オーウェルは二つの社会主義を見た

今週の書物/
『ジョージ・オーウェル――「人間らしさ」への讃歌』
川端康雄著、岩波新書、2020年刊

右寄り

新聞記者の一線を離れてみると、後悔がたくさんある。現役時代、もうちょっと頭を働かせれば、あんなことが書けたな、こんなこともできたな、ということだ。

今夏、朝日新聞デジタルに「オーウェルの道をゆく――『労働者階級の街』から見た英国のいま」という記事が連載された(2023年7月26~29日、8月2日、16~20日、その後、短縮版が朝日新聞夕刊「現場へ!」欄に載った)。筆者は、ロンドン駐在の金成隆一記者。「英国の地方を訪ね、特別な肩書のない人々の話を聞きたい」と思い、作家ジョージ・オーウェル(1903~1950)がかつて歩いたイングランド鉱工業地帯の今を見たという。

心にズシンと響いたのは、「特別な肩書のない人々の話を聞きたい」の一言だ。これだ、こんな取材がしたかったのだ。私も1990年代、ロンドンに駐在していたが、科学記者という肩書に縛られ、ほとんど学者ばかりを追いかけていた。そのことが悔やまれる。

イングランド北部の空気は、ロンドン時代の出張取材や休暇旅行でなんども吸っている。鉱工業地帯でパブにふらりと立ち寄ると、労働者らしい男たちがビールを片手に陽気に語りあっていたものだ。店内に飛び交うのはもちろん英語だが、ケンブリッジやオックスフォードで耳にするそれとはまったく違った。ここにいる人々こそが英国社会の本体なのだ――私もそう認識していたが、話を聴いてまわろうとは思わなかった。

それをやってのけたのが、金成記者だ。いや、もとをたどればジョージ・オーウェルということになろう。オーウェルは1936年、ジャーナリストとしてイングランド北西部、マンチェスターに近い炭鉱町ウィガンを取材した。ロンドンからは鉄道やバスを乗り継ぎ、安宿や民家に泊まる旅だった。こうして英国労働者階級の「もっとも典型的な人たち」の声に触れたのだ。翌年、『ウィガン波止場への道』というルポルタージュを発表している。

で今週は、そのオーウェルの伝記であり解説書でもある一冊を読む。『ジョージ・オーウェル――「人間らしさ」への讃歌』(川端康雄著、岩波新書、2020年刊)だ。著者は1955年生まれ。近現代の英国文化や英文学が専門の研究者。オーウェルの邦訳も多く手がけている。本書では、オーウェルの生涯46年余を幼少期から死の当日までたどっている。文筆生活を始めてからの記述では、そこに作品世界を絡ませているのが読みどころだ。

中身に入ろう。著者は「はじめに」の一文を「いまでは不思議なことに思えるのだが」と切りだし、日本では昭和中期、「政治的左派」や「進歩的知識人」の大勢がオーウェルを嫌っていたことを振り返る。たぶん、若い人々にはピンとこないだろう。

実際、オーウェルの代表作『動物農場』(1945年)と『一九八四年』(1949年、*1*2)は東西冷戦期、ソ連型社会主義に対する批判の書として読まれた。右寄りと見られたわけだ。西側には、オーウェルを「反ソ・反共のイデオローグ」に担ぎあげる動きがあった。

「はじめに」は、その後の変転も跡づける。『一九八四年』がブームを呼んだ現実の1984年前後、左派のオーウェル嫌いは収まり、代わりに「『情報革命』『管理社会』といったキーワードを用いた『一九八四年』論が増えてきた」。当然の流れだな、と私は思う。ソ連東欧の体制が崩壊に向かいつつあったこと、世の中がコンピューターを中心とする情報技術(IT)の台頭で隅々まで管理されようとしていたことが影響したのだろう。

「はじめに」は、2010年代の政治情勢にも言及している。日本では、マイナンバー法や特定秘密保護法などの法制で「監視社会化」の流れが強まった。米国では、ドナルド・トランプ大統領という専制的権力者が登場して、「フェイク・ニュース」「代替的事実(オルタナティブ・ファクト)」などの流行語も生まれた。『動物農場』や『一九八四年』は「反ソ・反共」の色彩を弱め、「身近な世界の危機を表現した小説」になっているわけだ。

この構図の反転は大きな意味をもっている。『動物農場』や『一九八四年』の作品世界が当時のソ連型国家をモデルにしていることは間違いないが、そこにある「管理」や「監視」の過剰は社会主義そのものの病ではない、と本書は主張しているように思える。最近は、自由主義を別名にしていた資本主義が同じ病のリスクにさらされているではないか。病因は社会主義にあるわけではない。この一点は、心にとめておくべきだろう。

私が察するに、オーウェルの胸中には二つの社会主義像があった。一つは、陰湿な暗黒郷(ディストピア)の社会主義。もう一つは、それとは真反対に明朗な理想郷(ユートピア)の社会主義。本書によると、オーウェルはスペイン内戦で、その二つの違いを見てとった。1936年暮れ、現地ルポを書くつもりでバルセロナに赴くが、町の「雰囲気」に気押され、ほどなく民兵組織に入る。町の様子は著書『カタロニア讃歌』に描かれている。

