北行きの飛行機で「北帰行」を読む

今週の書物/
『北帰行』
外岡秀俊著、河出文庫、2022年9月刊

北へ

機体がふわりと浮かびあがり、秋空のど真ん中へ飛び込んでいく。某日午前、東京羽田発札幌千歳行きの航空便が離陸すると、私はポケットから文庫本をとりだした。『北帰行』(外岡秀俊著、河出文庫、2022年刊)である。今回、旅の道づれはこの本と決めていた。

外岡秀俊(1953~2021)は、勤め先の朝日新聞社で私と同期だった。卓抜な記者だっただけではない。言動に品位が漂い、社内外の敬愛を集めていた。だから、一線記者の立場から中間管理職を飛び越えて編集局長の任に就いた。その後、早期退職して故郷札幌に戻り、母親の介護を引き受ける。そんな見事な半生が去年暮れ、突然途絶した。心不全だった。私が北に旅するとき、この本を手にした心情もわかっていただけるだろう。(文中敬称略)

当欄は今年、外岡のことを繰り返し書いてきた。2月と3月には『3・11 複合被災』(外岡秀俊著、岩波新書)を2回に分けてとりあげた(12)。4月と5月には『世界 名画の旅4 ヨーロッパ中・南部編』(朝日新聞日曜版「世界 名画の旅」取材班、朝日文庫)に収められた著者の記事を紹介した(34)。今回、もう一度話題にしたら過剰感は否めない。だが、どうしてもそうしたい。それは、こういうことだ――。

『3・11…』『世界 名画の旅…』で私が注目したのは、外岡の新聞記者としての一面だった。前者は東日本大震災被災地からの報告、後者は欧州の絵画紀行。どちらにも、同業の身として心に響く話が盛り込まれていた。もちろん、彼は私にとってまぶしい記者だが、それでも共有するものはある。ひとことで言えば、同じ時代を取材者の立場で駆け抜けてきたという思いである。私は今年、当欄で4回を費やしてその共感に浸ったのである。

だが、それだけでは外岡の一面しか見ていない。彼は1977年に新聞記者になる以前から、すでに作家だった。前年、今回とりあげる長編小説『北帰行』で文藝賞を受けていたのだ(「文藝」1976年12月号に発表)。ただその後、記者の仕事に忙殺され、創作活動をほとんど休止している。人間外岡秀俊の内部では記者としてのエンジンが全開したが、この間、作家としての衝動はどこでどうなっていたのか。旧友としてはそれが知りたい。

ということで、今回は『北帰行』を熟読する。この小説は、北海道の炭鉱町U市から集団就職で東京に出た「私」が、流血沙汰を起こして町工場をやめさせられ、職を転々としたあげく帰郷を決心、歌人石川啄木の足跡に思いを馳せながら北へ北へと向かう物語だ。そこに、「私」の内面を去来する自身の回想や啄木の史実が織り込まれている。当欄は、例によって筋はたどらない。「私」の視点がどこにあったかに注目しようと思う。

まずは、時代背景を押さえておこう。今昔の隔絶を印象づけるものの一つは馬橇(ばそり)だ。「私」が小学生のころは馬が雪道で橇を引く様子が校舎の窓からも見えた。手綱を引き、馬を叱咤する馭者の源さん、その源さんを「私」と親友の卓也に引きあわせてくれた図工教師びっくりさん、そして源さんの小屋で見せてもらった仔馬。卓也と「私」は、その仔馬をジルゴという愛称で呼んだ。ジルゴをめぐる「私」の思い出は作品の随所で蘇る。

もう一つ、時代を特徴づけるのはテレビだ。「日一日と、屋根に林立するアンテナの数が増えていく」変化を「私」は10歳のころに現認した。「何か得体の知れないものがひたひたとU市に打ち寄せてくる」ように感じたという。人々の暮らしに家電製品やクルマが入り込み、町では道路工事やビル建設が進んだ。「私」の町では、そんな高度経済成長の起点が馬橇の行き交う光景だったのだ。飛躍の幅は大都会よりもはるかに大きかった。

ただ、炭鉱町の人々は高度成長の恩恵を受けたとは言い難い。いやむしろ、その犠牲者だったとも言えるだろう。石炭業界は1950年代後半から石油に市場を奪われ、廃山や閉山、規模縮小を余儀なくされていた。U市の炭鉱も、政府から「合理化」をせっつかれていた。この作品では、「私」が通う中学校に由紀という少女が東京から転校してくるのだが、彼女の父親も会社から「合理化」狙いで送り込まれた鉱山技師らしかった。

この作品で、私がもっとも心を動かされたのは、炭鉱事故に震撼するU市を描いたくだりだ。「けたたましいサイレンの唸りが鳴り響いたのは、寒空に初雪が舞う冬の昼下がりのことだった」。このとき、「私」は中学校で数学の授業中。教師が幾何図形を板書する手をとめた。チョークが「ぼきんと折れて粉を散らした」。炭鉱町で、「コヨーテの遠吠え」のようなサイレンは不吉な報せだ。その音を聞いて、校内がざわめきはじめる。

まもなく、校内放送が流れる。三番坑で落盤があったという。「皆のお父さんがいるかもしれん。兄さんが居るかもしれん」……。「私」も、父親は炭鉱で働いている。学校を出て、坑口へ直行した。そこはもう人々が大勢群がり、殺気立っている。救急車が次々に駆けつける。毛布や握り飯も運び込まれる。坑内には二十数人が取り残されているらしい。「お父ちゃんが中に入ってんだよ」。そんな悲鳴が聞こえる。「私」の父は坑口のそばにいた。

