共感を覚えていた。旧ソ連に代表される社会主義体制を望む人が多かったとは言えないが、勤め人の声が政治経済に反映されて、賃金水準が高まり、福祉制度が整うことには期待感があったのだ。その視点に立つと、資本家は悪役となり、資本主義には負のイメージがつきまとった。この空気感は、社会主義政党の党員シンパのみならず、世の中に広く浸透していたと言ってよいだろう。

例を挙げよう。当時の政界でも保守政治家が多数派だったが、その人たちも自分が守ろうとしているものが資本主義だと宣明することはめったになかった。自らの立場に話が及んだときには、自由主義の擁護者という言葉を好んで使っていたように思う。

思い返せば、私が新聞社に入った理由の一つもそこにあった。1970年代後半の社会には、資本主義を嫌う空気がまだ残っていた。私は、学生運動をしていたわけでもなく、社会主義者だったこともない。それでも、資本主義の手先になりたくないとは思った。新聞社も株式会社なので手先に違いない――実際、「商業新聞」「ブルジョワ新聞」「ブル新」という呼ばれ方もあった――が、相対的に資本主義色が薄いように思われたのだ。

ところが近年は、この空気が一掃された。資本主義と社会主義を見比べると、後者のほうに負のイメージがとりついている。ただそれにしては、資本主義という言葉をあまり見かけない。最近の議論は、なんであれ資本主義を既定のものとして受け入れている感があるので、その前提を言う必要がなくなったようにも見える。むしろ、同じ資本主義の範囲内で、市場万能の新自由主義をとるか、そうでない側に立つかが問われる局面がふえている。

で、今週は資本主義について考える。手にとったのは、必読の書とされる『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(マックス・ヴェーバー著、大塚久雄訳、岩波文庫、1989年改訳刊)。必読と言いながら自分は読んでいなかったことを正直に告白する。

今回、食指が動いたのは、昨秋の当欄で『フランクリン自伝』(ベンジャミン・フランクリン著、松本慎一、西川正身訳、岩波文庫、1957年刊)をとりあげたことによる。米国を独立に導いた政治家であり、実業家であり、理系知識人でもあった人物の立志伝を読んで、ドイツの社会科学者マックス・ヴェーバー(1864~1920)が言う「資本主義の精神」らしきものを嗅ぎとったのである。(2020年11月6日付「フランクリンにみる米国の原点」)

この嗅覚は、的外れではなかった。本を開くと、第一章の「資本主義の『精神』」と題する節で3ページほども費やして、フランクリンの言葉を延々と引用しているのだ。そこには「〈時間は貨幣だ〉ということを忘れてはいけない」「〈信用は貨幣だ〉ということを忘れてはいけない」「貨幣は〈繁殖し子を生むもの〉だということを忘れてはいけない」(〈 〉内は傍点箇所、以下も)……。こんな警句が箇条書きのように並ぶ。

3番目の「貨幣は〈繁殖し子を生むもの〉」に注目しよう。フランクリンは、警句をたとえ話で説明する。5シリングの元手で資金運用を始めると、いずれは100ポンドを手にすることもできる、というのだ。「貨幣の額が多ければ多いほど、運用ごとに生まれる貨幣は多くなり、利益の増大はますます速くなっていく」――資金を複利でふやせば、富は指数関数で膨らむ。なるほど、これは資本主義の醍醐味そのものではないか。

ここでは刺激的に、親豚を殺すことは「子豚を一〇〇〇代までも殺しつくすこと」とも書かれている。少額の貨幣でもそれを生かさなくては、得られるはずの多額の貨幣を「殺し(!)つくす」ことになると説くのだ。運用しないことを怠惰とみなす立場である。

そのフランクリンの思想を、著者即ちヴェーバーはどうみているのか。フランクリンが推奨する「ひたむきに貨幣を獲得しようとする努力」には幸福や快楽を追い求める気配が薄く、そこでなされる営利の活動が「物質的生活の要求を充たすための手段」ではなく「人生の目的」であることを強調する。富をふやす勤勉さそのものに価値を見いだす倫理観と言えよう。これが、やがて資本主義経済を回す原動力となっていく。

