今ここの宇宙論という哲学

今週の書物/
『宇宙はなぜ哲学の問題になるのか』
伊藤邦武著、ちくまプリマー新書、2019年刊

無限?

今風の起業で財を成した富豪が自腹を切って地球を飛びだす。そんなニュースが去年相次いだ。一般人が宇宙を旅する時代はもうすぐ、というとりあげ方が目立つ。

だが、待てよ、である。あの人たちが体験したのは本当に宇宙なのか? 宇宙は広大だ。地球は太陽系の一部であり、太陽系は我が銀河、即ち銀河系の一角にあって、銀河系は無数に散らばる銀河の一つだ。富豪たちが出かけたのは地球の庭先にほかならない。

逆に言えば、あの人たちは――ということは私たち一般人も――この世に生まれ落ちた瞬間から宇宙に存在しているのではないか。銀河系は宇宙の一要素であり、太陽系は銀河系の一かけらであり、地球は太陽系の一員だからだ。こんなことを言うと、へそ曲がりの小理屈だな、と揶揄されそうではある。でも私は、科学記者に珍しく、本気でそう考えてきた。宇宙開発を「夢だ、ロマンだ」ともてはやすことには違和感がある。

私たち人間は、だれもがみな、自分は今、ここにいると感じている。その〈今、ここ〉はどれも、宇宙の時間と空間のなかにある。宇宙は私たちの存在の土台なのだ。それが何かは、人間にとって切実な問題といえる。夢やロマンのようにふわふわしていない。

言葉を換えれば、宇宙は哲学のテーマである。実際、ギリシャ以来いつの時代も、哲学はときどきの宇宙観を人々に提供してきた。近世以降は自然哲学者や科学者によって提示される宇宙観が数式で理論づけられ、観測で裏打ちされるようになった。ただ、そんなこともあってか、宇宙の探究が私たちの〈今、ここ〉と切り離されてしまった感がある。そうならば残念なことだ。現代の宇宙観もまた、〈今、ここ〉と無縁ではありえない。

で、今週は『宇宙はなぜ哲学の問題になるのか』(伊藤邦武著、ちくまプリマー新書、2019年刊)。著者は1949年生まれの哲学者で、京都大学名誉教授。京都の風土に根ざして研究を重ねたせいだろうか、著書では、文理の垣根を超えて宇宙論も扱ってきた。

本書は、三つの章で組み立てられている。時代区分で言えば「古代」「近代」「現代」。第1章はギリシャ(本書の表記では「ギリシア」)哲学の宇宙観を振り返り、とりわけプラトンの天文思想に光を当てている。第2章の主役は、ドイツの哲学者イマヌエル・カント。近世に一新された宇宙観を近代の哲学者がどう受けとめたかを解説している。第3章では、ビッグバン宇宙論などの20世紀科学が哲学に与えた影響を浮かびあがらせている。

プラトンについては、その著『ティマイオス』の宇宙論が素描されている。それによると、デミウルゴスという神が「設計者」となった宇宙は「調和の世界(コスモス)」をめざしていたという。だが、現実の宇宙は究極のコスモスを実現しているわけではない。

恒星が散在する天空、即ち「恒星天」は「完全な球体」であり、星々も「最高度に完全な運動である円運動」をしているので、コスモスそのものだ。ところが、太陽や月、惑星の世界はこの球体に乗っていない。とはいえ、私たちが太陽や月を見て「季節」「日時」を認識していることでわかるように、これらにも「時間という秩序」のもとになる「数学的な比例構造」が組み込まれている。だから、宇宙は全体として調和している、とみる。

本書は、これをプラトン哲学のキーワード「イデア」に対応させる。イデアとは、現実の事物の「原型」であり「模範」でもある「完全な存在」だ。恒星天はイデアの「完全」を具現しているが、太陽や月、惑星はその「似像(にすがた)」や「影」の水準にあるという。

ギリシャの哲人は、宇宙にイデアを追い求めながらもその完全版は手に入れられず、一部は「似像」や「影」で満足しなければならなかった。これは、当時の宇宙観が天動説から脱け出せなかったからにほかならない。太陽系天体の扱いに手を焼いたということだ。

ところが近世になると地動説が強まり、天動説にとって代わった。本書によれば、カントがニュートン力学を哲学の側面から支える『純粋理性批判』(1781年)を執筆したころ、天文学は地球だけでなく、太陽系そのものも宇宙の中心から外して考えるようになっていたという。これは人間観も激変させた。人間は「宇宙の片隅のそのまた片隅の、非常に辺鄙(へんぴ)なところに生存する生物」とみなさざるを得なくなったのだ。

こうしたなかで、カントは「認識論的反省」を試みる。宇宙が「とてつもなく広い世界」であるならば「全体の大きさ」はどうなのか、宇宙が無限か有限かという難題に私たちは答えを見いだせるのか――こう問うた末にたどり着いた結論は「人間は、その理性の使用によっては、宇宙の無限・有限の問題に決着をつけることができない」というものだった。人間の「認識能力」に「制約」がつきまとうことを潔く認めたのである。

宇宙の時間について考えてみよう。著者の解説によれば、有限説の根拠はこうだ。もし宇宙に始まりの一瞬がなければ、それは物事の継起が無限に続くことを意味する。継起は「完結」しないということだ。そうなると、継起の完結時点である「現在」が成り立たない。

