2時間ミステリー、蔵出しの愉悦

今週の書物/
『2時間ドラマ40年の軌跡』
大野茂著、発行・東京ニュース通信社、発売・徳間書店、2018年刊

テレビ欄(朝日新聞)

緊急事態の巣ごもりで、テレビをつければ、こちらの局も五輪、あちらの局も五輪……。これがテレビの宿命か。そう思いつつも、ここで大上段に構えてテレビを論ずるつもりはない。暑気払いということで、肩の凝らないテレビ史話に浸ることにしよう。

2Hという言葉がある。テレビ界の友人によれば、2時間ドラマ、即ち2-hour dramaの略だ。私はその2Hのファンなので、当欄の前身「本読み by chance」では「2時間ミステリー(2H」というジャンルを設けていた。「2時間ドラマの旅で考える鉄道論」(2014年10月31日付)、「ハムレットを2時間ドラマに重ねる」(2015年9月11日付)、「2時間ドラマまったり感の崖っぷち」(2017年7月14日付)など7本を収めている。

熱烈なファンであっても、私の2H鑑賞法は手抜きのそしりを免れない。夕食後、寝っころがって、ボーッと視聴する。たいていはほろ酔い状態なので、ドラマの中盤、事件の輪郭が見えてくるあたりでうとうとしてしまう。はっと目が覚めるのは最終盤。崖の突端やら湖の畔やらに関係者一同が顔をそろえている。この大団円で刑事や検事、素人探偵が謎を解き、事件の一部始終を説明してくれる。中抜けでもちゃんとゴールできるのがいい。

この鑑賞法は、テレビドラマを芸術作品とみなすなら不真面目の極みだろう。だが、2Hは趣が違う。「どうぞみなさん、お好きなようにご覧ください」――耳元で、作品そのものがそんなふうにささやいているように思える。脱力を促している気配だ。

ただ、脱力していても得られるものはある。私にとって2Hは近過去の史料だ。これは、テレビ各局が2H新作の時間枠を次々に取り払ってしまったことに起因する。このため最近は、BSやCSで蔵出しの再放映を見たり、再放映を録画して後日再生したりすることが多くなった。作品の空気にどっぷり浸かっていると、制作年代の記憶が蘇る。電話などの通信事情や鉄道などの交通事情から、それがいつごろの作品か言い当てる楽しみもある。

たとえば、DNA型鑑定が事件捜査の現場に広まった時期は、日本テレビ系列「火曜サスペンス劇場」で見当がつく。この技術は「女監察医室生亜季子」シリーズでは「もう一つの血痕」(1992年)に、「女検事霞夕子」シリーズでは「青い指」(1993年)に初出する。1990年代前半にドラマの題材になるほど浸透したわけだ。余談だが後年、シリーズ名から「女」が抜け、それぞれ「監察医…」「検事…」になった。この改名にも史料的意味がある。

こんなふうに私は2Hを分析してもいるのだ。ただ、ボーッと画面を眺めているだけではない。だから、いずれは2H評論家を標榜できるのではないか、と心の片隅で思ったこともある。だが、それは奢りだった。そのことを思い知らされる本に最近、出会った。

『2時間ドラマ40年の軌跡』(大野茂著、発行・東京ニュース通信社、発売・徳間書店、2018年刊)。著者は1965年生まれ、電通出身の阪南大学教授。専門分野は「メディア・広告・キャラクター」という。「おわりに」によると、この本は『TVガイド』誌発行元である東京ニュース通信社の「地下倉庫の資料整理」によって生まれた。倉庫は、2H史料の宝庫だったわけだ。著者は往時の関係者にも取材して、臨場感のある史話に仕立てあげた。

さすが『TVガイド』の発行元だな、と思わせるのが、巻末の「とっておきデータ集」。それによると、1977年にテレビ朝日系列で老舗「土曜ワイド劇場」(土ワイ)が始まり、対抗馬「火曜サスペンス劇場」(火サス)が1981年から追いかけた。私が知らなかったのは、このあとに2時間ドラマ乱立期がつづくことだ。キー局によっては時間枠を二つ三つ設けるところも出てきて、1990年前後には4局8枠が競い合ったこともある。

草創期の事情を本文に沿って跡づけてみよう。興味深いのは、2時間ドラマの原点が米国にあることだ。米国のテレビ界には、劇場用映画の時間枠にテレビ用「映画」を流す試みがあった。テレビ局がオリジナル作品の制作を映画会社に発注したのだ。これなら、時間の長短も画面の横幅もテレビ仕様にできる。ヤマ場をCMのタイミングに合わせて設定したり、「新聞のテレビ欄で思わず見たくなる」ようにタイトルを工夫したり、も自在だ。

この試みの妙味に気づいた人がNET(現・テレビ朝日)にいた。1960年代末、映画番組用に洋画を買い入れる仕事をしていた外画部員だ。米国のテレビ専用作品を「テレフィーチャー」という和製英語で呼び、導入の可能性を探っていた。その人が1975年、編成開発部に移って手がけたのが「国産テレフィーチャーの実現」だ。上司も、この構想を応援してくれた。こうして土ワイが、最初は90分ドラマとして産声をあげたのである。

土ワイは当初、ミステリーと決まってはいなかった。最初の数カ月は「ミステリーを中心としながら、文芸もの、青春もの、メロドラマと模索が続いた」。やっぱりミステリー、という方向性が見えたのは、1978年に「江戸川乱歩の美女シリーズ」第2作の「浴室の美女」が高視聴率を獲得してから。天知茂主演。ヒロイン女優が脱いだ。コメディアンが笑いをとって猟奇性を和らげた。こうして「娯楽ミステリー路線」が定着したのである。