建物の大半は労働者階級が占拠して、旗がひらめいていた。オーウェルが心揺さぶられたのは、商店の店員やカフェの給仕の言葉づかいだ。相手が客であっても「セニョール」などの敬称は用いない。「同志」「君」と呼びかけていたという。エレベーターボーイにチップを渡そうとして、たしなめられたこともあった。この町では店員も給仕もエレベーターボーイも客もみな「対等」だった。オーウェルは、ここに社会主義のあるべき姿を見る。

この見方に、私は懐疑的だ。旧ソ連型の社会主義国では独裁的な指導者も「同志」と呼ばれる。それを「対等」とみるのは甘くはないか。実は『カタロニア讃歌』も「同志」という言葉が「たいていの国」では「まやかし」であることを認めている。ただ、オーウェルはスペイン内戦の民兵組織に参加した数カ月、「本当の同志的連帯」を経験したというのだ。ここでもまた、社会主義の本質は「階級のない社会」であることを強調している。

スペイン内戦は、選挙で政権に就いた人民戦線の共和国政府と、欧州のファシズム勢力を後ろ盾にするフランシスコ・フランコ将軍派との間で繰り広げられた。オーウェルは人民戦線の一翼を担う民兵組織「マルクス主義統一労働者党」(POUM)に入隊、スペイン北部で塹壕戦に加わった。著者によれば、『カタロニア讃歌』の戦場描写には「ずっこけた」印象がある。仲間を英雄視しなかったのは、「同志的連帯」のなせる業だったのだろう。

オーウェルはこの国で、もう一つの社会主義も現認する。入隊から4カ月後、1937年4月に休暇でバルセロナを再訪すると、町の空気が一変していたことを『カタロニア讃歌』は書きとめている。「同志」や「君」は消えつつあり、「セニョール」が復活していた。それだけではない。5月上旬には、共和国政府の内部抗争が激化してバルセロナで市街戦が起こり、オーウェルもPOUM本部を守るため、「歩哨任務」に駆りだされた。

本書には、この内部抗争の背景説明がある――。スペインの共和国政府はソ連を「最大の援助者」としており、ソ連の絶対的権力者ヨシフ・スターリンの意向を無視できなかった。POUMの方針は、スターリンとソ連共産党内で敵対したレフ・トロツキーの思想に近かったので、共和国政府主流派からは「ファシスト軍以上に危険」とみなされ、「粛清」を受けることになったというわけだ。その結果、POUMの党首は拷問の末に殺されている。

オーウェル自身も危うかった。本書によると、当局がオーウェル夫妻――妻も夫を追ってスペインに来ていた――を「狂信的なトロツキスト」とみていたことを示す文書が見つかっている。現に、オーウェルの戦友だった英国の青年は1937年6月に獄死している。

オーウェルは1937年5月、別の理由で死にかけた。バルセロナから戦場に戻ってまもなく、ファシスト軍の銃弾が首を貫いたのだ。動脈からずれていたことで一命をとりとめた。このあと療養施設で過ごした後、国外へ出る。列車に乗れたのは6月23日。共和国政府は6月16日にPOUMを非合法化していたから、間一髪で難を逃れたことになる。スターリン体制に対する警戒がオーウェルの皮膚感覚に根づいたとしても不思議はない。

本書でオーウェルのスペイン体験を知ると、彼は『動物農場』『一九八四年』でディストピアの社会主義を描きながらも、ユートピアの社会主義に対する思いは捨てなかったのだろうと推察される。それが、どんな理想郷なのか。次回もまた、本書を読む。
*1 当欄2022年6月24日付「オーウェル、嘘は真実となる
*2 当欄2022年7月1日付「オーウェル、言葉が痩せていく
(執筆撮影・尾関章)
=2023年11月24日公開、通算705回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

安吾が描く傷痍軍人がいる風景

今週の書物/
『復員殺人事件』
坂口安吾著 河出文庫、2019年刊

負傷

戦後を生きたということは、いくぶんかは戦前戦中を生きたことである。最近よくそう思う。私は「戦争を知らない子供たち」世代だが、こんな思いを抱いてももはや違和感がない。戦後世代が戦争の語り部を担うべき時代になったということか。

ここで言う「戦後」は狭義で、戦争の臭いが残っていた時代ということだ。西暦でいえば1950年代まで、あるいは60年代前半も含めて64年の東京オリンピックころまでか。私は50年代初めの生まれだから、自身の幼少期がこのなかにすっぽり収まる。

幼いころ、私の記憶には戦争の名残がいくつか刻まれた。その一つが、傷痍軍人のいる風景だ。たぶん、若い人からは「何のことか」という反応があるだろう。子どもが大人に連れられて盛り場に出かけると、必ずと言ってよいほど傷痍軍人を見かけたものだ。

たとえば、東京・渋谷。私たちの家族は井の頭線を使って渋谷に出ていたので、改札を出てから高架の通路を歩き、ハチ公前付近で地上に降りたのだが、このときいつも通る階段があった。窓はなく、薄暗い。踊り場にはいつも、白い服を着た男性が座り込んでいた。「怖そうなおじさんだな」。子ども心にそんな印象をもった。大人たちも、見て見ぬふりで通り過ぎていくことが多かったように思う。その白衣の人物が傷痍軍人だった。

