今夜もスマホに手が伸びる

今週の書物/
『スマホ脳』
アンデシュ・ハンセン著、久山葉子訳、新潮新書、2020年刊

ちっぽけな板切れ

「スマホ」という言葉がすっかり日本語になったことに驚く。『広辞苑』(岩波書店)にも載っているというから完全に根づいたと言ってよいだろう。私にとって意外なのは、スマートフォンが「スマフォ」ではなく「スマホ」と略されて受け入れられたことである。

外来語の表記はこの数十年、原語原音志向が強まっていた。米国の先住民族「ネーティブ・アメリカン」が「ネイティブ・アメリカン」になる。画布「カンバス」は「カンヴァス」に……その伝でいけば、当世風端末スマートフォンの略語は「スマフォ」がふさわしい。

ではなぜ、「スマホ」で定着したのか? 私の仮説はこうだ。たぶん、日本語を母語とする人の脳には「フォ」音を嫌い、「ホ」音を好む性向がある。「フォ」ではなく「ホ」と発声するほうが楽ちんで省エネ、という回路が組み込まれているのだろう。それは、「フォ」がおしゃれでインテリ風に聞こえそうだ、という世俗的な思惑より根深い。今回は「フォ」の思惑がはたらくよりも早く、この回路が決着をつけてしまったのだ――。

これは、スマホそのものの普及がとてつもなく速かったことも反映している。たしかに、2010年ごろを境に電車の車内風景は一変した。向かい側の座席を眺めていると、スマホの画面を見つめて指先を動かしている人が過半数ということが多い。昭和期、通勤電車のサラリーマンがそろって経済紙やスポーツ紙に目を走らせていた光景が思いだされるが、それよりもはるかに幅広い層の心をわしづかみにしているのが昨今のスマホである。

私の世代にとって不思議なのは、なぜ、こんなものが広まったのか、ということだ。私たちは若いころ、活字文化はやがて廃れ、映像と音響の時代がやって来る、と信じ込んでいた。それなのに自分は新聞社に就職したわけだから、最初から負けを覚悟していたことになる。そのとき勝ち組に想定していたのはテレビだった。ところが今、勝者の座を占めそうなのは大画面のテレビではなく、手のひらに載るちっぽけな板切れだ。

思うに、それは使い手の指先を乗っ取る。映像と音響を受けとるだけならテレビがあればよい。持ち運べるというのであれば、目や耳の近くに装着するウェアラブル端末のほうが便利だろう。それなのに手持ちの板きれが広まった理由は、指でポンポンとタップできるからだ。その結果、使い手はツイートであれ、ゲームであれ、アクションを起こせるようになった。受動だけでなく能動の欲求も満たしてくれる点にスマホの強みがある。

で、今週の1冊は『スマホ脳』(アンデシュ・ハンセン著、久山葉子訳、新潮新書、2020年刊)。著者は、スウェーデンの精神科医。ベストセラーの著作もある。1974年生まれというから、10代のころにはまだネット社会が広がっていなかった。

原著は2019年に刊行された。ただ、邦訳には2020年4月の日付で「コロナに寄せて」と題する「新しいまえがき」が収められている。そこで著者は「人間の脳はデジタル社会に適応していない」と強調しつつ、今、スマホが「外界とのライフラインになった」事実を指摘する。それは、新型コロナウイルス感染症の蔓延状況を刻々と伝えて私たちの心をざわつかせる一方、テレワークや家族・友人とのやりとりで私たちを支えてくれてもいる。

コロナ禍は、私たちがスマホを手放せずにいる状況を見せつけた。だが、この本は、スマホが人間に適合していないことを忘れるな、という警告に満ちている。本の刊行とコロナ禍が重なって、はからずもIT(情報技術)がはらむ矛盾が浮かびあがったことになる。

脳がスマホに不適応という話を、著者は人類史から説き起こす。本書第1章の冒頭には、ただの点「・」を100×100=1万個も並べた見開き2ページがある。これらの点の連なりが現生人類の歴史20万年を表すとみたとき、「・」1個は20年間に相当する。そのうえで、人類が「スマホ、フェイスブック、インターネットがあって当たり前の世界」にいる期間は「・」1個という。「・」3個余を生きてきた私も納得するたとえだ。

著者によれば、現生人類史1万個の点のうち9500個分は、人類が「狩猟採集民として生きてきた」。ところが、最後の数百個分で文明が興り、周りの環境がガラッと変わったのだ。狩猟採集時代が終わってからの時間は「進化の見地から見れば一瞬のようなもの」であり、人類の進化はそれを反映していない。人間は「今生きている時代には合っていない」のだ。今もなお、狩りをしたり、木の実を採ったりする仕様になっているらしい。

これは、「・」3個前にも言えたはずだ。私たちは60年前、書物から情報を仕入れ、ペンでものを書いていたが、あれだって狩猟採集民仕様には合わなかった。だが、そのズレは、あのころと今とでずいぶん違っている。私がこの本から受けた印象では、現代人の脳に残る狩猟採集民仕様は、書物・ペンの時代には過去の遺物に過ぎなかったが、スマホ時代になってむしろ再活性化したように思える。あたかも、水を得た魚のように……。