著者によれば、フランクリンは、近代社会で貨幣の源は職業人としての「有能さ」にあると考えていた。ここで職業とはドイツ語で言えばBerufであり、そこには「神から与えられた使命」即ち「天職」の意もあるという。こうして、この本の論題も宗教へ移っていく。

この本は中盤で、プロテスタント各派の思想の違いを詳しく述べているのだが、その理解の前提となる知識が乏しいので、この部分についてどうこう言うことは控える。当欄で私が読み込もうと思うのは、第二章第二節「禁欲と資本主義精神」だ。著者は「〈天職理念〉のもっとも首尾一貫した基礎づけを示しているのは、カルヴァン派から発生したイギリスのピュウリタニズム」とみて、これを資本主義に結びつけていく。

英国の清教徒ピューリタンは「富とその獲得」について、どう考えていたのか。一見すると、富の獲得を否定しているようだが、そうではないと著者は分析する。その教えが「真に」不道徳とみなすのは、富の所有にあぐらをかいて「〈休息する〉こと」であり、「富の〈享楽〉」に耽って「怠惰や肉の欲」の虜となることだ、という。休むな、遊ぶな、もっと稼げということか。フランクリンの「時間は貨幣だ」即ち「時は金なり」に通じている。

著者は、ピューリタニズムを代表する神学者リチャード・バクスター(1615~1691)らの文献を漁り、その勤勉志向を見ていく。「時間の損失」として「無益なおしゃべり」や「贅沢」に×印がつくのはわかる。だが、「睡眠」まで指弾される。驚くのは、宗教者なら奨励してもよいはずの「黙想」ですら、批判の対象となっていることだ。「天職における神の意志の積極的な実行に比べて、神によろこばれることが〈少ない〉」との理由である。

ボーッとしていてはダメということか。働くために働くという思想である。著者は、それを「労働」が「神の定めたまうた生活の〈自己〉目的」になっていると表現する。だからこそと言うべきか、バクスターは厳格に「富裕であるとしても、この無条件的な誡命から免れることはできない」との立場をとる。中世スコラ哲学も労働を促したが、「財産によって生活できる者」は適用外だったという。ピューリタニズムは、そこが違う。

「天職」重視は定職の勧めでもある。著者は、バクスターの次の言葉を引く。「確定した職業でないばあいは、労働は一定しない臨時労働にすぎず、人々は労働よりも怠惰に時間をついやすことが多い」。これが、17世紀の論述であることに注目したい。近代前夜、怠惰を嫌う宗教倫理が、資本主義社会の分業化への流れにかみ合ったのだ。いや、それだけではない。その先に、専門職を重んじる現代社会を見通していたようにも思える。

ヴェーバーがピューリタニズムから抽出した資本主義像は、私たちの先行世代が1960年代に経験したことに見てとれる。モーレツに働き、終身雇用制のもとで定職をまっとうする人が多かった。それが21世紀の今はどうか。ワークライフバランスの機運が高まり、転職は珍しくなくなり、「臨時」の働き手に過酷労働のしわ寄せがきている。資本主義が当たり前の時代になったが、それを支えていたはずの精神は現実から遠のくばかりだ。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年4月9日公開、通算569回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

新実存をもういっぺん吟味する

今週の書物/
『新実存主義』
マルクス・ガブリエル著、廣瀬覚訳、岩波新書、2020年刊

自転車

今週は、いつもと異なる趣向で。先日、当欄でジャン-ポール・サルトルの『実存主義とは何か――実存主義はヒューマニズムである』(伊吹武彦訳、人文書院「サルトル全集第十三巻」、1955年刊)をとりあげたとき、その2回目「サルトル的実存の科学観」(2021年2月5日付)に虫さんからコメントをいただいた。「総論賛成、各論反対」「『新実存主義』は私も読みましたが、あの主張が実存主義の進化形とは思えませんでした」というのである。

