量子もつれをふつうの言葉で語る

今週の書物/
ノーベル物理学賞(2022年)プレスリリース
スウェーデン王立科学アカデミー、2022年10月4日発表

粒子のもつれ

盆と正月がいっぺんに来たとは、こういうことを言うのか。10月4日午後7時前、ノーベル物理学賞の発表をストックホルムからのインターネット中継で見ていたときのことだ。

発表前、そわそわする気持ちを静めるように私はつぶやいた。「とってほしいのはアラン・アスペ、アントン・ツァイリンガー……」。数分後、スウェーデン王立科学アカデミーの事務総長らが着席、おもむろに読みあげた発表文に彼らの名前があった。私にとって意中の人二人の受賞がいっぺんに決まったのである――。

発表によると、今年の物理学賞はアラン・アスペ(フランス)、ジョン・F・クラウザー(米国)、アントン・ツァイリンガー(オーストリア)の3氏に贈られる。授賞理由には「量子もつれの関係にある光子の実験で、ベルの不等式の破れを確かめ、量子情報科学を切りひらいた」とある。(以下、敬称略)

ここに出てくる「量子もつれ」「ベルの不等式」については後述する。「量子情報科学」は20世紀末に台頭した物理学の新分野。そこで実証された量子力学核心部の不可解さは、量子コンピューターや量子暗号など最近よく耳にする技術の土台になっている。

私は1990年代半ば、ロンドンの駐在記者だったとき、量子情報科学の潮流に気づいた。1995年の春夏、欧州各地の大学や研究所で取材して、東京帰任後の10~12月に朝日新聞科学面(夕刊)の連載「量子の時代」で報告した。紙面にすべてを書ききれなかったので、後日『量子論の宿題は解けるか――31人の研究者に聞く最前線報告』(講談社ブルーバックス、1997年刊)も上梓した。31人のうちの二人がアスペとツァイリンガーである。

ご両人の思い出は尽きない。アスペは、古い実験機材が眠る物置まで見せてくれた。ツァイリンガーは、量子力学研究の大御所に引きあわせてくれた……。ただ当欄は今回、そういう話はしない。今週は、ノーベル物理学賞のプレスリリース(スウェーデン王立科学アカデミー作成)に的を絞り、その英語版をノーベル賞の公式サイト(*)からとりだして「書物」として読もうと思う。Pdf化されたものを印字するとA4判1枚。とても短い。

短いことには理由がある。細部に立ち入らず、要点のみを書いているからこうなるのだ。

今回の受賞研究は、いずれも光子、即ち光の粒を扱っている。実験で観測するのは、光子の偏光という性質だ。サングラスを選ぶときに話題にのぼる、あの偏光だ。このため、受賞研究の全貌を理解するには、偏光とは何か、それが偏光フィルターを通るとどうなるかを予備知識として学んでおくことが必要になる。逆を言えば、話が具体論に入ると、そこに躓きの石がたくさん待ち受けているのだ。科学を語るときには、こういうことがままある。

科学は、ひと握りの科学者だけのものではない。それがもたらす新しい世界像は私たちも均しく分かちあうべきだ。細部は捨てても、要点だけは押さえておきたい。今回の受賞研究に即して言えば、「偏光」がわからなくとも「量子もつれ」が何かは知っておきたい。

で、プレスリリースは「量子もつれ」をこう説明する。「量子もつれの関係にある粒子対は、それらが遠く離れていても、一方の粒子に起こることがもう一方の粒子に起こることを決定する」。別の箇所には、量子もつれの状態では「二つの粒子が分離していても単一のもの(a single unit)のように振る舞う」とする記述もある。こんな話を聞けば、物理学では大変なことが起こっているのだな、と思う人がふえるに違いない。

それがどれほど大変かは、プレスリリースを離れて私自身が補足説明しよう。旧来の物理学では、A地点の出来事がB地点の出来事に影響を及ぼすとき、A地点の情報がB地点に届く必要があった。このとき、伝達速度が光速を超えることはない。ところが量子力学によれば、A地点の粒子aとB地点の粒子bが量子もつれの関係にあるとき、a、bの観測結果が〈いっせいのせい〉で一気に決まる。これは、世界観がひっくり返る話ではないか。

授賞理由には、もう一つ「ベルの不等式」という専門用語があった。これは、ジョン・スチュアート・ベルという北アイルランド生まれの理論物理学者が1960年代に考えだした不等式だ。これを解説したくだりを要約すると、こうなる――。

量子もつれの粒子対にみられる「相関」(correlation)は、それらが身につけた「隠れた変数」に起因するのではないか、という懐疑が長くくすぶっていた。隠れた変数は、粒子の観測結果がどうなるかをあらかじめ指示するなにものかだ。ベルの不等式は、粒子同士の相関が隠れた変数によるものなら、実験で示される相関度には上限値があることを示した。一方、量子力学はこの上限値を超えるような強い相関の存在を予言していた。

