今週の書物/
「思い出す事など」
『思い出す事など 他七篇』(夏目漱石著、岩波文庫、1986年刊)所収
年を越しても、コロナ禍の収束は見えない。いや、深刻さの度合いが増すばかりだ。今年の暮れに世界はどうなっているのか。まったく先が見通せない1年である。
過ぎ去った年を振り返ってみよう。その年頭、当欄の前身「本読み by chance」では、カズオ・イシグロの小説『日の名残り』(土屋政雄訳、ハヤカワepi文庫)を引いて、これからの1年がイングランドの風景のように穏やかであればよいが、たぶんそうはならないだろう、と書いた(2020年1月3日付「漱石が新聞小説に仕掛けた遭遇の妙」)。終わってみると、この嫌な予感が恐ろしいほどに的中したことに驚く。
もっとも、あの拙稿で2020年を波乱含みと予想する理由の筆頭に挙げたのは、米国の大統領選だった。たしかに選挙は混迷した。だが、それよりも早く、それどころではない災厄が地球をそっくり覆っていた。新型コロナウイルス感染症の蔓延である。コロナ禍を巨大地震にたとえれば、米国のトップ選びのゴタゴタは、そのときにテーブルに載っていたコップの水の揺れに過ぎないように思える。そして、その激震はまだ続いている。
とんでもないことが起こったのだ。たとえば、町の風景。だれもかれもがマスクをしている。マスク姿は、日本では冬はインフルエンザ予防で、春先には花粉症対策でよく見かけるようになっていたが、欧米にそんな習慣はなかった。それが今、世界標準だ。たぶん、未来の史家が21世紀の映像資料を整理するとき、マスク顔の群衆が見えたら「2020年代初め」のフォルダーに入れるだろう。これだけでも、人類史的な事件と呼びたくなる。
変化は、目に見えるものだけではない。去年の春先からずっと、私たちの内面に恐怖が棲みついている。「うつる」「うつす」という言葉が頭から離れないのだ。そして、その2語の先にちらつくのは生命の危機。そんな心模様を世の多くの人々が共有している。
で、今週は1月恒例の漱石。「思い出す事など」(『思い出す事など 他七篇』=夏目漱石著、岩波文庫=所収、1986年刊)という随筆を選んだ。私事をさらけ出し、大患から生還するまでを綴った作品。そこで露わとなる文豪の心境は、今の私たちの心にも響いてくる。1910(明治43)年秋から翌春にかけて、「東京朝日新聞」「大阪朝日新聞」に断続して連載されたもの。こんな経緯もあって随筆とはいえ分量があり、全33章から成る。
まず、巻末注解(古川久編)にもとづいて、そのころの著者が持病の胃潰瘍とどう向きあっていたかをたどっておこう。日付に沿って言えば1910年6月18日、東京・内幸町の長与胃腸病院に入院、7月末に病院を出て伊豆・修善寺の温泉旅館「菊屋本店」で療養生活に入った。ところが、8月24日に大量の吐血がある。そのまま伊豆にとどまって回復に努め、10月11日東京に戻って、再び長与病院で入院治療を受けることになった――。
第一章にはこうある。「漸くの事でまた病院まで帰って来た」「転地先で再度の病に罹って、寐たまま東京へ戻って来ようとは思わなかった」(引用部のルビは原則省く、以下も)。病院にいない2カ月半ほどが、予想外に過酷な日々であったことがうかがわれる。
第二章では、この長与病院で著者の不在期間に不幸があったことが明らかとなる。院長が亡くなったのだ。春以来体調を崩していたが、8月末から病状が悪化したという。それは著者自身が吐血後に危篤に陥ったころとぴったり重なっていた。この一篇の通奏低音となるような出来事だ。ちなみに院長は、蘭方医緒方洪庵に師事した長与専斎の息子、称吉。ドイツへの留学経験もある胃腸病の専門家だった。弟には作家長与善郎がいる。
大量吐血前後の話が語られるのは第八章からだ。それに先だって食欲が失せ、吐き気を催すようになった。著者は、吐瀉物の色がそのときどきに変わっていく様子を克明に記録している。金盥に「黒ずんだ濃い汁」を見たとき、医師は「これは血だ」と言ったが、信じられなかった。ところが、黒い色に赤が交じり、生臭さが鼻をついたときは違った。「余は胸を抑えながら自分で血だ血だといった」。漱石らしい余裕の文体が、ここにはない。
