世界が違うとはどういうことか

今週の書物/
『量子力学の奥深くに隠されているもの――コペンハーゲン解釈から多世界理論へ』
ショーン・キャロル著、塩原通緒訳、青土社、2020年刊

枝分かれ

今週も引き続き、『量子力学の奥深くに隠されているもの――コペンハーゲン解釈から多世界理論へ』(ショーン・キャロル著、塩原通緒訳、青土社、2020年刊)を読む(当欄2021年11月12日付「世界は一つでないと今なら言える」)。

先週も書いたことだが、量子力学について専門家を質問攻めにしていると、途中で疎外感に襲われることがある。ここで「専門家」というのは、物理を数式で考えられる人のことだ。当方にはそれができないから、必死でイメージを頭に思い浮かべようとする。最初は、なんとなくわかった感じになるが、あるところから先へ進めなくなる。挙句、「量子力学は日常世界のイメージでは理解できないんですよ」――そんな通告を受けてしまうのだ。

その壁を突破したいというのが、量子力学に関心を寄せる素人の切なる願いである。同じ思いの人は少なくない。友人知人のなかには、果敢にも高年齢になってから量子力学の方程式を学ぶ人がいる。私も、数式を眺めて雰囲気を感じとるくらいの水準には達したい。ただ、今さら数理の技を身につけようとは思わない。それよりはやはり、量子力学をイメージしたいのだ。絵画にだって具象画だけでなく抽象画というものがあるではないか!

これは、決して高望みではないらしい。この本の著者は、量子力学を「説明できないもの、理解できないもの」とする通念を取っ払いたいという立場を本文中で鮮明にしている。幸いなことに、そしてありがたいことに、専門家にも強い味方が現れたのである。

この本は、ひとことで言えば量子力学の解釈にかかわる書物である。邦題の副題にある通り、教科書的なコペンハーゲン解釈を批判的にとらえ、これまで異端とされてきた多世界解釈の強みを浮かびあがらせている。ここではまず、先週のおさらいをしておこう。

多世界理論では、波動関数のみを世界の現実とみる。それは、方程式に従って刻々変化していく。これを波動関数の時間発展という。そこにあるのは決定論だ。コペンハーゲン解釈のように確率論で物事が決まったりはしない。波動関数は観測によって、観測する側とされる側が一体となったものの重ね合わせになる。このとき、観測者は――あなたや私も――どんな状態を観測したかによって分岐している。世界も観測者も、枝分かれしたのである。

さて、いよいよ本題に入る。先週よりももう一歩深く、多世界解釈に踏み込むことにしよう。今週は、観測とは何か、観測によって世界が分かれるとはどういうことか――この2点について、イメージを思い描くことにこだわりながら考えていこうと思う。

まずは、観測について。ここで出てくる用語が「デコヒーレンス」だ。これは、状態の重ね合わせ(これを、コヒーレントな状態という)が壊されることを意味する。著者によれば、この概念が1970年、ドイツの物理学者ハインツ・ディーター・ツェーから提案されると、多世界解釈にとって「必須の要素」になった。デコヒーレンスは、観測で「波動関数が収縮して見える理由」を教えてくれる。そこに「『観測』とは何か」の答えもある。

一般論で言えば、デコヒーレンスの主犯は周辺環境だ。聴き入っている音楽が窓の外を走るオートバイの爆音でぶち壊しになるように、量子世界の状態の重ね合わせは周りの騒々しさによって台無しになる。だから、重ね合わせを情報処理の仕掛けに用いる量子コンピューターでは、その部分を周辺環境から遠ざけることが求められている。著者はこの本で、周辺環境の存在が観測という行為と密接不可分であることを述べている。

前回も書いたように、量子世界の観測では観測する側とされる側が量子もつれになる。今回、新たに考慮に入れるのは、観測する側が世界から孤立していないということだ。この本では、電子に具わるスピンという性質を見てとる観測装置が登場する。これは、スピンが上向きなら目盛り盤の針が左に振れ、下向きなら針は右を指す――というように作動する。この装置にも空気の分子や光の粒(光子)がぶつかっていて、相互作用が生じている。

ここで、空気や光などは「環境」と呼んでよい。量子力学の言葉で言えば、観測装置は空気や光などと相互作用することで「環境と量子もつれの状態」にある。このときに見落としてならないのは、「環境」が漠然としていることだ。「光子などの粒子をすべて追跡するなど、誰にだってできない」。そこで「厳密に何がどうなるか」はつかめない。観測装置と環境との量子もつれは把握不能――これこそがデコヒーレンスの本質であるらしい。

これは観測装置にとって、もつれる環境が一つに定まらないことを意味する。量子もつれごとに相手となる環境が異なるのだ。その結果、装置はそれぞれの環境に引きずられてしまう。ここに世界の分岐がある。著者の見方を私なりに理解したのは、そういうことだ。

では、スピンの観測で何が起こるかを時系列でたどってみよう。観測前、電子は〈スピン上〉と〈スピン下〉が重ね合わさるコヒーレントな状態にあり、それに観測装置の針がどちらにも振れない〈針中〉の状態と〈環境0〉がもつれ合っていた。ところが、観測された途端、〈スピン上〉・〈針左〉・〈環境1〉が量子もつれで一体になった状態と、〈スピン下〉・〈針右〉・〈環境2〉が同様にもつれて一体化している状態とが重ね合わさることになる。

著者は、この過程を数式風の略図で説明している。これは観測の核心をついていてわかりやすい。当欄は図の部分を言葉に置き換え、同じことを文字と記号だけで表現してみよう。ここでは、「+」は重ね合わせを、「・」はもつれをそれぞれ表している。
(〈スピン上〉+〈スピン下〉)・〈針中〉・〈環境0〉
➡〈スピン上〉・〈針左〉・〈環境1〉+〈スピン下〉・〈針右〉・〈環境2〉