坑口を封じなければ大爆発が起こる、というのが会社の判断だった。これに対して、封鎖すれば坑内の家族や仲間が「生殺し」にされる、というのが群衆の声だ。両者の間で、「私」の父は保安長という微妙な立場にあった。「坑夫」でありながら、会社側に立たされる役回り。父は「裏切り者」と指弾されると、自身を含む有志11人で救助隊をつくり、坑内へ突入する。結果として、そのことで事故の犠牲者が11人追加されることになった。

一方に資本家や経営者がいる。他方に労働者たちがいる。その狭間で、中間管理層が板挟みになっている。考えてみれば1960~70年代は、こういう構図で社会を読み解くことができる時代だった。著者は郷里北海道の炭鉱町に、その雛形を見いだしたのだろう。

2020年代の今は、これほどには単純でない。社会問題を階級の構図だけでとらえきれなくなった。貧しさは労働者階級にとどまらず、社会の隅々に浸潤している。経済だけで論じ切れない難題も顕在化した。その一つに、誰から先に助けるかというトリアージの問題がある。ある人を救うのに別の人を見捨ててもよいか、というトロッコ問題もある。そんな究極の選択が現代社会では避けられないとの認識を、著者は1970年代に先取りしていた。

その意味で、この作品は著者が新聞記者となることの予兆だった。今、記者外岡秀俊が遺した仕事を顧みるとき、阪神大震災(1995年)と東日本大震災(2011年)の取材は欠かせない。両震災で浮かびあがった今日的な難題に、こうした究極の選択があった。

記者活動の予兆といえば、このくだりで著者が報道のあり方に目を向けていることも見逃せない。報道陣は、「坑夫」の家族や仲間が待機する小学校に押し寄せてきた。「フラッシュを焚いたりテレビ・カメラを回したりするのを、私は苛立ちながら見詰めていた」。このとき、もっとも罪深いのは「不躾な質問」ではなかった。それよりも「同情の大袈裟な身振りをそのままなぞるような言葉」が「深く人々の腹に食い込んだ」と書いている。

著者や私が新聞記者になったころは、報道機関に対する風当たりが今ほどには強くなかった。事件事故の関係者を追いかけて取り囲む、という報道攻勢は今ではメディアスクラムと呼ばれて批判の的だが、当時はふつうにあった。自省を込めていえば私も、そしておそらくは著者も、若手のころは一線の記者としてその片棒を担いだのだ。著者は、やがては自身が背負わされるかもしれないそんな負の重荷を予感していたのだろうか。

本稿前段で書いたように私は、新聞記者外岡が30年余の記者生活を通じて作家外岡をどのように抱え込んでいたかを知りたかった。だが、炭鉱事故のくだりを読んでいると、彼の内面では作家としての視点が記者としての視点と重なりあい、新聞記事に影響を与えていたように思えてきた。人間に関心を寄せる文学者としての側面が、社会に目を凝らす報道人としての側面と共鳴している。その徴候が『北帰行』にすでに見てとれるのだ。

当欄はもう1回この作品をとりあげ、文学と報道とのかかわりを見ていこうと思う。

*1 当欄2022年2月4日付「外岡秀俊の物静かなメディア批判
*2 当欄2022年3月4日付「外岡秀俊、その自転車の視点
*3 当欄2022年4月29日付「ウィーン、光と翳りとアドルフと
*4 当欄2022年5月6日付「ウィーンでミューズは恋をした
(執筆撮影・尾関章)
=2022年10月28日公開、通算650回
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「女」「男」という言葉

今週の書物/
『女のいない男たち』
村上春樹著、文春文庫、2016年刊

性別記号

テレビのニュースを見ていて最近気になるのは、「女」「男」に非難がましい語感が伴うようになったことだ。これらの言葉が「容疑者の女」「容疑者の男」として登場する。それが凶悪犯ならば違和感はない。だが、過失犯や形式犯についても「女を取り調べた」「男を逮捕した」と報じるのはどうだろうか。こうした立場に身を置くことは私たちのだれにもありうることだ。その轍を踏んだ瞬間、私たちも「女」や「男」になってしまう。

私が現役の新聞記者だったころは、こういう表現はなかった。記事で見かけるのは「容疑者の女性」「容疑者の男性」であり、「女性を取り調べた」「男性を逮捕した」だった。なぜ「女性」→「女」、「男性」→「男」の変化が起こったのか。私が察するに、背景には厳罰主義の風潮がある。「女性」「男性」は「女」「男」よりも丁寧で、敬意を払っているように感じられる。容疑者にはふさわしくない、とメディアが考えるようになったのだろう。

もともと、「女」「男」という言葉は公的な文書からは遠ざけられていた。おそらく、「女」「男」は「おんな」「おとこ」という大和言葉の響きが肉感的なせいで不適とされたのである。だから「女性」「男性」が重宝されてきたわけだが、こちらも最適とは言えない。「性」の一文字が付きまとっているため、不穏な気配を拭えないのだ。そこで近年よく見かけるようになったのが「女子」「男子」だ。「女子会」しかり、「男子スイーツ部」しかり。

