外岡秀俊の物静かなメディア批判

今週の書物/
『3・11 複合被災』
外岡秀俊著、岩波新書、2012年刊

鉛筆1本

メディアが騒がしい時代にも物静かなジャーナリストはいる。記事を書けば、品位がにじみ出る。発言すれば、説得力がある。朝日新聞元記者の外岡秀俊さんは、そんな人だった。去年暮れ、突然の病に倒れ、68歳で死去した。(以下、文中敬称略)

外岡の記者歴はこうだ。1977年、新聞社に入り、二つの地方支局を経験、その後、学芸部や社会部に籍を置いた。ニューヨークとロンドンに駐在経験もある。特筆すべきは、デスク(出稿責任者)や部長などの中間管理職を経ることなく、編集局長に就いたこと。退任後は編集委員として第一線に戻った。この時代だから執筆は打鍵によるが、昔風に言えば「鉛筆1本」の記者生活を貫いた。2011年、介護のために早期退職、故郷の札幌に住んだ。

私にとって外岡は入社同期生。記者部門は30人ほどいたが、外岡は最初から有名人だった。東京大学在学中の1976年に『北帰行』という小説で文藝賞を受け、作家デビューしていたからだ。その作品は、石川啄木の足跡をたどる青年の物語。同じ年に芥川賞を受けた村上龍の『限りなく透明に近いブルー』とは対極の空気感だ。外岡自身も1970年代風の若者ではなかった。貴公子然とした姿が女性誌のグラビアを飾るのを見た記憶が私にはある。

そんなこともあり、外岡は別格の同期生だった。たとえば最近、私たちの同期会は彼が東京にいる日に合わせて開かれた。記者という生きものは競争心のかたまりなので、自分を同期の仲間と比べたがるものだが、彼をライバル視する向きは皆無だった。理由には、彼が傑出した記者だからということがある。だが、それだけではない。彼の言動からは、世俗的な野心が微塵も感じとれなかったのだ。際立つのは記者精神のみだった。

その記者精神は、あくまでも「外岡流」のものだ。そこからは、肩をそびやかして巨悪に立ち向かう昔風の記者像は感じられない。当世風の記者のように弱者に目を向けるが、ただ寄り添うだけでは終わらせない。筋が一本通っているのだ。弱者を苦しめるものの正体を見定めることを決して忘れない。取材先には礼節をわきまえ、穏やかな態度で接するが、胸のうちは批判精神に満ちている――それが「外岡流」と言えるだろう。

で今週は、そんな「外岡流」を彼の著作から抽出してみる。手にとったのは、東日本大震災の1年後に出た『3・11 複合被災』(外岡秀俊著、岩波新書、2012年刊)である。

著者(外岡)は、早期退職の直前に大震災に遭遇した。発生直後から被災地を取材、社を去っても「フリーの立場」でそれを続行したのである。この本では、「生と死の境」「自治体崩壊」「原発避難」……などと題する各章の冒頭に著者自身の取材報告(ルポ)を置き、そのあと災害の構図を関係機関の文書などをもとに考察して、教訓を紡ぎだしている。ルポの一部は、朝日新聞本紙や『アエラ』『世界』両誌に載った記事をもとにしたものだ。

「外岡流」はこの本の随所に見てとれるのだが、今回は一つだけを切りだそう。「最悪の事故」と題する章の書き下ろしルポである。焦点が当たるのは双葉病院。東京電力福島第一原発の膝元福島県大熊町にあり、地震直後に停電や断水に見舞われ、さらに被曝禍の追い討ちに遭った。入院患者たちは転院先を求めて一時難民状態となり、この本によれば、2011年3月末までに40人が落命した(提携する介護老人保健施設の入所者を含めると50人)。

3・11の原発事故は、津波と違って目に見えるかたちで人々の生命を奪うことは少なかったが、例外もある。それが、この双葉病院の悲劇だ。当時の東電幹部に刑事責任を問えるかどうかは別にして、あの事故がなければあの悲惨な死はなかった、とは言えるだろう。

注目したいのは、このルポが静かなメディア批判になっていることだ。著者は、双葉病院の患者に犠牲者が出たことを伝える報道が「病院関係者は患者を見捨てて逃げた」という印象を与えたことが気になった。それは、福島県災害対策本部が示した「見捨てたととられても仕方がない」との認識にもとづいていた。こういうとき、メディアはとりあえず役所の発表に頼らざるを得ない。著者もメディア人なので、そのことはわかっている。

ただ問題は、このとき県本部が事実関係を調べると表明していたのに、調査結果がなかなか出てこなかったことだ。メディアも、この問題の検証にすぐには乗りださなかった。そこで著者が退職まもない身で、院長ら関係者に対する直接取材を重ねたというのである。

著者が、取材で聞いた話をまとめるとこうなる――。双葉病院では地震でただちに電気、ガス、水道が止まった。事務職員らは帰宅させたが、医師7人、看護師64人の大半は勤務を続けた。照明は落ち、心電図も使えない。暖房も切れたので、病棟はダルマ式ストーブで寒さをしのいだ。夜には固定電話も携帯電話もつながらなくなった。手当てが必要な患者は一カ所に集められ、点滴などの処置はペンライトを頼りに続けられたという。

12日早暁、大熊町の防災無線が「全員避難」を告げる。病院職員は町役場に走って、避難用バスの手配を頼んだ。県外から観光バス5台が迎えに来たのは昼前。このときに避難できたのは、入院患者のうち歩くことができる209人。一行には、医師3人を含む職員数十人も付き添った。これが「第一次避難」だ。残されたのは、動けない患者131人と老健施設の入所者たち。院長ら医師2人と総務課長ら職員の一部は居残った。