ここで、私が気づいたこの本の長所と短所を挙げておこう。長所は、著者の専門分野を中心に多彩なデータがちりばめられていることだ。短所は、出どころがわからないデータもあること。私たちがスマホを手にとる頻度が「10分に一度」というのは、その一つである。ただ、「朝起きてまずやるのは、スマホに手を伸ばすこと」「1日の最後にやるのはスマホをベッド脇のテーブルに置くこと」という記述には納得する。私自身もそれに近いからだ。

で、本稿では、私たちがなぜ、ついついスマホに手を伸ばしてしまうのか、という謎に注目する。著者は、これを狩猟採集民仕様の脳で説明している。どんな空模様だと危険な猛獣に遭遇しやすいか、どんな場面で獲物となる獣の注意力が鈍るか。そんな知識があれば生き延びるのに有利だ。だから、人間には「新しい情報を探そうとする本能」が具わった。それが向かう先が、今はスマホなどのIT端末になった――というわけだ。

著者の解説によれば、「新しい情報」、すなわち「新しい場所」「新しい人」「新しいこと」をめざす欲求をつかさどるのが脳内のドーパミン。目新しさに「反応して」つくられる物質だ。それが、自分自身に「さあ、これに集中しろ」と働きかけるのだという。こうして人間は行動を起こし、その結果、心が満たされる。このときに満足感をもたらす物質がエンドルフィンだ。スマホは、このしくみにぴったり嵌る存在と言ってよいだろう。

興味深い知見がある。このドーパミンのしくみは、欲求の対象そのものよりも、その対象への「期待」に強く反応することが実験研究でわかった、というのだ。なにかをもらえることが確実視されるときよりも、不確実なときのほうがドーパミンの放出量がふえることになる。「報酬を得られるかどうかわからなくても、私たちは探し続ける」のだ。そんな行動様式が「食料不足の世界に生きた祖先」にとって都合がよかった、と著者はみる。

現代を生きる私たちも、この「人間に組み込まれた不確かな結果への偏愛」をしっかり受け継いでいる。著者が典型例として挙げるのが、ギャンブル依存症。いったん賭けを始めたらそこから抜けられなくなるのも、不確実ゆえの「期待」があるからだ。

「期待」はスマホによっても生まれる。「着信音が聞こえたとき」は「実際にメールやチャットを読んでいるとき」よりドーパミン放出量が多いという。「大事な連絡かもしれない」と反応するのだ。着信音がなくても似たようなことが言える。SNSを使っている人ならば投稿後、「『いいね』がついていないか」という思いから逃れられず、それを確かめようとするだろう、というのだ。こうして私たちの手はスマホのほうへ伸びていく――。

著者は「人間の脳はデジタル社会に適応していない」と言いながら、結局は脳がスマホに弄ばれている現実をあばき出す。ここで話を整理すれば、近現代人の理性的な脳はスマホとそりが合わないが、内面に潜む狩猟採集民の脳はそれと相性が良いということだ。

テクノロジーの最先端が私たちの内なる原始人に寄生する。そんな時代が到来したのだ。変異した原始人に乗っ取られないようにしなければ……スマホを手に、そう自戒する。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年2月26日公開、同年3月2日更新、通算563回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

小柴さんはアメリカに船で渡った

今週の書物/
『物理屋になりたかったんだよ――ノーベル物理学賞への軌跡』
小柴昌俊著、朝日選書、2002年刊

氷川丸

ワタクシ的に言えば、今年は父喪失の年だった。本物の父が5月に97歳で逝った。8月には科学記者仲間の父親的存在だった柴田鉄治さんが85歳で永眠した(当欄2020年9月11日付「新聞記者というレガシー/その1」、当欄2020年9月18日付「新聞記者というレガシー/その2」)。そして11月、日本の物理学界の巨星とも言える物理学者、小柴昌俊さんが94歳で生涯の幕を閉じた。小柴さんもまた、「父親」という言葉が似合う人だった。

3人に共通するのは、昭和戦前を知り、昭和戦後を生き抜いて、平成を見届けたことだ。その世代が今、次々に退場する。やがては代わって高齢層の先頭集団となる私たちは、父親たちが世の中の第一線にいた昭和戦後のことを語り継ぐ義務があるのかもしれない。

で、今回は、小柴さんについて書く。物理学者としての快挙は1987年、岐阜・富山県境部の神岡鉱山地下にしつらえた巨大な水タンクで、銀河系のすぐそばに現れた超新星が放つ素粒子ニュートリノを検知したことだ。この水タンクがカミオカンデである。

カミオカンデは、もともと陽子崩壊という現象を発見する狙いでつくられた。ところが、なかなか見つからない。それならば、とニュートリノの観測もしやすいように改造したら、その数カ月後に超新星ニュートリノが飛び込んできた。幸運と言えば幸運。ただそこには、一つの的が外れたときに備えて二つめ、三つめの的を用意する、という周到さがあった――そんなことを先日、私は「評伝」に書いた(朝日新聞2020年11月19日朝刊科学面)。

