アルバムにしたい本を見つけた

今週の書物/
『東京懐かし写真帖』
秋山武雄著、読売新聞都内版編集室編、中公新書ラクレ、2019年刊

カメラ

水害が頻発している。最近は、その怖さがすぐニュース映像になる。たとえば、濁流が家々を押し流す場面。住人はすでに現場から避難していると聞いても気がかりはある。一瞬、頭をよぎるのは、家を出るときにアルバムを持ちだせただろうか、ということだ。

アルバムに対する思いは、高齢の人ほど強い。写真が画像データとは呼ばれなかった時代、それをUSBメモリーやSDカードに保存したり、ネットの雲(クラウド)に載っけたりはできなかった。だから、紙焼き写真の値打ちは今よりずっと高かったのだ。

2011年の東日本大震災では、津波にさらわれた写真を復元するボランティア活動が広がった。被災者は、さぞうれしかっただろう。失いかけた写真は、家庭が営まれた記録であり、家族が生きた証でもあった。とくに、その家族が帰らぬ人となっていたならば……。

アルバムは特別な存在なのだ。かつて「岸辺のアルバム」(脚本・山田太一、TBS系列、1977年)というテレビドラマが人々の心をとらえたのも、家族の結びつきの危うさを、家屋が流されれば消えてしまうアルバムのはかなさに重ねあわせたからだろう。

と、ここまで書いてきて、自身のことを顧みるとゾッとする。私の家は幸いにも震災にも火災にも水害にも遭っていないが、幼少期のアルバムをどこに仕舞っているかがわからない。ただ、ずぼらなのだ。探そうとは思うが、もう散逸しているかもしれない。

色あせた写真には二つの意義がある。一つは、自分自身の記録という側面だ。家族でこんなところへ旅した、親戚にはこんなおじさんやおばさんがいた……というようなことだ。もう一つは、時代の記憶。あのころはこんな服が流行っていた、町にはこんな乗りものが走っていた……といったことである。「私」と「公」の過去を「こんな」だったね、と実感させてくれるわけだ。アルバムには、そんないくつもの「こんな」が詰め込まれている。

「私」についていえば、アルバムの代替品を見つけるのは難しい。だが、「公」は違う。世相をとらえることに長けた写真家が一人いれば、その作品群を通じて「あのころ」の「こんな」を蘇らせることができる。で、私は最近、そんな作品集に出あった。

書名は『東京懐かし写真帖』(秋山武雄著、読売新聞都内版編集室編、中公新書ラクレ、2019年刊)。著者は1937年生まれの写真家。東京・浅草橋で家業の洋食店を営みながら、仕事の合間に東京都内、とりわけ下町の風景やそこに生きる人々の姿を撮ってきた。まえがきによると、「カメラを始めたのは15歳」で「撮り溜めたネガは数万枚」に及ぶ。「写真と洋食屋のどちらが趣味でどちらが本業なのか、分からないくらい」なのだ。

編者名からもわかるように、この本は読売新聞の連載をもとにしている。都内版の一つ、「都民版」に週1回のペースで載ったものから、2011~2018年の72本を選んだという。読売新聞記者のあとがきによれば、担当記者は毎週、秋山さんの洋食店に足を運ぶ。写真1枚1枚について、じっくり話を聞くためだ。そして「『一本指打法』でしかキーボードをたたけない秋山さんに代わり記事を書く」。だから本文からは、語りの口調が感じとれる。

その文章には、秋山さんの被写体に対する思いがあふれている。ただ、この本の主役は、あくまでも写真だ。1編に2枚ほど載せているから全部で百数十枚。ただ、写真は文章のように、これはという言葉を引用できない。当欄では何をどう書こうか。さあ、困った。

ふと思いついたのは、ここにある写真を私本位の視点で味わってみる、ということだ。秋山さんが写真を始めたのが1952年だとすれば、それは私が生まれた翌年だ。実際、作品の撮影年は、多くが私の幼年期から少年期、青年期に重なっている。「公」の記憶ということなら、この本は「アルバム」の役目を果たしてくれるのだ。だから当欄では、作品群を自分の写真のように眺め、あのころは「こんな」だった、と懐旧に耽ることにしよう。

最初にニヤッとしたのは、「羽根をさがす子供」(1957年)だ。男の子たちが路地裏でバドミントンをしていたら、羽根が板塀を越え、道沿いの家の庭に飛び込んだ。一人は、身をかがめた友だちの背中に乗り、背伸びして塀の向こうを見下ろしている。ほかの子たちも、しゃがみ込んで板の隙間から庭を覗いている。そういえばあのころ、ゴムまりの野球で塀越えのファウルを飛ばし、「ボール、とらせてください」と大声を出すことがよくあった。

