佐鳴湖という都市の里湖

今週の書物/
『佐鳴湖のこまったいきもの――侵略的外来種図鑑』
佐鳴湖いきもの調査会・戸田三津夫作成、2023年刊

さなるこ新聞

私は月に1度、「新聞」にコラムを書いている。新聞の名は「月刊さなるこ新聞デジタル」。静岡県浜松市の住宅街に佐鳴湖という湖水があり、その湖岸の人々に向けて発信されている。ミニコミ紙と呼んでよいだろう。今年10月に通算100号を達成した。

「デジタル」と銘打っているのは、ネット経由で読めるかららしい。ただし、pdfをプリントアウトすれば紙の新聞になる。編集長は井上正男さん。京都大学大学院で宇宙物理学を修めた後、報道界に入り、北國新聞(本社・金沢市)で論説委員を務めた人。私よりも年長だ。今は浜松に住み、ジャーナリストとして活動している。「市民の科学」を支援する立場から、佐鳴湖の生態系保全など環境問題の論評に力を入れている。

拙稿コラムは「さなるこウォッチャー/風に鳴れ!里湖(さとうみ)ジャーナリズム」。執筆を引き受けた2019年秋、私は佐鳴湖をまったく知らなかった。浜松に浜名湖以外の湖があると聞いて驚いたほどだ。そこで、知らないことを逆手にとろうと心に決めた。未知の土地の人々に宛てて、あえて現地に赴くことなく手紙のようなものを書けないか。そう考えて、グーグルアースによる探訪記(2020年2月号)などを試みていた。

だが、そんなことを2年余も続けていたら欲求不満が募ってきた。やっぱり、現地を一度は見ておきたい。それで去年秋、佐鳴湖を訪れた。井上さんの案内で湖岸を歩くと、湖の面積が実際(約1.2㎢)よりずっと大きく感じられた。今年1月号のコラムでは「都市の『大湖』に出会う」と題して、そのことを報告した。湖の周りは樹林だが、その外側には住宅街が広がっている。住人たちはきっと、湖を日々意識しながら暮らしているのだろう。

湖岸の人々は毎日、湖の景観を楽しんでいるに違いない。岸辺の樹林も、休日には憩いの場となっているだろう。ただ、その恩恵をこれからも持続して受けようとするなら、湖の生態系を蘇らせ、守っていかなくてはならない。かつて農村の人々が里山から薪炭を得ながらその生態系を維持してきたように、湖岸の人々も湖の生態系と共存したほうがよい。その意味で、佐鳴湖は都市住人の「里湖」と言ってよいのではないだろうか。

具体例を紹介しよう。私は佐鳴湖を訪ねたとき、湖岸で「シジミハウス」を見せてもらった。放流用シジミの養殖施設だ。養殖は市民中心の事業で、自治体もかかわっている。自治体が熱心なのは湖の富栄養化対策になるからだが、市民には別の意図もある。湖にはもともとシジミがたくさん生息していたのだから、それを取り戻したい――井上さんはそんな思いを打ち明けた。湖本来の生態系を復元したいということだろう。

で、今週の1冊は『佐鳴湖のこまったいきもの――侵略的外来種図鑑』という冊子だ。作成者の欄には、「佐鳴湖いきもの調査会」とその会長戸田三津夫さん(静岡大学工学部准教授、大気水圏科学などが専門)の名が記されている。井上さんによると、掲載された動植物の写真は「いきもの調査会」を中心とする市民団体のメンバーが撮影、解説文は戸田さんが執筆した。分量は、表紙プラス15ページ。ホチキス綴じで手づくり感が漂う。

冊子製作では「浜松RAIN房」から今年度上半期の助成を受けた。この団体は「ものづくり理科支援ネットワーク」の看板を掲げ、地域社会に根差した理科教育を応援している。

冊子が焦点を当てるのは、外来種(外来生物)だ。最初の4ページで外来種問題の基礎知識が解説され、5ページ目からは佐鳴湖一帯で要注意の外来生物が写真付きで紹介されている。一覧しただけで、都市の自然環境がいま歪みつつあることが見てとれる。

本文は、こう切りだされる。「『外国からきたいきもの』だけが外来種だと思っているかもしれませんが、正しくない場合があります」。外来種を定義づければ「いきものの能力をこえた移動を人間(ヒト)がさせてしまったもの」のことであり、対義語は「その土地に昔から長く生息する」在来種だという。国境は問題ではない。ツバメのような渡り鳥は海を越えても外来種ではない。一方、国内で移動した生物でも外来種と呼べるものがある。

人間が関与する「いきものの能力をこえた移動」には2種類ある。一つは、人間が気に入った生物を持ち帰るような「意図的移動」、もう一つは、船にうっかり乗せてしまうなどの「非意図的移動」だ。ヒアリが船や飛行機で“密航”してくることなどがこれに当たる。

「意図的移動」の外来種には馴染み深いものが多い。「イネを含むほとんどの農作物、園芸植物、家畜やペットも外来種」だ。農作物や家畜は私たちの栄養源であり、園芸植物やペットは私たちを心豊かにしてくれる。では、有用な外来種をどう考えたらよいのか。冊子には、ヒントとなる説明図がある。それによると、外来の農作物や園芸植物、家畜、ペットは「投棄」や「逸出」などで人間の管理外に放たれたとき、外来種扱いすればよい――。

