今週の書物/
『コロナの時代の僕ら』
パオロ・ジョルダーノ著、飯田亮介訳、早川書房、2020年4月25日刊
コロナ禍の巣ごもりで、ネット通販サイトに入り、読みたい本を漁っていたら、「コロナの時代……」という字面が目に飛び込んできた。「コロナ」とは、もともと光の環。太陽の周りの輝きだ。悪い意味はない。クルマの名前になった。ビールの銘柄にもなっている。旧刊本が書名に比喩として用いているのだろうと思った。ところが刊行日を見て、クラクラとなった。つい、先日ではないか。「コロナの時代」とは、まさに今のことだった。
驚くのは、それがハードカバーの単行本であること。大事件を受けて手っ取り早くまとめあげた緊急出版、という感じがまったくない。しかも、翻訳本だ。著者が執筆して訳者が翻訳し、それを校正して……そんな工程を思い描き、あまりの早業に圧倒された。
著者名を見て、もう一度驚かされる。パオロ・ジョルダーノ……どこかで見た名前ではないか。そう、かつて私が新聞の読書面で書評した小説の作者だった。イタリア・トリノ大学の大学院で素粒子物理を専攻した理系出身の作家である。その小説は『素数たちの孤独』(パオロ・ジョルダーノ著、飯田亮介訳、早川書房)。拙稿は「理系男は、どうしてこうも不器用なのか」(朝日新聞2009年8月2日付朝刊)という一文で始まっている――。
孤独な人間が心を通わせることを、素数同士の関係のありようになぞらえた作品だった。素数を2、3、5、7、11、13、17……と順に並べていくと、2と3を例外として決して隣りあうことがないのである。
あの小説の書き手が、このコロナ禍をリアルタイムで語っているとは! それは、私の心を強くとらえた。著者の早書きに倣って、私も早く読み込みたい。で、今週は『コロナの時代の僕ら』(パオロ・ジョルダーノ著、飯田亮介訳、早川書房、2020年4月25日刊)。
この本はエッセイ27編から成るが、邦訳版には新聞への寄稿1本も加わっている。訳者あとがきによると、エッセイは今年2月29日から3月4日までに集中執筆されたという。イタリアで新型コロナウイルス感染症の累積感染者数が1000人余から3000人余に急増したころだ。寄稿記事は有力紙「コリエーレ・デッラ・セーラ」(2020年3月20日付)に掲載されたもの。すでに感染者が累積4万7000人に達し、死者も4000人を超えていた。
この経緯からわかるように、エッセイと寄稿記事は雰囲気がガラッと変わっている。前者は、不安を打ち明けながらも事態を冷静に読み解いている。ところが後者は、論理を踏まえながらも自らの主張を叫びのような痛切さをもって訴えかけているのだ。
ここでは、前者を中心に読みどころを拾いあげていくことにしよう。なぜなら前者からは、感染拡大が身辺に押し寄せようとしていたころ、著者が事象の本質を見抜いていたことがうかがえるからだ。
「感染症の数学」という一編で、著者はこう書く。「ウイルスの前では人類全体がたった三つのグループに分類される」。3群は「まだこれから感染させることのできる人々」「すでに感染した感染者たち」「もう感染させることのできない人々」。著者が注意を促すのは、一つめの群が圧倒的に多いことだ。執筆時点で新型コロナウイルスに感染可能な人々は「七五億人近く」――ほぼ、全人類ではないか。(*この本は、三つめの群を「犠牲者」と「回復者」としているが、再感染があるとすればそう言い切れなくなる)
次の一編は「仮に僕たちが七五億個のビリヤードの球だったとしよう」の一文で書きだされる。球の一つひとつが、感染可能な人に相当する。一つの球を突くと、それは二つの球を弾いて止まる。弾かれた球は、それぞれが別の二つの球を弾き……という連鎖が生まれたとしよう。これこそが「感染」だ。「感染症の流行はこうして始まる」「初期段階には、数学者が指数関数的と呼ぶかたちで感染者数の増加が起きる」というのである。
