もく星号はなぜ2度落ちたか

今週の書物/
「『もく星』号遭難事件」
『日本の黒い霧(上)』(松本清張著、文春文庫、新装版2004年刊)所収

離陸

「もく星」号と聞いて、ピンと来る人はそんなに多くはないだろう。日本航空の路線でかつて就航していたプロペラ旅客機。1952(昭和27)年4月9日、伊豆大島の三原山山腹に墜落、乗員乗客37人が全員落命した。戦後の国内民間航空史上、最初の大事故である。

私にとっては、1歳にもならない乳児期の出来事。当然のことながら、ひとかけらの記憶もない。ただ、それでも小学生のころ、そんな惨事があったとは聞いていた。なぜか? 家でテレビドラマを見ていたときにしばしば、この事故が話題になったからだ。

話は飛ぶが、テレビ草創期に人気を博した俳優に大辻伺郎がいる。「赤いダイヤ」(1963年、TBS系)という小豆相場を題材にしたドラマで、主役を演じていた。子ども心にも、クセのある役者だな、と思ったものだ。その彼が画面に現れると、大人たちはドラマとは関係のない話を始めた。大辻伺郎の父は大辻司郎という漫談家で、「もく星」号事故の犠牲者だという。そんなことがあって、私はこの飛行機の名を知ったのである。

ただ、この事故がいくつもの謎を残していることを私はずっと知らなかった。元新聞記者として、まことに恥ずかしい。最近、録画保存していた蔵出しのミステリードラマを見て、事故の原因や事故情報の流布に不可解な点が多々あることを教えられたのである。

ドラマは、「風の息」(1982年、テレビ朝日系)。松本清張の同名小説を原作にしたもので、「土曜ワイド劇場」の2時間(2H)枠をほぼ3時間に拡げて放映された。出演者は、栗原小巻、根津甚八、関根恵子(現・高橋惠子)……。栗原と根津が、それぞれの行きがかりから事故の解明に首を突っ込む、という筋立てだ。事故は現実のものだがフィクション仕立てなので、真相は見極めがたい。これをもって事故を知ったとは言えない。

ということで今回は、原作の小説をとりあげない。代わりに同じ著者のノンフィクションを読む。「『もく星』号遭難事件」(『日本の黒い霧(上)』=松本清張著、文春文庫、新装版2004年刊=所収)。『…黒い霧』の各編は1960年に『文藝春秋』誌に連載されたものだから、事故の8年後に書かれたことになる。ちなみに先日話題にした「追放とレッド・パージ」も、この連載の一編だった(当欄2020年12月4日付「追放、パージというイヤな言葉)。

「『もく星』号…」の一編は小説ではないので、記述は淡々としている。一つの答えに絞り込もうという強引さもさほど感じられない。だがだからこそ、事故の陰に隠された部分の大きさが読者の心に重くのしかかってくる。まさに「黒い霧」と呼ぶにふさわしい。

本文は冒頭、「昭和二十七年四月九日午前七時三十四分、日航機定期旅客便福岡板付行『もく星』号は羽田飛行場を出発した」と切りだされる。「密雲垂れこめ、風雨が頻り」という悪天候。機は20分後、千葉県の館山上空を通り過ぎてまもなく「消息を絶った」。

見つかったのは、まる1日たった翌朝だ。天気は回復している。日航の捜索機が、三原山の山腹に機体各部が散らばっているのを確認した。火口の東方、高さ2000フィート(約600m)のあたりというから、山頂(758m)に近い。破片の列は山頂方向へ帯状に連なっていた。機長が「突然、雲の間から現れた山を見て」「驚き、機種を上げようとした」と著者はみる。そうなら、「もく星」号は大島ルートを低すぎる高度で飛んでいたことになる。

このノンフィクションから見えてくる「もく星」号事故の謎は二つある。一つめは、墜落の原因。なぜそんなに低空飛行していたのか、という疑問だ。当時の羽田発日航便は西日本へ向かうとき、館山付近で針路を変え、そのあと高度を約3000フィートから6000フィートまで上げて大島上空を通り過ぎることになっていた。ところが、この日の「もく星」号は2000フィートで西進していたらしいのだ。いったい、何が起こったのか?

著者は、操縦室の機長が羽田出発前、地上の管制員とどんなやりとりを交わしたかを跡づけている。これを理解するには、予備知識が必要だ。事故発生時、日本はまだ連合国軍の占領下にあったということである。関東地方の航空管制は埼玉県所沢の米軍ジョンソン基地が司り、その指令を羽田にいる米軍所属の管制員が中継して機長に伝えていた。しかも、日航は運行業務をノースウエスト社に任せきりで、「もく星」号機長も米国人だった。

で、問題はこの日、何があったかだ。離陸前、「もく星」号の機長に届いた指令は、驚くべきことに「館山通過後十分までは高度二〇〇〇を維持して下さい」だった。館山から大島までは8分しかかからないから、これだと「衝突は必至」。機長はただちに「低すぎる」「何かの間違いではないか」と言い返している。機長は日本での飛行時間がまだ70時間だったというが、東京付近の空に不案内ではなかったことがわかる。

このときは、機長に呼応してノースウエストの羽田駐在員も抗議、それが管制塔経由でジョンソン基地に伝わり、基地は訂正の連絡をしてきたという。だから不思議なのは、2000フィートを「低すぎる」と強く認識していた機長がその高度で大島に向かったことだ。