外来種のなかでもとくに「こまった」ものが「侵略的外来種」だ。冊子は、それが生態系の「生物多様性」にどんな悪影響をもたらすかを説明している。生態系は健全ならば「その土地の特色を保った複雑で豊かな生態系がモザイク状に組み合わさった状態」にあり、「生物多様性が高い」。ところが、侵略的外来種はこの状態を壊してしまう。今や生物多様性にとって、「過度な開発」「乱獲」「気候変動」と並ぶ大敵になっている。

ページを繰って、「こまった」外来生物をいくつか見ていこう。まずは植物。佐鳴湖西岸などの湿地には、多年草のオオフサモが繁茂している。写真の印象では、キンギョモに似た水草が水中から顔を出し、葉の群れが水面を覆い隠している感じだ。原産地は南米。日本ではもともと「観賞用に流通していたもの」だった。「ちぎれた茎からでも根づく」というから、繁殖力は強い。いったん根を張ってしまったら「根絶は非常に困難」だ。

オオキンケイギクは、「きれいな黄色い花」をつける多年草。北米原産だが、「以前は園芸店で販売され、幹線道路脇に植えられるなどしていた」。花壇を飾っていたということか。それが今では野に戻り、佐鳴湖周辺では下流域の新川放水路沿岸でよく見かけるという。

同様に「以前は園芸店で販売されていた」のは、ノアサガオ類。原産地は未確定だが、外来種ではあるらしい。この植物が佐鳴湖西岸域の樹林でツルを伸ばし、木々の表面を覆っている様子が冊子掲載の写真からもわかる。解説文が指摘するのは、ノアサガオの葉がヨツモンカメノコハムシという昆虫の餌になることだ。ノアサガオが現れた一帯ではこの虫も繁殖するのだろう。植物界の外来種は動物界にも影響を与え、生態系全体を変えていく。

動物に移ろう。園芸用の外来植物が自然界を攪乱しているのと同様のことが動物界でも起こっている。たとえば、北米原産のミシシッピアカミミガメ。幼体は甲の長さが数cmで人気のペットだった。通称「ミドリガメ」。ただ、これが長さ20~30cmの成体に育つと「性格が荒くなる」。その結果、野に放たれることもあったらしい。今では在来種ニホンイシガメの餌を奪い、イネなどに対する食害も引き起こす外来種になっている。

カメといえば、クサガメのことも書きとめておきたい。かつて在来種とみなされていたが、近年、DNAレベルの研究や文献の調査などから、江戸時代に大陸から持ち込まれたと考えられるようになった。今では大陸で個体数が減り、「日本が安定生息地」になったので、このままでよいようにも思うが、「ニホンイシガメと交雑する」ことが問題視されて「駆除が進んでいる」。佐鳴湖では、捕まえたクサガメをどうするかが悩みの種だという。

ウシガエルも、数奇な運命をたどった北米原産の外来種だ。日本では「食用ガエル」として輸出しようと養殖が盛んだった時期がある。この限りでは、人間の管理下に置かれていたわけだが、「逸出」で自然界に拡散したという。興味深いのは、この養殖でウシガエルの餌に使われたのが、原産地がやはり北米のアメリカザリガニだったこと。こちらもおそらく「逸出」したのだろう。いつのまにか日本各地に広まってしまった。

なるほど、生態系は人間の都合でずいぶん乱されてしまった。悪意の仕業とは言わない。善意が思わぬ結果をもたらしたこともある。だから、私たちがなすべきは、その経緯を記憶と記録にとどめることだ。この冊子で里湖の生態系について学ぶと、そう思えてくる。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年11月10日公開、通算703回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

ロヴェッリの物理、時間とは?

今週の書物/
『すごい物理学講義』
カルロ・ロヴェッリ著、竹内薫監訳、栗原俊秀訳、河出文庫、2019年刊

当欄は、1冊の本を2週にまたがってとりあげることが多くなった。当初は1週1冊を標榜していたが、そんなふうにして数を稼ぐことがばかばかしく思えてきたのだ。たまには2週1冊でいい。いや、ときには3週1冊でも4週1冊でもよいではないか。

ということで、今週もまた、『すごい物理学講義』(カルロ・ロヴェッリ著、竹内薫監訳、栗原俊秀訳、河出文庫、2019年刊)を続ける。1冊の本にこんなに長居するのも、著者が語るループ量子重力理論にとことん迫り、その世界像を見届けたいからだ。

先々週の話をざっくり言えば、こんなふうだった――。物理世界は「粒」の性格を帯びている。大きさには最小単位があり、それより小分けにできない。その極微世界は幾何学的であり、どのような曲がり方をしているかは方程式で確率的にはじき出される。(*1

先週は、物理世界の「粒」のありように迫った。それは箱に詰め込まれたボールのようなイメージで、隣りあう粒との間にリンクが張られている。ネットワーク的な世界像といえよう。粒から粒へリンクを伝ってひと回りすると、空間の曲がりが見えてくる。(*2