このあと院長らは交代で病院を出て、さらなる避難の手立てを確保しようと奔走した。自衛隊の姿を見かけて救援を求めると、夜になって自衛官と警察官が二人連れで来院した。翌13日に救出するとのことだったが、結局は空手形。院長らは13日夜も事務室に泊まり込んだ。「これから迎えに行く」と連絡があったのは、14日早朝。まず警察が、次いで自衛隊が駆けつけた。この「第二次避難」で、患者34人と老健施設の入所者全員が病院を出た。

残されたのは計算上、患者97人。だが、この避難までに院内で絶命した人もいるので、著者は「約九〇人」と書いている。この人たちが一時、孤立状態に置かれたのは事実のようだ。それには事情がある。福島第一原発では、12日午後の1号機水素爆発に続いて14日午前中に3号機も同様の爆発を起こしたのだ。院長らはその夜、警察署から「緊急避難だ。すぐ車に乗れ」と促され、警察車両に分乗、町外退避を余儀なくされたというのである。

途中、自衛隊とともに病院へ戻るという話になったが、うまく合流できなかった。警察幹部からは、病院に残る患者は「自衛隊に任せるしかない」と告げられたという。これを受け入れたことには議論の余地があるかもしれない。だが著者は「院長らは、第二次避難に立ち会っただけでなく、その後も避難を続行しようと最大限の努力をしていた」と弁護する。病院が「患者を見捨てた」という認識は、こうした経緯を見ていないというのだ。

著者は、病院で第二次避難がどんな手順で進められたかを細部まで描写している。警察の指示で、まずは患者たちに防護服を着せた。被曝を避けるためだ。院長ら病院職員も防護服を着させられ、患者のオムツを換えたり、点滴装置を外したりした。警察官は患者たちをストレッチャーで病院の出口まで運び、そこからは自衛官に任せた。ちなみに、防護服の着用について自衛隊は「必要ない」と言っていた。現場は相当混乱していたらしい。

私が感心するのは、著者が院長ら病院関係者の「証言」を自らの目で確認しようとしていることだ。2011年12月、「警戒区域」にある双葉病院を現地取材して「残留物やストレッチャーの位置などから、その証言に偽りがないことを確信した」という。

双葉病院にとり残された患者は最終的に自衛隊に救いだされた。だがそれを待てず、院内で亡くなった人がいる。避難時の「移動中」に、あるいは「搬送先」で息絶えた人もいる。著者は、重症の患者たちがただでさえ死と隣り合わせなのに原発事故の被曝禍という未知の災厄に直面して死の淵に追い込まれた顛末を克明に記している。その誠実な筆致に触れると、渦中にいて「最大限の努力」をした人々に責めを負わせる気にはなれない。

双葉病院の避難をめぐる報道に対しては、著者が書いているように2011年秋ごろからメディア内にも検証の動きが出ている。コロナ禍の医療危機で私たちが似たような混沌を目の当たりにしている今、外岡秀俊の物静かなメディア批判に改めて耳を傾けたい。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年2月4日公開、同日更新、通算612回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

メルケルは原発を「倫理」で裁いた

今週の書物/
『なぜメルケルは「転向」したのか―ドイツ原子力四〇年戦争の真実』
熊谷徹著、日経BP社、2012年刊

緑の思想

元新聞記者には悲しい性がある。テレビのニュースを見ながら「この人のこと、よく知っているよ、無名のころからね」と自慢してみたりする。去年暮れ、政界を引退したドイツの前首相アンゲラ・メルケルさんも、私にとってはそんな自慢の種だ。もっとも、「無名のころから」「よく知っている」とは到底言えない。ドイツ国外で知名度がまだ低かったときにちょっと見かけたことがある、という話だ。だが、それはとても印象深い。

1995年4月、ベルリンでは第1回気候変動枠組み条約締約国会議(COP1)が開かれていた。この会議は脱温暖化の国際合意をめざしている。ベルリン後、年に1度ずつ回を重ね、今では各国の首脳級が顔を見せるほどの大舞台になっている。これまでに「京都議定書」や「パリ協定」をまとめてきた実績もある。だが、第1回は暗中模索の状態にあった。このときにドイツの環境相で、会議の議長を務めたのがメルケルさんだ。当時は弱冠40歳。

会議では、二酸化炭素(CO₂)など温室効果ガスの排出削減を2000年以降にどう進めるかが焦点だった。小さな島嶼国は、海面上昇への危機感から厳しい削減目標を求めた。米国などの先進工業国は、削減のために石油依存を改めることに消極的だった。インドなどの新興工業国は、大幅削減は先進工業国から、と言い張った。産油国は、脱石油の機運を警戒していた。こんな混迷のなかで、メルケルさんはホスト国の立場から合意点を探ったのだ。

私は当時ロンドン駐在で、ベルリンに出張して会議を取材した。このときに気づいたのは、メルケルさんが目を真っ赤にしていたことだ。やがて、その理由が噂話として報道陣にも伝わってくる。連日連夜、水面下の交渉を重ねて寝不足だったらしい。

COP1は結局、具体的な削減目標を決められなかった。ただ、2年後の第3回会議(COP3)までに目標を盛り込んだ文書をまとめることで合意した。期限を定めたことの意味は大きい。実際、京都で開かれたCOP3では京都議定書が採択されたのである。

