科学記者のゆとりを味わう

今週の書物/
「科学者@Warの『言い分』」
武部俊一著(東大科哲の会会誌「科哲」第24号=2023年1月刊=所収

科学のページ(朝日新聞より)

「科哲」という言葉を聞いてピンとくるのは業界人だけかもしれない。ここで「業界」とは、私自身もその一隅にいた科学報道の職域を指している。1983年、私が朝日新聞社の科学部員になったとき、部の幹部(東京、大阪両本社の部長と次長)6人のうち5人が「科哲」出身者だった。科哲とは、東京大学教養学部「科学史・科学哲学」コース(*)の略。これが科学報道の本流なのか――私学出身の私は圧倒されたものだ。

顧みるに、それは学閥というより学派に近かった。言い方を換えれば、「科哲」の人々には独特の匂いがあったのだ。私の現役時代、科学報道も競争が激しくなり、科学記者は事件記者や政治経済分野の記者と同様、他紙を出し抜くことに躍起となったものだが、「科哲」出身者はどこかおっとりしていた。競争しないというのではない。いやそれどころか、他紙の追随を許さない記者も多くいた。それなのに、ガツガツした感じがない。

これが、教養というものかな――私は部になじむにつれて、そう思うようになった。東大教養学部の学生は1~2年生の課程を終えても東京・駒場キャンパスに残り、4年生まで教養を深めている。その後半の2年が、心のゆとりをもたらしているのではないか。

朝日新聞社の科学部は「科哲」出身者を多く擁した1960~1970年代に存在感を高めた。米ソの宇宙開発競争を追いかけ、日本初の心臓移植(1968年)の暗部も突いた。だが、後に大きな批判を浴びたこともある。原子力利用の旗を率先して振ったことだ。1979年、米国スリーマイル島原発事故が起こったとき、私は原発立地県の支局記者だったので覚えているが、国策を後押しするような科学部の報道姿勢は同じ社内でもどこか浮いていた。

その報道姿勢を「科哲」に結びつけるのは短絡というものだろう。ただ科学をめぐる教養の深さは、科学に対する批判の鋭さに必ずしも比例しないのかもしれない。

ここまでの記述でわかるように、私には「科哲」に対してアンビバレンスの思いがあった。片方は、自分もあの人々のように心にゆとりをもって科学を吟味したいという志であり、もう一方は、自分は在野の立場にとどまって批判精神を忘れまいという決意だった。

で、今週は、武部俊一著「科学者@Warの『言い分』」(東大科哲の会会誌「科哲」第24号=2023年1月刊=所収)。著者は1938年生まれ。私が科学記者になったときの朝日新聞東京本社科学部長で、論説委員も長く務めた。心のゆとりを体現したような科学記者。原子力についてもバランス感覚のある記事を書いてきた。私は尊敬している。お住まいがたまたま近隣の町にあるので先日カフェで落ちあい、この会誌をいただいたのである。

「科哲」第24号は特集の一つが「戦争と科学技術」であり、「科哲」ゆかりの人々が論考を寄せている。その一つが、著者の「科学者@War…」。古今東西の自然哲学者や科学者が戦争に際し、あるいは軍事に対し、どんな態度をとってきたかを総覧している。

冒頭の一節は、第2次世界大戦直後の欧州を描いた英国映画「第三の男」(キャロル・リード監督、1949年)の話。その一場面で、オーソン・ウェルズ演ずる「第三の男」が発した言葉が引かれている。イタリアでは名門ボルジア家が権力を握っていたころ、戦争や流血沙汰が後を絶たなかったが、ルネサンスも花ひらいた。スイスでは民主主義と平和が長く続いてきたが、生みだしたのはハト時計くらい――こんな趣旨の台詞だ。

著者によれば、この台詞は「戦乱の世を勝ち抜く国家の威信が文化の原動力にもなってきた」現実を言い表している。国家の威信を支える軍事と文化の一翼を担う科学は表裏一体だ。だから、「軍事の要請に科学者たちはつきあった」。そのつきあい方はさまざま。悩むことがあった。躊躇なく応じることもあった。研究資金や生活費のためと割り切ることも。とりあえず、その「言い分」を聞いてみようではないかというのが本論考の趣意らしい。

最初に登場するのは、古代ギリシャの植民国家シラクサの人で数理の達人として知られるアルキメデス。シラクサがローマ艦隊を相手に戦ったとき、「クレーン」や「投石」や「反射鏡」による反撃で功があったとされる。興味深いのは、兵器の設計図などを残していないこと。数学や力学の業績が記録されているのとは対照的だ。本人が軍事技術を低く見て、本業とみなさなかったためらしい。「余技」が国防に生かされたのか。それはそれで怖い。

ルネサンス期の人物では、レオナルド・ダ・ヴィンチが特記に値する。30歳のころ、ミラノ公への求職活動で自薦状をしたため、「頑丈で攻撃不可能な屋根付き戦車をつくります」などと提案。平時の貢献についても書き添え、彫刻もする、絵も描く、なんでもする、と売り込んではいるが、「就活」最大のセールスポイントは芸術ではなく、軍事だったわけだ。ただ、軍事技術の提案のほとんどは現実性に乏しく、受け入れられなかったという。

16~17世紀のガリレオ・ガリレイも軍事と無縁ではなかった。パドヴァ大学教授時代は研究資金を得るため、軍人の「家庭教師」をして要塞の建造法などを教えていた。望遠鏡を自作したときは、敵艦の発見にも使えると言ってヴェネチアの総督から「報奨金」をもらっている。自分は望遠鏡で木星の衛星を四つ見つけ、それらを「メディチ星」と呼んだ。「権力者の機嫌をとってすり寄らなければ、研究生活が成り立たない時代だった」のである。