隠れた変数説は、〈いっせいのせい〉には台本があるという見方。この立場をとれば、量子力学が言う量子もつれは幻想だということになる。正しいのは隠れた変数説か量子力学か。ベルの不等式はそれを実験で検証するお膳立てをしてくれたのである。

受賞が決まった3人が登場するのは、ここからだ。量子もつれの光子対をつくり、2光子を逆方向に飛ばして相関を調べる実験に最初に挑んだのはクラウザーだった。実験は量子力学を支持したが、隠れた変数説を完全には否定できなかった。「抜け穴」があったのだ。

その抜け穴をできる限り小さくしようと実験装置に工夫を凝らしたのが、アスペである。それは、量子もつれの光子対を光源から放った後、瞬時に測定システムの設定を切りかえて当初の設定が観測結果に影響を及ぼさないようにしたものだった。

ツァイリンガーも、ベルの不等式の破れを実験で調べているが、このプレスリリースでは主に量子テレポーテーションの開拓者として位置づけられている。これは粒子の量子状態を遠方の別の粒子にそっくり転送する試みで、量子もつれの応用例といえる。

このプレスリリースにはこんな記述がある。「言葉では言い表せない量子力学の効果(the ineffable effects of quantum mechanics)に応用の道が見えてきた。今や量子コンピューター、量子ネットワーク、量子暗号に守られた通信など広大な研究分野が存在する」

量子コンピューターや量子暗号は最近、成長戦略や経済安全保障の文脈でもてはやされている。ということは、物理学者でない私たちも無関心でいられない。変な使われ方をしないか、見張っていく必要もあるからだ。そのためには、量子力学とは何かをざっくり知っておかなくてはならない。「量子もつれ」が「言葉では言い表せない」ものでも、その本質はやはり言葉で語るべきなのだ。この点で、今回のプレスリリースは貴重な参考文献になる。
*ノーベル賞の公式サイトはhttps://www.nobelprize.org/
(執筆撮影・尾関章)
=2022年10月7日公開、同月9日最終更新、通算647回
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女王で思うミス・マープル噂の村

今週の書物/
『ミス・マープル最初の事件――牧師館の殺人』
アガサ・クリスティ著、山田順子訳、創元推理文庫、2022年刊

ティー

初秋の朝、英国からエリザベス女王の訃報が届いた。私の心に残ったのは、英国放送協会BBCの第1報だ。年配のキャスターが暗い色調の服に身を包み、淡々と伝える。「王室の発表によれば、女王はきょう午後、バルモラル城で“peacefully”に逝去しました」。“peacefully”は、この文脈では「安らかに」と訳すべきだろう。だが、私には「平和裏に」と聞こえた。その静かな死は、女王がキナ臭い世界に向けて発した遺言のように思えたからだ。

英国の王室というのは、不思議な存在だ。「君臨すれども統治せず」というが、その「君臨」とは何か。私がロンドン駐在の記者時代に驚いたのは、議会での女王演説だ。女王が、施政方針を読みあげる映像がテレビに流れていた。その政策はもちろん、議会によって選ばれた内閣が決めたものであり、女王の見解ではない。ここには女王の人権を度外視した虚構があるが、なぜかそれを問わない。どうしてこんなことを続けているのだろうか。

英国の議会と王室をめぐる諸々のしきたりについては、先輩記者からいろいろと教わった。そこには、かつて国王との間にあった緊張感を今も忘れない、という議会の決意があるという。なるほど、そうかもしれない。民主主義国家であっても絶対君主のような権力者がいつ現れるかわからない。それを抑えるのは、民主主義が王権よりも優位にあることの不断の確認だ。この作業で仮想の敵役を演ずるのが女王ということになる。

つまり、女王はたまたま王室の一員として生まれたために、自分の人権を一部犠牲にしてきた。それでも、一個人として自分を見失うことはなかったように思える。考えてみれば、あの“annus horribilis”(ラテン語で「酷い年」)発言も、ただの弱音ではなかった。

1992年11月、私がロンドンに着任後まもなくのことだ。この年、英国では王族夫婦の別居や離婚が相次ぎ、ウインザー城の火災もあった。女王にとっては在位40年の区切りだったが、その記念式典で「酷い年となった」と内心の思いを吐露したのだ。私はこの言葉を聞いたとき、ずいぶん率直な人だなあと思った。率直というのは理知的であるということだ。自分を客観視して心の整理をつけているからこそ正直になれる。

そんな英国人高齢女性の利発さを思い返していてすぐに思いだされるのが、クリスティ作品の素人探偵ミス・マープルだ。で、今週はマープルものを読もう、と思って書店に出かけた。選んだのが『ミス・マープル最初の事件――牧師館の殺人』(アガサ・クリスティ著、山田順子訳、創元推理文庫、2022年刊)だ。原著の発表は1930年。この邦訳は、出版元の東京創元社が「名作ミステリ新訳プロジェクト」の1冊として刊行している。

