オーウェル、嘘は真実となる

今週の書物/
『一九八四年』
ジョージ・オーウェル著、高橋和久訳、新訳版、ハヤカワepi文庫、2009年刊

気送管へ?

2022年、監視社会がここまで進むとは、だれが思っていただろうか?

30年ほど前、英国で少年による幼児の誘拐殺人があった。当時、私はロンドン駐在の科学記者。事件があまりに猟奇的だったこともあり、記事にしなかった。今思うと、それは怠慢だったかもしれない。容疑者特定の決め手が街頭の監視カメラだったからだ。

監視カメラと聞いて、私は一瞬「イヤだな」と思った。街が見張られているなんて……。でも、この装置があったからこそ事件は解決した。犯罪の抑止力があるということだ。実際その後、英国は監視カメラ大国になる。あの事件は一つの転機だったかもしれない。

ただ、英国と監視カメラの取り合わせには違和感がある。英国は、とにもかくにも自由と民主主義の国ではないか。人権感覚の強い人々が大勢いる。その社会が、なぜ監視カメラをあっさり受け入れたのか。理由は、いくつか思い浮かぶ。1970~1990年代、北アイルランド紛争が激化してテロが相次いだことも大きく影響しているだろう。この問題では、英国社会の現実主義が人権感覚をしのいで、治安を優先させたということかもしれない。

思い返すと世紀が変わるころまで、私たちは人権に対して旧来の見方をしていた。それによれば、監視行為は刑務所などいくつかの例外を除いて許されない。ところが、この20年余でそんなことを言っていられなくなった。海外ではテロや乱射事件……。国内でも通り魔事件やあおり運転……。相次ぐ凶事に監視待望論が強まった。監視の目はコンビニの防犯カメラやドラレコの車載カメラなどに多様化され、その〈視界〉を広げている。

しかも、監視の道具は今やカメラだけではない。私たちの行動は、今日的な技術によっても追跡されている。スマートフォンを持って街を歩けば、自分がどのあたりをうろついていたかが記録される。散歩の経路にとどまらない。心の軌跡もまた見透かされている。インターネットの閲覧履歴を手がかりに、自分が何をほしいか、どこへ行きたがっているかまで推察されてしまう。もはや、監視カメラだけに目を奪われている場合ではない。

カメラの背後には警察がある。民間が取り付けたものでも警察が映像を使う。ところがスマホとなると、ネットの向こうに誰がいるかがなかなか見えてこない。旧来の人権観のように国家権力だけを警戒していればよいわけではない。不気味さは、いっそう増している。

2022年の今、監視社会の実相はこうだ――。一つには、監視している主体を見極めきれないこと。もう一つは、監視されている対象が人間の内面にも及ぼうとしていること。この認識を踏まえて、今週は70年ほど前に書かれた長編の未来小説をとりあげる。

『一九八四年』(ジョージ・オーウェル著、高橋和久訳、新訳版、ハヤカワepi文庫、2009年刊)。著者は英国の作家。1903年に生まれ、1950年に死去した。著者紹介欄には「二十世紀の思想、政治に多大なる影響を与えた小説家」とある。代表作には、風刺の効いた寓話小説『動物農場』も。本書は1949年に発表されたが、刊行時点から35年後の未来社会を描いている。1984年をすでに通過した私たちが読むと、その想像力に圧倒される。

主人公はウィンストン・スミス、39歳。ロンドン在住で「真理省」職員。この省は「報道、娯楽、教育及び芸術」を扱う。政府官庁には、ほかに「戦争」担当の「平和省」、「法と秩序の維持」を担う「愛情省」、「経済問題」を受けもつ「潤沢省」がある。一つ、付けくわえると、この国は英国ではなく「オセアニア」だという。英、米、豪などから成る。そのころの世界はオセアニア、ユーラシア、イースタシアの3国が割拠していた。

この作品で、著者の先見性の的確さが見てとれるのは「テレスクリーン」の普及だ。ウィンストンの自宅マンションにも、真理省記録局の職場にもある。たとえば、自室の装置は「壁面の一部を形成している曇った鏡のような長方形の金属板」とされている。驚くのは、この装置が送受信双方向の機能を具えていることだ。一方では、当局の思想宣伝を一身に浴びることになる。もう一方では、当局に自らの言動が筒抜けになってしまう。

受信の例として作品に頻出するのは、「臨時ニュース」のような音声情報だ。これは、執筆時点がラジオ全盛の時代だったからか。だが、スクリーンに映像が映る場面も出てくるから、著者は薄型テレビの開発などエレクトロニクスの進展を予感していた。送信機能についていえば、自分がいつも見られているわけだから監視カメラやスマホの追跡機能も先取りしている。著者は、監視社会の到来もすっかり見抜いていたのだ。

職場の風景が印象深い。ウィンストンがいる部屋や廊下の壁には穴がいくつも並んでいる。「記憶穴」と呼ばれるものだ。職員たちは、手にした書類を「破棄すべき」ものと見てとったとたん、「一番近くにある〈記憶穴〉の上げ蓋を開け、それを放り込むのが反射的な行動になっていた」。書類は穴に投げ込まれると、気送管――筒状に丸めた文書を空気圧で飛ばす装置――を通って、庁舎内のどこかにある「巨大な焼却炉」へ直行するのだ。

1984年のオセアニアでは「過去が消され、その消去自体が忘れられ、嘘が真実となる」。これが、日常になっている。過去が都合悪ければ、記録した文書をなきものにしたり書き換えたりする。私たちが報道で耳にする文書の廃棄や改竄が制度化されているのだ。