いずれにしても性別の表現は問題含みではある。たとえば、かつてテレビドラマの題名に「女検事」「女監察医」があったが、「男検事」「男監察医」と銘打った作品は聞いたことがない。背景には、検事や監察医は男性の仕事という役割固定の通念があった。今は「看護婦」が「看護師」となり、「主婦」や「消防夫」がほとんど死語と化したように、「女」「男」「婦」「夫」などの性別漢字は職業名や役割名から追放される傾向にある。

ただ、「女」「男」が容疑者専用になりかねない傾向は私たちの言語世界をやせ細らせていないか。人生には、この2語を抜きにして語れない側面がある。むかし「男と女」(クロード・ルルーシュ監督)というフランス映画があった。ノルマンディー地方の曇り空が印象に残る。小説の世界でも『地方紙を買う女』(松本清張)、『宙ぶらりんの男』(ソール・ベロー)、『砂の女』『箱男』(安部公房)……数限りない「女」や「男」が登場する。

で、今週の1冊は短編小説集『女のいない男たち』(村上春樹著、文春文庫、2016年刊)。2013~2014年、「文藝春秋」「MONKEY」両誌に発表された作品群に書き下ろしの表題作を加えた全6編から成る。単行本は2014年に文藝春秋社刊。所収の「ドライブ・マイ・カー」は2021年に濱口竜介監督のメガホンで映画化され、今年のアカデミー賞で国際長編映画賞を受けた。作品賞にも日本映画として初めてノミネートされている。

「ドライブ・マイ・カー」の主人公は、妻をがんで失った「性格俳優」。妻は「正統的な美人女優」だった。夫は結婚してからは一度も不倫をしたことがなかったが、妻は「時折、彼以外の男と寝ていた」。相手は、少なくとも4人。夫は、うち一人と友だちづきあいを始める。自分は二人の関係を知っているが、自分が知っていることを男は知らない。妻がなぜ「その男と寝ることになったのか」、それを突きとめたくてあえて近づいたのだ。

この小説のなかで、その打ち明け話は俳優が雇い人の運転手に語るかたちをとっている。運転手は20代半ばの女性で、口ぶりは「ぶっきらぼう」だがシフト操作は「滑らか」。彼女は俳優に、それで妻の不倫の理由がわかったのか、と尋ねる。俳優は首を横に振る。男にあって自分にないものはいくつか見つかった。だが、そのどれが妻の心を惹きつけたかは不明だ。「男と女が関わり合うというのは、なんていうか、もっと全体的な問題なんだ」

「独立器官」という一編は、いわゆるプレーボーイを描いた作品。主人公は美容外科医52歳である。自分は結婚には不向きと信じて独身を貫いている。交際相手は夫や恋人のいる女性ばかりで、「ナンバー2の恋人」「雨天用ボーイフレンド」に徹してきた。その生き方は「内的な屈折や屈託」がほとんどない分、「技巧的」。同時並行で2~3人の女性とつきあうのはふつうのことで、逢瀬の日程は秘書の青年が「空港の管制官」のようにやりくりした。

この一編の読みどころは、そのプレーボーイがあるとき、一人の女性に心を奪われてしまうことだ。小説では「恋」の顛末をくだんの秘書が見ていて、一部始終を「僕」に事後報告してくれる。当欄はこれ以上書かないが、おおよそ察しはつくだろう。

「シェラザード」は、半ば非現実の世界を描いた村上ワールドの作品だ。主人公の男31歳の相手となる女35歳は「一度性交するたびに」「ひとつ興味深い、不思議な話を聞かせてくれた」。それで男は女を『千夜一夜物語』の王妃になぞらえ、内心でこう呼んでいる。

非現実と言いたくなる世界は、こんなふうだ――。男は「ハウス」に缶詰めになっている。コロナ禍の今なら宿泊療養の感染者かもしれないが、2014年の作品にそれはありえない。官憲による身柄拘束とも考えにくい。なにがしかの組織が男の自由を束縛しているらしい。そこに買い物袋ひとかかえをもって定期的にやってくるのが、シェラザードである。車で約20分の距離に住む「専業主婦」で、性行為も「職務」の1項目に入っているらしい。

シェラザードが語る話は「私の前世はやつめうなぎだったの」というように荒唐無稽だ。「口が吸盤みたい」で「河や湖の底の石にくっついて、逆さになってゆらゆらと揺れているの」。ただ、そんな妄想ばかりではなかった。あるとき、高校時代に「空き巣」を繰り返していたことを打ち明ける……。彼女の性行為に占める「職務」と「個人的な領域」の配分はわからない。ただ、物語が切実になるにつれてその比率が変わっていくようではある。

「イエスタデイ」という作品は、若い男女の物語。「僕」は兵庫県芦屋出身の20歳で、東京の大学に通っている。「僕」の友人は同い年の浪人生。こちらは生まれも育ちも東京・田園調布だが、しゃべりはすべて関西弁。「後天的に学んだんや」「動詞やら、名詞やら、アクセントやらを覚えてな」。ビートルズの「イエスタデイ」も関西弁の詞をつけて歌う。「僕」は「ほぼ完璧な標準語(東京の言葉)」を話すので、そのやりとりがおかしい。

友人には、子どものころからの女友だちがいた。「手は握り合う。軽いキスはする。でもそれ以上には進まない」という関係にある。理由は、二人の現況の違いだ。友人は2浪の身だが、彼女は大学2年生。「それでおれは、言うなれば自己を二つに切り裂かれたわけや」。一方には、自分はおいてけぼりにされたという焦燥感。もう一方には、二人が「仲良しのカップル」として「お気楽」に生きるコースをとらないで済んだという解放感。