マープルは、当欄やその前身ブログに一度ならず登場している(*1、*2)。『予告殺人』(アガサ・クリスティー著、羽田詩津子訳、ハヤカワ文庫)と、『パディントン発4時50分』(アガサ・クリスティー著、松下祥子訳、ハヤカワ文庫)だ。幸い、行きつけの書店に在庫があった『牧師館…』は未読だった。ならばこれにしよう、と決めたわけだ。余談だが、Agatha Christieの日本語表記がハヤカワと創元で異なることを今回初めて知った。

さっそく『牧師館…』を開いてみると、マープルものの「最初の事件」らしく、事件はジェーン・マープルが暮らすセント・メアリ・ミード村で起こっている。それも、マープル邸の隣地が現場だ。読者にとってうれしいことに、巻頭にはその一帯の地図がある。

駅から表通りが延び、片側に商店が並んでいる。向かい側には庭付きの住宅群。うち一つがマープル邸だ。その隣に牧師夫妻の居宅牧師館や開業医の家がある。表通りの四つ辻には教会、そしてパブ兼宿屋「ブルーボア(青い猪)亭」。周辺には畑地もあり、住宅群の後方に森も広がっている。森の小径は治安判事の屋敷「オールドホール」に通じているらしい。あるべきものがあるべき場所にある――典型的な英国の田園風景だ(*3)。

この作品は、牧師の一人称で書かれている。だからマープル像は、牧師の目に映ったものだ。「ミス・マープルはおだやかで、ものしずかな白髪の老婦人」、それでいて「危険な人物」でもある――。こんなふうに描写されるのは、村の高齢女性4人が午後のひととき牧師館に集まり、お茶会を楽しむ場面。マープルの発言を聞いていると村の人々に対する観察も人物評もお茶会仲間より一枚上手、通りいっぺんの見方をしないのだ。

たとえば、古墳発掘のために村に滞在し、青い猪亭に宿泊している男女が話題になったとき。男性は考古学者を名乗り、女性はその秘書だという。どちらも結婚していないらしい。お茶会仲間の一人が、その秘書をあげつらって「育ちのいい女性ならあんなまねはしませんよ」「独身男性の秘書になるなんて」と顔をしかめると、マープルは「おや」と驚いてみせて「わたしは既婚男性のほうが油断ならないと思いますよ」と言ってのける。

村には、若手の画家が畑の一角の小屋に住みついている。この青年の行状もお茶会仲間の関心事だ。画家は治安判事の娘をモデルに水着姿の絵を描いており、それを知った判事との間でひと悶着あったという話も飛びだす。仲間の一人は「この若いふたりのあいだには、なにかあるんでしょうかね?」「ありそうな気がするんだけど」と勘ぐるが、マープルは「そうは思えないわね」と同調しない。「なにかある」のは別人だ、とにらむのだ。

お茶会の終わり、牧師はマープルに直言する。この村の人々は「おしゃべりがすぎる」という苦言だった。これに対して、マープルは「あなたは世間をごぞんじない」と切り返す。「長いあいだ人間性なるものを観察していると」「多大な期待などしなくなる」と打ち明けて、「根も葉もない噂」にも「真実」が潜んでいることがよくある、と諭すのだ。噂は無批判に信じてはいけないが、「真実」に迫るには聞いておいたほうがよいということか。

その日の後刻、牧師は画家と女性のキスシーンを目撃する。女性は、治安判事の娘ではない。彼女の継母、即ち判事の妻だった。「自制的」と思われている人だ。「マープルの眼力」が「目先の出来事」に惑わされず「物事の本質」を見抜いたことに牧師は感心する。

事件は翌日の夕、牧師館で起こる。治安判事が書斎で牧師の帰宅を待っていたとき、後頭部を銃で撃たれ、息絶えたのだ。謎めいたことが多かった。その一つは、牧師が面談を約束した時刻に不在だったことだ。彼は、教区に住む病人が危篤との電話を受けてその家に出向いたのだ。ところが訪ねると、病人の体調は安定していた。だれかがニセの電話をかけたらしい。殺人事件として捜査が始まると、画家が警察に自首してきた――。

このあたりから、ミス・マープルが事件の謎解きにかかわってくる。当欄は、その過程で見えてくるマープル流推理のクセを拾いあげたいのだが、それはやめる。ネタばらしを避けるためだけではない。この小説では、事件解決の途中段階でマープルが考えていたことが終盤になってひっくり返ることも少なくないからだ。彼女は時々刻々、自分の考えを変えている。なにごとも疑ってかかり、疑ってかかる自分自身も疑っているような気配だ。

