漱石の実存、30分の空白

今週の書物/
「思い出す事など」
『思い出す事など 他七篇』(夏目漱石著、岩波文庫、1986年刊)所収

不連続

年を越しても、コロナ禍の収束は見えない。いや、深刻さの度合いが増すばかりだ。今年の暮れに世界はどうなっているのか。まったく先が見通せない1年である。

過ぎ去った年を振り返ってみよう。その年頭、当欄の前身「本読み by chance」では、カズオ・イシグロの小説『日の名残り』(土屋政雄訳、ハヤカワepi文庫)を引いて、これからの1年がイングランドの風景のように穏やかであればよいが、たぶんそうはならないだろう、と書いた(2020年1月3日付「漱石が新聞小説に仕掛けた遭遇の妙」)。終わってみると、この嫌な予感が恐ろしいほどに的中したことに驚く。

もっとも、あの拙稿で2020年を波乱含みと予想する理由の筆頭に挙げたのは、米国の大統領選だった。たしかに選挙は混迷した。だが、それよりも早く、それどころではない災厄が地球をそっくり覆っていた。新型コロナウイルス感染症の蔓延である。コロナ禍を巨大地震にたとえれば、米国のトップ選びのゴタゴタは、そのときにテーブルに載っていたコップの水の揺れに過ぎないように思える。そして、その激震はまだ続いている。

とんでもないことが起こったのだ。たとえば、町の風景。だれもかれもがマスクをしている。マスク姿は、日本では冬はインフルエンザ予防で、春先には花粉症対策でよく見かけるようになっていたが、欧米にそんな習慣はなかった。それが今、世界標準だ。たぶん、未来の史家が21世紀の映像資料を整理するとき、マスク顔の群衆が見えたら「2020年代初め」のフォルダーに入れるだろう。これだけでも、人類史的な事件と呼びたくなる。

変化は、目に見えるものだけではない。去年の春先からずっと、私たちの内面に恐怖が棲みついている。「うつる」「うつす」という言葉が頭から離れないのだ。そして、その2語の先にちらつくのは生命の危機。そんな心模様を世の多くの人々が共有している。

で、今週は1月恒例の漱石。「思い出す事など」(『思い出す事など 他七篇』=夏目漱石著、岩波文庫=所収、1986年刊)という随筆を選んだ。私事をさらけ出し、大患から生還するまでを綴った作品。そこで露わとなる文豪の心境は、今の私たちの心にも響いてくる。1910(明治43)年秋から翌春にかけて、「東京朝日新聞」「大阪朝日新聞」に断続して連載されたもの。こんな経緯もあって随筆とはいえ分量があり、全33章から成る。

まず、巻末注解(古川久編)にもとづいて、そのころの著者が持病の胃潰瘍とどう向きあっていたかをたどっておこう。日付に沿って言えば1910年6月18日、東京・内幸町の長与胃腸病院に入院、7月末に病院を出て伊豆・修善寺の温泉旅館「菊屋本店」で療養生活に入った。ところが、8月24日に大量の吐血がある。そのまま伊豆にとどまって回復に努め、10月11日東京に戻って、再び長与病院で入院治療を受けることになった――。

第一章にはこうある。「漸くの事でまた病院まで帰って来た」「転地先で再度の病に罹って、寐たまま東京へ戻って来ようとは思わなかった」(引用部のルビは原則省く、以下も)。病院にいない2カ月半ほどが、予想外に過酷な日々であったことがうかがわれる。

第二章では、この長与病院で著者の不在期間に不幸があったことが明らかとなる。院長が亡くなったのだ。春以来体調を崩していたが、8月末から病状が悪化したという。それは著者自身が吐血後に危篤に陥ったころとぴったり重なっていた。この一篇の通奏低音となるような出来事だ。ちなみに院長は、蘭方医緒方洪庵に師事した長与専斎の息子、称吉。ドイツへの留学経験もある胃腸病の専門家だった。弟には作家長与善郎がいる。

大量吐血前後の話が語られるのは第八章からだ。それに先だって食欲が失せ、吐き気を催すようになった。著者は、吐瀉物の色がそのときどきに変わっていく様子を克明に記録している。金盥に「黒ずんだ濃い汁」を見たとき、医師は「これは血だ」と言ったが、信じられなかった。ところが、黒い色に赤が交じり、生臭さが鼻をついたときは違った。「余は胸を抑えながら自分で血だ血だといった」。漱石らしい余裕の文体が、ここにはない。

医師は金盥の中を見て「こういうものが出るようでは」と眉をひそめ、すぐに帰京するよう促した。ただ、吐血の報が長与病院に電話で伝わると、医師が朝日新聞の社員とともに伊豆に来ることになった。「この時の余は殆んど人間らしい複雑な命を有して生きてはいなかった」「余の意識の内容はただ一色の悶に塗抹されて、臍上方三寸の辺を日夜にうねうね行きつ戻りつするのみであった」。文豪もまた、一つの生命体に過ぎなかったのだ。

