処理水放出を倫理の次元で考える

今週の書物/
朝日新聞社説「処理水の放出/政府と東電に重い責任」
2023年8月23日朝刊

社説の見出し(*)

東京電力福島第一原発が大事故を起こしてから12年、ついにこの日が来てしまった。処理水の海洋放出だ。事故で破綻した原発が、たまる一方の難物をとうとう抱えきれなくなった、という意味で大きな区切りである。当欄も黙ってはいられない。

ということで、今回は予定を変更して朝日新聞の社説を読み、この問題を考える。というのも、このテーマは、新聞社の論説委員にとって論評が甚だ難しいものだからだ。現役の委員諸氏もたぶん、悩んだに違いない。その悩ましさを、ここで共有してみたい。

朝日新聞は2023年8月23日朝刊の社説「処理水の放出」で、「政府と東電に重い責任」という見出しを掲げた。第1段落でいきなり、「内外での説明と対話を尽くしつつ、安全確保や風評被害対策に重い責任を負わなければならない」と釘を刺している。

そこに的を絞ったか。私は瞬時にそう思った。処理水の放出は政府が決定し、東電が実行する。両者に責任があるのは当然だ。社説は、その念を押すことに力点を置いている。

半面、気になるのは最後の1行まで、処理水海洋放出に対する賛否を明らかにしていないことだ。これは、ひとり朝日新聞だけのことではない。処理水問題を伝えるテレビ報道などを見ていても、放出の是非について立場を表明しない例が多いように思う。

理由はこういうことだろう――。処理水は原子炉から出る汚染水から放射性物質の大半を除いたものなので、「処理」済みではある。だが、そこには水分子に紛れ込んだ水素の放射性同位体トリチウム(半減期約12年)が残っている。今回は、処理水を大幅に薄めて海に流す。生物や生態系への影響が心配だが、政府や国際原子力機関(IAEA)は「安全」と言っている。さて、それを鵜呑みにしてよいかどうか。メディアはそこで悩む。

環境省や資源エネルギー庁の公式ウェブサイトは、トリチウムが自然界にも一定程度存在すること、それが放射するベータ線はエネルギーが弱いこと、生体に入っても水とともに排出されてしまうので蓄積されにくいことなどを強調している。こう言われると、健康被害のリスクは無視できるほどなのだろうと思わないでもないが、その一方で、まだわかっていないこともあるのではないかと疑ってしまう。ジャーナリストとは、そういうものだ。

だから、メディアは処理水の放出について、積極的に賛成とは言えない。だが、逆に反対とも言いにくい。なぜなら、福島第一原発敷地内のタンク容量がほとんど限界に達しているからだ。もはや、処分を先延ばしにできないという言い分もわからないではない。

反対を主張しにくい事情は、もう一つある。もしメディアの一部が、安全問題の未解決を理由に放出に異を唱えたとしても、政府はそれを強行するだろう。すると、そのメディアは地元海産物の安全を疑問視しているような構図になる。その結果、風評被害に手を貸している、という糾弾を招きかねない。のみならず、海外の日本産海産物禁輸の動きに迎合していると揶揄される可能性もある。それは、メディアにとって本意ではないだろう。

この社説は、今回の放出を「国際的な安全基準に合致」しているとみるIAEAの見解に触れ、「計画通りに運用される限り、科学的に安全な基準を満たすと考えられるが、それを担保するには、厳格な監視と情報開示が不可欠」と述べている。とりあえずは「安全基準に合致」の判断を尊重しよう、ただ、それには条件がある、監視を続け、結果を公表することだ――これが、安全について打ちだせるギリギリの立場だったのかもしれない。

ただ私としては、社説にはもう一歩、踏み込んでほしいと思う。安全とは別の次元で、処理水放出の是非を論じられるのではないか、ということだ。その次元とは倫理である。

放出が安全かどうかはひとまず措こう。安全が不確かならやめるほうがよいが、先延ばしできないなら条件付きで受け入れざるを得ない。ただ、条件は「監視」と「開示」のほかにもある。それは、処理水の放出を倫理の座標軸に位置づけることだ。

自然界では、宇宙線などの作用でトリチウムが生まれている。そこに人間活動によって出現したものを上乗せするのが、今回の処理水放出だ。そのトリチウムの生成は、人間が巨大なエネルギーを手に入れるために原子核の安定を崩したことに由来する。人類は20世紀半ばまで、原子核の中に“手を突っ込む”ことはなかった。トリチウムの上乗せは、その一線を越えたことのあかしでもある。そのことは心に刻まなくてはならない。

それが何だ、という見方はあるだろう。だが、自然界のバランスに私たちは鋭敏でなければならない。バランスの攪乱は、たとえ小さなものでも長く続けば不測の結果をもたらすことがあるからだ。この認識を共有することは、後継世代に対する倫理的責務ではないか。

トリチウムの放出が世界の原子力施設で日常化しているのは事実だ。それらが法令や基準の範囲内ならば、違法とはいえない。だが、この一点を理由に正当化できるわけでもないだろう。原子力利用の是非にまで遡って未来の放出を避ける選択肢も考える必要がある。