一つだけ、謎解きの途中経過を紹介しておこう。警察が殺害動機のある人物を二人に絞り込んだとき、マープルは、ほかにも「少なくとも七人はいます」と反論した。後段の記述によると、彼女は実際に7人を思い描いていた。その顔ぶれから、あらゆる可能性を排除していないことがわかる。世間の常識にとらわれないのだ。この幅広の推理こそがマープル流の真骨頂だろう。そのときに役立つのが人間観察であり、噂の収集である。

マープルは、村に飛び交う噂に耳を塞がない。噂を参考にして理詰めの思考を組み立てる。ただ、そこから導いた仮説は自分自身でも懐疑しているから、めったに口にしない。受信には積極的だが、発信は慎重。情報社会にあって、もっとも賢明な態度と言えよう。

マープルものを読んでいると、英国で愛読した大衆紙を思いだす。英国人は噂好きで、社会全体がセント・メアリ・ミード村なのだ。新聞報道をお茶会に見立てれば、英王室はお茶会の会話に噂話のタネを提供してきた。ただ王室の人々は総じて、噂に煩わされながらもそれを巧妙にかわし、自分の思考を貫いてきたのではないだろうか。噂とのつきあい方という一点で、女王の姿はミス・マープルに重なっているように私には思える。
*1 当欄2020年10月30日付「アガサで知る英国田園の戦後
*2 「本読み by chance」2016年2月5日付「クリスティーの〈英〉列車で行こう
*3 当欄2022年9月16日付「アメニティの本質を独歩に聴く
☆引用部分のルビは原則、省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年9月23日公開、通算645回
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AIで変わる俳句の未来?

今週の書物/
『AI研究者と俳人――人はなぜ俳句を詠むのか』
川村秀憲、大塚凱著、dZERO社、2022年刊

@付き

対談本は、読書ブログの相手としては難物だ。起承転結が望めない。Aさんの話にBさんが乗ってきても、Aさんが言いたかったこととBさんが聞きたかったことにズレがあったりする。読み手の見通しは裏切られるばかりだ。だが、そこにおもしろさがある。

AさんとBさんの専門領域が異なるとき、しかも二人の領域が一部で重なりあうとき、その部分集合でおもしろさは全開になる。『AI研究者と俳人――人はなぜ俳句を詠むのか』(川村秀憲、大塚凱著、dZERO社、2022年刊)は、そんな対談本の典型だ。

著者川村さんは人工知能(AI)の研究者、大塚凱さんは新進気鋭の俳人。二人は、AI俳句と人工知能「AI一茶くん」の縁でつながっている。当欄は先週、本書を読んでAI俳句の正体を探ったが、今週はもう少し幅広い視点から読みどころをすくいとろうと思う。

必読なのは、二人が俳句を情報工学的に論じあうくだりだ。ここでのキーワードは、「エンコード」(符号化)と「デコード」(復元)。情報技術(IT)では、発信元が音源や画像を「符号化」して送ることになるが、それが送信先では「復元」され、受け手は原本とほぼ同じものを手にできる。俳句では作者が作句というエンコードを担うが、デコードは「他者に委ねる」ので「予測がつかない」(川村)。そこに醍醐味があるらしい。

このことに関連して、ドイツの理論生物学者ヤーコプ・フォン・ユクスキュルが提案した「環世界」も話題になる。世界は生物種ごとに別のものとして存在するとの視点に立って、ダニにはダニの、ヤドカリにはヤドカリの「環世界」があるとみる考え方だ。

ヒトの個々人にもそれぞれ「主観的な世界」がある。ところが俳句では、作者と読者が句を「架け橋」にして「お互いの『世界』を行き来できる」(川村)。これが、ダニやヤドカリの「環世界」と違うところだ。川村さんによれば、俳句では「ことばの定義」や「背景となっている知識」などが「共有」されることで「混じり合わないはずの主観的な世界が混じり合う」という。先週話題にした季語や固有名詞は、この局面で一役買うのだろう。

ここで大塚さんは、俳人ならではの情報観を披瀝する。俳人にとって「エンコードされる前の元の情報と、デコード後に得られる情報がどれだけ一致しているか」は一大事ではない。デコード処理がアナログ的なので、作者が句に入れ込もうとする情報は「デコードされるたびに、つまり、読まれるたびに、劣化、というより、変化する」――。そこに見てとれるのは、不正確な復元を「劣化」と見ず、前向きに「変化」ととらえる姿勢である。

これを受けて、川村さんは話を再び「環世界」に引き戻す。作者が世界をどうエンコードするか、読者が他者の句をどうデコードするか、という工程に目をとめれば、俳句には「それぞれの環世界を垣間見る」という醍醐味があることを指摘している。

対談の妙味ということで言えば、話が突然、「トロッコ問題」に飛ぶところも私の印象に残った。暴走車両が走る線路で分岐点の先の片方に5人、もう一方に1人がいたとき、分岐点のポイントをどう操作するか、という倫理の思考実験だ。この問いでは「『多くの人を助けるためなら、一人を犠牲にしてもよいのか』という正解のない選択肢」(川村)が提示される。AIによる自動走行車の開発などでは切実な問題になっている。