そして、8月24日が巡ってくる。それは、長与病院副院長が東京から往診に訪れたちょうどその日だ。「意外にもさほど悪くない」との見立てを聞いてから1時間ほどたち、日が暮れようとするころ、「忘るべからざる八百グラムの吐血」に突然見舞われたのである。

実はこのとき、著者は奇妙な体験をする。大吐血から翌朝にかけてずっと覚醒していたように思っていたのだが、枕もとの妻に尋ねると違った。脳貧血で「人事不省」となった時間があったというのだ。著者本人の弁をそのまま引けば、「余は、実に三十分の長い間死んでいた」。もちろん、それは死ではないだろう。ただ、そう表現しても不思議でないほどの意識の空白があり、しかも自身、その空白の存在にすら気づかなかったのである。

覚醒時の描写も凄い。医師二人が左右の手首を握りながら、ドイツ語で会話する。著者が目をつぶっていたので「昏睡」と思われたのか。「弱い」「ええ」「駄目だろう」「ええ」「子供に会わしたらどうだろう」「そう」――語学に通じた著者には意味がわかった。「余はこの時急に心細くなった」が、「自分の生死に関するかように大胆な批評」に「反抗心」も湧きあがる。目を見開いて「私は子供などに会いたくはありません」と言い返したという。

巻末解説(執筆・竹盛天雄)を読むと、これと似た場面が朝日新聞社の社員、坂元雪鳥が書き残した記録にもある。その描写によれば、副院長と雪鳥が著者の左右の手を握り、かぼそくなった脈をとっていたとき、「キンドは……」という言葉が交わされている。「キンド」はドイツ語のkind(キント=子)のことだろう。著者は、これを医師二人のやりとりと誤解したのではないか。ただし、この記録によれば、著者が反発した気配はない。

著者は自身の「三十分の死」を考察している。それは「時間からいっても、空間からいっても経験の記憶として全く余に取って存在しなかった」。だから、「死とはそれほど果敢(はか)ないものか」と思わざるを得ない。その死の世界に自分はいったん迷い込み、生の世界に舞い戻ってきた。「余をして忽(たちま)ち甲から乙に飛び移るの自由を得せしめた」のは「二つの世界が如何なる関係を有する」からなのか。そう自問するが答えは見つからない。

さすが、明治の知識人と思わせるのは、著者がここで古代ギリシャの哲人ゼノンの逆説をもちだしていることだ。「アキレスと亀」である。アキレスが、いま亀のいる地点に到達したときには亀も少しだけ先に進んでいる。人の意識が日々半分ずつ失われるのなら、アキレスが亀に追いつけないように「いくら死に近付いても死ねない」。ところが、現実は違った。著者は「俄然として死し、俄然としてわれに還る」という不連続を体験したのだ。

著者は、自分が「幽霊」の信者だったことも打ち明けている。8~9年前から、欧州の民俗学者や心霊学者が著した「幽霊」や「死後」を題材とする書物を読み漁ってきた、という。ところが、「三十分の死」をくぐり抜けた今、霊界に対する懐疑の念が強まった。そのとき、「余は余の個性を失った」「余の意識を失った」のだ。はっきりしているのは「失った」結果の不存在だけである。「どうして幽霊となれよう」と思うようになる。

著者漱石はこのとき、不連続の彼方に個性も意識も存在しない無を垣間見て、自らの実存を自覚したとは言えないか。それは実際の死より6年前のことである。

この作品でもう一つ心に残るのは、漱石が医師や看護婦(当時の呼び方)の献身を「報酬」目当て、「義務」感ゆえの行為とは見ず、そこに「好意」を感じとろうとしていることだ。ふつうの年なら読み流してしまいかねないが、コロナ禍の今、深い共感を覚える。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年1月8日公開、通算556回
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元旦社説にちょっと注文をつける

今週の書物/
「社説――《核・気候・コロナ》文明への問いの波頭に立つ」
朝日新聞2021年1月1日朝刊

元旦の日差し

年が改まった。私には服喪という私的事情があるので、ここでも慶賀の言葉は控える。だが、そうでなくとも「おめでとう」とは言い難い。世界中、この列島にもこの都市にも、新型コロナウイルスの感染症でたおれた人々が数えきれないほどいる。今この瞬間、病床には息を喘がせている人たちも大勢いる。そして、そういう人々を助けようと、暦にかかわりなく治療と看護にあたるスタッフがいる。それが、2021年新春の風景である。

とはいえ、きょうは元日だ。お祝い気分はなくとも、心を新たにする節目であることに違いはない。とりわけ今年は元日がたまたま金曜日であり、拙稿ブログの公開日に重なった。心にひと区切りをつけるのにふさわしいものを読み、考えてみたいと思う。

で、選んだのは、今しがた届いた新聞だ。私自身の新聞記者としての体験から言うと、新聞人は昔から元日付の朝刊に異様なほどの力を注ぐ。第1面や社会面だけでなく各ジャンルのページも、これはという特ダネを掲げたり、全力投球の連載初回を大ぶりに扱ったりする。自分たちは時代の記録係であるとの自負がきっとあるのだろう。だから、紙面のどこをかじってみても新年のひと区切り感があるのだが、やはりここは社説をとりあげよう。