土ワイの初代チーフプロデューサーが1977年に社内向けに宣言した制作方針が、この本では公開されている。「メインターゲットは20~35歳の女性」「娯楽性・話題性を最優先」「風俗、流行も反映」「裸(健康的なお色気、美しい映像)はOK」「茶の間の涙と感動も無視できません」――といった内容だ。今では通用しない価値観もみてとれるが、あの時代に戻って解釈すれば、小難しくなく楽しめる作品を、ということだったのだろう。

土ワイを論じるときに忘れてならないのは、在阪局ABC朝日放送の参入だ。1979年、土ワイが90分枠から2時間枠に拡げられると同時に制作に加わっている。放映4回のうち1回はABCが受けもつことになった。その結果として誕生した人気シリーズの双璧が、藤田まこと主演「京都殺人案内」と、古谷一行、木の実ナナ主演「混浴露天風呂連続殺人」。2Hの切り札ともいえる「京都」と「温泉」のカードをいち早く切ったのである。

そのころはゴタゴタもあったようだ。たとえば、「京都殺人案内」第1作の原作者は山村美紗だが、第2~32作は和久峻三に代わっている。土ワイがもう1枚の切り札「鉄道」を前面に押しだした「西村京太郎トラベルミステリー」シリーズも不可解だ。ABCが1979年に始めたが、まもなくテレビ朝日の手に移った。これらの異変の背景には、原作者とテレビ局の間の確執があったらしいことを著者は匂わせる。2Hにふさわしい話ではある。

初期の土ワイにかかわったテレビ朝日とABCのOB対談からは、制作現場の空気感が伝わってくる。当時は映画が斜陽産業だったので、テレビドラマは「映画界の失業者を救済する事業」でもあったという。テレビ人には、映画人の心理が屈折しているようにみえたのだろう。「映画はテレビをバカにしてましたからね」「娯楽の王座が映画からテレビに移ったっていうのを彼らも完全に知ってて、でもやっぱり虚勢を張りたかったんじゃないかな」

さて1981年、いよいよ火サスの出番である。この本で、ああそうだったのかと納得したのが、土ワイとの比較論だ。私は一視聴者として両者の芸風の違いを感じながらも、それをうまく言い表せなかった。著者によれば、火サスは「犯人さがしやアリバイ崩し」ではなく「人間ドラマ」を優先して「登場人物が背負っているもの」や「愛が憎しみに変わる瞬間」などを描いた。「謎解き」より「緊張や不安」――だから「サスペンス」だったのだ。

そして1980年代、TBS系列にもフジテレビ系列にも同種の番組が現れ、2Hの視聴率競争は過熱する。その時代の象徴は、新聞のテレビ欄を舞台とする場外乱闘だ。欄の枠内に「松本清張の事故 国道20号線殺人トリック 怖い!あの女が今日も私を見張ってる…」(土ワイ、1982年)というような長い文言が載るようになった。2時間分のスペースから主要出演者の列記分などを差し引いて、残る余白を刺激的な言葉で埋め尽くしたのである。

この本は、2Hをつくる側の裏話にあふれている。だから私は、業界事情がわかって興味深かった。だが、見る側に立って作品をどんなふうに楽しむかという話はあまりない。2H評論家としての活路はまだまだあるぞ。そう思って、今夜もまた1本、きっと見る。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年7月30日公開、同年8月1日更新、通算585回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

1964+57=2021の東京五輪考

今週の書物/
『1964年の東京オリンピック――「世紀の祭典」はいかに書かれ、語られたか』
石井正己編、河出書房新社、2014年刊

57年間

「TOKYO2020」という名の祭典が、1年遅れで開幕した。その思いは後段で綴ることにして、まずは同じ東京の地で1964年にあった東京オリンピックの開会式を思い返してみよう。当欄がひと月ほど前にとりあげた『1964年の東京オリンピック――「世紀の祭典」はいかに書かれ、語られたか』(石井正己編、河出書房新社、2014年刊)をもう一度開いて、「開会式」の部を読んでみる(2021年6月18日付「五輪はかつて自由に語られた)。

「開会式」の部に収められた5編は、5人の作家が会場に足を運んだ現地報告だ。

三島由紀夫が毎日新聞(1964年10月11日付)に寄せた一文には、「やっぱりこれをやってよかった。これをやらなかったら日本人は病気になる」という感慨が述べられている。秋晴れに恵まれた式典が「オリンピックという長年鬱積していた観念」を吹き飛ばしたというのである。その観念は日本人が胸のうちに抱え込んだ「シコリ」のようなものだというが、具体的な説明はない。だが、私たちの世代にはなんとなくその正体がわかる。

シコリの原因を、かつて日中戦争のもとで東京五輪が返上されたという史実に帰する見方はあるだろう。ただ、それが日本社会の積み残し案件になっていたかと言えば、そうではない。1964年に中一の少年だった私の印象批評で言えば、あのころの大人たちは国際社会に名実ともに復帰したいと切望していたように思う。屈辱と反省が染みついた戦後という時代区分を一刻も早く終わらせたい、という焦りだ。三島は、それを見抜いていた。

この一編には、はっと思わせる一文がある。聖火リレー最終走者の立ち姿について書いたくだりだ。「胸の日の丸は、おそらくだれの目にもしみたと思うが、こういう感情は誇張せずに、そのままそっとしておけばいい」――絶叫は無用、演説も要らない、というのだ。オリンピックは「明快」だが、民族感情は「明快ならぬものの美しさ」をたたえているという見方も書き添えている。その重層的な思考が、6年後の三島事件にどう短絡したのか?