この小説では、ウィンストンがどんな作業をしていたかが詳述されている。気送管で届けられた書類には次のような業務命令が書かれていた――。1983年12月3日付の新聞に載った「ビッグ・ブラザー」による「勲功通達」の記事は「極めて不十分」だった。「存在していない人物に言及している」ので「全面的」に書き換えるように! ここで ビッグ・ブラザーはオセアニアの「党」の指導者。実在性さえ不確かな謎めいた人物である。

新聞の記事によると、ビッグ・ブラザーは今回、「FFCC」という組織のウィザーズ同志に「第二等大殊勲章」を授けた。FFCCは、水兵に慰問品を贈る組織。ところが、この組織が解体された。不祥事があったのか、政治的確執によるものか、理由はわからない。いずれにしてもウィザーズは存在してはいけない人となり、叙勲はあってはならない過去になった。ウィンストンがなすべきは、その過去を抹消して別の過去をつくりだすことだった。

ウィンストンが思いついたのは、英雄譚だった。「英雄の最期にふさわしい状況下で最近戦死した人物」の称賛記事はどうか。それででっちあげたのが「オーグルヴィ同志」だ。

オーグルヴィ同志は6歳でスパイ団に入り、11歳で叔父を思考警察に売り、19歳で新種の手投げ弾を考えだした。これは、敵軍の捕虜31人を「処分」するときに使われた。23歳になり、ヘリコプターに乗って重要公文書を運ぶ途中、敵機に追いかけられる。同志は公文書を抱え、眼下の海へ飛び降りた。浮きあがることがないよう、体に重しを括りつけて……。同志は架空でも、「数行の活字と数枚の偽造写真」で「実在することになる」のだ。

ただ私が思うに、この改竄には限界がある。記事を書き換えても、すでに発行された新聞紙面は変えられない。デジタル化以前の時代なら、なおさらだろう。さらに人はいったん知ってしまった記憶を掻き消すことができないではないか。心に消しゴムはないのだ。

このツッコミを切り抜ける仕掛けとして、著者が作品にもち込んだのが「二重思考」である。作中ではビッグ・ブラザーの政敵エマニュエル・ゴールドスタインの著作に、その定義がある。それは「ふたつの相矛盾する信念を心に同時に抱き、その両方を受け入れる能力」だ。オセアニアでは「党」の知識人たちが「自分の記憶をどちらの方向に改変しなければならないかを知っている」という。こうして「事実」は都合よく塗りかえられていく。

思考のありようひとつで過去は思い直せるということか。それによって、過去そのものも変わってしまうのか。では、思考のありようはどのように変えられていくのか。『一九八四年』には、聞いてみたいことが山ほどある。次回もまた、この本の読みどころを。
☆引用部にあるルビは原則、省きました。
*本書『一九八四年』については、当欄2022年1月21日付「宗匠のかくも過激な歌自伝」でも言及しています。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年6月24日公開、同月29日最終更新、通算632回
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坪内祐三、都市辺縁のまち語り

今週の書物/
『玉電松原物語』
坪内祐三著、新潮社、2020年刊

世田谷線松原

〇〇坂、◇◇通り、△△横丁……。
なんのことか、と思われるだろう。これらはみな、私の散歩圏内にある。〇〇や◇◇や△△は、いずれも60年ほど前、小学生時代をともに過ごした級友たちの名前だ。

私は今、あのころ暮らしていた場所の近くに住んでいる。住まいを転々とした後、昔の町内に戻ってきたのだ。だが級友の多くはどこかへ引っ越したままで、ここにはいない。

10年近く前、退職したころのことだ。町内をぶらついたり、自転車を走らせたりする機会がふえて、この坂には〇〇くんの家があったな、この通りには◇◇さんが住んでいたな……と思いだすようになった。それで、散歩道のあちこちを級友の名で呼ぶことにしたのだ。折しもそのころ、クラス会が約50年ぶりに開かれた。〇〇くんも、◇◇さんも、△△くんも、この町に帰ってきた――。散歩道の風景に生気が吹き込まれたように私は感じた。

この私的体験はたぶん、だれもが共有するものではない。農漁村には地縁血縁があるから、いったん地元を離れても、里帰りすれば昔と同じ景色を眺めて昔と同じ人々に再会できる。都会はどうか。歴史のある市街地には、その町を象徴する名所旧跡や伝統行事が残っているから、転居しても「わが町」のイメージを抱き続けることが可能だ。わざわざ個人的な街路名までつくって町の記憶を今の風景に紐づけなくとも、それは逃げていかない。

ところが、都市辺縁部はそうはいかないのだ。私の町を例に挙げよう。ここは東京西郊にあり、かつては農村地帯だった。1927(昭和2)年に私鉄電車が開通すると、関東大震災に遭った商家が都心から移ってきて、駅周辺に商店街が生まれた。やがて、勤め人の家々が建ち並ぶ。住宅街の誕生だった。戦後は社宅など、集合住宅もふえた。住人の出入りは激しい。その入れ替わりに急かされるように、町の風景も次々に塗りかえられてしまった。

