村上春樹で思う父子という関係

今週の書物/
『猫を棄てる――父親について語るとき』
村上春樹著、絵・高妍、文藝春秋社、2020年刊

猫帰る

村上春樹が少年期を振り返って父親とのことを書いたというのは、私にとって驚きだった。『猫を棄てる――父親について語るとき』(村上春樹著、絵・高妍、文藝春秋社、2020年刊)。この人の小説は、エピソードの切りとり方こそ日常感覚にあふれているが、そこに抜きんでた空想力をもち込んで、ぶっ飛んだ物語世界に私たちを誘い込む。ところが今回は、あたかも私小説作家のように自らの個人史を晒して、一冊の書物にしたのだという。

もっとも、これを小説として読むのは誤りだ。巻末の「小さな歴史のかけら」と題するあとがきで、著者はこの一編を「文章」とのみ称している。その完成度からみて〈作品〉とみなしてよいと私は思うが、それはフィクションでもエッセイでもない。

初出は、月刊『文藝春秋』の2019年6月号。「文章」の長さは中編小説ほどのものなので、ほかの作品と併せて単行本にするという選択肢もあったが、あえて「独立した一冊の小さな本」にしたという。あとがきには「内容や、文章のトーンなどからして、僕の書いた他の文章と組み合わせることがなかなかむずかしかったからだ」とある。著者自身も、この作品が小説家村上春樹の世界から外れていることを認めているのである。

もう少し、あとがきにこだわろう。著者には「亡くなった父親のことはいつか、まとまったかたちで文章にしなくてはならない」という思いがあり、「そのことが喉にひっかかった小骨のように、僕の心に長い間わだかまっていた」という。

私は、この吐露に納得した。実は、私も今年、父を失っている。97歳の静かな死だったから天寿を全うしたと言ってよいだろう。父と私との関係は平凡だった。確執はなかったが、仲が良かったわけでもない。少年時代にキャッチボールをした、日曜大工を手伝った、という思い出もないのだから、淡白な間柄だった。だが、死のその日から、父のことを思いめぐらすようになった。著者の心にも同じような転回があったのかもしれない。

父は子にとって、とりわけ息子にとって、そういう存在であることがままあるのだろう。その人が存在しているときは紐帯を自覚することがない。ところが非存在となったとたん、その紐帯の絡みつくさまがにわかに浮かびあがってくる。なんと逆説めいていることか。

で今週は、この本をとりあげる。冒頭、表題のエピソードが「父親に関して覚えていること」の一つとして披歴される。一家が兵庫県西宮市の夙川(しゅくがわ)に住んでいたころ、「海辺に一匹の猫を棄てに行ったことがある」。飼っていたのか、それともただ居ついていただけなのかもはっきりしない雌猫。「昭和30年代の初め」のことらしい。当時は、猫を棄てることが「とくに世間からうしろ指を差されるような行為ではなかった」。

著者は1949年生まれだから、まだ子どもだ。父が漕ぐ自転車の後ろにまたがって猫の入った箱を抱え、海辺へ向かった。父子は香櫨園(こうろえん)の浜まで2キロほど走り、防風林で猫に別れを告げ、家路を急いだ。で、玄関を開けたときのことだ。「さっき棄ててきたはずの猫が『にゃあ』と言って、尻尾を立てて愛想良く僕らを出迎えた」のである。父は「呆然」とし、次いで「感心」して、最後には「いくらかほっとした」表情を見せたという。

ここで私には一つ、思いあたることがある。少年期の記憶はどこかぼやけていて、大人になって思い返すときに改編されていたりするものだ。著者を疑うつもりはないが、この猫の先回りにもそんなトリックがあるのかもしれない。父子はまっすぐではなく、回り道して帰宅したのではないか。棄て場所は浜ではなく、もっと近所だったのではないか。いや、そもそも、猫を棄てに出かけてはいなかったのかもしれない……。

著者自身、猫が自分の「友だち」であり、家族とも「仲良く」やっていたことを振り返り、「どうしてその猫を海岸に棄てに行かなくてはならなかったのだろう?」「なぜ僕はそのことに対して異議を唱えなかったのだろう?」と自問している。

もう一つ、父の思い出として特記されているのは、朝食前に「長い時間、目を閉じて熱心にお経を唱えていたこと」だ。父は、京都の由緒ある寺の住職の次男だった。自身は阪神間の中高一貫校で国語教師になったが、読経の習慣は身についていた。異彩を放つのは、そのお経を毎朝、何に対して唱えていたかだ。父の前にあるのは、いわゆる仏壇ではなかった。代わりに「美しく細かく彫られた小さな菩薩」を入れたガラスケースが置かれていた。