近代に入ると、著名な発明家や科学者が次々登場する。アルフレッド・ノーベル、アルベルト・アインシュタイン、ヴェルナー・ハイゼンベルク、仁科芳雄らが名を連ねる。世間にもよく知られたエピソードに交ざって、ああそうだったのかという話も出てくる。

ここでは、二人に焦点を当てることにしよう。一人目は、空気中の窒素からアンモニアを生みだす技術に道を開き、「化学肥料の父」と呼ばれるドイツの化学者フリッツ・ハーバー(1868~1934)。この人にはもう一つ、「毒ガスの父」という恐ろしい異名がある。第1次世界大戦に際して化学兵器の開発を指導したからだ。その人は、こんな言葉を残している。「科学者は平和の時は人類に属するが、戦争の時は祖国に属する」

あぜんとするほどの割り切り方。ただ、見落としていることがある。私たちは、人類や祖国に「属する」以前に一個人であることだ。毒ガスをつくる自己も、毒ガスを浴びる他者も一個人だ。ここでは、その個人の生命も健康も権利も度外視されている。

もう一人は、米国で核兵器開発のマンハッタン計画を率いた物理学者ロバート・オッペンハイマー(1904~1967)。第2次世界大戦末期の核実験を「荘厳のかぎりだった。世界は前と同じでないことを私たちは悟った」と振り返っている。「技術的に甘美な(Technically sweet)ものを見た時には、まずやってみて、技術的な成功を確かめた後で、それをどう扱うかを議論する」という「判断」が自分にはあった、とも語っている。

オッペンハイマーは、原爆の開発や、それが広島、長崎に投下されたことの「非人間性」「悪魔性」に対して戦後は自責の念も感じていたようだ。主語を「物理学者は…」と一般化しているものの「内心ただならない責任を感じた」「罪を知った」と吐露している。

ここから見えてくるものは、科学技術には「荘厳」で「甘美」な一面があり、その魔力が科学者を「まずやってみて」という罠に陥れることだ。科学者の探究心が暴走するとは、こういうことを言うのだろう。科学者は核兵器でそのことを痛感したのである。

この論考では、著者の取材体験が一つだけ披露される。半世紀前、欧州出張の折、ドイツ・ミュンヘン大学の教授だったハイゼンベルク(1901~1976)に取材を申し込んだ。「快諾」の返事があり、約束の日時に大学を訪れたが、「体調」を理由にすっぽかされたという。ハイゼンベルクは戦時中、核をめぐるナチスの軍事研究に関与の噂があった人だ。被爆国の科学記者からそこをつつかれるのが疎ましかったのではないか、と著者は推察する。

ただ、ハイゼンベルクは礼儀正しい人だった。後日、著者に丁重な詫び状が届いたからだ。手紙には本人の署名があり、この論考には、その部分の接写画像が載っている。新聞記者には、あと一歩で特ダネを射止めていたのに……という残念譚が一つ二つある人が多いが、これもその一例だろう。それにしても、ハイゼンベルクがもし約束を守ってインタビューに応じていたら広島、長崎について何を語ったか。読んでみたかった気がする。

この論考のもう一つの魅力は、各項目のすべてにその科学者の記念切手が添えられていることだ。著者は、長年続けている切手収集の成果を「戦争と科学技術」という重い論題にも結びつけた。ここにも「科哲」のゆとりが見てとれる。学派の伝統は生きている。
* コースの正式名称は時代とともに変わっているようだが、当欄は会誌にある呼び名を採用した。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年7月7日公開、同年8月12日更新、通算685回
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「週刊朝日」に愛を込めて

今週の書物/
朝日新聞写真館since1904「週刊朝日『ジャンプ’63』上・下」
朝日新聞2023年5月27日付夕刊、同年6月3日付夕刊

上記「写真館」の見出し

先週に続けて今週も、当欄は特別番組を組む。2週連続で本から離れるというのは心苦しいが、今を逃すとタイミングを失するので決行させていただこう。

バタバタした理由は、私のうっかりにある。「週刊朝日」の休刊についてはすでに書いているが(*1)、最終号が5月30日に出たら、それも読み、改めて話題にしようというのが私の構想だった。ただ30日から2日間、温泉旅行の予定があった。最終号は旅先でも買えるだろうと高を括っていたが、最近は週刊誌を置く駅の売店がなかなか見つからない。31日に東京に戻り、わが町の昔ながらの書店に駆け込むと、もう売り切れだった。

部数が減ったことで、休刊に追い込まれる。ところが最終号が店頭に並ぶと、飛ぶように売れる。なんとも皮肉な話だ。とまれ、私の計画は泡と消えた。

そんなときだ。古新聞の切り抜きをしていて、おもしろい記事に出あった。土曜日夕刊に「朝日新聞写真館since1904」という連載があるのだが、5月27日と6月3日に上下2回で「週刊朝日『ジャンプ’63』」と題する写真特集が掲載されていた。新聞が届いた日にはうっかり見逃したが、後日切り抜き作業で目にとまり、被写体となった人物たちのポーズに思わず見とれてしまったというわけだ。だれもかれも、無邪気に跳んでいるではないか。