そのメルケルさん(以下は敬称略)が2005年、保守政党キリスト教民主同盟(CDU)の党首として総選挙に勝った。以来16年間、政権を担ったのである。ドナルド・トランプ前米大統領に象徴される自国第一主義が世界を席巻した時代、それに抗して国際協調にこだわり続けた人である。私には、その政治姿勢がCOP1議長としての奔走ぶりとダブって見える。ただ、存在感を示したのはそれだけではない。もう一つ、特記すべきことがある。

それは、2011年3月11日に東日本大震災があり、東京電力福島第一原発の事故が起こったときの対応だ。翌12日にドイツ国内の原発総点検を表明、15日には古い原発の一時停止を決めた。そして6月、国内全原発の2022年までの閉鎖を閣議決定したのである。

これは二つの点で驚きだった。一つには、遠い国の事故に敏感であったこと。もう一つは、自身が決めた原発政策を覆したことだ。メルケル政権は当初、社会民主党(SPD)と大連立を組み、それまでSPDと緑の党の連立政権が進めていた脱原発路線を踏襲していたが、2009年の大連立解消後は原発容認に傾き、2010年秋には国内原発の運転延長を決めていた。それからわずか半年で再びの方針転換。朝令暮改の感は否めない。

メルケル自身の説明によれば、「日本という高度な技術水準を持つ国」で事故が起こったことで、原発に「予測不能なリスク」があることを認識したからだという(2015年の来日時、朝日新聞社主催の講演会での発言=在日ドイツ大使館のウェブサイトで読める)。ただ、それだけで重要政策を反転させたりはしないだろう。たぶん、本人の思考様式にもドイツ社会の思想風土にも素地があったのだ。本稿では、そこのところを探りたいと思う。

で、今週は『なぜメルケルは「転向」したのか――ドイツ原子力四〇年戦争の真実』(熊谷徹著、日経BP社、2012年刊)。「転向」の語感からメルケル批判本と受けとられかねないが、それは違う。一読すると、彼女の「転向」を賢明な選択とみていることがわかる。

著者は1959年生まれのジャーナリスト。NHKの国際記者としてワシントンに駐在、ベルリンの壁崩壊の報道などに当たった。1990年からフリーランスとなり、ドイツのミュンヘンに住んで、欧州の政治経済やエネルギー、環境問題を取材してきた。

この本は第1章で、福島第一原発事故がドイツ国内でどれほど大きなニュースとして報じられたかを報告している。人々は1986年の旧ソ連・チェルノブイリ原発事故を鮮明に記憶しており、福島事故を「我がことのように」感じたのである。有力紙には“Tokio in Angst”(「不安におののく東京」)という見出しが躍り、「福島から一万キロも離れているにもかかわらず、放射線測定器やヨード錠剤を買い求める人が続出した」という。

この不安は民意となって表れた。福島事故の約2週間後、バーデン・ヴュルテンベルク州の州議会選挙で原発問題が争点となり、脱原発を掲げる緑の党(正式には「連合90・緑の党」)が得票率を倍増させて、SPDとの連立で州首相の椅子を勝ち取ったのだ。

さらに4月、著者にとっても「大変意外」なことが起こる。電力企業を含む「ドイツ・エネルギー水道事業連合会(BDEW)」が、「電力の安定供給」などを条件に「原発の完全廃止に合意する」と言明したのだ。2023年までに、とした。メルケル政権が2カ月後に発表した期限より1年遅いだけだ。福島事故で原発反対の世論は極限まで高まった。これを受けて産業界も動きだした。メルケルの脱原発は、お膳立てができていたとも言えそうだ。

第2章は、ドイツ政界で西独時代の1970年代から繰り広げられてきた原子力問題の攻防を要約している。ここで注目すべきは、1980年に誕生した緑の党の存在だ。この党はただ、原発に反対するのではない。主張の背景には「エコロジー」という新思想があった。

では、エコロジーとは何か。著者によれば、それは「環境保護政策」の枠組みを超え、「人間の生き方そのもの」にかかわる。緑の党発起人の一人は、エコロジーを「人間の存在を自然環境の文脈の一部と考える」哲学と定義したという。ここから、党が掲げた「我々は地球を、我々の子どもたちから預かったにすぎない」というスローガンが生まれてくる。私たちには「子どもたちに美しい環境をそのまま引き継ぐ義務がある」ということだ。

この本の更なる読みどころは、メルケル政権が、どんな手順で脱原発を決断したかを解説した第3章だ。メルケルは、二つの委員会の助言を聴いたという。

一つは原子炉安全委員会。原子力技術者らでつくる既存の組織だ。福島事故後、ドイツの全原発に対して電力会社の提出データをもとに「ストレステスト(耐性検査)」をおこなった。地震、洪水、停電、航空機事故、テロ……など10項目の危険要因に対して、どれだけ耐えられるかを数値によって表す試みだ。2カ月後には「ドイツの原発は、航空機の墜落を除けば、比較的高い耐久性を持っている」などとする「鑑定書」を出した。

もう一つは、メルケルが新たに設けた「安全なエネルギー供給に関する倫理委員会」。こちらは、人文社会系の学者や宗教家など原子力技術とは無縁の人が大勢を占める。著者も書いているように、臓器移植や着床前診断など医療に対する倫理委に似ている。政府内部にも、エネルギー問題になぜ倫理委か、と首をひねる見方はあったらしい。だが、原発事故には「多くの国民の健康に影響を与える可能性がある」とする理屈が通ったという。

