オーウェル、言葉が痩せていく

今週の書物/
『一九八四年』
ジョージ・オーウェル著、高橋和久訳、新訳版、ハヤカワepi文庫、2009年刊

ニュースピーク

言葉の貧困は目を覆うばかりだ。ボキャブラリー(語彙)が痩せ細った、と言い換えてもよい。「緊張感をもって」「スピード感をもって」「説明責任を果たしてほしい」……政治家の発言を聞いていると、同じ語句が機械的に並べられている感じがある。

有名人が不祥事を起こしたときのコメントも同様の症状を呈している。「重く受けとめています」「お騒がせして申し訳ありません」――記者会見があれば、ここで深々と頭を下げる。これは、官庁や企業の幹部が身内の不祥事について謝るときも同様だ。

市井の人々も例外ではない。たとえば、大リーグの大谷翔平選手がリアル二刀流の試合で勝利投手となり、打者としても本塁打2本を連発したとしよう。テレビのニュース番組が街を行き交う人々に感想を聞いたとき、返ってくる答えは「勇気をもらいました」「元気をありがとう」。勇気であれ元気であれ、心のありようは物品のように受け渡しできないはずだが、なぜかそう言う。世間には紋切り型のもの言いが蔓延している。

これらを一つずつ分析してみれば、それぞれに理由はある。政治家の「緊張感」や「スピード感」は、無策を取りつくろうため常套句に逃げているのだろう。有名人や官庁・企業幹部の「重く受けとめています」「お騒がせして申し訳ありません」は危機管理のいわば定石で、瑕疵の範囲を限定して訴訟リスクを下げようという思惑が透けて見える。そして「勇気」や「元気」は万能型の称賛用語で、ときには敗者を称えるときにも用いられる。

ただ、言葉の貧困から見えてくる共通項もある。今、私たちが無思考の社会にいるということだ。思考停止の社会と言ってもよいが、思考を途中でやめたわけではない。思考すべきところを思考せず、それを避けて通ったという感じだ。思考回避の社会とも言えないのは、思考を主体的に避けたのではなく、自覚しないまま無思考状態に陥っているからだ。私たちはいつのまにか、ものを考えないよう習慣づけられてしまったのではないか。

で、今週は言葉と思考について考えながら、引きつづき『一九八四年』(ジョージ・オーウェル著、高橋和久訳、新訳版、ハヤカワepi文庫、2009年刊)をとりあげる。著者は1949年の視座から1984年の未来を見通したとき、そこに監視社会という反理想郷(ディストピア)が現れることを小説にした。先週の当欄に書いたように、そのディストピアでは人々の思考も操られている。そして、このときに言葉が果たす役割は大きそうなのだ。

『一九八四年』が秀逸なのは、そこに新しい言語「ニュースピーク」を登場させていることだ。たとえば、前回の拙稿(*1)にも書いたように、主人公のウィンストンは勤め先の真理省記録局で新聞の叙勲記事を書き換えるよう命じられるのだが、その業務命令もニュースピークで書かれているのだ。訳者は、それを巧妙に日本語化している。「bb勲功報道 倍超非良 言及 非在人間 全面方式書直 ファイル化前 上託」という具合だ。

bbによる叙勲の報道は大変によろしくないものだった、記事に出てくるのは居もしない人物だ、全面的に書き直せ……そう読み解ける。ここでbbは、英、米を含む大国オセアニアの「党」指導者ビッグ・ブラザーのことだろう。用件だけを伝えている感じの文面だ。

この言語がどんなものかは、この作品の末尾に添えられた「附録」を読むとわかる。「ニュースピークの諸原理」と題された一文だ。ニュースピークが「イギリス社会主義」の「要請」に適うように考えだされた「オセアニアの公用語」であること、1984年の時点では標準英語(オールドスピーク)と併用されていたが、2050年ごろまでには完全に置き換わるだろうと予想されていたことなどが、もっともらしく解説されている。

「イギリス社会主義(English Socialism)」は、略称「イングソック(Ingsoc)」。作品本体には、ビッグ・ブラザーの政敵の著書を引用するかたちでその説明がある。それはオセアニアの「党」が掲げる思想で、「党がオセアニアにある全てを所有する」という体制を支えている。支配層の中心は官僚、科学者、技師、労働組合活動家、広告の専門家、教師、報道人……などだという。中間層がいつのまにか一党独裁を生みだした、という感じか。

「附録」に戻って、ニュースピークの一端を紹介しよう。一つ言えるのは、それが英語を簡素にしていることだ。標準英語では、動詞の「考える」がthinkで名詞の「思考」はthoughtだが、ニュースピークでは動詞であれ名詞であれthinkでよい。これと反対に、名詞を動詞として使いこなす例もニュースピークにはある。「切る」はcutではなくknifeなのだ。これらの簡略化は、私のように英語を母語としない者には大変ありがたい。

簡略化は、このほかにもある。ニュースピークでは「悪い」のbadが不要で、「非良」のungoodが代用される。形容詞を強めたければ、語頭に「超」のplusや「倍超」のdoubleplusをくっつければよい。前出の「倍超非良」はdoubleplusungoodだったのだろう。

だが、ニュースピークには怖い側面がある。ひとことで言えば、意味を痩せ細らせることだ。典型例はfreeという言葉。標準英語では「自由な/免れた」の両方を意味するが、ニュースピークでは「免れた」の語意が強まった。「この犬はシラミを免れている」との趣旨で「シラミから自由である」という表現が成り立たないこともないが、「政治的に自由な」「知的に自由な」はありえない。この種の「自由」は言語空間から消滅したのだ。

同様のことはequalについても言える。equalという形容詞は、ニュースピークでも「すべての人間は等しい」という文に用いられるが、このときequalに込められた意味は体格や体力が「等しい」ということで、「平等」の概念はまったく含意していない。