「社説――《核・気候・コロナ》文明への問いの波頭に立つ」(朝日新聞2021年1月1日付朝刊)。なぜ朝日新聞なのかと突っ込まれそうだが、今は1紙しか定期購読していないこともある。古巣の新聞が、どんな時代の切りとり方をしているかに注目したいと思う。

社説がまくらに振った話題は、昨春、長崎原爆資料館が玄関に掲示した「長崎からのメッセージ」。資料館の関心事である「核兵器」を「環境問題」「新型コロナ」と並べ、それらの共通項を見抜いていた。いずれも「立ち向かう時に必要」なのは、「自分が当事者だと自覚すること」「人を思いやること」「結末を想像すること」「行動に移すこと」だというのである。なるほど、同感だ。社説筆者は格好のまくらを掘りだしてきたものだ、と思う。

ここで社説は焦眉の問題、コロナ禍の話に入る。人々は今「誰もがウイルスに襲われうること」「感染や、その拡大という『結末』を想像し、一人ひとりが行動を律する必要」を知るに至った、という。たしかに、この災厄は人類のすべてが「当事者」であり、それに対抗するには、めいめいが周りの「人」に気を配り、社会に与える影響の「結末」まで思い描いて自らの「行動」を規制しなくてはならない――まさに、メッセージの言う通りだ。

まったくその通りなのだが、元科学記者としてやや物足りないと感じることが、いくつかある。一つには、「当事者」の意味にもう一歩踏み込んでほしかった。感染症で、人はうつされる側になる一方、うつす側にもなりうる。今回のコロナ禍は、無症状の人の感染が少なくないので、自分が当事者だと実感しないまま、うつされてうつすという過程に関与してしまうことがある。感性だけでなく理性でも、当事者意識を強めなくてはならない。

もう一つは「行動」だ。社説筆者が書くとおり、私たちはコロナ禍で「一人ひとりが行動を律する必要」に迫られた。マスク着用しかり、ステイホームしかり、大人数の飲み会自粛しかり。日本社会では、それらがおもに心がけとして為されたのだから、まさに各自が行動を律したと言ってよい。この方法で行動変容をかなりの水準まで達成できたのは、同調圧力が強いという精神風土の特徴が、今回ばかりはプラスに働いたのかもしれない。

ただ、ここには私たちがこれから対峙しなくてはならない難題が立ちはだかっている。世界は、そして日本も1980年代末に冷戦の終結を見てから、人間の自由を至上の価値観として共有するようになった。経済政策の新自由主義だけではない。世の中のさまざまな局面で選択の自由が重んじられるようになっていたのだ。そんなときに「行動を律する必要」が出てきたのである。(当欄2020年7月10日付「ジジェクの事件!がやって来た」参照)

自由の制限は、権力者が支配を強めるためのものなら許しがたい。だが、それが弱者の生命を守るという公益のためなら受け入れなければならない。その方法をどうするか。社説は、この一点にも目を向けてほしかった。コロナ禍に限らず感染症の大流行は、対策も急を要する。自由の制約を伴う手段を講じるとき、事前に十分な議論を尽くせないことがありうる。それならば事後の徹底検証が欠かせない――そんな提案もありえただろう。

今回の社説は、コロナ禍が効率優先の社会の暗部を浮かびあがらせたことを指摘している。テレワークなどの恩恵を受けられない「看護、介護、物流」など「対面労働」の「エッセンシャルワーカー」が「格差」に苦しんでいないか、といった問題提起だ。私も、この点は同感だ。これも新自由主義にかかわる論題だからこそ、コロナ後の時代に私たちが自由という概念をどうとらえ直すべきかについて思考を展開してほしかった。

コロナ禍論に対する注文はこのくらいにしよう。この社説は「長崎からのメッセージ」を踏まえ、コロナ禍対応と同様、核兵器の廃絶をめざすのであれ、地球環境を守るのであれ、「当事者」と「行動」の2語がカギになることを強調している。環境保護については、すぐ腑に落ちる。温暖化が化石燃料の大量消費に起因するのなら、私たちの行動次第でそれを食いとめられる。だれもが原因を生みだす当事者でもあり、被害を受ける当事者でもある。

ところが反核となると、ピンとこない面がある。核兵器の開発や保有を企てるのは政治家だ。私たちとは遠いところにある話ではないか。ふつうは、そう思ってしまう。だが、その通念を振り払って自分事としてとらえ直そう。この社説は、そう訴えているように見える。

最後に、言葉尻にこだわった余談。この社説の見出しにある「波頭に立つ」は結語にも登場する。「若い世代」が「未来社会の当事者」として「このままで人類は持続可能なのかという問いの波頭に立っている」というのだ。気になるのは、「波頭」という言葉である。

「波頭」は、辞書類によれば波の盛りあがりのてっぺん。「問い」のてっぺんに立つとはどういうことだろうか。読者の多くはたぶん、「最前線で問題と向きあう」といったイメージで理解したような気がする。あえて「波」に結びつけて言い換えれば、「問題を波面の先頭でとらえる」という感じか。今回の「波頭に立つ」を誤用とは言うまい。言葉の意味は、時代とともに変わる。「波頭」はやがて「波面の先頭」になるのかもしれない。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年1月1日公開、同月2日最終更新、通算555回
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小柴さんはアメリカに船で渡った