無限説はこうなる。もし宇宙に始まりの一瞬があるなら、宇宙は宇宙が存在しない「空虚な時間」に生まれたことになる。空虚が宇宙誕生の契機を宿すとは考えられない――。こうして、宇宙の時間をめぐる問いは二律背反(アンチノミー)に直面して頓挫する。

カントによれば、私たち人間にとっての「経験的世界」は「世界の事実の実相に迫った姿ではない」。それは「現象」であって「本物」ではないのだ。私たちにできるのは「世界の事物について時間的、空間的にその位置を特定し、その事物がどのように移動したり変化したりするかを因果法則という形式で表現する」ことである。人間は「時空の枠組み」と「因果性の概念」という「認識能力」をメガネにして世界を見ているに過ぎない。

興味深いのは、このカントの洞察が現代の宇宙論に思わぬかたちで示唆を与えていることだ。まずは、ビッグバン宇宙論に触れておこう。宇宙は大爆発(ビッグバン)で始まったという見方だ(*)。1960年代、その名残が宇宙背景放射として観測されたことで今や定説になった。宇宙には始まりがあったという宇宙観だ。カントの「認識論的反省」によれば答えを出せないはずの問題に、現代科学が正解らしきものを突きつけたのである。

ところが、話は一筋縄ではいかない。宇宙初期にはビッグバンに先だつ急膨張(インフレーション)があったとする理論が現れ、そこから、宇宙は一つではないという仮説が派生したのだ。本書は、インフレーション理論そのものには踏み込んでいない。ただ、宇宙が単一でなく、別の宇宙が「並行して存在」する可能性には触れていて、そのなかには私たちの宇宙より「時間的に先行」するものがあるかもしれない、と論じている。

これは、宇宙の始まりよりも前に宇宙があるという話だ。ビッグバン宇宙論によって、宇宙の時間の有限説が力を得たかと思いきや、次いで登場したインフレーション理論で無限説が巻き返した――。カントの洞察通り、人間はやはりこの問いに答えられないのか。

本書は終盤で、地球外生命探しの話題をとりあげている。そのくだりで著者は「人類の知性が生み出した科学や技術は、宇宙の中でどの程度まで普遍的で一般的なのでしょうか」と問いかけている。これは、人間観にかかわる哲学者の問題意識だろう。天文学では20世紀末以降、太陽系のほかにいくつもの惑星系が見つかり、地球外生命の現実感が高まっている。宇宙人探しは、もはや宇宙に夢とロマンを求める人たちだけのものではない。

この本を読むと、哲学者は物事を考えるとき、どこから先は知ることができないのかという視点も持ちあわせていることがわかる。ひたすら知ろうとする科学者との違いだ。私たちが科学本と併せて哲学本を読むことの意義は、そのあたりにあるのかもしれない。
*当欄2021年12月31日付「宇宙の最期か自分の最期か」参照
(執筆撮影・尾関章)
=2022年2月11日公開、通算613回
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宇宙の最期か自分の最期か

今週の書物/
『宇宙の終わりに何が起こるのか』
ケイティ・マック著、吉田三知世訳、講談社、2021年9月刊、原著は2020年刊

暦果つ

今秋、友人から1冊の本を贈られた。今どきのことだから、ネット通販大手から直接、拙宅に届けられた。ありがたいことだ。厚意に応えて、この本のことを語りたい。そう思って感想を書いていた。暮れも押し詰まった今年最後の日、その拙稿を公開しよう。

それは奇しくも、宇宙の最期を考える科学本だった。物理学には宇宙論という分野があり、宇宙の起源はだいぶわかっている。20世紀半ばは、宇宙は無限の昔からずっと在りつづけているという定常宇宙論と、宇宙は天地創造の大爆発で始まったとするビッグバン宇宙論が対立していたが、1960年代半ばに大爆発(ビッグバン)の名残が見つかり、後者が定説となった。宇宙には始まりの一瞬があるという見方が定着したのである。

1980年代初めには、さらに進展があった。天地創造のとき、大爆発に先だって宇宙が指数関数的に急膨張したという説が出てきたのだ。インフレーション宇宙論と呼ばれる。これについても、その直接証拠を見つけ出そうという研究が今まさに進んでいる。

宇宙は、始まりについてはかなりくわしくわかってきた。そこで気になるのは、ではどう終わるのか、ということだ。好奇心の自然な流れと言えよう。ただここで、私の心には悪魔のささやきが聞こえてくる――。宇宙の終わりなど、自分にどれほど意味があるのか。宇宙が終わるより早く私自身が終わっている。その確率は限りなく100%に近い。ならば、こう言ったほうがしっくりくる。私が終わるとき、私の宇宙も終わるのだ、と。

で、友人から本を貰った話に立ち返る。友人が新刊書籍をわざわざ買い求め、それを私に届けさせたことには隠された意味があるのだろう。友人も私も、すでに高齢者の域にある。それなのに科学本を、これまでのように知的好奇心を満たすためだけに読んでいてよいわけはない。宇宙をめぐる最新の知見を自身の現在と突きあわせて考察してみてはどうか――そう促されたような気がしたのだ。これもまた、悪魔のささやきに違いない。