『新実存主義』は、私が去年春、当欄前身の「本読み by chance」最終回で読んだ本だ(2020年3月27日付「なぜ今、実存主義アゲインなのか」)。ドイツ気鋭の哲学者マルクス・ガブリエルが学究仲間との対話形式で論陣を張った書物である。前述の拙稿「…実存の科学観」では、この1年前の読書体験を呼び起こして実存主義の変遷に言及したのだが、その変わり方を過大に評価したということか。気になって改めて『新実存…』を開いてみた。

まずは、その再読で大失態に気づいた。拙稿「…実存の科学観」で「あの本では、情報科学の神経回路網(ニューラルネットワーク)や人工知能(AI)などが中心的な論題となっていた」と書いたのだが、これは記憶違いによる誤り。ガブリエルはこの本で科学の話題を積極的にとりあげているが、情報科学やAIには踏み込んでいない。ただ、脳の神経回路については論じていた。ということで拙稿を本日付で更新、記述を改める。お詫びします。

で今回、当欄で考えてみようと思うのは、科学の視点でみたときにサルトルの旧実存主義(サルトルには失礼だが、当欄では仮に「旧」と呼ぶ)とガブリエルの新実存主義のどこが違うか、ということだ。その一つは、物質世界をどうとらえるか、である。

新旧の実存主義は、どちらも唯物論にノーを突きつける。だが、その言説には違いがある。「旧」は素朴で牧歌的だ。サルトルによれば、実存主義は「人間を物体視しない」。それのみならず、「人間界を、物質界とは区別された諸価値の全体として構成しよう」との思惑もある。その根底には、絶対的な真理としてルネ・デカルトの命題「われ考う、故にわれあり」が据えられていた。(当欄2021年1月29日付「実存の年頃にサルトルを再訪する」)

これに対して、「新」の唯物論批判は具体論に立ち入って組み立てられる。軸となるのは、心と脳の関係をどうとらえるか、という問いだ。そこには、唯物論者に歩み寄ったようにも見える記述が出てくる。たとえば、「非物質的な魂などありはしない」「私が死後も生き続けることはありえない」……。ちなみにここで「非物質的な魂」とは、物質やエネルギーの関与なしに自然界の因果関係に影響を与える「作用因」だという。

ガブリエルは、心脳関係をサイクリングと自転車のかかわり方にたとえる。「自転車は、サイクリングのために必要な物質的条件である」。言い換えれば、物質世界に自転車がなければサイクリングはできない。それと同様に、脳は心の必要条件であり、物質世界に脳がなければ心は成り立たないというのである。ここでは、サルトルの「人間界を、物質界とは区別された諸価値の全体として構成しよう」という野心が失われているように思われる。

ただ、ガブリエルは決して唯物論に転向したわけではない。このたとえ話で念を押されるのは、「自転車はサイクリングの原因ではない」「自転車はサイクリングと同一ではない」ということだ。新実存主義では、「人間の心的活動に必要な条件の一部」が「自然の過程」すなわち物質世界の出来事と言えるに過ぎない。必要条件は、ほかにいくつもある。それらが「組み合わさって十分条件が整う」――こうして心が成立するというのだ。

1年前の「本読み by chance」で書いたように、ガブリエルは脳の「神経回路」を「洗練した心的語彙に対応する自然種と同一視すること」(「自然種」は「自然界の事物」といった意味)を批判しているが、これも同様の視点から言い得ることなのだろう。

どうしても知りたくなるのが、ガブリエルが心の必要条件として脳以外に何を想定しているのか、ということだ。今回の再読で私は答えを探したが、わかりやすい説明は見つからなかった。ただ、物質世界に対応物を見いだせないものの一つが「何千年ものあいだ志向的スタンスで記述されてきた現象」という指摘はヒントになる。人間は過去に歴史を背負う存在、未来になにごとかをめざす存在である――そんなことを示唆しているように思う。