これらの特徴から、イングソックがニュースピークに何を「要請」したかが浮かびあがってくる。それは、「イングソック以外の思考様式を不可能にする」ことだ。本稿のまくらにも書いたように、思考と言葉は密接な関係にある。だから、意味の痩せ細った新言語が広まれば、「異端の思考」をしそうな人が現れても「思考不能」の状態に追い込める――。オセアニアの「党」は、そんな「思惑」があってニュースピークを導入したのである。

もちろん、「思惑」通りには事が進まない。1984年の時点ではオールドスピークが日常言語だったから、ニュースピークで会話や文書を交わしても、オールドスピークにまとわりついた「元々の意味」を忘れられない。ここで威力を発揮するのが、「二重思考」だ。これは前回の拙稿で紹介した通り、とりあえずは「ふたつの相矛盾する信念を心に同時に抱き、その両方を受け入れる」という思考法だ。そのうえで危ない考えを回避していく。

このくだりで、著者は不気味な予言をしている。将来、ニュースピークしか知らない世代に代替わりしたら、その人々は「自由な」に「知的に自由な」の意があり、「等しい」が「政治的に平等な」も意味するとは思いも寄らないだろう、というのだ。「自由な」や「等しい」は即物的になり、その語句に詰め込まれた思想はすっかり剥ぎとられてしまう。言葉が思考から切り離され、ただの意思伝達手段、いわば信号になっていく感じか。

昨今の「緊張感をもって」「重く受けとめて」「勇気をもらいました」という常套句も、私にはニュースピークの一種に思われる。思考の気配がなく、定石の棋譜のようにしか聞こえないからだ。人類の前途にはオールドスピークからの完全離脱が待ち受けているのか。
☆引用部にあるルビは原則、省きました。
*1 当欄2022年6月24日付「オーウェル、嘘は真実となる
*2 本書『一九八四年』については、当欄2022年1月21日付「宗匠のかくも過激な歌自伝」でも言及しています。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年7月1日公開、同日更新、通算633回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

オーウェル、嘘は真実となる

今週の書物/
『一九八四年』
ジョージ・オーウェル著、高橋和久訳、新訳版、ハヤカワepi文庫、2009年刊

気送管へ?

2022年、監視社会がここまで進むとは、だれが思っていただろうか?

30年ほど前、英国で少年による幼児の誘拐殺人があった。当時、私はロンドン駐在の科学記者。事件があまりに猟奇的だったこともあり、記事にしなかった。今思うと、それは怠慢だったかもしれない。容疑者特定の決め手が街頭の監視カメラだったからだ。

監視カメラと聞いて、私は一瞬「イヤだな」と思った。街が見張られているなんて……。でも、この装置があったからこそ事件は解決した。犯罪の抑止力があるということだ。実際その後、英国は監視カメラ大国になる。あの事件は一つの転機だったかもしれない。

ただ、英国と監視カメラの取り合わせには違和感がある。英国は、とにもかくにも自由と民主主義の国ではないか。人権感覚の強い人々が大勢いる。その社会が、なぜ監視カメラをあっさり受け入れたのか。理由は、いくつか思い浮かぶ。1970~1990年代、北アイルランド紛争が激化してテロが相次いだことも大きく影響しているだろう。この問題では、英国社会の現実主義が人権感覚をしのいで、治安を優先させたということかもしれない。

思い返すと世紀が変わるころまで、私たちは人権に対して旧来の見方をしていた。それによれば、監視行為は刑務所などいくつかの例外を除いて許されない。ところが、この20年余でそんなことを言っていられなくなった。海外ではテロや乱射事件……。国内でも通り魔事件やあおり運転……。相次ぐ凶事に監視待望論が強まった。監視の目はコンビニの防犯カメラやドラレコの車載カメラなどに多様化され、その〈視界〉を広げている。

しかも、監視の道具は今やカメラだけではない。私たちの行動は、今日的な技術によっても追跡されている。スマートフォンを持って街を歩けば、自分がどのあたりをうろついていたかが記録される。散歩の経路にとどまらない。心の軌跡もまた見透かされている。インターネットの閲覧履歴を手がかりに、自分が何をほしいか、どこへ行きたがっているかまで推察されてしまう。もはや、監視カメラだけに目を奪われている場合ではない。

カメラの背後には警察がある。民間が取り付けたものでも警察が映像を使う。ところがスマホとなると、ネットの向こうに誰がいるかがなかなか見えてこない。旧来の人権観のように国家権力だけを警戒していればよいわけではない。不気味さは、いっそう増している。

2022年の今、監視社会の実相はこうだ――。一つには、監視している主体を見極めきれないこと。もう一つは、監視されている対象が人間の内面にも及ぼうとしていること。この認識を踏まえて、今週は70年ほど前に書かれた長編の未来小説をとりあげる。

『一九八四年』(ジョージ・オーウェル著、高橋和久訳、新訳版、ハヤカワepi文庫、2009年刊)。著者は英国の作家。1903年に生まれ、1950年に死去した。著者紹介欄には「二十世紀の思想、政治に多大なる影響を与えた小説家」とある。代表作には、風刺の効いた寓話小説『動物農場』も。本書は1949年に発表されたが、刊行時点から35年後の未来社会を描いている。1984年をすでに通過した私たちが読むと、その想像力に圧倒される。

主人公はウィンストン・スミス、39歳。ロンドン在住で「真理省」職員。この省は「報道、娯楽、教育及び芸術」を扱う。政府官庁には、ほかに「戦争」担当の「平和省」、「法と秩序の維持」を担う「愛情省」、「経済問題」を受けもつ「潤沢省」がある。一つ、付けくわえると、この国は英国ではなく「オセアニア」だという。英、米、豪などから成る。そのころの世界はオセアニア、ユーラシア、イースタシアの3国が割拠していた。

