ヴィアン、実存熱をジャズで笑う

今週の書物/
『うたかたの日々』
ボリス・ヴィアン著、野崎歓訳、光文社古典新訳文庫、2011年刊

ピアノ

ジャズと実存主義は相性がいい。ジャン=ポール・サルトル『嘔吐』には、主人公のロカンタンがキャフェでジャズのレコードを聴く場面が出てくる。その曲は、女性歌手がしゃがれ声で歌う“Some of These Days”(「いつか近いうちに」)だ。

このくだりについては、拙稿「サルトルを覚えてますか」(「文理悠々」2010年6月17日付、当時、朝日新聞ウェブサイトに連載)で話題にした。そのときに引用した一節を再引用しよう。「振動は、流れ押し合い、そして行き過ぎながら乾いたひびきで私を撃ち、消えて行く」。ロカンタンはそれをつかまえたいが、そうはいかないことも心得ている。「それは私の指の間に、つまらない、すぐに衰えて行く一音としてしか、残らないだろう」

この体験は、ロカンタンに心地よさをもたらす。「〈嘔気〉の中のささやかな幸福」と呼べるものだった。しかも、歌が“some of these days……”というサビの部分にさしかかると、〈嘔気〉はどこかへ消えてしまう(白井浩司訳=人文書院版『嘔吐』による)。

実存主義は、人間を「実存が本質に先立つところの存在」とみる(*1)。これはジャズの楽曲が「つまらない、すぐに衰えて行く一音」の連なりであることに似ている。一つの音がリズムに乗って一つの歌になるように、人間も一瞬一瞬の〈投企〉によって人生をつくりあげていく――この相似関係ゆえに、実存主義はジャズと相性が合うのだろう。こうして両者は第2次大戦後のフランスで共振し、世界中の若者たちにも広がったのである。

では、2022年の今、ジャズと実存主義はどんな状況にあるだろうか。ジャズの心地よさは、人類に定着したと言ってよい。そのことは、私たちが日常の空間で聞き耳を立てていればすぐわかる。ショッピングモールであれ、ヘアカットの店であれ、居酒屋であれ、そこに小さな音量で流れるBGMはジャズ、ということが多くなった。私たちが若かった1970年代にはジャズはジャズ喫茶で聴くものだったのだが、最近は空気のように遍在する。

では、実存主義はどうか。「新実存主義」という更新版が、20世紀後半の科学の進展などを取り込んで提案されてはいる(*2、*3)。だが、かつてフランス知識人の心をとらえた左翼思想としての実存主義は見る影もない。今春のフランス大統領選挙をみると、左派そのものが衰退している。社会主義の退潮は世界的傾向だが、だからこそ実存主義が右派思想に正面から対抗してもよいはずだ。ところが、その気配はほとんど感じとれない。

で、今週は『うたかたの日々』(ボリス・ヴィアン著、野崎歓訳、光文社古典新訳文庫、2011年刊)。著者(1920~1959)は、フランスの小説家。国立中央工芸学校卒の理系エリートで、エンジニアの仕事をしながら多分野で活躍した。創作のほか翻訳、批評も手がけ、ジャズのトランペット奏者、シャンソン歌手でもあった。この小説は1946年に書きあげた。本書の略歴欄によれば、死後に評価が高まり「現代恋愛小説の古典」になったという。

巻頭「まえがき」には、いきなり「ひとは集団になると間違いを犯す」が、「個人はいつだって正しい」という文言が出てくる。これが、フランス人の多くがナチスドイツに抵抗した直後に執筆されたことを思うと納得する。続けて著者は、人生で「大切」なものは「きれいな女の子相手の恋愛」と「デューク・エリントンの音楽」であり、「ほかのものは消えていい」と言ってのける。実際、この作品では恋物語がジャズの軽快さで語られていく。

「まえがき」には、もう一つ奇妙な宣言もある。この作品について「全部が本当にあった話」と言いながら、「何から何まで、ぼくが想像した物語」と打ち明けているのだ。どういうことか。答えらしき説明もある。著者は創作にあたって、現実を「不規則に波打った歪みのある基準面」に「投影」したという。小説という表現形式に現実世界を虚構世界に移しかえる一面があるのは事実だ。それを理系風に味つければ、こういう言い方になるのだろう。

では、本文に入ろう。冒頭に「コランはおめかしを終えるところだった」とある。風呂あがり、バスタオルで体を巻いている。「爪切りを手に取って、目つきに神秘的な感じを出すために、くすんだまぶたの端をぱちんと斜めにカットした」――???だ。男子が目もとに化粧を施すことはあってよい。だが、まぶたを爪切りで切るなんて自傷行為だ。これが本当の話とは思えない。やはり、「何から何まで、ぼくが想像した物語」なのだろう。

読み進むうちに、コランは22歳男子であり、コック兼執事のような使用人を雇えるほど金持ち、ということがわかってくる。友人のシックに自慢げに見せるのが、発明したばかりの「カクテルピアノ」だ。鍵盤の一つひとつに各種酒類や香料があてがわれている。足もとの強音ペダルは卵を泡立てたもの、弱音ペダルは氷。曲を奏でれば、望みのカクテルのできあがりというわけだ。これも「ぼくが想像した物語」にほかならない。

この小説はなんでもあり――そのことを読者はあらかじめわきまえておくべきだろう。

私が驚いたのは、この「ぼくが想像した物語」が21世紀を先取りしていることだ。たとえば、コラン邸のキッチン風景。コックのニコラは「計器盤を見守っていた」。ローストターキーをオーブンから取りだす頃合いをうかがっているのだ。「ニコラが緑のボタンを押すと、味見センサーが起動した」。センサーがターキーに突き刺さり、計器の針が「ちょうどよし」を指した。五感がセンサーに取って代わられる時代への予感があったのだろうか。

