今週の書物/
「奇妙な子供」
リチャード・マシスン著、石田善彦訳
『不思議な国のラプソディ――海外SF傑作選』(福島正実編、講談社文庫)所収
忘れることが怖い年齢になった。日常生活のさまざまな局面で、この怖さを実感する。たとえば、玄関を出たときがそうだ。歩きだしてしばらくすると、カギを締めたか、締め忘れたかが気になる。20m先ならすぐ戻るが、50m先だとちょっと悩む。結局は引き返してドアをガチャガチャとやり、施錠済みを確認してホッとするのだが……。以前なら「心配性だな」と苦笑いしたものだが、最近は笑い話では済まされないと思うようになった。
記憶状態をテストしたりもする。先々週もちょっと触れたことだが、私はテレビの2時間ミステリー(2H)が好きだ(*)。今は地上波各局の新作の放映枠が消えてしまったから、旧作をBS局やCS局で観ることが多い。となると、主な制作年は1980~2000年代だ。画面には、懐かしい男優女優が次々に出てくる。そんなときに私が心がけているのは、彼ら彼女らの芸名をフルネームで思いだすことだ。2Hにはそんな効用もある。
このテストでは、ときに自信を失うこともある。その役者を知らないわけではない。世間的にも有名だ。レギュラーの出演番組から私生活の噂話まで次々に思い浮かぶのだが、なぜか名前だけが出てこない。「ほら、あの人、あの人だよ」。モヤモヤが喉元まで届いているのに言葉にならないという感じだ。思いつく苗字をア行、カ行……の順で想起してみるが、どうしても思いだせない。ところが数分たって突然、その名がひらめいたりする。
つくづく思うのは、人間がなにかを覚えているということの不可解さだ。たとえば、私がなかなか思いだせない俳優をAとしよう。Aの出演番組はドラマBやバラエティーCであり、私生活で噂される相手はDだとする。このとき、私の脳ではAがB、C、Dに紐づけられている。A、B、C、Dのネットワークだ。不思議なのは、記憶からAの名が消えても、なにものかがB、C、Dとかかわっているという情報は残存していることである。
で、今週は、私たちの生活が記憶に支えられていることを思い知らせてくれるSF。「奇妙な子供」(リチャード・マシスン著、石田善彦訳)という短編小説だ。『不思議な国のラプソディ――海外SF傑作選』(福島正実編、講談社文庫、1976年刊)に収められている。編者はSF系の作家兼翻訳家兼評論家であり、『SFマガジン』初代編集長としても知られる。その人が「おかしな世界」を描くSFの秀作12編を選んだものが、この短編集である。
この「奇妙な…」は、話の入り方は絶妙だ。夕暮れ時のオフィス街。西日がビル群の窓で照り返されている。窓の下からは車や人々が通りを行き交う音が聞こえてくる――そう、退社時刻だ。この小説の主人公ロバート・グラハムも仕事じまいのモードに入っていた。
午後5時きっかり、処理済みの書類を決裁かごに投げ入れ、帰り支度する。「きょうもまた終った」。さあ、家に帰って夕食だ。食後はテレビを楽しむか、それとも友人夫婦に声をかけてトランプのブリッジでもするか。解放感に浸ってオフィスを出る。
ところがグラハムは、エレベーターに乗ってから困ったことに気づく。妻に頼まれた買い物が何だったか、どうしても思いだせないのだ。シナモンだったか、胡椒だったか、それとも「えぞねぎ(チャイブ)」か。この困惑は彼を襲う変事の予兆にほかならなかった。
ビルの玄関から外に出たときのことだ。今度は、もっと差し迫ったことが思いだせなくなっていた。「今朝、おれはどこに車を駐めたろう?」。グラハムはマイカーで通勤していて、車は路上の駐車用スペースに置いていた。この朝とめたかもしれない場所を一つひとつ思い返していく。あそこはトラックが先にとまっていた、あそこは女性が車をバックギアで入れようとしていた……だが、自分の車がどこにあるのかは見当がつかない。
花屋の前ではないか。あそこにはこれまでも、しばしばとめていた。そう思って足を運んでみると、そこにもなかった。グラハムはその街角に茫然と立ち尽くして、駐車スペースに目を向ける。すると脳裏に、まず緑のフォードが浮かんだ。それが消えると、今度は青のシボレーが現れた。自分の車は緑の1954年型フォードのはずなのに、その記憶もぐらついている。「最初は駐車した車の場所を忘れ、今度は自分の車の型式を忘れてしまっている」