この作品で、著者の先見性の的確さが見てとれるのは「テレスクリーン」の普及だ。ウィンストンの自宅マンションにも、真理省記録局の職場にもある。たとえば、自室の装置は「壁面の一部を形成している曇った鏡のような長方形の金属板」とされている。驚くのは、この装置が送受信双方向の機能を具えていることだ。一方では、当局の思想宣伝を一身に浴びることになる。もう一方では、当局に自らの言動が筒抜けになってしまう。

受信の例として作品に頻出するのは、「臨時ニュース」のような音声情報だ。これは、執筆時点がラジオ全盛の時代だったからか。だが、スクリーンに映像が映る場面も出てくるから、著者は薄型テレビの開発などエレクトロニクスの進展を予感していた。送信機能についていえば、自分がいつも見られているわけだから監視カメラやスマホの追跡機能も先取りしている。著者は、監視社会の到来もすっかり見抜いていたのだ。

職場の風景が印象深い。ウィンストンがいる部屋や廊下の壁には穴がいくつも並んでいる。「記憶穴」と呼ばれるものだ。職員たちは、手にした書類を「破棄すべき」ものと見てとったとたん、「一番近くにある〈記憶穴〉の上げ蓋を開け、それを放り込むのが反射的な行動になっていた」。書類は穴に投げ込まれると、気送管――筒状に丸めた文書を空気圧で飛ばす装置――を通って、庁舎内のどこかにある「巨大な焼却炉」へ直行するのだ。

1984年のオセアニアでは「過去が消され、その消去自体が忘れられ、嘘が真実となる」。これが、日常になっている。過去が都合悪ければ、記録した文書をなきものにしたり書き換えたりする。私たちが報道で耳にする文書の廃棄や改竄が制度化されているのだ。

この小説では、ウィンストンがどんな作業をしていたかが詳述されている。気送管で届けられた書類には次のような業務命令が書かれていた――。1983年12月3日付の新聞に載った「ビッグ・ブラザー」による「勲功通達」の記事は「極めて不十分」だった。「存在していない人物に言及している」ので「全面的」に書き換えるように! ここで ビッグ・ブラザーはオセアニアの「党」の指導者。実在性さえ不確かな謎めいた人物である。

新聞の記事によると、ビッグ・ブラザーは今回、「FFCC」という組織のウィザーズ同志に「第二等大殊勲章」を授けた。FFCCは、水兵に慰問品を贈る組織。ところが、この組織が解体された。不祥事があったのか、政治的確執によるものか、理由はわからない。いずれにしてもウィザーズは存在してはいけない人となり、叙勲はあってはならない過去になった。ウィンストンがなすべきは、その過去を抹消して別の過去をつくりだすことだった。

ウィンストンが思いついたのは、英雄譚だった。「英雄の最期にふさわしい状況下で最近戦死した人物」の称賛記事はどうか。それででっちあげたのが「オーグルヴィ同志」だ。

オーグルヴィ同志は6歳でスパイ団に入り、11歳で叔父を思考警察に売り、19歳で新種の手投げ弾を考えだした。これは、敵軍の捕虜31人を「処分」するときに使われた。23歳になり、ヘリコプターに乗って重要公文書を運ぶ途中、敵機に追いかけられる。同志は公文書を抱え、眼下の海へ飛び降りた。浮きあがることがないよう、体に重しを括りつけて……。同志は架空でも、「数行の活字と数枚の偽造写真」で「実在することになる」のだ。

ただ私が思うに、この改竄には限界がある。記事を書き換えても、すでに発行された新聞紙面は変えられない。デジタル化以前の時代なら、なおさらだろう。さらに人はいったん知ってしまった記憶を掻き消すことができないではないか。心に消しゴムはないのだ。

このツッコミを切り抜ける仕掛けとして、著者が作品にもち込んだのが「二重思考」である。作中ではビッグ・ブラザーの政敵エマニュエル・ゴールドスタインの著作に、その定義がある。それは「ふたつの相矛盾する信念を心に同時に抱き、その両方を受け入れる能力」だ。オセアニアでは「党」の知識人たちが「自分の記憶をどちらの方向に改変しなければならないかを知っている」という。こうして「事実」は都合よく塗りかえられていく。

思考のありようひとつで過去は思い直せるということか。それによって、過去そのものも変わってしまうのか。では、思考のありようはどのように変えられていくのか。『一九八四年』には、聞いてみたいことが山ほどある。次回もまた、この本の読みどころを。
☆引用部にあるルビは原則、省きました。
*本書『一九八四年』については、当欄2022年1月21日付「宗匠のかくも過激な歌自伝」でも言及しています。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年6月24日公開、同月29日最終更新、通算632回
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ヴィアン、実存熱をジャズで笑う

今週の書物/
『うたかたの日々』
ボリス・ヴィアン著、野崎歓訳、光文社古典新訳文庫、2011年刊

ピアノ

ジャズと実存主義は相性がいい。ジャン=ポール・サルトル『嘔吐』には、主人公のロカンタンがキャフェでジャズのレコードを聴く場面が出てくる。その曲は、女性歌手がしゃがれ声で歌う“Some of These Days”(「いつか近いうちに」)だ。

このくだりについては、拙稿「サルトルを覚えてますか」(「文理悠々」2010年6月17日付、当時、朝日新聞ウェブサイトに連載)で話題にした。そのときに引用した一節を再引用しよう。「振動は、流れ押し合い、そして行き過ぎながら乾いたひびきで私を撃ち、消えて行く」。ロカンタンはそれをつかまえたいが、そうはいかないことも心得ている。「それは私の指の間に、つまらない、すぐに衰えて行く一音としてしか、残らないだろう」

この体験は、ロカンタンに心地よさをもたらす。「〈嘔気〉の中のささやかな幸福」と呼べるものだった。しかも、歌が“some of these days……”というサビの部分にさしかかると、〈嘔気〉はどこかへ消えてしまう(白井浩司訳=人文書院版『嘔吐』による)。