この一編には「再生産数」という言葉が出てくる。事象の連鎖によるふえ方を数値化したもので、前述ビリヤードの例では再生産数=2。著者は、今回の感染禍の3月時点の再生産数も書いているが、それは確定値ではないので引用は控えよう。
ここで著者が強調するのは、再生産数が1より小さければ「伝播(でんぱ)は自ら止まり、病気は一時(いっとき)の騒ぎで終息する」が「ほんの少しでも1より大きければ、それは流行の始まりを意味している」ということだ。これは数理の掟と言ってよい。
今回の感染禍で、もともとの再生産数が1を超えることは、ほぼ間違いない。だからこそ、感染拡大が収まらないのだ。だが、「希望はある」と著者は断言する。本来の再生産数が1より大でも、現実の再生産数は「僕ら次第」で「変化しうる」。私たちが「伝染しにくい」状況をつくりだすことで「臨界値の1」を下回ることがありうる。「必要な期間だけ我慢する覚悟がみんなにあれば」「流行も終息へと向かうはずだ」――
これこそが今、緊急事態宣言下で私たちが心がけている行動変容なのだろう。旅行や外出を控える、パーティーや飲み会を取りやめる、密を避けて対人距離を大きくとる――大変ではあるが、単純なことでもある。新型コロナウイルスの感染症はワクチンのような予防策がなく、死と隣りあわせの病であることが歴然としているのだから、再生産数が1を超えるとわかった時点で「我慢」を徹底させるべきだったのだ――読んでいて、そう悔いる一節だ。
話を横道にそらすと、このあたりの考察はさすが物理系の人だな、と思わせる。感染が再生産されるしくみは、粒子の動きを記述する物理学に一脈通じる。ただ、粒子の現象は理論を逸脱しないが、感染の様相は人間の意志で変わる。著者は、この一点を押さえている。
この本には、人々が陥りやすい心理の落とし穴を理系の視点から指摘したエッセイもある。私たちは毎日、テレビのニュースで感染者数のグラフを見せられ、その増減に一喜一憂している。きのうが10人、きょうが20人だとすると、あすは30人と思いがちだが、そこに罠があるというのだ。「自然は目まぐるしいほどの激しい増加(指数関数的変化)か、ずっと穏やかな増加(対数関数的変化)のどちらかを好むようにできている」
感染禍について言えば、再生産数は人間によって変えられるが、感染の連鎖そのものは自然界の摂理から逃れられない。足し算ではなく掛け算の効果が卓越するのだ。
一人ひとりの心がまえに踏み込んだ一編もある。たとえば、友人の誕生パーティーをめぐる思考実験。出るか出ないかで迷うとき、頭の片隅で悪魔がささやくこともあろう。招待客の多くが欠席すれば、混雑しないから出席しても大丈夫――だが、みんなが同じようにそう考えたらどうなるか。最良の選択とは「自分の損得勘定だけにもとづいた選択」ではなく、「僕の損得とみんなの損得を同時に計算に入れたもの」でなければならない、という。
別の一編では、米国の物理学者の名言「多は異(い)なり」(More Is Different)を引いている。その人は、フィリップ・ウォーレン・アンダーソン。残念なことに、著者がこのエッセイ集を書き切ってまもなく、3月29日に96歳で死去した。物性物理学の研究者で、著者とは専門が異なる。「多は異なり」の文言は、米科学誌「サイエンス」1972年8月4日号に発表した論文の題名である。
これは、物理世界は個々の粒子を知るだけでは理解できないことを指摘した警句だが、著者はその趣旨を今の私たちに移しかえる。「ひとりひとりの行動の積み重ねが全体に与えうる効果は、ばらばらな効果の単なる合計とは別物」。まさに至言と言えよう。
私たちは今、家にとどまるだけで感染の再生産数を低下させ、世の中に寄与している。人はみな、個人であると同時に公人なのだ。コロナの春、巣ごもりしながらそう思う。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年5月1日公開、同日更新、通算520回
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