この式からは、多くのことがわかる。スピンだけの重ね合わせ状態が観測によって消え、その代わり、スピンと針と環境がそっくり異なる世界が重ね合わさることになる。世界の数は観測前に一つだったのが、観測後には二つになる。これこそが、世界の枝分かれだ。

さて、いよいよ「観測者」の出番である。装置の目盛り盤の傍らに針を読む人間がいるとしよう。世界が枝分かれするなら「観測者も残りの宇宙にともなって」「コピーに分岐する」。ここで「残りの宇宙」とは環境の別表現だ。では、それぞれの分身は何を見るのか? 〈スピン上〉〈スピン下〉のどちらか一つしか見えない。「波動関数が収縮したように見える」(原文では太字部分に傍点)というのは、実はこういうことだったのである。

この略図を見ると、観測という行為が私たちにとってどんな意味をもつのかについて、別の角度からも考えたくなる。観測とは、電子のように重ね合わせの状態にあるものに取りついて、自分自身をも枝分かれさせる行為ではないか――そんなふうに思えてくる。

枝分かれのくだりで興味深いのは、そこに「世界」論があることだ。著者が「世界」の条件として挙げるのは「世界のさまざまな部分が、少なくとも原則として、お互いに影響を及ぼせていること」だ。逆をいえば、影響を及ぼせないなら別世界と言ってもよいのだろう。この本は「幽霊世界」をもちだす。幽霊たちがどこかにいる可能性を論じつつ「幽霊世界で起こることは私たちの世界で起こることとは絶対に関わりを持たない」と断じている。

もし、多世界理論が正しいとしても、別の世界にいる分身とは交信できない。向こうの世界に渡って分身と入れかわるわけにもいかない。今の私にとって私はこの私だけであり、世界はこの世界しかない。世界がいっぱいあっても、この世界はかけがえがない。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年11月19日公開、通算601回
*余談ですが、今回と似たタイトルで小文を書いたことがあります。「『あなたとは世界が違う』という話」(「本読み by chance」2015年5月8日付)。青春のほろ苦さとともにある「世界が違う」。これも、どこかで多世界のイメージと響きあうような気がします。
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世界は一つでないと今なら言える

今週の書物/
『量子力学の奥深くに隠されているもの――コペンハーゲン解釈から多世界理論へ』
ショーン・キャロル著、塩原通緒訳、青土社、2020年刊

観測

危険思想という言葉がある。それは、異端者に対するレッテルとして使われることが多い。言うまでもないことだが、このレッテル貼りはよくない。人は心のなかでなら何を思い描いてもよいのだ。その自由が、ときに常識の呪縛を解き放ってくれることもある。

私もかつて、自分自身が危険思想の持ち主と見られているように感じたことがある。極左に走ったわけではない。極右に振れたわけでも、過激な宗教に染まったのでもない。そもそも一つの考えの信奉者になったことは、これまで一度もない。ただ、科学記者として一つのテーマを追いかけていて、常識外の見解に興味を抱き、それを記事にしたことはある。このとき、周りの視線に危険思想を遠ざけようとする気配があったことを覚えている。

「一つのテーマ」とは量子力学である。1920年代半ばに打ちたてられた新しい物理学だ。私は1995年、欧州に科学記者として駐在していたとき、量子力学の核心部を生かした量子コンピューターや量子暗号の研究が台頭していることを知り、取材に駆けまわって報告記事を書いた。それは、量子力学の不可解さをどう解釈するかという哲学めいた問いに深くかかわっていた。答えの一つが多世界解釈。これこそが上記の「常識外の見解」である。

ざっくり要約しよう。量子力学の世界は波動関数というもので記述される。ここでは、電子を例にとろう。その状態は波によって表される。位置一つとっても、電子は一点にあるのではなく、A点にもB点にもC点にも……あることになる。重ね合わせの状態だ。ところが、私がその位置を測ったとしよう。すると電子の在り処はA点かB点かC点か……どこか一カ所に定まる。何が起こったのか? これが量子力学の観測問題である。

定説としては、コペンハーゲン解釈が広まっている。コペンハーゲンは、量子論の先駆者ニールス・ボーアの本拠地だ。この解釈は、ボーアの系譜にある物理学者らが唱えたので教科書的な見解として受け入れられてきた。それによると、観測の瞬間に波束の収縮ということが起こる。電子がA点にあるとの測定結果が出たとしよう。このとき、波は膨らみを失い、A点の箇所だけに聳え立つ。もはやB点、C点……には波の影もかたちもない。

コペンハーゲン解釈の対抗馬が多世界解釈だ。この立場では、波束は収縮しない。波は観測後も続く。そこでは、電子がA点にあるのを見た私、B点にあるのを見た私、C点にあるのを見た私……が重なり合う。観測の瞬間に私はいくつにも分かれ、それぞれの分身がそれぞれの世界を生きていくのだ。〈多世界〉と呼ぶ理由はここにある。この考え方は量子力学誕生の約30年後、1957年に米国の大学院生ヒュー・エヴェレットが発表していた。

荒唐無稽な世界観ではある。危険視されるのも致し方ないか。いや、違う。常識外ではあるが、常識の世界を乱さないからだ。この解釈に従えば、私には無数の分身がいることになるが、一つの分身が別の分身のいる世界と行き来したり、分身同士がメールをやりとりしたりはできない。それぞれの私がそれぞれの世界で物理法則に従うのだから何も問題ない。だが、それでも冷たい視線が向けられた。少なくとも四半世紀前までは……。