子どもたちが遊ぶ写真には、ローラースケート(1957年)、ベーゴマ(1966年)、馬跳び(1974年)、相撲(1980年)、縁台将棋(1983年)などがある。どれも路上の光景だ。道の真ん中で、女の子が馬をぴょんと跳び越えている。路面に、ひしゃげた土俵が白線で描かれている。あのころ、私たちは「道路で遊ぶな」と注意されても言うことを聞かなかった。今は車が通らない路地裏でも、子どもたちの遊び声がほとんど聞かれない。

男の子が独り、ハーモニカを吹いている写真もある(1957年)。格子縞のジャンパーの胸元から、猫の顔がのぞいている。愛猫をすっぽりくるんで暖めているのか、それとも、愛猫の体温で自分が暖まりたいのか。寒い季節であることだけは確かだ。それなのに、その子は戸外にいる。気になるのは、背後に見える波板らしき物体だ。あのころは、ありあわせの材木やトタン板で即製した建物があちこちにあった。これも、そんな物置小屋ではないか。

夕暮れどき、子どもたちが連れだって家路の途上にある写真も2枚載っている。どちらも橋の上。片方の写真(1965年)では、向こう岸に工場の煙突が並び、煙がもくもくと上がっている。もう一方(1959年)は、男の子と女の子が総勢7人。はだしの子は靴を手にぶら下げている。「工事現場の水たまりで、泥だらけになって遊んでいたんだ」と秋山さん。あのころ「水たまり」は、それだけで子どもたちの遊びを成立させた。

道路を生活の場にしていたのは、子どもだけではない。大人も、それをただの通り道とは考えていなかった。「嫁入りの日」(1964年)では、花嫁が仲人に導かれ、商店街をしずしずと歩いている。婚礼となれば、新婦が白無垢角隠しの晴れ姿をご近所に見せて回ったのだ。一行を見守っているのは、割烹着姿の女性や子どもたち。通りの華やいだ声を聞きつけて、家から飛び出してきたのだろう。道路が一世一代の大舞台になっている。

「ご近所さん」(1987年)は、近くの住人十数人が路地の道幅いっぱいに並んでいる文字通りの記念写真。食事会の折に撮ったものだという。「こうして勢ぞろいした姿を見ると、お互いの家族を見守りながら暮らしていたんだなと、しみじみ思うよ」。路地は、向こう三軒両隣の私生活をそれとなくつなげる空間だった。それを窮屈と感じるのが今の私たちだが、「見守りながら暮らしていた」と思うゆとりがあのころにはあった。

道路は商いの場にもなった。「部品売り」(1957年)という写真では、露天商が橋のたもとに中古自転車の部品を並べている。よく見ると、値札がついているのはタイヤが多い。「壊れた自転車を安く仕入れて、使える部品だけ抜き取ったんだろうね」。おもしろいのは「橋の上では、硬くなった大福を温め直して売っている人もいたよ」という話。戦後の空気が残っていたあのころ、大人たちはなんでも売りものにして、どこでも店を開いたのだ。

道路の写真をもう1枚。「無理が通れば」(1965年)では、大型トラックが2台、狭い道をギリギリすれ違っている。「今なら立派な物損事故だね」とあるが、この写真ではそうとは断定できない。ただ、秋山さんの証言は含蓄に富む。「運転手がどうしたかって。お互いにそのまま目的地へと走り去っていったよ」――あのころ、運転手の最優先事項はものを運ぶことであり、武骨な車体にかすり傷がついたかどうかは二の次だったように思う。

写真は嘘をつかない。この本では、私が子どもだったころの社会の実相が露呈している。あのころの大人は、法律よりも融通を優先させていたのではないか。だから、道路という公空間で互いに折りあいをつけていた。子どもが道路にいても、近隣の緩いつながりのなかで見守っていた。それがすべて良かったとは言わない。法律や決まりごとは当然、尊重されるべきだ。ただ同時に、あのころにあって今は失われた美風も忘れたくはない。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年9月3日公開、通算590回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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半藤史話、記者のいちばん長い日

今週の書物/
『日本のいちばん長い日 決定版』
半藤一利著、文春文庫、2006年刊

8月15日

20年前の出来事を書くことは、たやすい作業のように思える。当事者たちの記憶は、まだ鮮明だ。40代だった人は60代、50代だった人は70代……取材すれば、きのうのことのように話してくれるだろう。だが、待てよ。逆の効果もある。20代だった人は40代、30代だった人は50代……今もバリバリの現役が多くいて、うそのない話を打ち明けることに差し障りを覚える向きもあるだろう。だから、近過去史の発掘はやさしいようで難しい。