「ジャンプ’63」は、「週刊朝日」1963年の新年企画。「編集部の要請で各界のスターら約100人が次々跳ね、新年から3号にわたってグラビア誌面を埋めた」(「写真館」下の回の前文記事)ということらしい。「写真館」では、上下9人ずつ計18人が登場する。芸術家がいる、俳優がいる、映画監督がいる、経営者もいる、そして政治家も……。アトリエで跳んだり、稽古場や撮影所で跳ねたり、自宅応接間でジャンプしたり……。

私が思わずうなったのは、当時の「週刊朝日」が押さえるべきところを押さえていたことだ。1963年年頭の時点で、的確な先物買いをしている。たとえば政界では、1964年から8年間の長期政権を担った衆議院議員の佐藤栄作がいる。文化の領域では、1970年の大阪万博で「太陽の塔」をデザインした前衛芸術家の岡本太郎がいる。2023年の現在に至るまで国民的スターであり続けている女優の吉永小百合もいる。(敬称略、以下も)

もちろん、今回の「写真館」上下2回では約100人を18人に絞っているわけだから、歴史に名を刻んだ人物が選ばれているということはあるだろう。それにしても、である。

佐藤栄作は1963年、すでに有力政治家で閣僚経験も豊富だったが、63年年頭に限れば一代議士に過ぎなかった。当時の首相は池田勇人で、自民党内では官僚出身の佐藤と党人派の河野一郎が跡目を争うライバルだったが、大衆の人気だけでいえば河野に分があったように思う。もしかすると、この企画では河野にも跳んでもらっているのかもしれない。ただ、佐藤に声をかけることを忘れなかった。抜け目のない判断といえるだろう。

佐藤の跳び姿を見てみよう。両手を挙げ、スーツ姿で跳びあがっている。撮影場所は自宅応接間。背後にドアがあり、床には絨毯が敷かれているようだが、全体として質素な印象を受ける。驚くのは、佐藤が革靴を履いていることだ。この部屋は、靴を脱がない欧米式なのか。いかにもだな、と思わせるのは、こんなときでもワイシャツの袖口がカフスボタンで留められていることだ。一分の隙もない感じ。人気が出ないのももっともだ。

このとき佐藤は61歳。ジャンプ力はなかなかのもので、両手はほとんど天井に届いている。そのポーズを見て、私は51年前のバンザイを思いだした。1972年、沖縄復帰記念式典で佐藤首相は「日本国万歳、天皇陛下万歳」と発声し、会場は万歳三唱に包まれた。変な気分だった。日本は高度経済成長を果たし、戦争の傷跡を忘れかけている。ところが、それとは逆に自由の空気はしぼんでいる。その中心にいたのが佐藤首相だった。

「ジャンプ’63」の顔ぶれは、いずれも時代を映しだしている。松下電器産業会長の松下幸之助は自社の会長室で、拳を握りしめ、右手を高々と挙げて跳んでいる。1960年代前半といえば、電化製品が去年はあれ、今年はこれ、というように家庭になだれ込んだ時期に当たる。家電を買えるだけの給与増があったという意味でも、家事労働が軽減されたという意味でも、豊かさを実感できる時代だった。松下の跳び姿には、その勢いがある。

俳優の三船敏郎は海老反りで豪快なジャンプだ。三船といえば、疲労回復薬やビールのCMが猛烈サラリーマンの心をつかんだ。高度成長を象徴する人物だったといえよう。

ただ、高度成長期は猛烈だったが、優しい一面もあった。あのころの大人は戦争が人間性を毀損する記憶から逃れられず、ヒューマニズムを渇望していたのではないか。シナリオ作家松山善三と俳優高峰秀子夫妻が自宅で仲良く跳ぶ姿を見ると、そんなふうに思える。

これらの写真群のなかで、もっともジャンプに似合わない人は、映画監督の小津安二郎だろう。和服をキリっと着こなして自宅の客間で跳んでいるのだが、小津映画風のローアングルで見あげても、爪先は床の間の段差ほども上がっていない。それはそうだ。小津はこのときまでに代表作のほとんどを撮り終えていたからだ。このころは、すでに静かな境地にあったのではないか。それ以降に飛躍したのは、小津の世界的な名声だった。

作家有吉佐和子も和室で着物姿。当時すでに『紀ノ川』などの作品で人気作家だったが、1970年代に入ると果敢に社会問題に挑んだ。『恍惚の人』、そして『複合汚染』。ジャーナリスティックなテーマを次々見つけ、飛び石を渡るようにぴょんぴょん跳んでいった。

俳優森光子は、和服姿で膝を曲げ、数十センチも跳びあがっている。森といえば舞台でのでんぐり返しが有名だが、その素養は若いころからあったのだ。俳優岡田茉莉子はシックな洋装で、体操選手のように跳んでいる。この人は1970年、夫吉田喜重監督の「エロス+虐殺」でアナーキストの愛人になった(*2)。2時間ドラマの人気シリーズ「温泉若おかみの殺人推理」では憎めない大おかみも演じている……半世紀余の記憶が脳裏を駆けめぐる。

「ジャンプ’63」で懐かしさを覚えるのは、評論家大宅壮一のいでたち。「写真館」登場の18人で男性の和服姿は小津と大宅の二人きりだが、小津のキリッに対して大宅はグダッ。おとうさんが勤めから帰って、夕飯のために着物に着かえたという感じだ。あのころは、そんなおとうさんがどこにもいた。大宅は、書物がぎっしり並ぶ自宅書庫の書棚に挟まれた空間で、結構な高さまで跳んでいる。ジャーナリズムが元気な時代ではあった。