で、今週は、その空気が今や大きく変わったことをうかがわせる一冊。『量子力学の奥深くに隠されているもの――コペンハーゲン解釈から多世界理論へ』(ショーン・キャロル著、塩原通緒訳、青土社、2020年刊)。著者は米国カリフォルニア工科大学の理論物理学者。序章で多世界の理論が「うさんくさい」とみられてきたことを認めつつ、それは「量子力学を理解する最も純粋な方法」(原文では太字箇所に傍点、以下も)と言って憚らない。

この本の組み立ては、大きくとらえればこんなふうだ――。前半は、読み手を量子力学の世界に招き入れ、それを素直に受けとめれば多世界理論に行き着くことを堂々と論じている。後半に入ると、別の解釈には何があるか、量子論が宇宙論の「時空」にどうかかわるか、といった問いにも答えていく。後半は、かなり難しい。当欄は、とりあえず前半に絞って話を進めたい。ただいずれの日か、この本に戻って後半部分にも触れたいとは思う。

第一章には著者の宣言がある。「量子力学が説明できないもの、理解できないものとだけは思われないようにする」という決意表明だ。これは、科学者でもないのに物理学の周辺をうろついてきた者には新鮮に聞こえる。私は科学記者として、量子力学の不可解さについて物理学者を質問攻めにしてきたが、最後には、日常の感覚ではとらえきれないんだよ、と突き放されたものだ。だが、この本は最後まで面倒をみてくれそうではないか。

第二章では、「緊縮量子力学(austere quantum mechanics)」と呼ばれる立場が「勇気ある定式化」として紹介される。「緊縮」では硬いので、節約型の量子力学と言い換えてもよいだろう。波動関数だけに注目して、余計なことを考えない。著者は、量子力学をもっとも素直に受けとめれば、世界は一つではない、世界はたくさんある、とみるのが自然であることを論じている。多世界理論が「最も純粋」というのは、そのことである。

著者は、節約型の量子力学に二つの側面を見てとる。一つは、波動関数を「知識の整理を助けるだけの帳簿作成装置」とみないことだ。それを「現実をそのまま写し取ったもの」ととらえる――「認識論的」ではなく、「存在論的」な考え方に立とうというのである。

もう一つは、波動関数について「それは決定論的な規則にしたがって時間発展し、それ以外は何も関係しない」とみることだ。ここでは「決定論的」の一語に注目したい。量子力学は確率論の物理学とも言われるが、波動関数に限れば方程式通りの決定論に従う。

では、存在論的であり、決定論的でもある波動関数の正体とは何か? 著者によれば、それは量子状態だ。ならば量子状態とは? 「私たちが観測をしてみた場合のあらゆる可能な結果の重ね合わせ」だという。重ね合わせがまるごと方程式に従って移りゆくのである。

著者はこの「緊縮量子力学」を、前述のコペンハーゲン解釈――この本では「教科書量子力学」と呼んでいる――に対置して議論を進めていく。観測という行為のとらえ方について両者を対比しているところが読みどころだ。ここでは、それをなぞっておこう。

「教科書…」は、原子や電子のように微視的なものの観測では観測される側と観測する側の間に線を引いて考える。観測される側は量子力学に支配されているが、観測する側は古典力学の法則に従う、とみるのだ。ところが「緊縮…」は、この仕切りを取っ払う。たとえば、電子を写せるカメラがあったとして電子をカメラで観測する場合を考えてみよう。このとき、カメラの様子も電子と同様に波動関数によって表現するのである。

それでは、カメラの波動関数とはどんなものでどのように変化するのか。カメラが観測装置として電子の位置を見極めるとき、その波動関数が観測前に意味しているのは「これはカメラで、まだ電子を見ていない」ということだ。ところが、電子を被写体としてとらえた途端、「電子がここにいるのを見たかもしれないし、あそこにいるのを見たかもしれない」……に変わる。カメラの状態も、電子の重ね合わせに引きずられて重ね合わさるのだ。

えっ、カメラの重ね合わせだって? 重ね合わせは、電子のような微視世界でなら許せるが、私たちが暮らす巨視世界ではありえない――そんな違和感に応えるように、著者は私たちがこの不気味な重ね合わせを見ないで済む理屈を種明かししてくれる。

それは、量子力学では「二つの異なる物体」も「一つの波動関数だけ」で表されるということだ。こうして電子とカメラはつながる。その波動関数は、電子とカメラの「あらゆる可能な組み合わせの重ね合わせ」だ。ただ、なんでもあり、というわけではない。「電子はこの場所にあって、カメラはその同じ場所で電子を観測した」という整合性は求められる。一定の条件に縛られているのだ。このつながりが「量子もつれ」である。

観測とは、観測する側と観測される側が量子もつれを起こすことだ。ここで著者は、カメラをあなたに置き換えることを促す。あなたは当初、「まだその電子を見ていない」が、観測するとともにもつれが生じて「電子が見つかる可能性のある場所それぞれ」について電子とつながる。その結果、「ちょうどその場所にいる電子を見つけたあなた」が重ね合わせ状態になる。あなたまで重なり合うのだ。分身の登場である。ここに多世界が成立する。

さあ、ようやく多世界理論にたどり着いた。次回も引きつづき、この話を続ける。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年11月12日公開、通算600回
*当欄は今年、「量子」の話題を継続的にとりあげています。
量子の世界に一歩踏み込む」(2021年5月28日付)
量子力学のリョ、実存に出会う」(2021年6月4日付)
量子力学の正体にもう一歩迫る」(2021年9月10日付)
量子のアルプス、「波」の登山路」(2021年9月17日付)
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イルカ知を「動物の権利」で考える

今週の書物/
『イルカの島』
アーサー・C・クラーク著、小野田和子訳、創元SF文庫、1994年刊

動物福祉“animal welfare”