当欄は「評伝」とは異なるので、個人的な感慨も披歴しよう。小柴さんは幸運だったが、私自身もまた幸運だったのだ。私は1987年3月、朝日新聞科学部員として小柴グループの超新星ニュートリノ捕獲を記事にしたが、その機会に恵まれたのは同年1月の持ち場替えで物理・天文担当になっていたからだ。カミオカンデが改造から数カ月で超新星ニュートリノを捕まえたように、私も担当になって数カ月で科学の大ニュースと遭遇したのだ。

超新星ニュートリノの捕獲は、科学史の上でも大きな転換点だった。これによって、素粒子物理を粒子加速器のような超大規模の実験装置ではなく、自然観測を通じて探究する流れが再評価された。巨大科学(ビッグサイエンス)の潮流に一石を投じたのである。その動きを追いかけることができたのは記者冥利に尽きる。それだけではない。私は取材を通じて、小柴昌俊という魅力あふれる科学者の人間像を間近に見ることができたのだ。

で今週は、小柴さんの自伝『物理屋になりたかったんだよ――ノーベル物理学賞への軌跡』(小柴昌俊著、朝日選書、2002年刊)から、とっておきの話をいくつか紹介する。

この本をとりあげることには、ためらいもある。自身が本づくりにかかわったからだ。その経緯は、巻末に収めた「インタビューを終えて」という一文で明かしている。2002年晩夏、私は小柴さんに計3回、約10時間のインタビューをした。当時、朝日新聞出版局の編集者だった赤岩なほみが、この記録をもとに参考文献に照らしてまとめあげたものを小柴さんが推敲したのである。その結果、小柴さんらしい語り口が残る自伝となっている。

考えてみれば、この方式をとったからこそ、小柴さんがストックホルムでノーベル物理学賞を受けた15日後に刊行するという早業が実現したのだ。その夏、赤岩と私の間には「小柴さんのノーベル賞は近い」という共通認識があったが、そこにとどまらず「インタビューの聞き手を引き受けてほしい」ともちかけてきた彼女の英断に脱帽する。ここにもまた、幸運をつかみとる用意周到さがあったとみるのは、こじつけ過ぎだろうか。

さて今回、当欄で焦点を当てようと思うのは、小柴さんが1950~60年代に経験した米国生活だ。最初は1953年、ニューヨーク州のロチェスター大学に留学したときだ。横浜港で氷川丸に乗り込み、米西海岸のシアトルまで10日間余の船旅をしたという。

注目すべきは、そのころから小柴さんが用意周到だったことだ。船に同乗していた女子留学生二人から滞米時の連絡先をしっかり聞きだしていたのである。そのこまめさが、米国に渡ってからものを言う。マサチューセッツ工科大学に留学中の友人を訪ねたとき、近くに住む彼女たちに声をかけ、4人でデートしたのだ。「海岸に行って、それから晩飯をおごって、それでさようなら」というから「かわいらしいもの」だった。念のため。

もちろん、遊んでいたばかりではない。博士論文を書こうという学生には、そのまえに厳しい関門があった。まず語学試験に、次いで1週間ぶっ通しの集中試験に合格しなければならなかったのだ。語学では、二つの外国語の習得が求められた。英語はもちろん、日本語も外国語扱いされない。「それで、高等学校時代についばんだドイツ語とフランス語を、ハイネやモーパッサンを思い出しながら勉強した」。さすが、旧制高校出身者だ。

小柴さんが学位論文にまっしぐらだったのには訳がある。懐事情だ。留学中、当時の日本の感覚で言えば破格の月額120ドルが支給されていたが、物価が高いので生活は苦しかったという。交通費を切り詰めようとして「古いフォードを一五ドルで買ったところ、一カ月くらい乗ったらエンジンが破裂してしまった」というような日々。こんなときに指導教授から、博士号をとれば「月に最低四〇〇ドルは保証される」と聞きつけていたのだ。

学位論文のテーマは「宇宙線中の超高エネルギー現象」だった。指導教授のグループが「原子核乾板」という道具を風船(気球)につけて上空に浮かべ、宇宙線を観測していたので、そのデータを解析した。借金を背負いながらの研究だったそうだ。論文を指導教授に提出するときには「これで学位をくれないなら、日本へ帰る」と、啖呵まで切った。そのひとことが功を奏したわけではないだろうが、論文は異例の速さで審査を通過したという。

圧巻は、2度目の渡米後の1960年、シカゴ大学を拠点とする国際共同実験の指揮を任されたときの失敗談だ。ジョージア州の海軍基地から、原子核乾板搭載の観測機器を風船につないで飛ばした。機器は時間がくると風船から離され、落下傘で舞い降りる、という仕掛けになっている。ところが、切り離しのタイマーが雷の直撃を受けたらしく、機器はいつまでも風船にぶら下がったままだ。飛行機から切り離しの信号を飛ばしてもダメだった。

この窮地に、小柴さんはどうしたか。本人の回想によれば、米海軍の幹部に電話して、風船を落下させるために軍用機を出動させてほしい旨の要求をまくし立てた。「言いたい放題」だ。「敗戦国民のわたしが、アメリカの海軍にああしろ、こうしろと命令するのは、正直言って気分がよかった」と振り返る。実際、海軍は軍用機で風船を銃撃したらしい。それでも風船は太平洋上空まで流され、観測機器はついに行方知れずになったという。

