プレート論が待たれた時代

今週の書物/
『大地の動きをさぐる』
杉村新著、岩波現代文庫、2023年6月刊

プレート

「プレート」と聞いて、何を思い浮かべるか? 50年前なら「ビルの銘板」や「自動車のナンバー」だっただろうが、最近は「地球を覆う岩板」「地震を起こす岩板」と答える人が結構いるのではないか。東日本大震災を経験した今なら、なおさらだ。

地球科学にプレートテクトニクスという理論(以下、プレート論と呼ぶ)が登場したのは、1960年代のことだ。地球表層部は、そこが陸か海かを問わず、幾枚もの岩板(*1)で覆われている。それらはゆっくり動いており、境界部では互いに押したり離れたり、片方がもう一方の下に潜ったり、とさまざまな相互作用をする。これが地震などの地学現象を引き起こしている――ザクッといえば、こんな地球観だ。1970年代初めまでに広まった。

ところが日本の学界では、この理論がなかなか受け入れられなかった。その事情については、今年5月の当欄でも触れたように、泊次郎著『プレートテクトニクスの拒絶と受容――戦後日本の地球科学史』(東京大学出版会、2008年刊)が跡づけている(*2)。その本によれば、プレート論は東西冷戦のさなかに西側世界で確立されたこともあって、反米機運から嫌われたり、弁証法的唯物論の史観に乏しいと指弾されたりしたという。

イデオロギーが科学を歪めた例だ。ただ、このときでも日本国内にはプレート論を支持する研究者たちがいた。いや、支持という表現はふさわしくない気がする。地道な研究を重ねていたら、プレート論的な見方にたどり着いたと言ったほうが的確だろう。

その一人に私は会っている。大阪市立大学教授を務めた構造地質学者、藤田和夫さん(1919~2008)だ。関西の山々を歩きまわり、六甲山系の花崗岩が「ぼろぼろ」なのを見て山が押されていることを実感した。その「押すしくみ」をプレート論が説明してくれた。(*3)

日本列島の地殻変動に「押すしくみ」が欠かせないことに気づいたのは藤田さんだけではなかった。今年6月に出版された『大地の動きをさぐる』(杉村新著、岩波現代文庫)は、そのことを教えてくれる。国内には大地の隆起沈降や断層活動を探る研究が多くあり、その蓄積のうえに著者たち自身が実地調査で得た知見を重ねあわせてみると、「押すしくみ」の存在が確信できたというのだ。ちなみに本書には、藤田さんの名も随所に出てくる。

著者は1923年生まれ。東京大学で地質学を学び、神戸大学で教授を務めた。著書に『グローバルテクトニクス』(東京大学出版会)など。2014年には日本地球惑星科学連合から「フェロー」として顕彰された。同連合の公式サイトを開くと、「主な業績」の一つに「プレートテクトニクス理論の重要性を早くから理解し、日本列島の新生代の地震・火山活動と構造運動をプレートの動きと関連づけて研究した」ことが挙げられている。

本書は、岩波書店が少年少女向けに出していた「岩波科学の本」シリーズの一冊(1973年刊)を文庫化したものだ。ちょうど50年を経ての再登場である。半世紀の歳月を感じさせることがいくつかある。なにより驚くのは、巻末索引に「プレート」や「プレートテクトニクス」という言葉がまったく出てこないこと。前述のように日本国内では、プレート論は1973年の時点で欧米発の新説でしかなかった。この事情を反映しているのだろう。

本書の性格をめぐって、一つ書き添えたいことがある。岩波書店のウェブサイトによると、「岩波科学の本」シリーズは「著者みずからが研究の中で体験したこと」や「科学の探求の道すじ」を重んじていた。本書も導入部で、著者が旧制高校時代から地学好きで、学術論文も読み込んでいたことが書かれている。「まえがき」では、読者に「初めから通して読んでいただきたい」と要請。体験談の一つひとつに著者の思い入れがあるのだろう。

このように本書の視点は、著者の探究心に根差している。ただし、著者自身がかかわった研究を紹介することにとどまってはいない。同分野や近隣分野の人々の仕事に目を配り、それらを突き合わせたら見えてくるものがあった、という思考体験も披瀝されている。

たとえば、第2章「地盤沈下の正体」。地盤沈下は、国内の大都市低地部で20世紀半ばに顕著になった現象だが、科学者が地下水位の観測を重ねた結果、これは地下水が大量に汲みあげられ、粘土層が水分を失って縮むために起こることがわかったという。「地殻変動の一種ではない」と結論づけられたのである。一見すると、当たり前のことを確認しただけのように見える。だが、科学ではそのプロセスが大事なことを著者は説く。

地球科学者が地学現象をとらえるとき、相手にするのは「地殻」だ。東京を例にとると、低地の地盤沈下を起こす有楽町層は堆積層で、できてから2万年未満なので地殻を覆うものでしかない。「沈下」が地殻変動と異なるならば、研究の対象から外せることになる。地盤沈下の解明は「解こうと思っている糸のからまりに、もう一本別の糸がからまってわからなくなった状態から、その一本を抜いてしまったようなもの」だった。