石川達三の一編(朝日新聞1964年10月11日付)は、ごく常識的にみえて、三島よりも国家にとらわれている。石川は、五輪を「たかがスポーツ」と冷ややかにみていたが、開会式の光景には心動かされたことを告白する。理由の一つは、「新興独立国」が続々と参加したこと、もう一つは敗戦後の記憶が呼び覚まされたことだ。「わが日本人はわずか二十年にして、よくこの盛典をひらくまでに国家国土を復興せしめたのだ」と大時代風に言う。

5人の作家たちは、いずれも戦時体験のある人たちだった。その生々しい記憶を開会式に重ねあわせたのが、杉本苑子だ(共同通信1964年10月10日付配信、本書掲載分の底本は『東京オリンピック』=講談社編、1964年刊)。「二十年前のやはり十月、同じ競技場に私はいた」。精確には21年前、1943年の学徒出陣壮行会だ。杉本たち女子学生は、男子学生を見送る立場だった。「トラックの大きさは変わらない」という言葉に実感がこもる。

今、即ち1964年、皇族が席についているあたりに東条英機首相が立ち、訓示。銃後に残る慶応義塾大学医学部生が壮行の辞。出征する東京帝国大学文学部生が答辞。「君が代」「海ゆかば」「国の鎮め」の調べが「外苑の森を煙らして流れた」――1964年にとっての1943年は、2021年の現在からみれば2000年に相当する。米国でジョージ・W・ブッシュ対アル・ゴアの大統領選挙があった年である。杉本の記憶が鮮明なのもうなずける。

国立競技場の観客席を埋め尽くす観衆7万3000人に目を向けたのは、大江健三郎だ(『サンデー毎日』1964年10月25日号)。自身が群衆の一人となって、周辺の席にいる外国人女性の一群を詳しく描写する。皇族たちの姿を双眼鏡で眺めて「プリンス、プリンセス!」とはしゃいでいる。そんな祝祭気分を、大江は「子供の時間」と表現する。「鼓笛隊の行進」「祝砲」「一万個の風船」……言われてみれば、その通りだ。

大江は、その「子供の時間」に膨大な「金」と「労力」がつぎ込まれ、ときに「労務者の生命」までが犠牲にされたことを指摘して、こう言う。それらを償うために「大人の退屈で深刻な日常生活は、オリンピック後に再開され、そしてはてしなくつづくのである」と。

想像力の作家らしいな、と思わせるのは最終段落だ。開会式が終わり、人々が帰途についたとき、大江は人波に押しだされるように競技場を去りながら、後ろを振り返ってみる気にはならなかった。「あのさかさまの大伽藍が巨大な空飛ぶ円盤さながら、空高く飛びさってしまっているかもしれない」――そんな思いが頭をかすめたからだという。五輪が「子供の時間」なら、それはひとときの移動遊園地であっても不思議ではない。

開高健は、競技場の群衆に「血まなこになったり」「いらだったり」する人が皆無なのを見て、同じ人々がかつて「焼け跡を影のようにさまよい、泥のようにうずくまっていた餓鬼の群れ」であったことに思いを巡らせている(『週刊朝日』1964年10月23日号)。

観客の行儀良さは選手の生真面目さに通じている。日本選手団の入場行進は、こう描写される。「男も女も犇(ひし)と眦(まなじり)決して一人一殺の気配。歩武堂々、鞭声粛々とやって参ります」。直前に入場したソ連選手団は女子選手たちが「赤い布をヒラヒラ、ヒラヒラふって愛嬌たっぷりに笑いくずれてる」ほどの自然体だったから、日本の隊列の緊張ぶりは際立った。開高は、国内スポーツ界には「鬼だの魔女だの」がいると皮肉っている。

5編を読み通して気づいたのは、5人の作家のうち3人、三島と大江と開高が、式の幕切れに起こった小さなハプニングを肯定的に書きとめていることだ。数千羽の鳩(三島、開高によれば8000羽、大江によれば3000羽)が秋空に向けて放たれたとき、1羽だけが離陸を拒み、競技場の大地にとどまっていた、という微笑ましい話である。政治的立場がどうあれ、作家の関心は群衆のなかでも失われない強烈な自我に向かう、ということだろうか。

……と、ここまで書いて、それにTOKYO2020開会式の感想をつけくわえる、というのが本稿で私が構想していたことだ。ところが、今になって気づいたのだが、式は午後8時からではないか。東京五輪の開会式は快晴の日の昼下がり、という固定観念が頭に焼きついている世代ゆえの誤算だった。ということで、本稿公開の時刻はテレビで式を見終えた後の深夜になる。ただ、それを見届けなくとも書ける感想は多々ある。

たとえば、開会式直前のゴタゴタ。4日前に楽曲担当の音楽家が辞任、前日には演出家が解任された。いずれも過去の過ちを問われてのことだ。一方は、少年時代のいじめ、もう一方は芸人時代、コントに織り込んだユダヤ人大虐殺の揶揄。ともに人権の尊重という普遍の価値に反している。今回の五輪は、世界がコロナ禍という人類規模の災厄のさなかにあることから開催に賛否が分かれていたが、押し詰まって事態はさらに混迷したのだ。