この小説の筋は、このあとコランの結婚やシックの恋愛に突き進んでいくが、それは意表を突く出来事の連続だ。当欄は、そのほとんどをすっ飛ばして、シックが実存主義哲学者ジャン=ソール・パルトルの追っかけだったという一点に焦点を合わせようと思う。パルトルがサルトルのもじりであることは、だれでも気づくだろう。シックは、サルトルゆかりのものならば書物であれ物品であれ、手持ちの金を惜しみなくつぎ込んでいく。

シックが、恋人のアリーズらとパルトルの講演会をのぞく場面がある。偽造のチケットが市中に出回るほどの前人気。会場はごった返していた。後方には片足立ちの人もいる。そこにパルトルが、象の背に設えたハウダ(かご)に乗って登場する。「象は群衆を切り裂いて大またで進み、四本の柱のような脚がにぶい音を立てて人々を踏みつぶしながら情け容赦なく近づいてきた」――実存主義が人間を押しつぶすとは、なんという戯画化か。

パルトルは演壇で講演の準備に入る。そのしぐさには「恐るべき魅力」があり、聴衆のなかには「失神」する女性もいた。まるで往年のロカビリーブームのようではないか。

このときシックは「大きな黒い箱」を持ち込んだ。録音機だ。1940年代だからテープレコーダーということはない。レコード盤に音を刻むのだろう。女友だちの一人が言う。「いいアイデアねえ……」「講演を聞かなくてもすむわね!……」。シックも「家に帰ってから一晩中でも聞けばいいんだ」と答え、レコード会社に掛けあって「商品化」してもいい、という思いつきまで口にする。実存主義を量産品にしてしまうあたりも、時代の先取りだ。

ちなみに、この催しはパリで1945年10月にあったサルトルの講演会「実存主義はヒューマニズムである」をモデルにしているという。現実の講演は、当欄が去年とりあげた『実存主義とは何か――実存主義はヒューマニズムである』(ジャン-ポール・サルトル著、伊吹武彦訳、人文書院「サルトル全集第十三巻」、1955年刊)で追体験できる。聴衆との対話などを通じて、実存主義がマルクス主義とどう違うかを際立たせていた。(*4、*5)

さて、シックは書店で、パルトルの『文字とネオン(レトル・エ・ル・ネオン)』という本を見つける。中身は「電飾看板についての批評的研究」とされているが、これも『存在と無(レトル・エ・ル・ネアン)』のもじりだ。ここでシックは、本の表面にパルトルの指紋まで見つける。日ごろから「指紋採取パウダー」や『模範的警察官便覧』を持ち歩いていて、その小道具を使って検出したのだ。この話にもオチがあるのだが、ここには書かない。

書店主は、パルトルのズボンやパイプも売り込む。ズボンは本人が講演中、自分でも気づかないまま脱がされたものらしい。さらに『嘔吐百科全書』全20巻の原稿も書店に入荷できそうだ、とも思わせぶりに言う。シックは全部をほしがるが、手が出ない……。

この小説は、実存主義のブームを徹底的に笑い飛ばす。ところがその同じ著者が、ジャズを語るくだりでは居住まいを正しているふうだ。たとえば、アルトサックス奏者ジョニー・ホッジスの演奏については「天上的な何かがあった」「説明のできない、完璧なまでに官能的な何か」「肉体から自由になった、純粋状態の官能性」――といった言葉が書き連ねられる。この本の注によると著者はジャズ批評家でもあったようで、その面目躍如だ。

コランがカクテルピアノを骨董屋に売りにだす場面では、骨董屋がデューク・エリントンの「ヴァガボンドのブルース」を弾く。著者はそれを「バーニー・ビガードのクラリネットの真珠を転がすような響きにも劣らない天上的な音色が舞い上がった」と書く。エリントン楽団員ビガードのクラリネット演奏を真珠の転がりにたとえ、骨董屋のピアノ演奏は、それに比肩するほど「天上的」というのだ。ジャズのことは実存主義のようには茶化さない。

この理由を考えるとき、巻末の訳者解説が参考になる。訳者によれば、著者の作品に登場する若者たちは、若い世代が「反体制」的であることが当然視された時代に「政治的意識」と無縁だった。「趣味」に耽り、「消費生活」に浸り、友人関係は「狭い範囲」にとどめている。この行動様式は、たぶん著者自身の生き方に重なっているのだろう。著者にとって、「反体制」熱に浮かされた実存主義ブームはパロディのネタでしかなかった。

私見だが、主人公のコランも、そして著者のヴィアンも、ジャズを愛することで真に実存的だったように思える。「本当にあった話」を「ぼくが想像した物語」に転化する軽快さは即興演奏にも似ていて「肉体から自由になった」実存に近づいているのではないか。

最後に一つ、訳者解説から仕入れた余話を紹介すれば、サルトルは、この作品でパルトルが風刺されていることを大いにおもしろがったという。ブームとしての実存主義をもっとも冷静に見ていたのは、あるいはサルトル自身だったのかもしれない。
*1 当欄2021年1月29日付「実存の年頃にサルトルを再訪する
*2 「本読み by chance」2020年3月27日付「なぜ今、実存主義アゲインなのか
*3 当欄2021年2月19日付「新実存をもういっぺん吟味する
*4 *1に同じ
*5 当欄2021年2月5日付「サルトル的実存の科学観
(執筆撮影・尾関章)
=2022年5月20日公開、通算627回
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全電源喪失とはこういうことか

今週の書物/
『全電源喪失の記憶――証言・福島第1原発 日本の命運を賭けた5日間』
共同通信社原発事故取材班 高橋秀樹編著、新潮文庫、2018年刊

電源

今年は、3・11が金曜日になった。11年前と同じだ。しかも当欄にとっては、拙稿公開日に当たる。あの日を想い起こしながら、東日本大震災の一断面を切りだしてみよう。

あの日、私は東京・築地のビル中層階にいた。勤め先の新聞社だ。地震に襲われたのは、長閑な昼下がり。言論サイトWEBRONZA(現「論座」)の編集会議に出ていたが、あまりの揺れに会議は中断した。窓際の自席に戻ると、書棚の本が落下して床一面に散らばっている。窓の外には青空が一面に広がっていたが、お台場あたりの海岸部で黒煙が不気味に立ち昇っている。これが、ふつうの地震でないことは明らかだった。