地盤沈下は、都市問題としては解決すべき難題だ。だが、地球科学を究めるときは、とりあえず度外視してよい。科学者には、ときにこういう思考の整理が必要なのだろう。

本書の大きな読みどころは、中盤で岐阜県の阿寺断層を語るくだりだ。1950年代後半、木曽川沿いの恵那郡坂下町(現・中津川市)で河岸段丘を横切る断層崖が見つかった。これは、阿寺断層の南東部分だった。著者は1961年、研究仲間と現地調査に入る。段丘崖と断層崖が入り交じる一帯で断層のずれを測るという手間のかかる作業だった。その結果、水平のずれが垂直のずれの5倍ほどあり、それが「左ずれ」(*4)であることがわかった。

このとき、著者は宿で仲間と語りあっている。高さ10mのビルは「見上げなければならない」が、地面を10m歩くのは「あっという間」だ。断層のずれも水平成分は「目立たない」。それが垂直成分よりも大きいのを「定量的」に示せたことの達成感は大きかった。

「左ずれ」は著者の予想通りだった。それは過去の地震で地表部に現れた断層の様子から推察されたことだ。日本列島で19世紀末~20世紀半ばに起こった大地震の水平ずれ断層には規則性があった。これらの断層は〈北―南か、北西―南東〉方向と〈東―西か、北東―南西〉方向に二分され、前者は左ずれ、後者は右ずれなのだ。阿寺断層は1891年の濃尾地震でできた根尾谷断層にほぼ並行で、北西―南東方向に走る。これが予想の根拠だった。

地震によって出現する断層は地震断層と呼ばれる。阿寺断層は、そうではない。だが著者は、両者を「同格」に扱う。これも見逃がせないところだ。阿寺断層は過去何千年、あるいは何万年の間にずれを生じる活動を経験したとみられ、地震断層と同様「活断層」だからだ。「一〇〇〇年単位というような長い目で見れば、『今』でも動きつつある」といえる。ここでは「今」の時間幅を地球規模に広げて、大地を動態でとらえている。

著者は水平ずれ断層を日本地図に落とし込んでいく。新しい知見が得られれば、それを加えていった。これには、前述の藤田さんが見つけた断層も含まれる。こうしてできあがった分布図からも、あの規則性が浮かびあがった。しかも、それぞれの断層は〈北―南か、北西―南東〉と〈東―西か、北東―南西〉の「格子模様」に乗っかっているように見えるのだ。その格子のます目は「真四角」というより「菱形」。ひしゃげていた。

著者は、謎解きの糸口として岩石の圧縮実験を紹介している。圧縮力のかけ方次第で、ひび割れがひしゃげた方向に現れ、その方向によって左ずれ、右ずれに分かれたという。同様の力が日本列島中央部には働いているのだろうとみる藤田説に著者は言及している。

著者は本書で、謎を解き明かしてはいない。「このような現象を支配していると思われる、より本質的な現象が、いつか思いがけない方面から明らかにされるかもしれない」と述べるにとどめる。「より本質的な現象」で真っ先に思い浮かぶのはプレート運動だ。

だが、繰り返しになるが、本書はプレートには一切触れていない。格子模様についても、それを生みだす力の存在を示唆するだけ。ただそれでも、地殻変動の背後に地球規模のうごめきがあるらしい、と読者は感じることができる。凄みのある本だ。
*1新聞は「岩板」と表記してきたが、「岩盤」の用語もある。
*2 当欄2023年5月19日付「311大津波、科学者の憤怒
*3 朝日新聞2009年1月15日付夕刊「窓」欄「政治に揺れた地学」
*4 断層の向こう側の地面が左方向に動くとき、「左ずれ」という。
☆引用箇所にあるルビは原則省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年9月8日公開、通算694回
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震災を社会的事件として省みる

今週の書物/
『関東大震災――その100年の呪縛』
畑中章宏著、幻冬舎新書、2023年7月刊

9月1日午前11時58分

震災から100年と聞いて、キョトンとした人も多いだろう。いま震災といえば、まずは2011年の東日本大震災を思い浮かべる。1995年の阪神・淡路大震災を思いだす人も少なくないだろう。だが、高齢世代には別の記憶もある。私は東京育ちなので、幼いころに年配の人たちが「震災のときは……」と語りあっていたことを覚えている。ここで震災は1923(大正12)年の関東大震災(大正関東地震)を指す。震災と戦災は近過去の二大災厄だった。

関東大震災は1923年9月1日午前11時58分に起こった。震源については諸説あり、相模湾北西部、神奈川県西部などといわれる。地震の規模はM7・9と推定されている。東京とその近隣県は震度6の揺れに襲われた。関東地方南部や東海地方などが被災して、死者・行方不明者は計10万5000人余。昼食の時間帯だったので、都市部では火災が相次いだ。東京では、中心部の東京市域(15区)の4割強が焼き尽くされたのである。

震災当時、私の祖父一家は千駄ヶ谷(現・東京都渋谷区)で和菓子屋を営んでいた。父は生後5カ月で、祖母は授乳中だった。祖父が突然の揺れに驚いて外へ飛び出したところ、屋根瓦が落ちてきたという。ともあれ、一家は火災にも倒壊にも遭わずに済んだ。