この倫理委員会も2カ月後に「提言書」をまとめている。「福島事故は、原発の安全性について、専門家の判断に対する国民の信頼を揺るがした」と分析、原子力のリスクとどう向きあうかという問題は「もはや専門家に任せることはできない」との立場を明確に打ちだしたものだ。委員会内の合意点として「経済、社会、あるいは環境に著しい悪影響が生じない限り、原子力の使用をできるだけ早くやめる」との結論をまとめている。

ここで言い添えたいのは、著者が倫理委の結論について、「細かいデータやシミュレーションによって裏打ちされた分析結果ではない」と敢えてことわっていることだ。私も提言書からの引用を読んで、データよりも思想が際立っているな、という印象を受ける。

たとえば、提言書では「自然環境を自分の目的のために破壊せず、将来の世代のために保護する」責務が私たちにはある、という見解が示されている。根拠として「キリスト教の伝統とヨーロッパ文化の特性」を挙げているところは、旧来の保守思想と響きあっている。だが、この理屈づけを度外視すれば、緑の党の思想にそっくりではないか。エコロジーは緑の党だけのものではない、ということを如実に物語っているように私は思う。

興味深いのは、メルケルが二つの委員会のうちの後者、すなわち倫理委の結論を選択したことである。この事情を著者はこう読み解いている。メルケルは福島事故後、政治家として「政治的な生き残り」には脱原発しかないことを直観した。脱原発を決意はしたが、「独断で決めた」とは思われたくない。そこで「原子力について厳しい見方を持つ知識人を集めて倫理委員会を作り、急遽、提言書をまとめさせた」のではないか――。

これに100%は同意しないが、かなりよいところを突いてはいるだろう。ただ、彼女の決断を、政治家のしたたかさだけで説明づけて終わりにしたくはない。

メルケルは東ドイツにいたころ、物理学の研究者だった。福島事故に「予測不能のリスク」を見てとったのは、事実の前には謙虚でなければならないという科学者の良心の表れだろう。だが、彼女はそれだけの人ではなかった。科学技術政策には理系知だけでなく文系知も欠かせない、という見識を併せもっていたのだ。だからこそ、原発の是非を倫理委員会に諮ったのではないか。日本社会の原発論議に抜け落ちた視点がここにはある。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年1月28日公開、通算611回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

宗匠のかくも過激な歌自伝

今週の書物/
歌集『202X
藤原龍一郎著、六花書林、2020年3月刊

時の流れ

趣味で俳句をつくっていると、短歌がぜいたくに思えてくる。7+7=14音分だけ言いたいことが言える、季語も気にしないでよい――素人には、この自由度がうらやましい。だが、句づくりを重ねていると、これらの制約が俳句の醍醐味らしいとわかってくる。

翻って、短歌の魅力は何か。俳句と比べてみよう。俳句は原則5+7+5=17音なので、言葉をどう削り込むかに作者は腐心する。削られやすいのは、詠み手の内面描写。物体をどんと置く、風景を一望する、出来事にめぐり遭う……それをどう受けとめるかは受け手の側に委ねましょう、といった感がある。ところが短歌は違う。作者の心模様を包み隠さずに表現できる。ときに物体や風景や出来事が内面と絡みあう様子まで露わになるのだ。

ただ、いにしえの和歌では内面と絡みあうものが自然界の事物であることが多かった。詠み手はまず花鳥風月を愛で、それに重ねるように心情を紡いでいたように思う。ところが、現代短歌は違う。作者は人の世のすべてを視野にとり込んでいる。

つまりは、任意性が大きくなったのだ。家庭内の些事が詠まれる。職場の日常が題材になる。街の景色が素描されることもある。そうかと思えば、いきなり国際情勢のニュースが出てきたりする。あるいは、社会の矛盾が切りだされることも……。ただ、日々の暮らしを描いてもエッセイではない。時事問題に触れても新聞のコラムとは異なる。なぜなら、散文ではなく韻文だからだ。短歌はあくまで詩であって、ふつうの文章ではない。

で、今週は、当欄として初めて歌集を話題にする。『202X』(藤原龍一郎著、六花書林、2020年3月刊)。著者は、前衛短歌の系譜に連なる著名な歌人。短歌作品の合間に織り込まれた自己紹介文をもとに、ウィキペディアも参照しながら略歴を紹介しよう。1952年、福岡生まれ。幼少期から少年期にかけて東京・下町に暮らし、大学を卒業後、ニッポン放送に就職。1990年に「ラジオ・デイズ」30首で短歌研究新人賞を受けている。

実は著者は、私にとっては俳句の先生だ。去年暮れの当欄に書いたように、私はある句会に参加しており、その会に宗匠としておいでいただいている(2021年12月17日付「友の句集、鳥が運ぶ回想の種子」)。すなわち、著者は俳人でもあるのだ。拙稿「友の句集…」に対して感想メールをくださり、併せてご褒美のように、ご自身の歌集を送っていただいた。畏れ多いことだが、そこで今週はその歌集をご紹介することにした。

まずは、宗匠(以下、「作者」と記述)が育った時代の空気から――。
散髪屋にて読む「少年サンデー」の「海の王子」を「スリル博士」を
ラジオから聞こえる歌に声合わせ「黒いはなびら、静かに散った」
『少年サンデー』の創刊も「黒い花びら」の大ヒットも、1959年だった。その春、作者も私も小学2年生。理髪店での楽しみは、長椅子で順番を待つ間の漫画本ではなかったか。店のラジオからは歌謡番組が流れていた。たぶん、水原弘のドスのきいたあの声も。