メディアの論評は、現実的でなければならない。だが、だからと言って現実的でありすぎてもいけない。たとえ現実を受け入れても、言うべきことは言っておくべきだろう。
* 朝日新聞8月22日朝刊と翌23日朝刊から
(執筆撮影・尾関章)
=2023年8月25日公開、同日更新、通算692回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

8・12の回想を歴史にする

今週の書物/
『墜落の夏――日航123便事故全記録』
吉岡忍著、新潮文庫、1989年刊

鎮魂の日々

先週のまくらでも書いたように、日本の8月は鎮魂の空気に包まれる。6日、9日は原爆投下の日、15日は終戦の日。これらはいずれも1945年の出来事だった。すでに近現代史の1ページであり、だからこそ記憶の風化が懸念されている。これに対して、12日の日航ジャンボ機墜落事故は終戦の40年後、1985年に起こった。まだ、歴史ではないと思ってきたが、本当にそうか。今30代半ばより若い人は、すべて事故後に生まれている。(*1

で、今週は1985年を歴史の軸に位置づけ、その視点であの事故をとらえ直してみよう。

1945年を起点に日本戦後史を復興期→高度成長期→バブル期→バブル崩壊期……と区分けしていくと、1985年は、高度成長期が1973年の石油ショックで終わり、しばらく緩やかな成長が続いた後、1980年代後半のバブル期に突入しようとしていたころだ。

私は30代半ば。新聞社に勤めて8年が過ぎたころだったが、給料は毎年、前年を上回っていたように思う。右肩上がりの時代だった。当時は大阪本社勤務で、夜も北新地界隈を飲み歩くことが多かった。近くの道路には酔客目当てのタクシーがぎっしり並んでいた。

当欄は今春、上岡龍太郎さんの死を悼む拙稿で、1980年代半ばに関西圏で放映されていた深夜番組「ぼくらは怪しいサラリーマン」(毎日放送)のことを書いた(*2)。「最終電車でジャンケンポン」というコーナーは、終電の時間帯、駅頭で酔客らしい二人にジャンケンしてもらい、勝者には高級ハイヤーに乗って帰る権利を与えるという趣向だった。当時のサラリーマン生活では、会社の仕事と夜の飲み歩きが一体だったことがわかる。

そういえばあのころは、サラリーマンという言葉がふつうに使われていた。その裏返しで、女性事務員はOL(オフィスレディ)と呼ばれたものだ。1985年は男女雇用機会均等法が定められた年だが、職場の主戦力は男たちである、という固定観念が拭い難くあった。大手企業のほとんどは終身雇用制をとり、社内人事では年功序列が重視されていた。そこには、戦後昭和の枠組みがある。高度成長期をそのまま引きずっていたといってもよい。

ただ、変化もあった。たとえば、町にフランチャイズの店がふえたことだ。ファストフード店、ファミリーレストラン、コンビニエンスストア、百円均一の店、衣料量販店……。この大波にのまれるように商店街から個人商店が消えていき、町の風景はのっぺりしてしまった。ただ、フランチャイズ店の商いは概して価格帯が手ごろだ。皮肉なことに、そうした店がふえることでバブル崩壊後の暮らしの基盤が用意されていたともいえる。

1980年代は日本人が国際化した時代でもあった。今、JTB総合研究所のウェブサイトを開くと、日本人出国者数の推移がグラフ化されている。1980年代に急増、1986年に年間500万人に達して1990年には1000万人を突破した。高度成長期には考えられなかった規模感だ。戦後、為替レートは1ドル=360円の時代が続き、1ドル=308円の過渡期を経て1973年に変動相場制になった。日本人が大挙して海外に飛び出た背景には強い円があった。

国際化は外国旅行だけではない。経済もグローバル化した。資本や労働力の移動に対して国境の壁が低くなったのだ。1980年代は日本企業が海外へ進出することばかりが目立ったが、逆方向の流れが起こるリスクもあのころに抱え込んだように思う。

こうしてみると、1980年代半ばの日本社会は高度成長期を抜け出て、次の時代に入る移行期にあった。だが当時、私たちには見抜けなかったことがある。一つには、右肩上がりが突然途絶したことである。数年後、その見通しの甘さを痛いほど思い知らされる。

それだけではない。私たちは次の時代がどんなものになるかを思い描けなかった。1985年の時点で、10年後にインターネット元年が到来してネット社会が出現すると予言できた人がどれだけいただろう。四半世紀後に電車の乗客がそろってスマートフォンに指を走らせる光景を想像できた人がどれほどいただろう。今やモノのやりとりよりも情報のやりとりのほうが一大関心事となり、後者が新しい価値を次々に生みだしている。