震災が私のファミリーヒストリーにもたらした最大の変化は、郊外移転だ。東京は震災後、焼けだされた人々であふれかえり、都市圏の膨張が加速された。私鉄の郊外電車が次々に開通・延伸して、田園地帯に新しい住宅街が生まれていた。祖父は、その機運に乗じて新天地を郊外に求めた。昭和に入ってからだが、山手線の内側を去り、外側の私鉄沿線に移り住んで駅前商店街に店を開いた。戦後、その店舗兼住宅で私は育ったのである。

そう考えると、関東大震災は私とも無縁ではない。で、今週は、震災100年の節目に『関東大震災――その100年の呪縛』(畑中章宏著、幻冬舎新書、2023年7月刊)を読む。著者は1962年生まれの民俗学者。『天災と日本人』(ちくま新書)などの著書がある。

本書を執筆するにあたって著者が抱いた問題意識は、巻頭の一文「はじめに」に要約されている。「災害」は震動や津波、氾濫、暴風、噴火だけでは成り立たない。「天変地異が起こった場所に人間が住んでいること」が不可欠の要件なのだ。だからこそ、「自然科学や建築工学の領域から検証するだけではなく〈社会的事件〉としてみるべきではないか」――。その通りだ。関東大震災については、とくにこの視点が求められる。

私が思うに、関東大震災の災厄像は三つほどのキーワードで特徴づけられる。下町の大火、流言蜚語、朝鮮人虐殺だ。このうち下町の大火は、地震の揺れという自然科学的な現象が直接もたらしたものだが、流言蜚語と朝鮮人虐殺はそうではない。このようなことがなぜ、どうして起こったのかを解き明かそうとするなら、世相や集団心理に対する考察が必要になる。歴史的、政治的、経済的な背景も総覧しなくてはならない。

本書は、関東大震災を「社会的事件」ととらえている。全編を二分すると、前半は震災の実相と影響を論じているが、後半では時間軸を延ばし、1945年の東京大空襲や1964年の東京五輪、1970年の大阪万博、1995年の阪神・淡路大震災、2011年の東日本大震災、2021年の再度の東京五輪なども話題にしている。著者は、それらに関東大震災の「呪縛」を見いだそうとするのだが、率直に言えば、必ずしも納得がいく話ばかりではない。

そこで当欄は今回、本書前半に的を絞ることにしよう。そこでは著者が、関東大震災の知られざる一面に光を当てているからだ。これを読むと、私たちはこの100年間、震災を偏った見方でとらえてきたのではないか、という気持ちになってくる。

私が目を見開かされたのは、冒頭の「〈当事者性〉と〈非当事者性〉」と題する章を読んだときだ。ここで著者は、江戸時代以来の「山の手と下町の格差」に着目する。関東大震災で「破壊的な状況を呈した」のは下町だった。ところが、震災体験を書き残した知識人はたいてい山の手にいたので「それほど震えなかった」(太字部分は原文では傍点、以下も)――。震災史話の多くは、災厄をその「非当事者」が語るという構図を内在させているのだ。

著者が引用する文献の一つが、作家田山花袋(1872~1930)の『東京震災記』。花袋は代々木の自宅で地震に見舞われ、戸外へ出て庭木の陰で自宅が揺れる様子を見ていたが、「この時、前の二階屋の瓦は凄まじい響を立てて落ちた」という。代々木は千駄ヶ谷に近いから祖父の証言とも辻褄が合う。注目したいのは、「このくらいですめば、そう大した大地震というほどのこともない」と安堵する人がいたことを花袋が記していることだ。

著者が指摘する通り、ここには「下町の被害との空間的、心理的な距離感」が見てとれる。ただ、花袋はやはり自然主義の作家だ。『東京震災記』では市街地の大火に目を向け、「凄まじい火の旋風」が起こったことや「何処に行っても全く火」という状況が出現したこと、犠牲者数が「数万」を超えたことに言及。下町の焼け跡を回り、「黒焦げ」の遺体頭部が「炭団(たどん)」のように「際限なく重なり合っている」惨状も報告している。

当事者性の希薄さは、流言蜚語に結びついたようだ。一般に噂の大きさは〈重要度〉×〈曖昧さ〉の掛け算で決まる、といわれる。本書によれば、関東大震災でも「東京全域が壊滅・水没する」「津波が赤城山麓にまで達する」などの風説が飛び交ったというが、これは情報が東京下町の「当事者」から山の手の「非当事者」に広がるうちに不確かなものとなって〈曖昧さ〉の度合いを強めたとみれば、当然のことのように思われる。

腑に落ちないのは、流言蜚語のなかに「朝鮮人が暴徒化して、井戸に毒を入れ、また放火して回っている」というデマが交ざっていたことだ。この情報は、地震とは無縁の要素で構成されている。地震と聞いて思い浮かぶ天変地異――大地の陥没や海洋の津波、火山の噴火など――とは無関係なことが言いふらされたのだ。唐突感を否めない。そしてこのデマが、市井の人々による朝鮮人虐殺という日本近現代史の汚点となる事態を引き起こした。