私のように1950~60年代、東京西郊に育った世代にとって、海と言えば江の島だった。正しく言い直せば、江の島の対岸にある藤沢市の片瀬海岸だ。当時の小田急電車は相模大野から江ノ島線に入ると、林地や田畑の只中を突っ切った。やがて、終点の片瀬江ノ島駅に着く。駅舎は、竜宮城を模した造り。子どもにとっては、これだけで遠足気分になったものだ。そこからちょっと歩けば砂浜に出る。眼前には白波の押し寄せる海が広がっていた。

小学校にあがる前だったか、あるいは、あがってまもなくだったか、真夏の一日、祖父母に連れられて、この海岸に来た。祖父母は当時の感覚からすればもう年寄りの域に達していたから、浜辺で水着になることはなかった。足を向けたのは、海沿いにある「江の島水族館」(現・新江ノ島水族館)。お目当ては、館の付属施設「江の島マリンランド」である。プールで水しぶきをあげて繰り広げられるイルカショーが人気の的だった。

今、新江ノ島水族館(「えのすい」)の公式ウェブサイトを開くと、沿革欄にその記述がある。マリンランドは1957年5月に開業。飼育は、カマイルカ3頭から始まった。「日本で初めてイルカの持つ能力をショーという形にアレンジして紹介することに成功」とある。

喝采があった。イルカたちが水面から跳びあがる。次から次へ弧を描いて空を切り、再び水中に消える。それが人間による調教の結果であり、イルカは芸をさせられているのだとしても、私たちはその芸達者ぶりに見とれたのだ。だが今、私たちは同じものを目のあたりにしても、あれほど素直に胸躍らせることはないだろう。現に私は近年も「えのすい」を訪れ、ショーを観ているが、心の片隅には一抹のわだかまりがあった。

それは、「動物の権利」(“animal rights”)が脳裏にちらついたからだ。この言葉を私は1990年代、欧州に駐在していたとき、しばしば目や耳にした。動物の権利保護は旧来の動物愛護とは別次元にある。家畜や実験動物の待遇、動物園のあり方などについて動物側の視点から問い直そうとする。私は、その主張がときに矛盾をはらむことに違和感を抱きつつ、人間がこれまであまりにも自己中心的だったことに気づかされたのである。

この機運の例を挙げよう。世界動物園水族館協会(WAZA)は2015年、イルカを入り江に追い込む捕獲法(追い込み漁)が「倫理・動物福祉規程」(画像)に反するとして、この方法で捕まえたイルカが日本で飼育されていることに警告を発した。これを受けて、日本動物園水族館協会(JAZA)は追い込み漁で獲ったイルカを買い入れることを加盟施設に禁じた。今ではイルカショーのあり方も、動物の権利や福祉の観点から見直されている。

で、今週は『イルカの島』(アーサー・C・クラーク著、小野田和子訳、創元SF文庫、1994年刊)。原著は1963年に出た。著者(1917~2008)は、『2001年宇宙の旅』で知られるSF作家。英国生まれだが、後半生はスリランカ(旧名セイロン)で暮らした。宇宙開発やITに象徴される第2次大戦後の科学技術を前のめりにとらえた人だった。ただ、その前のめりは衛星通信時代の到来を予言していたように、ときに的を射ていた。

本書も書き出しは、表題『イルカ…』に似合わず、近未来SF風だ。21世紀、深夜の北米内陸部。「谷間沿いの古い高速道路を、空気のクッションにのって、そのホヴァーシップは疾走していた」。それは、水陸両用の高速交通手段だ。轟音を発しながら近づいてきたが、その音が急に止まる。「いったいなにがおこったのだろう?」。主人公のジョニー・クリントンはベッドから抜けだして、その高速浮揚船「サンタアナ号」を見にゆく。

ジョニーは、幼いころに両親を航空機事故で失っていた。叔母の家庭で育てられたが、疎外感を拭いきれなかった。そこに突然、世界中を駆けまわる乗りものが現れたのだ。「チャンスが手まねきしているのなら、それについていくまでだ」。こっそり、黙って乗り込む。サンタアナ号はまもなく動きだした。積み荷の表示からみると、行き先はオーストラリアらしい。太平洋に出て大海原を突っ走る……。そして予想外の沈没事故が起こる。

ここからが、作品の本題だ。ジョニーが海面の浮遊物をいかだにして漂流していると、イルカの群れが近づいてきて、いかだを押してくれるではないか。連れてこられたのは、オーストラリア北東沖に広がるサンゴ礁地帯グレート・バリア・リーフの小島。島民は、そこを「イルカ島」と呼んでいた。イルカとの意思疎通を試みる研究所があるのだ。ジョニーは島に居ついて、研究所の創設者カザン教授やキース博士、そしてイルカたちと交流する。

研究室には、電子機器がぎっしり置かれている。教授と博士はスピーカーから聞こえてくる音に夢中だ。どうやら、イルカの鳴き声らしい。細部まで聴きとろうと、録音テープの回転数を落として再生している。イルカの発声に発信の形跡を見てとるつもりなのだろう。

ジョニーは、教授がイルカ語をしゃべるのも聞いた。それは、「器用にくるくると調子の変わる口笛」だった。教授によれば「イルカ語を流暢にしゃべることは、人間にはまずむり」。だが、自分は「ふだんよく使ういいまわしだったら十くらいは、なんとかしゃべれる」と言う。イルカ界には仲間内で通じるイルカ語があり、それは人間でも片言ならば習得できる――教授には、そしてたぶん著者自身にも、そんな確信があるらしい。