ループ量子重力理論の空間にはもう一つ、押さえておきたい特徴がある。「事物を内包する無定形の容れ物」とみてはいけないということだ。空間の量子は「自身と隣り合っている量子のなかに在る」。空間は「隣近所との関係性の織物」ととらえるべきなのである。

このように復習してみると、あることに気づく。本書は空間の議論にかまけて、時間をほったらかしにしてはいないかということだ。実は著者も、そのことを気にしていたらしい。本書の半ば、第7章「時間は存在しない」の書きだしでは、前章まで時間を論じようとしなかったことを率直に認めている。ただ、現代物理学は時間と空間をひとくくりに「時空間」とみているのだから、「そろそろ、見取り図のなかに時間を呼び戻す」と宣言する。

こんな正直な告白もある。量子重力の研究者は「時間と向き合うための勇気が湧くまで」「空間の問題にばかり取り組んできた」。時間の解明は、本書執筆時点の15年ほど前から進展したという。研究者にとっても近年になってからの関心事なのか。

さて、ではループ量子重力理論の時間像は、どんなものか。当欄が繰り返し書いてきたように、ループ量子重力理論の礎となったホイーラー=ド・ウィット方程式には時間変数“t”がない(*1*3)。それが何を意味するかが、本書を読み進むとわかってくる。

そこではまず、ガリレオ・ガリレイがピサの大聖堂で天井の燭台を見ていて振り子の等時性に気づいた、という話が出てくる。実話かどうかは疑わしいようだが、「伝承」によれば、ガリレオは燭台がゆらゆら揺れる周期を自分の脈拍で測った、とされている。その結果、振り子の周期が振幅によらず変わらないことに気づいたというのだ。著者は、ここで問題を提起する。ガリレオは何を根拠に「脈の打つ時間が一定」と確信したのか。

これには裏返しの話がある。ガリレオの発見後、医師は患者の脈を測るときに振り子を時計として使うようになったらしいのだ。「振り子の振動が規則的であること」を脈で確かめ、「脈が規則的であること」を振り子で確認する――そんなことを私たちはしている。

著者は言う。振り子の観察でも脈拍の測定でも、人は「『時間そのもの』を測っているわけではない」。複数の物理量を測って「ある変量と別の変量を比較している」だけだ。ところが物理学はこれまで、時間変数“t”の存在を「仮定」してきた。この慣習を断つのが量子重力理論だ。物理量A、B、Cがあるとすれば、それらを“t”の関数A(t)、B(t)、C(t)ではなく、変数相互の関数A(B)、B(C)、C(A)のように考えようとする。

この視点に立てば、世界の変化は事物間の関係の変わり方ということになり、世界が「時間のなかで変化する」ことはない。これは、空間を「容れ物」ではなく「隣近所との関係性の織物」ととらえるのに似た考え方だ。時間もまた「容れ物」ではないらしい。

さて、ここから先は難解だ。当欄は、本書が提示するイメージに頼って話を進めるしかない。著者は、物理現象を「箱」で説明する。ビリヤードの球2個がぶつかって二つの方向へ転がっていく現象を例に挙げ、その舞台となる時空間を箱で表す。本書掲載の略図では、箱が直方体で、その一辺が時間軸のように見えるが、単純にそう理解してはいけないことが文章を読むとわかる。なぜなら、「箱自体が時空間を『含みこんでいる』」からだ。

箱には別の表現もあって、そちらのほうがピンとくる。それは「軟体動物」の小片に似ており、「鮨(すし)のような形」をしているというのだ。余談だが、著者が「軟体動物」をもちだしたのには訳がある。アルバート・アインシュタインが、時空間の曲がりである重力場のことを「軟体動物」にたとえているからだ。その比喩を「鮨」にまで飛躍させたのは、日本人読者向けのサービスではあるまい。きっと、ご本人が和食好きなのだ。

問題は、「鮨」のようなものが何かだ。ループ量子重力理論では、ビリヤードの球同士の衝突という物理過程を考えるとき、球そのものだけでなく、時空間など「球を取り巻くすべてのもの」を考えに入れなくてはならない。「鮨」は、これらすべてを含んでいる。

本書によると、ここで目を向けるべきは「鮨」の末端だ。両端のうち片方は物理過程の始まりに、もう一方は終わりに相当する。ループ量子重力理論の方程式は、過程の始まりと終わりのそれぞれがとりうる「すべての状態の確率」をはじき出してくれるというのだ。ここでビリヤードに話を戻すと、これによって私たちは、衝突する球がどのように「鮨」に入り、どのように「鮨」から出ていくか、ということを確率的に知ることができる。

では、末端と末端の間はどうなのか。ここで助けになるのが量子力学の世界像だ。一つは、ウェルナー・ハイゼンベルクの行列力学。「量子力学は、過程の最中になにが起こるかは教えてくれない」とする。もう一つは、リチャード・ファインマンの「経路総和」。粒子の動きをいくつもの経路の束とみる。この考え方に立てば、二つの末端の間には、粒子がとりうるすべての経路を含み、ありうるすべての時空間をはらむ「雲」が存在する。