もう一つの謎は、「もく星」号の消息が途絶えてからのドタバタだ。羽田離陸から半日ほど過ぎた午後3時、運輸省の外局である航空庁が、米軍横田基地から入手したとされる情報を発表した。それによると、日航機が静岡県舞阪沖で遭難、海上保安庁の船と米空軍機が現場へ急行したが、霧が立ち込めていてなにも見つかっていない、という。この情報はまもなく、「機体は海中に没し、尾部のみが見える」と更新された。

一方、3時15分には、これと食い違う話が伝わってくる。航空庁の板付分室が米軍から聞いたという情報だ。「もく星」号が静岡県浜名湖の南西16kmの海面で見つかり、乗客乗員全員が米軍の手で助けられたというのである。その25分後、国警静岡県本部も、同じ情報の詳細を発表する。機体を発見したのは「米第五空軍捜索機」であり、「米軍救助隊」が派遣されて乗員乗客をすべて救いあげたが、その船の入港先は不明とのことだった。

二つの情報を見比べると、遭難地点は概ね合致している。舞阪(現・浜松市)は浜名湖に面した町なので、ザクッと言えば現場は浜名湖に近い遠州灘ということだ。ただ、乗客乗員が無事なのかどうかは決定的に違う。現場は混乱した。海と空から捜索が続いたが、機体は見えない。米軍掃海艇2隻が全員の救助に成功したとの情報も浮上したが、夜になって当の2隻からそれを否定する連絡があり、「搭乗人員全員が絶望視されるに至った」という。

この混乱は、乗客家族の悲しみを倍加することになった。乗客の一人、大手製鉄会社の社長の場合はどうだったか。「全員救助」の知らせを受けると、息子と娘が製鉄会社関係の4人とともに車で静岡方面へ向かった。「フルスピードで走る車の中で六人の心は喜びにはずんでいた」と、著者は推察する。どの家族も当日は根拠のない情報に踊らされ、翌日、正反対の真実を突きつけられて目の前が真っ暗になったのだ。それは、罪深い虚報だった。

二つの虚報は、いずれも米軍から届いたとされる。だが、米軍が意図して嘘をついたようには見えない。遭難機発見という虚偽の事実を言いふらしても、機体はいずれどこかで見つかるだろうから嘘はすぐばれてしまうではないか――。私などはそう考えたが、著者の推理はちょっと違う。その答えは、ここでは明かさない。この虚報の謎と飛行高度の謎とを重ね合わせ、もしかしたらそうかもしれないという可能性を指摘したとだけ言っておく。

興味深いのは、著者がこの虚報を「謀略」とはみていないことだ。謀略なら、それは周到に練りあげられた攻めの情報操作だろう。ところが、世の中には不都合なことを取り繕うための守りの情報操作もある。近年は、後者のほうが多いように思える。この一編には「謀略が無かったから、本題の『日本の黒い霧』たり得ないか、というとそうではない」という言葉がある。著者清張は、フェイクニュースの時代を予感していたとは言えないか。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年12月25日公開、通算554回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

野に咲く花、あの社会党はどこへ

今週の書物/
『対立軸の昭和史――社会党はなぜ消滅したのか』
保阪正康著、河出新書、2020年刊

「花はどこへ行った」はピート・シーガーのフォークソングだ。「野に咲く花はどこへ……」(日本語詞・おおたたかし)と唄いだされる。最近、日本の社会民主党が分裂して究極のミニ政党になるというニュースに触れ、その歌を小声で口ずさんでいる自分がいる。

社民党と言えば、やや失礼な言い回しをすれば野党界の老舗だ。前身の日本社会党は戦後、日本政界の一角を占め、とりわけ1955年から約40年間は与党自由民主党と対峙する野党第一党であり続けた。まさに「野に咲く花」だったのだ。ところが、その花の末裔が今、枯れ落ちる寸前のように見える。私はここで、一党派の盛衰について書くつもりはない。ただ、社会党的なるものに存在感があったという史実を心にとどめておきたいとは思う。

意外かもしれないが、社会党はおしゃれだった、という印象が私にはある。1970年前後、街角で見かけた政党ポスターがそうだ。それをおぼろげな記憶をもとに再現すれば、ガランとした電車の車内風景を写真に撮って全面に刷り込んでいた。アングルが斜めに傾いている。座席には終着駅まで乗り過ごしたらしいサラリーマンがいたような気もするが、はっきりしない。ただ、都市生活の人間疎外を感じさせる一瞬を巧く切りだしていた。

ひとことで言うと、都会的だったのだ。この印象を裏づけるように、当時、社会党のポスターづくりには大手広告代理店がかかわっていたという話を聞いたことがある。もしそうなら、もちろんビジネスとして請け負ったのだろう。だが、かかわったクリエイターやアーティストたちの内心には仕事の域を超えて、この政党に対する愛着があったのではないか。それほどにリキが入っていた。社会党は、カタカナ書きの職業を味方につけていた。

これは、テレビを見ていてもわかることだった。芸能人・タレントたちを政治の座標軸に位置づけてみると、ゴリゴリの左翼系ではなくても、自民党を嫌う一群が存在していた。そういう人たちが、それとなく社会党に好意的な発言をする場面がままあったように思う。