実験そのものは失敗だった。だが小柴さんは、ここから二つのことを学ぶ。巧妙な交渉術と実験家の心得だ。指南役は、イタリア出身の物理学者ジュゼッペ・オッキャリーニだった。軍人とのやりとりでは「喧嘩の仕方をいろいろコーチしてくれた」。実験のことでは、観測装置に信号が伝わらない事態を想定して、その場合でもデータを回収できるしくみにしておくよう「お説教」したという。小柴流用意周到の原点は、ここらへんにありそうだ。

不可解なのは、小柴さんが米海軍に対し、風船相手の作戦にU2を使うよう求めたとしていること。U2は偵察機だから、ちょっとおかしい。1960年、この機種は旧ソ連上空で地対空ミサイルに撃ち落とされるなど注目の的だったので、思わず口を突いて出たのだろうか。

この逸話には、違和感を覚える人が少なくないだろう。1960年は、日本で日米安保条約反対のうねりが高まった年だ。知識人の間には、文系であれ理系であれ、反戦、反米の思いが強かった。そんな時流を知らぬげに米軍と屈託なくかかわったのだから、批判されても不思議はない。そこにあったのは、人道に反しないなら使えるものは使うという合理主義か。ただ一つ言えるのは、小柴さんは日本社会のものさしに収まらない人だったということだ。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年12月11日公開、同月14日最終更新、通算552回
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フランクリンにみる米国の原点

『フランクリン自伝』
ベンジャミン・フランクリン著、松本慎一、西川正身訳、岩波文庫、1957年刊

アメリカの味

今年は、米国の年だった。いや、米国に幻滅した年だったと言うべきか。米国の出来事に思いをめぐらせる機会は、いつになく多かった。だが、たいていはあきれ、げんなりさせられて、もの悲しくなることもあったのだ。極めつけは、大統領選挙。現職大統領が相手候補を口をきわめて罵る姿は、私たちが憧れ、ときにうらやましく感じていた米国人の美学とは、まったく相反するものだった。あのアメリカらしさはどこへ行ったのか?

コロナ禍が、それに追い打ちをかけた。感染の波を抑えられなかった、という結果をどうこう言うつもりはない。医療現場で医師や看護師、検査技師たちが果敢に任務をこなしていることもわかっている。私がアメリカらしくないと思うのは、あれほどの事態に陥りながら平然とマスクをしないでいられる人々が大勢いたことだ。マスクは鉄壁ではないが、感染の確率を確実に減らせる。その合理主義がどこかへ消えてしまった!

もちろん、米国にも反科学の精神風土があることはわかっている。ダーウィン進化論を宗教心から信じない人がかなりいる、とも言われている。だが、そうであっても実践の局面では理にかなった行動をとる――それが米国流だと思っていたのである。

で今回は、私がこれぞ米国流と思ってきた行動様式の水源を1冊の本から探っていこう。『フランクリン自伝』(ベンジャミン・フランクリン著、松本慎一、西川正身訳、岩波文庫、1957年刊)。著者(1706~1790)は、米国の独立・建国運動を率いた政治家の一人。それだけではない。もともとは実業家であり、理系の探究心も豊かだった。雷の正体が電気だと見抜いたのだ。欧州からは離れたところで近代精神を体現した人と言えるだろう。

この自伝によれば、フランクリンは1706年、ボストンで生まれた。10歳で学校をやめ、父が営むろうそく・石鹸の製造業を手伝ったり、従兄のもとで刃物職の修業をしたり、兄が始めた印刷所で「年季奉公」したりした。17歳のとき、ニューヨーク経由でフィラデルフィアに移り、ここで印刷工の職を得る。さらに18歳で英国ロンドンへ渡り、そこでも同じ仕事に就いた。今はやりの言葉で言えば、たたき上げの苦労人ではあったのだ。

20歳で帰米、フィラデルフィアで元の勤め先に戻るが、まもなく同僚と組んで、活字や印刷機など備品一式を取り揃えて開業する。1728年のことだ。20代前半での独立は、今の感覚で言えば早いが、この時代では当たり前のことだったのだろう。

フランクリンがふつうの青年とは異なっていたのは、知的好奇心の強さだ。それはオタク的な興味にとどまっていない。1727年秋の思い出として、次のような記述がある。「私は有能な知人の大部分を集めて相互の向上を計る目的でクラブを作り、これをジャントーと名づけて、金曜日の晩を集りの日にしていた」(「ジャントー」は「徒党」「秘密結社」の意との注が挿入されている)。20歳そこそこで、知的集団を主宰したのだ。

フランクリンはこの自伝で、ジャントー・クラブ会員の人となりも詳述している。当初の会員には、独学の数学者がいた。放浪中の英オックスフォード大生がいた。学徒ばかりではない。測量の専門家も、指物師も、商家の番頭もいた。集いでは会員が一人ずつ、倫理・政治や自然科学の話題を提供してみんなで議論する。3カ月に1本は論文を書くという決まりもあったという。この本気度はサロンの域をはるかに超えている。