実存主義は、人間を「実存が本質に先立つところの存在」とみる(*1)。これはジャズの楽曲が「つまらない、すぐに衰えて行く一音」の連なりであることに似ている。一つの音がリズムに乗って一つの歌になるように、人間も一瞬一瞬の〈投企〉によって人生をつくりあげていく――この相似関係ゆえに、実存主義はジャズと相性が合うのだろう。こうして両者は第2次大戦後のフランスで共振し、世界中の若者たちにも広がったのである。

では、2022年の今、ジャズと実存主義はどんな状況にあるだろうか。ジャズの心地よさは、人類に定着したと言ってよい。そのことは、私たちが日常の空間で聞き耳を立てていればすぐわかる。ショッピングモールであれ、ヘアカットの店であれ、居酒屋であれ、そこに小さな音量で流れるBGMはジャズ、ということが多くなった。私たちが若かった1970年代にはジャズはジャズ喫茶で聴くものだったのだが、最近は空気のように遍在する。

では、実存主義はどうか。「新実存主義」という更新版が、20世紀後半の科学の進展などを取り込んで提案されてはいる(*2、*3)。だが、かつてフランス知識人の心をとらえた左翼思想としての実存主義は見る影もない。今春のフランス大統領選挙をみると、左派そのものが衰退している。社会主義の退潮は世界的傾向だが、だからこそ実存主義が右派思想に正面から対抗してもよいはずだ。ところが、その気配はほとんど感じとれない。

で、今週は『うたかたの日々』(ボリス・ヴィアン著、野崎歓訳、光文社古典新訳文庫、2011年刊)。著者(1920~1959)は、フランスの小説家。国立中央工芸学校卒の理系エリートで、エンジニアの仕事をしながら多分野で活躍した。創作のほか翻訳、批評も手がけ、ジャズのトランペット奏者、シャンソン歌手でもあった。この小説は1946年に書きあげた。本書の略歴欄によれば、死後に評価が高まり「現代恋愛小説の古典」になったという。

巻頭「まえがき」には、いきなり「ひとは集団になると間違いを犯す」が、「個人はいつだって正しい」という文言が出てくる。これが、フランス人の多くがナチスドイツに抵抗した直後に執筆されたことを思うと納得する。続けて著者は、人生で「大切」なものは「きれいな女の子相手の恋愛」と「デューク・エリントンの音楽」であり、「ほかのものは消えていい」と言ってのける。実際、この作品では恋物語がジャズの軽快さで語られていく。

「まえがき」には、もう一つ奇妙な宣言もある。この作品について「全部が本当にあった話」と言いながら、「何から何まで、ぼくが想像した物語」と打ち明けているのだ。どういうことか。答えらしき説明もある。著者は創作にあたって、現実を「不規則に波打った歪みのある基準面」に「投影」したという。小説という表現形式に現実世界を虚構世界に移しかえる一面があるのは事実だ。それを理系風に味つければ、こういう言い方になるのだろう。

では、本文に入ろう。冒頭に「コランはおめかしを終えるところだった」とある。風呂あがり、バスタオルで体を巻いている。「爪切りを手に取って、目つきに神秘的な感じを出すために、くすんだまぶたの端をぱちんと斜めにカットした」――???だ。男子が目もとに化粧を施すことはあってよい。だが、まぶたを爪切りで切るなんて自傷行為だ。これが本当の話とは思えない。やはり、「何から何まで、ぼくが想像した物語」なのだろう。

読み進むうちに、コランは22歳男子であり、コック兼執事のような使用人を雇えるほど金持ち、ということがわかってくる。友人のシックに自慢げに見せるのが、発明したばかりの「カクテルピアノ」だ。鍵盤の一つひとつに各種酒類や香料があてがわれている。足もとの強音ペダルは卵を泡立てたもの、弱音ペダルは氷。曲を奏でれば、望みのカクテルのできあがりというわけだ。これも「ぼくが想像した物語」にほかならない。

この小説はなんでもあり――そのことを読者はあらかじめわきまえておくべきだろう。

私が驚いたのは、この「ぼくが想像した物語」が21世紀を先取りしていることだ。たとえば、コラン邸のキッチン風景。コックのニコラは「計器盤を見守っていた」。ローストターキーをオーブンから取りだす頃合いをうかがっているのだ。「ニコラが緑のボタンを押すと、味見センサーが起動した」。センサーがターキーに突き刺さり、計器の針が「ちょうどよし」を指した。五感がセンサーに取って代わられる時代への予感があったのだろうか。

この小説の筋は、このあとコランの結婚やシックの恋愛に突き進んでいくが、それは意表を突く出来事の連続だ。当欄は、そのほとんどをすっ飛ばして、シックが実存主義哲学者ジャン=ソール・パルトルの追っかけだったという一点に焦点を合わせようと思う。パルトルがサルトルのもじりであることは、だれでも気づくだろう。シックは、サルトルゆかりのものならば書物であれ物品であれ、手持ちの金を惜しみなくつぎ込んでいく。

シックが、恋人のアリーズらとパルトルの講演会をのぞく場面がある。偽造のチケットが市中に出回るほどの前人気。会場はごった返していた。後方には片足立ちの人もいる。そこにパルトルが、象の背に設えたハウダ(かご)に乗って登場する。「象は群衆を切り裂いて大またで進み、四本の柱のような脚がにぶい音を立てて人々を踏みつぶしながら情け容赦なく近づいてきた」――実存主義が人間を押しつぶすとは、なんという戯画化か。