私が興味を覚えるのは、この作品は筋書きが牧歌的なのに、小道具が妙にテクノっぽいことだ。執筆時点の1960年代は、「半導体素子を使った精密な電子部品」が出回り、エレクトロニクスの開花期にあったからだろう。教授がジョニーに「きみにやってもらいたい仕事がある」と言って差し出すのも、キーが並ぶ「電卓のような装置」。腕時計式に腕に巻いて使う。家電のリモコン、あるいはウェアラブル端末の原型がここにはある。

キーの表示は「止まれ」「いけ」「危険!」「助けて!」……。キーを押せば「キーに書いてある言葉が、イルカ語できこえる」と教授。ジョニーに水中でこの装置を使ってもらい、イルカがどんな反応を見せるかを探ろうというのだ。イルカたちは、たいていのキーに的確に対応したが、「危険!」を押しても動かなかった。この実験が、人間の企てた「ゲーム」と察知したらしい。「彼らのほうが頭の回転が早いことはたしかだ」と教授は驚嘆する。

教授には、いくつかの構想があった。その一つが「海の歴史」をイルカに聞くことだ。人類の文明史は、古代や中世の詩人の記憶を通じて「何世代にもわたって継承」されてきた。だがそれは、有史時代の出来事に限られる。イルカにも「すばらしい記憶力」があるので、詩人の役目を果たす語り部がいるはずだ。実際に教授は、そんな語り部が語ったという伝説の一部を知り合いのイルカから聞いていた。それは人類が及ばない時間幅の物語だった。

伝説のなかには「太陽が空からおりてきた」という文言があった。大爆発があり、海水は熱湯と化して周辺のイルカは息絶え、逃げ延びたイルカもしばらくして死んだという。ここで、博士は驚くべき解釈をする。「数千年前に、どこかに宇宙船が着水した」「核エンジンが爆発し、海が放射能で汚染された」。教授もこの見方を支持して、知的生命体の飛来があったという仮説を立てる。それで、イルカからもっと話を聞きだそうとするのだ。

この作品は、エレクトロニクスがたかだか電卓級の技術水準でしかなかったころ、その先に広がる情報技術(IT)の時代を見通している。描かれるのは、通信のネットワークに海洋哺乳類を引き入れようとする人々だ。人類の記憶を有史、地上の制約から解き放って、有史以前や海洋に拡張しようという発想は良い。人とイルカの交流も微笑ましい。だが、そこに見られるイルカへの友愛と期待は、動物愛護という地点にとどまっているように思える。

気になるのは、シャチに対する実験だ。シャチはクジラ目マイルカ科の海洋哺乳類だが、広義の仲間と言ってもよいイルカですら捕食してしまう。そこで教授は、生理学者のチームにシャチの「教育」を委ねる。脳内に電極を装着して脳の働きを調べたり、電流をアメとムチのように使って行動を制御したりする、というものだ。こうしてシャチは、イルカを襲わなくなった。イルカにとっては都合よいが、シャチの権利は完全に無視されている。

ジョニーは、生理学者がシャチの脳を電気仕掛けで操作する様子を見て、「自分もこんなふうに他人にコントロールされる可能性があるんだろうか?」と自問する。悪用されれば「核エネルギー」と同様、「危険な道具」になる――。この点では、著者も科学技術に対して前のめりではない。ただシャチの実験には、もう一つ別の問題があることを忘れてはならない。それは動物の権利を、エコロジーに適うかたちでどう重んじるか、という難問だ。

人間が異種の動物に知性を見いだすことは、動物の権利尊重につながる。人知が相対化され、知性の多様さに気づく契機にもなる。だが、知的で友好的だからと言って、その種ばかりに肩入れすれば生態系の平衡が失われる。可愛い異種だけを可愛がってはいけない。
*引用箇所にあるルビは原則として省いた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年8月27日公開、同日更新、通算589回
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エコと成長は並び立たないのか

今週の書物/
『人新世の「資本論」』
斎藤幸平著、集英社新書、2020年刊

定常

話題の書『人新世の「資本論」』(斎藤幸平著、集英社新書、2020年刊)を今回も。先週は本書から、現代の資本主義が無限を求めるという習性ゆえに有限な地球を食い尽しつつある現実を切りだした。では今、どうすればよいのか、を今週は考える。

この問題で著者はまず、「気候ケインズ主義」の幻想を打ち砕く。その筋書きでは「再生可能エネルギーや電気自動車を普及させるための大型財政出動や公共投資」が「安定した高賃金の雇用」を生みだし、需要を呼び起こして景気の好循環につながるだろうと見込むが、そうは問屋が卸さないというのだ。いま世界では経済成長と環境保護の両立をめざすグリーンエコノミーの論調が全盛だが、それに対する異論が全展開される。

ここでもちだされるのが、英国の経済学者ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズが19世紀半ばに見いだした逆説だ。石炭を高効率で使える技術が登場しても、それは期待に反して石炭資源の節約に結びつかない。石炭が安くなって用途が広がり、消費はかえってふえるというのである。「ジェヴォンズのパラドックス」と呼ばれる。著者は、これをグリーン技術と環境負荷の関係に当てはめて、グリーンエコノミーの罠をあぶり出す。

電気自動車が広まった社会を考えてみる。その生産工程で化石燃料を燃やせば、そこで二酸化炭素(CO₂)が出る。充電用の電力を得るときも同様だ。発電に再生可能エネルギーを使うとしても、太陽光パネルや風力発電機をつくる段階でCO₂が吐き出される。著者はここで、電気自動車の台数が2040年までに今より2桁ふえてもCO₂の総排出量はほとんど減らないという国際エネルギー機関(IEA)の試算を突きつけている。