取材の難しさは、過去と現在の間に価値観の断絶があるときに倍加する。過去に良かれと思ってとった言動が非難の的になることがあるからだ。その難作業を果敢にやってのけた人がいた。今年1月に90歳で亡くなった作家・ジャーナリストの半藤一利さん。文藝春秋社員だった1965年、20年前の「終戦」を関係者の証言をもとに再現したのである。8月15日正午までの24時間に政権中枢で何があったかを活写している。

で、今週は、その『日本のいちばん長い日 決定版』(半藤一利著、文春文庫、2006年刊)。「あとがき」によると、この本はもともと1965年、著名評論家の大宅壮一を編者として世に出た。ただ、その取材・構成が文藝春秋社内の「戦史研究会」によるものだったことは、大宅自身が序文のなかで開示している。「研究会」の中心にいた半藤さんが、大宅の家族から許しを得て名義者となり、改訂したのがこの「決定版」。単行本は1995年に出た。

「あとがき」をもう少し紹介しよう。半藤さんは1965年当時を、こう振り返っている。「毎朝四時に起きて原稿用紙をしこしことうめた」「毎朝机にむかっていると、日一日と、夜明けが早まってくるのがよくわかった」。出版社員として日常の業務をこなしながら、連日早朝、自分の仕事に打ち込んだのだ。話を聞いた相手は50人を超える。一部は同僚に任せたが、軍部や政府、NHKの関係者は、すべて自身で取材したという。

半藤さんは「決定版」を自分の名で出すにあたって、その心境を「長いこと別れていた子供に『俺が親父なんだ』と名乗ったような酸っぱい気分」と表現している。取材したことや書いたものへの愛着が感じられる言葉だ。ジャーナリストとして正直な気持ちだろう。

私は、この作品を映画で観た記憶がある。本が「大宅壮一編」で世に出た2年後の1967年に東宝が製作したもので、岡本喜八がメガホンをとり、三船敏郎、加山雄三という二大スターが共演する大作だった。ただ、筋書きはあまり覚えていない。原作が脚色されていたこともあるだろうが、映像になることで俳優の演技が際立ち、文章ならば感じとれる実録としての側面が薄らいだのだろう。そのことは今回、原作を読んで痛感した。

この作品は「大宅壮一編」の刊行以来、すでに読み尽され、語り尽くされた感がある。だから、当欄は的を絞る。着眼点は、報道機関が終戦にどうかかわったかだ。記者たちは歴史の転換点に何を思い、何をしていたのか。それがわかる記述を拾いあげていこう。

報道機関が置かれていた状況は「プロローグ」からも見てとれる。1945年8月15日正午の玉音放送までの24時間ドキュメントに先立つもので、戦争末期の内外の動きを跡づけている。その一つが、米英中3カ国が日本に無条件降伏を求めたポツダム宣言だ。新聞各紙は7月28日付朝刊で、これを「内閣情報局の指令のもとに」報道した。「指令」が、どこまで紙面の中身に立ち入ったかは不明だが、「宣言」が歪めて伝えられたことは間違いない。

たとえば、宣言には「(連合国が)日本人を民族として奴隷化しまたは国民として滅亡させようとしているものではない」という記述があるが、記事にはそれがない。「国民の戦意を低下させる条項」とみなされて、伏せられたのだろう。見出しをみても、宣言を「笑止」(読売報知、毎日)とあざけったり、「政府は黙殺」(朝日)と強がったりしている。その報道姿勢は、事実をありのままに、というジャーナリズムの基本精神から大きく外れていた。

もう一つ、私が驚くのは、内閣の迫水久常書記官長が重大情報を報道機関から入手していたことだ。政権中枢が情報をリークするのではなく、逆に貰っていたのだ。ソ連参戦がそうだ。「八月九日午前三時、首相官邸の卓上電話が鳴った。迫水書記官長の半ば眠っている耳に投げこまれたのは、同盟通信外信部長の声であった」。第一声は「たいへんです!」。続けて、ソ連の日本に対する「宣戦布告」を伝えた。米国の日本向け放送が報じたという。

通信社は、記事を新聞社や放送局に配信する報道機関だ。ただ、戦前戦中の同盟通信社にはそれだけではない国策企業としての側面があった。ソ連参戦第1報の耳打ちは、そのことを如実に物語っている。通信社が政府の一部のように動いていたことを示す怖い話だ。それだけではない。通信社が海外の短波放送に耳を聳てるのは当然のことだが、政権中枢がその取材行為に乗っかって外国の動きを察知したというなら情けない話でもある。