考えてみれば、1963年は、戦後日本がもっとも明るさに満ちていたころだった。その時代精神を「ジャンプ」という動作で可視化した「週刊朝日」編集部には脱帽だ。「跳んでください」と言われた人々もまんざらではなかったのだろう。思いっきり跳べば高みに手が届くはず、という期待があのころはみんなにあった。各界で活躍する人たちなら、その期待は確信に近かったに違いない。だから、みんなうれしそうに跳んでくれたのだ。

いま痛感するのは、「週刊朝日」の過去号(バックナンバー)は私たちにとってかけがえのない財産である、ということだ。そこにあるのは、新聞の縮刷版が具えた記録性と同じものではない。雑誌の過去号には、その号が出た時代の空気が詰まっている。雑誌は、いわば街角。過去号があればタイムマシンにでも乗るようにあのころの街角に戻り、あのころの空気を吸える。雑誌のアーカイブズを大事にしなくてはならない、とつくづく思う。
*1 当欄2023年2月17日付「『週刊朝日』デキゴトの見方
*2 当欄2023年3月24日付「竹中労が大杉栄で吠える話
(執筆撮影・尾関章)
=2023年6月16日公開、通算682回
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上岡龍太郎の筋を通す美学

今週の書物/
「上岡龍太郎さん死去」の記事
朝日新聞2023年6月3日付朝刊第二社会面

3段扱い?(上記の紙面)

今週の当欄は特別番組。元テレビタレント上岡龍太郎さんの訃報に接して思うことを書く。面識はないが、忘れがたい人だ。書きとめておきたいことがいっぱいある。

上岡さんは5月19日、81歳で亡くなった。肺がんと間質性肺炎を患っていたという。この死亡記事を朝日新聞東京本社版は第二社会面に中くらいの大きさで載せた(業界用語でいえば3段の扱い。といっても変則的で、2段見出しに顔写真を添えて3段にしてある)。大江健三郎や坂本龍一級の著名人が死去したときは記事本記とは別に評伝風の記事や関係者のコメントが載るものだが、それもない。ひとことでいえば地味な扱いだった。

これを見て私の頭をよぎったのは、大阪本社版ではもっと大きいだろうなという推察だった。確認していないので断言はできないが、たぶんそうだと思う。上岡龍太郎という人物をどうみるか、その評価には東西で温度差がある。理由は、上岡さんが出演したテレビ番組やラジオ番組が主に関西圏で放送されていたからというだけではない。上岡さんの話芸を支える知性が関西の文化と密接不可分だったこともあるのではないか。

私は東京生まれ東京育ちだが、20代半ばで新聞社に入ってからは転勤を重ね、関西での生活が通算10年余に及んだ。だから、関東人のものの見方も関西人のものの見方もそれなりに理解できる。今回は、その比較のなかで上岡龍太郎的なるものを位置づけたいと思う。

さて私が10代の少年だった1960年代、テレビがもたらしたものの一つに東西文化の相乗りがあった。東京にいても週に幾本かは在阪局制作の番組を見せられることになる。大村崑の「とんま天狗」(よみうりテレビ)を観た。藤田まことの「てなもんや三度笠」(朝日放送)も観た。そういえば「番頭はんと丁稚どん」(毎日放送)という人気番組もあった。関東の少年少女にとって、関西人のギャグはただひたすら笑えたのである。

私が上岡さんをテレビで初めて見たのも1960年代だ。「漫画トリオ」の横山パンチとして「パンパカパーン、パパパパンパカパーン、今週のハイライト」とやっていた。当時は、横山ノックというおどけた主役を引き立てるハンサムな脇役という程度の印象だった。

1960年代も後半になると私の関西観も変わってくる。そのきっかけは在阪民放局制作のトーク番組だった。番組名が何か、どの局がいつ放映していたかはもはや思いだせないのだが、スタジオに在関西の知識人が顔をそろえていた。京都大学の教授がいた。人気SF作家もいた。出演者自身が座談を楽しんでいるのだが、その話に思わず引き込まれる。そこには、とんま天狗とも、てなもんやとも、パンパカパーンとも異なるおもしろさがあった。

意外だったのは、出演者のなかに落語家が一人いたことだ。上方落語の継承者で文化勲章も受けた故・桂米朝の中堅時代だ。どんな話をしていたかは思いだせない。ただ、居並ぶ学界、文壇の重鎮たちに気押されることなく堂々と持論を述べていたことが忘れられない。

私たちの世代が子どもだったころ、東京の噺家には屈折した町人気質のようなものがあり、「俺っち、むずかしいことはわからないが……」と、知識人とは距離を置く傾向が強かった。ところが関西では様相が違うらしい。落語が町人文化である点は同じだが、それが公家や武家の文化と対等だという認識が人々の間にあるようだ。江戸時代、大坂(現・大阪)は商いで存在感を示したが、そのころの自負心が今も脈々と受け継がれているのだろうか――。

私が1980年代、関西で暮らしはじめたとき、上岡さんがピン芸人として活躍しているのをよく見かけるようになって気づいたのは、彼にはどこか桂米朝に通じるものがあるということだった。学歴などとは関係なく、自ら知性を磨いた人。そんな共通項がある。

今回の訃報報道で知ったのだが、上岡さんは日ごろから「米朝師匠」に対する尊敬を口にしていたらしい。2000年の芸能界引退後は自身の連絡窓口を米朝事務所に置いていたともいう。二人にはきっと響きあうものがあったのだ。私はそう思いたい。