その本とは『宇宙の終わりに何が起こるのか』(ケイティ・マック著、吉田三知世訳、講談社、2021年9月刊、原著は2020年刊)。著者は、ブラックホールなどの理論研究を専門とする米国の物理学者。2009年に米国で博士号を取得、英国、オーストラリアでも研究生活を送った。刊行時の肩書は、ノースカロライナ州立大学助教とある。科学の語り部としての活動に熱心で、『サイエンティフィック・アメリカン』誌などに寄稿している。

この本は序盤、宇宙物理のおさらいを済ませた後、第3章から本題に入る。宇宙の「終末シナリオ」を五つ選んで、一つずつ詳しく紹介している。それらを章題通りに並べれば、「ビッグクランチ」「熱的死」「ビッグリップ」「真空崩壊」「ビッグバウンス」である。

「ビッグクランチ」のクランチ(crunch)には破砕の意がある。潰れるということだ。この筋書きでは、宇宙が現在進行中の膨張をいつかやめ、収縮に転じた後、崩壊する。二つめ「熱的死」では、宇宙が膨張しながら「徐々に空っぽになり、暗くなっていく」。その結果、最後は「時間の矢」が事実上消滅するという。三つめ「ビッグリップ」のリップ(rip)は、引き裂くこと。これだと、宇宙は膨張の末に「自らズタズタに千切れていく」。

以上三つの筋書きでは、宇宙の膨張がこの先も続くのかどうか、が密接にかかわっている。カギを握るのは、宇宙を外方向へ膨ませるしくみだ。それらしきものとして、私たちが最近よく耳にする用語は三つ。「宇宙定数」「真空のエネルギー」「ダークエネルギー(暗黒エネルギー)」である。これらは同じものを指しているように見えて、実はそうではない。それぞれ由来が違うのだ。この本の記述に沿って、話を整理しておこう。

宇宙定数は1917年、アルバート・アインシュタインが発案した。アインシュタインは前年、一般相対論の方程式で宇宙の重力場を表現したが、それだけでは重力による収縮で宇宙が潰れてしまう。当時優勢の定常宇宙論を満たすためには、収縮作用を打ち消す仕掛けが必要だった。それで方程式に「空間を引き伸ばす」項をつけ加えたのだ。その項の係数が宇宙定数だ。これで「空間のすべての小片が反発エネルギーをもっている」ことになった。

宇宙定数はその後、いったんお役御免になる。膨張宇宙論が定常宇宙論にとって代わったからだ。宇宙膨張が最初の一撃の惰性で続いているなら、反発エネルギーの供給は不要になる。ところが1998年、膨張の「加速」が観測され、この定数は息を吹き返したのである。

では、真空のエネルギーとは何か。こちらは「からっぽの空間がもつエネルギー」を意味する。量子論によれば、真空にも場の基底状態があり、エネルギーがゼロとは言えない。このエネルギーが「宇宙定数をもたらしている」と考えてよいなら「最も自然」な説明になる、と著者もみる。だが、そうは問屋が卸さない。宇宙では真空のエネルギーの理論値が、宇宙の加速膨張の観測から得られるエネルギー値より120桁も大きいのだ。

120桁の違いを説明する妙案は見つかっていない。宇宙定数イコール真空のエネルギーかどうかの答えは宙に浮いている。さらに宇宙定数が本当に定数で、いつでもどこでも一定かどうかも不確かだ。だから、この本ではこんな記述に出あう。「宇宙の膨張を加速させられる仮説上の現象は、すべてひっくるめて『ダークエネルギー』と総称する」(原文では太字箇所に傍点)。それは加速膨張の原因という役割に注目する概念で、実体は謎のままだ。

前述した筋書きをダークエネルギーに引き寄せてみよう。「ビッグクランチ」では、重力による収縮がダークエネルギーによる加速膨張に勝る。逆に「熱的死」と「ビッグリップ」では重力が負けるので、それらは「ダークエネルギーによってもたらされる終末」だ。

そうなると、宇宙に重力源の物質がどれほどあり、ダークエネルギーの量がどのくらいかが気になるが、それがはっきりしない。最近の科学記事には、ダークエネルギーが宇宙の全物質・エネルギーの7割ほどを占めるという知見がよく出てくるが、この本はそのことにも踏み込んでいない。ダークエネルギーは「時間の経過にともなって変化しうる」というから、現時点の成分比にこだわってもしようがないのかもしれない……。

要は、ダークエネルギーはわかっていないことばかりということだ。だから、「ビッグクランチ」「熱的死」「ビッグリップ」については、どの筋書きが有力かを言うのは早すぎる。まずは、科学者にダークエネルギーが何かを見定めてもらおうではないか。

筋書き4番目の「真空崩壊」と5番目の「ビッグバウンス」は、理論先行で観測の手が届かないところにあるようなので、吟味はいっそう難しい。だから当欄は、この二つには立ち入らない。ただ「真空崩壊」が私の心をとらえたことだけは強調しておこう。

「真空崩壊」が凄いのは、それが遠い未来の話ではないことだ。この瞬間の出来事であっても不思議はないという。発端は「真の真空」の「泡」が出現すること。泡は膨らみ、広がり、可能な限りの宇宙を「取り消してしまう」。そこに私たちがいれば、のみ込まれてしまうだろう。これは、宇宙が量子論のトンネル効果によって「偽の真空」状態から「真の真空」状態へ移ることを意味する。確率論でそんなことも起こるという話だ。