電気自動車については、耳に痛い話がもう一つある。リチウムイオン電池のリチウムは、主要産地が南米チリの山岳部にあり、そこで大量に汲みあげた地下水から採りだしているという。自然環境に影響がないわけがない。「石油の代わりに別の限りある資源が、グローバル・サウスでより一層激しく採掘・収奪されるようになっている」。これも、当欄が前回論じた外部化の例だ。(当欄2021年5月7日付「いまなぜ、資本主義にノーなのか」)

それ以外のグリーン技術も批判の的になる。たとえば、バイオマス。植物由来の有機物を燃料に使えば、その植物が光合成で取り込んだCO₂を再び吐き出すだけで済む。ただ、その植物を栽培するために熱帯雨林が切り払われたらどうか。森林が光合成で吸収するCO₂は莫大だから、排出量抑制の効果は薄れてしまう。さらには、森の生態系が失われることも無視できないだろう。一つの環境負荷を抑えても別の負荷が頭をもたげるのだ。

著者は、IT(情報技術)をグリーンととらえる見方にも異を唱える。現代は「脱物質化した経済システム」が生まれつつあるように見えるが、そうではないと言う。「コンピューターやサーバーの製造や稼働に膨大なエネルギーと資源が消費される」からだ。

これだけ気候ケインズ主義がボコボコにされれば、資本主義を続けながら気候変動に立ち向かうのは難しそうだ、と思えてくる。では、資本主義をやめればそれでよいのかと言えば、そういうわけでもないらしい。著者が問題視するのは、欧米に台頭してきた「左派加速主義」だ。マルクス前期の生産力至上主義にこだわり、「資本主義の技術革新の先にあるコミュニズム」ならば「完全に持続可能な経済成長が可能」とみる立場だという。

この本が左派加速主義の代表例としてとりあげるのは、英国のジャーナリスト、アーロン・バスターニが唱える「完全にオートメーション化された豪奢(ごうしゃ)なコミュニズム」だ。畜産に広大な放牧地が必要なら、人工肉を工場で量産すればよい。人類の敵である病に対しては、遺伝子工学で立ち向かえばよい。リチウムなどレアメタルが文字通りに希少なら、宇宙開発を進めて小惑星で採掘すればよい……そんな具合に技術至上論の趣がある。

左派加速主義に関心が集まる背景には、太陽光など再生可能エネルギーへの期待が高まったこともあるだろう。それは「無償のエネルギー源」なので、コミュニズム向きだ。地表を太陽光パネルで埋め尽すことが地球環境を損なうというなら、宇宙空間で太陽光を集めればよいのかも……こう考えると、旧ソ連とは異なる流儀で経済成長を伴うコミュニズム(共産主義)をめざすことは、時宜に適っているようにも思えてくる。

だが、著者は舌鋒鋭く、左派加速主義を弾劾する。経済の規模が膨らめば「結局は、より多くの資源採掘が必要となる」。エネルギー需要の高まりは再生可能エネルギーをふやしても追いつかず、CO₂濃度の上昇は避けられない。ここにも「ジェヴォンズのパラドックス」がある、と論じている。これについて、私は半信半疑だ。ちゃんとした試算をみてから判定しよう。ただ、生き方論で言えば、左派加速主義に同調する気にはなれない。

これは、私たちの世代の偽らざる実感ではないか。電気冷蔵庫だ、クーラーだ……と家電の登場に喜んでいるうちに電力消費はみるみるふえ、ついには原発が列島に建ち並んだ。その結果、未曽有の大事故である。ITもそうだ。電卓、ワープロ、パソコン、スマホ……つぶやきも動画も瞬時にやりとりできるようになったが、自分がいつも監視されているような気がする。技術は過信できない。技術に浸るのは怖い。そんな思いがある。

では、私たちの世界が気候変動の危機を回避して生き延びる処方箋は何か。「脱成長コミュニズム」だ、と著者は言う。本書によれば、それはマルクスが最後にたどり着いた思想と同じものだ。共同体が「同じような生産を伝統に基づいて繰り返している」とき、そこには「経済成長をしない循環型の定常型経済」(太字は本文では傍点)がある。マルクスは晩年になって、そのことに気づいた。著者は、それを知って現代に生かそうと考える。

文字通り、処方箋のように「脱成長コミュニズムの柱」が箇条書きされたくだりが、この本にはある。筆頭に挙げられているのが「使用価値経済への転換」だ。「使用価値」という言葉がキーワードなので、これを軸に今風のコミュニズムを読み解いていこう。

「使用価値」とは、言葉を換えれば「有用性」だ。この本によれば、それをマルクスは商品の「価値」と切り分けて考えていた。資本主義は商品としての価値を重んじるので、「売れればなんだってかまわない」「一度売れてしまえば、その商品がすぐに捨てられてもいい」と思いがちな側面がある。「使用価値」とは関係のないところで商品の「価値」が高まる例として、「ブランド化」やそれがもたらす「相対的希少性」が挙げられている。

「使用価値」の高いものとしては、コロナ禍で品不足になった物品が例示されている。マスク、消毒液、人工呼吸器だ。「先進国であるはずの日本が、マスクさえも十分に作ることができなかった」のはなぜか? それはコスト高となる国内生産を嫌い、海外生産に依存したからだ、と著者はみる。「資本の価値増殖を優先して、『使用価値』を犠牲にした」――これこそは、私たちが1年前に痛い目に遭った現代資本主義の現実である。

脱成長コミュニズムでは「エッセンシャル・ワークの重視」も「柱」の一つだという。「エッセンシャル・ワーク」という用語は、今回のコロナ禍でにわかに知れ渡った。医療、介護、配送、清掃……。巣ごもりが奨励されるときでも働かざるを得ない人々が世の中にいることを思い知らされたのだ。これは、「使用価値」の労働版にほかならない。保健所の激減がコロナ対策を滞らせていることは、この柱が必須であることを物語っている。