ただ、ひとことことわっておくと、上岡さんは知的であっても知識人然とはしていなかった。それは彼が出演した番組を思い返せばわかる。今回の訃報報道ではあまり触れられていなかったが、1980年代半ば、関西圏で深夜の時間帯に放映されていた「ぼくらは怪しいサラリーマン」(毎日放送)というバラエティーを例にとろう。「最終電車でジャンケンポン」というコーナーが私のお気に入りだったが、バカバカしいといえばバカバカしかった。

カメラが中心街に出て、駅頭でサラリーマンを呼びとめる。誘いに応じた二人がジャンケンポンをして、勝ったほうはテレビ局差しまわしの高級ハイヤーで家路につく。負けたほうはすごすごと電車で帰宅――と私は覚えていたのだが、今回ネット情報を調べると、終電はすでに駅を出ていて敗者は路頭に迷う、とする記述があった。1980年代といえば、私も夜遅くまで働き、そして飲み歩いていた時代だ。身につまされる企画ではあった。

この番組については特記しておきたいことがある。これはやらせだろう、という疑念が私には微塵も生じなかったことだ。一つには、関西では街の人々がテレビの企画によろこんで乗ってくるからだ。タレントとの間で、気後れすることもなく絶妙の受け答えをする。

もう一つは、司会が上岡龍太郎だったからだ。この人はうそをつかない、という確信めいたものが私にはあった。今回の訃報を受けて爆笑問題の太田光が、上岡さんはやらせを決して許さなかったという逸話をテレビで披露していたが、やはりそうだったのかと思った。

当欄でとくに強調したいのは、上岡龍太郎は筋を通す人だったということだ。なにごとも、自分の頭で論理的に考えて結論を出す。あいまいなかたちでは妥協しない。

たとえば、上岡さんは呪術、オカルト、占いに類することに批判的だった。バラエティー系の番組は往々にして、こうした話題をおもしろおかしくとりあげたりするが、そういう風潮を拒んだ。いや、それどころか真っ向から反証を試みることもあった。

私には、忘れられない場面がある。スタジオに占い師たちが数十人並んでいる。上岡さんは傍らに立って、占い師集団に問いかける。どんなことを聞いたかはまったく思いだせないが、あえて例題を示せば「今季、阪神タイガースは優勝しますか?」といったような質問だ。ここで「優勝する」と答えた占い師が5割を占めたとしよう。「はい、これで占い師さんの半数は当てにならないことがわかりました」――こんなふうに進行したように思う。

タイガースの例題は私のつくり話だ。ただ、番組が占い師を大勢集め、予言の統計をとれば占いの不確かさが歴然とすることを見せつけたのは確かだ。ここからは私の推測だが、この企画は上岡さん自身の着想によって生まれたとみるのが自然だろう。

これが、なんという番組だったかははっきりしない。大阪発の「11PM」(よみうりテレビ制作、日本テレビ系列)であろうと私は思っていたのだが、どうもそれは間違いで、1990年に「11PM」が終了した後、その後継として放映された「EXテレビ」だったらしい。

上岡さんは、この番組でよみうりテレビ制作の回の司会役だった。ちょうど「探偵!ナイトスクープ」(朝日放送制作、テレビ朝日系列)の局長役で全国的に知名度が高まった時期だ。上り坂の勢いもあり、自分が仕切る番組で積年の主張を裏づけてみせたのではないか。

上岡さんは2000年、タレントとして脂の乗り切った絶頂期に引退を決め、以後23年、隠居を貫徹した。ここでもまた筋を通したのである。今の世に珍しく、美学の人だった。

☆今回の拙稿は主に、私の覚束ない記憶をもとに書きました。ネット検索で得た情報も参考にさせていただいたのですが、それを読んで、私の記憶が細部では当てにならないことを教えられました。間違いのご指摘があれば、随時再検討して直していくつもりです。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年6月9日公開、通算681回
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植草甚一日記で「私」を再生する

今週の書物/
『植草甚一コラージュ日記①東京1976
植草甚一著、瀬戸俊一編、平凡社、2003年刊

経堂駅北口――かつて高層ビルがあった

先週の当欄は、私が敬愛する愛称J・J、評論家植草甚一の日記を読んだ。手にとったのは『植草甚一コラージュ日記①東京1976』(植草甚一著、瀬戸俊一編、平凡社、2003年刊)。手書きの文面が、そのまま読める。執筆時の空気が伝わってくる本だ。

私の場合、その感覚がいっそう強い。なぜならば、著者と私は同じ時代、同じ町に住んでいたからだ。もっと踏み込んで言えば、後述するように、著者は日記を書くとき、私から100mほどの地点にいた。風が吹けば同じ空気を吸うこともあっただろう。

個人的な事情を言えば、1976年という年も私には特別な意味がある。私はそのころ理系の大学院にいて、人生の前途をどのように歩むかで迷っていた。先輩の多くは電機会社の技術者になっていたが、それとは異なる道に進みたいと思っていたのだ。今振り返れば、あの一年は一瞬一瞬が私にとってカオス現象の初期値のようなものだった。それがちょっとずれていれば、今の私はこの私とまったく違う私になっていたに違いない。

だから、植草甚一日記の記述を今読んで、ああ、そんなこともあったなあ、と思い返すことは、私にとって青春期の心模様を再体験することでもある。著者J・Jの五感を通して47年前の自分が蘇ってくるのだ。私は今回、そんな不思議な気分になった。