テレビの画面には、空撮の生映像が流れていた。仙台近郊で津波が家々をのみ込み、避難しようとするクルマを執拗に追いかけている。私は、それを同僚と見ていて言葉を失った。海水が容赦なく大地を覆っていく。あたかも、魔の手が指先を広げるように。

3・11を生涯でもっとも忘れがたい悪夢の日と呼ぶには、もうこれだけで十分だった。だが、この日はそれで終わらない。日差しが斜めに傾いた午後4時ごろ、福島県の東京電力福島第一原発が「全交流電源喪失」に陥ったという知らせが私にも届く。東京・霞が関の経済産業省にある原子力安全・保安院で、職員が報道陣に速報したというのだ。超弩級の自然災害に今日的な技術災害が追い討ちをかけた。そんな展開だった。

正直に告白しよう。私はそれを耳にしたとき、すぐには事の重大さに気づかなかった。原子炉の水位が下がり、冷却能力が失われたと聞いたなら、それだけで背筋が凍ったはずだ。だが、失われたのは交流電源だという。これは、送電線の電力が届かないということではないのか? そういうときは非常用の自家発電機が働くはずだ。だから、冷却水の循環が止まることはない……そう考えたのだ。だが、これは大きな誤りだった。

原発技術者が全交流電源というとき、非常用電源も勘定に入れているのだ。福島第一原発では、それも含めてダウンした。実際、保安院の速報には、非常用発電機が動いているのは6号機だけという情報も添えられていたらしい。津波が原発を襲うというのは、そういうことだった。だからそのとき、原発に詳しい同僚記者は私にこう言ったのだ。「尾関さん、これは大変なことだよ、チェルノブイリ級のことが起こってもおかしくない」

あの2011年3月11日以来、福島県一帯で続いている事態は、その予言が的中したことを物語っている。で、今週は『全電源喪失の記憶――証言・福島第1原発 日本の命運を賭けた5日間』(共同通信社原発事故取材班 高橋秀樹編著、新潮文庫、2018年刊)。共同通信社が2014~2016年、断続して配信した連載(全213回)をもとにしている。2015年、前半の掲載分が祥伝社によって書籍化されたが、それに加筆したものが本書だ。

巻頭の一文「はじめに」によれば、本書が目を向けたのは福島第一原発事故の「発生直後」。そこに居合わせた人々が実名で登場して「何を見て」「何を思ったのか」を語ってくれたという。東京電力の所員がいる。協力会社の作業員がいる。東電本社の幹部や政治家もいる。その人たちが「何を思ったのか」に踏み込んだところが、政府や国会の事故調査委員会「報告書」と比べて異彩を放つ点だ。事故が生々しく再現されているのである。

編著者(高橋秀樹さん)は1964年生まれの共同通信記者。「はじめに」に同僚7人の名が記されている。本書は取材班が一体となって仕上げた労作と言えよう。

本書の描写で終始緊迫感が漂うのが、中央制御室の光景だ。ちょっと補足すると、福島第一原発の敷地では海沿いに原子炉6基が並んでいる。それらはぽつんぽつんと建っているのではなく、原子炉建屋と海岸線の間にタービン建屋などの建物が連なっている。このうち、原子炉建屋に隣接するのがコントロール建屋。中央制御室は、その2階にある。福島第一では、制御室一つが原子炉2基を受けもつつくりになっている。

地震発生直後の1・2号機はどうだったか。原子炉は緊急停止した。電力は外部送電網からの供給が停まったが、非常用ディーゼル発電機(DG)が動きだした――ここまでは想定の範囲内だったらしい。ところが、しばらくしてとんでもないことが起こる。「DGトリップ!」。運転員の一人が叫んだ。DGが発電不能に陥ったというのだ。こうして「制御盤のランプが一つ、また一つと不規則に消え」「天井の蛍光灯も消えた」。

これが、全交流電源喪失が察知された瞬間だ。運転員が受けてきた訓練は「ありとあらゆるケース」に対応している「はずだった」。ところが、「DGトリップ」は想定外だった。制御室に窓はない。テレビのニュースを見られるわけでもない。運転員たちには、何が起こったか見当がつかなかった。外から入ってきた同僚が「海水が流れ込んでいます!」と報告するまでは……。津波がタービン建屋地下のDGを水浸しにしたのだ。

電源が途絶えれば、制御室の計器類を見ることもできない。原発制御の手も足も出なくなる。これを「ステーション・ブラック・アウト(SBO)」と呼ぶ。この事態は、原発敷地内の免震重要棟に詰めていた所長たちに報告される。「1、2号、SBO!」「3、4号もSBO!」――そうとわかった瞬間、3・11東電福島第一原発事故は、原子力災害対策特別措置法10条の適用対象となり、法律的にも「原子力災害」となったのである。

ここで、福島第一原発では交流電源のみならず、全電源の喪失も起こっていたことを言い添えておこう。東京電力のウェブサイトによると、稼働中の1~3号機のうち1~2号機では直流のバッテリー電源も浸水被害で失われていた。このため計器類を復活させようと構内循環バスのバッテリーが持ち込まれたが、暗闇での配線作業は困難を極めた。午後9時すぎに1号機の水位計が読めるようになったものの、数値は正確でなかったという。

翌12日未明、免震重要棟の緊急時対策本部から、冷却不全で蒸気がたまった1号機格納容器のベント(ガス放出)が指示される。ベント用の弁も電源喪失で遠隔操作できないから、だれかが原子炉建屋内に足を踏み入れ、手作業で開けなくてはならない。