これに対するAI研究者川村さんの見解は明快だ。「正解のない問いには、AIも答えることができません」。人間が答えられないからAIに任せよう、というのは虫がよすぎる、というわけだ。AIにできるのは、そんな「究極の選択」を伴う「極限状態」を避けることであり、合理的な思考で「あきらかにまちがい」とわかることを排して「選択肢を絞っていくこと」――AIは人間の「補佐」役こそがふさわしいという見方を示す。

川村さんは、このAI観を俳句に結びつける。AIに作句させて自力で最良句を選ばせるという目標は「研究者の野望」として否定しないが、現実には「俳句をつくった人の手助けをして、よい句に近づけていく」くらいで満足すべきではないか、というのだ。

これに応えて、俳人大塚さんは「添削」と「推敲」の違いをもちだす。俳句の添削は語順や言葉の効率性などの改良にとどまるが、推敲ではもっと高い次元から句を練り直す。添削の一部はAIに任せられるが、「『推敲』は人間と人間の関係からでしかなし得ない」。大塚さんが「人間と人間の関係」の例に挙げるのは師弟の交流だ。師の句評や作品群の背後にある俳句への向きあい方、即ち「非言語的なプリンシプル」も推敲の力になるという。

はっとさせられるのは、川村さんが推敲を「正解・不正解のどちらとも決められない領域」に位置づけていることだ。そうか。俳句を詠むというのは、トロッコ問題を議論するのと同様、正解の見いだせない問いと対峙する「高次」の知的作業なのか。

本書には、「AI俳句は俳句を終わらせる可能性がある」(大塚)という衝撃的な予言もある。AIは「膨大な句を吐き出す」から、すべての句を人間より先に生成してしまうかもしれないという。川村さんも、米国の弁護士兼プログラマー兼音楽家がアルゴリズムを駆使して680億曲以上をつくったという話を引きあいに出して予言を支持した。ちなみに、この大量作曲は「みんなが自由に使っていい」公有のメロディをふやすためだったらしい。

俳句は五七五の短詩型文学なので、ただでさえ「有限」感がある。AIが参入すれば、なおさらだ。そこで、対談の向かう先は俳句の未来像になる。川村さんは、「どんなコンテクスト、どんな背景をもって、その句をそこでは詠むのか」に重心が移るとみる。コンテクスト(文脈)への依存である。大塚さんも、句に付随する共有知識の部分が膨らんで「コンテクストへの愛好が表面化する時代が来る、すでに来つつある」と同調する。

二人の合意点を私なりに読み解くと、こうなる。俳句の芸術性を句そのものの新しさに見いだす時代はまもなく終わる。これからの俳句は、作者と読者の共有空間に置いて、どんな感興が呼びおこされるかを楽しむものになる――。大塚さんは、それを平安時代の宮廷歌人が即興で和歌を詠む慣習になぞらえる。川村さんは、現代の「オタク同士の会話」にたとえる。句は句を詠む場とともにあるわけだ。当欄はそれを、@付きの句と呼ぶことにしよう。

これを読んで、私は二つのことを予感する。悪いほうを先に言えば、俳句がネットの炎上現象に似て一方向を向いてしまわないか、という危惧だ。だが、良いこともある。

もともと人間は、人類すべてを相手に交信していなかった。近年、SNSの登場で個々人が大集団と心を通わせたような気分になりがちだが、それは幻想に過ぎない。そんなとき、俳句は小集団の共感を大事にするという。それはそれで一つの見識ではないか。
☆引用箇所のルビは原則、省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年8月26日公開、通算641回
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AIは俳句上手の言葉知らず

今週の書物/
『AI研究者と俳人――人はなぜ俳句を詠むのか』
川村秀憲、大塚凱著、dZERO社、2022年刊

スイカ、甘い?

古ポスター日焼けの美波里日にヤケて(寛太無)
先日の句会はオンライン形式で、お題――俳句では兼題という――が夏の季語「日焼」だった。上記は、このときの拙句だ。うれしいことに7人の方が選んでくださった。

自句自解――自分の句を自分で解説すること――は無闇にすべきではないが、今回は許していただこう。私の脳内では、この句に行き着くまでにいくつかの工程があった。思いつきがある。連想がある。思惑もある。それらを一つずつたどってみよう。

今、日焼けは負のイメージが強い。「UV(紫外線)カット」という言葉があるように悪者扱いされたりする。だが、昔は違った。真夏の街には、小麦色の肌があふれていた。夏も終わりに近づけば、どれだけ背中を焼いたかを競いあう若者たちもいた。

昔の価値観、即ち日焼けの正のイメージということで真っ先に思い浮かんだのは、あの資生堂ポスターだ。女優の前田美波里さんが水着姿で砂浜に寝そべり、上半身をもたげて顔をこちらに向けている。肌は美しい褐色。1966年に公開されたものだった。