ということで今回は、本書に収められた植草甚一1976年1~7月の日記から私にもかかわる断片を拾いあげ、私自身の1976年1~7月を再構築してみたいと思う。

まずは、日記の謎めいた記述から。1月2日の欄に「風呂にはいってから、こっちの部屋にくる」、1月4日には「ピザパイをたべ二時にこっちの部屋へ」――ここで「こっち」とは何だろうか。日記だからこその自分にしかわからない指示代名詞だ。脚注によると、著者は小田急経堂駅前の高層マンション10階に2室借りていて、うち一つを書庫兼書斎に使っていた。入浴や食事はあっちの部屋、日記を書くのは「こっち」というわけだ。

この記述だけで、私の脳裏に自身の1970年代が蘇ってくる。経堂駅北口付近は1960年代、小田急の車庫跡地にスーパーマーケットが出現、1971年にはそれが14階建てビルに生まれ変わった。下の階はスーパーや専門店街、上層階は賃貸マンションだった。著者は町内の線路沿いにある日本家屋に住んでいたのだが、駅前にビルが建つとまもなく移ってきた。現在、このビルはすでになく中層階の商業施設に代わっている(写真)。

日記から、このビルは著者にとってわが家同然だったことが見てとれる。先週の当欄では、著者が原稿の複写に文房具店のコピー機を使っていることを書いたが、その店はビル2階の専門店街にあった。各戸の郵便受けは1階にあったようで、元日には「一階へ年賀状を取りに行く」との記述がある。5月28日には「下の事務所へよったら一〇一二号室がとれたという」とも。「下の事務所」とは、階下にあったビル管理事務所のことだろう。

さて、1012号室が「とれた」とはどういうことか。脚注によれば、著者はすでに借りている2室では足らず、「三つめの部屋を借りることになった」のだ。10階の1010号室と1014号室に加えて、もう1室を手に入れた。著者はその夏、ニューヨーク行きの予定があり「これでこんどニューヨークで買うつもりの本の置き場所ができた」と安堵しているが、理由はそればかりではなさそうだ。日記を見ると、東京にいても本を買いまくっている。

実際、6月に入ると蔵書を新しい部屋へ運び込むようになる。「部屋が一つふえたので14号室のローカの本を移動しはじめる」(6月7日)、「九時に起きて14 号室の本を12号室にはこぶ」(6月8日、9時は午前)、「八時半から14号室の本を12号室へはこぶ」(6月10日、8時半は午後)。前述の「こっち」は1014号室だったのか。「このところ毎日つづけて本はこびをやっているので、くたびれて夜よく眠れるんだろう」(6月17日)

微笑ましいのは、著者が本の引っ越しにも愉悦を見いだしていることだ。6月18日には夫婦で渋谷に出かけ、美術展とコンサートのはしごをして午後10時に帰宅、それからまた、ひと仕事している。「二時まで本はこびと整理をやったが忘れていた本が出てくるから面白い」。1976年6月、著者は連日、書斎兼書庫の本を二つ隣りの部屋へヨイショヨイショと運んでいた。ときには朝、起床してすぐに、ときには深夜、午前零時を回っても。

で、これが私の世界と見事に交差する。そのころ、実家は経堂駅北口の商店街の裏手にあった。私の部屋は2階南面で、その窓辺に立つと前方100mほどのところに駅前ビルが聳えていた。見えるのは、ビル北面にある外廊下の列。階ごとに蛍光灯が等間隔に並んでいて、日が暮れると白い光が点々とともった。蛍光灯の配列は結晶格子のように規則正しく、無機的だった。毎夜毎夜、私はそんな寒々しい光景をぼんやり眺めていたのだ。

1976年6月も、その蛍光灯の列が私の視界に入っていたことだろう。私が目を凝らしていれば、10階の外廊下を高齢男性が本を抱えて歩く姿に気づいたのではないか。たとえ気がつかなくとも、私の網膜に著者が映っていた可能性は大いにある。(*1)

不思議な話だ。著者J・Jと私のニアミスは、本書を読まなければ私も気づくことなく一生を終えたことだろう。ところが半世紀ほどが過ぎて、著者入居のビルがあった場所の近くに古書店が生まれ、そこで本書に出あったことで私の過去が上書きされたのだ。

日記には、これ以外にも著者J・Jと私を結ぶ糸がある。元日の欄に「青野さんが青ちゃんの本ができたといって来てくれたうえ青野の羊かんをもらった」とあることだ。「青野さん」は東京・六本木の和菓子店主(脚注は店の所在地を「赤坂」としているが、この「青野」は「六本木」の店だと思う)。「青ちゃん」は店主の兄で、新劇俳優の青野平義。著者の親友だった。1974年に死去しているので、この本は「追悼文集かもしれない」と脚注にある。

和菓子店「青野」や青野平義については、当欄ですでに書いている(*2)。私の祖父と青野兄弟が遠い親戚の関係にあったのだ。私は幼いころ、正月には親に連れられて六本木の店を年始で訪ねていた。で、私は本書のこの記述に引っかかってしまった。

元日、青野の主人が経堂に来ていたらしい。ということは、私の実家にも立ち寄ったのか。当時は祖父も存命だったので、その可能性はある。覚えがないのは私が外出していたからか。ただ、青野の主人はこの日、兄ゆかりの人々に本を届けるためだけにあちこち訪ねまわっていたのであり、さほど近しくない親戚の家には足を延ばさなかったのかもしれない……。こうして私は、遠い昔の親戚づきあいの濃淡にまで気を揉むことになった。

余談になるが、1976年の冬から夏にかけては、日本社会を揺るがしたロッキード事件の捜査が進んだ時期にぴったり重なる。新聞の報道合戦は熾烈を極めた。著者も、これに無関心だったわけではない。5月5日の欄に「『週刊ピーナッツ』をまとめて買った」(原文のママ)という一文があったりするからだ。「ピーナッツ」は、疑惑の領収書に出てきた符牒。「週刊ピーナツ」は、事件を追及する市民グループが出した週刊紙の名前だ。

