特別な8月、コロナと核の接点

今週の書物/
広島、長崎の平和宣言
松井一實・広島市長、田上富久・長崎市長(2020年8月)

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今年の夏を「特別な夏」と呼んだのは、小池百合子東京都知事だ。コロナ禍は夏の風景を一変させた。人気の花火大会がとりやめになった、甲子園の応援合戦が消えた……そんな話ばかりではない。私たちは、いつもの年とは違う思いで鎮魂の日を迎えた。

8月と言えば、すぐに頭に浮かぶのは6日、9日、15日だ。俳句では、それを詠み込んだ類似句がたくさんできている(「本読み by chance」2016年12月9日付「俳句に学ぶ知財の時代の生き方」)。二つの被爆と一つの敗戦は今年、満75年の節目だったのだが、いずれも感染を避けるため、規模を小さくして挙行された。人々がまばらに並ぶ光景は、私たちがいま置かれている異様な事態を強く印象づけるものだった。

私は毎年、これらの式典で要人が語る言葉――宣言や挨拶や式辞――に注目している。いずれも平和の尊さを訴えていることに変わりはない。きれいごとの羅列という印象も拭えない。だが結構、読みどころがあるのだ。そのときならではの問題意識が織り込まれていることがある。行間ににじませた思いが伝わってくることもある。だからなるべく、テレビの生中継やニュースで聞くだけではなく、テキスト全文を熟読するようにしている。

2013年には松井一實・広島市長と田上富久・長崎市長の平和宣言を拙著『科学をいまどう語るか――啓蒙から批評へ』(岩波現代選書)で引いたこともある。このときに私が注目したのは、両市長ともその夏の宣言で東京電力福島第一原発事故に触れ、核エネルギーの危うさが原爆と原発に共通することを強く匂わせた点だ。日本社会は戦後長く、核の軍事利用と原子力の平和利用を別件として論じてきたが、それに疑問符を投げかけたのである。

今年は両市長がコロナ禍に言及するだろうと予想していたら、案の定そうだった。ということで今回は、松井・広島市長と田上・長崎市長の2020年版「平和宣言」(それぞれ8月6日と9日に発表)をとりあげる。全文は、広島市と長崎市の公式サイトで読んだ。

ではまず、広島市の平和宣言から。松井市長は第2段落でさっそく、新型コロナウイルス禍に言及している。その脅威は「悲惨な過去の経験を反面教師にすることで乗り越えられるのではないでしょうか」という。その反面教師とは、約100年前のスペイン風邪だ。

それは第1次世界大戦中の1918年にはやり始め、翌19年にかけて流行の波が3度も押し寄せた。世界保健機関(WHO)は、全人類の25~30%ほどが感染したと推計している(国立感染症研究所感染症情報センターの公式ウェブサイトによる)。宣言はこのいきさつを踏まえて、こう強調する。「敵対する国家間での『連帯』が叶わなかったため、数千万人の犠牲者を出し、世界中を恐怖に陥(おとしい)れました」

スペイン風邪を「連帯」欠如の悪しき前例と見ているのだ。このことは、上記サイトの記述に照らすと腑に落ちる。流行の第1波に襲われたのは、大戦真っ盛りの2018年春から夏にかけて。このときの対策が手ぬるかったことは容易に推察される。参戦国は防疫と経済の両立どころではない。戦争に国力を注がねばならなかったのだ。結局は感染を第1波で封じ込められず、終戦前後の晩秋、より強烈な第2波を招いた。(季節は北半球のもの)

コロナ禍で「国家間」の「連帯」というと、医療資源を融通しあう国際協力がまず思い浮かぶ。これについては、スロベニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクも、感染拡大の初期に執筆した「監視と処罰ですか?/いいですねー、お願いしまーす!」(松本潤一郎訳、『現代思想』2020年5月号所収)で論じている。ジジェクは、そこにコミュニズム再生の可能性を見ているのだ。(当欄2020年7月10日付「ジジェクの事件!がやって来た」)

宣言は、思想にまでは踏み込まない。感じとれるのは、連帯の第一歩は戦争しないことという素朴な訴えだ。幸いなことに今、世界規模の戦争はない。だが、政治権力者の顔ぶれを見渡すと、自国中心の発想が際立つ人があちこちにいる。紛争のタネは尽きず、その先には核戦争の危険がある。そこで市長は「私たち市民社会は、自国第一主義に拠ることなく、『連帯』して脅威に立ち向かわなければなりません」と強調するのだ。