著者は、こう脅かしておいて、それは「あなたが心配すべきことがらではない」と断ずる。崩壊が起こったら「止める手段がない」。起こる気配があっても、それを「知りえない」。もし、身に降りかかっても「痛くはなさそう」。消滅させられたときは「悲しむ人も、同時にいなくなる」。そして「少なくとも、今後、何兆年かのあいだは」「可能性はきわめて低い」と不安を和らげる――。この宇宙観は、人生観とも響きあう。

「私」自身の終末も、ある種の真空崩壊と言えよう。宇宙に比べ、その可能性は格段に大きく、安心していられる時間は桁違いに短い。もちろん、崩壊には心がけ次第で回避できるものもあるが、「止める手段がない」リスクや「知りえない」リスクが数多ある。「私」の未来は、いつも崩壊と隣り合わせだ。宇宙の不確かさが「私」の存在の不確かさと見事に重なりあうではないか。科学本を読むことはやはり、自身の現在に光を当ててくれる。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年12月31日公開、通算607回
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電車に乗れた話、乗れなかった話

今週の書物/
『スライディング・ドア』
ピーター・ホーウィット著、実川元子訳、WAVE出版、1998年刊

ロンドン地下鉄~The Tube

恋愛沙汰は、まさに量子力学的だ。ひょんなことから、ひょんなことが起こる。ひょんなことで、それからの人生が左右されたりもする。当事者は偶然の妙に翻弄されている。

当欄は今年、折に触れて「量子」を話題にしてきた(*)。クリスマスイブのきょうは、恋物語を量子力学風にとらえてみよう。量子力学の世界では原子や電子の状態がいくつも重なり合うが、観測されたとたん、それが一つに決まる。恋物語もこれに似ている。初めはもやもやしているのだが、なにか事件が起こると霧が払われ、見えなかったものが見えるようになる。可能性の膨らみが一気にしぼんで、筋が定まるという感じだ。

もっとも、このようなこじつけが成り立つのは「コペンハーゲン解釈」に立脚したときのことだ。量子力学の教科書的な解釈である。この考え方を踏まえると、物理系の〈重ね合わせ→観測→状態の収縮〉は人間系の〈可能性→事件→筋書きの確定〉に対応する。

コペンハーゲン解釈では、物理系が観測の瞬間にどの状態に落ち着くかを確率論で考える。これを恋物語に当てはめてみよう。AがBに恋心を抱いたとして、その後の筋書きはAが思いを遂げられる確率が10%、振られる確率が90%というように数値化される。これをAの視点から見たときに言えるのは、バラ色の未来が10%、灰色の未来が90%というだけではない。自分の未来がバラ色か灰色のどちらか一方になるということも含意されている。

ただ、量子力学の解釈はコペンハーゲン解釈だけではない。たとえば、異端と言われながらも最近注目度が高まっている多世界解釈がある。この見方では、物理系の観測者は観測のたびに身を分かち、それぞれの分身が別々の世界へ入っていく。物理系を〈P〉と観測した分身は物理系〈P〉の世界へ、物理系を〈Q〉と見た分身は物理系〈Q〉の世界へ進むのだ。このとき、その観測者の未来は無数にあると言ってもよいだろう。

ここで、AとBの恋物語を多世界解釈流に考察してみよう。二人の関係が量子力学的に展開するとすれば、そこには、AがBの心をとらえる未来も、AがBに見捨てられる未来も、確実にある。Aから見てバラ色の物語も、灰色の物語も、ともに成立するのだ。もし恋愛小説家がどちらか一方の筋書きを描いて終わりにしたら、それは恋物語の一部だけを拾いあげたことになる。世のたいていの恋愛小説は、そこにとどまっているのだが……。

で、そうではない作品を紹介したくなった。英米合作の映画「スライディング・ドア」(ピーター・ホーウィット監督・脚本、1997年)だ。主人公は、ロンドンの広告会社に勤めるヘレン、29歳。グウィネス・パルトロウが演じた。彼女は会社をクビになった日、地下鉄に飛び乗ろうとした瞬間、二人に分かれる。ここに流れ図を示そう。これは、『量子の新時代』(佐藤文隆、井元信之、尾関章著、朝日新書、2009年刊)の掲載図をもとにしている。
この映画を最後に観てからもう何年もたつので、細部は忘れてしまった。そこで今回、私は小説版を手に入れた。『スライディング・ドア――SLIDING DOORS』(ピーター・ホーウィット著、実川元子訳、WAVE出版、1998年刊)である。訳者のあとがきによると、著者はもともと俳優業の人で、これは監督第一作だった。ロンドン市街で道を渡ろうとしたとき、「あやうく車にはねられかけ、作品のアイデアがひらめいた」という。

一読して気づくのは、映画版と小説版で作品の印象が異なることだ。映画版では、登場人物の動きをカメラの目で追いかけている。人物描写が、客観的なわけだ。ところが、小説版は登場人物の意識の流れをたどることで、その人物の目に映る世界を主観的に描きだしている。この差異はふつう、小説を映画化したり映画をノベライズしたりするときにはそれほど気にならない。だが、物語が多世界含みとなると、注意が必要になる。

映画版では、物語が地下鉄ホームの場面で流れ図のa)b)に分かれ、それらが交互に展開される。a)の話がちょっと、b)の話がちょっと、再びa)をちょっと……という具合だ。小説版もa)b)交互は同じだが、ヘレンの視点の「プロローグ」があった後、第1章は彼女の同棲相手ジェリーの視点、第2章は地下鉄でたまたま隣の席にいたジェームズの視点、第3章はまたジェリーの視点……と第6章まで進み、「エピローグ」でヘレンに戻る。