ただ、事は「宣戦布告」だ。公式ルートの通告はなかったのか。そんな疑問も起こる。ウィキペディア(「ソ連対日宣戦布告」2021年8月8日最終更新)によると、ソ連は日本時間で1945年8月8日午後11時、駐ソ日本大使に伝えていたが、大使が東京に宛てた公電はモスクワ中央電信局で滞った。タス通信の報道が始まったのも日本時間9日午前4時だったという。だとすると、午前3時の電話が日本政府にとって初耳だった可能性はある。

ここからは、8月14日正午以降の24時間を1時間ごとに章立てした本文に入ろう。政府や軍部、宮中の動きを刻々追いかけているが、記者たちの仕事ぶりも記述している。

14日正午~午後1時の章には首相官邸地下室の描写がある。下村宏情報局総裁(国務大臣)が記者会見で、直前の御前会議の様子を報告していた。ポツダム宣言受諾の「聖断」が下されたとき、天皇からは「国民にこれ以上苦痛をなめさせることは、わたしとして忍びない」という言葉があったという。会見中、下村は「ぽろぽろと涙がでるにまかせていた」。御前会議がもたらした「鮮烈な感動」で、老身をようやく支えているように見えた。

特記すべきは、泣いたのが老閣僚だけではなかったことだ。記者も同様だった。この本によると、朝日新聞の政治部記者二人は「メモ用紙がぽつんぽつんと濡れる」のを見て「自分も泣いている」ことに気づいた。総裁の秘書官も「これは記者会見などというものではない」と涙しながら思った。政府が方針を大転換したのだから、記者は感情に溺れている場合ではなかったはずだ。理由を冷静に問いただすべきだった。ここに記者本来の姿はない。

この朝日記者の一人は、前日に手柄を立てていた。13日、軍部が新しい勅命を受けて新しい作戦を始めた、とする大本営の発表文が新聞社や放送局に届いた。記者は裏をとるため、それを内閣書記官長に見せる。その結果、抗戦派将校によるニセ文書とわかり、政府も間一髪、虚偽発表をラジオの電波に乗せずに済んだ。新聞社が虚報に踊らされなかったのは立派だ。だが、報道機関が政府と一体化しているような印象は、ここでも拭えない。

この本でもっとも気になるのは、ポツダム宣言受諾を表明した終戦詔書を記者がいつ手にしたか、である。14日午後9~10時の章には、首相官邸で各紙記者が詔書の記事を朝刊2版に載せようと、その公布を待つ様子が描かれている(当時、新聞は朝刊のみで、締め切りが早い1版と遅い2版があった)。だが、公布は午後11~12時。翌15日午前2~3時の章に「首相官邸詰記者から終戦の詔書の原稿が送られてきた」という記述がある。

朝刊最終版は、配送の時間を考えると遅くとも午前2時ごろには印刷を始めたい。ところが、この記述には記者たちが詔書の記事を急いで書いた気配がない。各社は朝刊出稿を見送ったのか。いや、そうではなかった。主要紙は15日、本来朝刊のはずの新聞を玉音放送後に配ったのだ。これにも政府の意向が反映していると思われるが、新聞社も終戦が決定済みの日の朝、それを伏せて戦意高揚の紙面を届けるわけにはいかなかっただろう。

私がいま問いたいのは、1945年8月14日正午から15日正午まで記者は何をしていたかということだ。聖断が下った時点で日本のポツダム宣言受諾は決まった。それを情報局総裁が明らかにしたのだから、「受諾へ」とは書けた。いや、書かなくてはいけなかった。

報道の世界にはエンバーゴという約束事がある。科学論文の発表でいえば、論文誌が解禁時刻を設定している場合、その時刻まで報道を控えることだ。だが、エンバーゴを解除する例外もある。人道面から一刻も早い公表が望まれる論文が出てきたときがそうだ。政権が戦争続行から戦争終結へと舵を切るというニュースは、無駄な犠牲をこれ以上ふやさないという観点からエンバーゴが許されないだろう。号外を出してでも速報すべきだった。

確かに、報道に踏み切りにくい事情もあった。この本によれば、15日午前2~3時には「全陸軍が全国的に叛乱のため立上った」との情報が飛び交い、詔書を軍部の謀略とみる説も流れていた。軍は「安心して近寄ってくる敵を海岸に迎撃し、一大水際作戦を敢行するつもり」というのだ。政府も軍部も追いつめられていたから、何があっても不思議はない。夜更けの新聞社で、記者たちは事態が和戦どちらへ動くのか頭を悩ませていたらしい。