パルトルは演壇で講演の準備に入る。そのしぐさには「恐るべき魅力」があり、聴衆のなかには「失神」する女性もいた。まるで往年のロカビリーブームのようではないか。

このときシックは「大きな黒い箱」を持ち込んだ。録音機だ。1940年代だからテープレコーダーということはない。レコード盤に音を刻むのだろう。女友だちの一人が言う。「いいアイデアねえ……」「講演を聞かなくてもすむわね!……」。シックも「家に帰ってから一晩中でも聞けばいいんだ」と答え、レコード会社に掛けあって「商品化」してもいい、という思いつきまで口にする。実存主義を量産品にしてしまうあたりも、時代の先取りだ。

ちなみに、この催しはパリで1945年10月にあったサルトルの講演会「実存主義はヒューマニズムである」をモデルにしているという。現実の講演は、当欄が去年とりあげた『実存主義とは何か――実存主義はヒューマニズムである』(ジャン-ポール・サルトル著、伊吹武彦訳、人文書院「サルトル全集第十三巻」、1955年刊)で追体験できる。聴衆との対話などを通じて、実存主義がマルクス主義とどう違うかを際立たせていた。(*4、*5)

さて、シックは書店で、パルトルの『文字とネオン(レトル・エ・ル・ネオン)』という本を見つける。中身は「電飾看板についての批評的研究」とされているが、これも『存在と無(レトル・エ・ル・ネアン)』のもじりだ。ここでシックは、本の表面にパルトルの指紋まで見つける。日ごろから「指紋採取パウダー」や『模範的警察官便覧』を持ち歩いていて、その小道具を使って検出したのだ。この話にもオチがあるのだが、ここには書かない。

書店主は、パルトルのズボンやパイプも売り込む。ズボンは本人が講演中、自分でも気づかないまま脱がされたものらしい。さらに『嘔吐百科全書』全20巻の原稿も書店に入荷できそうだ、とも思わせぶりに言う。シックは全部をほしがるが、手が出ない……。

この小説は、実存主義のブームを徹底的に笑い飛ばす。ところがその同じ著者が、ジャズを語るくだりでは居住まいを正しているふうだ。たとえば、アルトサックス奏者ジョニー・ホッジスの演奏については「天上的な何かがあった」「説明のできない、完璧なまでに官能的な何か」「肉体から自由になった、純粋状態の官能性」――といった言葉が書き連ねられる。この本の注によると著者はジャズ批評家でもあったようで、その面目躍如だ。

コランがカクテルピアノを骨董屋に売りにだす場面では、骨董屋がデューク・エリントンの「ヴァガボンドのブルース」を弾く。著者はそれを「バーニー・ビガードのクラリネットの真珠を転がすような響きにも劣らない天上的な音色が舞い上がった」と書く。エリントン楽団員ビガードのクラリネット演奏を真珠の転がりにたとえ、骨董屋のピアノ演奏は、それに比肩するほど「天上的」というのだ。ジャズのことは実存主義のようには茶化さない。

この理由を考えるとき、巻末の訳者解説が参考になる。訳者によれば、著者の作品に登場する若者たちは、若い世代が「反体制」的であることが当然視された時代に「政治的意識」と無縁だった。「趣味」に耽り、「消費生活」に浸り、友人関係は「狭い範囲」にとどめている。この行動様式は、たぶん著者自身の生き方に重なっているのだろう。著者にとって、「反体制」熱に浮かされた実存主義ブームはパロディのネタでしかなかった。

私見だが、主人公のコランも、そして著者のヴィアンも、ジャズを愛することで真に実存的だったように思える。「本当にあった話」を「ぼくが想像した物語」に転化する軽快さは即興演奏にも似ていて「肉体から自由になった」実存に近づいているのではないか。

最後に一つ、訳者解説から仕入れた余話を紹介すれば、サルトルは、この作品でパルトルが風刺されていることを大いにおもしろがったという。ブームとしての実存主義をもっとも冷静に見ていたのは、あるいはサルトル自身だったのかもしれない。
*1 当欄2021年1月29日付「実存の年頃にサルトルを再訪する
*2 「本読み by chance」2020年3月27日付「なぜ今、実存主義アゲインなのか
*3 当欄2021年2月19日付「新実存をもういっぺん吟味する
*4 *1に同じ
*5 当欄2021年2月5日付「サルトル的実存の科学観
(執筆撮影・尾関章)
=2022年5月20日公開、通算627回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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全電源喪失とはこういうことか

今週の書物/
『全電源喪失の記憶――証言・福島第1原発 日本の命運を賭けた5日間』
共同通信社原発事故取材班 高橋秀樹編著、新潮文庫、2018年刊

電源

今年は、3・11が金曜日になった。11年前と同じだ。しかも当欄にとっては、拙稿公開日に当たる。あの日を想い起こしながら、東日本大震災の一断面を切りだしてみよう。

あの日、私は東京・築地のビル中層階にいた。勤め先の新聞社だ。地震に襲われたのは、長閑な昼下がり。言論サイトWEBRONZA(現「論座」)の編集会議に出ていたが、あまりの揺れに会議は中断した。窓際の自席に戻ると、書棚の本が落下して床一面に散らばっている。窓の外には青空が一面に広がっていたが、お台場あたりの海岸部で黒煙が不気味に立ち昇っている。これが、ふつうの地震でないことは明らかだった。

テレビの画面には、空撮の生映像が流れていた。仙台近郊で津波が家々をのみ込み、避難しようとするクルマを執拗に追いかけている。私は、それを同僚と見ていて言葉を失った。海水が容赦なく大地を覆っていく。あたかも、魔の手が指先を広げるように。

3・11を生涯でもっとも忘れがたい悪夢の日と呼ぶには、もうこれだけで十分だった。だが、この日はそれで終わらない。日差しが斜めに傾いた午後4時ごろ、福島県の東京電力福島第一原発が「全交流電源喪失」に陥ったという知らせが私にも届く。東京・霞が関の経済産業省にある原子力安全・保安院で、職員が報道陣に速報したというのだ。超弩級の自然災害に今日的な技術災害が追い討ちをかけた。そんな展開だった。