したがって小説版1~6章で、a)の筋は一貫してジェリーの目で描かれる。逆にb)の筋をたどるのはジェームズの目だ。このようにa)b)は、ただ分岐した並行世界というだけではない。そこには、ジェリーとジェームズの主観も投影されている。

ここで気づくのは、多世界の概念が客観を前提にしていることだ。一人の人物が分岐する様子は、遠目に眺めるようにしか思い描けない。天空の視点が必須と言ってよい。ところが、人間の主観は地上の視点にとどまっている。小説版の読者は、プロローグや各章、エピローグごとにヘレンやジェリー、ジェームズの主観に引きずられ、さらにその分身一人から見た世界しか意識できない。それが枝分かれの一つであることを忘れがちになる。

多世界を感じとるには、別々の主観に身を寄せて物語を吟味するのは得策でないということだろう。この小説版ならば、ヘレンの一人称で書かれたプロローグとエピローグに的を絞り、一人の人間にとって世界の枝分かれがどんな意味をもつのかを考えてみたい。

プロローグでは、ヘレンが同僚とのいさかいで「つまりわたしはクビね」と啖呵を切り、オフィスをとび出る。ビル内のエレベーターを待ちながら思いめぐらすのは、ジェリーとのこれからだ。彼は作家志望なので、無収入。働いてもらうか。いや、「ダメダメ。ジェリーには世紀の大傑作を書くという使命がある」。自分がスーパーマーケットに働きに出るか、それともウェイトレスになるか……そんな未来の構想が頭のなかで渦巻くのだ。

エレベーターがやって来る。ヘレンは乗り込む。このとき、イヤリングが耳から外れて下に落ちた。チリンという音。乗り合わせたビジネスマン風の男が気づき、拾いあげてくれた。これが筋書きb)の伏線。その男性がジェームズだったことは、後の章でわかる。

ヘレンは通りに出て、携帯電話をとりだす。ジェリーに電話をかけるが、ずっと話し中だ。この事情は、a)の第1章を読むとわかる。「役立たず!」と内心穏やかではないが、「ダメダメ。いまのわたしには彼しかいないんだから」と思い直して地下鉄駅へ向かうのだ。

駅は降車客であふれていた。幼い女の子が人形を手に、下り用の階段を昇ってくる。ふだんなら子どもの愛らしさに免じて気にもならないのだろうが、今のヘレンは「しつけがなってない」とイラつく。「待って」「わたしはその電車に乗ります」「お願い、どうしても乗りたいの」と心は急く。一瞬先に二つの未来があるのだ。「もしもその電車に乗れなかったら……」「もしもその電車に乗れたら……」。プロローグは、そんな2行で結ばれる。

こうみてくると、ヘレンの人生には「乗れなかったら」と「乗れたら」の枝分かれに先だって、分岐後の筋のタネが仕掛けられていることがわかる。未来の構想がある。未来の伏線もある。1~6章をみると、一つの世界a)では構想通りの生活が始まるが、それがハッピーエンドになるとは限らない。一方、もう一つの世界b)では構想がズタズタにされ、代わりに伏線が実を結ぼうとするが、それが成就すると決まったわけでもない……。

エピローグにも触れておこう。ネタばらしをしたくないので詳細は明かせないが、このときのヘレンは、流れ図でいえばa)の世界にいて、今は入院中の身だ。病室で思案するのは「あの日、もし地下鉄のあの電車に間に合って乗れていたら、わたしはどうなっていたかしら」ということだ。ただ、そんなふうに思うa)の「わたし」は、プロローグの伏線がb)の「わたし」にもたらした劇的な筋書きをまったく察知できないでいる。

「私」がもし多くの並行世界のどれか一つにいるのだとしても、別の世界の別の「私」とはこのくらいの距離感にあるということだ。どこかの世界に、自分と同じ過去を共有する「私」がいて想像もつかない人生を歩んでいる――それはそれでよいではないか。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年12月24日公開、同月26日更新、通算606回
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グレコの時代、実存の左派批判

今週の書物/
「汚れた手」
ジャン-ポール・サルトル著、白井浩司訳
サルトル全集第7巻『汚れた手(改訂版)』所収、人文書院、1961年改訂

枯葉、というより落ち葉

語りかけられているようだ。なんと心地よいことだろう。私は今、そんな歌声を聞いている。「枯葉」「詩人の魂」……。スピーカーの向こうで歌っているのは、ジュリエット・グレコ。去年9月、93歳で逝った――。シャンソンは、私たちの世代にとって格別の音楽ジャンルだ。ジャズやロックと違って、どこか文学の香りがする。こんなことをフランス語がわからない私が言うのも滑稽だが、言葉なしにシャンソンはありえない。

1970年前後、私はブンガク青年だった。文才があったわけではない。読書量が多かったとも言えない。ただ、ブンガクっぽい雰囲気に触れると、コロッと参ってしまうきらいがあったのだ。だから、音楽の嗜好のなかでジャズやカントリー&ウェスタンの比重が高まっても、シャンソンはずっと憧れの的だった。渋谷駅近くにシャンソンのレコードだけを回している喫茶店があったので、ときどきそこを訪れては時間をつぶしていた。