ミラクルボイス練習したる少年ぞ日光写真の少年ジェット
同じ年、テレビドラマ「少年ジェット」の放映が始まった。私たちはジェットをまねて「ウーヤーター」の奇声を発したものだ。そういえば、雑誌の付録に「日光写真」というものがあった。ブラウン管であれ感光紙であれ、像が浮かびあがればそれだけで嬉しかった。

次に、作者が父を詠んだ歌を2首。
後楽園球場巨人国鉄戦見つつホットドッグを父と食みしよ
野球馬鹿とぞ思いおりしに父親の遺品の中の『共産党宣言』
私たちの父親はだれも、戦中戦後をくぐり抜けている。だが、父の姿が記憶に鮮明なのは、巨人でONが打ち、国鉄で金田が投げていたころからだ。高度成長を担った父も青年期には左翼本をかじっていたのか?  焼け跡の青空は、私たちの世代の手に届かない。

作者の原風景は、東京・深川である。
縦横に運河ははしり右左東西南北橋は架かるを
同級生チノ・タケシ君イカダから運河に落ちて溺死せし夏
子どもは水が好き。私は東京西郊で育ったので、身近な水辺は宅地の下水を集める農業用水だった。ヘドロまみれで遊んだこともある。運河の町では、その水がときに牙をむく。歌集にはチノ君の母の号泣を詠んだ歌も。心に刻まれた友の名は永遠に消えない。

橋渡り北へ向かえば旧洲崎遊郭にしてそのパラダイス
この歌集には運河周辺の夕景を描いた一文も織り込まれている。昭和32(1957)年、作者は5歳。「『洲パラダイス崎』という順番に字が並んでいる洲崎パラダイスのネオンが点る」と「逃げるように洲崎弁天の境内を抜けて」帰宅した。1957年は売春防止法の施行年。猶予期間を経て翌年、「遊郭」は消滅した。今思えば、これは日本社会にとって、終戦に比するほどの転換点ではなかったか。作者は物心もつかぬまま、それを目撃したのだ。

青春期にも、私と共有する記憶がある。
銀幕に孤独孤絶のヒロインの凛々しき黒衣まばゆき裸身
国家こそ暴力装置この闇にさそりの毒のみなぎる棘を
「女囚さそり」と題する章に収められた2首。章の末尾で作者は、1972~73年に封切られた映画「女囚さそり」三部作(伊藤俊也監督、東映)への共感を綴っている。「梶芽衣子扮する女囚松島ナミが国家権力を象徴する刑務官や警察官僚たちから凄絶なリンチを受けながら、捨て身の反撃で復讐をなしとげる」――その構図は、当時の若者の心情をくすぐった。私自身もオールナイト上映を、どこかの町の場末の映画館で観た記憶がある。

それでは、今の日本社会はどうか。
或る朝の目覚めの後の悲傷とて歌人十人処刑のニュース
昨今、朝方のテレビ画面に流れるニュース速報に死刑執行の発表がある。報道から、凶悪犯罪を許さないとの決意は伝わってくるが、国家が人間の生命を絶つことへの躊躇は感じとれない。作者は、197X年と202X年の落差にたじろいでいるように見える。

オーウェルの『一九八四年』が日常と混濁し溶解し我も溶けるを
この歌集の通奏低音はジョージ・オーウェル『一九八四年』(1949年刊)だ。このディストピア小説を作者が読んだのは1968年。高校生だった。その時点で「近い未来にこんな統制された社会が実現するとは思えなかった」と「あとがき」にはある。

『一九八四年』の管理社会を支配するのは、「ビッグ・ブラザー」という独裁者だ。実在しているのかどうかさえ曖昧な存在だが、頭に思い描けるイメージはある。202X年の管理社会はもっと不気味だ。ロボットや端末機器がペットのような顔をしてなついてくる。
それからはネコにルンバに監視されイヌにスマホに密告されよ

“Good Afternoon TOKYO”と題する章には、飼いならされた私たちの自画像がある。喫茶店は、おひとりさま席が並ぶコーヒーショップに取って代わり、男も女も「画面」と対話している。「死を忘れるな」と言われるまでもなく生気を欠き、沈滞のなかにいる。
まずは「タリーズにて」――
カフェオレを飲む間にスマホ画面にはピエール瀧の動画がよぎる
次いで「エクセルシオールカフェにて」――
一心にパソコン画面凝視する男女女男男女男メメント・モリぞ

最後に、切りとられた情景が私の心をとらえて離さない1首。
店頭の均一本は雨に濡れ『ローザ・ルクセンブルクの手紙』
革命家ルクセンブルクの書簡集は、岩波文庫にも収められている。もし古書店の100円均一コーナーで見つけたら、私もきっと手にとることだろう。木箱にぎっしり詰め込まれ、吹きつける風雨にさらされた背表紙が、彼女の抵抗精神とダブって見えるからだ。

前述したように、作者はニッポン放送に勤めていた。その後、フジテレビに移り、扶桑社では執行役員も務めた。これはすなわち、政治的に右寄りといわれるフジサンケイグループの一員だったということだ。その人が青春期、「女囚さそり」に打ち震わせた心を2017年の退職までもちつづけた。葛藤は、歌集の端々からもうかがえる。敬意をもって推察すれば、作者はそぼ濡れたローザ本に自身の姿を重ねていたのではないだろうか。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年1月21日公開、通算610回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

今年の漱石は坊ちゃんの地底体験

今週の書物/
『坑夫』
夏目漱石著、岩波文庫、1943年刊、2014年改版

漱石はなぜ、こんな作品を書こうとしたのか。思わず、そう問うてしまう。物語の主舞台は、東京・山の手の屋敷町ではない。高等教育の学び舎でもない。北関東の銅山だ。主人公の青年は荒くれた男たちの冷たい視線を浴びながら、地底世界を体感する……。