ループ量子情報理論は空間を「網」とみる。それが、時空間では「鮨」の末端に現れるという。ここで「網を手にもち、それを動かす」行為を思い描こう。それによって「網」の結び目である「節」は点が線となり、「節」と「節」のつながり(「リンク」)は線が面となる。著者は、これを「網の歴史」「網の歩み」と呼び、そこに生まれる構造を「泡」に見立てる。時空間の「雲」は「生じうるすべて」の「泡」の重なり合いとみてよいらしい。

本書によれば、物理学者はこの「泡」によって特定の物理過程の確率を算出する。ここで必要なのは、同じ一つの末端を分かちあう「泡」をすべて足し合わせて、その「総和」を求めることだ。ループ重力量子理論の方程式は、この計算を可能にしてくれる。

本書が描く時間を要約すれば、こうなる。世界には、事象に先だって「容れ物」の役目を果たす時間も空間もない。空間は「節」と「リンク」でかたちづくられる関係性の「網」であり、「網」の状態が変わることで「時空間」が生じる、というのだ。

ではなぜ、私たちは時間を一様の流れのように感じるのか。本書には「空間と時間は、大きなスケールにおいてはじめて現われる、近似的な存在」という示唆がある。「大きなスケール」には、時の流れを実感させるしくみがあるようだ。そのことは著者が別の著作で詳述しており、当欄もすでに紹介した(*4)。本書終盤にもヒントとなる章があるが、とりあえず今回のシリーズは3回で中締めにする。機会をみて再開しよう。

いま言えるのは、時間を絶対視するのはもうやめようということだ。時間は事象の相対的な変化のなかにある。そう思うと、1日という時間がちょっと長くなった気分になる。
*1 当欄2023年10月20日付「ロヴェッリの物理、空間は粒
*2 当欄2023年10月27日付「ロヴェッリの物理、空間は網
*3 当欄2023年5月5日付「『時間がない』と物理学者は言った
*4 当欄2023年5月12日付「時間の流れを感じる物理学
(執筆撮影・尾関章)
=2023年11月3日公開、通算702回
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ロヴェッリの物理、空間は網

今週の書物/
『すごい物理学講義』
カルロ・ロヴェッリ著、竹内薫監訳、栗原俊秀訳、河出文庫、2019年刊

科学取材を長く続けていると、科学者たちの関心事の移り変わりがなんとなく見えてくる。この数十年、モノよりもコトに重きが置かれるようになったのも、その一つだ。

背景には、20世紀科学を彩った要素還元主義が極点に達したことがある。物理学でいえば、素粒子群の発見ラッシュがそうだ。生命科学でいえば、ゲノム解読がこれに当たる。物質や生命の根源に何があるかを探る方向性はもう限界に近づいてしまった。

代わりに台頭したのが、複雑系の科学だ。こちらは、モノの小分けにさほど興味がない。関心の的は物事の関係性。ネットワークと言い換えてもよい。物理学から生物学まで、基礎科学から応用技術まで、分野を横断してネットワークの理論が論じられている。

ネットワーク重視の流れは、もしかしたら人間自身がネットワークの構成要素になったこととも無縁でないかもしれない。20世紀後半にコンピューターが広まり、情報技術(IT)が進展したことで、だれもがインターネットを通じて世界中の人々とつながるようになった。今や人間社会はネットワークなしに存立できない。私たちの思考は日常的にネットワークに馴染んでいる。これに伴って科学が変わるのも当然だろう。

まくらにこんな話題を振ったのも、先週からとりあげている『すごい物理学講義』(カルロ・ロヴェッリ著、竹内薫監訳、栗原俊秀訳、河出文庫、2019年刊)の量子重力理論にネットワークを連想させる話が出てくるからだ。著者は極微の空間を考察しているので、一見、要素還元主義のようではある。ところが読み進むと、どうもそうではないらしい。要素を想定してはいるが、そこにネットワーク的なものを見ているのである。

では、本書の中身に戻ろう。先週は本書に導かれて、量子力学と一般相対性理論の統合をめざす量子重力理論の入り口まで来た。それは2点に要約される。一点目は、空間が限りなく分割できるものではなく、極微の領域では「粒性」を帯びていること。もう一つは、その領域にはホイーラー=ド・ウィット方程式という基本方程式があり、この式によって空間は「相異なる幾何学図形が重なり合ってできた雲」のようにイメージできることだ。(*)

ただ、そう言われてもピンとはこない。空間が「粒」であることと「雲」のようであることがつながらないのだ。今週は本書をさらに読み込み、このモヤモヤを払い除けたい。

まずは、ホイーラー=ド・ウィット方程式は解けるのか、という話から始めよう。本書によれば、1980年代末ごろ、方程式の改良が進み、「奇妙な解」が見いだされた。その解は、空間内の「閉じられた線」(輪、ループ)を「計算の対象にする」ときに得られた。別の言い方では「閉じられた線」が「解のなかに現われる」という表現もある。どうやら、ループには特別な意味があるらしい。「ループ量子重力理論」の名もここに由来する。

これでは要領を得ないので、ビジュアル素材の助けを借りよう。本書には、指輪のようなループが四方八方にいくつも絡みあう画像が載っている。本文を読むと、ホイーラー=ド・ウィット方程式の解がループ一つひとつの様子を表しているらしいことがわかる。