友人は「僕」に耳を疑う話をもちかける。「おれの彼女とつきおうてみる気はないか?」。彼女は「ええ子」、「美人」で「素直」で「頭もけっこうええ」と売り込む。倒錯した提案だ。ここからが小説の読みどころなので、筋は明かさない。ただ、ひとつだけ開示すると、後段で16年後の話が出てくる。それを読むと、男にとっては女が、女にとっては男が、人生を切り裂いてそのうちの一つに進ませる存在なのだな、とつくづく思う。

「木野」と題する作品は、「木野」というバーを営む木野という男の話。木野はスポーツ用品会社の営業マンだったが、あるとき会社を辞めて店を開いた。出張から予定よりも早く帰った日、会社の同僚と自分の妻との情事を目撃したのが脱サラの転機となった。店でのあれこれはしだいに現実感が薄らいで、幻想の気配が漂う。読み進むにつれて、バー「木野」そのものが女に裏切られた男の想念に過ぎないのではないか、とも思われてくる。

短編集の最後に収められた作品は表題作。作品冒頭は「僕」にかかってきた深夜1時すぎの電話だ。「妻は先週の水曜日に自殺をしました」。受話器の向こうで、そう告げたのは彼女の夫。電報文のような「純粋な告知」「修飾のない事実」だった。その妻――作中では「エム」と仮称される――と「僕」は「ずいぶん昔」に「つきあっていた」。夫は「僕」の電話番号をどこかから入手したらしいが、なぜ、そんな連絡をしてきたのかは見当がつかない。

「僕」はエムを回想する。ただ、彼女とどう出会ってどんなことをしたかは「面倒なことがある」ので語れない、という。代わりに空想されるのは中学校の教室だ。生物の時間、アンモナイトやシーラカンスの話を並んで聞いたという虚構の思い出とともに……。エムは本来、14歳の時点で「恋に落ちるべき女性」だったのだ、と「僕」は思う(太字部分に傍点)。エムの死によって「十四歳のときの僕自身」も失われていくようだ。

この短編集で「女」は、先立った人、去った人、裏切った人として登場する。「女」たちは先立った後も、去った後も、裏切った後も「男」たちの内側に存在する。ここでも対称性は成り立つのか。「男のいない女たち」という作品群も、ちょっと読んでみたい気がする。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年10月21日公開、通算649回
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ハイゼンベルク、その核の謎

今週の書物/
「ハイゼンベルクの核開発」
政池明著
「窮理」第22号(窮理舎、2022年10月1日刊)所収

重水 D₂O

いま思うと貴重なインタビューだった。取材に応じてくれた人は、渡辺慧さん。戦前に欧州へ留学、戦後は米国ハワイ大学教授などを務めた国際派の理論物理学者だ。1993年に83歳で死去した。私は渡辺さんが77歳のとき、都内の自宅を訪ね、科学者と軍事研究のかかわりについて話を聞いた。記事は、朝日新聞科学面の連載「『ハイテクと平和』を語る」に収められている。この回の見出しは「核の原点」だった(1988年1月22日付夕刊)。

渡辺さんがすごいのは1930年代後半、第2次世界大戦直前のドイツ・ライプチヒ大学で理論物理学者ウェルナー・ハイゼンベルクの教えを受けたことだ。ハイゼンベルクは1920年代半ば、現代物理学の主柱である量子力学を建設した一人である。1930年代はその量子力学を使って、物理学者たちが原子核という未知の世界をのぞき見た時期に当たる。この探究は軍事研究の関心事ともなった。渡辺さんはまさに「核の原点」にいたのである。

その記事は、1939年の思い出から始まる。この年は、9月に第2次大戦の開戦を告げるドイツのポーランド侵攻があった。渡辺さんは日本への帰国の手続きでライプチヒからベルリンへ列車に乗ったとき、車内で偶然にもハイゼンベルクに出会った。恩師は苦悩の表情を浮かべながら、「国防省に呼ばれて行くところだ」と打ち明けたという。「はっきり言わなかったが、たぶん、原爆研究を求められていたんだと思います」

今日の史料研究によれば、大戦中はドイツも原子核エネルギーの軍事利用をめざしており、ハイゼンベルクも原子炉づくりの研究にかかわった、とされる。問題は、その本気度と進捗度だ。恩師の本心は「本気でやるのは、ゴメン」だった、と渡辺さんはみる。

渡辺さんによれば、ハイゼンベルクはナチスを嫌っていた。「『ハイル ヒトラー』と言う時でも、そのしぐさで、いやいやながら、というのがわかった」「ナチスの嫌うアインシュタインの相対論も平気で講義していた」と証言する。原子核エネルギーを兵器に用いることに対しても、「そんなことをしたら、世界は大変なことになる」と危機感を口にしていたという。「だから、原爆づくりそのものは“さぼり”、抵抗していたんだと思います」

このインタビューは全体としてみれば、「科学者が政治権力に利用された時、すでに科学者ではなく、政府の雇われ人になってしまう」という渡辺さんの警告をまとめた記事である。と同時に、冒頭部で素描されたハイゼンベルクの人物像も読みどころだ。核兵器開発を「“さぼり”、抵抗していた」という渡辺さんの見方には恩師に対する贔屓目があるだろうが、それを差し引いてもハイゼンベルクの心中に葛藤があったことはうかがえる。