このあたりを読むと、当欄がとりあげたスロベニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクの論考「監視と処罰ですか?/いいですねー、お願いしまーす!」(松本潤一郎訳、『現代思想』2020年5月号、青土社)を思いだす。そこでジジェクは、コロナ禍では医療資源の配分をめぐって、「適者生存」に対抗する思想として「再発明されたコミュニズム」がありうることを論じていた。(当欄2020年7月10日付「ジジェクの事件!がやって来た

だが、「使用価値」優先にも問題はある、と私は思う。Aの危機ではX、Bの危機ではYというように必要なものは危機によって違う。XもYも……となにもかもは用意できまい。そもそも「脱成長」だって心配だ。高齢化などで高度の社会保障が求められる今、私たちは成長なしでほんとにやっていけるのか? ブランドの幻想にだまされない、シェア経済で無駄な消費をしない、というように工夫はいろいろあろうが、それだけで間に合うのか。

脱成長コミュニズムは未完成のように私には思える。ただ、人類がいつの日かコロナ禍を乗り越え、社会を再設計しようとするとき、この思想にいくつかヒントを見いだせるのは確かだろう。保守派を任ずる人も、コミュニズムと聞いただけで顔をしかめないほうがよい。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年5月14日公開、同月17日最終更新、通算574回
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いまなぜ、資本主義にノーなのか

今週の書物/
『人新世の「資本論」』
斎藤幸平著、集英社新書、2020年刊

成長

のっぺりした街になってしまったなあ、と思う。私が住んでいる辺りのどの通りがどうというわけではないのだが、なべて商店街はのっぺりしてしまった。

のっぺりとは、平らなさまを言う。ただ私はここで、荷風やタモリ、あるいは『武蔵野夫人』の大岡昇平のように地形の起伏にこだわっているわけではない(「本読み by chance」2019年2月1日付「東京に江戸を重ねる荷風ブラタモリ」、当欄2021年4月23日付「武蔵野夫人、崖線という危うさ」、当欄2021年4月30日付「武蔵野夫人というハケの心理学」)。そうではなくて、沿道が単調になったことを嘆いているのだ。

数十年も続いた老舗の和菓子屋、ひと癖ありそうな店主のいる古書店などが次々と消えていく。代わって現れるのは、たいていがフランチャイズか、それに似た店々。いつのまにか、コンビニ→ファストフード→スマホショップのような並びができあがっている。

コンビニ→ファストフード……のような配列が目立つのは、一つや二つの街に限った話ではない。いまや、どこの街にもある定番の風景になっている。だから、のっぺりは一つの商店街を形容する言葉にとどまらない。日本社会そのものがのっぺりしてきたのだ。

科学用語では、こうした変化をエントロピーが増大するという。熱い湯1瓶と冷たい水1瓶を混ぜると2瓶分のぬるま湯ができる、というような法則だ。熱湯と冷水が1瓶ずつという状態には、瓶1本ずつの個性がある。ところがぬるま湯2瓶分となれば個性がない。のっぺりしているわけだ。Aという町の酒屋もBという町の乾物屋もCという流通大資本のコンビニ店になる。無個性の増大、これはエントロピーの増大にほかならない。

ここで思いだすのが、子どものころに社会科で教わった社会主義国の政治経済体制だ。福祉の水準は高いが、都市も農村も国営企業や集団農場でひと色に染まっているという。私たちの世代は社会主義に憧れつつも、その単色の世界にはついていけないと思ったものだ。大きなエントロピーに対する嫌悪である。資本主義はイヤだが、それが保証する自由は失いたくない――そう思う若者が多かった。かく言う私も、その一人だった。

ところがどうだろう。今は、資本主義こそが世界をひと色に染めているではないか。大きな資本が小さな資本を吸い込み、国境を越えて人々を同じ市場に囲い込む。これではまるで、エントロピー増大の牽引車だ。これまで私たちは、資本主義は人々の個性を重んじる、と信じてきた。新自由主義が民間活力に期待を寄せたのも、この通念があったからだ。だがそれは、どうも嘘っぽい。もう一度、資本主義を問い直したほうがよい。

で、今週は『人新世の「資本論」』(斎藤幸平著、集英社新書、2020年9月刊)。「新書大賞2021」に選ばれるなど、話題の本である。著者は1987年生まれ、ベルリンのフンボルト大学などで哲学を学び、今は大阪市立大学大学院で准教授を務めている。専門は経済思想、社会思想。前著『大洪水の前に』(邦題、堀之内出版、2019年刊)はカール・マルクス(1818~1883)の「エコ社会主義」を論じた本で、数カ国で出版されている。

書名にある「人新世」は、近年よく耳にする新語だ。地質学の用語に倣って「人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくした年代」(本書「はじめに」から)を指している。このことからもわかるように、著者は、気候変動という今日的な切り口で資本主義の矛盾をあばき、マルクスの文献を精読して、そこに解決の糸口を見いだしている。さらに言えば、本書の刊行直前に勃発したコロナ禍も、この文脈のなかで論じている。

著者は本書で、マルクス自身の思想を3段階に分けている。①「生産力至上主義」(1840~1850年代)→②「エコ社会主義」(1860年代)→③「脱成長コミュニズム」(1870~1880年代)という進化があったとみているのだ。持続可能性の重視は①にないが、②③にはある。経済成長の追求は①②にあるが、③にはない。代表的な著作をこの区分に当てはめると、『共産党宣言』は①期に、『資本論第1巻』は②期にそれぞれ刊行されている。