思えば御前会議直後の会見から24時間、記者は耳にした超弩級の発表をどこにも発信できなかったのだ。この不作為の一昼夜が、記者の「いちばん長い日」ではなかったか。
*引用では本文にあるルビを省いた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年8月13日公開、通算587回
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五輪はかつて自由に語られた

今週の書物/
『1964年の東京オリンピック――「世紀の祭典」はいかに書かれ、語られたか』
石井正己編、河出書房新社、2014年刊

五つの輪

日本列島には1億人余が暮らしている。今この瞬間も、喜んでいる人がいれば、悲しみにくれている人もいる。どこかで結婚式があれば、別のどこかで葬式も同時進行中だ。世に明と暗が共存することは、私たちが受け入れなければならない現実だろう。

ただ、それは結婚式と葬式の話だ。いずれも私的な行事だから、世にあまねく影響を与えることはない。だが、明暗の一対がオリンピック・パラリンピック(オリパラ)とパンデミック(疫病禍)となると事情が違ってくる。人類の祝祭が、世界中の人々の生命を脅かすわざわいの最中に催されようとしているのだ。オリパラがもたらす歓喜も、疫病禍に起因する苦難や悲嘆も、すべて公的な領域にある。私的明暗の同時進行とは質が異なる。

国内ではこのところずっと、今夏のオリパラが論争の的になっている。1年の延期でコロナ禍制圧を祝う機会になる、という楽観論が見当違いとわかったからだ。開催の是非をめぐっては、いくつかの模範解答があった。たとえば、選手の思いを第一に考えるべきだという主張。あるいは、開催の可否は科学の判断に委ねるべきだという意見。いずれも、もっともだ。ただ、私たちが考慮すべきは「選手の思い」と「科学の判断」だけではない。

第一に、オリパラがただのスポーツ大会ではないとの認識は、五輪誘致派の間に当初からあったのではないか。それは、震災からの復興と関係づけられたり、外国人観光客需要を押しあげるとして期待されたりした。五輪は、社会心理や経済活動と密接不可分なのだ。

第二に、オリパラ開催を科学で決める、という話も一筋縄ではいかない。科学の視点で言えば、コロナ禍を抑え込むには人流を減らすのがよいに決まっている。正解は、中止か延期しかないだろう。だが、実際には開催を前提にして感染制御策を立案することにとどまりがちだ。前提条件に、すでに政治的、経済的な思惑が紛れ込んでいる。政治家はそのことに触れず、科学者に諮ったという手続きだけをもって「科学の判断」を仰いだと言い繕う。

昨今のオリパラ問題は小学校の科目にたとえると、こうなる。体育が中心にあるのだが、その枠に収まりきらない。理科に関係しているが、理科が答えを出してくれるわけでもない。実際のところは、社会科の時間に考えるべき論題がいっぱい詰まっているのだ。本稿冒頭の話題も、あえて言えば社会科の守備範囲だ。公的な災厄のさなかに公的な祝祭に心躍らせられない人々が多くいるのではないか――そういう慮りがもっとあってよい。

で、今週は『1964年の東京オリンピック――「世紀の祭典」はいかに書かれ、語られたか』(石井正己編、河出書房新社、2014年刊)。1964年の東京五輪について、新聞や雑誌に載った小説家や評論家、文化人、知識人ら総勢34人の寄稿や鼎談対談を集めている。編者は1958年生まれの国文学、民俗学の研究者。序文によれば、64年東京五輪前後の国内メディアには作家たちが次々に登場して「筆のオリンピック」の状況にあったという。

この本は大きく分けると、五輪そのものに密着した「開会式」「観戦記」「閉会式」の3部から成るが、それらに添えるかたちで「オリンピックまで」「オリンピックのさなか」「祭りのあと」という章も設けている。五輪を取り巻く世相も視野に入れているのだ。

開催まで1カ月という今この時点に同期させるという意味で、今回は「オリンピックまで」に焦点を絞ることにする。この章だけでも、井上靖、山口瞳、松本清張、丸谷才一、小田実、渡辺華子という7人の筆者が競うように感慨を綴り、持論を述べている。

あのころの平均的な日本人の心情を汲みとっていて正攻法の作家だな、と思わせるのは井上靖だ。その一文は1964年10月10日付の「毎日新聞」に掲載されたから、10日の開会式直前の心境を語ったものとみてよい。それは、4年前にローマ五輪を現地で観たときの体験から書きだされる。閉会式で、電光掲示板に浮かぶ「さようなら、東京で」という次回予告を目にした瞬間、「本当に東京で開かれるだろうか」と心配になったという。