だから、意識して記憶を蘇らせたい。〇〇坂、◇◇通り、△△横丁……というように。

私が強調したいのは、都市辺縁部には都市辺縁部にしかない物語がある、ということだ。農村の地縁血縁はなく、旧市街の伝統文化もない、人々が中途半端に入れ替わっていく郊外ならではの小世界がそこには存在する。郊外といえば、米国文学に郊外(サバービア)生活を小説化する流れがあることを思いだす。だが、あのサバービアとは異なる郊外を私は実体験してきたのだ。今回は、その体験と響きあう読みものを紹介しようと思う。

で、今週の1冊は『玉電松原物語』(坪内祐三著、新潮社、2020年刊)。著者は1958年、東京生まれ。雑誌「東京人」の編集部員を経た後、評論家、エッセイストとして活動した。『慶応三年生まれ 七人の旋毛曲り』などの著書がある。2020年1月、心不全で急逝。この『玉電…』は、「小説新潮」誌に2019年5月号から2020年2月号まで連載したエッセイを本にしたものだ。さらに続くはずだったので、未完の「遺作」ということになる。

書名を解説しておこう。「玉電松原」は東急世田谷線松原駅の旧名だ。この駅は世田谷区北部の、小田急線より北、京王線より南という中間領域にある。世田谷線は、かつて東急玉川線(通称「玉電」)の支線だった。玉電本線は路面電車だったので、世田谷線にはチンチン電車の雰囲気が漂う。松原駅もどこか停留所っぽい。著者は3歳のときに渋谷区から世田谷区赤堤に引っ越してきた。それで最寄り駅となったのが、この玉電松原だった。

著者は本文冒頭の一文で、自分は東京生まれ東京育ちでありながら「『東京っ子』とは言い切れぬ思いがある」と打ち明けている。読み進むと「私は東京っ子ではなく世田谷っ子だ」という宣言にも出あう。このくだりでは、往時の「赤堤界隈」は「田舎」だったので「世間の人が思っている世田谷っ子ではない」ともことわっている。これこそ、前述した〈都市辺縁部には都市辺縁部にしかない物語がある〉ということの別表現だろう。

実は私も、その赤堤に近い町に生まれ育った。小中学校の校区は隣接する。だから、そこが「田舎」だという印象はかなりの部分、共有する。その象徴が、この本に出てくる「四谷軒牧場」だ。100頭超の乳牛を飼っていたことがあり、私が若かったころは「東京23区で最後の牧場」ともいわれていたが、1980年代半ばに閉鎖された。今回、「たしか名糖牛乳におろしていたと思う」という記述を見つけて、そうだ、そうだったな、と思った。

著者の四谷軒牧場をめぐる回想は事細かだ。通学していた赤堤小学校の隣接地が牧場の牛糞処理場だったこと、それがやがてトウモロコシ畑に変わったこと、作物の成長を目にするたびに「前身が前身だけに土地がよく肥えている」と納得したこと……1970年ごろには、牛が1頭脱走して牧場前の赤堤通りに「デンと座っている」のを教室から目撃したという。そのころは車の行き来が激しくなっていたから、大騒動だったらしい。

私は著者より7歳年長だ。赤堤がもっと「田舎」だったころも知っている。思い違いがあるかもしれないが、幼少期の記憶を一つ披瀝しよう。当時は赤堤通り――その街路名がまだなかったかもしれないが――が牧場の近くで北沢用水という小川をまたいでいたが、その橋が土管だったのだ。川幅いっぱいに土管を並べ、水流を土管に通し、土管の上に板を載せたような簡易な橋だった。ちなみに今、この川は暗渠化されて緑道になっている。

この本の主題の一つは、あのころの小さな商店街だ。フランチャイズの店の出店攻勢が始まる前で、個人商店が存在感を示していた。印象深いのは、玉電松原駅近くの書店。著者は小学生のころから常連で、漫画誌「ガロ」を買ったりしていた。その書店も、今はコンビニになった。東京では昭和30~50年代、「さほど規模の大きくない町にもちゃんと商店街があった」。そのことを証言しておくのが、エッセイ執筆の最大の「動機」だったという。

実際、本の巻頭には「松原・赤堤エリアの昭和40年代MAP」が見開きで載っている。手描き風。このマップでもっとも入念に描き込まれているのが、玉電松原駅を挟んで東西に延びる商店街だ。鮮魚店がある、青果店がある、薬局もある、家具店もある……。

店々からは、いくつかの特徴が見てとれる。その一つは、〈よろづや〉性であるように私は思った。くだんの書店は、店舗の3分の2が本屋で残りは文房具屋、たばこ売り場の一角もあった。もう一つ、この本に出てくるのは、玩具店の役目も果たしていた菓子店。子どもに人気の「プラモデルやメンコ」「怪獣のブロマイド」「2B弾やカンシャク玉」……などが置かれていた。〈よろづや〉性には、どこか田舎町の雰囲気がある。

店が商売以外で地元と結びついていたことにも、私は心を動かされた。それは、著者が子ども時代に弟や友だちと「三角野球」に興じた話に見てとれる。三角野球は、二塁抜きの野球ごっこ。両チーム合わせて6人ほどは必要だが、4人しか集まらないこともあった。そんなときは蕎麦店に電話して安い麺類を断続的に注文、出前に来る店員を一人二人とメンバーに引き込んだという。店主は、事情を知りながら助っ人を送りだしていたらしい。

最後の章――本当の遺稿ということだ――では、著者が子ども心に感じた商店街の謎を二つ挙げている。まずは「人が入っていく姿が見えなかった」というスナック。子どもが寝入った時間帯に賑わっていたのだろうか。もう一つは、住宅地なのに結婚式場があったこと。「そもそも商売は成り立っていたのだろうか」「一度で良いから足を踏み入れておけばよかった」と綴っている。著者は世を去る直前まで、あの町に思いをめぐらせていたのだ。