正直に告白しよう。私はそれを耳にしたとき、すぐには事の重大さに気づかなかった。原子炉の水位が下がり、冷却能力が失われたと聞いたなら、それだけで背筋が凍ったはずだ。だが、失われたのは交流電源だという。これは、送電線の電力が届かないということではないのか? そういうときは非常用の自家発電機が働くはずだ。だから、冷却水の循環が止まることはない……そう考えたのだ。だが、これは大きな誤りだった。

原発技術者が全交流電源というとき、非常用電源も勘定に入れているのだ。福島第一原発では、それも含めてダウンした。実際、保安院の速報には、非常用発電機が動いているのは6号機だけという情報も添えられていたらしい。津波が原発を襲うというのは、そういうことだった。だからそのとき、原発に詳しい同僚記者は私にこう言ったのだ。「尾関さん、これは大変なことだよ、チェルノブイリ級のことが起こってもおかしくない」

あの2011年3月11日以来、福島県一帯で続いている事態は、その予言が的中したことを物語っている。で、今週は『全電源喪失の記憶――証言・福島第1原発 日本の命運を賭けた5日間』(共同通信社原発事故取材班 高橋秀樹編著、新潮文庫、2018年刊)。共同通信社が2014~2016年、断続して配信した連載(全213回)をもとにしている。2015年、前半の掲載分が祥伝社によって書籍化されたが、それに加筆したものが本書だ。

巻頭の一文「はじめに」によれば、本書が目を向けたのは福島第一原発事故の「発生直後」。そこに居合わせた人々が実名で登場して「何を見て」「何を思ったのか」を語ってくれたという。東京電力の所員がいる。協力会社の作業員がいる。東電本社の幹部や政治家もいる。その人たちが「何を思ったのか」に踏み込んだところが、政府や国会の事故調査委員会「報告書」と比べて異彩を放つ点だ。事故が生々しく再現されているのである。

編著者(高橋秀樹さん)は1964年生まれの共同通信記者。「はじめに」に同僚7人の名が記されている。本書は取材班が一体となって仕上げた労作と言えよう。

本書の描写で終始緊迫感が漂うのが、中央制御室の光景だ。ちょっと補足すると、福島第一原発の敷地では海沿いに原子炉6基が並んでいる。それらはぽつんぽつんと建っているのではなく、原子炉建屋と海岸線の間にタービン建屋などの建物が連なっている。このうち、原子炉建屋に隣接するのがコントロール建屋。中央制御室は、その2階にある。福島第一では、制御室一つが原子炉2基を受けもつつくりになっている。

地震発生直後の1・2号機はどうだったか。原子炉は緊急停止した。電力は外部送電網からの供給が停まったが、非常用ディーゼル発電機(DG)が動きだした――ここまでは想定の範囲内だったらしい。ところが、しばらくしてとんでもないことが起こる。「DGトリップ!」。運転員の一人が叫んだ。DGが発電不能に陥ったというのだ。こうして「制御盤のランプが一つ、また一つと不規則に消え」「天井の蛍光灯も消えた」。

これが、全交流電源喪失が察知された瞬間だ。運転員が受けてきた訓練は「ありとあらゆるケース」に対応している「はずだった」。ところが、「DGトリップ」は想定外だった。制御室に窓はない。テレビのニュースを見られるわけでもない。運転員たちには、何が起こったか見当がつかなかった。外から入ってきた同僚が「海水が流れ込んでいます!」と報告するまでは……。津波がタービン建屋地下のDGを水浸しにしたのだ。

電源が途絶えれば、制御室の計器類を見ることもできない。原発制御の手も足も出なくなる。これを「ステーション・ブラック・アウト(SBO)」と呼ぶ。この事態は、原発敷地内の免震重要棟に詰めていた所長たちに報告される。「1、2号、SBO!」「3、4号もSBO!」――そうとわかった瞬間、3・11東電福島第一原発事故は、原子力災害対策特別措置法10条の適用対象となり、法律的にも「原子力災害」となったのである。

ここで、福島第一原発では交流電源のみならず、全電源の喪失も起こっていたことを言い添えておこう。東京電力のウェブサイトによると、稼働中の1~3号機のうち1~2号機では直流のバッテリー電源も浸水被害で失われていた。このため計器類を復活させようと構内循環バスのバッテリーが持ち込まれたが、暗闇での配線作業は困難を極めた。午後9時すぎに1号機の水位計が読めるようになったものの、数値は正確でなかったという。

翌12日未明、免震重要棟の緊急時対策本部から、冷却不全で蒸気がたまった1号機格納容器のベント(ガス放出)が指示される。ベント用の弁も電源喪失で遠隔操作できないから、だれかが原子炉建屋内に足を踏み入れ、手作業で開けなくてはならない。

当直長は運転員を集め、こう告げる。「申し訳ないが……誰か行ってくれないか」。ただし、「若い者は行かせられない」。制御室には、出番ではない幹部級のベテランたちも応援に駆けつけていた。当直長が「まず俺が行く」と言うと、彼らは「残って仕切ってくれなきゃ駄目だ」と諫め、自分たちが次々に手を挙げた。ただ、手が途中でとまった人もいる。「怖かったです」「家族のことも頭をよぎりました」と、内心を率直に打ち明けている。

「突入」は午前9時すぎに始まった。第1班は原子炉建屋2階の弁を開いた。第2班は地下の弁を開くのが任務だ。ところが、こちらは近づくと、携帯の線量測定器の針が振りきれた。5年間の線量限度を6分で浴びてしまう状態。結局、撤退するしかなかった。