1985年をひとことで表現すれば、私たちの先行世代が高度成長の時代を駆け抜けた後の踊り場ではなかったか。石油ショック後のなだらかな成長期でバブルの気配は漂っていたが、次の展開は1990年代まで見えてこなかった。バブル経済の崩壊しかり、ネット社会の幕開けしかり。私たちはそれを予感できず、高度成長の遺産がもたらす恩恵に浴して、のほほんとしていたのだ。そんなとき、あのジャンボ機の機影が消えた――。

で、今週も『墜落の夏――日航123便事故全記録』(吉岡忍著、新潮文庫、1989年刊)を読む。焦点を当てるのは先週同様、第3章「ビジネス・シャトルの影」だ。そこには、事故機の乗客509人の統計的な分析も詳細に書き込まれている。これは、毎日新聞(1985年9月12日朝刊)が、123便の乗客やその家族の全体像を記事にしたものを出典としている。そのデータからも、日本社会が1985年にどんな位相にあったかが浮かびあがってくる。

乗客の職業をみると、事故機が東京発大阪行きの夕方の便ということを反映して、日本経済の主力ともいえる人々が多数を占めていた。「企業経営者」31人、「会社役員」42人、「管理職もふくめた男女一般社員」219人、「自営業者」15人……企業のトップを含む経営陣が1割強を占めている。この客層は、著者が空港ロビーに見いだした「新しさのざわめき」や「陰影のない照明」が醸しだす高揚感と波長がぴったり合っている。

出張の行き帰りが多かった。単独で乗っていた「会社員」のうち、出張中は133人。内訳をいえば、関西方面へ向かう人が32人、東京方面から帰る人が101人だった。

興味深いのは、乗客たちが携わっていた仕事の領域だ。本書の文言を使えば「ビジネスマンたちの業種」だ。まだ、ビジネスパーソンという言葉は定着していなかった。著者が順不同で並べた「業種」は「ガラス、製麺、繊維、化粧品、食品、銀行、家具、精密機器、リース業、レジャー開発……」。すぐ気づくのは、今でいうIT関係がほとんどないこと。わずかに「コンピュータ」という項目があるくらいだ。まだ、情報よりモノの時代だった。

乗客には、夏休みということで観光客も101人いた。このうち76人は、東京ディズニーランド(浦安市)とつくば科学万博(つくば市)の両方、もしくは片方を楽しんで家路についていた人だった。こうしてみると、観光にもどこか高揚感があった。

本書は、墜落直前の機内を1985年の世相に照らしあわせている。著者は取材で、この便に客として乗っていた客室乗務員職の女性生存者から話を聞いていた(第2章「三十二分間の真実」)。その証言によれば、救命胴衣は非常口を出てから膨らますものなのに機内で膨らませてしまう乗客が何人かいたという。あわててしまったのだ。著者が座席番号から割りだすと、一流企業の「ビジネスマン」ばかりだった。企業戦士もまた人間だったのだ。

著者は人間に希望も見ている。たとえば、この女性生存者の隣席にいた男性Kさん。彼女とともに、救命胴衣を今は膨らまさないよう周りに呼びかけ、彼女が、もしものときは乗客避難に力を貸してほしいと頼むと「任せておいてください」と応じた。Kさんは40歳、東京に単身赴任中の建設会社員だった。著者は、そこに「冷静なだけではない品位」をみて「一人ひとりの実質がむきだしにされるときも、輝くものを失わない人がいる」と書く。

最後の32分間には乗客5人が遺書を残した。手帳に「どうか仲良く/がんばって/ママをたすけて下さい」、ノートに「しっかり生きろ」「立派になれ」、時刻表に「死にたくない」、紙袋に「子供よろしく」、社名入り封筒に「みんな元気でくらして下さい」……これら「ぎりぎりの言葉」や「愛と惜別の言葉」を読んでいて、著者は一つのことに気づく。「〈ビッグ・ビジネス・シャトル〉のなかでは、乗客のだれも仕事のことを書き残さなかった」

今年も8月12日がめぐってくる。私たち戦後生まれは、この出来事を後続世代に語り継がなければならない。事故が、ふわふわした高揚感のある時代に起こったということ、その惨事にも、人間は捨てたものではないと思わせる事実が潜んでいたということを――。
*1 当欄2023年8月4日付「812に戦後史の位相を見る
*2 当欄2023年6月9日付「上岡龍太郎の筋を通す美学
☆引用箇所にあるルビは原則省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年8月11日公開、通算690回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

8・12に戦後史の位相を見る

今週の書物/
『墜落の夏――日航123便事故全記録』
吉岡忍著、新潮文庫、1989年刊

鎮魂の日々

鎮魂の夏がやって来た。8月といえば6日、9日、15日と、先の戦争の被爆犠牲者、戦没者、銃後の死者に思いを馳せる機運が高まる。三つの日付を読み込んだ俳句もあり、類似句がいくつも出てきている()。当欄も8月には関心がそこに向かい、戦争がらみの本を読むことが多かった。ただ忘れてならないのは、8月にはもう一つ、鎮魂の日があることだ。1985年8月12日、日航ジャンボ機が群馬県山中に墜落、520人が生命を落とした。