で、今週の書物は「ハイゼンベルクの核開発」(政池明著、「窮理」第22号=窮理舎、2022年10月1日刊=所収)という論考。著者は1934年生まれ、京都大学教授などを務めた素粒子物理学者。一方で、第2次大戦中の核兵器開発と科学者とのかかわりに関心を寄せてきた。著書『荒勝文策と原子核物理学の黎明』(京都大学学術出版会、2018年刊)では、京都帝国大学の物理学究たちが核兵器研究にどこまで関与したかに迫っている()。

本題に入る前に掲載誌「窮理」についても紹介しておこう。巻末「本誌『窮理』について」欄には「物理系の科学者が中心になって書いた随筆や評論、歴史譚などを集めた、読み物を主とした雑誌」とある。「科学の視点」は忘れないが、幅広く「社会や文明、自然、芸術、人生、思想、哲学など」を語りあう場にしたいとの決意も表明している。伊崎修通さんという出版界出身の編集長が雑誌づくりの一切を切り盛りする意欲的な小雑誌である。

今回の政池論考は、大戦の敗戦国ドイツの核開発に焦点を当てたものだ。著者は数多くの書物――専門文献から一般向けの本まで――を読み込み、それらを参照しながらドイツの科学者がナチス体制下で何をどこまで仕上げていたかを具体的に描きだしている。

この論考でまず押さえるべきは、ドイツの核開発が世界の主流とは違ったことだ。

核開発の基本を復習しておこう。原子核のエネルギーを取りだす方法として、科学者が狙いを定めたのが核分裂の連鎖反応だった。ウラン235の原子核に中性子を当てて核を分裂させ、このときに飛び出る中性子で核分裂を次々に起こさせる、というようなことだ。ただ、ウラン235の核分裂は核にぶつかる中性子が高速だと起こりにくいので、原子炉では中性子を低速にする。水を冷却材にする炉では、その水が中性子の減速材にもなる。

ところがドイツの科学者は、減速材にふつうの水(軽水)ではなく、重水を使うことを考えた。重水(D₂O)とは、水をかたちづくる水素原子核の陽子に余計な中性子がくっついているものをいう。重水は軽水よりも優れた点がある。炉内を飛び交う中性子を吸収する割合が小さいので、核燃料の利用効率を高めることができる。その結果、軽水炉では欠かせないウラン235の濃縮が不要になる。天然ウランをそのまま燃料にできるのだ。

ということで当時のドイツでは、天然ウランをそのまま核燃料にする、ただし減速材には重水を用いる、という方針が貫かれた。著者によれば、ハイゼンベルクたちはこの方針に沿って核分裂の実験を重ね、「ドイツ西南部のシュワルツワルト地方にある美しい小さな町ハイガーロッホの教会の地下洞窟に重水炉を建設した」。炉は1945年2月にほぼできあがったが、核分裂の連鎖反応、すなわち「臨界」は実現できなかったという。

この論考で私の心をとらえたのは、ハイガーロッホ炉がなぜ「臨界」に到達しなかったかを考察したくだりだ。著者は、この謎にかかわる数値計算を高エネルギー加速器研究機構の岩瀬広さんに試みてもらい、その考察を2014年、「日本物理学会誌」に連名で公表した。

ハイガーロッホ炉の炉心部は、公開済みの史料によると直径と高さがともに「124cm」の円筒形だった。著者と岩瀬さんの研究では、それぞれの寸法を「132cm」にして「重水の量をほんの少し増やせば、ウランの量は増やさなくても臨界に達する」という結果になった。わずか8cmの不足。臨界まであと一歩だったのだ。「何故ハイゼンベルクはこのような中途半端な原子炉を作ったのであろうか」。著者のこの疑問はうなずける。

著者はまず、重水不足に目を向ける。ドイツはノルウェーで生産される重水を当てにしていたが、工場を連合国軍に壊された。重水を十分に調達できなくなったのは確かだが、それで「臨界にわずかに達しない原子炉」をつくることになったとは考えにくい。

もう一つ、吟味されるのは、ハイゼンベルクが「大惨事」を恐れて「意図的に臨界を避けた」という筋書きだ。ハイガーロッホ炉は核反応の暴走を食いとめる制御棒さえ具えていなかったというから、その可能性はある。ただ著者によると、この炉が臨界に達すると「自動的に定常状態になる」という楽観的な見通しもハイゼンベルクにはあったらしい。いずれにしても、「意図的に臨界を避けた」説を証拠づけるものは現時点で見当たらないという。

ここで私は、前述のインタビュー記事を思いだしてしまう。渡辺さんが語っていたようにハイゼンベルクは「本気でやるのは、ゴメン」という思いから、核開発を「“さぼり”、抵抗していた」のではないか。8cmの節約は、その抵抗の表れではなかったか?