その理由は、突飛なものではない。五輪のためには道路を整えなくてはならないし、競技場も必要だ。「果たして四年間のうちにできるだろうか」。そんな思いがあったという。ところが4年後の今、道路も競技場もできあがっている。井上は、ローマの不安が「杞憂(きゆう)だった」として、それらを仕上げた人々に素直に謝意を表す。ここで目をとめたいのは、井上が五輪の整備項目を列挙するとき、道路→競技場の順で書いていることだ。

この記述から、64年東京五輪が都市の建設事業とほぼ同義であった構図が見えてくる。

もちろん、その構図の裏側に目をやる人もいる。開催前年に書かれた山口瞳の「江分利満氏のオリンピック論」がそうだ(『月刊朝日ソノラマ』1963年10月号)。五輪は1年先だが、「オリンピックはもう終ってしまった、と考えている人もあるに違いない」。五輪にかかわる政治家や財界人、建設業者やホテル経営者の胸中には「もう予算はきまってしまった、もう何も出てこない」という認識があるはずだ、と見抜くのだ。鋭いではないか。

小田実は、五輪を間近にした東京の各所を見てまわり、その感想を寄稿している(共同通信1964年10月7日付配信、本書掲載分の底本は『東京オリンピック』=講談社編、1964年刊)。それによると、「オリンピックに関係するところ」と「しないところ」に「あまりにも明瞭な差異」があったという。五輪にかかわる場所には巨費が投じられ、新しい建築や道路が出現している。かかわりがなければ「ゴロタ石のゴロゴロ道のまま」だ。

小田は、さすが反骨の人である。世の中に、五輪という「世界の運動会」に興味がなく、「ヒルネでもしていたほうがよい」と思う人がいることを忘れない。そうした人もいてよいはずなのに、「政治」は「ヒルネ組をまるで『非国民』扱い」――そう指弾する。

ここで私がとりわけ目を惹かれたのは、こうした「政治」がジャーナリズムを巻き込んで、人々の間に「既成事実の重視」「長いものにまかれろ」という社会心理を根づかせた、と指摘していることだ。それは、「きみが反対だって、もう施設はできてしまった。こうなった以上は一億一心で」と、ささやきかけてくるという。1964年の五輪前夜、街にはそんな気分があふれ返っていたらしい。それは、オリパラ2020直前の今と共通する。

ただ、「ヒルネ組」も黙ってはいない。松本清張は『サンデー毎日』1964年9月15日臨時増刊号への寄稿で「いったい私はスポーツにはそれほどの興味はない」と冷ややかだ。自身の青春期、スポーツ好きの若者には大学出が多かったとして、「学校を出ていない私」はスポーツに無縁だったことを打ち明ける。「何かの理由で、東京オリンピックが中止になったら、さぞ快いだろうなと思うくらい」。そんな異論も、あのころは堂々と言えたのだ。

丸谷才一の一編(『婦人公論』1964年10月号)は、英会話術の指南。“You won’t come up to my room?”(「君はぼくの部屋へ来ないんだね?」)と聞かれたとき、「ゆきません」のつもりで“Yes.”と答えたなら「ゆきます」の意にとられると警告、「ラジオは本当はレイディオ」など、指導は細やかだ。だが、「会話というものは言葉だけでおこなわれるものでは決してない」と「態度」「表情」などの効能も説いて、読み手を安心させている。

最後の一文は、渡辺華子が1961年7月8日付「読売新聞」に寄せた論考。彼女はその前年、ローマで五輪に続けて開かれた「国際下半身不随者オリンピック」(第1回パラリンピック)を観戦していた。それは、選手が応援の側にも回ったり、観客がどの国にも声援を送ったりで、まるで「草運動会」のよう。「対抗意識と緊張感の過剰な一般オリンピック」より「ずっと楽しかった」という。この感想は、結果として五輪批判にもなっている。

1960年代前半、東京五輪が刻々と迫るなかでも、その祝祭をめぐって、なにものにも縛られない議論がメディアで展開された。今は、型破りの論調がほとんど見当たらない。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年6月18日公開、通算579回
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星屑の宵、テレビに心躍った

今週の書物/
『シャボン玉ホリデー――スターダストを、もう一度』
五歩一勇・編著、日本テレビ放送網、1995年刊

レコード

テレビがつまらないというのは高齢世代ならではの嘆きのようだ。若い世代は、周りにテレビに代わるものがあふれている。もはや、テレビに求めるものはないということか。

私が特につまらないと思うのは、いわゆるバラエティーだ。ひな壇に出演者が10人ほどずらりと並ぶ。顔ぶれを見ると、芸人と呼ばれる人々がいる。グラビア系タレントもいれば、タレント化した医師や弁護士、元政治家もいる。だれかが喋れば、みんなが笑う。賑やかだ。それを、スタジオの色調が増幅する。ひな壇後方の衝立は、なぜかたいてい極彩色。見ている側の聴覚と視覚に騒々しさのかたまりが、どっと飛び込んでくる。