1・2号機制御室の様子を引きつづき見ていこう。ベント第3班を出すことは、とりあえず見合わせていた。制御室内の線量も上昇している。1号機寄りが高めなので、運転員の大半は2号機寄りにいた。事故発生から缶詰状態だから、疲れ切っているのだろう。40人ほどは床に腰を下ろしている。このとき、室内に声がとどろいた。声の主は、中堅運転員の一人だ。「何もできないなら、ここに何十人もいる意味があるんでしょうか」

当直長は、このときも運転員を集めて言う。「ここを放棄する」ことは「制御を諦(あきら)める」ことであり、「避難している地元の人たち」を「見捨てる」ことになる――こう説得して「残ってくれ」と頼んだ。これで一同は静まり返ったという。

事故2日後、13日の1・2号機制御室の光景には心が痛む。12日には1号機原子炉建屋の水素爆発があり、制御室の線量も急上昇したため、運転員は全面マスク、ゴム手袋姿だった。食べ物は乾パンだけだったが、すでに食べ尽くして、残るはスナック菓子くらい。あとはペットボトルの水だ。ただ、飲み食いするにはマスクや手袋をとらなくてはならない。「空腹に耐えるか、汚染覚悟で飲食するか」。そんな極限状況に置かれていたというのだ。

1・2号機と3・4号機の制御室で「数人1組の交代制」の勤務態勢がとられたのは13日夕からだという。私たちは原子炉建屋の水素爆発を遠景の映像で見て慄くだけだったが、あの瞬間も直近では、運転員がほとんど不眠のまま炉の制御を取り戻そうとしていたのだ。その様子は、コロナ禍の関連職場で働く人々の献身と重なりあう。原発に対する賛否は別にして、あの事故に第一線で立ち向かった人々に対する敬意と謝意だけは忘れずにいたい。

(執筆撮影・尾関章)
=2022年3月11日公開、通算617回
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メルケルは原発を「倫理」で裁いた

今週の書物/
『なぜメルケルは「転向」したのか―ドイツ原子力四〇年戦争の真実』
熊谷徹著、日経BP社、2012年刊

緑の思想

元新聞記者には悲しい性がある。テレビのニュースを見ながら「この人のこと、よく知っているよ、無名のころからね」と自慢してみたりする。去年暮れ、政界を引退したドイツの前首相アンゲラ・メルケルさんも、私にとってはそんな自慢の種だ。もっとも、「無名のころから」「よく知っている」とは到底言えない。ドイツ国外で知名度がまだ低かったときにちょっと見かけたことがある、という話だ。だが、それはとても印象深い。

1995年4月、ベルリンでは第1回気候変動枠組み条約締約国会議(COP1)が開かれていた。この会議は脱温暖化の国際合意をめざしている。ベルリン後、年に1度ずつ回を重ね、今では各国の首脳級が顔を見せるほどの大舞台になっている。これまでに「京都議定書」や「パリ協定」をまとめてきた実績もある。だが、第1回は暗中模索の状態にあった。このときにドイツの環境相で、会議の議長を務めたのがメルケルさんだ。当時は弱冠40歳。

会議では、二酸化炭素(CO₂)など温室効果ガスの排出削減を2000年以降にどう進めるかが焦点だった。小さな島嶼国は、海面上昇への危機感から厳しい削減目標を求めた。米国などの先進工業国は、削減のために石油依存を改めることに消極的だった。インドなどの新興工業国は、大幅削減は先進工業国から、と言い張った。産油国は、脱石油の機運を警戒していた。こんな混迷のなかで、メルケルさんはホスト国の立場から合意点を探ったのだ。

私は当時ロンドン駐在で、ベルリンに出張して会議を取材した。このときに気づいたのは、メルケルさんが目を真っ赤にしていたことだ。やがて、その理由が噂話として報道陣にも伝わってくる。連日連夜、水面下の交渉を重ねて寝不足だったらしい。

COP1は結局、具体的な削減目標を決められなかった。ただ、2年後の第3回会議(COP3)までに目標を盛り込んだ文書をまとめることで合意した。期限を定めたことの意味は大きい。実際、京都で開かれたCOP3では京都議定書が採択されたのである。

そのメルケルさん(以下は敬称略)が2005年、保守政党キリスト教民主同盟(CDU)の党首として総選挙に勝った。以来16年間、政権を担ったのである。ドナルド・トランプ前米大統領に象徴される自国第一主義が世界を席巻した時代、それに抗して国際協調にこだわり続けた人である。私には、その政治姿勢がCOP1議長としての奔走ぶりとダブって見える。ただ、存在感を示したのはそれだけではない。もう一つ、特記すべきことがある。

それは、2011年3月11日に東日本大震災があり、東京電力福島第一原発の事故が起こったときの対応だ。翌12日にドイツ国内の原発総点検を表明、15日には古い原発の一時停止を決めた。そして6月、国内全原発の2022年までの閉鎖を閣議決定したのである。

これは二つの点で驚きだった。一つには、遠い国の事故に敏感であったこと。もう一つは、自身が決めた原発政策を覆したことだ。メルケル政権は当初、社会民主党(SPD)と大連立を組み、それまでSPDと緑の党の連立政権が進めていた脱原発路線を踏襲していたが、2009年の大連立解消後は原発容認に傾き、2010年秋には国内原発の運転延長を決めていた。それからわずか半年で再びの方針転換。朝令暮改の感は否めない。

メルケル自身の説明によれば、「日本という高度な技術水準を持つ国」で事故が起こったことで、原発に「予測不能なリスク」があることを認識したからだという(2015年の来日時、朝日新聞社主催の講演会での発言=在日ドイツ大使館のウェブサイトで読める)。ただ、それだけで重要政策を反転させたりはしないだろう。たぶん、本人の思考様式にもドイツ社会の思想風土にも素地があったのだ。本稿では、そこのところを探りたいと思う。

で、今週は『なぜメルケルは「転向」したのか――ドイツ原子力四〇年戦争の真実』(熊谷徹著、日経BP社、2012年刊)。「転向」の語感からメルケル批判本と受けとられかねないが、それは違う。一読すると、彼女の「転向」を賢明な選択とみていることがわかる。