あのころは農村部では保守が優勢、都市部では革新が強いという色分けもあった。だから、社会党が都会的に見えたのは不思議ではない。問題は、高度成長期とその後のバブル期に農村地帯がどんどん都市化していったのに、なぜ、この党は大きくならなかったのかということだ。皮肉にも、列島改造政策などで都市化を推し進めたのは自民党政権だった。政敵がチャンスをくれたのに、それを生かせなかったのだとも言える。

で、今週の1冊は『対立軸の昭和史――社会党はなぜ消滅したのか』(保阪正康著、河出新書、2020年刊)。著者は1939年生まれ、出版社の編集者出身の著述家。日本現代史、とりわけ昭和の戦前戦後史を学者とは異なる視点で読み解いてきた。あとがきによると、この本は「サンデー毎日」の連載「戦後革新の対立軸」をもとにしているというが、奇しくも社会党の後継政党に「消滅」の黄信号が灯る局面で世に出ることになった。

著者は、学者でないというだけではない。社会党関係者でもなかった。社会党嫌いであったわけでもない。序章では、自身が社会党の「熱烈とまでは言わないが、支持者であった」と打ち明け、「しかし次第にこの政党に関心を失った」と言い添える。この距離感がいい。

この立ち位置ゆえに、社会党のお家芸だった路線論争に深入りして、そこで唱えられたイデオロギーをマルクス主義の文献と突きあわせて吟味したりはしない。そうかと言って、社会党には追い風だった戦後民主主義まで否定したりもしない。むしろ、この政党が仲間うちの確執に明け暮れて、時代とともに移り変わってゆく人々の心模様を読みとることを怠り、世間の位相からどんどんずれていく様子を、これでもかこれでもかと指弾しているのだ。

序章は、「社会党に代表された戦後社会の姿あるいはイメージ」が私たちに残したものを辛辣な筆致で箇条書きにしている。「平和、自由、進歩といったプラスイメージの語彙を空虚にさせた」「生活の中の現実主義を糊塗するために空論を弄(ろう)することになった」……。現実を見て解決策を探らず、ただ立派なスローガンを掲げた。その結果、「空虚」な言葉の「空論」ばかりが飛び交うことになった。ずれていく、とはそういうことだ。

私は社会党のポスターを「都会的」と感じたが、著者は、1960年代から党の要職を務めた江田三郎に「都会的なスマートさ」を見ている。彼の存在は「党の人気を底上げする力」を秘めていたという。白髪のエネルギッシュな風貌で「テレビ映りも良い」と評しているが、「都会的」で「スマート」なのは外見のことではないだろう。思考の「柔軟性」がその印象を与えたのだ。それがかたちになったのが、構造改革論に根ざした江田ビジョン。

江田ビジョンでは、英国の議会政治、米国の豊かさ、ソ連の福祉、日本の平和憲法を理想像として提示している。この説明は、人々の胸にすとんと落ちた。ところが、これを「改良主義」と切り捨てる左派勢力が党内には強く、党の方針とはならなかったのだ。

江田は1977年、ついに社会党を離れる。このときの話が同じ著者の『昭和史 忘れ得ぬ証言者たち』(講談社文庫)に出てくる。党は離党届を、本部のある社会文化会館では受けとろうとしなかった。党に近づくな、ということか。江田は会館建設の資金集めに貢献した人だ。著者は、党の仕打ちを「許せない」と断じている。(「本読み by chance」2015年4月10日付「『昭和』を聞きつづける人の本」)。同じ視点は、この『対立軸の…』にもある。

著者は、今回の本でも「昭和30年代、40年代の東西冷戦下にあって教条左派の論者たちは、戦前の陸軍の青年将校のようなタイプが多かったと思う」と述べている。振りかざす旗が「天皇絶対」から「社会主義絶対」に代わっただけで、「正義は我にあり」「自らに抗するものは非正義」とする点は共通だという。私も同感だ。社会党の社会主義者たちには、自分たちはなぜ社会主義をめざすのか、という自問がなかったように見える。

私がこの本でもっとも強く興味を覚えたのは、社会党の成長経済との向きあい方を振り返った箇所だ。「社会党は高度経済成長を受け入れていながら、そしてそれに見合う生活上の豊かな部分を満喫しているのに、体質は社会主義の路線や理論に甘えていた」という著者の指摘は図星だろう。あのころ、支持母体の労組は毎年の春闘で高度成長の分け前を手にしていた。その後ろ盾となるだけで義務を果たしている気になっていたのではないだろうか。

実際、高度成長の恩恵が相当なものであったことは、著者も認めている。「私自身、経済社会の豊かさの中で文筆業に入っただけに、当時の経済成長の一端に触れる実感があった」と打ち明け、「私のような実感を持っている者が、社会党の支持から離れ、いわゆる『支持政党なし』に変わっていったのであろう」と分析する。支持者たちが社会党の「古い体質」、すなわち「イデオロギーに固執している状態」を見限ったのである。

では社会党は、あの時代に存在理由を取り戻すことができたのか――それが私の関心事だ。この本は、その問いに真正面からは答えてくれない。ただ、高度成長期の社会を論述したくだりから、存在理由は失ってはおらず、見失っていただけらしいことがわかる。