今週の書物/
『物理屋になりたかったんだよ――ノーベル物理学賞への軌跡』
小柴昌俊著、朝日選書、2002年刊

氷川丸

ワタクシ的に言えば、今年は父喪失の年だった。本物の父が5月に97歳で逝った。8月には科学記者仲間の父親的存在だった柴田鉄治さんが85歳で永眠した(当欄2020年9月11日付「新聞記者というレガシー/その1」、当欄2020年9月18日付「新聞記者というレガシー/その2」)。そして11月、日本の物理学界の巨星とも言える物理学者、小柴昌俊さんが94歳で生涯の幕を閉じた。小柴さんもまた、「父親」という言葉が似合う人だった。

3人に共通するのは、昭和戦前を知り、昭和戦後を生き抜いて、平成を見届けたことだ。その世代が今、次々に退場する。やがては代わって高齢層の先頭集団となる私たちは、父親たちが世の中の第一線にいた昭和戦後のことを語り継ぐ義務があるのかもしれない。

で、今回は、小柴さんについて書く。物理学者としての快挙は1987年、岐阜・富山県境部の神岡鉱山地下にしつらえた巨大な水タンクで、銀河系のすぐそばに現れた超新星が放つ素粒子ニュートリノを検知したことだ。この水タンクがカミオカンデである。

カミオカンデは、もともと陽子崩壊という現象を発見する狙いでつくられた。ところが、なかなか見つからない。それならば、とニュートリノの観測もしやすいように改造したら、その数カ月後に超新星ニュートリノが飛び込んできた。幸運と言えば幸運。ただそこには、一つの的が外れたときに備えて二つめ、三つめの的を用意する、という周到さがあった――そんなことを先日、私は「評伝」に書いた(朝日新聞2020年11月19日朝刊科学面)。

当欄は「評伝」とは異なるので、個人的な感慨も披歴しよう。小柴さんは幸運だったが、私自身もまた幸運だったのだ。私は1987年3月、朝日新聞科学部員として小柴グループの超新星ニュートリノ捕獲を記事にしたが、その機会に恵まれたのは同年1月の持ち場替えで物理・天文担当になっていたからだ。カミオカンデが改造から数カ月で超新星ニュートリノを捕まえたように、私も担当になって数カ月で科学の大ニュースと遭遇したのだ。

超新星ニュートリノの捕獲は、科学史の上でも大きな転換点だった。これによって、素粒子物理を粒子加速器のような超大規模の実験装置ではなく、自然観測を通じて探究する流れが再評価された。巨大科学(ビッグサイエンス)の潮流に一石を投じたのである。その動きを追いかけることができたのは記者冥利に尽きる。それだけではない。私は取材を通じて、小柴昌俊という魅力あふれる科学者の人間像を間近に見ることができたのだ。

で今週は、小柴さんの自伝『物理屋になりたかったんだよ――ノーベル物理学賞への軌跡』(小柴昌俊著、朝日選書、2002年刊)から、とっておきの話をいくつか紹介する。

この本をとりあげることには、ためらいもある。自身が本づくりにかかわったからだ。その経緯は、巻末に収めた「インタビューを終えて」という一文で明かしている。2002年晩夏、私は小柴さんに計3回、約10時間のインタビューをした。当時、朝日新聞出版局の編集者だった赤岩なほみが、この記録をもとに参考文献に照らしてまとめあげたものを小柴さんが推敲したのである。その結果、小柴さんらしい語り口が残る自伝となっている。

考えてみれば、この方式をとったからこそ、小柴さんがストックホルムでノーベル物理学賞を受けた15日後に刊行するという早業が実現したのだ。その夏、赤岩と私の間には「小柴さんのノーベル賞は近い」という共通認識があったが、そこにとどまらず「インタビューの聞き手を引き受けてほしい」ともちかけてきた彼女の英断に脱帽する。ここにもまた、幸運をつかみとる用意周到さがあったとみるのは、こじつけ過ぎだろうか。

さて今回、当欄で焦点を当てようと思うのは、小柴さんが1950~60年代に経験した米国生活だ。最初は1953年、ニューヨーク州のロチェスター大学に留学したときだ。横浜港で氷川丸に乗り込み、米西海岸のシアトルまで10日間余の船旅をしたという。

注目すべきは、そのころから小柴さんが用意周到だったことだ。船に同乗していた女子留学生二人から滞米時の連絡先をしっかり聞きだしていたのである。そのこまめさが、米国に渡ってからものを言う。マサチューセッツ工科大学に留学中の友人を訪ねたとき、近くに住む彼女たちに声をかけ、4人でデートしたのだ。「海岸に行って、それから晩飯をおごって、それでさようなら」というから「かわいらしいもの」だった。念のため。

もちろん、遊んでいたばかりではない。博士論文を書こうという学生には、そのまえに厳しい関門があった。まず語学試験に、次いで1週間ぶっ通しの集中試験に合格しなければならなかったのだ。語学では、二つの外国語の習得が求められた。英語はもちろん、日本語も外国語扱いされない。「それで、高等学校時代についばんだドイツ語とフランス語を、ハイネやモーパッサンを思い出しながら勉強した」。さすが、旧制高校出身者だ。