医師は金盥の中を見て「こういうものが出るようでは」と眉をひそめ、すぐに帰京するよう促した。ただ、吐血の報が長与病院に電話で伝わると、医師が朝日新聞の社員とともに伊豆に来ることになった。「この時の余は殆んど人間らしい複雑な命を有して生きてはいなかった」「余の意識の内容はただ一色の悶に塗抹されて、臍上方三寸の辺を日夜にうねうね行きつ戻りつするのみであった」。文豪もまた、一つの生命体に過ぎなかったのだ。
そして、8月24日が巡ってくる。それは、長与病院副院長が東京から往診に訪れたちょうどその日だ。「意外にもさほど悪くない」との見立てを聞いてから1時間ほどたち、日が暮れようとするころ、「忘るべからざる八百グラムの吐血」に突然見舞われたのである。
実はこのとき、著者は奇妙な体験をする。大吐血から翌朝にかけてずっと覚醒していたように思っていたのだが、枕もとの妻に尋ねると違った。脳貧血で「人事不省」となった時間があったというのだ。著者本人の弁をそのまま引けば、「余は、実に三十分の長い間死んでいた」。もちろん、それは死ではないだろう。ただ、そう表現しても不思議でないほどの意識の空白があり、しかも自身、その空白の存在にすら気づかなかったのである。
覚醒時の描写も凄い。医師二人が左右の手首を握りながら、ドイツ語で会話する。著者が目をつぶっていたので「昏睡」と思われたのか。「弱い」「ええ」「駄目だろう」「ええ」「子供に会わしたらどうだろう」「そう」――語学に通じた著者には意味がわかった。「余はこの時急に心細くなった」が、「自分の生死に関するかように大胆な批評」に「反抗心」も湧きあがる。目を見開いて「私は子供などに会いたくはありません」と言い返したという。
巻末解説(執筆・竹盛天雄)を読むと、これと似た場面が朝日新聞社の社員、坂元雪鳥が書き残した記録にもある。その描写によれば、副院長と雪鳥が著者の左右の手を握り、かぼそくなった脈をとっていたとき、「キンドは……」という言葉が交わされている。「キンド」はドイツ語のkind(キント=子)のことだろう。著者は、これを医師二人のやりとりと誤解したのではないか。ただし、この記録によれば、著者が反発した気配はない。
著者は自身の「三十分の死」を考察している。それは「時間からいっても、空間からいっても経験の記憶として全く余に取って存在しなかった」。だから、「死とはそれほど果敢(はか)ないものか」と思わざるを得ない。その死の世界に自分はいったん迷い込み、生の世界に舞い戻ってきた。「余をして忽(たちま)ち甲から乙に飛び移るの自由を得せしめた」のは「二つの世界が如何なる関係を有する」からなのか。そう自問するが答えは見つからない。
さすが、明治の知識人と思わせるのは、著者がここで古代ギリシャの哲人ゼノンの逆説をもちだしていることだ。「アキレスと亀」である。アキレスが、いま亀のいる地点に到達したときには亀も少しだけ先に進んでいる。人の意識が日々半分ずつ失われるのなら、アキレスが亀に追いつけないように「いくら死に近付いても死ねない」。ところが、現実は違った。著者は「俄然として死し、俄然としてわれに還る」という不連続を体験したのだ。
著者は、自分が「幽霊」の信者だったことも打ち明けている。8~9年前から、欧州の民俗学者や心霊学者が著した「幽霊」や「死後」を題材とする書物を読み漁ってきた、という。ところが、「三十分の死」をくぐり抜けた今、霊界に対する懐疑の念が強まった。そのとき、「余は余の個性を失った」「余の意識を失った」のだ。はっきりしているのは「失った」結果の不存在だけである。「どうして幽霊となれよう」と思うようになる。
著者漱石はこのとき、不連続の彼方に個性も意識も存在しない無を垣間見て、自らの実存を自覚したとは言えないか。それは実際の死より6年前のことである。
この作品でもう一つ心に残るのは、漱石が医師や看護婦(当時の呼び方)の献身を「報酬」目当て、「義務」感ゆえの行為とは見ず、そこに「好意」を感じとろうとしていることだ。ふつうの年なら読み流してしまいかねないが、コロナ禍の今、深い共感を覚える。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年1月8日公開、通算556回
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