著者はこのデマの発生原因について、「治安当局や軍が仕掛けた」とする見方を含め諸説があることに触れたうえで、こういう。「『日常』的に弱者だったものたちが、『非日常』時においては最弱者となる」「限界状況で、日々の差別が極限まで助長される」――。この分析に私なりに言葉を補えば、日本社会が近代化の途上で身につけてしまった異質なものを排除する傾向に首都東京の非常事態が火をつけた、ということではないか。

朝鮮人虐殺にかかわる話で背筋が凍ったのは、著者が作家志賀直哉(1883~1971)の『震災見舞』を引用したくだりだ。志賀は、自分の乗った列車が信越本線松井田駅(群馬県)に停車中、兵士を含む一群が朝鮮人らしい人物を追いかけているのを車窓から目撃した。追っ手の一人が戻って来て、友人に打ち明ける――。朝鮮人でないとわかったが、「こういうときでもなけりゃあ、人間は殺せねえと思ったから、とうとうやっちゃったよ」。

志賀は、このあと「ひどい奴だと思ったが、ふだんそう思うよりは自分も気楽な気持ちでいた」と書き添えている。白樺派作家が自己の内面を通して描こうとしたものは「無関心が冷酷を生みだしてしまう」現実だ、と著者はいう。「正直な描写」だが、「むごさを感じざるをえない」とも。同感だ。イモリに生命の本質を見た鋭敏な感覚()は、そこに見てとれない。「気楽」の背後には、やはり山の手目線の〈非当事者性〉があるのだろうか。

本書によれば、当時の山本権兵衛首相は「内閣告諭」で、震災後の朝鮮人迫害を非難して「日鮮同化の根本主義に背戻(はいれい)する」「諸外国に報ぜられて決して好ましきことにあらず」と述べたという。大陸進出を正当化する帝国主義の立場から見ても、望ましい事態ではなかったのだ。だが政府は震災後、帝都の復興ばかりに熱心で、虐殺の素地となった民族差別は放置した。このことが次の時代に反戦思想を阻害したことは間違いないだろう。

著者は、第一部「関東大震災という〈大事件〉」の結語で、大震災は「文明史的転換」の「契機」となりえたが、そうはならなかったという。災害を社会的事件ととらえて検証できたはずだが、それを怠り、「批判的転換の機会」を逸したのだ。翻って思うに、私たちは今も、同種の誤りを繰り返していないか。東日本大震災も、コロナ禍も、自然の災厄でありながら社会的事件だ。それなのに、災厄後の社会を変えようという機運がなさすぎる。
* 「本読み by chance」2018年7月13日付「志賀直哉という教科書風レトロ
☆ 『東京震災記』『震災見舞』の引用は、本書に従って現代表記にしてあります。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年9月1日公開、通算693回
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処理水放出を倫理の次元で考える

今週の書物/
朝日新聞社説「処理水の放出/政府と東電に重い責任」
2023年8月23日朝刊

社説の見出し(*)

東京電力福島第一原発が大事故を起こしてから12年、ついにこの日が来てしまった。処理水の海洋放出だ。事故で破綻した原発が、たまる一方の難物をとうとう抱えきれなくなった、という意味で大きな区切りである。当欄も黙ってはいられない。

ということで、今回は予定を変更して朝日新聞の社説を読み、この問題を考える。というのも、このテーマは、新聞社の論説委員にとって論評が甚だ難しいものだからだ。現役の委員諸氏もたぶん、悩んだに違いない。その悩ましさを、ここで共有してみたい。

朝日新聞は2023年8月23日朝刊の社説「処理水の放出」で、「政府と東電に重い責任」という見出しを掲げた。第1段落でいきなり、「内外での説明と対話を尽くしつつ、安全確保や風評被害対策に重い責任を負わなければならない」と釘を刺している。

そこに的を絞ったか。私は瞬時にそう思った。処理水の放出は政府が決定し、東電が実行する。両者に責任があるのは当然だ。社説は、その念を押すことに力点を置いている。

半面、気になるのは最後の1行まで、処理水海洋放出に対する賛否を明らかにしていないことだ。これは、ひとり朝日新聞だけのことではない。処理水問題を伝えるテレビ報道などを見ていても、放出の是非について立場を表明しない例が多いように思う。

理由はこういうことだろう――。処理水は原子炉から出る汚染水から放射性物質の大半を除いたものなので、「処理」済みではある。だが、そこには水分子に紛れ込んだ水素の放射性同位体トリチウム(半減期約12年)が残っている。今回は、処理水を大幅に薄めて海に流す。生物や生態系への影響が心配だが、政府や国際原子力機関(IAEA)は「安全」と言っている。さて、それを鵜呑みにしてよいかどうか。メディアはそこで悩む。

環境省や資源エネルギー庁の公式ウェブサイトは、トリチウムが自然界にも一定程度存在すること、それが放射するベータ線はエネルギーが弱いこと、生体に入っても水とともに排出されてしまうので蓄積されにくいことなどを強調している。こう言われると、健康被害のリスクは無視できるほどなのだろうと思わないでもないが、その一方で、まだわかっていないこともあるのではないかと疑ってしまう。ジャーナリストとは、そういうものだ。