二人の過ちについては、私は詳細を知らないのでここでは論じない。ただ一つ気になるのは、音楽家が自身のいじめ体験を雑誌で得意げに語ったのも、演出家がユダヤ人大虐殺を笑いの種にしたのも、1990年代だったことだ。あのころの社会には、いじめも大虐殺も笑い話風に受け流してしまう空気があったのかもしれない。それは、ミュージシャンやお笑い芸人の世界に限ったことではあるまい。私たちも同じ空気を吸っていたのだ。

思いは再び1964年へ。あの五輪が戦争の記憶とともにあったことは作家5人の文章からも読みとれる。だが、戦争の罪深い行為に触れた記述はほとんど見当たらない。石川を除けば戦時の大半を少年少女期に過ごした世代だからだろうか。強いて言えば、大江が原爆に言及しているくらいだ。そこには、聖火の最終走者に原爆投下の日に広島で生まれた青年が選ばれたことを米国人ジャーナリストが「原爆を思いださせて不愉快」と評したとある。

「思いださせて不愉快」のひとことは、東京五輪1964の本質を突いている。当時の大人たちは20年ほど前の過ちを思いだしたくなかったのだ。それは敗戦国であれ、戦勝国であれ同様だったのだろう。あの五輪は戦争の罪悪を忘却するための儀式ではなかったか。

さて、今回の開会式辞任解任劇で思うのは、当事者の音楽家や演出家が抱え込んだ重荷は、私たちにも無縁ではないということだ。今はだれもが、自身の過去を振り返り、過ちを置き忘れていないか点検を迫られているような気がする。おそらく1964年には、そんな問いも封印されていたのだろう。私たちの社会は、あのときよりもいかばかりか倫理的になったのかもしれない。私たちの心がその倫理に耐えられるほど強靭かどうかは不明だが……。

午後8時、開会式が始まった。どこまでが生映像でどこからが録画なのかわからないパフォーマンスが続く。そして、各国選手団の入場。みんなお祭り気分、スマホ片手に動画を撮っている選手もいるから行進とは言えない。まさに、大江の言う「子供の時間」だ。

ここには、開高が言う「犇と眦決して」の気配もない。式が進行する間、選手は勝手気ままな姿勢でいる。だが、不思議なことにここに自由があるとは思えない。そう、この57年間で世界は変わったのだ。今、私たちは目に見えない束縛のなかにいる。
*引用箇所にあるルビは原則として省いた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年7月23日公開、通算584回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

チャペックの疫病禍を冷静に読む

今週の書物/
『白い病』
カレル・チャペック著、阿部賢一訳、岩波文庫、2020年9月刊

白いマスク

去年、コロナ禍の前途が見通せなかったころ、私の本漁りは混乱した。世を覆う暗雲は無視できない。その一方で、生々しい話からは目をそらしたい気分もあった。たとえば、パオロ・ジョルダーノの『コロナの時代の僕ら』(飯田亮介訳、早川書房、2020年4月刊)は、その緊迫感ゆえに当欄で直ちにとりあげたが(2020年5月1日付「物理系作家リアルタイムのコロナ考」)、買い込んだままページを開くのをためらっていた本もある。

戯曲『白い病』(カレル・チャペック著、阿部賢一訳、岩波文庫、2020年9月刊)は、その一つだ。著者(1890~1938)はチェコ生まれの作家。代表作「R・U・R」はロボットという新語を生みだした戯曲で、AI(人工知能)時代の到来も予感させる。

チャペックと言えば、私はその著書『未来からの手紙――チャペック・エッセイ集』(飯島周編訳、平凡社ライブラリー)を話題にしたことがある(「本読み by chance」2016年1月8日付「チャペック流「初夢」の見方」)。それは、排他的な移民政策をとる権力者が米国に現れる未来を予測していた。そして実際、この拙稿公開から1年後、国境を壁で閉ざす政策を掲げたドナルド・トランプ氏が米国大統領に就任したのである。

大した予言力だ。それは、チャペックがもともと新聞記者だったことに由来するのかもしれない。作品の主題は、個人の心の襞や愛憎ではない。ジャーナリストの鑑識眼で社会を読み解き、それにいくつかの仮定を施して次の時代を見通す。さながら、コンピューターを用いた数値実験のようなものだ。その作家が、この戯曲では疫病禍をとりあげている。私たちが直面するコロナ禍の先行きが暴かれているようで、ちょっと怖いではないか。

さて、そんなふうに怖気づいてから半年ほどが過ぎた。今も、コロナ禍は深刻なままだ。特効薬がない、病床確保が十分ではない、という状況は変わらない。ワクチン接種が始まったことだけが明るい材料だが、半面、ウイルスの変異株が次々に現れて心配な雲行きだ。一つだけ明言できるのは、あとしばらくは――たぶん、それは年単位の話だろう――ウイルスとワクチンの攻防が続くということ。そんな全体像だけは認識できるようになった。

ならばきっと、半年前よりもこの作品を冷静に吟味できるだろう。そもそも、ここに描かれる「白い病」は架空の疫病だ。しかも、作品が発表されたのは1世紀前の1937年。DNAの立体構造発見(1953年)よりもずっと前のことだから、感染の有無を遺伝子レベルで調べるPCR検査はなく、蔓延の様子を正しく把握することも至難の業だった。病原体の正体はわからず、伝播経路も追跡できない。とりあえず、今のコロナ禍とは別の話だ。