当欄は毎年、年初めに夏目漱石(1867~1916)の作品をとりあげている。その慣例に従って今年選んだ1冊が、『坑夫』(夏目漱石著、岩波文庫、1943年刊、2014年改版)である。1908(明治41)年の長編小説。一読しての印象は、拙稿冒頭の「漱石はなぜ……」という疑問だ。これまで漱石の作品群から感じとってきたのとは異なる空気感が、ここにはある。明治の文豪は不惑の年を過ぎ、一念発起して脱皮をめざしたのだろうか。

『坑夫』は、東京朝日新聞と大阪朝日新聞に連載された。漱石が40歳で大学教師の職を辞して東京朝日新聞に入社した後、紙面を飾った二つめの作品だ。当時の文学界には自然主義の流れがあり、社会の現実を直視する機運も高まっていたから、漱石も新聞社の専属となったことで社会派への転身を図ったのか。だが、前後の作品をみると、そうとは思えない。この作品もまた、漱石らしい漱石文学の一角に位置づけたほうがよいように思う。

そう気づかせてくれたのは、紅野謙介執筆の巻末解説だ。村上春樹『海辺のカフカ』(2002年発表)の主人公カフカ少年が、旅先で行き着いた図書館で館員と『坑夫』について語りあっているという。私は当欄の前身で『海辺のカフカ』を話題にしたが、この場面は気にとめなかった(「本読み by chance」2017年10月20日付「村上春樹の「普通」を再吟味する」)。言われてみれば、両作品には共通点がある。どちらも主人公が家出の身なのだ!

『坑夫』第1~2章(1章は連載1回分)が描く青年の人物像はこうだ。「東京を立ったのは昨夜の九時頃で、夜通し無茶苦茶に北の方へ歩いて来たら草臥れて眠くなった」。宿代の準備がないから、神社で仮眠している。家を出たのは「いさくさ」(いざこざのこと)があったから。「片附かぬ不安」がある、「生甲斐がない」が「死にきれない」、だれもいないところへ行って「たった一人で住んでいたい」――そんな心模様で出奔中なのだ。

事態が動くのは第3章から。「自分」、すなわち主人公の青年が「只暗い所へ行きたい、行かなくっちゃならない」と思って歩いていると、後方に声をかけてくる者がいる。通りがかりの茶店にいた男だ。店から出てきて「御前さん、働く了見はないかね」……。

「大変儲かるんだが、やって見る気はあるかい」。そう言われて「自分」はすぐに「ええ、遣って見ましょう」と応じる。男は長蔵という名で、北関東の銅山――「注」によれば、栃木県・足尾銅山とみてよいようだ――の労働者をかき集める「ポン引き」だった。長蔵は、自分の周旋なら「すぐ坑夫になれる」、坑夫になれば金が「唸る程溜る」……と夢物語をしゃべり続ける。「自分」は決してそうは思わないが、それでも断ろうとはしない。

なぜ、話に乗ったのか。理由は、「自分」が「単に働けばいいと云う事だけを考えていた」からだ。それに、「坑夫」と聞いて「何んとなく嬉しい心持」になったこともある。できることなら、家を出たときの「死ぬかも知れないと云う決心」に適う労働がしたい。働き場所は「人の居ない所」がいい。そんな願望があった。こんなときに足を向ける目的地として、山深い鉱山の坑道ほどふさわしいものはなかったというべきだろう。

ここで読者は、青年をこんな心理状態に追い込んだ「いさくさ」の真相を知りたくなる。ところが作者は、そのことには深く立ち入らない。第12章で、あたかも物理現象を数式で記述するように、抽象的に概説しているくらいだ。そのくだりを見てみよう。

この章は、「実を云うと自分は相当の地位を有(も)ったものの子である」の一文で始まる。山の手の裕福な家庭の育ちであるらしい。家出したのは、世間に嫌気がさし、家にも不満が募り、親や親類に我慢がならなくなったからだという。だが、それだけとは思えない。

実際、「自分」はもう少しだけ、心の軌跡を打ち明けている。「事の起りを調べて見ると、中心には一人の少女がいる。そうしてその少女の傍に又一人の少女がいる」。なんだ、やっぱり恋バナシではないか。ただ、そのいきさつが漱石流ではこう記述される。「第一の少女が自分に対して丸くなったり、四角になったりする」。これに対して「自分」も「丸くなったり四角になったりする」が、「それを第二の少女が恨めしそうに見ている」……。

ちなみに青年の年齢は、別の箇所で19歳だと明かされている。19歳男子A男の周りにP子とQ子という女子がいる。A男とP子が仲良くなったり、よそよそしくなったりする様子を見て、Q子は心穏やかではない――。図解すれば、そんなことか。A男は、もてる男の役回りなのでうらやましい限りだが、それも十分に辛いことなのだろう。「自分はこの入り組んだ関係の中から、自分だけをふいと煙にして仕舞おうと決心した」とある。

この作品は、一人の青年の恋愛沙汰を背景に置きながらも、その顛末をあっさり捨象している。作者は「自分」を「煙にして仕舞おう」という青年の決意に焦点を当て、その心模様だけを抽出しようとしたのだ。鉱山を舞台とする章で、その試みは大展開される。