その人は手足の一部が義肢だったと記憶するが、はっきりとは思いだせない。アコーディオンで軍歌かなにかを奏でていたような気もするが、それも定かではない。おそらくは母親が耳もとで「あのおじさんは、戦争でけがをしたのよ」とささやいてくれたのだろう。私は「しょういぐんじん」という言葉を覚えた。「へいたいさん」が手や足を失う「せんそう」という修羅場が近過去にあったことを、こうして感じとったのだ。

街角の傷痍軍人たちはたいてい、足もとに箱を置いて金銭を求めていた。軍役による傷病者ならば、これは支援カンパを募る正当な行為にほかならない。ところが現実には、哀れみを乞う人のように見られていた。偽装が疑われている気配さえあった。総じていえば、世間はあの人たちに冷たかったのだ。日本社会が軍国一色から平和一色に反転したことで、人々はこの国に軍隊が存在していた事実までなきものにしたかったのではないか。

で、今週は『復員殺人事件』(坂口安吾著、河出文庫、2019年刊)。著者(1906~1955)は、言うまでもなく、戦後文壇の一角を代表する無頼派の作家。純文学だけでなく、推理小説も手がけた。後者では「不連続殺人事件」が有名。本作もその系譜にあるが、未完のままだった。1949~50年、「座談」誌(文藝春秋新社)に連載されたが、同誌廃刊で途絶えてしまったのだ。それなのに私が手にとった本書は、見事に完結している!

いきさつは、本書巻末に収められた江戸川乱歩の一文が詳しい。著者没後の1957年、乱歩と荒正人、高木彬光の3人が民放ラジオ局の座談会に居合わせた。そこで「復員…」の中断が話題にのぼり、高木が作品を仕上げることになった。それで書き継いだ部分が1957~58年に旧「宝石」誌(宝石社)に掲載。本書では全30章のうち第20章から最後までが高木の手になる。このとき、原題は「樹のごときもの歩く」と改められていた。

改題の理由を、乱歩は「復員…」が「もう季節はずれになっていた」と説明している。この感覚はよくわかる。人々が傷痍軍人に見て見ぬふりしているのを私が現認したのも、ちょうどそのころだ。世間は戦争を封印したかったのだろう。たしかに「樹のごときもの…」は、推理小説の題名として思わせぶりで秀逸だ。ただ、今の私たちはこの作品から戦後の空気を感じとりたいと思っている。だからこそ、本書も原題のほうを選んだのだろう。

中身に入ろう。ミステリーなので筋は追わない。小説の枠組みだけを素描しよう。舞台は、神奈川県小田原市にある富豪の邸宅だ。当主の倉田由之は「海道筋で屈指の成金」。中学校で武道を教えていたこともあるが、ブリの定置網漁で大もうけして漁船20隻余を抱える大船主になった。1947(昭和22)年夏の時点で、邸には長男の妻、長女一家、次女と三男が同居。さらに由之の元教え子が雇人として、その家族ともども住み込んでいた。

長男の公一とその息子は1942(昭和17)年1月、海釣りからの帰宅途中、鉄道線路で轢死。遺体に不審な点があり、警察は殺人事件とにらんだが、迷宮入りしていた。長男の妻は夫と息子の死後も倉田家に残り、今は義父由之と男女の関係にある。

1947(昭和22)年9月、この一族に予期せぬ出来事が起こる。「ヨレヨレの白衣をまとうた一人の傷痍軍人が倉田家の玄関に立っていた」。その男は右手と左足を失っており、両目を失明、鼻や顎は原形をとどめず、声も出せなかった。応対に出た雇人の娘は「物乞い」と見てとったが、「傷痍軍人」はなかなか引き下がらない。1942年に召集され、戦地にいた次男安彦(30)が復員してきたということらしいが、見た目だけではわからない。

そもそも安彦には謎があった。出征は兄親子が不審死した直後だったが、このとき日記を妹である次女美津子に預け、自分が戦死したら開けるように言いおいていた、と美津子は証言する。包みの表書きには「マルコ伝第八章二十四」の文字があったという。日記は厳封のまま美津子が保管したが、いつのまにか消えていた。「マルコ伝」は新約聖書に収められた福音書で、「第八章二十四」には「樹の如きものの歩くが見ゆ」という文言がある。

現れた「傷痍軍人」は本物の安彦か。安彦ならば兄親子の不審死事件の秘密を握っているのか。この物語はまず、そんな謎解きに読者を誘う。そして、倉田一族を新たに襲う連続殺人事件……。探偵役は巨勢(こせ)博士。安吾作品では「不連続…」に続いての登場だ。年齢は30歳前後。「ホンモノの博士にあらず」と、巻頭「登場人物」欄にある。その相棒役が一人称の「私」。矢代という小説家で、巨勢からは「先生」と呼ばれている。

当欄は今回、最初の問い「本物かどうか」に的を絞って作品を読み返してみよう。

本物説の有力証拠は手型だ。美津子によれば、安彦からは日記とともに手型も預かっていた。「遺品」代わりのつもりだったらしい。美津子は「傷痍軍人」の健在の左手から手型をとり、「遺品」と一緒に巨勢事務所に持ち込んだ。巨勢は両者が一致する、と断定した。

ところが、これには反証が出てくる。雇人が「傷痍軍人」の入浴を手伝ったときに背丈を測ると、安彦より6分(約1.8cm)低かったというのだ。雇人によれば、身長計には安彦が出征2年前に計測した結果が記されているという。巨勢の鑑定と雇人の証言は完全に背反する。これをどう説明したらよいのか。手型の紙がすり替えられたのか、あるいは身長計の記録が捏造されたものなのか。なんらかの作為があったとしか思えない。