だが、事件のヤマ場、田中角栄元首相が逮捕された7月27日前後の日記に事件への言及はまったくない。27日は午後、出張で札幌へ発ち、翌28日は朝方ホテルで原稿「ペラ12枚」を書いた後、トークイベントかなにかで「若い人たち相手にしゃべった」とある。

植草甚一日記は、いわゆる偉人の回顧録ではない。市井の文人が個人的な些事を書きとめたものだ。だが、だからこそ、忘れかけていた時代の日常が詰め込まれている。迷うことばかりだった一青年の心模様が半世紀後に蘇るのは、そのせいだろう。
*1 外廊下にはフェンスがあるから、著者の姿が陰に隠れてしまったことはありうる。ただ、私はこのビルが映り込んだ画像をネット検索で見つけ、フェンスが少なくとも上部は柵状で見通しがよいことを確認した。
*2 当欄2020年5月22日付「もうちょっとJJにこだわりたい
(執筆撮影・尾関章)
=2023年4月14日公開、通算674回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

植草甚一の「気まま」を堪能する

今週の書物/
『植草甚一コラージュ日記①東京1976
植草甚一著、瀬戸俊一編、平凡社、2003年刊

古書店という風景

めずらしく、うれしい話である。隣駅の近くに古書店が出現した。店開きは去年秋のことだが、以来、散歩の途中にときどき立ち寄るようになった。平日はがらんとしていることもあるが、週末は賑わっている。本好きは多いのだ。それがわかってまた、うれしくなる。

固有名詞を書くことにためらいはあるが、あえて店名を明かしておこう。拙稿に目を通してくださる方には良質な古書店を探している人が少なくないと思われるからだ。「ゆうらん古書店」。小田急線経堂駅北口を出て数分、緩い上り坂を登りかけてすぐのところにある。

都内世田谷区の経堂には古書店がいくつもあった。有名なのは、北口すずらん通りの遠藤書店、南口農大通りの大河堂書店。どちらも風格があった。ところが前者は2019年、後者は2020年に店をたたんだ。そのぽっかり開いた穴を埋めてくれるのが、この店だ。

店内の様子を紹介しておこう。狭い。だが、狭さをあまり感じさせない。秘密は、店のつくりにある。たとえは悪いが、ちょっとした独居用住宅のようなのだ。部屋数3室。仕切りのドアこそないものの、リビングダイニングとキッチンと納戸という感じか。それぞれの区画は壁を書棚で埋め尽くした小部屋風。客はそのどれか一つに籠って自分だけの空間をもらったような気分に浸れる。心おきなく立ち読みして、本選びができるのだ。

気の利いた店内設計は、店主が若いからできたのだろう。昔の古書店は書棚を幾列も並べて、品ぞろえの豊富さを競った。店主は奥にいて、気が向けば客を相手に古書の蘊蓄を傾けたりしていた。だが、今風は違う。客一人ひとりの本との対話が大事にされる。

おもしろいのは、本の配置が小部屋方式のレイアウトとかみ合っていることだ。店に入ってすぐ、“リビングダイニング”部分の壁面には主に文学書が並んでいる。目立つのは、海外文学の邦訳単行本。背表紙の列には、私たちの世代が1960~1980年代になじんだ作家たちの名前もある。一番奥、“納戸”はアート系か。建築本や詩集が多い。そして、“キッチン”の区画は片側が文庫本コーナー、その対面の棚には種々雑多な本が置かれている。

この棚の前で私は一瞬、目が眩んだ。目の高さに植草甚一(愛称J・J、1908~1979)の本がずらりと並んでいたのだ。「ゆうらん」は心得ているな、と思った。J・Jはジャズや文学の評論家で、古本が大好きな人。経堂に住み、この近辺は散歩道だった(*1*2*3)。そこに新しい古書店が現れ、棚にはJ・J本がある。これは「あるべきものがあるべき場所にある」ことの心地よさ、即ちアメニティそのものではないか(*4*5)。

で私は、ここで『植草甚一コラージュ日記①東京1976』(植草甚一著、瀬戸俊一編、平凡社、2003年刊)という本を手にとった。ぱらぱらめくると、1976年1月~7月の日記が手書きのまま印刷されている。さっそく買い入れた。今週は、この1冊を読もう。

折から当欄は「めぐりあう書物たち」の看板を掲げて、この4月で満3年になる。最初の回に読んだのもJ・J本だった。今回は、初心を思い返してJ・Jイズムに立ち戻る。

本書は、『植草甚一スクラップ・ブック』という全集(全41巻、晶文社、1976~1980年刊)の付録「月報」として発表されたものをもとにしている。編者はそのころ、晶文社の社員だったようだ。その前書きによると、「月報」掲載の手書き文はリアルタイムの日記そのものではなかった。それを、著者本人が「清書」したものだという。書名に「コラージュ」(貼り絵の一種)とある通り、ところどころにビジュアル素材が貼りつけられている。

元日は「一月一日・木・いい天気だ。十時に目があいた」という感じで始まる。午後2時、年賀状を出しに出かけた。だが、投函だけでは終わらない。「ブラブラ歩いて玉電山下から宮前一丁目に出たとき三時」「二十分して農大通りに出たころ日あたりがなくなった」