小柴さんが学位論文にまっしぐらだったのには訳がある。懐事情だ。留学中、当時の日本の感覚で言えば破格の月額120ドルが支給されていたが、物価が高いので生活は苦しかったという。交通費を切り詰めようとして「古いフォードを一五ドルで買ったところ、一カ月くらい乗ったらエンジンが破裂してしまった」というような日々。こんなときに指導教授から、博士号をとれば「月に最低四〇〇ドルは保証される」と聞きつけていたのだ。

学位論文のテーマは「宇宙線中の超高エネルギー現象」だった。指導教授のグループが「原子核乾板」という道具を風船(気球)につけて上空に浮かべ、宇宙線を観測していたので、そのデータを解析した。借金を背負いながらの研究だったそうだ。論文を指導教授に提出するときには「これで学位をくれないなら、日本へ帰る」と、啖呵まで切った。そのひとことが功を奏したわけではないだろうが、論文は異例の速さで審査を通過したという。

圧巻は、2度目の渡米後の1960年、シカゴ大学を拠点とする国際共同実験の指揮を任されたときの失敗談だ。ジョージア州の海軍基地から、原子核乾板搭載の観測機器を風船につないで飛ばした。機器は時間がくると風船から離され、落下傘で舞い降りる、という仕掛けになっている。ところが、切り離しのタイマーが雷の直撃を受けたらしく、機器はいつまでも風船にぶら下がったままだ。飛行機から切り離しの信号を飛ばしてもダメだった。

この窮地に、小柴さんはどうしたか。本人の回想によれば、米海軍の幹部に電話して、風船を落下させるために軍用機を出動させてほしい旨の要求をまくし立てた。「言いたい放題」だ。「敗戦国民のわたしが、アメリカの海軍にああしろ、こうしろと命令するのは、正直言って気分がよかった」と振り返る。実際、海軍は軍用機で風船を銃撃したらしい。それでも風船は太平洋上空まで流され、観測機器はついに行方知れずになったという。

実験そのものは失敗だった。だが小柴さんは、ここから二つのことを学ぶ。巧妙な交渉術と実験家の心得だ。指南役は、イタリア出身の物理学者ジュゼッペ・オッキャリーニだった。軍人とのやりとりでは「喧嘩の仕方をいろいろコーチしてくれた」。実験のことでは、観測装置に信号が伝わらない事態を想定して、その場合でもデータを回収できるしくみにしておくよう「お説教」したという。小柴流用意周到の原点は、ここらへんにありそうだ。

不可解なのは、小柴さんが米海軍に対し、風船相手の作戦にU2を使うよう求めたとしていること。U2は偵察機だから、ちょっとおかしい。1960年、この機種は旧ソ連上空で地対空ミサイルに撃ち落とされるなど注目の的だったので、思わず口を突いて出たのだろうか。

この逸話には、違和感を覚える人が少なくないだろう。1960年は、日本で日米安保条約反対のうねりが高まった年だ。知識人の間には、文系であれ理系であれ、反戦、反米の思いが強かった。そんな時流を知らぬげに米軍と屈託なくかかわったのだから、批判されても不思議はない。そこにあったのは、人道に反しないなら使えるものは使うという合理主義か。ただ一つ言えるのは、小柴さんは日本社会のものさしに収まらない人だったということだ。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年12月11日公開、同月14日最終更新、通算552回
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追放、パージというイヤな言葉

今週の書物/
「追放とレッド・パージ」
『日本の黒い霧(下)』(松本清張著、文春文庫、新装版2004年刊)所収

追い出す

日本学術会議の人事紛糾で思ったのは、こんな話が今でもあるのだなあ、ということだった。最高権力者がもし「総合的、俯瞰的」に任命の権限をふるいたいのなら、もう少し洗練されたやり方があったのではないか。そんな皮肉のひとことも言いたくなる。

一部の人々をあからさまに排除する。これで連想されるのは「追放」「パージ」という言葉だ。パージは“purge”で、ふつうに訳せばこちらも「追放」。第2次大戦後、占領下の日本ではまず公職追放があり、次いでレッド・パージがあった。前者は軍国主義に手を貸した人々の公的活動を封じるものであり、後者は左派活動家の解雇というかたちをとった。権力者が不都合な人々を追い出したという一点は、どちらも同じだ。

と、えらそうに書いてはみたが、私自身は占領が終わる前年の1951年に生まれたから、追放やパージのニュースをリアルタイムで聞いた記憶がない。幼いころ、大人たちが世間話で触れることはあったので、「それ、何?」と訊いたりもしたが、説明されてもピンとこなかった。長じて後、現代史の知識としては学んだが、それがどのように断行されたのか、その空気感は今に至るまでつかめないでいる。これは、マズイ。

ということで、ここでは松本清張の力を借りる。「追放とレッド・パージ」(『日本の黒い霧(下)』=松本清張著、文春文庫、新装版2004年刊=所収)。『日本の黒い霧』に収められたノンフィクション各編は1960年に『文藝春秋』誌に掲載された作品だ。