この話には、ツッコミも入れたくなる。たしかに1940年代のことだから、DNA型鑑定はありえない。ただ当時でも犯罪捜査に指紋鑑定は使われており、それを活用すれば本人確認ができたはずだ。そう考えると、この推理小説はリアリズムの立場では語りえない。

実際、終戦後に帰還した傷痍軍人で、外見による本人照合ができず、赤の他人の家に居つくことになったという人はおそらく皆無だろう。もちろん、そういう物語を創作することはできる。純文学なら、人間の自己同一性(アイデンティティー)を考える契機になる。エンタメ文学なら、本作のようにミステリーの仕掛けにもなるだろう。ただ私には、傷痍軍人から戦争のリアリズムを抜き去ってしまうことにためらいがある。

この小説の「傷痍軍人」は、彼が安彦であれ、安彦のなりすましであれ、人々から疑心暗鬼の目で見られた事実に変わりない。戦地に向かうときは小旗をうち振ってくれたのに、傷ついて帰ってくればよそよそしい。戦争とはなんと冷酷なものかと改めて思う。
☆引用箇所にあるルビは、原則省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年11月17日公開、通算704回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

佐鳴湖という都市の里湖

今週の書物/
『佐鳴湖のこまったいきもの――侵略的外来種図鑑』
佐鳴湖いきもの調査会・戸田三津夫作成、2023年刊

さなるこ新聞

私は月に1度、「新聞」にコラムを書いている。新聞の名は「月刊さなるこ新聞デジタル」。静岡県浜松市の住宅街に佐鳴湖という湖水があり、その湖岸の人々に向けて発信されている。ミニコミ紙と呼んでよいだろう。今年10月に通算100号を達成した。

「デジタル」と銘打っているのは、ネット経由で読めるかららしい。ただし、pdfをプリントアウトすれば紙の新聞になる。編集長は井上正男さん。京都大学大学院で宇宙物理学を修めた後、報道界に入り、北國新聞(本社・金沢市)で論説委員を務めた人。私よりも年長だ。今は浜松に住み、ジャーナリストとして活動している。「市民の科学」を支援する立場から、佐鳴湖の生態系保全など環境問題の論評に力を入れている。

拙稿コラムは「さなるこウォッチャー/風に鳴れ!里湖(さとうみ)ジャーナリズム」。執筆を引き受けた2019年秋、私は佐鳴湖をまったく知らなかった。浜松に浜名湖以外の湖があると聞いて驚いたほどだ。そこで、知らないことを逆手にとろうと心に決めた。未知の土地の人々に宛てて、あえて現地に赴くことなく手紙のようなものを書けないか。そう考えて、グーグルアースによる探訪記(2020年2月号)などを試みていた。

だが、そんなことを2年余も続けていたら欲求不満が募ってきた。やっぱり、現地を一度は見ておきたい。それで去年秋、佐鳴湖を訪れた。井上さんの案内で湖岸を歩くと、湖の面積が実際(約1.2㎢)よりずっと大きく感じられた。今年1月号のコラムでは「都市の『大湖』に出会う」と題して、そのことを報告した。湖の周りは樹林だが、その外側には住宅街が広がっている。住人たちはきっと、湖を日々意識しながら暮らしているのだろう。

湖岸の人々は毎日、湖の景観を楽しんでいるに違いない。岸辺の樹林も、休日には憩いの場となっているだろう。ただ、その恩恵をこれからも持続して受けようとするなら、湖の生態系を蘇らせ、守っていかなくてはならない。かつて農村の人々が里山から薪炭を得ながらその生態系を維持してきたように、湖岸の人々も湖の生態系と共存したほうがよい。その意味で、佐鳴湖は都市住人の「里湖」と言ってよいのではないだろうか。

具体例を紹介しよう。私は佐鳴湖を訪ねたとき、湖岸で「シジミハウス」を見せてもらった。放流用シジミの養殖施設だ。養殖は市民中心の事業で、自治体もかかわっている。自治体が熱心なのは湖の富栄養化対策になるからだが、市民には別の意図もある。湖にはもともとシジミがたくさん生息していたのだから、それを取り戻したい――井上さんはそんな思いを打ち明けた。湖本来の生態系を復元したいということだろう。

で、今週の1冊は『佐鳴湖のこまったいきもの――侵略的外来種図鑑』という冊子だ。作成者の欄には、「佐鳴湖いきもの調査会」とその会長戸田三津夫さん(静岡大学工学部准教授、大気水圏科学などが専門)の名が記されている。井上さんによると、掲載された動植物の写真は「いきもの調査会」を中心とする市民団体のメンバーが撮影、解説文は戸田さんが執筆した。分量は、表紙プラス15ページ。ホチキス綴じで手づくり感が漂う。

冊子製作では「浜松RAIN房」から今年度上半期の助成を受けた。この団体は「ものづくり理科支援ネットワーク」の看板を掲げ、地域社会に根差した理科教育を応援している。

冊子が焦点を当てるのは、外来種(外来生物)だ。最初の4ページで外来種問題の基礎知識が解説され、5ページ目からは佐鳴湖一帯で要注意の外来生物が写真付きで紹介されている。一覧しただけで、都市の自然環境がいま歪みつつあることが見てとれる。