そこでとりあえず心に決めたのは、中の句、即ち五七五の七に「日焼けの美波里」を置こうということだった。「日焼け」と「美波里」をつなげるだけで、あのポスターと1960年代の世相を読者は想起するだろう。半世紀余も前のことなので、世間一般には通じないかもしれない。だが、句会メンバーには同世代人が多いので、幾人かがビビッと反応してくれるに違いない。私の脳内には、そんな思惑が駆けめぐったのである。

これで、ポスターの記憶と1960年代の空気は読者(の一部)と分かちあえるだろう。次に画策したのは、日焼けをめぐる今昔の価値観を対照させること。そこで、ポスターの経年変化がひらめいた。古書のヤケに見られる紙の加齢現象はポスターにもある。美波里さんは正の日焼けをしているが、彼女が刷り込まれた紙は負の日ヤケをしている。紙のヤケそのものは劣化現象であっても、ヤケをもたらす時の経過はたまらなく愛おしい――。

そういえば、あのポスターは商店の壁などに長いこと貼られていた。現実にはありえないだろうが、今もはがされず壁に残っていたら……そんな空想をめぐらせて、下の句「日にヤケて」が決まった。以上が、日焼けの拙句を組み立てた脳内工程のあらましだ。

で、今週の1冊は『AI研究者と俳人――人はなぜ俳句を詠むのか』(川村秀憲、大塚凱著、dZERO社、2022年刊)。川村さんは1973年生まれ、人工知能(AI)の研究者で「AI一茶くん」開発チームを率いる北海道大学教授。大塚さんは1995年生まれ、2015年に石田波郷新人賞を受けた新進の俳人で俳句同人誌「ねじまわし」を発行している。本書は、AI一茶くんをよく知る二人が俳句とは何かという難問と向きあい、語りあっている。

ではなぜ、私が本書を手にとったのか? ここに前述の句会がかかわってくる。先達メンバーの脚本家、津川泉(俳号・水天)さんが「日焼けの美波里」を選句してくださったうえで、固有名詞を取り込んだ作句をどうみるかを講評欄の話題にしたのだ。

そこで引用されたのが本書だ。AIの俳句には固有名詞が多いこと、固有名詞の句は人間もつくりやすいことを踏まえて、著者の一人、大塚さんが「安易さと戦うのが書き手の責務と捉えれば、固有名詞の句には慎重であるべき」と戒めているという。

これは、ぜひとも読まねばなるまい。AIはどんな手順で俳句をつくるのか、それは私の脳内の工程とどこが同じで、どこが異なるのか。これらの疑問に対する答えがおぼろげにでも見えてくれば、AIがなぜ固有名詞句を得意とするかがわかるかもしれない――。

ということで本書に踏み入ると、驚くべき解説に出あった。AIは語意を知らずに作句するというのだ。たとえば、「林檎」の句をどう詠むか。AIは「林檎が赤いことも、食べられることも知りません」(川村)。過去の作品群を「教師データ」にして「『林檎』の次にどんなことばが来る可能性が高いのか」(同)を学習する。具体的には助詞「の」や動詞「咲く」などがありうるが、それぞれの頻度を調べて後続の語を決めていくらしい。

夢に見るただの西瓜と違ひなく(AI一茶くん)
本書に出てくる果物のAI俳句だ。「夢に見ている西瓜もまた西瓜である」(大塚)と読めるが、一茶くんはそんな至言を吐きながらスイカの甘さも量感も知らないらしい。当欄で先日学んだソシュール言語学でいえば、「シニフィエ(意味されるもの)が欠落した状態」(大塚)ということになる(当欄2022年7月8日付「ソシュールで構造主義再び」)。

AIには「俳句を詠みたいという動機がない」(川村)というのも目から鱗だ。AIは「人間の俳句を教師データとして使って」「賢いサイコロのようにことばをつないで」(同)、語列を俳句らしく整えているだけ。自句の「解釈」もできない。一語一語に意味が伴っていないのだから、文学的衝動とは無縁と言えよう。川村さんは、AI作句には「詠む」という動詞がなじまないので、「AI『で』」「生成する=つくる」と言うようにしているという。

となれば、AIが選句を苦手とするのは当然だ。川村さんによれば、「AI対人間」の俳句コンテストがあってもAIは出品する句を自分で選べない。AIに今できるのは「日本語として意味の通じない句」をつくったとき、それを作品から除外することくらいという。

ここで、AIがなぜ固有名詞の句を得意とするか、その答えを本書から探しておこう。川村さんの説明はこうだ。固有名詞は「意味するところが狭い」、だから「意味が通りやすい」――。AIは「教師データ」をもとに言葉をもっともらしく並べ、俳句を生成していく。このとき、日本語になっていない語列ははじかれるが、固有名詞があると排除されにくいということなのか。そういうものかと思う半面、反論してみたい気持ちもある。