当直長は運転員を集め、こう告げる。「申し訳ないが……誰か行ってくれないか」。ただし、「若い者は行かせられない」。制御室には、出番ではない幹部級のベテランたちも応援に駆けつけていた。当直長が「まず俺が行く」と言うと、彼らは「残って仕切ってくれなきゃ駄目だ」と諫め、自分たちが次々に手を挙げた。ただ、手が途中でとまった人もいる。「怖かったです」「家族のことも頭をよぎりました」と、内心を率直に打ち明けている。

「突入」は午前9時すぎに始まった。第1班は原子炉建屋2階の弁を開いた。第2班は地下の弁を開くのが任務だ。ところが、こちらは近づくと、携帯の線量測定器の針が振りきれた。5年間の線量限度を6分で浴びてしまう状態。結局、撤退するしかなかった。

1・2号機制御室の様子を引きつづき見ていこう。ベント第3班を出すことは、とりあえず見合わせていた。制御室内の線量も上昇している。1号機寄りが高めなので、運転員の大半は2号機寄りにいた。事故発生から缶詰状態だから、疲れ切っているのだろう。40人ほどは床に腰を下ろしている。このとき、室内に声がとどろいた。声の主は、中堅運転員の一人だ。「何もできないなら、ここに何十人もいる意味があるんでしょうか」

当直長は、このときも運転員を集めて言う。「ここを放棄する」ことは「制御を諦(あきら)める」ことであり、「避難している地元の人たち」を「見捨てる」ことになる――こう説得して「残ってくれ」と頼んだ。これで一同は静まり返ったという。

事故2日後、13日の1・2号機制御室の光景には心が痛む。12日には1号機原子炉建屋の水素爆発があり、制御室の線量も急上昇したため、運転員は全面マスク、ゴム手袋姿だった。食べ物は乾パンだけだったが、すでに食べ尽くして、残るはスナック菓子くらい。あとはペットボトルの水だ。ただ、飲み食いするにはマスクや手袋をとらなくてはならない。「空腹に耐えるか、汚染覚悟で飲食するか」。そんな極限状況に置かれていたというのだ。

1・2号機と3・4号機の制御室で「数人1組の交代制」の勤務態勢がとられたのは13日夕からだという。私たちは原子炉建屋の水素爆発を遠景の映像で見て慄くだけだったが、あの瞬間も直近では、運転員がほとんど不眠のまま炉の制御を取り戻そうとしていたのだ。その様子は、コロナ禍の関連職場で働く人々の献身と重なりあう。原発に対する賛否は別にして、あの事故に第一線で立ち向かった人々に対する敬意と謝意だけは忘れずにいたい。

(執筆撮影・尾関章)
=2022年3月11日公開、通算617回
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メルケルは原発を「倫理」で裁いた

今週の書物/
『なぜメルケルは「転向」したのか―ドイツ原子力四〇年戦争の真実』
熊谷徹著、日経BP社、2012年刊

緑の思想

元新聞記者には悲しい性がある。テレビのニュースを見ながら「この人のこと、よく知っているよ、無名のころからね」と自慢してみたりする。去年暮れ、政界を引退したドイツの前首相アンゲラ・メルケルさんも、私にとってはそんな自慢の種だ。もっとも、「無名のころから」「よく知っている」とは到底言えない。ドイツ国外で知名度がまだ低かったときにちょっと見かけたことがある、という話だ。だが、それはとても印象深い。

1995年4月、ベルリンでは第1回気候変動枠組み条約締約国会議(COP1)が開かれていた。この会議は脱温暖化の国際合意をめざしている。ベルリン後、年に1度ずつ回を重ね、今では各国の首脳級が顔を見せるほどの大舞台になっている。これまでに「京都議定書」や「パリ協定」をまとめてきた実績もある。だが、第1回は暗中模索の状態にあった。このときにドイツの環境相で、会議の議長を務めたのがメルケルさんだ。当時は弱冠40歳。

会議では、二酸化炭素(CO₂)など温室効果ガスの排出削減を2000年以降にどう進めるかが焦点だった。小さな島嶼国は、海面上昇への危機感から厳しい削減目標を求めた。米国などの先進工業国は、削減のために石油依存を改めることに消極的だった。インドなどの新興工業国は、大幅削減は先進工業国から、と言い張った。産油国は、脱石油の機運を警戒していた。こんな混迷のなかで、メルケルさんはホスト国の立場から合意点を探ったのだ。

私は当時ロンドン駐在で、ベルリンに出張して会議を取材した。このときに気づいたのは、メルケルさんが目を真っ赤にしていたことだ。やがて、その理由が噂話として報道陣にも伝わってくる。連日連夜、水面下の交渉を重ねて寝不足だったらしい。

COP1は結局、具体的な削減目標を決められなかった。ただ、2年後の第3回会議(COP3)までに目標を盛り込んだ文書をまとめることで合意した。期限を定めたことの意味は大きい。実際、京都で開かれたCOP3では京都議定書が採択されたのである。

そのメルケルさん(以下は敬称略)が2005年、保守政党キリスト教民主同盟(CDU)の党首として総選挙に勝った。以来16年間、政権を担ったのである。ドナルド・トランプ前米大統領に象徴される自国第一主義が世界を席巻した時代、それに抗して国際協調にこだわり続けた人である。私には、その政治姿勢がCOP1議長としての奔走ぶりとダブって見える。ただ、存在感を示したのはそれだけではない。もう一つ、特記すべきことがある。

それは、2011年3月11日に東日本大震災があり、東京電力福島第一原発の事故が起こったときの対応だ。翌12日にドイツ国内の原発総点検を表明、15日には古い原発の一時停止を決めた。そして6月、国内全原発の2022年までの閉鎖を閣議決定したのである。