著者は、ループを「重力場のファラデー力線」とも呼ぶ。マイケル・ファラデー(1791~1867)は電場や磁場の力をファラデー力線で表したが、その重力版だというのだ。重力場の様子を視覚化しているわけだから、空間の曲がりにも関係しているのだろう。

ループ同士が接する点が「節」。本書によれば、これが「空間の量子的な粒」、すなわち「空間の量子」となっている。見落としてならないのは、「空間の体積」が「節のなか」にあるという記述だ。私たちの常識では「体積」は空間に広がる連続的な量だが、量子重力理論では勝手が違う。「節」には、「体積を形づくる離散的な小箱」という性格がある。その結果、「体積」はトビトビの値をとり、一つ二つと数えられることになる。

本書では、「節」という「空間の量子」が「居場所をもたない」ことも強調されている。「節」は自身が「空間を形づくっている」ので、自らの「居場所」を空間内に位置づけられない。これは、電磁場の量子である光子(光の粒)などと大きく異なるところだ。

では、「空間の量子」に居場所に代わるものはあるのか。本書によれば、ある。それは、隣り合うものが何かという情報だ。一つの「空間の量子」の隣には別の「空間の量子」がある。「誰のそばに誰がいるのか」ということで、空間の風景は違ってくる。

このあたりが本書のよみどころだ。「誰のそばに誰がいるのか」というのは、関係性に着目するということだ。ネットワークのようなイメージが思い浮かぶ。著者の量子重力理論は、空間を極小の粒にまでさかのぼったうえで、そこに網の目を見ているようだ。

著者によれば、空間の構造は「節」と「節」が「たがいに触れ合う」ことで成り立つ。このとき、「節」と「節」をつなぐものとして「リンク」と呼ばれる線が想定される。「リンクによってのみ、あるリンクと別のリンクの関係性においてのみ、個々の空間の量子は所在を特定される」という。「リンク」同士の関係性も「空間の量子」に影響を与えるということだ。ここでは、著者自身が関係性という言葉を用いている点に注目したい。

ちなみに「リンク」は、ホイーラー=ド・ウィット方程式の視点でいえば、ループの一部といえる。それは、重力場の表れと考えてよい。重力場も量子論に従うから、電磁場が光子(光の粒)という量子の姿で立ち現れるのと同じように、「リンク」にも量子の側面がある。本書によると、この量子は「節」と「節」が隣りあって接するときの境界面の広さで数値化される。だから「面積」もやはり、量子論風にトビトビの値をとるという。

著者は、「節」の「体積」と「リンク」の「面積」が「空間の量子的な網の目を特徴づけている」と指摘する。読んでいてなんとなくわかったのは、極微世界の空間がどんなものかを語るとき、私たちが今いるこの空間を思い描いてはいけない、ということだ。常識的な空間は、そこにはない。あるのは空間の粒である「節」と、それらをつなぐ「リンク」だけ。それらが「体積」や「面積」という数量を伴って重力場をかたちづくっている。

本書には「節」と「リンク」の模式図も載っている。一見すると、多面体の頂点と辺のようだ。通信網などのネットワークを模した図にも似ている。この図から、ループ量子重力理論という最新の物理学が世界の根底にネットワークを見ていることを確信する。

それにしても、ループとはいったい何なのか。本書にも、ヒントとなる記述はある。著者はリンクを「節」から「節」へ渡り歩いて元に戻ると、ひと回りで空間の曲率を測れることを論じている。これは、人間が地球の曲率をどう測るか、という話に通じる。たとえば、北極→南下→赤道を東西移動→北上→北極というループを旅すれば、地球表面がどう曲がっているかが検知できるという。ループは、空間の歪みに関係しているらしい。

ここまでの話をまとめよう。ループ量子重力理論では、極微世界が粒性を帯びている。空間の粒を「節」という。「節」はそれ自体が空間なので、空間のなかにはない。「節」の居場所は、「誰のそばに誰がいるのか」という情報によって決まる。「節」とそれらをつなぐ「リンク」で張りめぐらされた網の目が空間の構造をかたちづくっている。そして、「リンク」をたどってひと回りすればループになり、そこから空間の曲がりも見えてくる――。

なるほど、空間の構造はそんなものか。ただ、時間の話がなかなか出てこない。著者は、時間はなくともよいと言うが、時の流れを全否定しているわけでもなさそうだ。空間が粒になる極微世界で時間はどうなっているのか。次回も、この本を読みつづける。
*当欄2023年10月20日付「ロヴェッリの物理、空間は粒
(執筆撮影・尾関章)
=2023年10月27日公開、通算701回
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■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
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ロヴェッリの物理、空間は粒

今週の書物/
『すごい物理学講義』
カルロ・ロヴェッリ著、竹内薫監訳、栗原俊秀訳、河出文庫、2019年刊

当欄は最近、時間の不思議と向きあっている。理由は、私が年をとったからだろう。一日一日がとても貴重なのだ。もっと端的にいえば、一瞬一瞬が愛おしい。だが、その一瞬を捕まえ、どこかに取って置くことはできない。時間に凍結保存はない。