本文は、こう切りだされる。「『外国からきたいきもの』だけが外来種だと思っているかもしれませんが、正しくない場合があります」。外来種を定義づければ「いきものの能力をこえた移動を人間(ヒト)がさせてしまったもの」のことであり、対義語は「その土地に昔から長く生息する」在来種だという。国境は問題ではない。ツバメのような渡り鳥は海を越えても外来種ではない。一方、国内で移動した生物でも外来種と呼べるものがある。

人間が関与する「いきものの能力をこえた移動」には2種類ある。一つは、人間が気に入った生物を持ち帰るような「意図的移動」、もう一つは、船にうっかり乗せてしまうなどの「非意図的移動」だ。ヒアリが船や飛行機で“密航”してくることなどがこれに当たる。

「意図的移動」の外来種には馴染み深いものが多い。「イネを含むほとんどの農作物、園芸植物、家畜やペットも外来種」だ。農作物や家畜は私たちの栄養源であり、園芸植物やペットは私たちを心豊かにしてくれる。では、有用な外来種をどう考えたらよいのか。冊子には、ヒントとなる説明図がある。それによると、外来の農作物や園芸植物、家畜、ペットは「投棄」や「逸出」などで人間の管理外に放たれたとき、外来種扱いすればよい――。

外来種のなかでもとくに「こまった」ものが「侵略的外来種」だ。冊子は、それが生態系の「生物多様性」にどんな悪影響をもたらすかを説明している。生態系は健全ならば「その土地の特色を保った複雑で豊かな生態系がモザイク状に組み合わさった状態」にあり、「生物多様性が高い」。ところが、侵略的外来種はこの状態を壊してしまう。今や生物多様性にとって、「過度な開発」「乱獲」「気候変動」と並ぶ大敵になっている。

ページを繰って、「こまった」外来生物をいくつか見ていこう。まずは植物。佐鳴湖西岸などの湿地には、多年草のオオフサモが繁茂している。写真の印象では、キンギョモに似た水草が水中から顔を出し、葉の群れが水面を覆い隠している感じだ。原産地は南米。日本ではもともと「観賞用に流通していたもの」だった。「ちぎれた茎からでも根づく」というから、繁殖力は強い。いったん根を張ってしまったら「根絶は非常に困難」だ。

オオキンケイギクは、「きれいな黄色い花」をつける多年草。北米原産だが、「以前は園芸店で販売され、幹線道路脇に植えられるなどしていた」。花壇を飾っていたということか。それが今では野に戻り、佐鳴湖周辺では下流域の新川放水路沿岸でよく見かけるという。

同様に「以前は園芸店で販売されていた」のは、ノアサガオ類。原産地は未確定だが、外来種ではあるらしい。この植物が佐鳴湖西岸域の樹林でツルを伸ばし、木々の表面を覆っている様子が冊子掲載の写真からもわかる。解説文が指摘するのは、ノアサガオの葉がヨツモンカメノコハムシという昆虫の餌になることだ。ノアサガオが現れた一帯ではこの虫も繁殖するのだろう。植物界の外来種は動物界にも影響を与え、生態系全体を変えていく。

動物に移ろう。園芸用の外来植物が自然界を攪乱しているのと同様のことが動物界でも起こっている。たとえば、北米原産のミシシッピアカミミガメ。幼体は甲の長さが数cmで人気のペットだった。通称「ミドリガメ」。ただ、これが長さ20~30cmの成体に育つと「性格が荒くなる」。その結果、野に放たれることもあったらしい。今では在来種ニホンイシガメの餌を奪い、イネなどに対する食害も引き起こす外来種になっている。

カメといえば、クサガメのことも書きとめておきたい。かつて在来種とみなされていたが、近年、DNAレベルの研究や文献の調査などから、江戸時代に大陸から持ち込まれたと考えられるようになった。今では大陸で個体数が減り、「日本が安定生息地」になったので、このままでよいようにも思うが、「ニホンイシガメと交雑する」ことが問題視されて「駆除が進んでいる」。佐鳴湖では、捕まえたクサガメをどうするかが悩みの種だという。

ウシガエルも、数奇な運命をたどった北米原産の外来種だ。日本では「食用ガエル」として輸出しようと養殖が盛んだった時期がある。この限りでは、人間の管理下に置かれていたわけだが、「逸出」で自然界に拡散したという。興味深いのは、この養殖でウシガエルの餌に使われたのが、原産地がやはり北米のアメリカザリガニだったこと。こちらもおそらく「逸出」したのだろう。いつのまにか日本各地に広まってしまった。

なるほど、生態系は人間の都合でずいぶん乱されてしまった。悪意の仕業とは言わない。善意が思わぬ結果をもたらしたこともある。だから、私たちがなすべきは、その経緯を記憶と記録にとどめることだ。この冊子で里湖の生態系について学ぶと、そう思えてくる。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年11月10日公開、通算703回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

寺山修司の競馬で語る科学

今週の書物/
『ぼくが戦争に行くとき――反時代的な即興論文』
寺山修司著、中公文庫、2020年刊

競馬

当欄は先々週、詩人寺山修司を話題にした。1週で読み切りにしたのは、翌週にノーベル賞発表が控えていたからだ。本当はもう一つ、寺山についてぜひ書きとめておきたいことがあった。あの本には科学談議がある。そこにツッコミを入れてみたかった。