これは二つの点で驚きだった。一つには、遠い国の事故に敏感であったこと。もう一つは、自身が決めた原発政策を覆したことだ。メルケル政権は当初、社会民主党(SPD)と大連立を組み、それまでSPDと緑の党の連立政権が進めていた脱原発路線を踏襲していたが、2009年の大連立解消後は原発容認に傾き、2010年秋には国内原発の運転延長を決めていた。それからわずか半年で再びの方針転換。朝令暮改の感は否めない。

メルケル自身の説明によれば、「日本という高度な技術水準を持つ国」で事故が起こったことで、原発に「予測不能なリスク」があることを認識したからだという(2015年の来日時、朝日新聞社主催の講演会での発言=在日ドイツ大使館のウェブサイトで読める)。ただ、それだけで重要政策を反転させたりはしないだろう。たぶん、本人の思考様式にもドイツ社会の思想風土にも素地があったのだ。本稿では、そこのところを探りたいと思う。

で、今週は『なぜメルケルは「転向」したのか――ドイツ原子力四〇年戦争の真実』(熊谷徹著、日経BP社、2012年刊)。「転向」の語感からメルケル批判本と受けとられかねないが、それは違う。一読すると、彼女の「転向」を賢明な選択とみていることがわかる。

著者は1959年生まれのジャーナリスト。NHKの国際記者としてワシントンに駐在、ベルリンの壁崩壊の報道などに当たった。1990年からフリーランスとなり、ドイツのミュンヘンに住んで、欧州の政治経済やエネルギー、環境問題を取材してきた。

この本は第1章で、福島第一原発事故がドイツ国内でどれほど大きなニュースとして報じられたかを報告している。人々は1986年の旧ソ連・チェルノブイリ原発事故を鮮明に記憶しており、福島事故を「我がことのように」感じたのである。有力紙には“Tokio in Angst”(「不安におののく東京」)という見出しが躍り、「福島から一万キロも離れているにもかかわらず、放射線測定器やヨード錠剤を買い求める人が続出した」という。

この不安は民意となって表れた。福島事故の約2週間後、バーデン・ヴュルテンベルク州の州議会選挙で原発問題が争点となり、脱原発を掲げる緑の党(正式には「連合90・緑の党」)が得票率を倍増させて、SPDとの連立で州首相の椅子を勝ち取ったのだ。

さらに4月、著者にとっても「大変意外」なことが起こる。電力企業を含む「ドイツ・エネルギー水道事業連合会(BDEW)」が、「電力の安定供給」などを条件に「原発の完全廃止に合意する」と言明したのだ。2023年までに、とした。メルケル政権が2カ月後に発表した期限より1年遅いだけだ。福島事故で原発反対の世論は極限まで高まった。これを受けて産業界も動きだした。メルケルの脱原発は、お膳立てができていたとも言えそうだ。

第2章は、ドイツ政界で西独時代の1970年代から繰り広げられてきた原子力問題の攻防を要約している。ここで注目すべきは、1980年に誕生した緑の党の存在だ。この党はただ、原発に反対するのではない。主張の背景には「エコロジー」という新思想があった。

では、エコロジーとは何か。著者によれば、それは「環境保護政策」の枠組みを超え、「人間の生き方そのもの」にかかわる。緑の党発起人の一人は、エコロジーを「人間の存在を自然環境の文脈の一部と考える」哲学と定義したという。ここから、党が掲げた「我々は地球を、我々の子どもたちから預かったにすぎない」というスローガンが生まれてくる。私たちには「子どもたちに美しい環境をそのまま引き継ぐ義務がある」ということだ。

この本の更なる読みどころは、メルケル政権が、どんな手順で脱原発を決断したかを解説した第3章だ。メルケルは、二つの委員会の助言を聴いたという。

一つは原子炉安全委員会。原子力技術者らでつくる既存の組織だ。福島事故後、ドイツの全原発に対して電力会社の提出データをもとに「ストレステスト(耐性検査)」をおこなった。地震、洪水、停電、航空機事故、テロ……など10項目の危険要因に対して、どれだけ耐えられるかを数値によって表す試みだ。2カ月後には「ドイツの原発は、航空機の墜落を除けば、比較的高い耐久性を持っている」などとする「鑑定書」を出した。

もう一つは、メルケルが新たに設けた「安全なエネルギー供給に関する倫理委員会」。こちらは、人文社会系の学者や宗教家など原子力技術とは無縁の人が大勢を占める。著者も書いているように、臓器移植や着床前診断など医療に対する倫理委に似ている。政府内部にも、エネルギー問題になぜ倫理委か、と首をひねる見方はあったらしい。だが、原発事故には「多くの国民の健康に影響を与える可能性がある」とする理屈が通ったという。

この倫理委員会も2カ月後に「提言書」をまとめている。「福島事故は、原発の安全性について、専門家の判断に対する国民の信頼を揺るがした」と分析、原子力のリスクとどう向きあうかという問題は「もはや専門家に任せることはできない」との立場を明確に打ちだしたものだ。委員会内の合意点として「経済、社会、あるいは環境に著しい悪影響が生じない限り、原子力の使用をできるだけ早くやめる」との結論をまとめている。

ここで言い添えたいのは、著者が倫理委の結論について、「細かいデータやシミュレーションによって裏打ちされた分析結果ではない」と敢えてことわっていることだ。私も提言書からの引用を読んで、データよりも思想が際立っているな、という印象を受ける。

たとえば、提言書では「自然環境を自分の目的のために破壊せず、将来の世代のために保護する」責務が私たちにはある、という見解が示されている。根拠として「キリスト教の伝統とヨーロッパ文化の特性」を挙げているところは、旧来の保守思想と響きあっている。だが、この理屈づけを度外視すれば、緑の党の思想にそっくりではないか。エコロジーは緑の党だけのものではない、ということを如実に物語っているように私は思う。