土地勘のない人のために補足すると、「玉電山下」は現・東急世田谷線の山下駅。小田急経堂の隣駅豪徳寺のすぐそばにある。ここで私が困惑したのは「宮前一丁目」。世田谷にこの地名はない。「二十分して農大通り」とあるから、たぶん「宮坂一丁目」、山下の隣駅宮の坂付近のことだろう。思い違いがあったのではないか。もし「宮坂一丁目」なら、著者は1時間で小田急1駅分、玉電1駅分を歩き、グルッと回って経堂に戻ったことになる。

J・Jの好奇心に敬服したのは、2月19日の記述。バス車内の読書を話題にしている。著者は当時、仕事で池波正太郎作品を多読しており、経堂から渋谷行きのバスに乗っても読みつづけようとした。ところが乗車すると「揺れどおしのうえガタンとくる」。このとき著者は、「池波用メモ帖」を持っていた。読んでいて気づいたことがあると書きとめるノートだ。それを開いて「タテ線をボールペンで引っぱってみた」。だが、「直線にならない」。

そのタテ線は本書で現認できる。著者が「メモ帖」の一部を貼りつけているからだ。線は地震計の記録のように揺れ動き、ところどころに「STOP」の文字がある。バスが一時停車したのだろう。揺れに困り果てながらも、それを楽しんでいた様子がうかがえる。

その証拠に7月5日の日記で、こんな一文に出あう。「散歩に出たら渋谷ゆきバスが来たので、池波の本を持ったまま乗ってしまう」。懲りていないのだ。しかも、この日はバスをはしごする。「渋谷で降りたら知らない方向へ行くバスがとまっているので乗ってみた」。その終点で、喫煙用パイプの買いものをして引き返している。「こんなにグルグル回りするバスもはじめてだった」とあきれているが、私は著者の気まぐれのほうにあきれる。

著者は、よほどバスが好きなのだ。3月14日は、病院帰りに新宿副都心の洋菓子店喫茶コーナーでアメリカ小説を読んだ後、路線バスに引き込まれている。「王子行きのバスに乗ったら新高円寺という停留場になったので降りてみた」。あてもないのに、やってきたバスに乗る。理由もないのに、たまたま目についたバス停で降りる。この日は新高円寺近辺で道に迷った挙句、古書店にふらりと入り、本をたくさん買い込んで持ち帰っている。

2月19日の日記に戻ろう。著者は「メモ帖」の話のあと、「ニューヨークのバスは、こんなには揺れなかったな」と思い、車輪の取りつけ方が違うのかもしれないと推理して、下車したら「車輪の位置」をよく見てみよう、と考える。ここまで読んで私は、この話は当欄ですでに書いたことがあるのではないか、と疑った。たしかに似た話はあった。ただ、バスではない。ニューヨークで地下鉄に乗ったとき、東京ほど揺れなかったという。(*1

地下鉄の揺れのことが書かれていたのは、『植草甚一自伝』(晶文社)だ。日記掲載の「月報」が添えられた「植草甚一スクラップ・ブック」の第40巻である。そういえば同第19巻『ぼくの東京案内』には、別件でバスの話が出ている。昔、歩行者用の陸橋がまだ珍しかったころ、その下をバスがくぐり抜けたときに「歩橋」という新語が思い浮かんだというのだ。その後「歩道橋」の呼び名が世間に定着して、的外れでなかったな、と悦に入る。(*3

今回はJ・J本を選んだせいか、J・J流に脇道にそれて、話の収拾がつかなくなった。ここらで日記から浮かびあがる著者の日常を素描して、まとめに入ることにしよう。

ひとことでいえば、著者はいつも原稿に追われている。だが、執筆をさぼっているわけではない。昼も夜も時間を見つけては原稿を量産している。たとえば1月8日。午前10時に目覚め、コーヒーを飲んで「『太陽』の原稿に取りかかる。十二時にペラ十枚」とある。「太陽」は平凡社のグラフィック月刊誌。「ペラ」は200字詰め原稿用紙を指している。午前10時から書きだしたのだとすれば時速約1000字、なかなか快調ではないか。

3月6日には「文房具店で池波原稿のできた半分だけゼロックスにする」とある。「ゼロックス」は複写機のメーカー名。当時は、コピーのことをこう呼んだものだ。脚注によると「植草氏は書けた分だけ原稿を渡すので控えが必要だった」。ファクスの普及以前であり、eメールなど想像すらできなかった時代なので、原稿は手渡しか郵送しかない。締め切りが迫れば、書きあげたところから手放していくことになったのだろう。自転車操業状態だ。

それなのに著者は仕事を適当に切りあげ、地元の商店街を歩き、バスや電車で三軒茶屋や下北沢、渋谷、新宿に出て、古書や雑貨を買いあさり、展覧会や演奏会をのぞき、コーヒーを飲んで楽しげな一日を過ごしているのだ。これぞ、人生上手と言うべきだろう。

さて、当欄もようやくここまでたどり着いたが、途中、入りそこねた脇道も多い。その脇道に今度こそ踏み込んで、来週もまたJ・Jワールドにどっぷり浸かる。
*1 当欄2020年4月24日付「JJに倣って気まぐれに書く
*2 当欄2020年5月22日付「もうちょっとJJにこだわりたい
*3「本読み by chance」2015年5月22日「植草甚一のハレにもケをみる散歩術
*4 当欄2022年5月13日付「あるべきものがあるアメニティ
*5 当欄2022年9月16日付「アメニティの本質を独歩に聴く
(執筆撮影・尾関章)
=2023年4月7日公開、同月27日更新、通算673回
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