あの日、私は何をしたか。ここでは、そのことを正直に打ち明けなければならない。当時、私は新聞社の大阪本社科学部に在籍していた。私の記憶では、午後7時のNHKニュースが終わる間際、松平定知アナウンサーが緊急ニュースとして「日航機の機影が消えた」という第1報を伝えた。そのとき私は部内にいたので、編集局全体が騒然となるのがわかった。記者の習性として、自分もなにかしなくてはならないと思った。

こんなとき、科学記者が真っ先に手をつけるべきは、遭難したと思われる航空機について記事を用意することだ。第1報によれば、機種はボーイング747だという。愛称ジャンボ機だ。ジャンボ機がどれほど巨大であり、工学面でどんな安全策がとられているか。それらのデータを過去記事などの資料をもとにまとめなくてはならない。だが、科学記者3年目の若輩にその役目は回ってこなかった。社会部の応援に回されたのである。

命じられた仕事は、乗客の関係者に電話をかけることだった。遭難は確からしいが、墜落の情報はなく不時着の可能性もある。安否を気遣う気持ちを関係者から聞きだし、乗客の旅がどんなものだったかについても聞ける範囲で聞く――そんな指示を受けた。

今ならばありえない取材だ。航空会社が遭難の時点で直ちに乗客名簿を公表することは、今はないように思う。ところが当時は、名簿が大まかな住所付きで公開された。新聞記者は電話帳でそれらしい番号を探しだし、手当たり次第に架電した。関係者は藁をもつかむ思いで最新情報を求めていたから、新聞社からの電話でも拒むことなく応じてくれた人が多い。家族や友人の心を不用意に波立たせた罪は深かった。今もなお、心が痛む。

個人情報尊重の機運は今ほど高まっておらず、個人情報保護の規制も緩い時代だった。メディアは、実名報道を基本とするジャーナリズムの原則をひたすら主張していた。あれから38年、私たちの価値観は変わった。情報の扱い方にかかわる企業やメディアの行動原理だけではない。人々の生活様式や思考様式も一変した。この視点に立って8・12を回顧することは意義深い。今夏は機を失しないよう、もう一つの鎮魂に思いをめぐらせる。

手にとったのは、『墜落の夏――日航123便事故全記録』(吉岡忍著、新潮文庫)。事故の1年後、1986年8月に新潮社が出した単行本を1989年に文庫化したものだ。なお、本書本文には、著者が「新潮45」誌で発表したルポルタージュも組み込まれている。

著者は1948年生まれのノンフィクション作家。学生時代はベトナム戦争に反対する市民運動の活動家だった。作品のテーマは教育や技術化社会にも及んでいる。本書は1987年、講談社ノンフィクション賞(現・講談社本田靖春ノンフィクション賞)を受けた。

本書は六つの章から成る。第1章「真夏のダッチロール」、第2章「三十二分間の真実」は日航ジャンボ機墜落事故そのものの実相に迫っているが、第3章以降では事故を多角的な視点でとらえ直している。たとえば第4章「遺体」は、遺体収容や身元確認に焦点を当てた。第5章「命の値段」は補償をめぐる保険業界の動きを追った。そして第6章「巨大システムの遺言」は、航空機を一つのシステムとしてとらえ直している。

そんななかで異彩を放つのは、第3章「ビジネス・シャトルの影」だ。ざっと読むと、墜落事故に直結しない話が書かれている。とくに章の前半では、羽田空港ロビーと空港周辺地域の空気感を比べている。興味深いのは、その対比によって戦後日本社会が1985年の時点でどんな位相にあったかが浮かびあがってくることだ。これもまた、あの事故が私たちに突きつけた現実にほかならない。ということで当欄は今回、第3章の前半に的を絞る。

第3章冒頭の一節は、空港ロビーの描写だ。そこには「新しさのざわめき」があり、「明るく、陰影のない照明」がある。床面には「硬質の輝き」、周りには「先端のテクノロジーの気配」。売店の新聞や雑誌は「最新の話題」を発信し、乗客たちは「もう飛行機を降りた先のことを考えている」。場内に流れる「くぐもった音調のアナウンス」も、乗客の心を煽っているように聞こえる。前のめり感があふれる特別な空間なのだ。

これは、今も言えることかもしれない。私はごく最近、ある空港の国内線搭乗口で出発を待つ間、同様の印象を受けた。周りに、スマートフォンの電話で会社の同僚と仕事談議に没頭する人がいても違和感がなかったのだ。昨今は業務連絡をメールで済ますことが多いが、空港には電話を多用するビジネスパーソンがいる。自分の肉声が会社を動かしていると自負する人が、ここには結構いるのではないか。これもまた、一つの前のめり感である。

「新しさ」「陰影のない」「硬質」「先端」……これらの言葉が似合うのが現代の空港だ。だがときに、それが虚構に過ぎないことに気づかされる瞬間もある。著者はここで、自身が米国西海岸の空港で出あった光景をもちだす。ロビーにはアジア系の難民らしい家族がいたが、一家が立ち去った直後、近くの乗客が声を発して立ちあがった。遠くの席へ避難した人もいる。磨きたての床面に幼子のものと思われる固形排泄物が残されていたのだ。