今年5月、私は理論物理学者カルロ・ロヴェッリの『時間は存在しない』(冨永星訳、NHK出版、2019年刊)を読んだ(*1*2)。強調されていたのは、物理学は時間なしでも成り立つということだ。物理現象は時間変数“t”なしでも記述できる。ある量の変わり方を別の量の変わり方に数式で関係づければ、それで物理学の使命は果たせる――理科の授業を思いだすと意外だが、言われてみればなるほどと思う指摘ではあった。

もっとも、これでは私たちが時間を日々実感していることを説明できない。『時間は存在しない』が一般向けの書物として立派なのは、その難点を放置しなかったことだ。著者ロヴェッリは熱力学風の考察によって、私たち人間が感じる時間の本質をあばき出した。

ただ、私は科学記者だったので、時間なしでもよいとするロヴェッリの物理学にもう一歩迫りたいという気持ちがある。それは、どんな哲学から導かれたのか、世界観をどう変えようとしているのか……掘り下げてみたいことは多い。そこで今回は、同じ著者の別の本をとりあげる。奇しくも当欄は、前身コラムを含めて通算700回を迎えた。かつてコラム名に「文理悠々」の看板を掲げていたこともあったので、節目にふさわしい選択かと思う。

『すごい物理学講義』(カルロ・ロヴェッリ著、竹内薫監訳、栗原俊秀訳、河出文庫、2019年刊)。2017年に河出書房新社から出た邦訳単行本を文庫化したものだ。原著がイタリアで出版されたのは2014年であり、『時間は存在しない』の原著刊行より3年早い。

著者はイタリア出身。量子力学と一般相対性理論を統合する理論を模索しており、切り札として「ループ量子重力理論」を主張している。この理論は宇宙論と結びついており、宇宙の始まりに何があったかに深くかかわっている。私が、この著者の本に再度挑もうとしている理由の一つも、そこにある。もし、『時間は存在しない』が言うように物理学に時間が不要ならば、宇宙の原点はどんなものだったのか。そのヒントも得たいと思う。

本書の中身に入ろう。第1章「粒――古代ギリシアの偉大な発見」には「宇宙は粒状であり、滑らかに持続しているわけではない」とある。源流は、古代ギリシャの哲人デモクリトスの原子論らしい。宇宙を切り分ける作業は無際限に続けられないという考え方で、それによって、英雄アキレウスが亀に追いつけないというゼノンの逆説が解決される強みもある。本書を読むと、著者もデモクリトスの立場をとっていることがわかる。

そこから出てくるのが、「粒性」という言葉だ。著者は「あらゆる事物の根底」に「粒としての性質」があるという。量子論は、電磁波という波が光子(光の粒子)の群れでもあるとみているが、空間や時間にも「粒性」があると考えるのが量子重力理論らしい。

本書は、この探究の先駆者として旧ソ連の物理学者マトヴェイ・ブロンスタイン(1906~1938)を挙げている。空間を「際限なく分割できる連続体」とみると、量子力学と一般相対性理論の両立がありえないことを1930年代に論文発表した。量子力学と一般相対論がともに正しいなら、空間は「粒性」を帯びることを理論的に証明したのである。この人は旧ソ連のスターリン体制を批判したことで死刑判決を受け、若くして刑死している。

証明のさわりはこうだ――。粒子を空間の極小領域に置こうとすると、その粒子はハイゼンベルクの不確定性原理に従い、その領域から超高速で逃げ出そうとする。粒子のエネルギーが巨大になるわけだ。一般相対論によれば、その結果、空間は大きく曲がり、ついには内部が観測不能になる。今風に言えば、ブラックホールができるわけだ。「あるスケールを下回る領域」には「手が届かない」から、そこにはなにも存在しない、と言ってよい。

ブロンスタインは、その「あるスケール」を計算ではじき出した。プランク定数hにニュートンの重力定数Gを掛けたものを光速cの3乗で割り、その平方根をとることで得られる。hは量子論でエネルギーがとびとびの値をとることにかかわる基本定数。cは相対論に欠かせない定数だ。両者を含む計算式は、量子力学と一般相対論の両立をめざす試みにふさわしい。こうして得られた値が「世界に存在する『最小の長さ』」だった。

この長さは、1cmの1兆分の1の1兆分の1の10億分の1(10のマイナス33乗cm)。これを、物理学界は「プランク長」と名づけたが、著者は「わたしとしては、『ブロンスタイン長』と呼びたい」という。量子重力理論の先達への敬意だろう。

量子重力理論の進展に大きく寄与したのは、米国の著名な物理学者ジョン・ホイーラー(1911~2008)だ。重力崩壊する天体がブラックホールと呼ばれるようになったのは、この人の意向があったからだといわれている。本書によれば、ホイーラーはブロンスタインの論文を精読することで、量子的な空間を一つのイメージで思い描けるようになったという。それは「相異なる幾何学図形が重なり合ってできた雲のようなもの」だった。

「雲」といえば、量子力学の電子雲が思い浮かぶ。原子核の周りの電子をシュレーディンガーの方程式でとらえると、それは観測されない限り一点にはなく、さまざまな位置にある状態が重なってモワッと存在する。「確率の雲」である。量子重力理論によれば、空間もそれに似ているということか。ただし、重なり合うのが電子の位置ではなく、幾何学図形のかたちだという。なんとなくわかったような気にもなるが、これだけではピンとこない。