著者は、1960年代後半から日本社会に「二つの特徴」が現れたという。一つは豊かさの不公平。ところが、個々人の所得増に惑わされて「分配が公平にいっているような錯覚」が生じた。もう一つは公害。それは「高度成長に伴う不可避的な問題」にほかならなかった。

この二つに、社会党はもっと目を向けるべきだったのだ。その後、分配の不公平は市場経済万能論や経済のグローバル化で深刻度を増し、格差社会を生みだしていく。公害は、住民対企業の構図に収まらないエコロジー思想を育て、地球環境に対する危機感が強まっていく。一つの左派政党が1960年代、この展開を予想できたとは思わない。だがせめて、その激流に取り残されないだけの思考の準備をしていてほしかった。そう思わざるを得ない。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年12月18日公開、通算553回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

小柴さんはアメリカに船で渡った

今週の書物/
『物理屋になりたかったんだよ――ノーベル物理学賞への軌跡』
小柴昌俊著、朝日選書、2002年刊

氷川丸

ワタクシ的に言えば、今年は父喪失の年だった。本物の父が5月に97歳で逝った。8月には科学記者仲間の父親的存在だった柴田鉄治さんが85歳で永眠した(当欄2020年9月11日付「新聞記者というレガシー/その1」、当欄2020年9月18日付「新聞記者というレガシー/その2」)。そして11月、日本の物理学界の巨星とも言える物理学者、小柴昌俊さんが94歳で生涯の幕を閉じた。小柴さんもまた、「父親」という言葉が似合う人だった。

3人に共通するのは、昭和戦前を知り、昭和戦後を生き抜いて、平成を見届けたことだ。その世代が今、次々に退場する。やがては代わって高齢層の先頭集団となる私たちは、父親たちが世の中の第一線にいた昭和戦後のことを語り継ぐ義務があるのかもしれない。

で、今回は、小柴さんについて書く。物理学者としての快挙は1987年、岐阜・富山県境部の神岡鉱山地下にしつらえた巨大な水タンクで、銀河系のすぐそばに現れた超新星が放つ素粒子ニュートリノを検知したことだ。この水タンクがカミオカンデである。

カミオカンデは、もともと陽子崩壊という現象を発見する狙いでつくられた。ところが、なかなか見つからない。それならば、とニュートリノの観測もしやすいように改造したら、その数カ月後に超新星ニュートリノが飛び込んできた。幸運と言えば幸運。ただそこには、一つの的が外れたときに備えて二つめ、三つめの的を用意する、という周到さがあった――そんなことを先日、私は「評伝」に書いた(朝日新聞2020年11月19日朝刊科学面)。

当欄は「評伝」とは異なるので、個人的な感慨も披歴しよう。小柴さんは幸運だったが、私自身もまた幸運だったのだ。私は1987年3月、朝日新聞科学部員として小柴グループの超新星ニュートリノ捕獲を記事にしたが、その機会に恵まれたのは同年1月の持ち場替えで物理・天文担当になっていたからだ。カミオカンデが改造から数カ月で超新星ニュートリノを捕まえたように、私も担当になって数カ月で科学の大ニュースと遭遇したのだ。

超新星ニュートリノの捕獲は、科学史の上でも大きな転換点だった。これによって、素粒子物理を粒子加速器のような超大規模の実験装置ではなく、自然観測を通じて探究する流れが再評価された。巨大科学(ビッグサイエンス)の潮流に一石を投じたのである。その動きを追いかけることができたのは記者冥利に尽きる。それだけではない。私は取材を通じて、小柴昌俊という魅力あふれる科学者の人間像を間近に見ることができたのだ。

で今週は、小柴さんの自伝『物理屋になりたかったんだよ――ノーベル物理学賞への軌跡』(小柴昌俊著、朝日選書、2002年刊)から、とっておきの話をいくつか紹介する。

この本をとりあげることには、ためらいもある。自身が本づくりにかかわったからだ。その経緯は、巻末に収めた「インタビューを終えて」という一文で明かしている。2002年晩夏、私は小柴さんに計3回、約10時間のインタビューをした。当時、朝日新聞出版局の編集者だった赤岩なほみが、この記録をもとに参考文献に照らしてまとめあげたものを小柴さんが推敲したのである。その結果、小柴さんらしい語り口が残る自伝となっている。

考えてみれば、この方式をとったからこそ、小柴さんがストックホルムでノーベル物理学賞を受けた15日後に刊行するという早業が実現したのだ。その夏、赤岩と私の間には「小柴さんのノーベル賞は近い」という共通認識があったが、そこにとどまらず「インタビューの聞き手を引き受けてほしい」ともちかけてきた彼女の英断に脱帽する。ここにもまた、幸運をつかみとる用意周到さがあったとみるのは、こじつけ過ぎだろうか。

さて今回、当欄で焦点を当てようと思うのは、小柴さんが1950~60年代に経験した米国生活だ。最初は1953年、ニューヨーク州のロチェスター大学に留学したときだ。横浜港で氷川丸に乗り込み、米西海岸のシアトルまで10日間余の船旅をしたという。