空港の「新しさ」「陰影のない」「硬質」「先端」……を演出するのは、床面の「ぴかぴか」に象徴される「清潔感」だろう。だが一皮剥けば、そこも人間という生きものの生息空間にほかならない。著者は、ジャンボ機墜落事故を描くときもこの一点にこだわる。

本書は、この視点に立って考察の対象を空港の外にも広げている。空港周辺には倉庫や工場が建ち並び、水路に土砂やゴミの運搬船が行き交う。著者は、その町を歩いてみる。

1985年11月、この地域では女子中学生の飛び降り自殺という不幸な事件が起こった。マンションのベランダに残されたメモによれば、少女は女子のツッパリ集団から「舎弟」となるよう迫られたのだという。著者は、「舎弟」の一語に引っかかる。「最新のテクノロジーを駆使した空港施設に隣接する街区」にふさわしくないと思えたからだ。「先端のビジネスマン」が集まる空間の足もとで、少女たちが「舎弟」などと言いあっているとは。

著者は、その違和感に吸い寄せられる。少女の中学校は「空港ロビーから徒歩で二十分ほどの距離」にあった。著者は「高速道路やモノレールから見える巨大な電飾看板」の裏面を見あげながら学校方面へ向かう。電柱に「旋盤工員」や「女子パート」の求人広告。商店街はなく工場、また工場。その屋根越しに機影が見える。「中学校があるどころか、人が住んでいることすら信じられなかった」が、やがて高層住宅群や低層アパートが姿を現した。

中学校は下水処理場の工事現場に面していた。現場を取り囲む塀には、処理場完成後の風景がペンキで描かれている。水路の水は青々として、魚やエビが飛び跳ねている。高速道路やモノレール、空港ビルの向こうには青空が広がり、ジャンボ機の飛び立つ姿も。いかにもありそうな未来図だ。そこに「豊かで潤いのある生活環境をつくる下水道」の標語が……。「しかし、このあたりの町並は、標語を裏切っていた」と、著者は率直に書く。

著者の観察結果を要約すればこうだ。高度成長末期、工場地帯の敷地に空きができて集合住宅が建ち並んだ。それは首都圏への労働力流入の受け皿となったが、町は未成熟のままだった。あふれ返るのは、住人たちのクルマくらい。空疎な標語ばかりが目につく――。

東京と大阪を結ぶ日航123便の墜落は、ビジネスパーソンを大勢乗せていたということで日本社会の最先端を襲った惨劇だった。だが、その最先端は、高度経済成長が放置した社会の歪みと隣りあわせでもあった。来週も引きつづき、本書のこの章を読もう。
* 「本読み by chance」2016年12月9日付「俳句に学ぶ知財の時代の生き方
☆引用箇所にあるルビは原則省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年8月4日公開、通算689回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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科学記者のゆとりを味わう

今週の書物/
「科学者@Warの『言い分』」
武部俊一著(東大科哲の会会誌「科哲」第24号=2023年1月刊=所収

科学のページ(朝日新聞より)

「科哲」という言葉を聞いてピンとくるのは業界人だけかもしれない。ここで「業界」とは、私自身もその一隅にいた科学報道の職域を指している。1983年、私が朝日新聞社の科学部員になったとき、部の幹部(東京、大阪両本社の部長と次長)6人のうち5人が「科哲」出身者だった。科哲とは、東京大学教養学部「科学史・科学哲学」コース(*)の略。これが科学報道の本流なのか――私学出身の私は圧倒されたものだ。

顧みるに、それは学閥というより学派に近かった。言い方を換えれば、「科哲」の人々には独特の匂いがあったのだ。私の現役時代、科学報道も競争が激しくなり、科学記者は事件記者や政治経済分野の記者と同様、他紙を出し抜くことに躍起となったものだが、「科哲」出身者はどこかおっとりしていた。競争しないというのではない。いやそれどころか、他紙の追随を許さない記者も多くいた。それなのに、ガツガツした感じがない。

これが、教養というものかな――私は部になじむにつれて、そう思うようになった。東大教養学部の学生は1~2年生の課程を終えても東京・駒場キャンパスに残り、4年生まで教養を深めている。その後半の2年が、心のゆとりをもたらしているのではないか。

朝日新聞社の科学部は「科哲」出身者を多く擁した1960~1970年代に存在感を高めた。米ソの宇宙開発競争を追いかけ、日本初の心臓移植(1968年)の暗部も突いた。だが、後に大きな批判を浴びたこともある。原子力利用の旗を率先して振ったことだ。1979年、米国スリーマイル島原発事故が起こったとき、私は原発立地県の支局記者だったので覚えているが、国策を後押しするような科学部の報道姿勢は同じ社内でもどこか浮いていた。