興味深いのは、メルケルが二つの委員会のうちの後者、すなわち倫理委の結論を選択したことである。この事情を著者はこう読み解いている。メルケルは福島事故後、政治家として「政治的な生き残り」には脱原発しかないことを直観した。脱原発を決意はしたが、「独断で決めた」とは思われたくない。そこで「原子力について厳しい見方を持つ知識人を集めて倫理委員会を作り、急遽、提言書をまとめさせた」のではないか――。

これに100%は同意しないが、かなりよいところを突いてはいるだろう。ただ、彼女の決断を、政治家のしたたかさだけで説明づけて終わりにしたくはない。

メルケルは東ドイツにいたころ、物理学の研究者だった。福島事故に「予測不能のリスク」を見てとったのは、事実の前には謙虚でなければならないという科学者の良心の表れだろう。だが、彼女はそれだけの人ではなかった。科学技術政策には理系知だけでなく文系知も欠かせない、という見識を併せもっていたのだ。だからこそ、原発の是非を倫理委員会に諮ったのではないか。日本社会の原発論議に抜け落ちた視点がここにはある。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年1月28日公開、通算611回
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優生学の優しい罠

今週の書物/
『「現代優生学」の脅威』
池田清彦著、インターナショナル新書、集英社インターナショナル、2021

DNAの二重らせん

コロナ禍のニュースを聞いていて、ギクッとする瞬間があった。「命の選択」という言葉を耳にしたときだ。病床が足らず、入院させる人、治療する人を選ばなくてはならない――そんな状況が国内でも現出した。その結果、「自宅療養」を強いられた人が在宅で落命する悲劇も相次いだ。医療資源が限られているという現実があらわになり、この人には薬を提供するが、あの人には我慢してもらう、という選別がなされたのである。

「命の選択」という言葉は、科学記者にとって耳慣れないものではない。科学報道の一領域に生命倫理があり、案件の一つに出生前診断があった。30年ほど前には、受精卵にさかのぼって遺伝子のDNAや染色体を調べ、遺伝病の有無などを突きとめる着床前診断も登場した。これらは、現実には赤ちゃんを産むかどうかという問題につながってくる。そこで記者たちは、この診断技術をとりあげるとき、「命の選択」という表現を用いたのである。

実は、その着床前診断をめぐって今夏、見落とせないニュースがあった。日本産科婦人科学会が、診断対象となる遺伝性の病気の範囲を広げる方針を決めたというのだ。これまでは「成人に達する以前に」生き続けられないおそれがある重い遺伝病などに限っていた。だが、今後は「原則、成人に達する以前に」という文言に改め、大人になってから発症するものも条件付きで認めようというのだ(朝日新聞2021年6月27日朝刊)。

新たに加わる診断対象としては、現時点で有効な治療法が望めない病気などを挙げている。不気味なのは、範囲がどこまで広がるかわからないことだ。最近では多くの病気に遺伝要因が見つかり、遺伝性とされる病気が旧来の遺伝病の枠に収まらないからである。

これは、生命倫理の大事件と言ってよい。ところが世間では、それほど騒ぎにならなかった。考えてみれば、私たちは今、自分がコロナ禍で「選択」の対象になりかねない状況にある。自身の危機感が先に立って、人類の倫理を考える余裕がなくなっているのか。

で、今週は、こうした生命倫理の問題に今日的な角度から迫ってみる。手にとったのは『「現代優生学」の脅威』(池田清彦著、インターナショナル新書、集英社インターナショナル、2021年刊)。集英社の『kotoba』誌に2020年に連載された論考をもとにしている。著者は1947年生まれの生物学者、評論家。生物学を構造主義の視点から論じ、進化論など生物学のテーマに限らず、科学論や社会問題など幅広い分野で著作がある。

本書「まえがき」によれば、「優生学」とは「優れた者たちによる高度な社会」を目標とする研究をいう。そのためには「優れた者たち」の血筋だけを後続世代に残し、「劣った者たち」のそれは絶やすか、あるいは「改良」すればよい、という発想をする。

この発想を現実社会で具現化したのが、ナチス・ドイツによる「優生政策」だ。それは、「障害者の『断種』とユダヤ人の大量殺戮という人類史上最悪の災厄」を引き起こしてしまった。この経緯もあって、優生学の主張は第2次世界大戦後の先進諸国で「タブー」となった。だが、著者が「その後も国家施策などに小さくない影響を与えました」と指摘している通り、「いわゆる優生思想」はさまざまなかたちで生き延びてきたのである。

日本の国家施策はどうか。第四章「日本人と優生学」を見てみよう。1948年、戦時中の「国民優生法」を受け継いで「優生保護法」が定められ、第一条で「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」とうたわれた。今からみれば不適切極まりない表現だ。これによって、ハンセン病患者の断種手術も正当化された。この法律が、こうした優生学的な条項を除いて「母体保護法」に代わったのは1996年。「優生」は戦後半世紀も生き延びていた。

では、国内の優生思想は1996年で息絶えたのか。いやいや、それはしぶとく生きている、と見抜いたのが本書だ。書名に「現代優生学」とあるのは、この理由からだろう。ここで「現代」とは、21世紀の今を指している。著者は「まえがき」で、出生前診断による妊娠中絶や、知的障害者施設を標的にした多人数殺傷事件などを例に挙げ、「戦後、一度は封印されたはずの優生学が、奇妙な新しさをまとって再浮上している」と書いている。

出生前診断について言えば、診断結果を受けて中絶するかどうかを決断するのは胎児や受精卵の親御さんだ。この立場に身を置いて考えれば、迷いがいかほどのものかが想像できる。片方には、わが子に苦難を背負うことなく育ってほしいという願望がある。他方には、授かった生命に対する敬意と愛情がある。そこに覆いかぶさってくるのが、今風の自己決定権尊重だ。お決めになるのは、あなたご自身です、というわけだ。