広島宣言の要点は、「脅威」という一語に新型コロナウイルスの感染拡大と核戦争の危険増大をダブらせたことだろう。それは裏返せば、コロナ禍対策でもし世界に連帯の機運が蘇れば、核兵器禁止の流れも再び強まるかもしれないという淡い期待を抱かせる。

次に長崎平和宣言に進もう。こちらは後段で、コロナ禍の話が出てくる。とりあげているのは、医療関係者が緊迫した状況下で検査や治療に追われていたとき、世の人々が拍手を送ったことだ。この最近の出来事を振り返りながら、田上市長は呼びかける。「被爆から75年がたつ今日まで、体と心の痛みに耐えながら、つらい体験を語り、世界の人たちのために警告を発し続けてきた被爆者」にも「心からの敬意と感謝を込めて拍手を」と。

私がはっとさせられたのは、市長が被爆者を患者や感染者ではなく医療スタッフになぞらえたことだ。被爆者は核の被害者だが、同時に核の不条理を体現して核戦争を食いとめてきた人々でもある。だから、「敬意」と「感謝」を表明したのだ。私は子どものころのキューバ危機を思いだす(「本読み by chance」2015年11月13日「米大統領選で僕の血が騒ぐワケ」)。人類は被爆の怖さを教えられていたからこそ、破滅を回避できたのだろう。

長崎宣言には、コロナ禍ももちだしながら、若い世代に語りかけたくだりもある。「新型コロナウイルス感染症、地球温暖化、核兵器の問題に共通するのは、地球に住む私たちみんなが“当事者”だということです」。含蓄に富む一文だ。

新型コロナウイルス感染症や地球温暖化に対して、私たちが「当事者」というのはよくわかる。言葉を換えれば、被害者然としてはいられないということだ。前者で、人々は自分がうつされるリスクだけでなく、自分がうつすリスクも負わされている。後者では、その影響と思われる異常気象に右往左往しているのも自分、その元凶とされる温室効果ガス大量放出に手を貸しているのも自分という構図がある。

では、核兵器はどうか。これは政治家が扱う案件であり、私たちの大勢はもっぱら危険にさらされる側にいるというのが世間の常識だろう。ところが宣言は、それをコロナ禍や温暖化と並べたのである。そこから感じとれるのは、あなたの国の政治家が核戦略に執着したり、核不拡散に無関心だったりするならば、そんな人物を選んだあなたにも責任がありますよ、という理屈だ。市長がそこまで意図したかどうかはわからないが……。

2020年夏、広島と長崎の平和宣言は、核廃絶とコロナ禍克服をそれぞれの視点で結びつけた。広島は国際連帯の文脈で、長崎は市民の意識に引き寄せて。どちらも、来年の宣言ではコロナ禍がどう書かれることになるだろうか、と思わせるものではあった。

で、最後は楽屋話を。この拙稿は速報性ということでは先週公開したほうがよかったが、1週遅らせた。安倍晋三首相が15日の全国戦没者追悼式で読みあげる式辞もコロナ禍に言及するだろうから、その話を盛り込もうと思っていたのだ。たしかに、コロナは出てきた。ただ、「現下の新型コロナウイルス感染症を乗り越え……」とあるだけだった。首相の人間観や歴史観に格別の関心があるわけではないのだが、ちょっと拍子抜けだった。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年8月21日公開、通算536回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

ジジェクの事件!がやって来た

今週の書物/
「監視と処罰ですか?/いいですねー、お願いしまーす!」
スラヴォイ・ジジェク著、松本潤一郎訳、『現代思想』(2020年5月号、青土社)より

日々の管理

5年前のことだ。当欄の前身「本読み by chance」で『事件!――哲学とは何か』(スラヴォイ・ジジェク著、鈴木晶訳、河出ブックス)という本をとりあげたことがある(2015年12月18日付「ジジェク『事件!』の科学技術批判」)。著者は1949年生まれ、中欧スロベニアの哲学者。この本は2014年に刊行された。理系知をふんだんに取り込んだ同時代の哲学書。ネット社会の分析には、そうか、なるほどなあ、と目を見開かされた。

そこでは、ソーシャルメディア全盛の世相が皮肉られていた。なにごとかを世の中に発信する活動は、かつてはマスメディアに独占されていたが、今はだれにでもできる。これは、ネットという公共空間を一気に広げたように思えるが、そうではない、という。たとえば、「自分のヌードや個人的なデータや猥褻な夢をウェブ上にさらけだす人」が現れたことをどうみるか。私的空間を押し広げているととらえれば、公共空間の「私物化」にほかならない。