ここから見えてくるのは、植民地時代の北米では、貴族でもなく、大富豪でもない人々が文化活動の主役でありえたことだ。総勢12人と決めて始めたので、会員数はふやさない方針だったが、会員たちがそれぞれ独自にクラブをつくることを認めたので、一つのネットワークができあがったようだ。フランクリンは、ジャントー・クラブが地元ペンシルヴェニアで「もっともすぐれた哲学・道徳・政治の学校」になったと誇っている。

実際、これはやがて大学(現・ペンシルヴェニア大)創設という大事業に結びつく。1749年、その準備に着手したとき、フランクリンが真っ先に思い立ったのは、ジャントー・クラブの会員を中心とする友人たちに協力を呼びかけることだったという。

印刷は、表現の手段ともなる。フランクリンは1729年、「ペンシルヴェニア・ガゼット」という新聞の発行に乗りだしている。紙面では論陣も張った。マサチューセッツ植民地で知事と議会が対立すると、そのニュースに飛びついて「威勢(いせい)のいい批評を書いて載せた」。これで、識者たちの「ガゼット」紙に対する関心が高まったという。こうしてメディアを通じて自らも政治言論にかかわり、論客にもなっていくのである。

この年、匿名で執筆した小冊子が『紙幣の性質と必要』。世の中の紙幣増発を求める声を受けて、富裕層の増発反対論に一撃を加えるものだった。それは、「巻パンをかじりながらフィラデルフィアの往来をそこここ初めて歩き廻った頃」の記憶にもとづいていた。当時の町はさびれていたが、紙幣が発行された後、商取引や住民数がふえた――そう実感したからこその増刷論だった。フランクリンは、皮膚感覚を大事にする人だったことがわかる。

紙幣増発案はこの小冊子も一役買って、州議会で可決されたという。議会内からは、その「功績」に「報いる」との理由で紙幣はフランクリンに刷ってもらおうという動きが起こって、実際に受注したらしい。自伝では「とても割りのいい仕事で、おかげで私はたいへん助かった」と打ち明けている。この時代には競争入札制度が整っていなかったのだろう。彼の増発論に利権を得ようという魂胆はなかったと信じたいが、ちゃっかりはしている。

ここで、フランクリンの自然科学者としての足跡もたどっておこう。自伝では、自分が10代から理神論者であったことを明言している。神の存在は受け入れるが、自然界のものごとは自然法則に従うという立場だ。17~18世紀欧州の啓蒙思想の影響が見てとれる。

雷をめぐるあの危険な実験については意外な史実があった。自伝によると、フランクリンはたしかに「稲妻(いなずま)は電気と同一」との説を唱えたが、このときに提案した検証実験、即ち「雲の中から稲妻を導き出す」ことをやってのけたのはフランスのグループだというのだ。その先行の試みを認め、「まもなく私がフィラデルフィアで凧(たこ)を使って行った同様な実験に成功して限りなく嬉しかった」と記している。公正な態度である。

フランクリンは、オープン・ストーブも発明している。その方式では、暖房の効率を高める工夫が凝らされていた。自伝は、知事が一定期間の専売特許の付与をしようともちかけたが、それを辞退したことを明かしている。英国ロンドンの業者が類似品を考案し、特許を得てひと儲けしたとの話を伝え聞いても、彼は動じない。「われわれは他人の発明から多大の利益を受けている」「特許をとって自分が儲けようという考えはない」というのだ。

私が感動したのは、造船について論じたくだりだ。当時は帆船の時代だが、それでも設計時には速さが追求されたらしい。ところが、「快速船」が航海に出ても遅いことがある。フランクリンは、その一因として「船荷の積み方、艤装(ぎそう)の方法、操縦法(そうじゅうほう)に関する考えが海員によって異る」ことを挙げている。技術を、つくり手のつくり方だけでなく使い手の使い方まで含めて考えよう、というシステム思考の視点がある。

この自伝では、ところどころでアフリカ系の人々、あるいは北米に先住する人々に対する偏見が見てとれる。フランクリンがしたたかに宗主国英国の植民地支配に抵抗する話が出てくるが、今のものさしでとらえ直せば、彼もまた支配する側にいたことになろう。

ただ、米国建国の立役者たちが新しい文化の種を撒いたのはたしかだ。草の根の知的活動、実生活直結の探究心――ひとことで言えば、プラグマティズム(実用主義)だろうか。そこにこそアメリカのアメリカらしさがある。それが今は見えない。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年11月6日公開、同月8日最終更新、通算547回
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ノーベル賞が語るウイルスとの闘い

今週の書物/
2020
年ノーベル医学生理学賞発表資料(スウェーデン・カロリンスカ医科大学)
2020
年ノーベル化学賞発表資料(スウェーデン王立科学アカデミー)
=画像はこれらの一部

ハサミ

先週に続いて、理系ノーベル賞の発表資料を読んでいこう。今週は、医学生理学賞と化学賞だ。前者の行方では、ゲノム編集という遺伝子改変技術の開発が本命視されていたが、それが後者に回った。その結果、今年は生命科学系が2賞を占めることになった。

医学生理学賞を受けるのは、C型肝炎ウイルスの発見にかかわった米国のハーベイ・オルター、英国生まれカナダ在住のマイケル・ホートン、米国のチャールズ・ライスの3人(敬称略、以下も)。先週の月曜、その発表をネット中継で見ていて、C型肝炎という言葉を耳にした瞬間、そうか、そこを突いてきたか、と私は思った。新型コロナウイルスが猛威をふるう年、コロナをちょっと外したところで人間とウイルスの関係に光を当てたのだ。