さっそく、戯曲の中身に入ろう。この作品で、著者は疫病流行時の世相を模式化して描いている。それは、いわば社会の縮図だ。登場人物には、最高権力者と思しき元帥がいる。爵位を有する軍需産業の経営者もいる。二人一組で産軍複合体の象徴か。医学界には、大物の大学病院教授。この人は、国の「枢密顧問官」でもある。新聞記者も出てくる。中流家庭の家族も顔を出す。そして陰の主役が、変わり者扱いされる医師ガレーン博士だ。

まずは、この病の素描から。教授は記者の取材に答える。「皮膚に小さな白い斑点ができるが、大理石のように冷たく、患部の感覚は麻痺している」。罹患の徴候は「大理石のような白斑(マクラ・マルモレア)」だが、皮膚病ではない。「純粋に体内の病」であり、数カ月後に敗血症で亡くなる人が多いという。治療は「適量の鎮静剤を処方すること」。対症療法しかないということだ。教授は、この現実を記者にはわからない用語を使って言う。

教授によれば、この疫病は「白い病」と呼ばれているが、正式名称は症例報告者の名に因んで「チェン氏病」。初症例が見つかったのは「ペイピン」の病院だという。ペイピンが「北平」なら北京の旧称だ。教授は、中国では「興味深い新しい病気」が「毎年のように」出現していると言い添える。黄禍論の影響も感じとれる。だが一方で「貧困がその一因」との認識も示しているから、作者の帝国主義批判の表出と読めないこともない。

チェン氏病は、すでに世界的な大流行、即ち「パンデミック」の様相を呈している。500万人超が亡くなり、患者数は1200万人にのぼる。世界人口が今の3分の1のころだから単純には比較できないが、死者数が数百万人規模である点は今回のコロナ禍と共通する。

さらに注目したいのは、教授が「白い病」のパンデミックが見かけより大きいとみていることだ。報告された患者数の3倍以上の人々が「斑点ができているのを知らずに世界中を駆けずり回っている」――と教授は指摘する。斑点は無感覚だから感染に気づかない、多くの人は知らないうちに感染拡大に手を貸している、ということだ。これは、コロナ禍で無症状の感染者がウイルスの伝播に一役買っている現状を連想させる。

このことは疑心暗鬼も呼び起こす。それは、教授が自室でひとりになったとき、ふと漏らす独り言からもうかがわれる。ト書きに「立ち上がって、鏡の前に立ち、注意深く顔を眺める」とあり、「いや、ないな。まだ、出てはいないな」とつぶやく。教授は新聞記者に対しては、医学の権威としてチェン氏病の蔓延を客観的に論じていた。だが内心を覗けば、自分自身も感染しているかもしれない、という疑念を拭い去れないでいたのだ。

もう一つギクッとするのは、「白い病」が年齢限定であることだ。教授は、感染が45歳、あるいは50歳以上に限られるとして、人体の経年変化「いわゆる老化」がこの疫病に有利な条件もたらすという見解を披瀝する。今回の新型コロナウイルス感染症には、罹患年齢にはっきりした区切りはない。だが、高齢者が重症になりやすいという傾向は早くから言われてきた。著者は、疫病禍が老若の断絶を明るみに出すことも見通していたのである。

この戯曲では、一家団欒の会話にもこの軋轢がもちだされる。父が「五十前後の人間だけが病気になるのはどう考えても公平じゃない」と不満を漏らすと、娘は辛辣に応じる。「若い世代に場所を譲るためでしょ」。息子も、この世代交代論に乗ってくる。国家試験のために受験勉強中の身だが、先がつかえていれば合格しても職がないというのだ。「でも、もうすこし長生きしてほしいけど」と言い添えているから、半ば軽口ではあるのだが……。

病気そのものの話は、このあたりで打ち切る。さて、ガレーン博士とは何者か? 大学病院で教授と面談する場面では、自分は地域医療の医師で、「とくに、貧しい方の診療をしています」と自己紹介している。その実践のなかで「白い病」の治療法を見いだしたという。数百人に施したところ、回復率は「六割ほど」。そこで、臨床試験を大学病院で試みたいと願い出る。教授は上から目線で聞き流していたが、興味がないわけでもなさそうだ。

ガレーンには強みがあった。彼はかつて、教授の義父の助手だったのだ。義父は医学界に君臨した人物。その有能な弟子だったらしい。そうと知って教授も嘆願を受け入れる。とりあえず、治療費が払えない患者が集まる13号室での治験を許すのだ。

実際、その治療効果は目を見張るものだった。元帥は「奇跡と言ってよい」とほめる。教授は当初、ガレーンが治療の詳細を明かさないことに怒り、「君は、自分の治療法を個人的な収入源と捉えている」となじっていたが、元帥の称賛には「身に余る光栄」と悦に入る。

この戯曲で最大の読みどころは、そのガレーンのたった一人の闘いだ。ネタばらしになるので、筋は追わない。ただ一つ言いたいのは、彼が「白い病」の治療法――その正体は「マスタードみたいな黄色い液体」の注射薬らしい――の独占を企む動機が、物欲でも栄誉欲でもないことだ。最終目的は悪事ではない。それどころか、善意に満ちている。ただ、善のために医療行為を駆け引きのカードにしてよいか、と問われれば議論は分かれるだろう。

これを読んで私は、コロナ禍の行方が今、ワクチンに左右されている現実を思う。ワクチンが巨大な知的財産であること、外交の切り札になること、今や安全保障の必須要件でもあること……そんな力学が際立つ時代の到来を、チャペックの『白い病』は暗示していた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年7月9日公開、同日更新、通算582回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