シャンソン歌手のなかでもグレコは特別な存在だった。歌の向こうにセーヌ左岸、サン・ジェルマン・デ・プレの空気が感じとれたからだ。地下酒場に実存主義哲学者ジャン-ポール・サルトルらがたむろして知的な会話を交わしている――あの低音の歌声を聞いていると、そんな情景が思い浮かんだ。来日時のテレビ出演でも、黒っぽいドレスをまとって表情たっぷりに歌う姿が現代フランスの知性を象徴しているように見えたのである。

実際にグレコは第2次大戦後まもなく、セーヌ左岸で喝采を浴びた人だった。酒場の客たちから「実存主義のミューズ」と呼ばれたという。彼女が、あの時代に人心をつかんだのはなぜか。それは、個人史が同時代史に重なり、人々の共感を呼んだからだろう。グレコの母や姉は戦時中、対独レジスタンス運動にかかわり、ナチスによって収容所に送られていた。そんな事情で彼女自身も少女時代から自立を余儀なくされ、歌手になったという。

ここで押さえておきたいのは、セーヌ左岸の戦後史だ。パリがナチス・ドイツの占領から解放されて20年ほどが過ぎたころ、左岸の主役は代替わりした。1968年、若者たちが立ちあがって五月革命が起こると、左岸の大学街が主舞台となる。私がグレコに魅せられたのは、その余韻が残る1970年前後。私のグレコに対する憧憬には周回遅れの時間差があった。(「本読み by chance」2016年5月13日付「五月革命、禁止が禁止された日々」)

で、今週は、戯曲「汚れた手」(ジャン-ポール・サルトル著、白井浩司訳、サルトル全集第7巻『汚れた手(改訂版)』所収、人文書院、1961年改訂)。本を開くと「1948年4月2日、パリ、アントワーヌ劇場にて初演」とある。まさに、グレコが一世を風靡していたころの作品だ。当時のフランス知識人が何を考えていたかを知る助けになる。ただ、そこに描かれているのは、イリリという架空の国で戦時下に起こった出来事なのだが……。

第一場第一景では、街道筋の民家に青年が訪ねてくる。居住人の女性、オルガは警戒心から拳銃を隠しもって扉を開ける。そこには旧知のユゴーがいた。「刑期は五年だったんじゃないの?」。刑期半ばで仮釈放されたという。どうやらここは、左翼党派の拠点らしい。

ユゴーは23歳。読み進んでわかるのは、政治弾圧で服役したのではないらしいことだ。党の実力者エドレルを射殺したかどで罰せられていた。本人によれば、凶行は別の党幹部の命令による。ところが、刑務所に差し入れられた菓子には毒物が含まれていた。今は、党に対する不信感が拭えない。オルガに向かって「命令なんてものは影も形もなくなるんだ」「命令はうしろにとり残され、僕はたったひとりで前進した」と言い募る。

実際、党の追っ手が押しかけてくる。オルガはユゴーを寝室にかくまい、彼を引き渡そうとはしない。そして、党幹部のルイを呼んで、追っ手を送り込んだことに抗議する。自分は党を思っている、それでなくともドイツのイリリ侵攻後、党は人材を失うばかりだ――「あの子が回収可能かどうか調べもしないで、粛清していいとは思えないわ」。ここで、「回収」を「粛清」の対義語にしているところに党派というものの怖さが見てとれる。

ルイはオルガの説得を受け入れ、戸外に見張り役を置いただけで、とりあえずは引き揚げる。家のなかには再び、ユゴーとオルガだけが残る。そこで彼は2年前、1943年3月に遡って自らの体験を振り返る。その回想が、第二場から第六場までの物語である。

第二場の冒頭は、この家でユゴーがタイプライターのキーをひたすら叩いている場面。入党後1年が過ぎたころで、党の機関紙づくりに追われているらしい。このとき、彼には焦りがあった。オルガにも「仲間が殺されているのに、安閑としてタイプを打っているのがいやになった」と訴え、自分が「直接行動」に打って出られるようルイに頼んでほしい、と懇願する。そして、その意思はルイに伝わる。これが、すべての始まりだった。

ユゴーの回想は、戯曲としておもしろい。だから、ここで筋書きをなぞれば、興ざめになってしまう。そこで当欄は別の角度から、この本を読む。焦点を当てるのは、近過去に左翼党派がどんな苦悩を抱え、どんな落とし穴に直面していたか、ということだ。

戦時、イリリ国の政治状況はルイの台詞から読みとれる。政権を担うのは、ファシズム勢力の摂政派で、枢軸国に近い立場をとっている。対抗するのはルイがいる党、すなわち労働党だ。「デモクラシーのため、自由のため、階級なき社会のため」を旗印にしている。もう一つ、ブルジョワジーを代表するパンタゴン党が中間に位置している。自由主義者から国家主義者まで、その支持層は広い。政界は三つ巴の力学で動いているわけだ。

労働党も一枚岩ではない。もとをたどれば、多数派の民主社会党と少数派の農民党が合流した党だからだ。エドレルは前者の側にいる。ルイはもともと後者の代表だった。

この作品では、エドレルが摂政派やパンタゴン党と手を結ぼうとする。挙国一致体制をめざすというのだ。交渉に訪れた両派代表に対して、執行委員会の椅子の半数を労働党によこせ、と強気に出る。背景には、枢軸国ドイツの敗色が濃くなり、イリリに対するソ連の影響力が強まるという目算があった。自党のみが戦時下でもソ連と接触してきたと自負して、こう言う。「ソ連がここにやってきたら、彼らはわれわれの眼で万事を眺めるでしょう」