コロナがらみの研究が今年、選ばれる可能性は限りなく小さかった。現時点でコロナ禍は克服されていない。人類の共通感情として、ノーベル賞はまだ早すぎるのだ。実務面をみても、受賞候補の推薦期限は1月末。この時点で地球規模の大流行は始まっていなかったので、コロナ禍を視野に入れた推薦はほぼなかったとみてよい。ただ選考そのものは、大流行のさなかに進められた。コロナの時代に示唆を与える研究は一目置かれただろう。

そこで行き着いた選考結果は、人類が近過去に体験したウイルスとの闘いの成功物語だった。私自身の科学記者生活を振り返ると、1980年代には「非A非B型」と呼ばれる正体不明の肝炎が医療報道の大きなテーマだった。輸血で感染するが、病原体がわからず、手の打ちようがない。ところが1989年、米製薬企業カイロン社のグループが遺伝子レベルの研究で、その病原体らしいウイルスを突きとめた。これがC型肝炎ウイルスである。

受賞者のうちホートンは、このときカイロン社グループの中心にいた人。オルターは、それに先立って1970年代から非A非B型肝炎の研究に取り組み、この病に未知のウイルスがかかわっていることを見極めた。ライスは1990年代、ホートンたちが見つけたウイルスが実際に肝炎を起こすことを動物実験で最終確認した。ここで押さえておくべきは、一連の仕事は70年代に始まり、90年代に完結する大事業だったことだ。

プレスリリースでは、彼らの発見によって、このウイルスに対する精密な血液検査ができるようになり、肝炎の輸血感染が多くの地域で消滅したこと、C型肝炎向けの抗ウイルス薬の開発が加速されたことなどに触れた後、こう書く。「この病気は今や歴史上初めて、治せる病になった。全世界の人々がC型肝炎ウイルスから解放されるという期待も高まっているのだ」。この段落の冒頭には、次のような一文もある。

“The Nobel Laureates’ discovery of Hepatitis C virus is a landmark achievement in the ongoing battle against viral diseases.”

「ノーベル賞受賞者たちのC型肝炎ウイルス発見は、今も進行中のウイルス性の諸病との闘いで金字塔となるものだ」。ここで“battle”に“ongoing”という形容詞がつき、 “viral diseases”が複数形になっているのを見落としてはならない。今回の医学生理学賞は、コロナ禍の先行きが見えない私たちに対して、現代医学はウイルスに勝てるのだ、と励ますメッセージのように思える。ただし、それは一朝一夕にはいかない、と釘を刺しながら……。

化学賞は、フランス生まれのエマニュエル・シャルパンティエ、米国のジェニファー・ダウドナの受賞が決まった。授賞理由は冒頭に書いた通り、ゲノム編集技術の開発。これを使えば、生命体の遺伝子一式を載せたゲノムのDNA(デオキシリボ核酸)塩基配列を、ワープロソフトで文章を直すように改変できる。医療から農業までさまざまな分野で活用が期待されているが、遺伝子にどこまで手を加えてよいかという倫理問題も呼び起こしている。

技術そのものについては、当欄の前身で書物を紹介しながら、そのしくみを素描している(「本読み by chance」2017年5月19日付「ゲノム編集で思う人体という自然」、同2019年3月15日付「ゲノム編集を同時代の記者と考える」)。今回は、この技術もまたウイルス感染とは無縁でないことに話題を絞る。化学賞の選考にあたった科学者がコロナ禍を意識していたとは考えないが、この受賞研究にもウイルスの影が見え隠れするのだ。

それはどんな局面か? ゲノム編集では、ハサミ役の酵素が狙いを定めた塩基配列に導かれ、そこでDNAを切断する。このしくみが、細菌の対ウイルス防衛システムに倣ったものだというのだ。細菌たちも人類同様、ウイルスと闘っているのである。

その防衛システムのすぐれているところは、細菌がウイルスの塩基配列を覚えていることにある。細菌は、ウイルスが細胞内に攻め込んできたとき、その塩基配列の一部を自らのゲノムに取り込んで、データベースとして保存しておくのである。その結果、ウイルスが再び侵入してくると、ハサミの役目を果たす酵素がデータベースの情報に導かれてその塩基配列にとりつき、それをちぎって解体してしまう。

では、化学賞の発表資料――。今回は、その一般向けの解説がなかなか読ませる。もともとシャルパンティエは、病原性細菌の攻撃性や薬剤耐性に関心があった。ダウドナは、細胞内でRNA(リボ核酸)分子の断片が遺伝子の制御調節に関与するしくみ――RNA干渉――を探っていた。その二人が出会って「クリスパー・キャス9」と呼ばれるゲノム編集技術に結実させる様子を、折々のエピソードを交えて物語仕立てで描いている。

ウイルスが顔を出すエピソードは2006年、ダウドナにかかってきた1本の電話から始まる。当時彼女は、すでにカリフォルニア大学バークリー校で研究チームを率いていた。電話の相手は、別部門にいる微生物学者。細菌研究の分野で最近、不思議な発見があったという話だった。細菌のDNAに同じ塩基配列が繰り返し現れるところがあり、繰り返し部分の間にはさまる配列を調べると、ウイルスのそれと合致しているように見えたというのだ。