新実存主義は、実在を「ひとつのもの」とも「心的なものと物質的なもののふたつ」ともみない。それを「たがいに還元不可能な多様なものの集まり」ととらえる。ここに、実存主義「旧」版から「新」版への移行がある。これは、進化と呼べないかもしれないが――。

ここであえて一つ、ツッコミを入れれば、現代の科学技術がAIによって「志向的スタンス」まで再現できるようになれば、心模様に対応する物質世界もありうるという話になってしまう。実存が人間の占有物でなくなる日がやがては来るのだろうか。

ガブリエルはこの本で、自身の科学に対する「姿勢」も宣言している。「無窮の宇宙についてわれわれが科学的知識を積み重ねてきた」という史実も「この宇宙にかんしてはいまだ無知同然」という現実も、どちらも認めるという。そんな立場に、今日の哲学者はいる。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年2月19日公開、同月20日更新、通算562回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

サルトル的実存の科学観

今週の書物/
『実存主義とは何か――実存主義はヒューマニズムである』
ジャン-ポール・サルトル著、伊吹武彦訳、人文書院「サルトル全集第十三巻」、1955年刊

実存の更新

サルトルにせっかく再会したのだ。どうせなら、もうちょっとつきまとうことにしよう。ということで、先週の書物を今週もう一度(当欄2021年1月29日付「実存の年頃にサルトルを再訪する」)。巻末には講演後の「討論」がある。今回は、そこに的を絞る。

この本では、ただ問答が書きとどめられているだけだ。聴衆がどれほどいて、どんな人物がどんな表情で発言しているのかは想像するしかない。だが、それがどれほど熱を帯びていたかは、ちょっと読んだだけでもわかる。発言者は講演者を無用にもちあげない。「難しいので、もう少しかみ砕いていただいて」というように媒介役を演じているわけでもない。質問をぶつけるというよりも、真正面から論争を挑んでいるふうなのだ。

この空気感は講演当時、すなわち第2次大戦の直後、フランスの論壇でどんな思潮が優勢だったかをものの見事に表している。多くの知識人は左翼思想に傾倒していた。とりわけマルクス主義はロシア革命から30年足らず、まだ弱点を露呈していなかった。だから世論に浸透して、政界をも動かしている。そんなタイミングで、左派とみられる俊才がマルクス主義ではない看板を引っ提げて現れたのだ。素直に受け入れられるわけがない。

たとえば、この「討論」ではカール・マルクスの『共産党宣言』をめぐる興味深いやりとりがある。サルトルは、かつて哲学は哲学者の間で議論されるものだったが、今は「公衆の広場におろされている」と前置きして、『…宣言』はマルクスにとって「思想の通俗化」を意味する、と言う。これに、質問者は黙ってはいない。「通俗化」との表現に噛みついて「あれは闘争の武器だ」と反駁する。マルクス主義者のイデオロギー神聖視が見てとれる。

サルトルは、マルクスを相対化しているのだ。「自分をアンガジェすることが革命をおこすことであった時代には『宣言』を書くべきだった」と、『共産党宣言』を評価はする。だが、現代のように諸党派が百家争鳴の状態にあるときは「様々な革命派に働きかけようとする」ことこそが求められるという。「アンガジェ」(参加する)については前回も当欄で書いた。その選択肢は一つではない、という柔軟な思考がみてとれる。

こうした舌戦に興味は尽きないのだが、今回は、このやりとりに出てくる科学論争に焦点を当てたい。科学観にも、マルクス主義者と実存主義者サルトルの違いが見てとれる。それを科学の同時代史に重ねあわせて吟味すると、また格別の意味を帯びてくる。