著者によれば、マルクスは②期の『資本論』第1巻で、人は「自然に働きかけ、さまざまなものを摂取し、排出するという絶えざる循環の過程」を生きている、という人間観を提示した。そこには「人間と自然の物質代謝」がある。この代謝は、資本主義によって価値の増殖を最大化するように変えられてしまう。「資本主義は物質代謝に『修復不可能な亀裂』を生み出すことになる」――『資本論』は、そんな警鐘を鳴らしているのだという。

だが、この主張は従来のマルクス主義解釈では脇役だった。それは、自然環境の破壊が旧社会主義国で顕著だったことを見ればわかる。たとえば、旧ソ連は5カ年計画を掲げて経済成長をめざした。成長の原動力を市場ではなく、計画経済に求めようとしたところだけが資本主義国と異なる。だから、その生産活動の一部は資本主義国と同様に公害をまき散らしたのである。ただそれでも、②期のエコロジーは知る人ぞ知る話ではあった。

本書が光を当てるのは、これまで知られていなかった③期の思想だ。著者によると、いま世界のマルクス学究の間では『マルクス・エンゲルス全集』の新版刊行を企てるMEGA計画(MEGAは「マルクス」「エンゲルス」「全集」を独語表記したときの頭文字)が進行中で、著者もそれに参加している。新版に収められる草稿、ノート類に「今まで埋もれていた晩期マルクスのエコロジカルな資本主義批判」があった、という。

MEGA研究によって明らかになったマルクス晩年のエコロジー探究には目を見張る。なによりも驚かされるのは、自然科学が視野のど真ん中にあることだ。「地質学、植物学、化学、鉱物学などについての膨大な研究ノートが残っている」という。「過剰な森林伐採」による気候変化や、石炭などの埋蔵資源を乏しくする「化石燃料の乱費」、開発行為が生物を脅かす「種の絶滅」などについて書物を読み漁り、理解を深めていたらしい。

マルクスは、そこから「脱成長コミュニズム」と呼べる思想を構築していくのだが、その中身に入る前に、いま2020年代の世界がどんな状況にあるかをみておこう。本書も、現代の資本主義が地球の生態系(エコシステム)をどのように乱しているかを詳述している。

最初のキーワードは「グローバル・サウス」だ。その意味は南北問題の南、即ち途上国とほぼ重なるが、もう少し幅広くとらえて「グローバル化によって被害を受ける領域ならびにその住民」のことをいう。逆を言えば、私たちはグローバル・ノースに属する。著者は「グローバル・ノースにおける大量生産・大量消費型の社会」が「グローバル・サウスからの労働力の搾取と自然資源の収奪なしに…(中略)…不可能」であることを指摘する。

具体例が挙げられている。たとえば、ファストファッションの衣料品だ。原料の綿花栽培を担うのは「インドの貧しい農民」だ。「四〇℃の酷暑のなかで作業を行う」だけでなく、1年ごとに「遺伝子組み換え品種の種子と化学肥料、除草剤」を買わされるという負担もある。工程の川下には「劣悪な条件で働くバングラデシュの労働者たち」もいる。2013年には、複数の縫製工場が同居するビルが崩壊して千を超える人命が奪われる事故があった。

グローバル・サウスが収奪される自然資源には「環境」も含まれる。この本には、加工食品やファストフードに多用されるパーム油の話が出てくる。アブラヤシの実から採れる油である。産地のインドネシアやマレーシアでは、アブラヤシの農園づくりのために熱帯雨林が伐採された結果、生態系が壊され、土壌が削られ、川も農薬などに汚染されて魚が減っているという。地産地消の暮らしが壊滅状態に陥ってしまったのだ。

このくだりには、もう一つ「外部化」というキーワードもある。グローバル・ノースが「豊かさ」の「代償」をグローバル・サウスに「転嫁」してしまうことだ。「外部化」には怖い一面がある。ノースの人々は「代償」をサウスへ追いやることで、その現実を見ないで済む。「代償」の「不可視化」である。こうしたノースのありようを、ドイツの社会学者シュテファン・レーセニッヒは「外部化社会」と名づけ、批判的に論じているという。

人新世とは、その転嫁が極まって「外部が消尽した時代」というのが、この本の見方だ。「資本は無限の価値増殖を目指すが、地球は有限」である。だから、「外部を使いつくすと」「危機が始まる」。それがもっとも極端に表れたのが気候変動だ、というのだ。

これには、補足が必要だろう。二酸化炭素(CO₂)の温室効果による地球温暖化では、グローバル・ノースが化石燃料を燃やしてCO₂を吐きだすことが即、グローバル・サウスからの収奪とは言えない。なぜなら、温暖化は地球全域に及ぶからだ。ただ私なりに考察すれば、こうは言える。ノースの人々は化石燃料の燃焼によって恩恵も受けている。これに対して、サウスの人々は温暖化の負荷ばかりを押しつけられる。だから、転嫁なのだ。

ところが最近は、グローバル・ノースの人々にも気候変動の被害が「可視化」されてきた。著者が言うようにスーパー台風などが気候変動の表れだとすれば、ノースにも「代償」が見えてきたのだ。「外部化」という現代資本主義の仕掛けが行き詰まったと言ってよい。

このくだりは、この本の最大の読みどころだ。今風の資本主義批判の核心と言ってよい。理系の目で見れば「地球は有限」は自明のことだ。ところが資本主義は、そこに「運用ごとに生まれる貨幣は多くなり……」(ベンジャミン・フランクリン、当欄2021年4月9日付「ヴェーバー資本主義の精神はどこへ」)という無限増殖を期待した。私たちは「外部化」の破綻で起こる災厄の予感のなかで、有限に無限を求めることの愚にようやく気づいたのだ。

「脱成長コミュニズム」に立ち入る前に紙幅が尽きた。来週も引きつづき、本書を読む。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年5月7日公開、同月11日更新、通算573回
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