青年が「飯場」に着いて、「坑夫」集団に初対面する場面。「自分」がはしご段を昇っていくと、階上には「柔道の道場」のように畳が敷き詰められ、囲炉裏が二つ掘られていた。「自分」の上半身が見えただけで、「黒い塊」のような一群の「坑夫」たちが一斉にこちらを向いた。それは「ただの人間の顔じゃない。純然たる坑夫の顔であった」。骨張っていて「顔の骨だか、骨の顔だか分らない位」だ。「自分」は畏れおののいた。

食事の世話などをする「婆さん」に促されて囲炉裏端に座ると、「坑夫」たちの間から「おい」「やに澄ますねえ」と声がかかる。笑いが起こり、それが収まりかかると「御前は何処だ」と聞いてきた。「僕は東京です」。そう答えると、すぐさまツッコミが飛んでくる。「僕だなんて――書生ッ坊だな。大方女郎買でもして仕損(しくじ)ったんだろう」。そして、拒絶のひとことが追い討ちをかける。「そんな奴に辛抱が出来るもんか、早く帰れ」

このくだりからわかることがある。漱石は明治期の知識人として、自分がいる世界が世間からどう見られているかを意識していたらしい、ということだ。自身は最高学府に学び、高等教育の教壇に立ち、世界の首都ロンドンに留学した。そこから生まれた作品群は東西両洋の教養にあふれ、高踏的な雰囲気を漂わせていた。そんな自分にも、「やに澄ますねえ」「書生っ坊だな」という視線が向けられていることを痛いほど感じていたのだろう。

「シキ」と呼ばれる坑内の様子は、青年が教育係に連れられて下見する場面で描かれている。カンテラを親指一本で提げ持ち、下りの通路をジグザグ降りていく。深くなると、垂直な穴をはしごで降りなくてはならなかった。地の底で独りになると、さまざまな想念が胸に去来する。まず「死ぬぞ」、そして「死んじゃ大変だ」。その瞬間、「自分」ははっと目を見開く――この作品で「シキ」は「書生ッ坊」が実存を自覚する装置になっている。

この作品には、今の常識で言えば政治的公正(ポリティカル・コレクトネス)を欠く表現が目立つ。巻末「編集付記」も「当時の社会通念に基づく、今日の人権意識に照らして不適切な語が見られる」として、注や解説で配慮したことを記している。ただ、個々の表現がどうこうではなく、無産階級の吹き溜まりのような労働現場を知識人青年の通過儀礼の場にしてしまった筋立てそのものが、社会派の視点からは批判されそうな気がする。

実際、作中には主人公が「自分」の家出を「坊ちゃんとしての駆落」だと内省する場面がある。その駆落を青春の1ページのように振り返る記述もある。それらのことからみても、漱石には社会派リアリズムの作品を書くつもりなど、さらさらなかったのだろう。紅野解説によると、この作品は「たまたま漱石の周辺に出入りしていた人物から仕込んだ間接的伝聞」を参考にしている。自分で現場を取材したわけでもないらしい。

漱石は、どこまでいっても漱石だ。人間の「個」としてのありように、とことんこだわっている。一見漱石らしくは見えない作品に接して、ますますそう思う。
*引用箇所のルビは原則として省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年1月14日公開、通算609回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

社説にみる改憲機運の落とし穴

今週の書物/
社説「憲法75年の年明けに/データの大海で人権を守る」
朝日新聞2022年1月1日朝刊

憲法(三省堂刊『小六法』)

当欄の新年初回はきょう1月7日付になった。あすは松の内も明ける。去年は元日付だったので、私の古巣、朝日新聞の年頭社説について書いたが、今年はそうはいくまいと思っていた。だが、紙面を見て気が変わった。6日遅れでも元旦社説をとりあげる。

今年の朝日新聞1月1日付社説は、まず「憲法75年の年明けに」のカット見出しを掲げ、続く主見出しで「データの大海で人権を守る」とうたっている。改憲の流れが強まる今、朝日新聞社の立場を鮮明にしておこうという趣旨か、と一瞬思った。だが読んでみると、憲法の話はなかなか出てこない。巨大IT企業が個々人の情報をネット経由でかき集め、人々の意思決定にも影響を与える現状を重くみて、それに警告を発したという色彩が強い。

私は、このチグハグ感に朝日新聞の苦悩を見る。社説の執筆を担う論説委員室には、リベラル派のメディアとして巨大IT企業の情報支配を護憲の立場から論じるべきだとする委員が一定数いるのだろう。だが一方で、この問題は現行憲法の枠組みを超えているとみる委員もいるのではないか。さらに言えば、委員めいめいの内面に両論の葛藤があったようにも思う。そう推察して、共感とも同情ともつかない気持ちになったのである。

朝日新聞の論説委員室は護憲派の巣窟のように思われがちだが、それはちょっと違う。私自身が在籍した十余年前を振り返ってみよう。たしかに、改憲を公然と口にする同僚はいなかった。大勢は現行憲法に好感を抱いていたとも思う。だが、護憲を声高に叫ぶ人も見かけなかった。あえて言えば、右寄りの政治勢力が憲法をタカ派的なものに変えようとする動きに神経をとがらせていた。護憲派というよりも改憲警戒派という言葉がぴったりくる。

改憲警戒派は、現行憲法を平和憲法ととらえて議論の焦点を第9条に絞り込めた時代にはわかりやすい存在だった。さまざまな案件が政治的左右の座標軸に還元された時代には、改憲=保守派、護憲=リベラル派という単純な色分けができたのだ。逆に言えば、リベラル派はごく自然に改憲勢力を警戒することになり、護憲勢力を支持することに違和感を覚えなかった――朝日新聞は今も、その構図から脱け出していない感じがする。