著者は1989年まで赤堤にいて転居した。この本に書かれていることの大半は、著者の少年期、1960年代半ばから1970年代半ばまでの話だ。これは奇しくも、私が近隣の町で過ごした青春期に重なる。あの一帯は、心が挫けた夜にひとりで歩きまわった場所ではないか。今回、この本を読んで赤堤小学校周辺や世田谷線松原駅界隈を再訪してみた。町並みからは個性が薄れ、むかし私を癒してくれた「田舎」の空気は感じられなかった。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年6月17日公開、通算631回
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ロシアに「ソ連」を見る話

今週の書物/
『歴史・祝祭・神話』
山口昌男著、中公文庫、1978年刊

ロシア

ロシアのウクライナ侵攻は、政治権力というものの怖さを私たちに見せつける。権力者がいったん軍事行動の指示を出せば、兵士たちは隣国に踏み込んで人間を殺傷することを強いられる。隣国の兵士たちも、それに対抗しようと殺傷能力のある武器を手にとる――そんな悪循環が日々繰り返されている。しかも、この軍事行動は軍事とは無縁の人々をも巻き込み、生命を奪い、家族を引き裂き、生活の場をずたずたにしているのだ。

今回の侵攻についていえば、軍事行動のカードを最初に切った政治権力はロシアのプーチン政権であり、もっと端的にいえば大統領のウラジーミル・プーチン氏その人である。怖いのは、国内外の批判にまったく耳を傾けようとしないことだ。国際社会の圧力に馬耳東風なだけではない。ロシア国内では言論を統制し、デモ活動を取り締まって、戦争反対の動きを封じようとしている。独裁と言われても仕方ない体制が、そこに出現している。

不思議に思うのは、ロシアという国がしくみのうえでは民意にもとづく民主主義国家であることだ。大統領は任期6年で、直接選挙によって選ばれる。議会には上下両院があり、下院の選挙は5年ごとにある。それなのになぜ、こんな政治権力が出現したのか。

ただ、不思議に思いつつも、その思いはすぐに消えてしまう。私と同世代、あるいは私よりも年長の世代に限ったことだろうが、妙に納得してしまうのだ。かつてユーラシア大陸には、ソビエト社会主義共和国連邦、略称ソ連という大国があった。ソ連は東西冷戦の終焉からまもない1991年に解体され、その継承国となったのがロシア連邦だ。だから私たちは、ロシアのニュースに触れると、そこにどうしてもソ連の影を見てしまう。

ただ私は、ソ連らしいソ連をリアルタイムでは知らない。先行世代が語る言葉から、それを感じとっていたのだ。たとえば「粛清」。もともとは批判勢力の追放を意味するが、ソ連では物理的な抹殺をも含意した。1917年のロシア革命が駆動力となって生まれたソ連の共産党一党独裁体制では、党指導部が1920年代から1930年代にかけてこの弾圧で批判勢力を封じた。その中心にいたのが、ヨシフ・スターリン(1879~1953)である。

今回のウクライナ侵攻でプーチン政権の独裁ぶりをみると、スターリン体制の残滓が亡霊のように現れた気がする。民主主義のしくみがあっても同じ病を発症したのだ。スターリン的なるものは一党独裁の社会主義体制を必要条件とはしていなかったのか――。

で、今週の1冊は『歴史・祝祭・神話』(山口昌男著、中公文庫、1978年刊)。著者(1931~2013)は北海道生まれの文化人類学者。東京大学を卒業後、ナイジェリアやインドネシアに赴いて現地調査による研究を重ねた。『アフリカの神話的世界』『道化の民俗学』などの著書がある。本書は、中央公論社の月刊誌『歴史と人物』1973年4月号に載った同名の論考をもとにしている。単行本が1974年に同社から出た後、文庫化された。

ちなみにこの論考は、今では岩波現代文庫の1冊にもなっているから、そちらで読んだ方も多いだろう。私は先日、書店の古書コーナーでたまたま本書に出あった。その目次に「スターリンの病理的宇宙」といった章があるのを見て、思わず手が伸びたのだ。

私が思うに、本書の最大の強みは著者が文化人類学者であることだ。一党独裁の社会主義体制の指導部に巣くった歪んだ心理を政治思想とは別の次元で見つめ直して、その病理に迫っている。この視点に立てば、ソ連の社会主義を捨てたロシアが今なお、スターリン的なるものを引きずっていることも不思議ではない。ソ連時代の思考様式、行動様式からマルクス・レーニン主義がすっぽり抜け、様式のみが残っているということではないか。

ことわっておくと、本書はソ連史ばかりを話題にしているのではない。とりあげているのは、スペインの詩人ガルシア・ロルカの作品世界であったり、欧州の中世史であったり、日本の南北朝時代史、戦国時代史であったり、あるいはナチス・ドイツの現代史であったりする。著者は、これらの題材について膨大な量の文献を読み込み、そこから人類の歴史を動かす普遍原理をすくいとっている。ソ連についての考察は、その延長線上にある。