記憶の混乱がマイカーの型式によって顕在化したというのは、いかにも米国の小説らしい。グラハムの脳内では、1932年型の空冷式フランクリンから1954年型のフォードまで「これまでに所有したすべての車の像が走りすぎた」。1947年のプリマス、1938年のポンチャック、1945年のシボレー……その想起は時系列に従っていない。「まるで年月がねじれ、過去と現在がぴったりとくっつき合ってしまったようだった」とある。
グラハムは、改めて自己確認する。「現在は一九五四年だ。おれは三十七歳だ。おれの持っているのは緑色のフォードだ」――だが依然、車の場所は思い当たらない。
グラハムは結局、地下鉄で家に帰ることにする。ところが、地下鉄駅の階段入り口で彼の頭はまた、混乱する。自分はマンハッタンに住んでいるはずだ。いや、ブルックリンだったか。いやいや、クィーンズだ。いやいやいや、ニュージャージー州かもしれない……。
と、このように筋を追っていたら結末に行き着いてしまう。このへんで筋からは離れよう。記憶はどう守られているのか、その問いのヒントをこの作品から拾いあげてみる。
まず言えるのは、記憶には付帯情報があることだ。たとえば、グラハムの住まいの記憶は詳細な住所を伴う。マンハッタンなら西87丁目568番地3-Cアパートメント、ブルックリンなら東7丁目222番地……。これは、情景付きのこともある。ブルックリンの記憶には「プロスペクト公園の近くのあの小さな家」が結びついている。これでわかるのは、一つの記憶が記憶として成立するには、それを支える関連記憶が欠かせないということだろう。
今住んでいる場所を、一度でも住んだ記憶がある場所から選びだすときも付帯情報が助けになる。グラハムはクィーンズやニュージャージー州に住んだことを覚えていたが、その一方で、クィーンズには少なくとも15年間住んでいない、ニュージャージー州に住んでいたのは10歳まで、という別の記憶もしっかり保っていた。これによって、現住所の候補地のうち二つは過去の居住地として排除できる。消去法で答えを絞り込めるのである。
ここでふと頭をかすめるのは、人間はふだんからこんな作業を脳内で繰り返し、それによって自分の記憶を補強しているのではないか、という仮説だ。そして、一つのことをすっかり忘れてしまったときには、脳内に残された関連の記憶を総動員してそこから元の記憶を再建しているのかもしれない。朝出た家へ夜帰る、よその家には闖入しない、という日常の安定もそんなしくみに支えられているのか。ちょっと心細いが、心強くもある。
もう一つ、記憶の支えとなりそうなものに文書がある。証明書の類だ。現代社会では、これは最強のように思える。この作品でも、グラハムが運転免許証を手にとる場面があって、これで一件落着かと思わせる。ところが、そうは問屋が卸さない。免許証の住所は転居時に変更を届けていなかったものではないか、と本人自身が疑う。書かれていることが事実とは言えないのだ。少なくともこの小説の作者は、文書を信用していない。
それで私がふと思いだしたのが、去年も今年もコロナワクチンの接種会場で運転免許証を提示したことだ。スタッフは、免許証の写真と私の顔を見比べ、私を私と断定した。だが、よくよく考えてみれば、免許証に記された名前の人物が免許証の写真の人物と同一であることの根拠はどこにあるのだろう。大昔、免許証を初めて取得したときに厳密な審査を受けたようには記憶していない。そもそも、私は私で間違いないのか。
この小説の結末は、ああそういうことか、と思わせるものだ。そこにはSFらしい筋立てがある。ただ、その筋を抜きにしても、この作品は興味深い。人生なんてしょせん、記憶の断片の寄せ集めではないか。そんなことを、さりげなく教えてくれるからだ。私たちは日々、その断片を組み立て直して自分という系(システム)をつくりあげている。それがばらばらになる日まで組み立てつづけるのが人間というものなのだろう。
*当欄2022年3月25日付「西村京太郎、鉄道の魔術師」
(執筆撮影・尾関章)
=2022年4月8日公開、同日更新、通算621回
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