注目すべきは、そのころから小柴さんが用意周到だったことだ。船に同乗していた女子留学生二人から滞米時の連絡先をしっかり聞きだしていたのである。そのこまめさが、米国に渡ってからものを言う。マサチューセッツ工科大学に留学中の友人を訪ねたとき、近くに住む彼女たちに声をかけ、4人でデートしたのだ。「海岸に行って、それから晩飯をおごって、それでさようなら」というから「かわいらしいもの」だった。念のため。

もちろん、遊んでいたばかりではない。博士論文を書こうという学生には、そのまえに厳しい関門があった。まず語学試験に、次いで1週間ぶっ通しの集中試験に合格しなければならなかったのだ。語学では、二つの外国語の習得が求められた。英語はもちろん、日本語も外国語扱いされない。「それで、高等学校時代についばんだドイツ語とフランス語を、ハイネやモーパッサンを思い出しながら勉強した」。さすが、旧制高校出身者だ。

小柴さんが学位論文にまっしぐらだったのには訳がある。懐事情だ。留学中、当時の日本の感覚で言えば破格の月額120ドルが支給されていたが、物価が高いので生活は苦しかったという。交通費を切り詰めようとして「古いフォードを一五ドルで買ったところ、一カ月くらい乗ったらエンジンが破裂してしまった」というような日々。こんなときに指導教授から、博士号をとれば「月に最低四〇〇ドルは保証される」と聞きつけていたのだ。

学位論文のテーマは「宇宙線中の超高エネルギー現象」だった。指導教授のグループが「原子核乾板」という道具を風船(気球)につけて上空に浮かべ、宇宙線を観測していたので、そのデータを解析した。借金を背負いながらの研究だったそうだ。論文を指導教授に提出するときには「これで学位をくれないなら、日本へ帰る」と、啖呵まで切った。そのひとことが功を奏したわけではないだろうが、論文は異例の速さで審査を通過したという。

圧巻は、2度目の渡米後の1960年、シカゴ大学を拠点とする国際共同実験の指揮を任されたときの失敗談だ。ジョージア州の海軍基地から、原子核乾板搭載の観測機器を風船につないで飛ばした。機器は時間がくると風船から離され、落下傘で舞い降りる、という仕掛けになっている。ところが、切り離しのタイマーが雷の直撃を受けたらしく、機器はいつまでも風船にぶら下がったままだ。飛行機から切り離しの信号を飛ばしてもダメだった。

この窮地に、小柴さんはどうしたか。本人の回想によれば、米海軍の幹部に電話して、風船を落下させるために軍用機を出動させてほしい旨の要求をまくし立てた。「言いたい放題」だ。「敗戦国民のわたしが、アメリカの海軍にああしろ、こうしろと命令するのは、正直言って気分がよかった」と振り返る。実際、海軍は軍用機で風船を銃撃したらしい。それでも風船は太平洋上空まで流され、観測機器はついに行方知れずになったという。

実験そのものは失敗だった。だが小柴さんは、ここから二つのことを学ぶ。巧妙な交渉術と実験家の心得だ。指南役は、イタリア出身の物理学者ジュゼッペ・オッキャリーニだった。軍人とのやりとりでは「喧嘩の仕方をいろいろコーチしてくれた」。実験のことでは、観測装置に信号が伝わらない事態を想定して、その場合でもデータを回収できるしくみにしておくよう「お説教」したという。小柴流用意周到の原点は、ここらへんにありそうだ。

不可解なのは、小柴さんが米海軍に対し、風船相手の作戦にU2を使うよう求めたとしていること。U2は偵察機だから、ちょっとおかしい。1960年、この機種は旧ソ連上空で地対空ミサイルに撃ち落とされるなど注目の的だったので、思わず口を突いて出たのだろうか。

この逸話には、違和感を覚える人が少なくないだろう。1960年は、日本で日米安保条約反対のうねりが高まった年だ。知識人の間には、文系であれ理系であれ、反戦、反米の思いが強かった。そんな時流を知らぬげに米軍と屈託なくかかわったのだから、批判されても不思議はない。そこにあったのは、人道に反しないなら使えるものは使うという合理主義か。ただ一つ言えるのは、小柴さんは日本社会のものさしに収まらない人だったということだ。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年12月11日公開、同月14日最終更新、通算552回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

追放、パージというイヤな言葉

今週の書物/
「追放とレッド・パージ」
『日本の黒い霧(下)』(松本清張著、文春文庫、新装版2004年刊)所収

追い出す

日本学術会議の人事紛糾で思ったのは、こんな話が今でもあるのだなあ、ということだった。最高権力者がもし「総合的、俯瞰的」に任命の権限をふるいたいのなら、もう少し洗練されたやり方があったのではないか。そんな皮肉のひとことも言いたくなる。

一部の人々をあからさまに排除する。これで連想されるのは「追放」「パージ」という言葉だ。パージは“purge”で、ふつうに訳せばこちらも「追放」。第2次大戦後、占領下の日本ではまず公職追放があり、次いでレッド・パージがあった。前者は軍国主義に手を貸した人々の公的活動を封じるものであり、後者は左派活動家の解雇というかたちをとった。権力者が不都合な人々を追い出したという一点は、どちらも同じだ。