私は前述の拙稿で、著者には現代の科学技術が近代精神の産物を人々から奪いつつあるとみる歴史観があるらしい、と書いた。ネット空間の「私物化」は、IT即ち情報〈技術〉が「公共性」を脅かしている例だ。別の箇所には、脳〈科学〉批判も出てくる。科学者は神経回路の作用にばかり目を向けて、「自律した自由な主体としての〈自己〉の概念」を「幻想」と切り捨てるようになった、という。「主体性」も追いやられてしまったのである。

この本の題名にある「事件!」とは何か。文中には、事件とは何かを説明する記述があれやこれや出てくるので、ひとことでは定義できない。ただ著者は、人々が「公共性」や「主体性」を取り戻す契機となる事件を「!」付きで思い描いているようだと私は感じた。

もしかしたら……と思うのが、今回の新型コロナウイルス感染禍だ。これは、まぎれもなく人類史を揺るがす事件だが、著者は、そこに人々が変わるきっかけを見ようとしているのではないか。そうならば、この事件はまさに「事件!」ではないか。

で、今週は「監視と処罰ですか?/いいですねー、お願いしまーす!」(スラヴォイ・ジジェク著、松本潤一郎訳)を『現代思想』(2020年5月号、青土社)で読む。これは“The Philosophical Salon”というウェブサイトに今年3月16日付で載せた論考であり、原題は“Monitor and punish? Yes, please!”。「監視と処罰」は、ミシェル・フーコーの著書『監獄の誕生』(邦題)の原題から採ったらしい。コロナ禍の今を読み解いた論考だ。

そこで最初にとりあげられるのは、新型コロナウイルスの感染禍が「人びとの統制および規制措置の正当化と合法化」に手を貸しているように見える現実だ。例に挙がるのは、中国の「デジタル化された社会統制」やイタリアの「全面的厳重封鎖」。この種の統制や規制は、従来の「西洋民主主義社会」の常識では思いもよらぬことであり、リベラル派は警戒している。では、著者自身も同じ立場をとるのかと言えば、ちょっと違うらしい。

読み進むと、こんな記述に出会うからだ。「コロナウィルスの蔓延によってコミュニズムに新たな息吹が吹き込まれるかもしれないと提案したとき、案の定、私の主張は嘲弄された」(引用箇所で「ウィルス」とあるのは原文のママ、以下も)。表題同様に挑発的だ。

では、そのコミュニズムとは何か。図式的に要約すればこうなる。「呼吸器関連の医療機器を大幅に増やす必要」→「国家が直接介入する必要」→「その成功は、他国との連携にかかっている」。最後には、ああインターナショナル! 国際連帯が求められるというのだ。

著者は医療資源の配分――たとえば人工呼吸器や病床を誰に優先的に充てがうかというトリアージ――にも言及する。その局面で「最も弱い年長者を犠牲にする」という「適者生存」の論理が頭をもたげるが、それに対抗するのも「再発明されたコミュニズム」だという。

この論考で興味深いのは、著者が統制の概念を国家、社会のレベルから個人のレベルに引き寄せていることだ。コロナ禍の今、私たちはあらゆる「接触」に神経をとがらせており、「気になる物に触らず」「ベンチに座らず」「抱擁や握手を避け」「鼻に触れたり眼を擦ったりしない」という日常を過ごしている。「われわれを統御しているのは国家やその他の機関だけではない。われわれは自分を統御し規律化する術も学ぶべきなのだ!」

著者は、スロベニア(旧ユーゴスラビアの一部)という共産圏に育った。コミュニズムの「統制」には反発もあるだろう。その人がコミュニズムの再生を予感しているのだ。このことの意味は大きい。「統制」は「西洋民主主義社会」の価値観と相性が悪いが、とりあえずは生き延びるために致し方ない。コロナ禍はそれほどのことなのだ。このあたりを読んでいると、私たちは今、歴史的な転換点にいることを痛感する。

著者の論述は、終盤で文明論の色彩を帯びてくる。「どれほどみごとな精神的建造物をわれわれ人類が築きあげても、ウィルスや小惑星といった愚かな自然の偶発性が、それを完膚なきまでに壊滅させるかもしれない」。ここでは、ウイルスを小惑星と並べているところに注目したい。ウイルスは、遺伝子を変異させて凶悪度を高める。小惑星は、カオス運動で地球に接近することがある。どちらも予測困難。災厄は不意にやって来る。

私たちは災厄に見舞われたとき、なすがままにされているわけにはいかない。人類は人類以外の敵と闘わなくてはならない、そのためには統制や連帯が欠かせない――著者によれば、それを実現してくれそうなのが「再発明されたコミュニズム」というわけだ。私は、そこに近代精神の再評価を見てしまう。その論調は、科学技術の時代に「主体性」や「公共性」の復権を求めた前述の書『事件!…』とも響きあっている。