ユゴーはエドレルに面と向かって、党には社会主義経済という目標と階級闘争という手段があるのに「資本主義経済の枠内で、各階級の協力政策を実現するため、党を利用しようとしている」と非難する。だが、エドレルは動じない。社会主義軍が自国を占領しそうな情勢を好機とみて、それに便乗しない手はないというのだ。「われわれは自力で革命を遂行するほど強力ではない」。労働者の国際連帯が素朴に信奉されていたころの論理である。

この戯曲は、左翼党派が陥りがちな落とし穴も浮かびあがらせる。裕福な家庭に育った知識人党員への妬みが仲間うちに燻ることだ。社会主義の主役は労働者ということになっている。ところが現実には、知識人の指導力も欠かせない。そこに軋轢のタネがある。

これは第一場で、ルイがオルガに向けて言い放ったユゴー評にも見てとれる。「あいつは規律のないアナーキスト、ポーズをとることしか考えないインテリ」――。ユゴーは、父が燃料会社の副社長で自身も博士号を得ている。「僕は家を、そして階級を棄てた」と言い張るが、その入党も労働者出身の党員からは「この人はいわば道楽から入った」と侮蔑されている。道楽ではないことを見せたくて「直接行動」に走ったと言えなくもない。

エドレルは生前、党が摂政派と取引して対ソ停戦に成功すれば多くの人命を救うことになると主張して、ユゴーを「君は人間を愛していない」「君は原則しか愛していない」と批判している。「君は自分を憎んでいるから、人間を憎んでいる」とも言い添えている。知識人の独りよがりの自己否定は理念一本やりの教条主義を生み、回りまわって人間否定につながるということか。たしかに、そういう光景を私たちは見てきたような気がする。

この戯曲は、日本の左派が1970年代に迷い込んだ袋小路も暗示している。サルトルは大戦直後、自身が左派でありながら、その弱点を実存主義者の目で見抜いていた。実存主義からの左派批判がもっと深まっていれば、その後の政治風景は変わっていたかもしれない。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年12月3日公開、通算603回
*当欄は今年、「実存」の話題を継続的にとりあげています。
漱石の実存、30分の空白」(2021年1月8日)
実存の年頃にサルトルを再訪する」(2021年1月29日)
サルトル的実存の科学観(2021年2月5日)
新実存をもういっぺん吟味する(2021年2月19日)
量子力学のリョ、実存に出会う(2021年6月4日)
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世界が違うとはどういうことか

今週の書物/
『量子力学の奥深くに隠されているもの――コペンハーゲン解釈から多世界理論へ』
ショーン・キャロル著、塩原通緒訳、青土社、2020年刊

枝分かれ

今週も引き続き、『量子力学の奥深くに隠されているもの――コペンハーゲン解釈から多世界理論へ』(ショーン・キャロル著、塩原通緒訳、青土社、2020年刊)を読む(当欄2021年11月12日付「世界は一つでないと今なら言える」)。

先週も書いたことだが、量子力学について専門家を質問攻めにしていると、途中で疎外感に襲われることがある。ここで「専門家」というのは、物理を数式で考えられる人のことだ。当方にはそれができないから、必死でイメージを頭に思い浮かべようとする。最初は、なんとなくわかった感じになるが、あるところから先へ進めなくなる。挙句、「量子力学は日常世界のイメージでは理解できないんですよ」――そんな通告を受けてしまうのだ。

その壁を突破したいというのが、量子力学に関心を寄せる素人の切なる願いである。同じ思いの人は少なくない。友人知人のなかには、果敢にも高年齢になってから量子力学の方程式を学ぶ人がいる。私も、数式を眺めて雰囲気を感じとるくらいの水準には達したい。ただ、今さら数理の技を身につけようとは思わない。それよりはやはり、量子力学をイメージしたいのだ。絵画にだって具象画だけでなく抽象画というものがあるではないか!

これは、決して高望みではないらしい。この本の著者は、量子力学を「説明できないもの、理解できないもの」とする通念を取っ払いたいという立場を本文中で鮮明にしている。幸いなことに、そしてありがたいことに、専門家にも強い味方が現れたのである。

この本は、ひとことで言えば量子力学の解釈にかかわる書物である。邦題の副題にある通り、教科書的なコペンハーゲン解釈を批判的にとらえ、これまで異端とされてきた多世界解釈の強みを浮かびあがらせている。ここではまず、先週のおさらいをしておこう。

多世界理論では、波動関数のみを世界の現実とみる。それは、方程式に従って刻々変化していく。これを波動関数の時間発展という。そこにあるのは決定論だ。コペンハーゲン解釈のように確率論で物事が決まったりはしない。波動関数は観測によって、観測する側とされる側が一体となったものの重ね合わせになる。このとき、観測者は――あなたや私も――どんな状態を観測したかによって分岐している。世界も観測者も、枝分かれしたのである。

さて、いよいよ本題に入る。先週よりももう一歩深く、多世界解釈に踏み込むことにしよう。今週は、観測とは何か、観測によって世界が分かれるとはどういうことか――この2点について、イメージを思い描くことにこだわりながら考えていこうと思う。