立花隆の宇宙は夢とロマンじゃない

今週の書物/
「宇宙船『地球号』の構造」(『諸君』1971年4月号初出)
=『文明の逆説――危機の時代の人間研究』(立花隆著、講談社文庫、1984年刊)所収

宇宙から見た地球(NASA画像)

もう、ふた昔も前に『サイアス』という雑誌があった。1996年秋に創刊された隔週刊の科学誌だ。朝日新聞社が出していた月刊『科学朝日』の改名後継誌。残念なことだが、やがて月刊に戻り、世紀末の2000年に「休刊」という名の店じまいとなった。

『サイアス』創刊号(1996年10月18日付)で表紙を飾ったのが、先日訃報が伝えられた希代のジャーナリスト、立花隆さんの顔の大写しである。その余白を埋めるように誌名『SCIaS』のロゴがあり、「連載/立花隆/100億年の旅」(/は改行)という大見出しもあった。見出しで大書されているのは連載名「100億年の旅」ではなく、筆者「立花隆」のほうだ。出版市場で、この人の集客力がどれほど強かったかがみてとれる。

創刊の半年前、私は新聞社内の異動で出版局へ移り、まもなく『サイアス』編集部の副編集長になった。副編の仕事は、編集長のもとで誌面を企画したり、寄稿者や記者の原稿を整えたりすることだ。副編は二人いたが、立花連載の担当は私になった。私は創刊の準備段階からかかわり、編集者となる部員とともに立花事務所をよく訪ねたものだ。それは「猫ビル」と愛称される建物で、階ごとに別分野の書物を詰め込んだ知の要塞だった。

「100億年の旅」は、立花さんが理系の研究室を訪れ、研究者に長時間のインタビューをして記事にまとめるというものだった。人工知能、ロボット、仮想現実感……当時はまだ目新しくもあった領域に分け入り、突っ込んだ質問をたたみかける。取材は、知的好奇心の赴くまま盛りあがったようだ。私が深夜、編集部で仕事をしていると、取材に付き添う部員から電話がかかり、「まだ続いています」とあきれ気味の報告を受けることもあった。

やがて、立花さんから原稿が届く。私はそれを副編として読むのだから、誤字脱字がないか、事実誤認がないか、中見出しをどうするか、など実務に気をとられた。いま思うと、立花流の科学筆法を第一読者としてもっと味わえばよかったな、という悔いがある。

立花流の特徴は、工学系の研究者を取材したときに際立つ。工学研究は、たいてい実社会に直結している。その成果は経済活動と密接不可分で、ベンチャービジネスを生みだしたり、知的財産権に実を結んだりする。だが、立花さんの主たる関心は、そこにはなかった。理学系の研究、たとえば素粒子物理に興味を抱くのと同じように、工学研究に魅せられていたように思えるのだ。ロボット工学ならば、ロボットを通じて人間を知るというように。

で、今週の書物は「宇宙船『地球号』の構造」(『諸君』1971年4月号初出、『文明の逆説――危機の時代の人間研究』=立花隆著、講談社文庫、1984年刊=所収)という論考だ。著者は1940年生まれだから、これは30代になりたてのころに書かれた。出世作「田中角栄研究」(1974年)が世に出るより3年前のことである。『文明の逆説』は、今回の一編を含む初期の論考を1冊にまとめたもので、単行本は1976年に講談社から出ている。

本題に入る前に、この本の冒頭に収められた「文明の逆説――序論と解題」に触れておこう。そこでは、自身がルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインに惹かれて論理学や現代数学に誘われ、科学哲学や言語哲学にも関心をもつに至ったことを打ち明けている。ローマ帝国史など史学の蘊蓄も披露している。衒学的なのは若さ故か。ただ、著者が田中角栄を書くときも、先端研究を論ずるときも、脳裏にこんな知的背景があったことは心にとめておきたい。

論考「宇宙船『地球号』…」は、地球を宇宙船に見立てる論法が「思想的流行」として席巻中、という話から切りだされる。「流行」の理由には、執筆の前々年、米国のアポロ宇宙船が人類を月に送り込んだということがあった。だが、それだけではない、と私は思う。

たとえば、『宇宙船地球号 操縦マニュアル』(R・バックミンスター・フラー著、芹沢高志訳、ちくま学芸文庫)。邦題にある「宇宙船地球号」は“Spaceship Earth”の直訳であり、原著の刊行は1969年。この本を読むと、1970年前後は人類が資源乱費の愚に気づく転換点だったことがわかる(「本読み by chance」2016年1月22日付「フラーに乗って300回の通過点」)。当時「地球号」という言葉には、そんな危機感が凝縮されていた。

立花論考「宇宙船『地球号』…」も、同様の危機感に根ざしている。だから、著者が宇宙を好きだとしても、それは、メディアが宇宙の話題をとりあげる場面で用いる常套句「夢とロマン」とはもっとも遠いところにある。これは、強調しておきたいことだ。

この論考で、著者は「宇宙空間は死の空間である」という。私たちが、地球の外に「裸のまま」で放置されたとしよう。そこには、紫外線が降り注いでいる。太陽風など高エネルギー粒子が吹きつけ、隕石や宇宙塵も高速で飛んでくる。もちろん、息を吸いたくても空気がない。新陳代謝に欠かせない物質もない。細かなことを言えば、太陽の方角を向けば焦熱、振り返れば極寒という極端な温度差もある。とても生きてはいけないのだ。