本題に入る前に、この一編の冒頭に添えられた写真(毎日新聞社提供)についてひとこと。東京都墨田区内の小学校で撮影されたもので、写真説明に「教員のレッド・パージ、別れを惜しむ生徒たち」とある。野球帽をかぶった男の子やおかっぱ頭の女の子たちが先生を囲み、最前列の女子は涙を拭っている。私たちのちょっと上の世代。だから、この校内風景には共有感がある。私自身もパージと地続きのところにいたのだ、とつくづく思う。

清張はこの一編で、主に公開済みの資料を重ねあわせ、追放やレッド・パージの背後に働いていた力学を浮かびあがらせていく。焦点があてられるのは、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の部内事情である。清張にとっては生涯の関心事だったと言ってよい。

まず、GHQについて予備知識を仕入れておこう。GHQは「連合国軍」の看板を掲げてはいるものの、事実上、米国が仕切っていた。内部には、軍国主義を排して戦後社会を民主化させようというベクトルと東西冷戦の入り口で共産主義の台頭を抑えようとするベクトルが併存していた。前者の旗振り役が民政局(GS)、後者を代表するのが参謀第二部(G2)。占領初期はGSの力が強かったが、しだいにG2が優位に立つようになった。

この一編は「日本の政治、経済界の『追放』は、アメリカが日本を降伏させた当時からの方針であった」という一文で書きだされる。1945年11月に米政府からGHQに届いた「指令」では「一九三七年(昭和十二年)以来、金融、商工業、農業部門で高い責任の地位に在った人々も、軍国的ナショナリズムや侵略主義の主唱者と見なしてよろしい」と、幅広の適用を促している。追放政策の推進にはGSが前向き、G2は批判的だったという。

足並みが揃わなかっただけではない。GHQ中枢は「誰を追放していいかよく分らなかった」。だから、日本政府に対して「各界の超国家主義指導者の名簿作成」を求めたという。日本側にも対象者は自分たちで決めたいとの思惑があって、3000人の名簿を手渡したりもしたらしい。ところが、GSを率いるコートニー・ホイットニー准将は、ドイツよりも2桁少ないことを理由に「それっぽっちか」と激怒したといわれている。

公職追放は、1946年1月のGHQ覚書に始まる。当初は官公職に限られていたが、この年11月には「公的活動」全般に広がった。著者は『朝日年鑑』(1949年版)を引いて、1948年5月1日時点の総数は19万3000人余にのぼったとしている。

ここで見逃せないのは、追放が当事者だけでなく、その周りにも及んだことである。一定の範囲の親族が「公職に就くこと」を禁じられた。著者が、こんなことは「極悪犯罪者にも適用されない」とあきれるように、凶悪犯の親族に対しても許されないはずだ。個人の自由を重んじ、基本的人権を尊重する国からやって来た人が、民主化の旗印の下で正当な理由なく職業選択の権利を侵害する――これは、大いなる矛盾であるとしか言いようがない。

追放は、このように網を広げたにもかかわらず抜け穴があった。それに手を貸したのがG2だった、と著者はみる。GHQが追放政策で最初に目をつけた標的は警察組織だったが、その結果、行き場を失った元特高警察官がG2系の仕事に就くこともあったというのだ。

この一編は、そのことを当時米国から日本に来ていたジャーナリストや学者の著作から裏づけていく。たとえば、東北地方で「日本人と米軍との連絡係」をしている「元の特高係長」を見かけた、という話。あるいは、地方駐在の米諜報部隊幹部が「最も『貴重』な部下」は「日本の秘密警察の元高級警察官」と打ち明けた話。これらの証言をもとに、著者は「特高組織がいつの間にかG2の下に付いて再組織された」と見てとるのだ。

日本社会の側にもGSとG2の確執を利用しようという動きがあった。追放された政治家には「G2に気に入られること」で権益を守ろうとする人がいたという。米ソ対立が強まったのを見て「G2の線」こそ「本筋」と嗅ぎ分ける嗅覚があったらしい。追放政策は「追放に値しない者が追放指定を受けて、生活権まで脅される」事態を招いたが、一方で「狡知にたけた大物を跳梁(ちょうりょう)させる結果になった」と、著者は断じている。

日本社会には、追放は「永久」に続くものとみる早とちりがあったらしい。それが、気に入らない人物をその境遇に陥れようとする「暗い闘争」も引き起こした、と著者は指摘する。だが現実には、当初の追放はすべて1952年の主権回復までに解除されたのである。

それと異なり長く禍根を残したのが、後発のレッド・パージだ。GHQ内部でGSに代わってG2の発言力が強まった後、民主化とは方向違いの政策の一つとして打ちだされた。いわゆる逆コースだ。企業が「占領軍の絶対命令」の下で、被雇用者のうち「指名リスト」に載った左派の活動家や労働組合員を解雇して職場から即時退去を求める、というものだった。新聞社や通信社、放送界では1950年、その嵐に見舞われている。