その報道姿勢を「科哲」に結びつけるのは短絡というものだろう。ただ科学をめぐる教養の深さは、科学に対する批判の鋭さに必ずしも比例しないのかもしれない。

ここまでの記述でわかるように、私には「科哲」に対してアンビバレンスの思いがあった。片方は、自分もあの人々のように心にゆとりをもって科学を吟味したいという志であり、もう一方は、自分は在野の立場にとどまって批判精神を忘れまいという決意だった。

で、今週は、武部俊一著「科学者@Warの『言い分』」(東大科哲の会会誌「科哲」第24号=2023年1月刊=所収)。著者は1938年生まれ。私が科学記者になったときの朝日新聞東京本社科学部長で、論説委員も長く務めた。心のゆとりを体現したような科学記者。原子力についてもバランス感覚のある記事を書いてきた。私は尊敬している。お住まいがたまたま近隣の町にあるので先日カフェで落ちあい、この会誌をいただいたのである。

「科哲」第24号は特集の一つが「戦争と科学技術」であり、「科哲」ゆかりの人々が論考を寄せている。その一つが、著者の「科学者@War…」。古今東西の自然哲学者や科学者が戦争に際し、あるいは軍事に対し、どんな態度をとってきたかを総覧している。

冒頭の一節は、第2次世界大戦直後の欧州を描いた英国映画「第三の男」(キャロル・リード監督、1949年)の話。その一場面で、オーソン・ウェルズ演ずる「第三の男」が発した言葉が引かれている。イタリアでは名門ボルジア家が権力を握っていたころ、戦争や流血沙汰が後を絶たなかったが、ルネサンスも花ひらいた。スイスでは民主主義と平和が長く続いてきたが、生みだしたのはハト時計くらい――こんな趣旨の台詞だ。

著者によれば、この台詞は「戦乱の世を勝ち抜く国家の威信が文化の原動力にもなってきた」現実を言い表している。国家の威信を支える軍事と文化の一翼を担う科学は表裏一体だ。だから、「軍事の要請に科学者たちはつきあった」。そのつきあい方はさまざま。悩むことがあった。躊躇なく応じることもあった。研究資金や生活費のためと割り切ることも。とりあえず、その「言い分」を聞いてみようではないかというのが本論考の趣意らしい。

最初に登場するのは、古代ギリシャの植民国家シラクサの人で数理の達人として知られるアルキメデス。シラクサがローマ艦隊を相手に戦ったとき、「クレーン」や「投石」や「反射鏡」による反撃で功があったとされる。興味深いのは、兵器の設計図などを残していないこと。数学や力学の業績が記録されているのとは対照的だ。本人が軍事技術を低く見て、本業とみなさなかったためらしい。「余技」が国防に生かされたのか。それはそれで怖い。

ルネサンス期の人物では、レオナルド・ダ・ヴィンチが特記に値する。30歳のころ、ミラノ公への求職活動で自薦状をしたため、「頑丈で攻撃不可能な屋根付き戦車をつくります」などと提案。平時の貢献についても書き添え、彫刻もする、絵も描く、なんでもする、と売り込んではいるが、「就活」最大のセールスポイントは芸術ではなく、軍事だったわけだ。ただ、軍事技術の提案のほとんどは現実性に乏しく、受け入れられなかったという。

16~17世紀のガリレオ・ガリレイも軍事と無縁ではなかった。パドヴァ大学教授時代は研究資金を得るため、軍人の「家庭教師」をして要塞の建造法などを教えていた。望遠鏡を自作したときは、敵艦の発見にも使えると言ってヴェネチアの総督から「報奨金」をもらっている。自分は望遠鏡で木星の衛星を四つ見つけ、それらを「メディチ星」と呼んだ。「権力者の機嫌をとってすり寄らなければ、研究生活が成り立たない時代だった」のである。

近代に入ると、著名な発明家や科学者が次々登場する。アルフレッド・ノーベル、アルベルト・アインシュタイン、ヴェルナー・ハイゼンベルク、仁科芳雄らが名を連ねる。世間にもよく知られたエピソードに交ざって、ああそうだったのかという話も出てくる。

ここでは、二人に焦点を当てることにしよう。一人目は、空気中の窒素からアンモニアを生みだす技術に道を開き、「化学肥料の父」と呼ばれるドイツの化学者フリッツ・ハーバー(1868~1934)。この人にはもう一つ、「毒ガスの父」という恐ろしい異名がある。第1次世界大戦に際して化学兵器の開発を指導したからだ。その人は、こんな言葉を残している。「科学者は平和の時は人類に属するが、戦争の時は祖国に属する」

あぜんとするほどの割り切り方。ただ、見落としていることがある。私たちは、人類や祖国に「属する」以前に一個人であることだ。毒ガスをつくる自己も、毒ガスを浴びる他者も一個人だ。ここでは、その個人の生命も健康も権利も度外視されている。