だから、メディアは処理水の放出について、積極的に賛成とは言えない。だが、逆に反対とも言いにくい。なぜなら、福島第一原発敷地内のタンク容量がほとんど限界に達しているからだ。もはや、処分を先延ばしにできないという言い分もわからないではない。

反対を主張しにくい事情は、もう一つある。もしメディアの一部が、安全問題の未解決を理由に放出に異を唱えたとしても、政府はそれを強行するだろう。すると、そのメディアは地元海産物の安全を疑問視しているような構図になる。その結果、風評被害に手を貸している、という糾弾を招きかねない。のみならず、海外の日本産海産物禁輸の動きに迎合していると揶揄される可能性もある。それは、メディアにとって本意ではないだろう。

この社説は、今回の放出を「国際的な安全基準に合致」しているとみるIAEAの見解に触れ、「計画通りに運用される限り、科学的に安全な基準を満たすと考えられるが、それを担保するには、厳格な監視と情報開示が不可欠」と述べている。とりあえずは「安全基準に合致」の判断を尊重しよう、ただ、それには条件がある、監視を続け、結果を公表することだ――これが、安全について打ちだせるギリギリの立場だったのかもしれない。

ただ私としては、社説にはもう一歩、踏み込んでほしいと思う。安全とは別の次元で、処理水放出の是非を論じられるのではないか、ということだ。その次元とは倫理である。

放出が安全かどうかはひとまず措こう。安全が不確かならやめるほうがよいが、先延ばしできないなら条件付きで受け入れざるを得ない。ただ、条件は「監視」と「開示」のほかにもある。それは、処理水の放出を倫理の座標軸に位置づけることだ。

自然界では、宇宙線などの作用でトリチウムが生まれている。そこに人間活動によって出現したものを上乗せするのが、今回の処理水放出だ。そのトリチウムの生成は、人間が巨大なエネルギーを手に入れるために原子核の安定を崩したことに由来する。人類は20世紀半ばまで、原子核の中に“手を突っ込む”ことはなかった。トリチウムの上乗せは、その一線を越えたことのあかしでもある。そのことは心に刻まなくてはならない。

それが何だ、という見方はあるだろう。だが、自然界のバランスに私たちは鋭敏でなければならない。バランスの攪乱は、たとえ小さなものでも長く続けば不測の結果をもたらすことがあるからだ。この認識を共有することは、後継世代に対する倫理的責務ではないか。

トリチウムの放出が世界の原子力施設で日常化しているのは事実だ。それらが法令や基準の範囲内ならば、違法とはいえない。だが、この一点を理由に正当化できるわけでもないだろう。原子力利用の是非にまで遡って未来の放出を避ける選択肢も考える必要がある。

メディアの論評は、現実的でなければならない。だが、だからと言って現実的でありすぎてもいけない。たとえ現実を受け入れても、言うべきことは言っておくべきだろう。
* 朝日新聞8月22日朝刊と翌23日朝刊から
(執筆撮影・尾関章)
=2023年8月25日公開、同日更新、通算692回
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日高敏隆、DNA時代の動物観

今週の書物/
『人間はどういう動物か』
日高敏隆著、ちくま学芸文庫、2013年刊

DNA

私が「科学記者」になったのは、1983年のことだ。私がいた新聞社で大阪にも「科学部」を置くことになり、その一員に加わったのだ。希望が叶っての異動だった。

とはいえ、科学記者になってみると戸惑うことが多かった。取材先は、たいてい大学の研究者。研究室をふらりと訪ねても会ってはくれない。警察署や役所の取材とは勝手が違った。アポイントメント(面会予約)という言葉を使うようになったのも、そのころだ。

そんなアポイントメント取材で印象深いのは、当時、京都大学理学部教授だった動物行動学者の日高敏隆さん(1930~2009)だ。昆虫類から鳥類、哺乳類まで動物世界の語り部としてメディア露出も多かった人だ。だが、それだけではない。動物の研究を通じて人間のありように関心を抱き、文明批評にも長けた教養人だった。虫ぎらいの私が幾度となく日高研究室にアポをとったのも、日高さんの幅広い好奇心に魅せられていたからだろう。

あのころのことを思いだそう。研究室に入ると、ゼミ室のような一角に案内された。真ん中に、木製の大机がどんと置かれている。その机を挟んでまず、日高さんと向きあう。日高さんは、当日私が取材させてもらう予定の研究をかいつまんで話し、愚問にも答えてくれた。ただ話の区切りがつくと、パッと立ちあがって、どこかへ消える。そのあと、実地調査の手順や観察の結果を具体的に説明してくれるのは、若手の研究者だった。

これは間違いなく、日高流の心づかいだった。大学の場合、科学論文が連名で発表されるとき、研究の中心にいる若手研究者が筆頭著者となり、指導役の教授が最終著者になることが多い。ところが、メディア報道では「〇〇教授のグループが発表した」とされるのが通例で、若手研究者の存在が隠されてしまう。日高さんは、それを避けようとして記者を若手に引きあわせたのだ。実際に私の記事では、その若手が主役として登場していた。