著者は、子ども心に理由を知りたくて「誰のために」と聞いたことがあった。父は、「前の戦争で死んでいった人たちのため」「仲間の兵隊や、当時は敵であった中国の人たちのため」と答えた。著者の問いかけは、そこで止まる。「おそらくそこには、僕にそれ以上の質問を続けさせない何かが――場の空気のようなものが――あったのだと思う」。そうだ、戦後世代の私たちは先行世代と心を通わせようとすると、いつもこの壁にぶち当たるのだ。

著者は、このあたりから父の個人史を描きはじめる。それは、この一編のお肉の部分なので細部に立ち入らない。「文章」とは言っても、やはり稀代の小説家村上春樹の作品なのだ。物語としても十分に読めるのだから、ネタをばらすようなことは控えたいと思う。

私が目をとめたのは、この個人史のぼやけやゆらぎだ。著者の記憶には、もともと父の軌跡がとどめられてはいた。ところが父の没後、それが欠陥だらけであることが著者自身の調査によってわかってくる。そこに読みものとしての魅力も生まれている。

一例を挙げれば、父の軍歴。父は、旧制中学校を出て仏教系の専門学校に在学中、兵隊にとられる。20歳だった。著者は、そのときに父が入営した部隊名を間違って覚えていた。間違ったまま放置されていたのはなぜか。それは、配属先と信じ込んでいた部隊がある事件とかかわっており、父に対するもやもやした疑念を生んでいたからだ。「生前の父に直接、戦争中の話を詳しく訊こうという気持ちにもなれなかった」と、著者は告白する。

父は2008年、90歳で永眠した。息子が「何も訊かないまま」、父が「何も語らないまま」、父子は世界を分かつことになったのだ。それで著者は調査に乗りだして、父の配属先が別の部隊とわかり、疑念も晴れた。「ひとつ重しが取れたような感覚があった」という。

父は1938年、中国大陸の戦線に送り込まれた。1年で除隊後、専門学校に復学して卒業したが、1941年に再び召集される。ところが2カ月後、上官から「召集解除」を言い渡されたという。著者が「父から聞いた話」では、上官は父が京都帝国大学の学生であることを慮って「学問に励んだ方がお国のため」と告げたというのだが、信じ難い。著者も「そんなことが一人の上官の裁量でできるものかどうか、僕にはよくわからない」と懐疑的だ。

実際、父は京大に進み、文学を学び、卒業した。だが、著者が京大の名簿に当たってみると、父の入学は1944年だった。「子供の頃に僕が聞かされた――聞かされたと記憶している――話」は「残念ながら事実にはそぐわない」と、途方に暮れるのだ。

ただ、父がこの話をするとき、「上官のおかげで命を助けられた」と言っていたことには重みがある。1941年に父が入営した師団は戦争末期、ビルマ戦線でほとんど壊滅状態になったからだ。父が最初の兵役で所属した師団も日米開戦後、中国大陸からフィリピンの激戦地へ転戦させられたので、除隊が延びていればこちらで戦死した可能性もある。「そうなればもちろん僕もこの世界には存在していなかったことになる」と、著者は書く。

この一編は、ぼやけてゆらぐ記憶のかたまりだ。もっとも衝撃的なのは、父が一度だけ明かしたという軍隊での出来事。あまりに強烈なので紹介しない。だがそれも、主語ははっきりしない。ぼんやりしているからズシンとくる。父と子は、そんな記憶でつながっている。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年10月2日公開、通算542回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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新聞記者オールディーズ考

今週の書物/
『事件記者【報道癒着】』
酒井直行著、島田一男原案、新波出版、2017年刊

紙と板

先々週、先週と新聞記者のレガシーを語った。伝説の人とも呼べる先輩記者の訃報が届いて、先行世代が残してくれた職業観を真正面から受けとめてみたのだ。ただ、ちょっと話がまじめ過ぎた。記者の仕事には、もっとハチャメチャな側面がある。

事実を先んじて伝えたい。記者を突き動かしているのは、そんな子どもじみた思いだ。夕刊、朝刊と日に2回、勝ち負けの決まるレースがある。超一級の情報を自分だけがつかみ、それを記事にして競争相手に一泡吹かせたい――その一心で日々、駆けまわっている。