これは免疫システムの一部ではないかとして、次のような仮説が示される。
“ if a bacterium has succeeded in surviving a virus infection, it adds a piece of the virus’ genetic code into its genome as a memory of the infection.”
「細菌がウイルスに感染したけれど生き延びたとしよう。このときにその細菌は、ウイルスの遺伝暗号のひとかけらを感染の記憶として自らのゲノムに付け加えるのだ」

その微生物学者は、細菌がウイルスと闘うしくみは、ダウドナが研究しているRNA干渉に似ているのではないか、と問いかけたという。実際、細菌の「感染の記憶」を生かした免疫システムではRNA分子が大きな役割を果たしていた。クリスパー・キャス9でも、ハサミ役の酵素の案内役に人工のRNA断片を用いる。このエピソードは、研究者同士の井戸端会議のような会話が科学にとってどれほど大切かを教えてくれる。

それにしても驚くのは、細菌の賢さだ。ウイルスに襲われても攻められっ放しではいない。ひそやかに、したたかに、相手の弱みとなる情報を貯め込んでいたのだ。進化論的に言えば、そういう能力を身につけたものが生き残ってきたということなのだろう。

コロナ禍に立ち向かうのは、医学や医療の専門家だけではない。社会活動や経済活動をどのようなかたちで続けていくのかというところで、すべての人々がかかわっている。私たちも、ウイルスの裏をかくような生き方ができないか。そんな思いが一瞬、心をよぎった。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年10月16日公開、通算544回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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戦時の科学者、国家の過剰

今週の書物/
『湯川秀樹の戦争と平和――ノーベル賞科学者が遺した希望』
小沼通二著、岩波ブックレット、2020年刊

戦中戦後

今年の終戦記念日、NHKが「太陽の子」というドラマを放映した。先の戦時、日本でも陸軍と海軍がそれぞれ原爆開発を画策したことは知られているが、このドラマでは京都帝国大学の物理学徒たちが海軍の委託を受けて原爆研究にかかわったことが主題となった。

で今週は、その渦中にいた科学者たちの現実を近刊の書物を通じて垣間見てみよう。『湯川秀樹の戦争と平和――ノーベル賞科学者が遺した希望』(小沼通二著、岩波ブックレット、2020年刊)。著者は1931年生まれ、素粒子論が専門の物理学者。東京大学出身だが京都大学にも勤務、理論物理で日本初のノーベル賞を受けた湯川秀樹の活動を支えた。現在は慶應義塾大学、東京都市大学の名誉教授、世界平和アピール七人委員会のメンバーでもある。

個人的な話をすれば、著者は私にとって最大の恩人の一人だ。新聞社で科学部員になって3年目の1985年、湯川のノーベル賞研究「中間子論」の論文発表50年を記念する国際会議(開催地・京都)でお世話になったのが始まりだった。2007年に湯川の個人日記を記事にしたときは、湯川家との話しあいから記述内容の読み解きまで、全面的なお力添えをいただいた(朝日新聞2007年1月23日付朝刊「中間子着想 湯川博士の4日間」)。

この個人日記は、湯川家が保存していたもので、主に1930年代、日米開戦前の日々のあれこれを記していた。ヤマ場は、中間子論を完成させた1934年の記述分。これについては、著者が編者となって『湯川秀樹日記――昭和九年:中間子論への道』(小沼通二編、朝日選書)という本が出ている。一方で湯川は京都大学にも、本来は研究室日誌と呼ぶべき日記を大量に残していた(京大湯川記念館資料室所蔵)。ここには開戦後のことも綴られている。

今週の書物『…戦争と平和』は、湯川の生い立ちまで遡ってその人となりが描かれ、1981年に亡くなるまでの平和運動家としての足どりも跡づけられている。とはいえ、最大の読みどころは「第二章 戦火の時代に」だろう。この章では京大所蔵の日記をもとに、湯川が戦時中にどんな学究生活を送ったかを浮かびあがらせている。気になるのは、軍事色の強い活動だ。それらのどこまでが自発的で、どこからが強制されたものだったのか――。

そのあたりの見極めは難しい。湯川の日記は身辺の出来事の記録が中心で、心情の吐露が少ないからだ。戦時の心模様を推し量るには、戦後の日々に焦点を当てた「第三章 思索の人から行動の人へ」が助けになる。この章では、湯川が反核平和運動に奔走した姿が描きだされている。戦後の平和に対する熱情が戦中に戦争がもたらした深淵の底深さを逆に照らしだす。戦中戦後を貫いて湯川の「戦争と平和」に迫ったこの本の意義は、そこにある。

では、第二章に立ち戻って、日記の要点を拾いあげていこう。1941年12月8日の日米開戦から1943年末まで、湯川自身は軍事研究に近づいていないようだ。目立って見えてくるのは、一人の国民――臣民と言うべきか――としての心情だけ。開戦の日の夜、帰宅して夕刊を開くと「ハワイにて米主力艦オクラホマを撃沈等幸先よきニュース」が載っていた。「久しい間の暗雲晴れ、天日を望むが如き爽快の感に満つ」と書いている。