文化人類学者らしい考察だなと思わせるのは、随所で「はたもの」という言葉をもちだしていることだ。その原意は機織りの道具だが、それを磔(はりつけ)の刑具として使う風習もあったことから、磔刑の受刑者を指すことがあるらしい。本書の記述を要約すると、こうなるだろうか。「はたもの」は権力者にとって「時間(歴史=秩序)の外」へ追いだすべき存在であり、「『秩序』を可視のものとするために必要」である――。

言葉を換えれば、「はたもの」は生贄にほかならない。ただ、「はたもの」の役はだれでも担えるものではないらしい。著者は東西古今の文献をもとに、こう結論する。「はたもの」は「平日」でなく「祝祭日」的だ。そこには「節度」ではなく「過度」、「秩序」ではなく「混沌」がある。その人は「『生感情(ヴァイタリティ)』の過度の所有者」であり、「はみ出し」と言ってもよい。「政治的世界の秩序を脅しながら、これに活力を与える」のだ。

では、初期ソ連を率いた共産党で誰が「はたもの」に仕立てあげられたのか。ここに登場するのが、レフ・トロツキー(1879~1940)。「トロツキスト」という左翼陣営内のレッテル貼りでよく知られた革命家だ。評価は党派によって分かれたが、本書はそのような路線論争には立ち入らない。著者はひたすらトロツキーの逸話を拾いあげ、その人物像を浮き彫りにしながら、なぜ彼が「はたもの」の役回りに追い込まれていったかを探っている。

本書は、1917年ロシア革命の指導者ウラジーミル・レーニンが1924年に病没する前後、党内がどのように揺れ動いたかを跡づける。芝居に見立てれば、主役がトロツキーであり、敵役がスターリンだ。ただ両者の間にあったのは、ふつうの意味でいう権力闘争ではない。敵役が権力志向なのは間違いないが、主役はそれほどでもなかったのだ。「スターリンは敵の長所も弱点も知り尽していたのに、トロツキーはなんの研究もしていなかった」

本書によれば、トロツキーは「ここ一番という時に、跳ぶことができなかった」。レーニンが後継者含みのポストを用意してもそれを受けなかった。スターリンから攻撃されても反撃しようとしなかった。ただ「謙虚」なのか、内部抗争を「嫌悪」していたのか、「楽天的性格」ゆえにいつかは勝てると思っていたのか、あるいは、もともと俗世間にまみれない「隠者的性格」を具えていたのか――著者が挙げる推測は尽きない。

興味をそそられるのは、著者がトロツキーの弱点を1923年の「文化的な言葉づかいのための闘い」という論文に見いだしていることだ。トロツキーは論文で、ロシア社会に「悪罵の言葉」があふれていると指摘して、国語学者や言語学者、民俗学者にこう問いかける。「ロシア語以外にこんなにしまりが無く、べたべたして、調子の低い悪態の言葉があるのかどうか」と。その「卑しむべき悪態のパターン」が革命後も引き継がれているという。

たかが言葉づかいのことではないか、と思われるかもしれない。ただ、著者は言い添える。「悪態の集中砲火」はやがて制度化されてトロツキー自身にも浴びせられ、さらにスターリン体制下の「粛清」で「肉体言語」のかたちをとって大展開されたことを。

著者は、トロツキーの思考に「西欧の優越性、ロシアの後進性という図式」がしみついていたことを見逃さない。「西欧派」は、レーニン時代は好印象を与えたがレーニン後は逆転した。「これこれの事象は西欧諸国にはない」という物言いは「党官僚」に対しては説得力がなかった。西欧派であることが「異邦人=侵略者というレッテルと結びついた」のだ。どことなく、ウクライナをなじるプーチン政権の言い分を連想させるではないか。

ウクライナはソ連から独立後、西欧志向を強めていた。そう考えると、プーチン氏のウクライナ観は、「党官僚」のトロツキー観に近いのかもしれない。この見立ては、トロツキーがウクライナ出身であり、しかもウクライナの現大統領ウォロディミル・ゼレンスキー氏と同様にユダヤ系だったことを思うと、いっそうもっともらしい。プーチン氏の内面には西欧嫌いがあるのか。だとしても、あの軍事行動は常軌を逸しているが……。

トロツキーは結局、「はたもの」になった。亡命の末、1940年にメキシコで暗殺者の手にかかったのだ。文化人類学者のトロツキー論を読んでつくづく思うのは、人間社会はイデオロギーのあるなしにかかわらずよく似た過ちを繰り返している、ということだ。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年6月10日公開、通算630回
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「太陽」の好奇心が輝いた日

今週の書物/
「太陽の族長――谷川健一」
船曳由美著
「地名と風土」第15号(日本地名研究所編集・発行、2022年3月31日刊)所収

太陽の贈りもの

ご近所からのいただきものが書物というのは、今どきめったにないことだ。この春、近くにお住まいのベテラン編集者で、著述家でもある船曳由美さん(*1、*2)が「地名と風土」という雑誌を一冊分けてくださった。出版人であり、日本地名研究所の設立にかかわり、なによりも在野の民俗学者として知られる谷川健一(1921~2013)の生誕100年を記念する号だという。特集に谷川健一にゆかりの26人が文章を寄せている。その一人が船曳さんだ。

谷川は大学卒業後、平凡社に入った。同社が1963年夏、日本初のグラフィックマガジンとして月刊「太陽」を創刊すると初代編集長に就く。その編集部で谷川の薫陶を受けたのが1962年入社の船曳さんだ。で今週は、「太陽の族長――谷川健一」(船曳由美著、「地名と風土」第15号〈日本地名研究所編集・発行、2022年3月31日刊〉に寄稿)を読むことにする。そこに満載された逸話からは、往時の出版界の活気が伝わってくる。