一方、前述の多人数殺傷事件は、重度障害者の生を社会が支えることに異を唱える一青年の手で引き起こされた。それ自体は凶悪犯罪であり、刑事裁判で裁くよりほかない。ただ、そんな主張を正論であるかのように公言する人間が現れた背景は座視できないだろう。そこに見え隠れするのは、生産性を高めることばかりに熱心な世間の風潮だ。なにごとも効率本位で考えようとする新自由主義の価値観も影響しているように思える。

こうしてみると、著者が言う通り、「現代優生学」は確かに「奇妙な新しさをまとって」いる。その「新しさ」を醸しだすキーワードが自己決定権や新自由主義ではないか、と私は思う。自己決定権は、今や〈保守派〉の対義語となった〈リベラル派〉も尊重している(*)。新自由主義は、〈リベラル派〉の経済政策と対立するが、ナチズムのように全否定はされない。このようにして優生思想は私たちの時代に優しげな罠を仕掛けるのだ。

私が本書で衝撃を受けたのは、優しげな罠は実は優生思想の源流にも見てとれることだ。著者は、19世紀末のドイツで優生学を切りひらいた先人に光を当てている。一人は医師でもあったヴィルヘルム・シャルマイヤー、もう一人はアルフレート・プレッツだ。

まずは、シャルマイヤーから。本書によると、その主張はダーウィン進化論に強く影響されている。「文明や文化が発展するほど、自然淘汰が阻害され、人間の変質(退化)が進む」と考えたのだ。「変質(退化)」を促すものとして「医学・公衆衛生の発達」を挙げる。「虚弱な個体が生き延びて、子を産み続けること」が淘汰の妨げとなり、退化をもたらすというのが、その論理だった。医師が医学の意義を懐疑するという不思議な構図がある。

驚くのは、彼がこの考え方を意外な方向に押し広げることだ。「退化」の要因として「戦争による兵役」や「私有財産制」(「資本制」)も問題視する。前者は「強健者や壮健な人間を選択的に早逝させる」、後者は「資本家は虚弱でも生存できる」という状況をつくりだす――そう考えて、反戦と社会主義の立場をとったという。ここからは、経済的な弱者は支援するが生物学的な弱者は切り捨てる、という歪んだ弱者擁護の思考回路が見てとれる。

彼の発想でもう一つ見過ごせないのは、すべての国民の「病歴記録証」をつくり、それを当局が保管するという施策だ。病気の遺伝要因を次世代に受け渡さないように、婚姻届を出すときに「記録証の提示」を求める。これは、今ならばDNA情報の管理というかたちをとるだろう。プライバシー保護の観点から反対意見が殺到するのは必至だが、技術的にはすぐにも実現できることだ。私たちは優生学の誘惑にきわめて近いところにいる。

もう一人、プレッツは「人種衛生学」の提唱者。人間の集合には、相互扶助の原理で動く側面(「社会」)と、闘争や淘汰が避けられない側面(「種」)があるとみた。懸念したのは、種が「淘汰の低減」に直面すると「社会」の発展が鈍ることだ。「相互扶助と淘汰の両立」を目標に考えを練り、思い至ったのが「淘汰を出生前に移行させる」ことだった。遺伝性の病気を抱える人々の生殖を規制しようという発想は、ここから出てきたという。

優生学は、昔はあからさまに、人類の存続や社会の発展がときに個人の権利より優先されるという立場から主張された。今は個人の権利が第一とささやきながら、個人の次元で辛い選択を迫る局面が出てきたように見える。だから昔より、細心の注意が欠かせない。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年11月26日公開、通算602回
*本読み by chance「朝日を嫌うリベラル新潮流」(2018年11月23日付)参照
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世界が違うとはどういうことか

今週の書物/
『量子力学の奥深くに隠されているもの――コペンハーゲン解釈から多世界理論へ』
ショーン・キャロル著、塩原通緒訳、青土社、2020年刊

枝分かれ

今週も引き続き、『量子力学の奥深くに隠されているもの――コペンハーゲン解釈から多世界理論へ』(ショーン・キャロル著、塩原通緒訳、青土社、2020年刊)を読む(当欄2021年11月12日付「世界は一つでないと今なら言える」)。

先週も書いたことだが、量子力学について専門家を質問攻めにしていると、途中で疎外感に襲われることがある。ここで「専門家」というのは、物理を数式で考えられる人のことだ。当方にはそれができないから、必死でイメージを頭に思い浮かべようとする。最初は、なんとなくわかった感じになるが、あるところから先へ進めなくなる。挙句、「量子力学は日常世界のイメージでは理解できないんですよ」――そんな通告を受けてしまうのだ。

その壁を突破したいというのが、量子力学に関心を寄せる素人の切なる願いである。同じ思いの人は少なくない。友人知人のなかには、果敢にも高年齢になってから量子力学の方程式を学ぶ人がいる。私も、数式を眺めて雰囲気を感じとるくらいの水準には達したい。ただ、今さら数理の技を身につけようとは思わない。それよりはやはり、量子力学をイメージしたいのだ。絵画にだって具象画だけでなく抽象画というものがあるではないか!