著者は1959年生まれのジャーナリスト。NHKの国際記者としてワシントンに駐在、ベルリンの壁崩壊の報道などに当たった。1990年からフリーランスとなり、ドイツのミュンヘンに住んで、欧州の政治経済やエネルギー、環境問題を取材してきた。

この本は第1章で、福島第一原発事故がドイツ国内でどれほど大きなニュースとして報じられたかを報告している。人々は1986年の旧ソ連・チェルノブイリ原発事故を鮮明に記憶しており、福島事故を「我がことのように」感じたのである。有力紙には“Tokio in Angst”(「不安におののく東京」)という見出しが躍り、「福島から一万キロも離れているにもかかわらず、放射線測定器やヨード錠剤を買い求める人が続出した」という。

この不安は民意となって表れた。福島事故の約2週間後、バーデン・ヴュルテンベルク州の州議会選挙で原発問題が争点となり、脱原発を掲げる緑の党(正式には「連合90・緑の党」)が得票率を倍増させて、SPDとの連立で州首相の椅子を勝ち取ったのだ。

さらに4月、著者にとっても「大変意外」なことが起こる。電力企業を含む「ドイツ・エネルギー水道事業連合会(BDEW)」が、「電力の安定供給」などを条件に「原発の完全廃止に合意する」と言明したのだ。2023年までに、とした。メルケル政権が2カ月後に発表した期限より1年遅いだけだ。福島事故で原発反対の世論は極限まで高まった。これを受けて産業界も動きだした。メルケルの脱原発は、お膳立てができていたとも言えそうだ。

第2章は、ドイツ政界で西独時代の1970年代から繰り広げられてきた原子力問題の攻防を要約している。ここで注目すべきは、1980年に誕生した緑の党の存在だ。この党はただ、原発に反対するのではない。主張の背景には「エコロジー」という新思想があった。

では、エコロジーとは何か。著者によれば、それは「環境保護政策」の枠組みを超え、「人間の生き方そのもの」にかかわる。緑の党発起人の一人は、エコロジーを「人間の存在を自然環境の文脈の一部と考える」哲学と定義したという。ここから、党が掲げた「我々は地球を、我々の子どもたちから預かったにすぎない」というスローガンが生まれてくる。私たちには「子どもたちに美しい環境をそのまま引き継ぐ義務がある」ということだ。

この本の更なる読みどころは、メルケル政権が、どんな手順で脱原発を決断したかを解説した第3章だ。メルケルは、二つの委員会の助言を聴いたという。

一つは原子炉安全委員会。原子力技術者らでつくる既存の組織だ。福島事故後、ドイツの全原発に対して電力会社の提出データをもとに「ストレステスト(耐性検査)」をおこなった。地震、洪水、停電、航空機事故、テロ……など10項目の危険要因に対して、どれだけ耐えられるかを数値によって表す試みだ。2カ月後には「ドイツの原発は、航空機の墜落を除けば、比較的高い耐久性を持っている」などとする「鑑定書」を出した。

もう一つは、メルケルが新たに設けた「安全なエネルギー供給に関する倫理委員会」。こちらは、人文社会系の学者や宗教家など原子力技術とは無縁の人が大勢を占める。著者も書いているように、臓器移植や着床前診断など医療に対する倫理委に似ている。政府内部にも、エネルギー問題になぜ倫理委か、と首をひねる見方はあったらしい。だが、原発事故には「多くの国民の健康に影響を与える可能性がある」とする理屈が通ったという。

この倫理委員会も2カ月後に「提言書」をまとめている。「福島事故は、原発の安全性について、専門家の判断に対する国民の信頼を揺るがした」と分析、原子力のリスクとどう向きあうかという問題は「もはや専門家に任せることはできない」との立場を明確に打ちだしたものだ。委員会内の合意点として「経済、社会、あるいは環境に著しい悪影響が生じない限り、原子力の使用をできるだけ早くやめる」との結論をまとめている。

ここで言い添えたいのは、著者が倫理委の結論について、「細かいデータやシミュレーションによって裏打ちされた分析結果ではない」と敢えてことわっていることだ。私も提言書からの引用を読んで、データよりも思想が際立っているな、という印象を受ける。

たとえば、提言書では「自然環境を自分の目的のために破壊せず、将来の世代のために保護する」責務が私たちにはある、という見解が示されている。根拠として「キリスト教の伝統とヨーロッパ文化の特性」を挙げているところは、旧来の保守思想と響きあっている。だが、この理屈づけを度外視すれば、緑の党の思想にそっくりではないか。エコロジーは緑の党だけのものではない、ということを如実に物語っているように私は思う。

興味深いのは、メルケルが二つの委員会のうちの後者、すなわち倫理委の結論を選択したことである。この事情を著者はこう読み解いている。メルケルは福島事故後、政治家として「政治的な生き残り」には脱原発しかないことを直観した。脱原発を決意はしたが、「独断で決めた」とは思われたくない。そこで「原子力について厳しい見方を持つ知識人を集めて倫理委員会を作り、急遽、提言書をまとめさせた」のではないか――。

これに100%は同意しないが、かなりよいところを突いてはいるだろう。ただ、彼女の決断を、政治家のしたたかさだけで説明づけて終わりにしたくはない。

メルケルは東ドイツにいたころ、物理学の研究者だった。福島事故に「予測不能のリスク」を見てとったのは、事実の前には謙虚でなければならないという科学者の良心の表れだろう。だが、彼女はそれだけの人ではなかった。科学技術政策には理系知だけでなく文系知も欠かせない、という見識を併せもっていたのだ。だからこそ、原発の是非を倫理委員会に諮ったのではないか。日本社会の原発論議に抜け落ちた視点がここにはある。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年1月28日公開、通算611回
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