では、私たちはなぜ、地球ならば生きていけるのだろうか? 紫外線を大量に浴びずにいられるのは、上空にオゾン層があるからだ。太陽風の直撃を受けずに済むのは、地磁気が防御壁になっているからだ……。このように著者は、地球が私たちに与えてくれる恩恵を一つずつ挙げていく。著者にとっての宇宙は、人間の生存条件を考えるときの思考実験の舞台になっている。「宇宙船」に対する関心も、この文脈のなかにあると言ってよい。

この論考には、なるほどそうだな、と思うたとえ話がある。航空機のしくみを知りたいなら、「模型飛行機を作ってみれば、空気より重いものが空を飛ぶのに必要なメカニズムがわかる」。物事の本質に迫るには「いちばん簡単なモデル」を考察するのが最善であり、有人宇宙船は地球の「簡単なモデル」になる。「宇宙船と現実の地球を比較してみることによって、我々は地球をより本質的に知ることができるだろう」と、著者は言うのだ。

読みどころの一つは、物資の自給自足だ。著者によれば、アポロ司令船は乗組員の排泄物を液体なら外へ捨て、固体なら殺菌密封して持ち帰った。だが、次世代の「火星宇宙船」では、長期飛行になるので循環型のシステムが提案されているという。宇宙船に緑藻類クロレラの培養装置を置く。排泄物はクロレラの肥料にする。二酸化炭素も光合成の原料として吸収させる。その光合成が船内に食料と酸素を供給する――そんな案が紹介されている。

著者は、これを地球と比べる。結論は「地球のほうがはるかによくできている」。地球規模で「エコシステム(生態系)」という「物質循環系」が働いて、水も食料も酸素も「すべての必要物資の自給自足体制が完全にととのっている」からだ。生物界の食物連鎖も、大気と海洋の間で起こる気象現象も、この系の一翼を担う。著者は、エコロジーという環境保護思想を、世間に先んじて1970年代初頭から強く意識していたことになる。

この論考は、文明の失敗も箇条書きにしている。著者が筆頭に挙げるのは、食料増産が「エコシステムを単純化し、不安定なものにしたこと」だ。畑とは「自然の植物群落」を排除して、限られた作物だけを育てる「極度に特異な場所」にほかならない。それが地表の一角――著者が引く統計では陸地の15%――を占めて、「自然のダイナミックな均衡と進化」を阻害しているという(当欄2021年5月21日付「石さんが砂について書いた話」参照)。

気候変動に論及したくだりもある。「宇宙船でいえば、エアコン装置を破壊するようなことを、現に我々はやりつつあるのだ」。ここでは、地球の温暖化と寒冷化の両方が語られており、温暖化については原因の一つが「炭酸ガス」(二酸化炭素)の「温室効果」であることに触れている。温暖化がメディアで大きく扱われるようになったのは1980年代後半からだ。この点でも、著者の知的関心は未来の論題を先取りしていたのである。

立花さんの宇宙は、夢の宇宙でないばかりか実在の宇宙でもなかったように私には思える。それは、人間が地球に生存することの幸運を実感できる脳内空間ではなかったか。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年7月2日公開、同月9日最終更新、通算581回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

「識者」ファインマンの闘いに学ぶ

「ファインマン氏、ワシントンに行く――チャレンジャー号爆発事故調査のいきさつ」
=『困ります、ファインマンさん』(リチャード・P・ファインマン著、大貫昌子訳、岩波現代文庫、2001年刊)所収

氷水

コロナ禍で問われているのは、専門家と政治家の関係だ。政治家は、次の一手を聞かれると「専門家の意見をうかがって決める」と言う。ところが実際には、その真意を汲みとらないことがままある。都合のよいところだけつまみ食いしたりするのだ。

専門家という言葉にも罠がある。専門家とは、特定の分野に通じた人のこと。だから、A分野のことを聴きたければ、Aの専門家を集めなければならない。B分野ならB、C分野ならCだ。ところが現実にはA、B、Cの専門家が一堂に会して、バランスよく結論をまとめることになる。これは、専門家というよりも有識者の集団だ。世論が二分される問題で合意点を探るのなら話は別だが、危機に直面して専門知を求めているときには不向きだ。

去年夏、コロナ対策をめぐって医療か経済かという二項対立が際立ったとき、私は朝日新聞の言論ウェブサイト「論座」(2020年7月24日付)に「コロナ対策、いま必要なのは『識者会議』か?」という論考を書いた。必要なのは「分科会」という名の識者会議ではなく、政策判断に直接の助言を与える実働集団だ。医療系、経済系それぞれの専門家集団が連携して、人々の接触機会の節減目標などを試算すべきではないか、と主張したのである。

1年たって、状況は変わった。医療か経済かの二項対立は薄れ、医療崩壊を抑えることが経済回復への近道との見方が広まっている。その結果、専門家の声がまとまりやすくなり、政府を動かす局面もあった。だが、事がオリンピック・パラリンピックの開催にかかわるとなると、政府はかたくな。専門家の意見をつまみ食いして済まそうとしている気配が濃厚だ。再び、識者会議の弱点を見せつけているとは言えないだろうか。

そんなことを考えていたら、この話にも例外があることに気づいた。識者として呼ばれ、おそらくは大所高所の議論だけを求められていたのに、自ら実働集団の役目まで果たした人がいた。米国の理論物理学者リチャード・P・ファインマン(1918~1988)である。

で、今週は「ファインマン氏、ワシントンに行く――チャレンジャー号爆発事故調査のいきさつ」(『困ります、ファインマンさん』〈リチャード・P・ファインマン著、大貫昌子訳、岩波現代文庫、2001年刊〉所収)。著者は、素粒子論など理論物理学が専門。1965年、朝永振一郎らとともにノーベル物理学賞を受けた。この一編は1986年、スペースシャトル・チャレンジャー事故の調査を担う大統領委員会に加わったときの体験記である。