ということで、今週は異例だが、再び『ぼくが戦争に行くとき――反時代的な即興論文』(寺山修司著、中公文庫、2020年刊、単行本は読売新聞社が1969年に刊行)に戻る。

寺山修司といえば、科学には無縁の人のように思える。だが、本当はちょっと違うらしい。それがわかるのが、本書の「希望という病気――東京大学」と題する章で「はとバス」の教育効果などを語ったくだりだ()。唐突に、自身がかつて「物理学と因数分解と西洋史年表の暗記にたけた高校生」だったことを打ち明けている。得意分野に物理を挙げ、しかも数学に強かったというのだから、理系少年の側面が間違いなくあったのだろう。

科学談議があるのは、本書終盤の章「青少年のための賭博学入門」のなかの一節。著者は競馬について持論を展開しているのだが、それがそのまま科学論になっている。

とくに「近ごろ、私は電子計算機による『競馬予想』ということに興味を持っている」と語るくだりが読みどころだ。「電子計算機」と聞いてピンとこない世代もあるだろうが、これはもちろんコンピューターのことだ。ここで著者は、コンピューター予想に対する警戒感を隠さない。コンピューターが「合理的な法則」を見いだし、「完全な『的中』予想」が夢でなくなれば「競馬の賭博は姿を消さざるを得なくなってしまう」という。

コンピューター予想の問題は「レースの時間を追い越して、結果だけを先に発表してしまうこと」と、著者は言う。これは、コンピューター予想が「レースを分析してゆく科学的な大時間」のみを視野に入れ、「個人個人の選択してゆく運命的な小時間」を排除することを意味する。些細なブレが最終結果を左右することもあるのに、それには目もくれないということか。「コンピューターは、競馬から幸運を奪い取ってしまう」と指摘する。

ここで著者がもち出すのは、「ロマネスク」だ。小説のように数奇な、という語意だろう。物理学が支配する世界では、ロマネスク流の「あした、なにが起こるかわかってしまったら、あしたまで生きてる楽しみがない」という人生観が通用しない、とみる。

著者ははからずも、競馬談議から自身の科学観を吐露している。具体論に入るのは、1968年の日本ダービー、オークスなど重賞レース。コンピューター予想と実際のレース結果を比べて、コンピューターが何を見落としていたかを突きとめようとする。

ダービーは、競馬新聞のコンピューター予想で1着マーチス(2分28秒4)、2着タケシバオー(2分28秒6)とされていた。ところが、ふたを開けてみれば、1着タニノハローモア(2分31秒1)、2着タケシバオー(2分31秒9)だった。タイムが予想ほどよくなかったのは、雨で「馬場が稍(やや)重に変わったこと」が影響したらしい。ここで著者の関心は天候に向かう。雨降りはなぜ、コンピューターで予知できないのかという話だ。

雨降りは「科学的必然」とも思えるが、著者は、そうではなく「偶然」なのではないかと問いかけて次のように結論する。私たちは身の回りの出来事の大半を「科学を介して理性的認識に還元」する。だが、この世には「理性が届かない確率論の外の世界」がある!

ここで押さえておきたいのは、著者が考える「偶然」が「確率論の外」にあるということだ。「偶然」と聞くとサイコロが思い浮かぶが、本書の記述をそのまま受けとめれば、サイコロを振って3の目が出る確率が6分の1というのも「科学的必然」になる。ということは、量子力学を確率論でとらえるときにも「偶然」は介在しないのか。著者にとっての「偶然」は、サイコロのひと振りよりも強力なデタラメさを有しているらしい。

競馬では「偶然」の寄与が大きいという話は、レースそのものの分析にも出てくる。この年のダービーではタニノハローモアが最初から飛びだし、ハナ(先頭)に立った。ペースが遅いから、ほかの馬の騎手たちは高を括っていたが、結局、逃げ切られてしまった。敗者は口々に言う。「足をとられて、のめった」「前がふさがって出られなかった」……。「こうしたいくつかのアクシデントを、理性はどのようにして予測するか?」と著者は問いつめる。

この年は、オークスでもコンピューター予想が外れた。こちらにも、「偶然」はかかわっていた。一つは、レースのカギを握るとみられていた馬が車で輸送中に交通事故に遭って出走できなかったこと。もう一つは、逃げ馬の1頭がスタート時にフライング、余分に走った分、レース本番で力が尽きてしまったこと。勝ち負けを決めたのは結局、「悟性の限界を暴力的に超えていった、見えない偶然を支配する力」だったという。

この一文で著者が「偶然」の例に挙げているのは、気まぐれな空模様や不測の災難だ。私たちがいま2023年の時点で思うのは、これらは1968年から半世紀が過ぎてなお「偶然」のままか、それとも科学の進歩で「必然」と見なされるようになったか、という問題だ。天気予報についていえば、衛星画像などのおかげで的中率が高まったように思われる。競馬のコンピューター予想も精度が上がり、「必然」の度合いが強まっているのではないか。

話はそう簡単ではない。なぜなら、科学の新しい流れが「必然」と「偶然」のとらえ方に見直しを迫ったからだ。複雑系の研究が、「必然」であっても人間には事実上「偶然」と言うしかない現象、すなわちカオスが自然界に存在することを示したのである。