現実には、今やいくつもの難題が政治的左右とは別次元で噴き出している。気候変動しかり、新型感染症しかり、そして、この社説のテーマ、巨大IT企業の情報支配も同様だ。これらの問題は、政治的な左右だけでは論じきれない。実際、今の政界ではリベラル系の野党にも改憲論議に前向きな人々がふえた。憲法も時代に合わせて改めるべきではないか、という立場だ。改憲警戒派は守旧派のレッテルを貼られそうな気配がある。

今回の社説は、そんな空気感のなかで書かれた。見出しに憲法の2文字を含めながら憲法論で押し切れない。そこに私は、今の朝日新聞が直面する現実を見てしまう。

中身を見てみよう。冒頭に登場するのは、米国の巨大IT企業4社。それらが、ネット空間に「検索や商品の売買、SNSなどの場」を提供する「プラットフォーマー」として、主権国家に比肩する「新たな統治者」ともみられていることから説きおこす。

具体例として出てくるのは、巨大IT企業の一つ、メタ(旧フェイスブック)社がいま大展開しようとしている「メタバース」事業だ。人々がネットの仮想空間に「自分の分身である『アバター』」を送り込み、「会話をしたり、買い物したりする」という。これは、私のようにSNS活動度の低い者にはピンとこない。遊び心の世界だろうから、目くじらを立てるまでもないのではないか――一瞬そう感じたのだが、思い直した。

というのも、同じ朝日新聞紙面に前日の大みそか、「仮想キャラに中傷『現実の自分傷ついた』」(2021年12月31日朝刊社会面)という裁判記事が載っていたからだ。それによると、動画のネット投稿を繰り返していた人が「自分の分身」である仮想のキャラクターを投稿サイトに登場させていたら、キャラに対する中傷のメッセージが殺到、その口火を切った人物の個人情報開示をプラットフォーマーに求める訴訟を起こした、という話である。

この記事から見えてくるのは、デジタル世代にとっては「仮想空間」が実空間と同様に生活の場となり、「アバター」や「仮想キャラ」が実在の自分並みに自己同一性を具えはじめたらしい、ということだ。この二重性が健全かどうかはわからない。ただ、自分のほかに分身も保有する生き方が珍しくない世界が到来しようとしているのは事実だ。その分身部分が巨大IT企業という「統治者」によって仕切られている、ということなのだろう。

この社説は「メタバース」について、憲法学が専門の山本龍彦・慶応義塾大学教授から話を聞いている。「我々の生活が仮想空間に移る。そこでのルールはザッカーバーグ(最高経営責任者)が作る」。私たちは「民主的手続きを経ていない『法』」に支配されるという。

では、「民間」企業がどうしてここまで大きな「権力」を手にしたのか。社説は「力の源泉は、ネットを通じ、世界中から手に入れている膨大な量の個人情報」と断じている。情報にものを言わせるからくりとして挙げるのは、個人の好みに合わせた「ターゲティング広告」や個々人に対する「『信用力』による格付け」だ。これらが市場経済を動かして世界そのものも変えていく。その威力は、各国政府などの公権力をしのぐほどなのだ。

この「権力」の制御手段として社説が手本にするのが、欧州連合(EU)の「一般データ保護規則」(2018年施行)だ。自分の個人情報の何が企業の手にあるかを知る権利や、企業保有の個人情報の扱いに本人が関与できる諸権利を定めている。情報をもとに「自動処理で人物像を予測する」こと、即ち「プロファイリング」に異議を申し立てる権利や、情報をネットから削除するよう求める権利などだ。後者は「忘れられる権利」と呼ばれている。

人権を重んじると言うなら、こうした法制は欠かせない。ところが日本国内では、それが整えられていない。この不備をなんとかしようというのが、この社説のメッセージだ。

ただ、その法整備をどう実現するのか、ということになると社説の歯切れは悪くなる。一方では、「個人が自分に関する情報を自分で管理する権利」は現行憲法第13条の「個人の尊重」から導けるとして、個人情報保護法に「自己情報コントロール権」を明記するという案を例示する。だが他方では、衆議院憲法審査会の議論で「データに関する基本原則を憲法にうたうべし」という意見もあったことを、論評を控えたまま紹介している。

実は、この二者のうちどちらを選ぶかが肝心なのだ。2022年、メディアはそこに踏み込むべきだ。私自身の考えを言えば、ここまで改憲論が強まってきても、安易に「憲法にうたうべし」論に乗っかってはいけないように思う。そこには、落とし穴があるからだ。

それは、社説最後の数段落に書き込まれたことに関係する。一つには、「個人が自分に関する情報を自分で管理する権利」は人々の「知る権利」とバランスをとりながら尊重しなくてはならないということだ。そうでなければ、私たちは社会の真相から遠ざけられてしまう。もう一つは、巨大IT企業の情報支配にとらわれて国家の情報支配を許してはならないということだ。憲法を変えるならば、これら要件を十分に満たさなくてはならない。

2022年は、改憲論議が具体論の域に入りそうだ。このときに戒めるべきは、9条の改定ばかりに目を奪われることだ。「憲法にうたうべし」の声が出てきそうな新しい懸案、即ち気候変動や新型感染症、個人情報保護などの問題でも論点を見逃してはならない。大切なのは、憲法は人々の諸権利を国家の権力から守るためにある、という基本思想だ。この視点から憲法を組み立て直そうという強い決意がないなら、その改憲論に同調すべきではない。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年1月7日公開、通算608回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。