事故は1986年1月、チャレンジャーの打ち上げ直後に起こった。爆発で機体は壊れ、乗組員7人は帰らぬ人となった。固体燃料ロケットの継ぎ目付近に欠陥があったことが、しだいにわかってくる。その事故を調べたのが、この委員会だ。委員長は元国務長官のウィリアム・ロジャーズ弁護士。委員13人の大半は理系で、軍人や雑誌編集者もいる。だから、専門家会議というよりも識者会議に近い。著者も、宇宙工学のことでは門外漢だった。

委員会は、この年の6月まで続き、最終報告書をまとめた。そこでは、著者自身の「報告」が「付録」扱いとなった。いわば、少数意見の併記。著者は持論を譲らなかったということだ。委員会では、その存在感をフルに発揮したのだとも言えよう。

著者の委員としての動き方を知って敬意を禁じ得ないのは、二つのことだ。一つは、自分は専門家ではない、と強く認識していること。もう一つは、にもかかわらず、いや、だからこそ、専門家の話を遠慮することなく聴きまくっていることだ。

それは、事前準備の段階から見てとれる。著者は2月上旬、初会合のために夜行便でワシントンへ向かう当日、地元パサデナで動きだす。勤め先のカリフォルニア工科大学は、米航空宇宙局(NASA)の研究を担うジェット推進研究所(JPL)を運営している。そこで、シャトルに詳しい技師の一人ひとりから、知っていることを洗いざらい聞きだしたという。「とにかく彼らはシャトルのことなら隅から隅まで知りぬいていた」と驚嘆している。

このときに書きとめたメモの2行目に「Oリングに焦げ跡を発見」とある。「Oリング」は、問題の継ぎ目部分にぐるりと巻かれた合成ゴムの密封材だ。チャレンジャー事故の調査でにわかに世に知られるようになった。朝日新聞の当時の報道では、大統領委員会でも2月中旬に「Oリング」という用語が登場しているが、著者はそれに先だって、Oリングがシャトルの要注意箇所らしいとの知識を自前の聞き込みで仕入れていたのである。

Oリングに目をつけた委員の一人に空軍高官のドナルド・クティナ氏もいる。初会合の日、地下鉄で職場に帰ろうとしている姿を見て「運転手つきの特別車なんぞにふんぞり返って乗りたがる軍人どもとは大違いだ」と著者は好感を抱く。こうして二人は仲良くなる。

ある日、そのクティナ氏から電話がかかってくる。「実は今朝、車のキャブレターをいじっているうちにひょいと思いついたんですがね」「先生は物理の教授でしょう。いったい寒さはOリングにどんな影響を及ぼすものですか?」(太字箇所に傍点)。事故は極寒の日に起こっているから「目のつけどころ」の良い質問だ。著者は「硬くなるはず」と即答した。それにしても、車をガチャガチャやっているときに頭が冴えるとは米国人らしい。

Oリングについては、著者自身の武勇伝もある。委員会の席で実験をやってのけたのだ。同様のゴム材を手に入れ、工具で締めつけて氷水に浸けた。しばらくして水から取りだすと、工具を外しても形が元に戻らない。「この物質は三二度(セ氏〇度)の温度のときには、一、二秒どころかもっと長い間弾力を失うということです」。余談だが、この日は前回の会議で委員席に置かれていた氷入りの水が配られておらず、あわてて注文したという。

こうして、Oリングの低温による硬化が密封機能を弱め、事故の引きがねになったことがわかってくる。これは著者の手柄話のように巷間伝えられたが、この体験記は、それもクティナ氏が「手がかり」をくれたからこそ、とことわっている。著者は公正な人だった。

もう一つ、著者の面目が躍如なのは、NASAがシャトル打ち上げの失敗率を低くみている事実を突きとめたことだ。技術者の一人は、それを1%(100回に1回)とはじき出していた。無人ロケットの実績をもとに、有人飛行時の安全対策も見込んで試算したという。ところがNASA上層部は、失敗は「10万回に1回」と言い張った。これだと1日1回打ち上げても300年間は成功が続くことになる、と著者はあきれる。

ちなみにこの技術者は、シャトルが上空で制御不能になる事態を想定して、墜落による地上の被害を小さくするために機体を爆破する装置を積むかどうかを決める立場にあった。技術者は任務を果たすために、失敗のリスクを直視しなくてはならないのである。

理系の有識者が果たすべきは、こうした理系思考を報告や提言や答申に反映することにあるのだろう。著者は、NASAの「10万回に1回」論を追及していくが、先方も譲らない。著者が米国の宇宙開発に対して抱いた最大の違和感は、ここにあったように思う。

苦笑いしたのは、忖度というものが米国にもあることだ。著者によれば、NASAではこんなことが起こっているらしい――。シャトル計画の予算を議会で通すには、それが安全で経済的であると言わなくてはならない。だから、上層部は「そんなに何回も飛べるわけがありません」という現場の声を聞いたとたん、議会で嘘をつく立場に追い込まれることになる。現場は、上層部から疎ましがられたくないから黙る。これが、NASA版の忖度だ。

2年後、著者は永眠した。素粒子だけでなく、官僚の振る舞いまで見抜いた最晩年だった。有識者とはこういう人を言うのだろう。お見事ですね、ファインマンさん!
(執筆撮影・尾関章)
=2021年6月25日公開、同年7月9日更新、同月9日更新、通算580回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。