まずは、観測について。ここで出てくる用語が「デコヒーレンス」だ。これは、状態の重ね合わせ(これを、コヒーレントな状態という)が壊されることを意味する。著者によれば、この概念が1970年、ドイツの物理学者ハインツ・ディーター・ツェーから提案されると、多世界解釈にとって「必須の要素」になった。デコヒーレンスは、観測で「波動関数が収縮して見える理由」を教えてくれる。そこに「『観測』とは何か」の答えもある。

一般論で言えば、デコヒーレンスの主犯は周辺環境だ。聴き入っている音楽が窓の外を走るオートバイの爆音でぶち壊しになるように、量子世界の状態の重ね合わせは周りの騒々しさによって台無しになる。だから、重ね合わせを情報処理の仕掛けに用いる量子コンピューターでは、その部分を周辺環境から遠ざけることが求められている。著者はこの本で、周辺環境の存在が観測という行為と密接不可分であることを述べている。

前回も書いたように、量子世界の観測では観測する側とされる側が量子もつれになる。今回、新たに考慮に入れるのは、観測する側が世界から孤立していないということだ。この本では、電子に具わるスピンという性質を見てとる観測装置が登場する。これは、スピンが上向きなら目盛り盤の針が左に振れ、下向きなら針は右を指す――というように作動する。この装置にも空気の分子や光の粒(光子)がぶつかっていて、相互作用が生じている。

ここで、空気や光などは「環境」と呼んでよい。量子力学の言葉で言えば、観測装置は空気や光などと相互作用することで「環境と量子もつれの状態」にある。このときに見落としてならないのは、「環境」が漠然としていることだ。「光子などの粒子をすべて追跡するなど、誰にだってできない」。そこで「厳密に何がどうなるか」はつかめない。観測装置と環境との量子もつれは把握不能――これこそがデコヒーレンスの本質であるらしい。

これは観測装置にとって、もつれる環境が一つに定まらないことを意味する。量子もつれごとに相手となる環境が異なるのだ。その結果、装置はそれぞれの環境に引きずられてしまう。ここに世界の分岐がある。著者の見方を私なりに理解したのは、そういうことだ。

では、スピンの観測で何が起こるかを時系列でたどってみよう。観測前、電子は〈スピン上〉と〈スピン下〉が重ね合わさるコヒーレントな状態にあり、それに観測装置の針がどちらにも振れない〈針中〉の状態と〈環境0〉がもつれ合っていた。ところが、観測された途端、〈スピン上〉・〈針左〉・〈環境1〉が量子もつれで一体になった状態と、〈スピン下〉・〈針右〉・〈環境2〉が同様にもつれて一体化している状態とが重ね合わさることになる。

著者は、この過程を数式風の略図で説明している。これは観測の核心をついていてわかりやすい。当欄は図の部分を言葉に置き換え、同じことを文字と記号だけで表現してみよう。ここでは、「+」は重ね合わせを、「・」はもつれをそれぞれ表している。
(〈スピン上〉+〈スピン下〉)・〈針中〉・〈環境0〉
➡〈スピン上〉・〈針左〉・〈環境1〉+〈スピン下〉・〈針右〉・〈環境2〉

この式からは、多くのことがわかる。スピンだけの重ね合わせ状態が観測によって消え、その代わり、スピンと針と環境がそっくり異なる世界が重ね合わさることになる。世界の数は観測前に一つだったのが、観測後には二つになる。これこそが、世界の枝分かれだ。

さて、いよいよ「観測者」の出番である。装置の目盛り盤の傍らに針を読む人間がいるとしよう。世界が枝分かれするなら「観測者も残りの宇宙にともなって」「コピーに分岐する」。ここで「残りの宇宙」とは環境の別表現だ。では、それぞれの分身は何を見るのか? 〈スピン上〉〈スピン下〉のどちらか一つしか見えない。「波動関数が収縮したように見える」(原文では太字部分に傍点)というのは、実はこういうことだったのである。

この略図を見ると、観測という行為が私たちにとってどんな意味をもつのかについて、別の角度からも考えたくなる。観測とは、電子のように重ね合わせの状態にあるものに取りついて、自分自身をも枝分かれさせる行為ではないか――そんなふうに思えてくる。

枝分かれのくだりで興味深いのは、そこに「世界」論があることだ。著者が「世界」の条件として挙げるのは「世界のさまざまな部分が、少なくとも原則として、お互いに影響を及ぼせていること」だ。逆をいえば、影響を及ぼせないなら別世界と言ってもよいのだろう。この本は「幽霊世界」をもちだす。幽霊たちがどこかにいる可能性を論じつつ「幽霊世界で起こることは私たちの世界で起こることとは絶対に関わりを持たない」と断じている。

もし、多世界理論が正しいとしても、別の世界にいる分身とは交信できない。向こうの世界に渡って分身と入れかわるわけにもいかない。今の私にとって私はこの私だけであり、世界はこの世界しかない。世界がいっぱいあっても、この世界はかけがえがない。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年11月19日公開、通算601回
*余談ですが、今回と似たタイトルで小文を書いたことがあります。「『あなたとは世界が違う』という話」(「本読み by chance」2015年5月8日付)。青春のほろ苦さとともにある「世界が違う」。これも、どこかで多世界のイメージと響きあうような気がします。
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