マルクス主義者とみられる質問者は「われわれにとっては一つの世界、ただ一つの世界がある」と断言する。単純明快な世界観だ。これに対して、サルトルは「物の世界」は「蓋然の世界」であり、それが「唯一」なら「蓋然性の世界しかなくなってしまう」と反論する。「蓋然性」は「確実性」を土台にしており、その確実さは「主体」に由来するという。前者の立場では「人」も「物」も客観的な存在だが、後者の場合、「人」には主観がある。

すなわち、サルトルは「物を物として捉える」には「主体が必要」として、物理世界に向きあうにもデカルトの命題「われ考う、故にわれあり」に立ち返ろうとする。マルクス主義の理論ですら「主体性の地盤」の上に組み立てられる、とも論ずるのである。

因果律についても見解は対立する。マルクス主義の見方では、人間はこの世界に張りめぐらされた「因果の糸」によって「拘束」されている。ところが、実存主義は個々人の「われ考う」に立脚するので、分断された「非連続的な世界」しか見ないことになる、というのだ。対するサルトルは、マルクス主義が「唯一の全体を研究すること」にこだわり、「その全体のなかに一つの因果律を求めよう」としていることを強く批判する。

議論からは、当時のマルクス主義とサルトル流の実存主義が同時代の自然科学にどこまで追いついていたかが仄見えてくる。前者から感じとれるのは、20世紀半ば、マルクス主義者の多くは――もちろん、その一角を占める自然科学者、とりわけ物理専攻の人々は別だろうが――まだニュートン力学の呪縛に囚われていたらしいということだ。その世界像は絶対空間や絶対時間のなかにあり、あらゆる「物」が決定論に縛られていた。

後者は微妙だ。この討論でサルトルは、科学を「現実的な因果関係を研究するもの」とは見ていない、と表明する。それは「抽象的な諸因子の様々な変化を研究するもの」というのだ。ただ、ニュートン流の素朴な決定論を否定するような文言には出会わない。

この講演があった1945年は、物理学の新しい枠組みとして量子力学が登場して20年が過ぎたころである。この力学では、物理世界をつかさどる波動関数の波が観測の瞬間に収縮して、状態の重ね合わせが消え、一つの事実が選り出されるということが起こる。「抽象的な諸因子」という語句からは、波動関数の波の位相や振幅が連想されなくもない。観測によって事実が定まるという構図も、「主体」に重きを置く思想と相性が良いようにみえる。

ただ、これをもってサルトルが量子力学に通じていたと推察するのは、早とちりであり、買いかぶりでもあるだろう。実際、サルトルは質問者が「統計型式の因果律」という言葉をもちだしたとき、「それは何の意味もない」と一蹴している。量子力学は、教科書風の解釈では確率論の言葉で語られるから、そのことが頭の片隅にあれば「統計型式」をそう簡単には切って捨てられないはずなのである。欧州でも、文理の壁は厚かったのかもしれない。

ここで私は、当欄の前身で1年ほど前に読んだ『新実存主義』(マルクス・ガブリエル、廣瀬覚訳、岩波新書)をもう一度、思い返してみる(「本読み by chance」2020年3月27日付「なぜ今、実存主義アゲインなのか」)。あの本では、科学の話題が臆することなくとりあげられ、心と脳の問題をめぐって脳の神経回路についても語られていた。実存主義と新実存主義の違いは自然科学をどこまで強く意識したかにある――私には、そう思われる。

科学は哲学を更新する。その好例が実存主義の進化のなかにある、とは言えないか。
*引用では、仮名づかいを現代風に改めた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年2月5日公開、同月19日最終更新、通算560回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

実存の年頃にサルトルを再訪する

今週の書物/
『実存主義とは何か――実存主義はヒューマニズムである』
ジャン-ポール・サルトル著、伊吹武彦訳、人文書院「サルトル全集第十三巻」、1955年刊

人は石にあらず

年頭恒例の夏目漱石ものの表題は今年、「漱石の実存、30分の空白」(2021年1月8日付)だった。実存とは青臭い。それでもすんなりこんな言葉がひらめいたのも、実存が身についてきたからだ。人間、70年近くも生きていると、いつのまにか実存的になっている。