これは、あくまで私の希望的解釈だ。この論考によれば、ハイゼンベルクは開戦前、友人から亡命を勧められて「祖国は自分を必要としている」と答えたという。祖国で「原子兵器」の「開発」を「指導」している事実を恩師ニールス・ボーア(デンマーク)に明かしていた、というボーアの証言もある。一方で、原爆製造は「莫大な費用がかかる」から「直ぐに」は難しい、と政府に進言していたとする文献もある。その胸中はわからない。

一つ言えるのは、ハイガーロッホ炉が臨界を達成しても、原爆はなお遠い先にあったことだ。著者によると、炉内では低速中性子で核分裂を連鎖させるので「連鎖反応に要する時間が長くなってしまい、核爆発には至らない」。このことは「ハイゼンベルクらも知っていたはず」なのだ。米国の広島型原爆は、ウラン235を高濃縮することで高速中性子でも連鎖反応を起こすようにしたわけだが、ドイツにウラン濃縮の計画はなかった。

広島への原爆投下後、連合国の核開発の実態がわかったとき、ハイゼンベルクらドイツの科学者は「爆弾の製造」には関心がなかったと言い張り、「取り組んでいたのは、原子炉からエネルギーを生みだすこと」と強調した、という。現実に炉の研究にとどまったのだから、この強弁は結果として成り立たないわけではない。だが、それは国策として秘密裏に進められたものであり、「原子兵器」の「開発」という方向性を帯びていたことは否めない。

私たちは今、「原子炉からエネルギーを生みだすこと」にも警戒感を抱いている。ハイガーロッホ炉があと8cm大きければ、暴走して〈黒い森〉(シュワルツワルト)の人々に災厄をもたらしたかもしれない。教会地下の炉は、まさに核の時代の原点にあったのだ。
*当欄2021年8月6日付「あの夏、科学者は広島に急いだ
(執筆撮影・尾関章)
=2022年10月14日公開、通算648回
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量子もつれをふつうの言葉で語る

今週の書物/
ノーベル物理学賞(2022年)プレスリリース
スウェーデン王立科学アカデミー、2022年10月4日発表

粒子のもつれ

盆と正月がいっぺんに来たとは、こういうことを言うのか。10月4日午後7時前、ノーベル物理学賞の発表をストックホルムからのインターネット中継で見ていたときのことだ。

発表前、そわそわする気持ちを静めるように私はつぶやいた。「とってほしいのはアラン・アスペ、アントン・ツァイリンガー……」。数分後、スウェーデン王立科学アカデミーの事務総長らが着席、おもむろに読みあげた発表文に彼らの名前があった。私にとって意中の人二人の受賞がいっぺんに決まったのである――。

発表によると、今年の物理学賞はアラン・アスペ(フランス)、ジョン・F・クラウザー(米国)、アントン・ツァイリンガー(オーストリア)の3氏に贈られる。授賞理由には「量子もつれの関係にある光子の実験で、ベルの不等式の破れを確かめ、量子情報科学を切りひらいた」とある。(以下、敬称略)

ここに出てくる「量子もつれ」「ベルの不等式」については後述する。「量子情報科学」は20世紀末に台頭した物理学の新分野。そこで実証された量子力学核心部の不可解さは、量子コンピューターや量子暗号など最近よく耳にする技術の土台になっている。

私は1990年代半ば、ロンドンの駐在記者だったとき、量子情報科学の潮流に気づいた。1995年の春夏、欧州各地の大学や研究所で取材して、東京帰任後の10~12月に朝日新聞科学面(夕刊)の連載「量子の時代」で報告した。紙面にすべてを書ききれなかったので、後日『量子論の宿題は解けるか――31人の研究者に聞く最前線報告』(講談社ブルーバックス、1997年刊)も上梓した。31人のうちの二人がアスペとツァイリンガーである。

ご両人の思い出は尽きない。アスペは、古い実験機材が眠る物置まで見せてくれた。ツァイリンガーは、量子力学研究の大御所に引きあわせてくれた……。ただ当欄は今回、そういう話はしない。今週は、ノーベル物理学賞のプレスリリース(スウェーデン王立科学アカデミー作成)に的を絞り、その英語版をノーベル賞の公式サイト(*)からとりだして「書物」として読もうと思う。Pdf化されたものを印字するとA4判1枚。とても短い。

短いことには理由がある。細部に立ち入らず、要点のみを書いているからこうなるのだ。

今回の受賞研究は、いずれも光子、即ち光の粒を扱っている。実験で観測するのは、光子の偏光という性質だ。サングラスを選ぶときに話題にのぼる、あの偏光だ。このため、受賞研究の全貌を理解するには、偏光とは何か、それが偏光フィルターを通るとどうなるかを予備知識として学んでおくことが必要になる。逆を言えば、話が具体論に入ると、そこに躓きの石がたくさん待ち受けているのだ。科学を語るときには、こういうことがままある。

科学は、ひと握りの科学者だけのものではない。それがもたらす新しい世界像は私たちも均しく分かちあうべきだ。細部は捨てても、要点だけは押さえておきたい。今回の受賞研究に即して言えば、「偏光」がわからなくとも「量子もつれ」が何かは知っておきたい。

で、プレスリリースは「量子もつれ」をこう説明する。「量子もつれの関係にある粒子対は、それらが遠く離れていても、一方の粒子に起こることがもう一方の粒子に起こることを決定する」。別の箇所には、量子もつれの状態では「二つの粒子が分離していても単一のもの(a single unit)のように振る舞う」とする記述もある。こんな話を聞けば、物理学では大変なことが起こっているのだな、と思う人がふえるに違いない。

それがどれほど大変かは、プレスリリースを離れて私自身が補足説明しよう。旧来の物理学では、A地点の出来事がB地点の出来事に影響を及ぼすとき、A地点の情報がB地点に届く必要があった。このとき、伝達速度が光速を超えることはない。ところが量子力学によれば、A地点の粒子aとB地点の粒子bが量子もつれの関係にあるとき、a、bの観測結果が〈いっせいのせい〉で一気に決まる。これは、世界観がひっくり返る話ではないか。