この「リスト」が曲者だった。著者によれば、その作成に使う資料の一つに日本政府の特別審査局(公安調査庁の前身)が用意した名簿があった。特審局は占領下に設けられ、「右の追放」を進める側にいたが、それが「左の追放」に寄与する役所に変身していたのだ。

レッド・パージの指名を受けると、その人は「有無を云わさず建物の外に追い出された」。裁判所や労働委員会の場で復職を求める動きも起こったが、その望みは絶たれることが多かったという。この人たちは、公職追放とは違って「永久」に追い出されたかたちだ。

では、どんな人が指名されたのか。著者が引用した読売新聞の「社長布告」を読むと、それがわかる。マッカーサーが1950年6~7月に発した指令や書簡は「日本の安全に対する公然たる破壊者である共産主義者」を「排除すること」が「自由にして民主主義的な新聞の義務」であると位置づけており、「わが社もこの際、共産主義者並びにこれに同調した分子を解雇する」というのである。思想信条だけで職を奪ったような印象を受ける。

パージされた人の総数は、著者がこの一編に引いた労働省労政局の集計によると約1万1000人。メディア関係だけでなく、電気、石炭、化学、金属など多くの産業に及ぶ。

この一編は、その人たちのその後の人生にも言及している。悲惨なのは、再就職先にパージの履歴が知られてそこでも解雇され、自殺に追い込まれた人が、一人ならずいたことだ。NHKの技術者がラジオの修理人になったような例もあるが、手に職がなければ「翻訳、雑文書き、行商、焼きイモ屋、佃煮屋、本屋などをはじめた」と、著者は書く。私の少年時代、町で屋台を引いていた焼きイモ屋さんも、もしかしたらその一人だったのか。

個人の思想が統治者の意に沿わなければ、弁明の機会を与えることもなく排除する。当時は、日本国憲法があっても体制がそれを超越していたので、こんな無茶が通ったのだろう。だが、今の日本社会は違う。それなのになぜ、パージの異臭が消えないのか。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年12月4日公開、同月28日最終更新、通算551回
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偶然のどこが凄いかがわかる本

今週の書物/
『この世界を知るための人類と科学の400万年史』
レナード・ムロディナウ著、水谷淳訳、河出文庫、2020年刊

多面ダイス

先週に引きつづいて、科学史の大著『この世界を知るための人類と科学の400万年史』(レナード・ムロディナウ著、水谷淳訳、河出文庫、2020年刊)をとりあげる。当欄恒例の本文冒頭のまくら代わりに、今回はこの本に出てくる印象深い余話を一つ。

著者にはテレビドラマの脚本家というもう一つの顔があることは前回、すでに書いた。著者が「新スタートレック」の企画会議に出たときのことだ。太陽風という物理現象にかかわる筋書きを提案した。「そのアイデアとそのおおもとにある科学を熱心に細かく説明した」のである。してやったり、という感じか。ところが、プロデューサーの反応は予想外だった。「不可解な表情で一瞬私をにらみつけ、大声で言った。『黙れ、くそインテリ野郎!』」

その場に居合わせた人で物理学の学究は、著者一人。一方、くだんのプロデューサーはニューヨーク市警の刑事出身という人物だった。このエピソードは、科学者の思考様式が俗世間でどう見られているのかを如実に物語っている。ひとことで言えば、面倒くさいヤツだと煙たがられているのだ。著者の本に好感がもてる理由は、著者自身が世間の空気にどっぷり浸かり、自らが煙たがられる立場に身を置いてきた科学者だからだろう。

著者は世俗の事情をよく知っている。だから、科学思考を世俗の関心事と照らしあわせることを忘れない。私がかつて書評した著者の本『たまたま――日常に潜む「偶然」を科学する』(田中三彦訳、ダイヤモンド社)も、そうだった(朝日新聞2009年11月8日朝刊)。そもそも、世情に通じているから「偶然」にこだわるのだろう。この『…400万年史』も、科学がそれぞれの時代、偶然をどう位置づけてきたかを跡づけている。

で、今回は、この本の近現代史部分に的を絞って偶然観の変転を切りだす。それは、劇的だった。脇役がいきなり主役に躍り出たのだ。そこで表題は、先週の「科学のどこが凄いかがわかる本」(当欄2020年11月20日付)の「科学」を「偶然」に置き換えてみた。

最初に登場願いたいのは、アイザック・ニュートンだ。1687年に刊行した著書『プリンキピア』で、この世の物体は三つの運動法則に従うこと、物体には遍く万有引力が働いていることを示した。そこから導かれたのが、方程式通りに変化する決定論の世界観である。

この本では、ニュートン没後の18世紀半ば、物理学者ルジェル・ボスコヴィッチが書き記した見解が引用されている。「力の法則がわかっていて、ある瞬間におけるすべての点の位置と速度と方向がわかれば、そこから必然的に起こるすべての現象を予測できる」。数学者で天文学者のピエール=シモン・ラプラス(1749~1827)が未来の完全予見はありうるとして思い描いた〈ラプラスの魔〉も、同様の見方に支えられていると言えよう。