中身に踏み込む前に、私の世代――1963年夏には小学6年生だった――の目には「太陽」がどう映っていたか、という話をしておこう。小6男子の手が伸びる雑誌は、なんといっても「少年サンデー」や「少年マガジン」だった。「平凡パンチ」が翌年創刊されたが、それは買って読むものではなく、どこかでこっそり開くものだった。だから「太陽」は、医院の待合室や銀行のロビーに置かれた行儀のよい雑誌という印象しか残っていない。

谷川民俗学が雑誌を通じて読者と分かち合おうとしたものの価値が、私にはまだわからなかったのだ。10代前半の少年には仕方のないことだ。ただ青春期に入っても、その真価に気づかなかったのは不覚というしかない。考えてみれば、あの1960~1970年代は工業化や都市化によって国内外の文化遺産がないがしろにされた時代にぴったりと重なる。谷川の「太陽」は、カメラとペンの力でその激流に抵抗したのである。

ここでは、船曳さん(以下、著者と呼ぶ)の寄稿の読みどころをみていこう。まずは誌名「太陽」について――。これは、著者が社内公募に応えて出した案が通ったのだという。谷川は、その名に琉球列島の「太陽=てだ」を託した。沖縄には「太陽は毎朝、東方の穴から出て中天をかけり、夜はまたその穴にかえっていく」という古来の信仰がある。著者が「谷川さんは太陽(てだ)の族長ですね」と言うと、谷川は「晴レガマシイな」と答えた。

平凡社は当時、東京・麹町にある旧邸宅の建物を社屋にしていた。かつては満鉄副総裁の公舎だったという。本館には舞踏会の会場にもなる大部屋があったが、その上層部に3階をつくるなど改築や増築を重ね、出版社の体裁を整えていった。「太陽」編集室は3階の大広間。「どの机にも資料が乱雑に山と積まれている。ピースの青缶にタバコの箱。机の引き出しにはウイスキーの小ビン」とある。IT端末が並ぶ昨今の出版職場とは大違いだ。

編集部員の行動様式にも隔世の感がある。先輩部員たちは午後3時になると「サア、汗を流してくるか」と近くの銭湯に出かけた。浴衣姿で戻ってくると、ビールを一杯ひっかけ、頭に鉢巻を巻いて仕事モードに入る。体内時計が夜行性に設定されていたのだろう。

新人の著者に割り当てられた仕事は、「女ひとりの旅」という連載の編集作業だった。この企画は「日本列島の、いま現在を生きている人びとの実像」を「女性の視点で見、かつ記録する」ことをめざした。その第1回の筆者に白羽の矢が立ったのが、当時、新進作家として多忙を極めていた有吉佐和子だ。著者は、谷川と有吉邸を訪ねた。二人が作家の旅心をくすぐる様子には出版文化ののどかさがあり、新聞人としてはうらやましい限りだ。

このとき編集部が旅の行き先として提案したのが、大分県臼杵の磨崖仏(まがいぶつ)だった。「ダメ、ダメ!」と有吉。クリスチャンであっても仏を見にいくのはかまわない。「でもネ、私はホンモノしか認めない」――まがいはまがいでも「紛い仏」と勘違いしたのだ。著者は「磨崖仏」の3文字を手持ちのノートに大書して誤解を解いた。石仏の数は60体を超え、高さ3mほどのものもある、と聞いて有吉は大いに乗り気になった、という。

編集者泣かせは、想定外の事態が生じることだ。この企画でも、それが起こった。ある日、四ツ谷駅近くで聖イグナチオ教会の塔を仰ぐと、青空に白い雲が浮かんでいた。その形は、天使の翼のようだ。著者は、予感にとりつかれたように電話ボックスに飛び込み、有吉に電話した。「先生、しつこいようですが」と切りだし、臼杵行きの念押しをする。著者が「大天使ガブリエルが来てもですよ」とたたみかけると、「“受胎告知”? バカね」。

ところが、本当に大天使ガブリエルが舞い降りたのだ。「貴女って予言者?」。作家は身ごもった。創刊を数カ月後に控え、有吉佐和子臼杵の旅は大事をとって中止に。その子は無事に生まれた。作家、エッセイストとして知られる有𠮷玉青である。

著者はドタキャンに遭遇してもめげない。それならばこの人、と思いついたのが詩人の岸田衿子だ。旅先に選んだのは、「椰子の実」にまつわる柳田国男の逸話と島崎藤村の詩で有名な愛知県伊良湖岬だった。ここでも岸田邸を訪れる場面が詳述されている。

東京・谷中の岸田邸の描写。玄関の引き戸を開けると、「いらっしゃい」の声とともに「美しい詩人が、天蓋から下がる薄紅の花のれんの間から白い顔をのぞかせた」。貝殻草のドライフラワーが数えきれないほど垂れ下がっていたのだ。著者は貝殻草のチクチクを首筋に感じながら、伊良湖岬行きの話をもちかける。「渥美半島は、花々に埋もれています」と言い添えて。「花は嬉しいわ、いいわ」――この世ばなれした執筆依頼である。