私は、テレビをつけてこの場面に出くわすと、すぐ撤退する。だが最近は、チャンネルを替えても似たり寄ったりのことが多い。そんなときは致し方なく〈バラエティー(多様性)〉をのぞくことになるが、その名とは裏腹に画一的であることこのうえない。

話題は、芸能界の恋話から政界のゴタゴタ、日常の些事までさまざまのようだが、流れが型にはまっているのだ。だれかがひとり、意表を突く発言をする。それに対するツッコミが別のだれかから飛んでくる。ここでどっと笑い声が起こって「そっちから来ますか」などの合いの手が入る。ツッコミとはいえ不適切発言は回避されており、最後は予定調和に落ち着く――視聴者は、どこかの職場の飲み会を居酒屋で聞かされているような気分になる。

「テレビがつまらない」という言葉は、今春話題にした『ポエマー』(九島伸一著、思水舎、2021年刊)にも出てくる。バラエティーだけを語っているわけではなさそうだが、そのくだりを引用しよう。(2021年4月16日付「コロナ時代の嘘をあばく本の質感」)

「テレビがつまらない/どのチャンネルもつまらない/そんなわけで仕方なく/外国の番組にチャンネルを合わせたりする」。わかる、わかる。私も去年はCNNの大統領選報道をずいぶん見ました。九島さんは、テレビ業界人の「家にも ろくに帰れない」ほどの忙しさを慮ってこうも書く。「みんな 朦朧としていて/なぜか テンションは高くて/でも やっぱり眠そうで/そんな状態で作る番組が/おもしろいわけはない」(/は改行)

テレビ批判は、さらに続く。「スポンサーがお金を払いたくなる番組は/好感度が高く 視聴率が高いような/要するに見ても見なくてもいい/あたりさわりのない番組なのだ」。なるほど、九島さんの言う通りだ。まず、「好感度」と「視聴率」をものさしに出演者を選ぶ。その一群に「あたりさわりのない」テーマで語りあってもらい、「見ても見なくてもいい」予定調和を電波に載せる――これぞ、今のバラエティー番組ではないか。

で、今週の1冊は『シャボン玉ホリデー――スターダストを、もう一度』(五歩一勇・編著、日本テレビ放送網、1995年刊)。「シャボン玉ホリデー」は1961~72年、日本テレビ系列で放映された人気バラエティー。「スターダスト」(星屑)は、そのエンディングで歌われたジャズの曲名だ。この番組のことは当欄の前身でも、ちょっと触れたことがある。(「本読み by chance」2016年7月15日付「選挙翌日、夢とシャボン玉しぼんだ」)

伝説の番組を郷愁たっぷりに振り返った裏話と言ってしまえば、それまでだ。だが、この本には史料としての価値がある。1990年代半ばに関係者の話を聴いているからだ。現時点、番組にかかわった人に物故者は少なくない。主役のザ・ピーナッツ2人とクレージーキャッツ7人(当時のメンバー)だけを見ても8人が世を去った。健在の人も今はもう1960年代の記憶がぼやけているはずだ。90年代は、本にするのにちょうどよい頃合いだった。

編著者は1943年生まれ。日本テレビ社員として、歌番組やバラエティーのディレクターやプロデューサーを務めた人だ。「シャボン玉…」には1967年の入社直後からアシスタントディレクターとしてかかわったというが、この番組の制作現場を放映期間のすべてにわたって間近に見ているわけではない。したがって、本書の大半は取材にもとづく。そのこともあってか、編著者自身も本文では三人称の証言者として登場する。

この本の史料価値をさらに高めているのが、番組の場面を切りとったような写真の数々。巻頭にはカラーグラビアもある。巻末には各回のタイトルやゲスト出演者、視聴率などを記載した資料も載っている。本文や章扉には、台本を再現したらしい記述も出てくる。

それらを眺めているだけで、私のような世代には番組の空気感が蘇ってくる。まずは、オープニングのコント。どうということのないネタが多かった気がするが、最後に牛の鳴き声がモーッと聞こえてきて一同うろたえる。そして、画面にシャボン玉が飛び交い、ピーナッツの歌うテーマソングが流れる。前田武彦作詞の歌にあった「丸いすてきな 夢ね」というひとことが印象的だった。それが、この番組のすべてを言い表していたようにも思う。