著者は、このことを海面にたとえる。海を上空から眺めれば「青く平らな一枚の板」だが、近づけば「あちらこちらに泡が浮かんでいる」。空間も、巨視的にとらえれば「平坦で滑らか」でユークリッド幾何学に従うが、微視的な景色はそうではない。

たとえば、物差しの目盛りがプランク長ほど小さな世界を覗き込んだとしよう。空間は、そこでは「細かく切り刻まれ、ぶくぶくと泡立っている」。本書は、この「空間の泡立ち」こそが「相異なる幾何学図形から成る確率の波」であると説明している。

ホイーラーが果敢なのは、「空間の泡立ち」を数式で記述する試みに挑んだことだ。若手の研究者ブライス・ド・ウィットとの共同作業だった。1960年代、二人が見いだしたのが「ホイーラー=ド・ウィット方程式」。この式から「特定の屈曲した空間が観察される確率」をはじき出せる、という目算があった。うまくいけば、特定の粒子状態が観測される確率をもたらすシュレーディンガーの方程式の量子重力理論版ということになる。

では、目算通りにホイーラー=ド・ウィット方程式は解けたのか。そこにも踏み込みたいが、今週は行数が尽きた。来週も本書をとりあげて、この話をすることにしよう。

今回は、ホイーラー=ド・ウィット方程式についてもう一つ、書き添えたいことがある。著者は『時間は存在しない』で、この式を「時間変数を含むことなく、変動する量の間のあり得る関係を指し示す」と説明していた(*1)。本書でも同様のことを言っている。

現代の宇宙論によると、宇宙の始まりは超極微の世界だ。量子重力理論によれば、それは時間変数“t”なしで描けるというのが著者の立場らしい。その世界が急膨張(インフレーション)したり、大爆発(ビッグバン)したりして今のようになった。

ここで私が言及したいのは、スティーヴン・W・ホーキングの理論だ。宇宙の始まりには虚数の時間があるという。このとき、「時間と空間はいっしょになって、大きさは有限だがどんな境界も縁ももたない一つの曲面を形づくっているかもしれない」(『ホーキング、宇宙を語る――ビッグバンからブラックホールまで』(スティーヴン・W・ホーキング著、林一訳、ハヤカワ文庫NF)。そこでは、時間と空間の区別がつかないのか。(*3

ということは、ホイーラー=ド・ウィット方程式を受け入れるのであれ、ホーキング宇宙論を支持するのであれ、宇宙の始まりを考えるときは時間を棚に上げ、とりあえず空間に注目すればよいらしい。問題は、空間がどんなものかだ。来週は、そこに焦点を当てる。
*1 当欄2023年5月5日付「時間がない』と物理学者は言った
*2 当欄2023年5月12日付「時間の流れを感じる物理学
*3 「本読み by chance」2018年3月30日付「ホーキングの虚時間を熟読吟味する
(執筆撮影・尾関章)
=2023年10月20日公開、同月22日更新、通算700回
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寺山修司の競馬で語る科学

今週の書物/
『ぼくが戦争に行くとき――反時代的な即興論文』
寺山修司著、中公文庫、2020年刊

競馬

当欄は先々週、詩人寺山修司を話題にした。1週で読み切りにしたのは、翌週にノーベル賞発表が控えていたからだ。本当はもう一つ、寺山についてぜひ書きとめておきたいことがあった。あの本には科学談議がある。そこにツッコミを入れてみたかった。

ということで、今週は異例だが、再び『ぼくが戦争に行くとき――反時代的な即興論文』(寺山修司著、中公文庫、2020年刊、単行本は読売新聞社が1969年に刊行)に戻る。

寺山修司といえば、科学には無縁の人のように思える。だが、本当はちょっと違うらしい。それがわかるのが、本書の「希望という病気――東京大学」と題する章で「はとバス」の教育効果などを語ったくだりだ()。唐突に、自身がかつて「物理学と因数分解と西洋史年表の暗記にたけた高校生」だったことを打ち明けている。得意分野に物理を挙げ、しかも数学に強かったというのだから、理系少年の側面が間違いなくあったのだろう。

科学談議があるのは、本書終盤の章「青少年のための賭博学入門」のなかの一節。著者は競馬について持論を展開しているのだが、それがそのまま科学論になっている。

とくに「近ごろ、私は電子計算機による『競馬予想』ということに興味を持っている」と語るくだりが読みどころだ。「電子計算機」と聞いてピンとこない世代もあるだろうが、これはもちろんコンピューターのことだ。ここで著者は、コンピューター予想に対する警戒感を隠さない。コンピューターが「合理的な法則」を見いだし、「完全な『的中』予想」が夢でなくなれば「競馬の賭博は姿を消さざるを得なくなってしまう」という。

コンピューター予想の問題は「レースの時間を追い越して、結果だけを先に発表してしまうこと」と、著者は言う。これは、コンピューター予想が「レースを分析してゆく科学的な大時間」のみを視野に入れ、「個人個人の選択してゆく運命的な小時間」を排除することを意味する。些細なブレが最終結果を左右することもあるのに、それには目もくれないということか。「コンピューターは、競馬から幸運を奪い取ってしまう」と指摘する。