このときもハプニングがある。家の奥から男が出てきたのだ。著名詩人の田村隆一ではないか。それはちょうど、詩人二人が共同生活を始めたころだった。伊良湖岬の話をすると「面白い」と言う。お願いしている相手は岸田さんだと釘を刺すと「分かっているよ、だからボクが付いていく」。結局は「新米」には「衿ちゃん」を「任せられない」という田村の意向に沿って、著者は伊良湖岬行きから外された。代わりに田村自身が同行したという。

これらの回顧に触れると、1960年代の出版文化は人と人との血の通った関係のうえに成り立っていたのだな、とつくづく思う。出版人が、書き手を選ぶ。選ばれたほうはそれをありがたがるでもなく我を通す。その構図は今も変わらないだろう。ただ今日では、ほとんどのことが電子メールのやりとりで決められるのではないか。本づくり、雑誌づくりから偶然の妙が消え、遊びもない、駆け引きもない、ただの事務手続きになってしまった。

この寄稿で著者は、初期「太陽」の誌面を振り返っている。「特集」を列挙すれば、創刊7月号が「エスキモー」、8月号が「タヒチ・マルケサス」、9月号が「沖縄」、10月号が「海の高砂族」……。表紙の写真をたどると、7月号が「西ニューギニア原住民の木偶の祖霊像」、8月号が「埴輪女子頭部」、9月号が「ナイジェリアの木彫騎馬戦士像」、10月号が「ペルーのチャンカイの人形壺」、11月号は「縄文時代後期の土偶」……。

「女ひとり旅」の行き先だけを挙げると、7月号「伊良湖岬」、8月号「萩」、9月号「大神島・池間島」、10月号「阿蘇山」、11月号「篠山」、12月号「男鹿半島」……。

一覧してわかるのは、「太陽」が向かうところ、国境もなければ、文明の境界線もないということだ。極寒の地もある、常夏の島もある、アフリカもある、南米もある、日本列島もある。日本列島については虫の目で細部に分け入っている感がある。

分け隔てがなく、飽くこともない知的好奇心。これこそが雑誌「太陽」の編集姿勢を、そして谷川民俗学を貫いた基本精神なのだろう。その様相は、専門領域を細かく分ける象牙の塔とは大きく異なる。まさに在野の知的活動を具現するものが「太陽」だった。
*1 「本読み by chance」2020年2月21日付「60年代東京の喧騒、「地方」の豊饒
*2 「本読み by chance」2020年2月28日付「四季の巡りも農の営みも能舞台
(執筆撮影・尾関章)
=2022年5月27日公開、同月30日最終更新、通算628回
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あるべきものがあるアメニティ

今週の書物/
『歴史的環境――保存と再生』
木原啓吉著、岩波新書

町並み

この季節、古巣の新聞社から元社員にも届く「社内報」は、新入社員の顔であふれ返る。入社式での決意表明、横顔紹介……。紙媒体を背負いながら、デジタルメディアを切りひらく。そんな大仕事が、この人たちには待ち受けているのだ。大変な時代によくおいでいただいた――古巣を代弁して、正直そう思う。私が入社した45年前は新入社員、とりわけ編集部門の新米記者が業界の行く末を心配することなど、ほとんどなかった。

あのころ、新聞記者を志す者の多くには、記事を書くことで世の中を変えたいという野心があった。それは、私利私欲とは別ものだったと言えよう。記者の給与は悪くはなかったが、生活の安定をめざすなら別の業界があった。記事はほとんど無記名だったから、目立ちたがり屋の下心をくすぐることもない。金銭欲でもない。売名欲でもない。ただ自分の記事で社会に一石を投じたかったのだ。今思えば、傲慢なことではあるのだが……。

では、私は世の中をどう変えたかったのか。理系教育を受けたので、応募書類には科学部門を希望する旨を記したが――そして実際に科学記者になったわけだが――当時の関心事は科学ではなかった。若者には左翼志向が強い時代だったが、私にはそれもなかった。入社試験のグループ討議で「幸福とは何か」という課題が出され、「幸福」を社会主義思想に結びつけて論じる受験者が目立つなかで、私はその議論に乗らなかった。

では、私がグループ討論で「幸福」の代名詞として挙げたのは何だったか。それは「アメニティ」だ。この言葉は直訳すれば「快適さ」ということになるが、1970年代には都市景観を語るときのキーワードになりはじめていた。そのころ、私が暮らしていた東京郊外は雑木林や畑地の緑が宅地などの開発で一掃されつつあったが、その変遷を目の当たりにして都市の心地よさとは何だろうかという問題意識を抱いていたのである。

「アメニティ」は、都市問題の専門家によって“The right thing in the right place”と表現されることがある。日本語にすれば「あるべきものがあるべき場所にある」ということだ。私はグループ討議で、この発想に立って議論を展開した。駅前の広場に大きな樹木が1本、葉を繁らせている。その木陰では老人が一人、ベンチに腰かけている。周りでは幼子たちが遊んでいて、いつのまにか老人と友だちになる。そんな光景に幸福はある――と。

で、今週の1冊は『歴史的環境――保存と再生』(木原啓吉著、岩波新書、1982年刊)。著者はこの本の刊行時、千葉大学教授。略歴欄には「環境政策・都市政策」専攻とある。ただ、本人が「あとがきに代えて」で打ち明けているように、1981年まで30年近く朝日新聞記者だった。1970年代には歴史的環境の保存再生問題を連載記事にしていた。私は学生時代、それを熟読した。「アメニティ」という言葉は、その記事で知ったのである。