カオスの理論は、古典物理学の枠内にある。未来はニュートンの運動方程式などできっちり予測できるから、決定論の世界だ。ところが、方程式に打ち込む数値をちょっと変えただけで未来図が大きく異なってしまう場合がある。初期条件の違いに敏感な現象だ。蝶の羽ばたきが遠くの国で嵐を起こすというバタフライ効果が、これに当たる。未来予測は、理屈のうえでは可能でも実際は難しい。「必然」の未来が人間には「偶然」のように見える。

余談を言えば、1960年代に気象のカオス現象を見いだしたエドワード・ローレンツ(1917~2008、米国)の逸話がおもしろい。気象の移り変わりをコンピューターで再現する数値実験を試みていたとき、入力値を概数にまるめたら、まるめなかった場合と大きく違う結果になった、という。バタフライ効果を発見したわけだ。コンピューターは人間に科学の威力を見せつけているが、と同時に、科学の限界も教えてくれたことになる。

それにしても、著者の賭博論は示唆に富む。ダービーで馬場を稍重にした雨は古典物理学の方程式に従うので「必然」だが、私たちにはそれが「偶然」に映る。一頭の馬が「のめった」ことを蝶の羽ばたきに見立てれば、そのレースが番狂わせになったことはバタフライ効果といえるかもしれない。「幸運」の根源に何があるかが見えてくるではないか。著者は、競馬の醍醐味がカオスにあることを直観で見抜いていたのかもしれない。
* 当欄2023年9月29日付「寺山修司、反1960年代の美学
(執筆撮影・尾関章)
=2023年10月13日公開、通算699回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

ノーベル物理学賞、踊り場の年に

今週の書物/
ノーベル賞発表資料(物理学賞、2023年)
スウェーデン王立科学アカデミー

ノーベル週

発表前》
今年のノーベル賞発表が進行中だ。すでに生理学・医学、物理学、化学、文学の4賞が決まった。今夕、平和賞の発表があり、来週初めには経済学賞も決定する。ただ私は、この日程に先立って今、受賞者がだれひとり決まっていない時点で本稿を書いている。

本稿の後段では、視点を現時点に戻す。賞の選考結果を見て、その発表資料を読み込むつもりだ。ノーベル賞理系部門の発表資料は、科学研究を私たち一般人がどう受けとめたらよいか、そのヒントを与えてくれる。今年もそれを味わうことにする。

事前事後2段階の執筆を思いついたのには訳がある。私は新聞社の科学記者だったころ、ノーベル賞発表前の数週間は心が張りつめていた。発表は日本時間の夜なので、翌朝の新聞に記事を間に合わせるには事前の準備が欠かせない。受賞者が日本人なら人物像や逸話もたっぷり紙面化するからなおさらだ。だから初秋になると、いつも受賞者の予想に思いをめぐらせていた。あのソワソワ感を当欄の作業でも再体験したい。そんな魂胆があった。

私が現役時代、理系3賞のうちもっとも注目していたのは物理学賞だ。物理領域を取材する機会が多かったからだが、科学の動向をみるときの指標になりやすいということもあった。ということで、今回も物理学賞について書く。ただ、私はいま退職の身で、近年どんな研究がもてはやされているかをつぶさには知らない。だから、あの人が受賞しそう、という予想はできない。賞全体の大きな流れについて四方山話風に語ることにしよう。

そんな視点で見ると、今年の物理学賞は踊り場の状態にあると言える。俗っぽい比喩を用いれば、狙っていた「大魚」をひととおり釣りあげた直後ということだ。だから今回は、ほっと一息ついて海を見つめ、次なる釣果を探しているところだろう。

では、その「大魚」にはどんなものあったか。私が真っ先に挙げたいのは、去年の受賞研究「量子もつれ」だ(*1)。アラン・アスペ(フランス)、ジョン・F・クラウザー(米国)、アントン・ツァイリンガー(オーストリア)の3氏が、量子世界では光子(光の粒子)対が「量子もつれ」という強い相関関係をもちうることを確かめ、それがもたらす現象を調べた。量子コンピューター開発のような量子情報科学に道を開いたが、それだけではない。

量子もつれは、私たちがニュートン物理学によって頭に刷り込まれたものとは異なる世界像をはらんでいる。たとえば、状態の重ね合わせ。粒子の状態はAかBかだけではなく、AでもありBでもあることがありうるという。あるいは非局所性。A、Bの重ね合わせにある粒子対の片方がAと観測された瞬間、遠く離れたもう一方がBであることが確定するという。受賞者の研究で私たちの世界像は一変したと言ってよい。

だから、去年の受賞研究は超弩級だった、というのが私の個人的見解だ。私は1990年代にアスペ、ツァイリンガー両氏に対面取材しているので、とくに二人の受賞は待ち望んでいた。それが現実になったことで、今年はある種の虚脱感のなかにいる。

量子研究に対する物理学賞を振り返ると、世紀の変わり目に受賞ラッシュがあった。低温で現れる量子現象の研究が4回(1996年、1998年、2001年、2003年)、低温実験の手法開発が1回(1997年)。量子力学の基礎問題が再び注目されるようになった証しだった。

量子情報科学につながる研究が脚光を浴びたのは2012年だ。状態の重ね合わせを壊さずに保ち、操作する実験に成功したセルジュ・アロシュ(フランス)、デイビッド・ワインランド(米国)両氏が受賞した。それは、「シュレーディンガーの猫」という思考実験で空想される量子世界の不可解さを現実に見せつけるものだった。2012年と2022年の二つの受賞研究によって、量子力学の世界像はもはや疑う余地がなくなった。