ここで著者がもち出すのは、「ロマネスク」だ。小説のように数奇な、という語意だろう。物理学が支配する世界では、ロマネスク流の「あした、なにが起こるかわかってしまったら、あしたまで生きてる楽しみがない」という人生観が通用しない、とみる。

著者ははからずも、競馬談議から自身の科学観を吐露している。具体論に入るのは、1968年の日本ダービー、オークスなど重賞レース。コンピューター予想と実際のレース結果を比べて、コンピューターが何を見落としていたかを突きとめようとする。

ダービーは、競馬新聞のコンピューター予想で1着マーチス(2分28秒4)、2着タケシバオー(2分28秒6)とされていた。ところが、ふたを開けてみれば、1着タニノハローモア(2分31秒1)、2着タケシバオー(2分31秒9)だった。タイムが予想ほどよくなかったのは、雨で「馬場が稍(やや)重に変わったこと」が影響したらしい。ここで著者の関心は天候に向かう。雨降りはなぜ、コンピューターで予知できないのかという話だ。

雨降りは「科学的必然」とも思えるが、著者は、そうではなく「偶然」なのではないかと問いかけて次のように結論する。私たちは身の回りの出来事の大半を「科学を介して理性的認識に還元」する。だが、この世には「理性が届かない確率論の外の世界」がある!

ここで押さえておきたいのは、著者が考える「偶然」が「確率論の外」にあるということだ。「偶然」と聞くとサイコロが思い浮かぶが、本書の記述をそのまま受けとめれば、サイコロを振って3の目が出る確率が6分の1というのも「科学的必然」になる。ということは、量子力学を確率論でとらえるときにも「偶然」は介在しないのか。著者にとっての「偶然」は、サイコロのひと振りよりも強力なデタラメさを有しているらしい。

競馬では「偶然」の寄与が大きいという話は、レースそのものの分析にも出てくる。この年のダービーではタニノハローモアが最初から飛びだし、ハナ(先頭)に立った。ペースが遅いから、ほかの馬の騎手たちは高を括っていたが、結局、逃げ切られてしまった。敗者は口々に言う。「足をとられて、のめった」「前がふさがって出られなかった」……。「こうしたいくつかのアクシデントを、理性はどのようにして予測するか?」と著者は問いつめる。

この年は、オークスでもコンピューター予想が外れた。こちらにも、「偶然」はかかわっていた。一つは、レースのカギを握るとみられていた馬が車で輸送中に交通事故に遭って出走できなかったこと。もう一つは、逃げ馬の1頭がスタート時にフライング、余分に走った分、レース本番で力が尽きてしまったこと。勝ち負けを決めたのは結局、「悟性の限界を暴力的に超えていった、見えない偶然を支配する力」だったという。

この一文で著者が「偶然」の例に挙げているのは、気まぐれな空模様や不測の災難だ。私たちがいま2023年の時点で思うのは、これらは1968年から半世紀が過ぎてなお「偶然」のままか、それとも科学の進歩で「必然」と見なされるようになったか、という問題だ。天気予報についていえば、衛星画像などのおかげで的中率が高まったように思われる。競馬のコンピューター予想も精度が上がり、「必然」の度合いが強まっているのではないか。

話はそう簡単ではない。なぜなら、科学の新しい流れが「必然」と「偶然」のとらえ方に見直しを迫ったからだ。複雑系の研究が、「必然」であっても人間には事実上「偶然」と言うしかない現象、すなわちカオスが自然界に存在することを示したのである。

カオスの理論は、古典物理学の枠内にある。未来はニュートンの運動方程式などできっちり予測できるから、決定論の世界だ。ところが、方程式に打ち込む数値をちょっと変えただけで未来図が大きく異なってしまう場合がある。初期条件の違いに敏感な現象だ。蝶の羽ばたきが遠くの国で嵐を起こすというバタフライ効果が、これに当たる。未来予測は、理屈のうえでは可能でも実際は難しい。「必然」の未来が人間には「偶然」のように見える。

余談を言えば、1960年代に気象のカオス現象を見いだしたエドワード・ローレンツ(1917~2008、米国)の逸話がおもしろい。気象の移り変わりをコンピューターで再現する数値実験を試みていたとき、入力値を概数にまるめたら、まるめなかった場合と大きく違う結果になった、という。バタフライ効果を発見したわけだ。コンピューターは人間に科学の威力を見せつけているが、と同時に、科学の限界も教えてくれたことになる。

それにしても、著者の賭博論は示唆に富む。ダービーで馬場を稍重にした雨は古典物理学の方程式に従うので「必然」だが、私たちにはそれが「偶然」に映る。一頭の馬が「のめった」ことを蝶の羽ばたきに見立てれば、そのレースが番狂わせになったことはバタフライ効果といえるかもしれない。「幸運」の根源に何があるかが見えてくるではないか。著者は、競馬の醍醐味がカオスにあることを直観で見抜いていたのかもしれない。
* 当欄2023年9月29日付「寺山修司、反1960年代の美学
(執筆撮影・尾関章)
=2023年10月13日公開、通算699回
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