もう一人は、米国で核兵器開発のマンハッタン計画を率いた物理学者ロバート・オッペンハイマー(1904~1967)。第2次世界大戦末期の核実験を「荘厳のかぎりだった。世界は前と同じでないことを私たちは悟った」と振り返っている。「技術的に甘美な(Technically sweet)ものを見た時には、まずやってみて、技術的な成功を確かめた後で、それをどう扱うかを議論する」という「判断」が自分にはあった、とも語っている。

オッペンハイマーは、原爆の開発や、それが広島、長崎に投下されたことの「非人間性」「悪魔性」に対して戦後は自責の念も感じていたようだ。主語を「物理学者は…」と一般化しているものの「内心ただならない責任を感じた」「罪を知った」と吐露している。

ここから見えてくるものは、科学技術には「荘厳」で「甘美」な一面があり、その魔力が科学者を「まずやってみて」という罠に陥れることだ。科学者の探究心が暴走するとは、こういうことを言うのだろう。科学者は核兵器でそのことを痛感したのである。

この論考では、著者の取材体験が一つだけ披露される。半世紀前、欧州出張の折、ドイツ・ミュンヘン大学の教授だったハイゼンベルク(1901~1976)に取材を申し込んだ。「快諾」の返事があり、約束の日時に大学を訪れたが、「体調」を理由にすっぽかされたという。ハイゼンベルクは戦時中、核をめぐるナチスの軍事研究に関与の噂があった人だ。被爆国の科学記者からそこをつつかれるのが疎ましかったのではないか、と著者は推察する。

ただ、ハイゼンベルクは礼儀正しい人だった。後日、著者に丁重な詫び状が届いたからだ。手紙には本人の署名があり、この論考には、その部分の接写画像が載っている。新聞記者には、あと一歩で特ダネを射止めていたのに……という残念譚が一つ二つある人が多いが、これもその一例だろう。それにしても、ハイゼンベルクがもし約束を守ってインタビューに応じていたら広島、長崎について何を語ったか。読んでみたかった気がする。

この論考のもう一つの魅力は、各項目のすべてにその科学者の記念切手が添えられていることだ。著者は、長年続けている切手収集の成果を「戦争と科学技術」という重い論題にも結びつけた。ここにも「科哲」のゆとりが見てとれる。学派の伝統は生きている。
* コースの正式名称は時代とともに変わっているようだが、当欄は会誌にある呼び名を採用した。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年7月7日公開、同年8月12日更新、通算685回
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3・11大津波、幻の直前警告

今週の書物/
『3.11大津波の対策を邪魔した男たち』
島崎邦彦著、青志社、2023年3月刊

第二幕

地震の予知に私は懐疑的だ。今後〇十年に大地震が起こる確率は〇〇%という予測(長期評価)はありうる。だが、〇〇日後の〇〇時ごろ、〇〇地方が大地震に見舞われると予言するのは難しい。地震は地中のさまざまな要因がかかわって引き起こされるので、複雑系科学の色彩が強い。ならば、カオス理論のバタフライ効果も当然現れるだろう。予測の方程式に打ち込む初期値の数字がちょっと違うだけで未来が大きく異なってしまうのだ。

ただ、この世にはめぐりあわせというものがある。たとえば、どこかのテレビ局が、偶然にも大震災の数日前、地震や津波に対する警戒心を高めるようなニュースを流していたとしよう。それが、結果として犠牲者の数を減らすことは大いにありうる。

2011年3月11日の東日本大震災でもそんなことが起こり得たが、そうはならなかった――という話を今週は書く。そこには、日本の官僚機構の病弊が絡んでいる。

今週読むのも、先週に引きつづいて『3.11大津波の対策を邪魔した男たち』(島崎邦彦著、青志社、2023年3月刊)。著者は東京大学名誉教授の地震学者であり、東日本大震災の前後は、政府の地震調査研究推進本部(地震本部)長期評価部会の部会長だった人だ。

先週は、地震本部が2002年に太平洋日本海溝沿いの津波地震について長期予測をまとめたときのひと悶着を本書に沿って紹介した。内閣府防災担当が長期評価案に難色を示したのだ。津波地震は「三陸沖~房総沖のどこでも」起こる可能性があるとした点が意に染まなかったようで、地震本部の事務局がある文部科学省に変更案を送りつけてきた。その結果、長期評価には予測に「限界がある」ことを強調する“なお書き”が書き添えられた。(

今回の話は、その続編である。地震本部の長期評価はいったん出たら、それで終わりではなく、新しい知見を取り入れて版が改められる。本書によると、「三陸沖から房総沖にかけての地震活動」の長期評価も、長期評価部会が2010年から「第二版」の検討を始めた。焦点となったのが、平安時代に記録が残る貞観地震(869年)の扱いだ。初版2002年の時点では貞観地震のデータが少なく、評価にあたって考慮の対象から外されていた。

ところがその後、津波堆積物などの研究が進んだ。貞観地震の津波が陸地の奥深くまで襲っていたこと。同様の津波は貞観以前にもあったこと。貞観以後では1500年ごろにもあったらしいこと……。宮城県中南部から福島県中部沿岸では巨大津波の間隔が450~800年程度であることがわかったとして、現在は「巨大津波を伴う地震がいつ発生してもおかしくはない」とする「第二版」案が長期評価部会に出された。2011年1月26日のことである。