「大魚」は量子の分野だけではない。2010年代以降の受賞研究を見てみよう。素粒子分野では、2013年のヒッグス粒子。質量の起源とされる粒子が巨大加速器実験で見つかったのを受けて、その粒子の存在を予言した理論研究者が賞を受けた。2015年には、ニュートリノ質量の発見。受賞者の一人は梶田隆章さんだ。巨大加速器がなくても自然界の観測で素粒子探究の最前線に立てることを示したという点で、物理学の新潮流を代表していた。

宇宙・天文分野では、2011年の受賞研究が宇宙の加速膨張の発見。これは、宇宙の成分表やシナリオを根底から見直すきっかけとなった。2017年には重力波の観測。アルバート・アインシュタインが一般相対論で予言していた時空の波を100年たって検出した。

わかりやすい話では2019年、太陽系外惑星の発見が受賞研究の一つに選ばれている。1990年代半ばまで、惑星は太陽系だけにあると思われていたが、それが覆ったのだ。地球外生命が存在する可能性も強まったわけだから、これもまた世界像を塗りかえる業績だった。

物理学には複雑系科学という分野があり、ここ数十年活発になっているが、ノーベル物理学賞はなぜか関心を示さなかった。ところが2021年に突然、「複雑系の理解に対する画期的な貢献」という授賞理由を掲げ、3氏に賞を贈った。その一人が、気候変動の数理研究が専門の真鍋淑郎さんだ。ノーベル賞が温暖化問題に着眼したことに世間は喝采したが、それだけではない。複雑系科学を正当に位置づけるという課題をようやく果たしたのである。

と、こう書き連ねてくると、物理学賞は諸分野の「大魚」のほとんどを釣りあげてきたと言ってよい。ただ、科学という大湖は広くて深い。私は気づかないでいるが、「大魚」に育ってまもない新顔の重要研究もきっとあるに違いない。発表が楽しみだ――。

発表後》
で10月3日、スウェーデン王立科学アカデミーは今年のノーベル物理学賞を発表した。賞が光を当てたのは「アト秒」。アトとは10のマイナス18乗のこと。時間幅がアト秒単位のきわめて短い光パルスをつくって物質内の電子の振る舞いを調べる手法を開発したピエール・アゴスティーニ(米国)、フェレンツ・クラウス(ドイツ)、アンヌ・ルイリエ(スウェーデン)各氏が受賞した。ここでカッコ内の国名は、所属先の所在地を示している。

発表を聞いて、なるほどと私は思った。アト秒の物理は10年ほど前、欧米の科学誌を賑わせていた。極微の探究はついに時間尺度にも及んだ、という文脈で語られていたように思う。その興奮を私はすっかり忘れていたが、ノーベル賞はしっかり覚えていた。

では、本題の発表資料に入ろう。今回読むのは、報道資料(press release、A4判1枚)と一般向け科学解説(popular science background、同5枚)の2種類。以下の記述では、それぞれ「報道」「解説」と略記する。

一読して気づくのは、物理世界の途方もなさを私たちがなんとなく実感できるよう工夫していることだ。アト秒については「報道」「解説」とも、宇宙誕生から今までの時間、即ち138億年に含まれる1秒の個数が、1秒間が含むアト秒の個数に比肩するとしている。

光パルスがなぜ役立つかでは、「解説」に次の一文がある。「高速度撮影やストロボ光があれば、素早く動く現象も詳細な画像でとらえられる」。パルスがストロボ光の役目を果たすというわけだ。ただ、このたとえはアト秒物理が注目されだしたころからあった。

問題は、十分に短い光パルスをどうつくるかだ。「解説」によると、かつてはフェムト秒(フェムトは10のマイナス15乗)より短くはできないとみられていた。ところが21世紀初め、アゴスティーニ、クラウス両氏が、それぞれ数百アト秒のパルスを生みだす。この成果の土台を築いたのが、ルイリエ氏の1980年代からの研究だった。「解説」は、その手法の要点を簡略な図と明快な文章で説明している。要約すればこうだ――。

レーザー光をガスのなかに通すと、ガスの原子内の電子が外へ飛びだす。電子はレーザー光からエネルギーを貰い、原子内に戻ると、余分なエネルギーを光として放つ。この光は、振動数がもとのレーザー光の整数倍になっている。音楽で言えば「倍音」に当たる。これら「倍音」の光をうまく重ね合わせれば、波の干渉で強めあったり弱めあったりして時間幅がアト秒のパルスが現れる――まるで光の手品のようではないか。

科学の醍醐味の一端が、この発表資料からは感じとれる。私たちは資料執筆者の筆力に導かれ、科学者の思考を追体験できるからだ。これも、ノーベル賞の効用だろう。

アト秒の物理は、当欄の関心事である時間論とも関係している(*2*3)。だから、これからも目が離せない。今年の物理学賞は、私に大事な宿題を思いださせてくれた。
*1 当欄2022年10月7日付「量子もつれをふつうの言葉で語る
*2 当欄2023年5月5日付「時間がない』と物理学者は言った
*3 当欄2023年5月12日付「時間の流れを感じる物理学
(執筆撮影・尾関章)
=2023年10月6日公開、通算698回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。