日高さんの思い出は尽きない。だが、それに浸っていては行数を費やすばかりだから、昔話は後日に譲ろう。今回焦点を当てたいのは、20世紀にあった生命観の変転だ。

生物学では今からちょうど70年前、1953年に遺伝子本体DNA(デオキシリボ核酸)の立体構造が突きとめられた。その結果、生命はDNAで説明されるようになったが、このとき私たちの念頭にあるのは細胞レベルの現象だった。いわばミクロの生物学だ。ところが、話はそれだけでは終わらない。ミクロに呼応するようにマクロの生物学にも変化が起こった。日高さんもマクロの側にいる生物学者だったが、DNAと無縁ではなかった。

で、今週の1冊は『人間はどういう動物か』(日高敏隆著、ちくま学芸文庫)。これは、『日高敏隆選集Ⅷ』(本郷尚子編集、ランダムハウス講談社、2008年刊)の文庫化だ。第一章の章題で書名同様に「人間はどういう動物か」と問いかけ、第二章「論理と共生」、第三章「そもそも科学とはなにか」と話の幅を広げている。学術書のような組み立てだが、読んでみると雰囲気がまったく違う。肩の凝らないエッセイ集という感じだ。

本書は第一章冒頭の一文で、「人間もまた動物である」と宣言する。これは当たり前の事実でありながら、なかなか受け入れられないという。近現代には「人間は動物よりもえらい」「人間には理性がある、知性がある」という人間観が強まった。だが著者は、現実には戦争が後を絶たないことを指摘する。だから、私たちは自身も動物であることを認め、「人間とはいったいどういう動物なのか」を問い直すべきだ、と提言する。

こうして第一章では、人間は「直立二足歩行」をするために体の構造をどう変えてきたのか、人間が「毛のないけもの」になった理由は何か、などが話題となる。人間社会も俎上にあがり、一夫一婦制や少子化が動物行動学の視点から考察される。

読み進むと「人間はなぜ争うのか」と題する一節にも出あう。ここでまず登場するのが、オーストリアの動物学者コンラート・ローレンツ(1903~1989)。動物行動学を切りひらいた人だ。その研究から引きだした結論は「すべての動物のすべての個体は攻撃性をもっている」。個体は、なわばりや食べもの、異性などをめぐって同類の仲間と争う。この攻撃性は「遺伝的に組みこまれたもの」であり、「種を維持するために不可欠なもの」だという。

ところが動物行動学が進展するにつれて、「個体の攻撃性」を「種族維持のため」とみるローレンツの学説に反論が現れる。そうではなくて、「個体自身の遺伝子をできるだけたくさん後代に残していく」ためだという。英国の進化生物学者であり、動物行動学者でもあるリチャード・ドーキンスが唱えた「利己的遺伝子」説だ。ドーキンスは「利己的なのは遺伝子であって、個体ではない」と主張する。個体は「遺伝子のロボット」なのか。

話を整理しよう。「攻撃性」をローレンツは「遺伝的」なものととらえた。ドーキンスは「遺伝的」なものを具体的に「遺伝子」としてイメージした。結果として主役は遺伝子に取って代わられ、生物の個体や種は遺伝子を運ぶ乗り物になってしまった――。

第二章「論理と共生」では、意外だが都市計画の論考が並んでいる。都市工学、環境工学系の雑誌に寄稿したものが集められているからだ。だが、そこにも動物行動学者の視点は見てとれる。たとえば、「計画と偶然の間」と題された一編を見てみよう。

そこではアリの巣が「じつにうまくできあがっている」ことなどを例に挙げ、「地球上の自然」は「あたかもデザインされたよう」であるという。これは、生物の「形」や「構造」や「機能」、生物種間の「関係」にもいえることだ。では背後に、だれかデザイナー(設計者)がいるのか? 著者は、ここでもドーキンスを引きあいに出す。ドーキンスは、デザイナーは不要として「偶然の突然変異と自然淘汰。それだけでじゅうぶん」と断じている。

著者の思考に広がりがあるのは、このドーキンス説を都市論に結びつけていることでもわかる。砂浜の美が「打ち寄せる波という偶然」から生まれたように、心地よい風景に「偶然」が果たす役割は大きい。これを踏まえて著者は言う。「人は都市計画によって『与えられた』ものだけでは、けっして心から満足することはないだろう」。この一編の初出は「日本都市計画学会」の刊行物への寄稿だが、そこで計画至上論をチクリと刺している。

第三章「そもそも科学とはなにか」には、ローレンツが再登場する。ローレンツが動物の行動は「遺伝的にもともと決まっていて」、そのもって生まれた性質が「あるきっかけで」顕在化すると気づいたのは1930年代のことだ。著者によれば、そのころは動物の行動は学習によって身につけたものとみる考え方が主流だった。そんな思潮が背景にあったので、ローレンツの学説は「古い」「保守反動」と冷ややかに扱われたという。