ところが、この原案は2月23日の部会までに修正されたという。地震本部事務局が表現を微妙に改めたのだ。「巨大津波を伴う地震がいつ発生してもおかしくはない」が「巨大地震を伴う地震が発生する可能性があることに留意する必要がある」となっている。

3月になると、「第二版」案はさらに慎重な言い回しとなった。地震学では同規模の地震が同地域で繰り返されるとき、それを「固有地震」と呼ぶが、貞観地震が固有地震かどうかは「さらなる調査研究が必要」とされた。貞観地震については津波堆積物などから断層運動の様子が推測されていたが、これも「改良されることが期待される」と言い添えられた――科学者が「いつ発生しても」と言い切った警告が事務局によって弱められたのだ。

なぜ、こんな改変がなされたのか。そこには、衝撃の事実があった。政府の「東電福島原発事故調査・検証委員会」(政府事故調)が、2011年暮れの中間報告でその経緯を明らかにしたのだ。それによると、地震本部事務局は同年3月3日、東京電力の「要望」を秘密裏に聴いていた。東電は「第二版」案の表現に工夫を求めた。貞観地震が繰り返すと言っているようにとられるのはよくないというのだ。事務局はこれに応じたことになる。

「正規の会議を差し置いて、秘密会合で物事が決まる」という不条理の典型。しかも驚かされるのは、その秘密会合の開催を長期評価部会の部会長である著者が知らされていなかったらしいことだ。本書によると、著者は政府事故調の中間報告で「秘密会合」の開催が明るみに出たとき、ただちに地震本部事務局に連絡をとり、「長期評価部会などの委員全員に、(裏で)何が起きていたのか書面で説明すること」を要求したという。

地震本部事務局は翌2012年2月、その「何が起きていたのか」を記録した資料を長期評価部会に提出した。ただ、資料は「非公開」とされていた。著者が問い詰めると、情報交換の会合は「開催事実」も「内容」も非公表、と事務局は答えたという。

著者の憤りがビンビンと伝わってくるくだりだ。そこからは、日本の官僚機構が科学者をどう扱ってきたかが見てとれる。なにか案件があるとき、科学者の見解を聴くかたちをとりながら、結論は自分たちで用意している。結論が科学者の見解とずれるときは、作文技術を駆使して見解を微調整し、自分たちの結論に近づけようとする――日本社会はこんな官僚機構の習わしで統治されてきた。科学者は、もっと怒ってもいい。

地震本部事務局の「秘密会合」は電力業界とだけではなかった。政府内の他部局などとも開いていた。本書で圧倒されるのは、2011年1~3月の「秘密会合」一覧だ。ジャーナリストが入手した資料なども参考にしたという。主なものを拾いだそう(右側は会合相手)。

1/21  内閣府防災担当
1/25  東京電力、中部電力、清水建設
2/22  経済産業省原子力安全・保安院
3/1    同
3/3    東京電力、東北電力、日本原電

相手の顔ぶれを見てはっきりわかるのは、地震本部――正式名称「地震調査研究推進本部」――という大地震のリスク評価を担う機関の事務局が、評価の文言に影響される役所や業界に異様なほど気をつかっている現実だ。防災政策をつかさどる内閣府に相談し、原子力安全行政を担当する経産省原子力安全・保安院(当時)と擦り合わせ、原子力事業に携わる民間企業とも直接接触する――官僚ならではの周到な根回しと言えよう。

地震本部の主役は、あくまでも科学者だ。勤め先は大学だったり、研究所だったり、役所だったりするだろうが、科学者精神をもって自身の知見を自律的に表明する人々だ。逆に言えば、事務局は本来、裏方ということになる。ところが実際には、その裏方が大役を演じているのだ。文書が発表後に反発を受けないよう、案文を片言隻句まで調整していく――その手さばきの上手下手によって官僚としての評価が定まる。そんな世界なのだろう。

貞観地震の新知見を盛り込んだ長期評価「第二版」案は、こうして警告の色彩を薄めるべく修正されていった。それだけではない。当初は事務局も「順調に行けば、三月九日の調査委員会で承認され、公表となる」と見込んでいたが、それが遅れ遅れになったのだ。ここで「調査委員会」は、地震本部内で長期評価部会の上位にある地震調査委員会のことを言っている。3月9日の委員会では、「第二版」案が議題にあがらなかった。

なぜ、公表は先延ばしされたのか。検証が必要な話だが、著者は、背後に東電など原子力ムラの画策があったとみる。本書によれば、東電は当時、貞観地震について独自の見解をまとめつつあり、これを盾に「第二版」案に注文をつけていたらしい。

いずれにしても、3月9日に発表されていたかもしれない直前の警告は幻と消えたのだ。
* 当欄2023年5月19日付「311大津波、科学者の憤怒
(執筆撮影・尾関章)
=2023年5月26日公開、通算679回
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