と、えらそうに書いてはみたが、私自身は占領が終わる前年の1951年に生まれたから、追放やパージのニュースをリアルタイムで聞いた記憶がない。幼いころ、大人たちが世間話で触れることはあったので、「それ、何?」と訊いたりもしたが、説明されてもピンとこなかった。長じて後、現代史の知識としては学んだが、それがどのように断行されたのか、その空気感は今に至るまでつかめないでいる。これは、マズイ。

ということで、ここでは松本清張の力を借りる。「追放とレッド・パージ」(『日本の黒い霧(下)』=松本清張著、文春文庫、新装版2004年刊=所収)。『日本の黒い霧』に収められたノンフィクション各編は1960年に『文藝春秋』誌に掲載された作品だ。

本題に入る前に、この一編の冒頭に添えられた写真(毎日新聞社提供)についてひとこと。東京都墨田区内の小学校で撮影されたもので、写真説明に「教員のレッド・パージ、別れを惜しむ生徒たち」とある。野球帽をかぶった男の子やおかっぱ頭の女の子たちが先生を囲み、最前列の女子は涙を拭っている。私たちのちょっと上の世代。だから、この校内風景には共有感がある。私自身もパージと地続きのところにいたのだ、とつくづく思う。

清張はこの一編で、主に公開済みの資料を重ねあわせ、追放やレッド・パージの背後に働いていた力学を浮かびあがらせていく。焦点があてられるのは、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の部内事情である。清張にとっては生涯の関心事だったと言ってよい。

まず、GHQについて予備知識を仕入れておこう。GHQは「連合国軍」の看板を掲げてはいるものの、事実上、米国が仕切っていた。内部には、軍国主義を排して戦後社会を民主化させようというベクトルと東西冷戦の入り口で共産主義の台頭を抑えようとするベクトルが併存していた。前者の旗振り役が民政局(GS)、後者を代表するのが参謀第二部(G2)。占領初期はGSの力が強かったが、しだいにG2が優位に立つようになった。

この一編は「日本の政治、経済界の『追放』は、アメリカが日本を降伏させた当時からの方針であった」という一文で書きだされる。1945年11月に米政府からGHQに届いた「指令」では「一九三七年(昭和十二年)以来、金融、商工業、農業部門で高い責任の地位に在った人々も、軍国的ナショナリズムや侵略主義の主唱者と見なしてよろしい」と、幅広の適用を促している。追放政策の推進にはGSが前向き、G2は批判的だったという。

足並みが揃わなかっただけではない。GHQ中枢は「誰を追放していいかよく分らなかった」。だから、日本政府に対して「各界の超国家主義指導者の名簿作成」を求めたという。日本側にも対象者は自分たちで決めたいとの思惑があって、3000人の名簿を手渡したりもしたらしい。ところが、GSを率いるコートニー・ホイットニー准将は、ドイツよりも2桁少ないことを理由に「それっぽっちか」と激怒したといわれている。

公職追放は、1946年1月のGHQ覚書に始まる。当初は官公職に限られていたが、この年11月には「公的活動」全般に広がった。著者は『朝日年鑑』(1949年版)を引いて、1948年5月1日時点の総数は19万3000人余にのぼったとしている。

ここで見逃せないのは、追放が当事者だけでなく、その周りにも及んだことである。一定の範囲の親族が「公職に就くこと」を禁じられた。著者が、こんなことは「極悪犯罪者にも適用されない」とあきれるように、凶悪犯の親族に対しても許されないはずだ。個人の自由を重んじ、基本的人権を尊重する国からやって来た人が、民主化の旗印の下で正当な理由なく職業選択の権利を侵害する――これは、大いなる矛盾であるとしか言いようがない。

追放は、このように網を広げたにもかかわらず抜け穴があった。それに手を貸したのがG2だった、と著者はみる。GHQが追放政策で最初に目をつけた標的は警察組織だったが、その結果、行き場を失った元特高警察官がG2系の仕事に就くこともあったというのだ。

この一編は、そのことを当時米国から日本に来ていたジャーナリストや学者の著作から裏づけていく。たとえば、東北地方で「日本人と米軍との連絡係」をしている「元の特高係長」を見かけた、という話。あるいは、地方駐在の米諜報部隊幹部が「最も『貴重』な部下」は「日本の秘密警察の元高級警察官」と打ち明けた話。これらの証言をもとに、著者は「特高組織がいつの間にかG2の下に付いて再組織された」と見てとるのだ。

日本社会の側にもGSとG2の確執を利用しようという動きがあった。追放された政治家には「G2に気に入られること」で権益を守ろうとする人がいたという。米ソ対立が強まったのを見て「G2の線」こそ「本筋」と嗅ぎ分ける嗅覚があったらしい。追放政策は「追放に値しない者が追放指定を受けて、生活権まで脅される」事態を招いたが、一方で「狡知にたけた大物を跳梁(ちょうりょう)させる結果になった」と、著者は断じている。

日本社会には、追放は「永久」に続くものとみる早とちりがあったらしい。それが、気に入らない人物をその境遇に陥れようとする「暗い闘争」も引き起こした、と著者は指摘する。だが現実には、当初の追放はすべて1952年の主権回復までに解除されたのである。

それと異なり長く禍根を残したのが、後発のレッド・パージだ。GHQ内部でGSに代わってG2の発言力が強まった後、民主化とは方向違いの政策の一つとして打ちだされた。いわゆる逆コースだ。企業が「占領軍の絶対命令」の下で、被雇用者のうち「指名リスト」に載った左派の活動家や労働組合員を解雇して職場から即時退去を求める、というものだった。新聞社や通信社、放送界では1950年、その嵐に見舞われている。