授賞理由には、もう一つ「ベルの不等式」という専門用語があった。これは、ジョン・スチュアート・ベルという北アイルランド生まれの理論物理学者が1960年代に考えだした不等式だ。これを解説したくだりを要約すると、こうなる――。

量子もつれの粒子対にみられる「相関」(correlation)は、それらが身につけた「隠れた変数」に起因するのではないか、という懐疑が長くくすぶっていた。隠れた変数は、粒子の観測結果がどうなるかをあらかじめ指示するなにものかだ。ベルの不等式は、粒子同士の相関が隠れた変数によるものなら、実験で示される相関度には上限値があることを示した。一方、量子力学はこの上限値を超えるような強い相関の存在を予言していた。

隠れた変数説は、〈いっせいのせい〉には台本があるという見方。この立場をとれば、量子力学が言う量子もつれは幻想だということになる。正しいのは隠れた変数説か量子力学か。ベルの不等式はそれを実験で検証するお膳立てをしてくれたのである。

受賞が決まった3人が登場するのは、ここからだ。量子もつれの光子対をつくり、2光子を逆方向に飛ばして相関を調べる実験に最初に挑んだのはクラウザーだった。実験は量子力学を支持したが、隠れた変数説を完全には否定できなかった。「抜け穴」があったのだ。

その抜け穴をできる限り小さくしようと実験装置に工夫を凝らしたのが、アスペである。それは、量子もつれの光子対を光源から放った後、瞬時に測定システムの設定を切りかえて当初の設定が観測結果に影響を及ぼさないようにしたものだった。

ツァイリンガーも、ベルの不等式の破れを実験で調べているが、このプレスリリースでは主に量子テレポーテーションの開拓者として位置づけられている。これは粒子の量子状態を遠方の別の粒子にそっくり転送する試みで、量子もつれの応用例といえる。

このプレスリリースにはこんな記述がある。「言葉では言い表せない量子力学の効果(the ineffable effects of quantum mechanics)に応用の道が見えてきた。今や量子コンピューター、量子ネットワーク、量子暗号に守られた通信など広大な研究分野が存在する」

量子コンピューターや量子暗号は最近、成長戦略や経済安全保障の文脈でもてはやされている。ということは、物理学者でない私たちも無関心でいられない。変な使われ方をしないか、見張っていく必要もあるからだ。そのためには、量子力学とは何かをざっくり知っておかなくてはならない。「量子もつれ」が「言葉では言い表せない」ものでも、その本質はやはり言葉で語るべきなのだ。この点で、今回のプレスリリースは貴重な参考文献になる。
*ノーベル賞の公式サイトはhttps://www.nobelprize.org/
(執筆撮影・尾関章)
=2022年10月7日公開、同月9日最終更新、通算647回
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女王去って連邦は悩む

今週の書物/
読売新聞、東京新聞、朝日新聞各紙の2022年9月20日付朝刊

王室

英国はすごい、と目を見張ったのは1994年、ネルソン・マンデラ大統領の新体制となった南アフリカ共和国が直ちに英連邦(the Commonwealth)に再加盟したこと、そして翌年、エリザベス英女王の訪問を手厚く迎えたことだ。人種隔離政策アパルトヘイトによる「白人支配」を終わらせた政権がなぜ、かつて植民地支配していた旧宗主国になじみ、微笑みかけようとするのか。この展開に驚いた人や首を捻った人もいたに違いない。

南アは1931年に独立すると英連邦に加わるが、1961年には離脱している。人種隔離政策に国際社会の批判が集まっていたことが背景にある。その政策を捨てたのだから、元に戻れるということなのだろう。だが、わざわざ戻る必要もないではないか。

そのころ、私はロンドン駐在だった。新政権の樹立を挟む1993年と1995年には任地から南アへ出張もした。目的は南アの核兵器放棄について取材することだったが、その合間に現地で人種間の緊張も垣間見た。たとえば、タクシーで「黒人」の運転手と世間話をしていると、辛辣な「白人」観を聞かされたものだ。ただ、このとき「アフリカーナー」と呼ばれるオランダ系住人は散々な言われ方だったが、英国系はさほど嫌われていなかった。

運転手との世間話という小さな私的体験を根拠に英国の植民地主義をどうこう言うことは控えるべきだろう――そう自戒していたときに英女王の南ア訪問があったのだ。私が現地で受けた印象はあながち的外れではなかった。これは、大英帝国の植民地統治が巧妙だったのか。それとも、南アには欧州の入植者が複数の民族だったという特殊事情があって、英国系が相対的に善玉扱いされたということなのか。私には即断できない。

で今週は、書籍ではなく、エリザベス女王の国葬報道で英連邦を考えてみる。

私は女王国葬の当日、葬儀と葬列を米CNNでずっと見ていた。もっとも印象に残ったのは、英連邦に対する配慮が半端ではない、ということだった。葬儀の冒頭、要人たちが聖書を読む場面で、英国のリズ・トラス首相よりも先に朗読に立ったのがパトリシア・スコットランドという女性だ。肩書は「英連邦事務総長」。帽子の陰から褐色の顔がのぞく。この葬儀が、英国というよりも英連邦のものであることを感じさせる式次第だった。

