今週の書物/
『玉電松原物語』
坪内祐三著、新潮社、2020年刊

〇〇坂、◇◇通り、△△横丁……。
なんのことか、と思われるだろう。これらはみな、私の散歩圏内にある。〇〇や◇◇や△△は、いずれも60年ほど前、小学生時代をともに過ごした級友たちの名前だ。
私は今、あのころ暮らしていた場所の近くに住んでいる。住まいを転々とした後、昔の町内に戻ってきたのだ。だが級友の多くはどこかへ引っ越したままで、ここにはいない。
10年近く前、退職したころのことだ。町内をぶらついたり、自転車を走らせたりする機会がふえて、この坂には〇〇くんの家があったな、この通りには◇◇さんが住んでいたな……と思いだすようになった。それで、散歩道のあちこちを級友の名で呼ぶことにしたのだ。折しもそのころ、クラス会が約50年ぶりに開かれた。〇〇くんも、◇◇さんも、△△くんも、この町に帰ってきた――。散歩道の風景に生気が吹き込まれたように私は感じた。
この私的体験はたぶん、だれもが共有するものではない。農漁村には地縁血縁があるから、いったん地元を離れても、里帰りすれば昔と同じ景色を眺めて昔と同じ人々に再会できる。都会はどうか。歴史のある市街地には、その町を象徴する名所旧跡や伝統行事が残っているから、転居しても「わが町」のイメージを抱き続けることが可能だ。わざわざ個人的な街路名までつくって町の記憶を今の風景に紐づけなくとも、それは逃げていかない。
ところが、都市辺縁部はそうはいかないのだ。私の町を例に挙げよう。ここは東京西郊にあり、かつては農村地帯だった。1927(昭和2)年に私鉄電車が開通すると、関東大震災に遭った商家が都心から移ってきて、駅周辺に商店街が生まれた。やがて、勤め人の家々が建ち並ぶ。住宅街の誕生だった。戦後は社宅など、集合住宅もふえた。住人の出入りは激しい。その入れ替わりに急かされるように、町の風景も次々に塗りかえられてしまった。
だから、意識して記憶を蘇らせたい。〇〇坂、◇◇通り、△△横丁……というように。
私が強調したいのは、都市辺縁部には都市辺縁部にしかない物語がある、ということだ。農村の地縁血縁はなく、旧市街の伝統文化もない、人々が中途半端に入れ替わっていく郊外ならではの小世界がそこには存在する。郊外といえば、米国文学に郊外(サバービア)生活を小説化する流れがあることを思いだす。だが、あのサバービアとは異なる郊外を私は実体験してきたのだ。今回は、その体験と響きあう読みものを紹介しようと思う。
で、今週の1冊は『玉電松原物語』(坪内祐三著、新潮社、2020年刊)。著者は1958年、東京生まれ。雑誌「東京人」の編集部員を経た後、評論家、エッセイストとして活動した。『慶応三年生まれ 七人の旋毛曲り』などの著書がある。2020年1月、心不全で急逝。この『玉電…』は、「小説新潮」誌に2019年5月号から2020年2月号まで連載したエッセイを本にしたものだ。さらに続くはずだったので、未完の「遺作」ということになる。
書名を解説しておこう。「玉電松原」は東急世田谷線松原駅の旧名だ。この駅は世田谷区北部の、小田急線より北、京王線より南という中間領域にある。世田谷線は、かつて東急玉川線(通称「玉電」)の支線だった。玉電本線は路面電車だったので、世田谷線にはチンチン電車の雰囲気が漂う。松原駅もどこか停留所っぽい。著者は3歳のときに渋谷区から世田谷区赤堤に引っ越してきた。それで最寄り駅となったのが、この玉電松原だった。
著者は本文冒頭の一文で、自分は東京生まれ東京育ちでありながら「『東京っ子』とは言い切れぬ思いがある」と打ち明けている。読み進むと「私は東京っ子ではなく世田谷っ子だ」という宣言にも出あう。このくだりでは、往時の「赤堤界隈」は「田舎」だったので「世間の人が思っている世田谷っ子ではない」ともことわっている。これこそ、前述した〈都市辺縁部には都市辺縁部にしかない物語がある〉ということの別表現だろう。