この「リスト」が曲者だった。著者によれば、その作成に使う資料の一つに日本政府の特別審査局(公安調査庁の前身)が用意した名簿があった。特審局は占領下に設けられ、「右の追放」を進める側にいたが、それが「左の追放」に寄与する役所に変身していたのだ。

レッド・パージの指名を受けると、その人は「有無を云わさず建物の外に追い出された」。裁判所や労働委員会の場で復職を求める動きも起こったが、その望みは絶たれることが多かったという。この人たちは、公職追放とは違って「永久」に追い出されたかたちだ。

では、どんな人が指名されたのか。著者が引用した読売新聞の「社長布告」を読むと、それがわかる。マッカーサーが1950年6~7月に発した指令や書簡は「日本の安全に対する公然たる破壊者である共産主義者」を「排除すること」が「自由にして民主主義的な新聞の義務」であると位置づけており、「わが社もこの際、共産主義者並びにこれに同調した分子を解雇する」というのである。思想信条だけで職を奪ったような印象を受ける。

パージされた人の総数は、著者がこの一編に引いた労働省労政局の集計によると約1万1000人。メディア関係だけでなく、電気、石炭、化学、金属など多くの産業に及ぶ。

この一編は、その人たちのその後の人生にも言及している。悲惨なのは、再就職先にパージの履歴が知られてそこでも解雇され、自殺に追い込まれた人が、一人ならずいたことだ。NHKの技術者がラジオの修理人になったような例もあるが、手に職がなければ「翻訳、雑文書き、行商、焼きイモ屋、佃煮屋、本屋などをはじめた」と、著者は書く。私の少年時代、町で屋台を引いていた焼きイモ屋さんも、もしかしたらその一人だったのか。

個人の思想が統治者の意に沿わなければ、弁明の機会を与えることもなく排除する。当時は、日本国憲法があっても体制がそれを超越していたので、こんな無茶が通ったのだろう。だが、今の日本社会は違う。それなのになぜ、パージの異臭が消えないのか。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年12月4日公開、同月28日最終更新、通算551回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

偶然のどこが凄いかがわかる本

今週の書物/
『この世界を知るための人類と科学の400万年史』
レナード・ムロディナウ著、水谷淳訳、河出文庫、2020年刊

多面ダイス

先週に引きつづいて、科学史の大著『この世界を知るための人類と科学の400万年史』(レナード・ムロディナウ著、水谷淳訳、河出文庫、2020年刊)をとりあげる。当欄恒例の本文冒頭のまくら代わりに、今回はこの本に出てくる印象深い余話を一つ。

著者にはテレビドラマの脚本家というもう一つの顔があることは前回、すでに書いた。著者が「新スタートレック」の企画会議に出たときのことだ。太陽風という物理現象にかかわる筋書きを提案した。「そのアイデアとそのおおもとにある科学を熱心に細かく説明した」のである。してやったり、という感じか。ところが、プロデューサーの反応は予想外だった。「不可解な表情で一瞬私をにらみつけ、大声で言った。『黙れ、くそインテリ野郎!』」

その場に居合わせた人で物理学の学究は、著者一人。一方、くだんのプロデューサーはニューヨーク市警の刑事出身という人物だった。このエピソードは、科学者の思考様式が俗世間でどう見られているのかを如実に物語っている。ひとことで言えば、面倒くさいヤツだと煙たがられているのだ。著者の本に好感がもてる理由は、著者自身が世間の空気にどっぷり浸かり、自らが煙たがられる立場に身を置いてきた科学者だからだろう。

著者は世俗の事情をよく知っている。だから、科学思考を世俗の関心事と照らしあわせることを忘れない。私がかつて書評した著者の本『たまたま――日常に潜む「偶然」を科学する』(田中三彦訳、ダイヤモンド社)も、そうだった(朝日新聞2009年11月8日朝刊)。そもそも、世情に通じているから「偶然」にこだわるのだろう。この『…400万年史』も、科学がそれぞれの時代、偶然をどう位置づけてきたかを跡づけている。

で、今回は、この本の近現代史部分に的を絞って偶然観の変転を切りだす。それは、劇的だった。脇役がいきなり主役に躍り出たのだ。そこで表題は、先週の「科学のどこが凄いかがわかる本」(当欄2020年11月20日付)の「科学」を「偶然」に置き換えてみた。

最初に登場願いたいのは、アイザック・ニュートンだ。1687年に刊行した著書『プリンキピア』で、この世の物体は三つの運動法則に従うこと、物体には遍く万有引力が働いていることを示した。そこから導かれたのが、方程式通りに変化する決定論の世界観である。

この本では、ニュートン没後の18世紀半ば、物理学者ルジェル・ボスコヴィッチが書き記した見解が引用されている。「力の法則がわかっていて、ある瞬間におけるすべての点の位置と速度と方向がわかれば、そこから必然的に起こるすべての現象を予測できる」。数学者で天文学者のピエール=シモン・ラプラス(1749~1827)が未来の完全予見はありうるとして思い描いた〈ラプラスの魔〉も、同様の見方に支えられていると言えよう。