記事が連載されたころ、著者は「環境問題」担当の編集委員だった。あの当時、「環境問題」と聞いて地球環境を思い浮かべる人は少数派。私たちの頭にまず浮かんだのは、高度経済成長の裏側で進行した公害だった。次いで開発がもたらす自然破壊が批判され、ついには町並みが壊されることにも目が向けられるようになった。ここに至って「歴史的環境」という概念が確立する。著者は、この流れをいち早くつかみとったジャーナリストだった。

では、歴史的環境はアメニティにどう結びつくのか。著者はこの本で、英国の著名な都市計画家ウィリアム・ホルフォードの考え方を紹介している。それによれば、アメニティとは“The right thing in the right place”の心地よさをつくる「複数の総合的な価値のカタログ」であり、そこには「歴史が生み出した快い親しみのある風景」も含まれる。アメニティを重んじる思想は、英国では「住民共通の血肉化した価値観」になっているという。

そのことは、英国の「ナショナル・トラスト運動」をとりあげたくだりを読むとよくわかる。ナショナル・トラストはロンドンに本拠を置く民間団体で1895年に設立された。「国民自身の手で」「自然や歴史的建造物」を「保護管理する」ことをめざしている。そのために、当該不動産を譲り受けたり買い取ったりする。1982年時点の会員は約104万人、会費は年10ポンド(当時の円換算で5000円弱)であると著者は記している。

その「資産目録」には、「森林」「草原」「荒地」「湖沼」に交ざって「遺跡」「古城」「教会」「修道院」「領主館」もある。「農地」「牧場」「公園」「庭園」もあれば「水車小屋」「納屋」まである。自然の産物か人工物かを問わず、風景に価値を見いだしているのだ。

この本は、文化遺産の守り方が第2次大戦後の経済成長期に一変したことを強調している。単体の建物を「点としての文化財」ととらえるのではなく、建物の集まりを「面としての歴史的環境」とみて重んじるようになった。この変化は洋の東西に共通するという。

国際記念物遺跡会議(ICOMOS)の設立につながる1964年の「ベネチア憲章」は、歴史的記念物は「単一の建築作品」だけではない、と明言した。「特定の文明」や「事件の証跡」などを具えた「都市や田園の環境」も含むというのだ。著者によれば、これは「草の根の庶民の生活する生活環境こそが歴史的環境」とみる思想をはらんでいる。水車小屋や納屋のある風景を歴史的環境とみなす考え方とも、軌を一にしているといえよう。

点ではなく面を、という発想は私にもしっくりくる。そのことを痛感したのは、東京・国立競技場の建てかえ問題だ。最初に選ばれた案は「単一の建築作品」としては斬新で、魅力もあった。だが、それが彼の地にふさわしいかどうかは別の話だ。そこには1943年の学徒出陣壮行会という刻印がある。1964年東京五輪の記憶もある。戦争と高度成長の残影のなかに新競技場を置いてみる、という発想はあまり感じられなかったように思う。(*)

この本で見逃してならないことは、もう一つある。歴史的環境の保存再生では「再生」の比重が大きいということだ。たとえば、ドイツ(この本では「西ドイツ」)南部の小都市ローテンブルクは「中世以来の町並みを、ほぼ完全な形で復元した」。第2次大戦末期の空襲で市内の建物は半分近く失われたが、それを元に戻したのだ。背景には「中世以来、たびたび戦火を受けて」「復元をくりかえしてきた」市民たちの伝統がある、と著者は言う。

これを読んでわかるのは、「面としての歴史的環境」の尊重が1960年代に叫ばれた理由だ。古来、町や村は戦火や大火で幾度となく破壊の憂き目に遭ってきた。ただ、そのたびに元と変わらない風景が再現されたのは、建築土木の技術革新が緩やかだったからだろう。ところが20世紀、壊れた建造物は、放っておけば鉄とコンクリートと新建材のかたまりに置き換えられる宿命にあった。意志をもって「復元」する必要が出てきたのだ。

この本では、長野県にある中山道の宿場町、妻籠宿の「復元」も詳述されている。妻籠は町並み「保存」の成功例と言われることが多いが、実は「復元」の側面があった。1967年、建築史学者太田博太郎氏のグループが町並みの現状を調べ、聞き取り調査もして、古文書や古図を漁った。改造された家が多かったので、沿道の1軒ごとに住人と相談を重ねて図面を引き直し、「正面から奥行き一間をできる限り復元するようにした」という。

「復元」にからんで複雑な思いにかられるのは、この本に東京・丸の内の「三菱旧一号館」が出てくることだ。英国の建築家ジョサイア・コンドルの設計で、「飛鳥時代の法隆寺にも比すべき明治時代の代表的建築」(太田氏)とまで言われていた。ところが三菱地所は1968年、再開発のため、保存を求める声を押し切って解体した。著者はこの本で「建物のイメージを保存するような何らかの工夫」があるべきではなかったか、と批判している。

ところが2009年、驚くべきことが起こる。三菱地所が同じ場所に、旧一号館そっくりの「三菱一号館美術館」を建てたのだ。これも「復元」ではある。ただ、自分で壊して自分で元に戻すという自作自演からは、アメニティの思想よりも資本の論理を感じてしまう。

さて、新聞記者になってアメニティの記事を書きたい、という私の初心は実らなかった。だから今、一個人として叫ぼう。あるべきものはあるべき場所にあれ、と。
*当欄2021年7月23日付「1964572021の東京五輪考参照
(執筆撮影・尾関章)
=2022年5月13日公開、同月16日更新、通算626回
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