西行の爪の長さや花野ゆく(AI一茶くん)
シャガールの恋の始まる夏帽子(同)
これらも、本書に例示されたAI俳句だ。冒頭の語がただの「僧」や「画家」ではなく「西行」や「シャガール」だからこそ、読み手の心に放浪や幻想のイメージが膨らむのではないか。固有名詞には「意味」の幅を広げる一面もあるように思えるのだが……。

固有名詞の効果を考えるうえで参考になるのは、著者二人が季語について語りあうくだりだ。季語は「共有知識」ととらえられている。川村さんによれば、ここで「共有知識」というとき、それは「相手が自分と同じことを知っているだけでなく、『相手が知っている』ということを知っている」状態を想定している。俳句の季語では、「本来の語意」のみならず「付随する周辺的な情報や心情」までが「共有知識」になるのだという。

具体例は、秋の季語「鰯雲」だ。大塚さんは、この言葉には「秋の爽やかさ」や「物思いを誘うような風情」といった気配がつきまとい、さらに「鰯の大群の比喩」にもなっているという。「季語の一つ一つに蓄積があり、連想がある」と強調する。

私見を述べれば、固有名詞にも同様のことが言えるのではないか。拙句の「美波里」という人名やそこから連想される1960年代の風景も「共有知識」だった、と言ってよい。

それにしても不思議なのは、AIが固有名詞入りの句を多くつくることだ。「周辺的な情報や心情」どころか「本来の語意」すら理解していないらしいのに、なぜそれを「共有知識」にできるのか。なにも知らず、「教師データ」に素直に従っているだけなのか。

本書には、俳句とAIについて考えさせられる論題がもっとある。俳句を情報工学の目で眺めると、初めて見えてくるものがあるのだ。次回も引きつづきこの本を。
☆引用箇所のルビは原則、省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年8月19日公開、同日最終更新、通算640回
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オーウェル、言葉が痩せていく

今週の書物/
『一九八四年』
ジョージ・オーウェル著、高橋和久訳、新訳版、ハヤカワepi文庫、2009年刊

ニュースピーク

言葉の貧困は目を覆うばかりだ。ボキャブラリー(語彙)が痩せ細った、と言い換えてもよい。「緊張感をもって」「スピード感をもって」「説明責任を果たしてほしい」……政治家の発言を聞いていると、同じ語句が機械的に並べられている感じがある。

有名人が不祥事を起こしたときのコメントも同様の症状を呈している。「重く受けとめています」「お騒がせして申し訳ありません」――記者会見があれば、ここで深々と頭を下げる。これは、官庁や企業の幹部が身内の不祥事について謝るときも同様だ。

市井の人々も例外ではない。たとえば、大リーグの大谷翔平選手がリアル二刀流の試合で勝利投手となり、打者としても本塁打2本を連発したとしよう。テレビのニュース番組が街を行き交う人々に感想を聞いたとき、返ってくる答えは「勇気をもらいました」「元気をありがとう」。勇気であれ元気であれ、心のありようは物品のように受け渡しできないはずだが、なぜかそう言う。世間には紋切り型のもの言いが蔓延している。

これらを一つずつ分析してみれば、それぞれに理由はある。政治家の「緊張感」や「スピード感」は、無策を取りつくろうため常套句に逃げているのだろう。有名人や官庁・企業幹部の「重く受けとめています」「お騒がせして申し訳ありません」は危機管理のいわば定石で、瑕疵の範囲を限定して訴訟リスクを下げようという思惑が透けて見える。そして「勇気」や「元気」は万能型の称賛用語で、ときには敗者を称えるときにも用いられる。

ただ、言葉の貧困から見えてくる共通項もある。今、私たちが無思考の社会にいるということだ。思考停止の社会と言ってもよいが、思考を途中でやめたわけではない。思考すべきところを思考せず、それを避けて通ったという感じだ。思考回避の社会とも言えないのは、思考を主体的に避けたのではなく、自覚しないまま無思考状態に陥っているからだ。私たちはいつのまにか、ものを考えないよう習慣づけられてしまったのではないか。

で、今週は言葉と思考について考えながら、引きつづき『一九八四年』(ジョージ・オーウェル著、高橋和久訳、新訳版、ハヤカワepi文庫、2009年刊)をとりあげる。著者は1949年の視座から1984年の未来を見通したとき、そこに監視社会という反理想郷(ディストピア)が現れることを小説にした。先週の当欄に書いたように、そのディストピアでは人々の思考も操られている。そして、このときに言葉が果たす役割は大きそうなのだ。