スコットランド事務総長の横顔に触れておこう。英連邦の公式サイトによると、彼女はドミニカ国生まれ、カリブ海諸国出身では二人目、女性としては初の事務総長だという。いや、それだけを紹介したのでは不十分だ。英文ウィキペディアには、彼女が英国の外交官、弁護士であり、労働党の政治家だという記述がある。「英国とドミニカ国の二重国籍である」とも書かれている。この二重性こそが英連邦のありようを体現しているように思われる。

そもそも、英連邦とは何か。公式サイトにある一文を訳せば、こうなる。「英連邦は、対等な関係にある56の独立国の自発的意思にもとづく連合体である」――ただ、原文に「英連邦」はなく、“The Commonwealth”とあるだけ。「英連邦」は訳語に過ぎない。サイトには「加盟国政府は、開発や民主主義、平和のような目標を共有することで合意している」とも書かれている。この連合体は、ただの仲良しクラブということか。

ところが話は、そう簡単ではない。連邦は二重構造なのだ。そのことは英連邦の公式サイトに明記されていないが、英王室の公式サイトに入るとわかる。“Commonwealth realms”という用語が出てくるのだ。「エリザベス女王を君主とする国」(当欄の公開時点では、この記述が女王存命時のままとなっている)を指すという。邦訳は「英連邦王国」。英国以外の英連邦加盟国のうち14カ国は、英国と同一の人物を君主としているのである。

独立、対等を旨とする国々の連合体でありながら、加盟国の約4分の1はうち一つの国の君主を自国の君主に定めている。英連邦王国のつながりはふつう〈同君連合〉とみなされないが、形式的にはそう呼んでもおかしくない状態にある。矛盾を含む構造である。

その英連邦が、国葬で格別の扱いを受けたのは聖書朗読だけではなかった。読売新聞のロンドン電は「参列者の席順/英連邦を重視」と伝えている。会場では、女王の棺に近いところから英連邦王国、そのほかの英連邦諸国の順に参列者の席が並んだという。記事は、米国大統領に用意された座席が14列目だったという地元の報道に触れ、英国は英米関係を特別視しているが「国葬では英連邦の関係性を優先させた」と分析している。

東京新聞は、英連邦に焦点を当てたロンドン電でこんな見方もしている。「欧州連合(EU)からの離脱で国際的な評価が傷ついた英国は、以前よりも英連邦を重視している」。これも腑に落ちる指摘だ。私の実感では、英国人の欧州大陸に対する距離感は私たちが想像するよりも大きく、アジア・アフリカに対するそれは想像以上に小さい。このことは、英国メディアがどんな国際ニュースを頻繁にとりあげているかを見るとよくわかる。

手厚いアジア・アフリカ報道からは旧宗主国の〈上から目線〉も感じられる。だが、それだけではない。英国には、旧植民地からやって来た人々やその子孫が大勢いる。そのなかには、前述のスコットランド氏や先日の保守党党首選を最後まで争ったリシ・スナク氏のように社会の中枢を占める人たちもいる。英国は多民族社会であり、英連邦はそれを支える〈ふるさと連合〉なのだ。ただ、それはあくまで英国側の視点に立った話と言えよう。

現実に、英連邦の内部には反発もある。朝日新聞国際面の記事は「アフリカ大陸からは、女王への追悼の声が上がる一方で、英国の過去の植民支配や弾圧への憤りも聞かれた」としている。「憤り」の例に挙がるのは、ケニア人女性のツイッター発信だ。1950~60年代の独立闘争では祖父母世代が英国に「弾圧された」、だから自分は女王を「追悼することができない」――。これを読むと、私が南アで受けた印象はやはり例外的なのかとも思う。

英連邦王国では、その変則的な君主制に対して違和感が生じているようだ。同じ朝日新聞国際面の記事によると、英連邦王国の一つ、カナダのトルドー政権は国葬当日を休日扱いにしたが、国内にはこれに同調しない州も複数あったという。かつてフランス人の入植も盛んで、フランス語で暮らす人々が多いケベック州はその一つ。州首相は「子どもの登校日を減らすのは避けたい。パンデミックで既に、十分だ」と語ったという。

同様に英連邦王国であるオーストラリアには、君主制をやめようという動きがある。「与党労働党は共和制移行を党方針に掲げている」(東京新聞)、「アルバニージー首相は共和制移行に向けた議論をするため、担当副大臣を任命した」(朝日新聞)という状況なのだ。女王への追悼機運で移行にブレーキがかかっているようだが、英連邦王国の人々には、なぜ王様を海の向こうから借りてこなくてはならないのか、という思いもあるだろう。

東京新聞のロンドン電には思わず苦笑した言葉がある。女王弔問の列に並んでいた人から聞きとったひとことだ。その人の妹は英連邦王国の一つ、ニュージーランドに在住だが、「共和制になったら『変な大統領』が誕生しかねない」と心配している、という。この懸念は、ここ10年ほどで急に現実味を帯びるようになった。君主制をやめるときには「変な大統領」が出てこないしくみを考えなくてはならない。これは心にとめておくべきだろう。

それにしても、である。私たちは――少なくとも私は――英女王の国葬にうっとり見とれてしまった。そこには、生涯の職務を全うした人に対する敬意があった。伝統に裏打ちされた厳かさがあった。そしてなによりも、美しかった。と同時に、凋落した旧帝国の思惑が見え隠れしていた。過去の植民地支配の苦い記憶も聞こえてきた。さらに、君主制懐疑の風も吹きつけている。女王は死してなお、歴史を映す鏡になっているとは言えないか。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年9月30日公開、通算646回
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