つまりは、こういうことだ。50年前、喫茶店で友人を相手に「実存」「実存」とまくし立てていたころは、現実の存在が本質に先立つなどと言っても絵空事に過ぎなかった。学生はこうあるべきだ、男子はこうあるべきだ……といろいろ「べきだ」はあったが、その強制力はたかが知れていた。あのころは、言われなくとも存在が先に立っていたのだ。だから、「実存」を振りまわしても、それは空回りするばかりだったように思う。

ところが、大人になると様相が一変する。職業とは自分が受けもつ任務を指すので、若者は就職によって――たとえ、その仕事が本人の希望に適っていたとしても――世間から一つの役目を押しつけられるかたちになる。ここで強引に、役目≒本質とみなせば、本質>存在の力関係が生まれる。存在と本質の立場が逆転するのだ。私自身も25歳で新聞記者になって以来、記者はこうあるべきだ、という「べきだ」に縛られてきた。

その間、実存はどうしていたのか? 私自身について言えば、あの青臭い言葉は意識の外に追い払われていた。忙しくて、それどころではなくなったのだ。だが今振り返って、自分の半生は実存的でなかったのかと自問すれば、そうとは言い切れないぞ、と思えてくる。

私は新聞社にいた36年間、日々押し寄せる「べきだ」の大波に抗してきた。心の片隅に、記者らしい記者ではいたくないとの思いがあったのだ。これは、本質に先立つ存在に立ち帰ろうという志向に通じている。その抵抗が実りあるものだったとは言えないが……。

そして70歳を目前にした今、私は――たぶん、同世代の人々の多くもまた――現役を離れたことで、実存の抵抗を内に秘める必要がなくなった。ようやく堂々、自覚的に実存的となる年頃になったのである。しかも昨今のコロナ禍は、私たちを否応なく実存的にさせる。

で、今週は『実存主義とは何か――実存主義はヒューマニズムである』(ジャン-ポール・サルトル著、伊吹武彦訳、人文書院「サルトル全集第十三巻」、1955年刊)。一昨年のことだが、近くの町にあった古書店で見つけた。この本は第2次大戦直後の1945年、パリのクラブであった講演をもとにしているので、口述の柔らかさがある。著者(1905~1980)は、言うまでもなく20世紀実存主義の中心にいたフランスの哲学者である。

まずは、実存主義を素描したくだりを見てみよう。そこには、私が若いころに聞きかじった「実存が本質に先立つところの存在」という言葉がちゃんと出てくる。著者のように「無神論的実存主義」の視点に立てば、人間はこうした存在にほかならない。

ここで注目すべきは、「実存が本質に先立つところの存在」を「何らかの概念によって定義されうる以前に実存している存在」と言い換えてもいることだ。著者によれば、人間は「最初は何者でもない」が、のちに「みずからが造ったところのものになる」。あなたも私も、もともとは未定義であり、本性を具えていないということだ。なぜなら「その本性を考える神が存在しないから」である――ここまでを、著者は「実存主義の第一原理」と呼ぶ。

このあとに出てくるのが「投企」だ。これもまた、実存主義用語として懐かしい。英訳すれば“project”。「人間は苔や腐蝕物や花キャベツではなく、まず第一に、主体的にみずからを生きる投企なのである」。あなたも私も「未来にむかってみずからを投げる」ことによって「みずからが造ったところのものになる」。だから、本来は「何者でもない」のに「石ころや机よりも尊厳」と言えるのだろう。人間を動詞でイメージしている点が新鮮だ。

ここで著者は、投企と意志とを分けて考えている。投企は意志の根っこにある、というのだ。たとえば、ある党派に入ろうとすること、ある本を書こうとすること、ある人と結婚しようとすること――こうした意志は「一そう根原的な、一そう自発的な或る選択の現れにほかならない」。人間には、まずどんな自分をつくるかという根本の選択、すなわち投企があり、その結果として意志が個別の決定をする、ということらしい。