当時は旧ソ連が台頭したころだ。ソ連では、農学者T・D・ルイセンコが遺伝よりも環境の影響を重くみる学説を提唱、それが政治思想と結びついた。動物の行動を生得的ととらえるローレンツの学説に「保守反動」のレッテルが貼られても不思議はない。

ところが20世紀半ば、形勢が逆転する。ローレンツは、本書の見出しにあるように「時代の『すこし先』をいっていた」のだ。1953年、DNA立体構造の発見で遺伝子の正体がわかり、生命現象の多くがDNAの働きに還元されるようになった。DNAの探究はミクロの領域にあるが、その影響はミクロにとどまらない。遺伝の実体がつかめたことでマクロ生物学も変わった。ドーキンスの利己的遺伝子説はその代表例だろう。

ただ、DNA重視の流れは人間のゲノム(遺伝情報一式)解読に行き着いて、今度は偏重の兆しが見られるようになった。親が子の遺伝情報を設計しようというデザイナーベビーの発想も一例だ。その落とし穴を日高さんならどう論じるか。読んでみたい気がする。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年6月30日公開、通算684回
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アメニティの本質を独歩に聴く

今週の書物/
「武蔵野」
国木田独歩著、新潮文庫『武蔵野』所収、1949年刊

落葉樹

半年ほど前、当欄はアメニティを話題にした(*1)。あるべきものがあるべき場所にある、という景観の心地よさだ。読んだ本は『歴史的環境――保存と再生』(木原啓吉著、岩波新書、1982年刊)だった。ただ、あのときに突きつめて考えなかったことがある。あるべき場所にあってほしい〈あるべきもの〉とは何か、という問題だ。そもそも、どんなものを指してあるべきだ、と言えるのか。今回は、この難題と向きあいたい。

その前に先日、図書館で貴重な収穫があったことを報告する。朝日新聞縮刷版で木原啓吉さんが新聞記者時代に書いた記事(*2)を再読したとき、そこに〈あるべきもの〉の例示があったのだ。英国の都市計画家コーリン・ブキャナン氏が、アメニティを「英国人にとっては、はだでわかる価値の尺度」と説明して、その価値の代表例を「村に伝わる一本の樹、麦畑の向こうに見える教会の塔、きれいにデザインされた川のセキ」と列挙している。

ここから浮かびあがるアメニティの本質とは何か。「一本の樹」「麦畑」「川」から、植物や水の流れなど自然の風景が必須要素であることがわかる。「村に伝わる」からは、過去と切り離せないことも感じとれる。「麦畑」「教会の塔」とあるから、人間社会の生活や文化にもかかわるようだ。いや、それどころではない。「きれいにデザインされた川のセキ」も例に挙がる。アメニティは、土木工学的な自然改変すら含むということだ。

アメニティを定義づけることは難しい。それは、一つの物差しで測れない。自然度だけを見れば原生林がもっとも望ましいことになるが、代表例の「一本の樹」や「麦畑」はそれとは趣が異なる。人工美に目を向ければ超高層ビル群や巨大ダムもアメニティの源になりうるが、それを〈あるべきもの〉の勘定に入れるかどうかでは賛否が分かれるだろう。「川のセキ」に添えられた形容句「きれいにデザインされた」には、ほどほどの人工感がある。

くだんの記事では、ブキャナン氏もアメニティが「数量化しにくい要素」であることを指摘している。それは「貨幣価値には換算しにくい」ので、大型公共工事の環境影響評価があったときなど、費用便益分析の項目としてほとんど考慮されない、というのだ。

私の脳裏には学生時代の1975年、この記事を紙面掲載時に読んだ日の感想が蘇る。あのころは、アメニティはやがては金銭に代えがたい価値として認められ、社会に組み込まれるだろうと思っていた。だが、50年近くが過ぎた今、予想は半分当たり、半分は外れた。私たちの身のまわりのアメニティは豊かになったが、それは商業施設だったりリゾートだったりして貨幣価値に結びつけられている。新自由主義の時代らしい展開である。

で、今週は国木田独歩の「武蔵野」を読む。短編小説集『武蔵野』(国木田独歩著、新潮文庫、1949年刊)の冒頭に収められた表題作だ。この一編は1898(明治31)年、「国民之友」誌で発表された。初出時の題名は「今の武蔵野」。著者(1871~1908)は千葉県銚子生まれで、教師や新聞記者などの職を転々としたが、やがて詩人、小説家の道を歩むようになった。この作品も「小説」とされているが、私にはその分類に違和感がある。

恥ずかしい話だが、私はこの一編を今回初めて読んだ。未読の言い訳をすれば、それが小説とされていたからだ。自然の風景を題材にした小説ということなので花鳥風月を愛でることに終始しているのではないか、と思ったのだ。ところが、一読して私が感じたのは、これは都市論として読めるということだった。「論」といっても学者のそれではない。記者経験者らしく、見たもの、聞いたものを取り込んだエッセイ風の仕立てになっている。