この世界観を崩したのが、20世紀の量子論だ。本書を参照しながら、その流れをたどろう。まず19世紀末の1900年、マックス・プランクが、エネルギーは1個、2個……と数えられるとする量子仮説を提起した。これに従って、ニールス・ボーアは原子核周辺の電子の軌道半径を「量子化」して考えた。1913年のことだ。電子は「許されるある軌道から別の軌道へ跳び移る」のであり、このときに「エネルギーを『塊』として失う」とみたのだ。

ボーアの理論は、裏返せば「電子が原子核へ向かって連続的に落ちていってエネルギーを失うことは不可能」(太字に傍点、以下の引用でも)ということだ。これは、ニュートン物理学と相容れない。なによりも、惑星や衛星の運動とまったく違うではないか。たとえば、人工衛星が落下するときは緩やかに弧を描いて高度を落としてくる。ところが、電子はぴょんと跳ぶというのだ。軌道から軌道へ移る間、それはいったいどこに存在するのか?

この問題を驚くべき発想で解決したのが、ヴェルナー・ハイゼンベルクだ。前提として受け入れたのは、電子の居場所はニュートン物理が対象とする天体や振り子のようには観測できない、ということだ。「位置や速さ、経路や軌道という古典的な概念が原子のレベルでは観測不可能だとしたら、それらの概念に基づいて原子などの系の科学を構築しようとするのはやめるべきかもしれない」――こうして1925年、量子力学を築いたのである。

その量子力学では、電子がエネルギーを失うときに放たれる光の色(振動数)や強さ(振幅)といった観測可能量だけをもとに数の行列(マトリクス)を組み立てる。理論から「イメージできる電子軌道」を外して「純粋に数学的な存在」に仕立て直したのだ。

余談になるが、ここらあたりは、学生たちが授業で量子力学を教わるときに最初につまずくところだ。物理学を学んでいるはずなのに数学の勉強を強いられる。数学が苦手な若者は、ここで物理世界に分け入る道を遮断されてしまう。私もその一人だった。ただ、この場を借りて私見を述べさせてもらえば、そこで諦めてしまうのは残念なことだ。数式をきちんと読めなくとも量子世界の空気は感じとれる。それは、世界観を豊かにしてくれる。

数学ずくめに不満な学生にとっては、助け舟もある。それを用意してくれたのが、量子力学のもう一人の建設者とされるエルヴィン・シュレーディンガーだ。彼は、ハイゼンベルクが行列で表した力学を、別のかたちで表現した。波動方程式である。波のイメージは、ニュートン物理の世界像にまだ囚われていた学界に受け入れられやすかったことが、この本からもわかる。学者でなければなおさらだ。私も波のイメージにだいぶ助けられた。

ハイゼンベルクも黙ってはいなかった。1927年、「古典的なイメージ」に追撃を加える。「不確定性原理」と呼ばれるものだ。それによれば「物体は位置や速度といった正確な性質は持っておらず」、位置と速度は「一方を精確に測定すればするほどもう一方の測定精度は落ちてしまう」関係にあるという。これは技術の限界ではなく、物理そのものの制約だ。「ニュートンのように運動をイメージするのは無駄」とダメを押したのである。

量子力学が教えてくれるのは、「これらのうちのどれかが起こる」ということだ。そこには「確率しか存在しない」と言ってもいい。「この宇宙は巨大なビンゴゲームのようなもの」――そんな世界像を量子論は示した、と著者は言う。ラプラスの魔はいなかったのだ。フィリップ・K・ディックのSF作品『偶然世界』(小尾芙佐訳、ハヤカワ文庫SF)が思いだされる(「本読み by chance」2020年3月20日付「ディックSFを読んでのカジノ考」)。

近代人は長くニュートン流の決定論を信じてきた。いや、今でもふつうには信じている。この本にも言及があるように、地震は予知できるという見方があるのも、社会科学者が未来予測に憧れるのも、この通念に根ざしている。ところが20世紀物理学は、決定論の方程式は限られた範囲だけで通用するものであり、世界の根底には偶然をはらんだ方程式があるらしいという見方にたどり着いたのだ。「偶然」の勝利である。

で、ここで著者は、またまた父を登場させる。ナチスがユダヤ人を整列させていたときのことだ。父はたまたま、列の後尾に並んでいた。親衛隊士官は、必要なのはユダヤ人3000人だとして、父を含む4人だけを切り離して連れ去った。3000人は墓掘りを強いられたうえ銃殺されたという。それは「父にとっては理解しがたい偶然だった」。この体験のせいか、父は後年、著者が語る量子論の不確定性を「容易に受け入れてくれた」そうだ。

最後に付け足しになってしまうが、著者が立派なのは、自らの専門分野を離れて生物学系の科学史にも踏み込んでいることだ。ここでは、著者がページを割いて詳述しているのが19世紀半ばに登場したチャールズ・ダーウィンの進化論であることに注目したい。

ダーウィンによれば、生物は「ランダムな変異と自然選択」によって進化する。考えてみれば、そこにある自然観も量子力学同様、アリストテレスの目的論やニュートンの決定論になじまない。偶然は凄いのだ。この本を読み切って、その思いを改めて強くする。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年11月27日公開、通算550回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。