『一九八四年』が秀逸なのは、そこに新しい言語「ニュースピーク」を登場させていることだ。たとえば、前回の拙稿(*1)にも書いたように、主人公のウィンストンは勤め先の真理省記録局で新聞の叙勲記事を書き換えるよう命じられるのだが、その業務命令もニュースピークで書かれているのだ。訳者は、それを巧妙に日本語化している。「bb勲功報道 倍超非良 言及 非在人間 全面方式書直 ファイル化前 上託」という具合だ。

bbによる叙勲の報道は大変によろしくないものだった、記事に出てくるのは居もしない人物だ、全面的に書き直せ……そう読み解ける。ここでbbは、英、米を含む大国オセアニアの「党」指導者ビッグ・ブラザーのことだろう。用件だけを伝えている感じの文面だ。

この言語がどんなものかは、この作品の末尾に添えられた「附録」を読むとわかる。「ニュースピークの諸原理」と題された一文だ。ニュースピークが「イギリス社会主義」の「要請」に適うように考えだされた「オセアニアの公用語」であること、1984年の時点では標準英語(オールドスピーク)と併用されていたが、2050年ごろまでには完全に置き換わるだろうと予想されていたことなどが、もっともらしく解説されている。

「イギリス社会主義(English Socialism)」は、略称「イングソック(Ingsoc)」。作品本体には、ビッグ・ブラザーの政敵の著書を引用するかたちでその説明がある。それはオセアニアの「党」が掲げる思想で、「党がオセアニアにある全てを所有する」という体制を支えている。支配層の中心は官僚、科学者、技師、労働組合活動家、広告の専門家、教師、報道人……などだという。中間層がいつのまにか一党独裁を生みだした、という感じか。

「附録」に戻って、ニュースピークの一端を紹介しよう。一つ言えるのは、それが英語を簡素にしていることだ。標準英語では、動詞の「考える」がthinkで名詞の「思考」はthoughtだが、ニュースピークでは動詞であれ名詞であれthinkでよい。これと反対に、名詞を動詞として使いこなす例もニュースピークにはある。「切る」はcutではなくknifeなのだ。これらの簡略化は、私のように英語を母語としない者には大変ありがたい。

簡略化は、このほかにもある。ニュースピークでは「悪い」のbadが不要で、「非良」のungoodが代用される。形容詞を強めたければ、語頭に「超」のplusや「倍超」のdoubleplusをくっつければよい。前出の「倍超非良」はdoubleplusungoodだったのだろう。

だが、ニュースピークには怖い側面がある。ひとことで言えば、意味を痩せ細らせることだ。典型例はfreeという言葉。標準英語では「自由な/免れた」の両方を意味するが、ニュースピークでは「免れた」の語意が強まった。「この犬はシラミを免れている」との趣旨で「シラミから自由である」という表現が成り立たないこともないが、「政治的に自由な」「知的に自由な」はありえない。この種の「自由」は言語空間から消滅したのだ。

同様のことはequalについても言える。equalという形容詞は、ニュースピークでも「すべての人間は等しい」という文に用いられるが、このときequalに込められた意味は体格や体力が「等しい」ということで、「平等」の概念はまったく含意していない。

これらの特徴から、イングソックがニュースピークに何を「要請」したかが浮かびあがってくる。それは、「イングソック以外の思考様式を不可能にする」ことだ。本稿のまくらにも書いたように、思考と言葉は密接な関係にある。だから、意味の痩せ細った新言語が広まれば、「異端の思考」をしそうな人が現れても「思考不能」の状態に追い込める――。オセアニアの「党」は、そんな「思惑」があってニュースピークを導入したのである。

もちろん、「思惑」通りには事が進まない。1984年の時点ではオールドスピークが日常言語だったから、ニュースピークで会話や文書を交わしても、オールドスピークにまとわりついた「元々の意味」を忘れられない。ここで威力を発揮するのが、「二重思考」だ。これは前回の拙稿で紹介した通り、とりあえずは「ふたつの相矛盾する信念を心に同時に抱き、その両方を受け入れる」という思考法だ。そのうえで危ない考えを回避していく。

このくだりで、著者は不気味な予言をしている。将来、ニュースピークしか知らない世代に代替わりしたら、その人々は「自由な」に「知的に自由な」の意があり、「等しい」が「政治的に平等な」も意味するとは思いも寄らないだろう、というのだ。「自由な」や「等しい」は即物的になり、その語句に詰め込まれた思想はすっかり剥ぎとられてしまう。言葉が思考から切り離され、ただの意思伝達手段、いわば信号になっていく感じか。

昨今の「緊張感をもって」「重く受けとめて」「勇気をもらいました」という常套句も、私にはニュースピークの一種に思われる。思考の気配がなく、定石の棋譜のようにしか聞こえないからだ。人類の前途にはオールドスピークからの完全離脱が待ち受けているのか。
☆引用部にあるルビは原則、省きました。
*1 当欄2022年6月24日付「オーウェル、嘘は真実となる
*2 本書『一九八四年』については、当欄2022年1月21日付「宗匠のかくも過激な歌自伝」でも言及しています。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年7月1日公開、同日更新、通算633回
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