この論考は、人間すらも客観視している。ウイルスはヒトの体に忍び込み、そのしくみを借りて自らの遺伝情報を複製していくが、同じような存在はもう一つある――「人間の精神もまた、一種のウィルスではないか」というのだ。これは思いつきではない。進化生物学者リチャード・ドーキンスが提案した「ミーム(模伝子)」の概念に呼応している。(「本読み by chance」2017年9月15日付「ドーキンスで気づく近代進化論の妙」)

たしかに「精神」はヒトに「寄生」して「自己複製」を繰り返す。ヒトの体を乗っ取ってきたとも言えるだろう。ところが、そこに新しい乗っ取り犯が現れて、先客を脅かすようになったのだ。私たちは今、ヒトをめぐるウイルス対「精神」の闘争の渦中にいる。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年7月10日公開、同年8月13日最終更新、通算530回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

5Gで2Hは変わるか

今週の書物/
『5G
――次世代移動通信規格の可能性』
森川博之著、岩波新書、2020年刊

スマホの向こう

2時間ミステリー(業界では2Hと呼ぶらしい)のことは、当欄の前身でも繰り返し話題にしてきた。マンネリのドラマによくつきあっていられるね、という揶揄も聞くが、マンネリのまったり感がよいのだ。いや、それだけではない。余得がいっぱいある。

2Hは最近、新作が少ないが、BS局やCS局で旧作再放映を観ることができる。その副産物として楽しめるのが、1980年代~2010年代へのタイムスリップだ。街の風景、人々の言葉遣い、身の回りの品々……どれも時代を映している。なかでも、それがいつかを教えてくれる最強の記号は電話だろう。拙稿「ミステリーで懐かしむ黒電話の時代」(「本読み by chance」2015年1月16日付)では、次のように時間軸をさかのぼった。

〈ざっくり色分けすれば、2010年代はスマートフォン、00年代なら折り畳み式携帯、それも最初のころはアンテナ付き、1990年代後半は畳めない細長携帯、それ以前は固定電話が優勢でプッシュフォン、1980年代半ばより前はダイヤル式も多かった〉

同様の時代区分はIT業界にもある。移動電話を第1世代(1G)から第4世代(4G)まで世代分けしている。1Gの起点を1980年代としているようだから、人々の実感よりも早い。新技術が市場に出回るまでには、それなりの時間がかかるということだろう。

2020年代の私たちを待ち受けているのが5Gだ。コロナ禍がこの流れに水を差すという見方はある。だが、それとは逆の見通しもある。今、感染症に対する防衛策として社会活動を遠隔方式に改める動きが一気に広まっている。この潮流は、コロナ禍が収まっても次なる新型感染症の脅威が残るから変わらないだろう。そう考えると、5Gはブームがいったん勢いを失うかもしれないが、コロナ後の社会で待望されていると言えよう。

で、今週は『5G――次世代移動通信規格の可能性』(森川博之著、岩波新書、2020年刊)。著者は1965年生まれ、もともと電子工学を専攻した東京大学大学院教授。内外の審議会、公的委員会で要職を務めるなど、情報社会の未来図を描いてきた人だ。この本の刊行日は4月17日。コロナ禍の影響を考察する余裕はなかったようなので、コロナ後に5Gがどんな役割を果たすかに思いをめぐらすのは、読者自身ということになる。

この本には、移動通信の各世代を私たちに引き寄せた記述もある。「1Gは電話、2Gはメール、3Gは写真、4Gは動画」というのだ。たしかに携帯電話を初めて手にしたころ、それは持ち運び自在の電話機にほかならなかった。折り畳み式が出回るころには、短文メールをやりとりしていた。カメラとしても使われるようになると、撮影即送信という早業を楽しんだ。「写メ」である。そして今、スマホ画面で動画を見るのは日常になった。

では、5Gはどんなものになるのか。著者によれば、それは「超高速」「低遅延」「多数同時接続」の三つを具えた通信になる。このうち「超高速」は目新しくはない。1~4Gの進化は「高速化」の軸に沿っており、5Gはそれを「延伸したもの」に過ぎないからだ。

注目すべきは、残り二つ。低遅延の目標は、情報をやりとりするときの遅れを1ミリ秒、即ち1000分の1秒に置く。多数同時接続では1キロ四方の域内に端末機器100万台をつなげるようにする。これらは、ただの量的な進化ととらえるべきではない。それによって質の異なる「サービス」が生まれることになる。具体的には機械の「遠隔制御」、クルマの「自動運転」、リモート方式の「手術支援」などが期待されている、という。