実は私も、その赤堤に近い町に生まれ育った。小中学校の校区は隣接する。だから、そこが「田舎」だという印象はかなりの部分、共有する。その象徴が、この本に出てくる「四谷軒牧場」だ。100頭超の乳牛を飼っていたことがあり、私が若かったころは「東京23区で最後の牧場」ともいわれていたが、1980年代半ばに閉鎖された。今回、「たしか名糖牛乳におろしていたと思う」という記述を見つけて、そうだ、そうだったな、と思った。
著者の四谷軒牧場をめぐる回想は事細かだ。通学していた赤堤小学校の隣接地が牧場の牛糞処理場だったこと、それがやがてトウモロコシ畑に変わったこと、作物の成長を目にするたびに「前身が前身だけに土地がよく肥えている」と納得したこと……1970年ごろには、牛が1頭脱走して牧場前の赤堤通りに「デンと座っている」のを教室から目撃したという。そのころは車の行き来が激しくなっていたから、大騒動だったらしい。
私は著者より7歳年長だ。赤堤がもっと「田舎」だったころも知っている。思い違いがあるかもしれないが、幼少期の記憶を一つ披瀝しよう。当時は赤堤通り――その街路名がまだなかったかもしれないが――が牧場の近くで北沢用水という小川をまたいでいたが、その橋が土管だったのだ。川幅いっぱいに土管を並べ、水流を土管に通し、土管の上に板を載せたような簡易な橋だった。ちなみに今、この川は暗渠化されて緑道になっている。
この本の主題の一つは、あのころの小さな商店街だ。フランチャイズの店の出店攻勢が始まる前で、個人商店が存在感を示していた。印象深いのは、玉電松原駅近くの書店。著者は小学生のころから常連で、漫画誌「ガロ」を買ったりしていた。その書店も、今はコンビニになった。東京では昭和30~50年代、「さほど規模の大きくない町にもちゃんと商店街があった」。そのことを証言しておくのが、エッセイ執筆の最大の「動機」だったという。
実際、本の巻頭には「松原・赤堤エリアの昭和40年代MAP」が見開きで載っている。手描き風。このマップでもっとも入念に描き込まれているのが、玉電松原駅を挟んで東西に延びる商店街だ。鮮魚店がある、青果店がある、薬局もある、家具店もある……。
店々からは、いくつかの特徴が見てとれる。その一つは、〈よろづや〉性であるように私は思った。くだんの書店は、店舗の3分の2が本屋で残りは文房具屋、たばこ売り場の一角もあった。もう一つ、この本に出てくるのは、玩具店の役目も果たしていた菓子店。子どもに人気の「プラモデルやメンコ」「怪獣のブロマイド」「2B弾やカンシャク玉」……などが置かれていた。〈よろづや〉性には、どこか田舎町の雰囲気がある。
店が商売以外で地元と結びついていたことにも、私は心を動かされた。それは、著者が子ども時代に弟や友だちと「三角野球」に興じた話に見てとれる。三角野球は、二塁抜きの野球ごっこ。両チーム合わせて6人ほどは必要だが、4人しか集まらないこともあった。そんなときは蕎麦店に電話して安い麺類を断続的に注文、出前に来る店員を一人二人とメンバーに引き込んだという。店主は、事情を知りながら助っ人を送りだしていたらしい。
最後の章――本当の遺稿ということだ――では、著者が子ども心に感じた商店街の謎を二つ挙げている。まずは「人が入っていく姿が見えなかった」というスナック。子どもが寝入った時間帯に賑わっていたのだろうか。もう一つは、住宅地なのに結婚式場があったこと。「そもそも商売は成り立っていたのだろうか」「一度で良いから足を踏み入れておけばよかった」と綴っている。著者は世を去る直前まで、あの町に思いをめぐらせていたのだ。
著者は1989年まで赤堤にいて転居した。この本に書かれていることの大半は、著者の少年期、1960年代半ばから1970年代半ばまでの話だ。これは奇しくも、私が近隣の町で過ごした青春期に重なる。あの一帯は、心が挫けた夜にひとりで歩きまわった場所ではないか。今回、この本を読んで赤堤小学校周辺や世田谷線松原駅界隈を再訪してみた。町並みからは個性が薄れ、むかし私を癒してくれた「田舎」の空気は感じられなかった。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年6月17日公開、通算631回
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