ちなみに、なぜシャボン玉かと言えば、スポンサーが石鹸会社だったからだ。現社名で言えば、牛乳石鹸共進社(本社・大阪市)。モーッの理由もわかる。日曜日午後6時半~7時の時間枠を日用品メーカー1社が10年余も支えた。これだけでもすごいことだ。

この導入部が終わると、歌とコントが交互に繰り広げられる。歌い手はピーナッツだけではない。ゲストたちがいる。持ち歌も歌ったが、海外のヒット曲やジャズのスタンダードナンバーをカバーすることが多かったように思う。さらに、これは今回、掲載写真を見ていて思いだしたことだが、歌は歌だけではなかった。ピーナッツが男女のダンサーを従え、ミュージカル風の振り付けで踊りながら歌うのが定番のメニューだった。

1960年代前半、日曜夜の「一般家庭の典型的なテレビ鑑賞の流れ」が「てなもんや三度笠」→「シャボン玉ホリデー」→「隠密剣士」→「ポパイ」だったことが、この本の脚注にも記されている。わが家もまったくそうだった。当時、私のような思春期男子は、クレージーのギャグに笑い転げながら、ピーナッツのダンスに内心、胸をときめかしたものだ。巻末資料で視聴率の記録を見ても、20%台の数字を稼ぐ回が多かったことがわかる。

この本でわかるのは、「シャボン玉…」が手間をかけた番組であることだ。準レギュラーの中尾ミエは、こう証言する。「まず録音の日があって、振付の日があって……。で、水曜が本番だから、三日はリハーサルやってた」。週1回30分のための週3日である。収録日は、午後1時にピーナッツのダンスリハーサル、午後2時にその本番、午後6時にクレージーがスタジオに入り、翌日午前3~4時まで録画撮り――そんなこともあったという。

ピーナッツについて言えば、「シャボン玉…」への起用が決まった時点からハードな日課が始まっていたようだ。振付師が振り返る。「当時のピーナッツはダンスができなかった」「連日朝の六時ぐらいからレッスンしてネ」「ぜんぜん、へこたれませんでしたネ」

制作陣も同様だ。若手ディレクターと新進放送作家の共同作業を描いたくだりが、その熱気を伝えてくれる。深夜、放送作家にディレクターから電話がかかってくる。提出していた台本は「非常に面白い」が「少し直したい」という。メールはもちろん、ファクスもなかったころだ。代々木の「連れ込み旅館」に呼びだされる。男子二人が一室にこもり、「ヒザ突き合わせながら直した」。これが、作家の「シャボン玉…」デビュー作になった。

「シャボン玉…」は、高度成長期という1960~70年代の空気に支配されていたのだなあ、とつくづく思う。出演者やスタッフが24時間、ほぼすきまなく働いていたというのは、あのころのモーレツサラリーマン流だ。スタジオでは「みんな 朦朧としていて/なぜか テンションは高くて/でも やっぱり眠そう」だったのだろう。それなのに、あの番組を「つまらない」と感じたことはない。逆に、私たちの心をつかんで放さなかったのである。

理由は何だろうか。この本に一つ、ヒントがある。植木等の専属運転手から抜擢されてコメディアンになった小松政夫の言葉だ。「何が良かったって、ボクらは大人のグループにつけたってェのは大変なコトですよネ」――周りを見渡すと、付き人たちに「罵詈雑言」を浴びせるようなタレントが多かったが、クレージーに限って、そんなことはなかったという。師弟関係にはあったのだろうが、徒弟制度的でも体育会風でもなかったのである。

たとえば、小松の谷啓評。谷を相手に「面白い話」をすると、まずは「喜んで聞いてくれる」。それが「励みになるんですネ、ボクらにとって」。そして、谷自身がコントを考える段になると「あンときにお前と話したアレをやろう、なんて言ってくれたりしてネ」。

見事な水平目線だ。これは、クレージーキャッツがジャズ奏者の集まりだからではないか。メンバーの犬塚弘は、クレージーの強みをこう分析している。「決められたことをやらない、とにかく壊していく」「ソロになると自分の好きなことをやる」「アドリブ、即興でいろんなことをやる」「だから自分の個性とか、そういうのが出た」――ジャズに象徴される戦後精神がテレビのエンタメに初めて結実したのが「シャボン玉…」だったように私は思う。

で、もう一度、今なぜテレビがつまらないのか。業界は今も「シャボン玉…」のころと同様に忙しい。だが、決められたことを壊す突破力も、好きなことにこだわるわがままも、アドリブであっと言わせる機知も奪われてしまったのではないか。そう思われてならない。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年6月11日公開、同月12日最終更新、通算578回
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