この世界観を崩したのが、20世紀の量子論だ。本書を参照しながら、その流れをたどろう。まず19世紀末の1900年、マックス・プランクが、エネルギーは1個、2個……と数えられるとする量子仮説を提起した。これに従って、ニールス・ボーアは原子核周辺の電子の軌道半径を「量子化」して考えた。1913年のことだ。電子は「許されるある軌道から別の軌道へ跳び移る」のであり、このときに「エネルギーを『塊』として失う」とみたのだ。

ボーアの理論は、裏返せば「電子が原子核へ向かって連続的に落ちていってエネルギーを失うことは不可能」(太字に傍点、以下の引用でも)ということだ。これは、ニュートン物理学と相容れない。なによりも、惑星や衛星の運動とまったく違うではないか。たとえば、人工衛星が落下するときは緩やかに弧を描いて高度を落としてくる。ところが、電子はぴょんと跳ぶというのだ。軌道から軌道へ移る間、それはいったいどこに存在するのか?

この問題を驚くべき発想で解決したのが、ヴェルナー・ハイゼンベルクだ。前提として受け入れたのは、電子の居場所はニュートン物理が対象とする天体や振り子のようには観測できない、ということだ。「位置や速さ、経路や軌道という古典的な概念が原子のレベルでは観測不可能だとしたら、それらの概念に基づいて原子などの系の科学を構築しようとするのはやめるべきかもしれない」――こうして1925年、量子力学を築いたのである。

その量子力学では、電子がエネルギーを失うときに放たれる光の色(振動数)や強さ(振幅)といった観測可能量だけをもとに数の行列(マトリクス)を組み立てる。理論から「イメージできる電子軌道」を外して「純粋に数学的な存在」に仕立て直したのだ。

余談になるが、ここらあたりは、学生たちが授業で量子力学を教わるときに最初につまずくところだ。物理学を学んでいるはずなのに数学の勉強を強いられる。数学が苦手な若者は、ここで物理世界に分け入る道を遮断されてしまう。私もその一人だった。ただ、この場を借りて私見を述べさせてもらえば、そこで諦めてしまうのは残念なことだ。数式をきちんと読めなくとも量子世界の空気は感じとれる。それは、世界観を豊かにしてくれる。

数学ずくめに不満な学生にとっては、助け舟もある。それを用意してくれたのが、量子力学のもう一人の建設者とされるエルヴィン・シュレーディンガーだ。彼は、ハイゼンベルクが行列で表した力学を、別のかたちで表現した。波動方程式である。波のイメージは、ニュートン物理の世界像にまだ囚われていた学界に受け入れられやすかったことが、この本からもわかる。学者でなければなおさらだ。私も波のイメージにだいぶ助けられた。

ハイゼンベルクも黙ってはいなかった。1927年、「古典的なイメージ」に追撃を加える。「不確定性原理」と呼ばれるものだ。それによれば「物体は位置や速度といった正確な性質は持っておらず」、位置と速度は「一方を精確に測定すればするほどもう一方の測定精度は落ちてしまう」関係にあるという。これは技術の限界ではなく、物理そのものの制約だ。「ニュートンのように運動をイメージするのは無駄」とダメを押したのである。

量子力学が教えてくれるのは、「これらのうちのどれかが起こる」ということだ。そこには「確率しか存在しない」と言ってもいい。「この宇宙は巨大なビンゴゲームのようなもの」――そんな世界像を量子論は示した、と著者は言う。ラプラスの魔はいなかったのだ。フィリップ・K・ディックのSF作品『偶然世界』(小尾芙佐訳、ハヤカワ文庫SF)が思いだされる(「本読み by chance」2020年3月20日付「ディックSFを読んでのカジノ考」)。

近代人は長くニュートン流の決定論を信じてきた。いや、今でもふつうには信じている。この本にも言及があるように、地震は予知できるという見方があるのも、社会科学者が未来予測に憧れるのも、この通念に根ざしている。ところが20世紀物理学は、決定論の方程式は限られた範囲だけで通用するものであり、世界の根底には偶然をはらんだ方程式があるらしいという見方にたどり着いたのだ。「偶然」の勝利である。

で、ここで著者は、またまた父を登場させる。ナチスがユダヤ人を整列させていたときのことだ。父はたまたま、列の後尾に並んでいた。親衛隊士官は、必要なのはユダヤ人3000人だとして、父を含む4人だけを切り離して連れ去った。3000人は墓掘りを強いられたうえ銃殺されたという。それは「父にとっては理解しがたい偶然だった」。この体験のせいか、父は後年、著者が語る量子論の不確定性を「容易に受け入れてくれた」そうだ。

最後に付け足しになってしまうが、著者が立派なのは、自らの専門分野を離れて生物学系の科学史にも踏み込んでいることだ。ここでは、著者がページを割いて詳述しているのが19世紀半ばに登場したチャールズ・ダーウィンの進化論であることに注目したい。

ダーウィンによれば、生物は「ランダムな変異と自然選択」によって進化する。考えてみれば、そこにある自然観も量子力学同様、アリストテレスの目的論やニュートンの決定論になじまない。偶然は凄いのだ。この本を読み切って、その思いを改めて強くする。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年11月27日公開、通算550回
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