この本では1943年、湯川が地元の京都新聞に寄せた年頭所感も引用されている。「既存の科学技術の成果を出来るだけ早く、戦力の増強に活用すること」を「今日の科学者の最も大いなる責務」としつつ、「科学の真の根基をわが国土に培養する」必要を説き、それなしには「科学、技術の源泉は久しからずして枯渇する」と警告している。すぐには応用できない基礎研究のことも忘れるな、という科学者の危機感がそう言わせたのだろう。

この年4月、湯川は文化勲章を受けた。そのことで国家主義的な団体とのかかわりが出てくる。6月には東京で大日本言論報告会総会に出席、受章を祝う記念品を贈られる。機関誌『言論報告』創刊号には、湯川の午餐会での「卓上演説」が収録されている。「言論界で日本的世界観の樹立が力強く言われている、自然科学の方面からそういう思想に何らかの基礎づけができればしたい」と述べたという。こじつけの感は否めない。

日記によれば、湯川の軍事接近は1944年初めから。前年、文部省が科学者の「動員」策を打ちだした影響があるのだろう。1月27日、神奈川県横須賀で海軍の航空機研究施設などを見学した。2月13日には東京にある財界人の大倉喜七郎男爵邸で、当時は海軍軍人だった高松宮や物理学者の仁科芳雄を交えた会合に出ている。大倉財閥は海軍の電波兵器開発に敷地を提供しており、会合は「海軍の研究に関係があると思う」と著者はみる。

この本の強みは、湯川と軍事とのかかわりを日記の記述から定量的に浮かびあがらせた点にある。余談だが、これができる人は著者を措いてほかにいない。日記は、湯川流の癖字だらけでふつうの人には太刀打ちできないが、著者には読める。さらに周辺事情も知っているから、メモ書き一つでも意味を汲みとれる。その解読の結果は、こうだ。湯川の「軍事研究関連の会合や訪問や視察」は1944年が27回29日、45年が12回16日――。

この数字の見方は、さまざまだろう。私自身は、湯川の学究生活のかなりの部分が「軍事」に割かれていた、あるいは攪乱されていたように感じる。活動件数は1944年1月~45年8月の20カ月に計39回なのだから月2回のペースだ。新幹線がない時代、京都から横須賀へ、東京へ出張もしている。湯川は戦争末期に及んで、基礎科学を「国土に培養する」などと言っているだけでは済まされず、自身もキナ臭い世界に引きずり込まれたのだ。

その最たるものが、「太陽の子」でドラマ化された「F研究」だろう。海軍が荒勝文策京大教授に委託した研究。ウランの原子核分裂(nuclear fission)を軍事利用する道を探ろうとした。日記には1944年9月22日、「荒勝氏と核分裂の件相談」とある。10月4日には大阪で海軍との相談会にも出た。出席者が残した記録によれば、湯川も「連鎖反応の可能性」を解説したらしい。核分裂の「連鎖反応」は、原爆のエネルギーを得る要件である。

日記をさらにたどろう。1945年5月には、F研究が正式の「戦時研究」となり、6月23日には「第一回打合せ会」が学内で開かれる。7月21日には滋賀県大津の琵琶湖ホテルへ。著者によれば、海軍との会合があり、湯川は「世界の原子力」について語ったらしい。

湯川の終戦までの1年をどうみるか。占領軍は、湯川は原発開発計画に「全く関与していなかったか、わずかしか関与していなかった」と判定した。「湯川自身が非常に抽象的な物理学にしか興味を持っていない」事実が、関与のなさ、もしくは小ささと「符合している」とされたのだ。(占領軍に協力した米国の物理学者P・モリソン執筆の「秘密報告」=本書が引用した政池明著『荒勝文策と原子核物理学の黎明』〈京都大学学術出版会〉による)

私は、この判定に敵国の科学者にもあった湯川への敬意を感じつつ、違和感も覚える。引っかかるのは「非常に抽象的な物理学にしか興味を持っていない」とある点だ。湯川は、買って出たことではないかもしれないが、軍人を相手に原子核物理の先生役を務めている。心の片隅には、開戦の日に真珠湾の戦果を称えた素朴な心情があり、自分は「非常に抽象的な物理学」を「国土に培養する」のだという自負が芽生えていたのではないか。

そう考える理由は、湯川自身が終戦後まもなく発した言葉にある。第三章の冒頭では『週刊朝日』(1945年11月4日付)への寄稿「静かに思ふ」が引かれている。そのなかで湯川は、「道義の頽廃」を招いた原因に「個人・家族・社会・国家・世界といふやうな系列の中から、国家だけを取り出し、これに唯一絶対の権威を認めたこと」を挙げたという。科学者として戦中、国家ばかりにとらわれた浅慮を悔いているように思える。

湯川は戦後、世界政府の樹立をめざす運動にかかわった。その構想は冷戦時、夢想の産物に見えた。自国第一主義台頭の今は、なおさらだ。それは実現しても遠い先のことだろう。ただ、一人の科学者の内面を思い、国家意識の過剰を戒めることなら今でもできる。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年8月28日公開、同年9月20日最終更新、通算537回
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