1~4Gでは、通信の恩恵を受ける側の中心に消費者がいた。それは、前述の電話→メール→写真→動画の足どりをみてもわかるだろう。世代が代わるごとに消費者世界のありようが変わってきた。ところが、5Gは「制御」「運転」「手術」の列挙でわかるように職業人にも大きな影響を与える。たとえば、工事現場で重機が無人操作され、小売店が無人の営業になれば、建設業界や流通業界の人々の働き方は一変するだろう。

このあたりのくだりを読んでいて気になるのは、業界内でしかわからない用語が乱造されていることだ。たとえば、“B2C”と“B2B”。前者は企業が消費者向けにサービスを提供すること(本書では“Business to Customer”、ただし“Business to Consumer”とする説もある)を指し、後者は企業間取引(“Business to Business”)を意味する。5GはB2Bの市場を広げるというのだが、これなどわざわざ略語にする必要があるのだろうか。

私がこの本の長所と思うのは、ハードウェアの記述が手厚いことだ。情報系の本というとソフトウェアの話で終わってしまいがちだが、この本は違う。コトの技術にもモノの技術が必須要件としてかかわっていることを見落とすな、と叱られているような感じにもなる。

著者は「通信機器市場やスマートフォン市場では、残念ながら日本企業は競争力を失ってしまった」としたうえで、「5Gを支える部品や計測装置では日本企業の存在感は高い」とうたいあげる。5Gではミリ波など周波数の高い電波を使うので、これまでの部品が通用しないことがある。ある決まった周波数域だけを選り分ける「フィルター」などを例に挙げ、それをミリ波対応にする技術では日本企業が優位に立っていることを強調している。

地味だなあ、という気はする。主戦場で負けたから周縁部で取り戻す、という負け惜しみのようにも聞こえる。だが、必ずしもそうではない。実際、ハードの技術革新は都市を様変わりさせる潜在力があるのだ。たとえば「窓の基地局化」。電波は高周波になるほど障害物を回り込みにくくなり、到達距離も縮まる。だから、5Gの基地局は密に配置しなくてはならない。その結果、ビルの窓にガラスのアンテナが据えつけられるかもしれないという。

ここで著者は「生態系」という言葉を用いて、こう問いかける。「5G市場の生態系は、今までの延長線上となるのか、それとも新たな生態系が生まれるのか」――5Gは、消費者の目からみると、クルマ事情や買い物街の風景、病院の様子などを激変させるだろう。だが、それだけではない。生産者の立場からみても、新しい製品開発の機会をもたらしてくれそうだ。人間社会の「生態系」全体が変わるのは間違いないように私には思える。

この本からは、5Gがモノの物理に制約されている現実も見てとれる。5Gは低遅延化で「1ミリ秒以下」をめざしているが、著者によれば、それは「『無線区間』のみ」の遅れだ。基地局とサーバー(サービス提供用コンピューター)は光回線のような有線で結ばれているが、その区間の遅れは計算に入っていない。太平洋を越えた遠隔手術にも有線の壁がある。海底ケーブル部分に「往復で100ミリ秒程度」の遅延が見込まれるから、という。

有線遅延の制約を克服する技術として紹介されているのが「エッジコンピューティング」。昨今の情報管理では、手もちのデータを「クラウド」(雲)と呼ぶサーバー群に預ける方法が広まっているが、それに逆行する新機軸だ。基地局のそば、端末のそばに「エッジサーバー」を設けて情報処理する、という。端末そのものにエッジの役割を付加することもあるらしい。遅延を縮められ、貴重なデータを手近に置けるから、一石二鳥かもしれない。

著者は、コンピューターの技術が「集中と分散」を繰り返しているという歴史観を示す。20世紀半ばまでさかのぼって跡づけると、汎用機→パソコン→クラウド→エッジの流れがこれに相当する。技術の進化が生態系の遷移のようにも思えてくるではないか。

最後に、ハード面の話で気がかりが一つ。5Gに割り当てられる電波には、これまで移動通信に使われてこなかった高周波が含まれる。電磁波としてみると、赤外光や可視光に近い波長域。だから大丈夫かな、と思う気持ちがある半面、なじみの薄い電波が急に身近なところを飛び交うようになることに不安もある。欧州などで5Gの健康影響に警戒論があるのも、そんな事情があるからだろう。後日、5Gのリスクについても1冊読んでみたい。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年7月3日公開、通算529回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
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