これは、決して高望みではないらしい。この本の著者は、量子力学を「説明できないもの、理解できないもの」とする通念を取っ払いたいという立場を本文中で鮮明にしている。幸いなことに、そしてありがたいことに、専門家にも強い味方が現れたのである。

この本は、ひとことで言えば量子力学の解釈にかかわる書物である。邦題の副題にある通り、教科書的なコペンハーゲン解釈を批判的にとらえ、これまで異端とされてきた多世界解釈の強みを浮かびあがらせている。ここではまず、先週のおさらいをしておこう。

多世界理論では、波動関数のみを世界の現実とみる。それは、方程式に従って刻々変化していく。これを波動関数の時間発展という。そこにあるのは決定論だ。コペンハーゲン解釈のように確率論で物事が決まったりはしない。波動関数は観測によって、観測する側とされる側が一体となったものの重ね合わせになる。このとき、観測者は――あなたや私も――どんな状態を観測したかによって分岐している。世界も観測者も、枝分かれしたのである。

さて、いよいよ本題に入る。先週よりももう一歩深く、多世界解釈に踏み込むことにしよう。今週は、観測とは何か、観測によって世界が分かれるとはどういうことか――この2点について、イメージを思い描くことにこだわりながら考えていこうと思う。

まずは、観測について。ここで出てくる用語が「デコヒーレンス」だ。これは、状態の重ね合わせ(これを、コヒーレントな状態という)が壊されることを意味する。著者によれば、この概念が1970年、ドイツの物理学者ハインツ・ディーター・ツェーから提案されると、多世界解釈にとって「必須の要素」になった。デコヒーレンスは、観測で「波動関数が収縮して見える理由」を教えてくれる。そこに「『観測』とは何か」の答えもある。

一般論で言えば、デコヒーレンスの主犯は周辺環境だ。聴き入っている音楽が窓の外を走るオートバイの爆音でぶち壊しになるように、量子世界の状態の重ね合わせは周りの騒々しさによって台無しになる。だから、重ね合わせを情報処理の仕掛けに用いる量子コンピューターでは、その部分を周辺環境から遠ざけることが求められている。著者はこの本で、周辺環境の存在が観測という行為と密接不可分であることを述べている。

前回も書いたように、量子世界の観測では観測する側とされる側が量子もつれになる。今回、新たに考慮に入れるのは、観測する側が世界から孤立していないということだ。この本では、電子に具わるスピンという性質を見てとる観測装置が登場する。これは、スピンが上向きなら目盛り盤の針が左に振れ、下向きなら針は右を指す――というように作動する。この装置にも空気の分子や光の粒(光子)がぶつかっていて、相互作用が生じている。

ここで、空気や光などは「環境」と呼んでよい。量子力学の言葉で言えば、観測装置は空気や光などと相互作用することで「環境と量子もつれの状態」にある。このときに見落としてならないのは、「環境」が漠然としていることだ。「光子などの粒子をすべて追跡するなど、誰にだってできない」。そこで「厳密に何がどうなるか」はつかめない。観測装置と環境との量子もつれは把握不能――これこそがデコヒーレンスの本質であるらしい。

これは観測装置にとって、もつれる環境が一つに定まらないことを意味する。量子もつれごとに相手となる環境が異なるのだ。その結果、装置はそれぞれの環境に引きずられてしまう。ここに世界の分岐がある。著者の見方を私なりに理解したのは、そういうことだ。

では、スピンの観測で何が起こるかを時系列でたどってみよう。観測前、電子は〈スピン上〉と〈スピン下〉が重ね合わさるコヒーレントな状態にあり、それに観測装置の針がどちらにも振れない〈針中〉の状態と〈環境0〉がもつれ合っていた。ところが、観測された途端、〈スピン上〉・〈針左〉・〈環境1〉が量子もつれで一体になった状態と、〈スピン下〉・〈針右〉・〈環境2〉が同様にもつれて一体化している状態とが重ね合わさることになる。

著者は、この過程を数式風の略図で説明している。これは観測の核心をついていてわかりやすい。当欄は図の部分を言葉に置き換え、同じことを文字と記号だけで表現してみよう。ここでは、「+」は重ね合わせを、「・」はもつれをそれぞれ表している。
(〈スピン上〉+〈スピン下〉)・〈針中〉・〈環境0〉
➡〈スピン上〉・〈針左〉・〈環境1〉+〈スピン下〉・〈針右〉・〈環境2〉

この式からは、多くのことがわかる。スピンだけの重ね合わせ状態が観測によって消え、その代わり、スピンと針と環境がそっくり異なる世界が重ね合わさることになる。世界の数は観測前に一つだったのが、観測後には二つになる。これこそが、世界の枝分かれだ。

さて、いよいよ「観測者」の出番である。装置の目盛り盤の傍らに針を読む人間がいるとしよう。世界が枝分かれするなら「観測者も残りの宇宙にともなって」「コピーに分岐する」。ここで「残りの宇宙」とは環境の別表現だ。では、それぞれの分身は何を見るのか? 〈スピン上〉〈スピン下〉のどちらか一つしか見えない。「波動関数が収縮したように見える」(原文では太字部分に傍点)というのは、実はこういうことだったのである。

この略図を見ると、観測という行為が私たちにとってどんな意味をもつのかについて、別の角度からも考えたくなる。観測とは、電子のように重ね合わせの状態にあるものに取りついて、自分自身をも枝分かれさせる行為ではないか――そんなふうに思えてくる。

枝分かれのくだりで興味深いのは、そこに「世界」論があることだ。著者が「世界」の条件として挙げるのは「世界のさまざまな部分が、少なくとも原則として、お互いに影響を及ぼせていること」だ。逆をいえば、影響を及ぼせないなら別世界と言ってもよいのだろう。この本は「幽霊世界」をもちだす。幽霊たちがどこかにいる可能性を論じつつ「幽霊世界で起こることは私たちの世界で起こることとは絶対に関わりを持たない」と断じている。

もし、多世界理論が正しいとしても、別の世界にいる分身とは交信できない。向こうの世界に渡って分身と入れかわるわけにもいかない。今の私にとって私はこの私だけであり、世界はこの世界しかない。世界がいっぱいあっても、この世界はかけがえがない。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年11月19日公開、通算601回
*余談ですが、今回と似たタイトルで小文を書いたことがあります。「『あなたとは世界が違う』という話」(「本読み by chance」2015年5月8日付)。青春のほろ苦さとともにある「世界が違う」。これも、どこかで多世界のイメージと響きあうような気がします。
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