この作品は、江戸時代文政年間(1818~1830)の古地図には武蔵野のおもかげはわずかに入間郡(いるまごおり)に残るだけと書かれていた、という話から始まる。ここで入間郡は、埼玉県南部一帯を指している。「昔の武蔵野」は、江戸後期ですらかなり姿を消していた、明治時代の今ならなおさらだろう、と言っているわけだ。だが著者は、「昔の武蔵野」の消失を惜しんではない。「武蔵野の美今も昔に劣らず」と言い切っている。

この話の切りだし方からもわかるように、著者の関心はひとえに「今の武蔵野」にある。だからこそ、作品の原題も「今の武蔵野」だったのだ。この冒頭部では、「今見る武蔵野」が自分の心を動かすのはそこに「詩趣」があるからだ、と述べている。

では、「昔の武蔵野」と「今の武蔵野」はどこが違うのか。読み進むと、その答えが明記されている。前者は「萱原のはてなき光景を以て絶類の美を鳴らして居た」。ひとことで言えば、原っぱだったのだ。一方、後者の主役は「楢の類」から成る「林」。雑木林である。江戸時代、江戸の近郊では新田開発が進められ、それに伴って樹木が植えられた。落ち葉は堆肥に、伐採木は薪炭の材料になる。こうして人々の生活と分かち難い林が広がった。

著者は、このくだりで文化論にも立ち入っている。日本人は、和歌や絵画で「松林」ばかりを愛で、「楢の類の落葉林の美を余り知らなかった」とみる。「冬は悉く落葉し、春は滴るばかりの新緑萌え出ずる」という変化の妙を最近まで理解しなかったという。だが、洋風は違う。ここでは、ロシアの作家ツルゲーネフの小説「あいびき」(二葉亭四迷訳)が引用されている。作中では、樺の林の落ち葉が金色に輝く様子などが描かれていた。

林は著者の身近にあった。著者は1896(明治29)年秋、東京郊外の渋谷村(現・東京都渋谷区松濤付近)に引っ越した。この作品には、当時の日記が紹介されている。9月7日の欄には、南風が吹き、雲が流れ、雨が降ったりやんだりの日々が続いていることを記した後、「日光雲間をもるるとき林影一時に煌めく」(太字部分は原文では傍点)とある。そのころの渋谷では雨あがりの日、樹林が陽射しにキラキラ輝いて見えたのだろう。

著者は雑木林の魅力を視覚で感じているだけではない。聴覚でもとらえている。「鳥」の羽ばたきやさえずり、「風」のざわめき、「虫」の鳴き声、「荷車」の響き、「村の者」の話し声……雑多な音が林の奥から、あるいは林の向こうから聞こえるという。著者のお薦めは「時雨の音」。そこに「私語(ささや)くが如き趣」があるからだ。この一編は、そんな林の「物音」を体験できる場所として中野、渋谷、世田谷、小金井の地名を挙げている。

この作品がただの風景礼讃でないのは、そこに著者の分析があるからだ。たとえば、高台に林と畑がどのように分布しているかを論じたくだり。林が長さ1里(約4km)未満の規模感であり、畑が林に三方を囲まれていたり、農家があちこちに散らばっていたりすることに触れ、畑と林が「ただ乱雑に入組んで居て、忽ち林に入るかと思えば、忽ち野に出る」と書く。「ここに自然あり、ここに生活あり」――北海道の「大原野大森林」とは違う。

著者が「武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない」と説いている点も見逃せない。武蔵野には「迂回の路」があるという。道が「林にかくれ、谷にかくれ、野に現われ」といったことを繰り返すのだ。それで、次のような指南もある。道が三つに分かれたら、杖を倒して倒れたほうへ進め、林の奥で道が分岐したら、小さなほうを選べ。「妙な処」へ行けるかもしれない……。散歩の極意は偶然任せ、無駄を楽しめということか。

このくだりを読んで、私は当欄の前身ブログでとりあげた『ぼくの東京案内(植草甚一スクラップ・ブック)』(植草甚一著、晶文社)を思いだした(*3)。散歩の達人植草甚一はこの本で、自分が住む町の迷路性とゴチャつきを得意げに語っているのだった。

この一編を私が都市論と呼びたいのは、武蔵野の景観に人間の関与を見ているからだ。著者は、ただの自然ではなく人の営みとともにある自然に「詩趣」を見いだす。その営みは、歴史とも無縁ではない。雑木林が広がった背景には、江戸時代の開墾がある。落葉樹に人々が魅せられる理由には、幕末の開国や明治時代の文明開化で洋風文化が浸透したこともあるだろう。アメニティは人々の生活や感性と結びつき、歴史ともつながっている。

そのことは、前述の「村に伝わる一本の樹、麦畑の向こうに見える教会の塔、きれいにデザインされた川のセキ」と見事に重なる。独歩は19世紀末、すでにアメニティの本質をつかんでいた。鋭い観察眼で、その本質がどう立ち現れるかまで見てとっていたのだ。
*1 当欄2022年5月13日付「あるべきものがあるアメニティ
*2 朝日新聞1975年11月26日付解説面連載「歴史的環境を訪ねて」第20回
*3 「本読み by chance」2015年5月22日付「植草甚一のハレにもケをみる散歩術
☆引用箇所にあるルビは原則、省きます。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年9月16日公開、通算644回
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