著者は、この本で「われわれの出発点は個人の主体性」と主張している。「投企」の主語は、一人ひとりの個人ということだ。だから、17世紀の哲学者ルネ・デカルトが提起したコギトの命題を引いて「出発点において、『われ考う、故にわれあり』という真理以外の真理はあり得ない」と言い切っている。なにごとを議論するにしても、おおもとに絶対的な真理を必要としている。それは「自分自身を捉える意識」にほかならない、というわけだ。

この文脈で、著者は実存主義が唯物論と相容れないことを明言している。唯物主義は「あらゆる人間を物体として扱う」。これに対して、実存主義は「人間を物体視しない」。むしろ、「人間界を、物質界とは区別された諸価値の全体として構成しよう」としている――こう表明するのだ。著者は、自身の立場とマルクス主義の間に一線を引いていた。それなのに言論界では一貫して左派陣営に身を置いて、マルクス主義にも近づいた。それはなぜか。

本稿では、この疑問点を探ろうと思う。そのまえに押さえておきたいのは、著者は「われ考う」を重んじるものの、唯我論には迷い込んでいないことだ。そこには「われわれは『われ考う』によって、他者の面前でわれわれ自身をとらえる」との記述がある。自己を意識するとき、自己は他者に関係づけられているということか。「他者は、私が自分に関して持つ認識に不可欠」であり、「私の存在にとっても不可欠」というのが著者の論理だ。

これは、現象学の間主観性を示唆しているようにも思えるが、その用語は見当たらない。代わりに出てくるのが「相互主体性」だ。「私の内奥」に「他者」を発見することで「相互主体性」が見えてくるという。こうして、実存主義に社会派の視線が芽生える。

実際、著者はこの本の随所で、実存主義の社会性を強調している。たとえば、さきほどの「投企」を論じたくだり。実存主義は「みずからの実存について全責任を彼に負わしめる」と述べた後、次のような趣旨のことを言い添えるのだ。「彼」の責任は「彼個人」に対するものにとどまらない、それは「全人類」に及ぶのである、と。ちょっと飛躍が過ぎるのではないか、と問い返したくなる。だが、これにも答えが用意されている。

私たちは「あれかこれか」を選ぶとき、選んだほうの「価値」を「肯定」している、と著者はみる。「われわれが選ぶものは常に善であり、何物も、われわれにとって善でありながら万人にとって善でない、ということはあり得ない」。実存は普遍の善を好むということか。著者の論理では、こうして「私」が万人につながり、「私の行動は人類全体をアンガジェしたことになる」。サルトル哲学ならではの用語、アンガージュマンの登場である。

アンガジェは“engager”。縛る、かかわらせる……といった意味の動詞だ。その名詞形が“engagement”。フランス語読みでは、アンガージュマンとなる。1960~70年代、それは〈参加〉と訳され、政治性を帯びた意味合いで用いられたものだ。この本を読むと、著者がなぜ、この言葉を多用したかが痛いほどわかる。マルクス主義を強く意識しながら、それとは違う方法で社会とかかわり、政治に〈参加〉しようとしたからにほかならない。

巻頭では「コミュニストたちからの非難」を例示して、それに反論している。巻末所収の講演後の討論では、マルクス主義の視点から浴びせられる質問に反駁している。そこから見てとれるのは、実存主義を行動の伴わない「静観哲学」とみなす批判に対する強い反発だ。

著者は、左派論客として政治へのアンガージュマンを行使するときも、その行動の根源に投企があると言っておきたかったのだ。戦後、マルクス主義者と共闘したときも、その思いを内心に秘めていたのだろう。実存を「物体視しない」。私も、それに同意する。
*引用では、本文を現代風の仮名づかいに改めた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年1月29日公開、通算559回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。