この競争は、「抜く」「抜かれる」という業界用語で表現される。市場経済ではものごとの価値が「売れる」「売れない」で測られるが、新聞記者はそれを気にしない。頭にあるのは「抜く」「抜かれる」の物差しばかり。そのことは、当欄の前身(「本読み by chance」2019年10月25日付「横山秀夫「64」にみる記者の生態学」)でも書いた。メディアの無定見を「売らんかな」の精神のせいにする人が多いが、新聞に限って言えばそうではない。

新聞記者の世界は、資本主義以前。中世も古代も跳び越えて、太古の狩猟社会のようだ。それを描いたドラマにNHKがテレビ草創期に毎週放映した「事件記者」(1958~1966)がある。警視庁記者クラブに詰める記者たちがギルド的友愛でつながりながら、化かし合いの競争を繰り広げる。私は少年時代、将来の自分が同じ道に入ることも知らず、この番組に熱中した。(「本読み by chance」2014年5月2日付「ジャジャジャジャーンの事件記者」)

私は、新聞記者になったが科学畑が長かったので「事件記者」とは言えない。ただ駆けだし時代、警察の記者クラブにいたころの自分を思い返すと、あのドラマの記者群像とダブって見える。それは、子どもじみた大人という記者の特性がむき出しになる世界だった――。

で、今週は『事件記者【報道癒着】』(酒井直行著、島田一男原案、新波出版、2017年刊)を電子書籍で読む。島田はドラマ「事件記者」の原作者。ちなみに前述の拙稿「ジャジャジャジャーン…」では、彼が書いた小説『事件記者』(徳間文庫)をとりあげている。その設定を引き継いで21世紀の今を舞台に仕立て直したのが、今回の小説だ。著者は1966年生まれ、ドラマの脚本やゲームシナリオなどの執筆も手がけている。

当欄は、ここで酒井版『事件記者』の筋書きには立ち入らない。断片的なエピソードをいくつか拾いだし、ドラマの記憶や私自身の思い出にある昔の記者像と今現在のそれを引き比べて、彼此の違いをあぶり出してみたい、と思う。

まずは、朝の記者クラブ風景。東京日報の相沢キャップがソファーで各紙朝刊に目を通している。「出勤途中の電車内で、各新聞社の電子版朝刊にはスマホで一通り目を通してきてはいるのだが、やはり、毎朝きまっての特オチ特ダネのチェックはインクの匂いがまだ残る新聞紙面で確認するに限る」(引用部のルビは省く、以下も)。私は「電子版」「スマホ」の語句を見て、今ならそうだろうなと納得し、すぐに、でもちょっと違うなと苦笑した。

昔の記者は当然、電子版で他紙の特ダネにあわてるようなことはなかった。私たちは、事件記者であろうが科学記者であろうが、自腹を切って競争紙を定期購読するのが常だったのだ。それは、ひとえに一刻も早く朝刊を開いて「特オチ特ダネのチェック」をするためだった。布団のなかで他紙の大見出しに愕然とし、いっぺんに目が覚めたことは幾度もある。今は「電子版」で済ますのだろうが、ただ「出勤途中の電車内で」というは遅すぎる!

警察と新聞の関係も激変した。相沢が訳あって、庁舎玄関の制服警官と言葉を交わす場面がある。警官は礼儀正しいが、ふだんは不愛想。相沢は「分かっています。上から言われているんでしょ? マスコミの人間とはあまり親しくするなって」。そして、先輩の懐旧談を受け売りする。「昔はそれこそ、捜査一課の刑事たちと記者クラブの連中が一緒になって近くの居酒屋で酒を酌み交わしたり、家族同士の付き合いなんかも頻繁にあったらしいよ」

相沢が、新人記者に取材法を伝授するくだりにはこんな嘆きも。「その昔は、夜討ち朝駆けと言って、担当刑事の家まで朝に夜に日参してはネタを仕入れてきたものなんだが、これが今ではずいぶん難しい」。世間が、公務員の守秘義務に厳しくなったのだ。

夜討ち朝駆けは、かつて事件記者の日課だった。おぼろげな記憶では、ドラマ「事件記者」の面々も、村チョウさん、山チョウさんと呼ばれる刑事の自宅玄関前に群がって、捜査情報を聴きだしていたように思う。これは事件記者に限らず記者一般に言えることだが、連れだって飲みにいくのであれ、自宅に押しかけるのであれ、家族と仲良しになるのであれ、取材先との間に私的交流があることは、情報源に食い込んでいるとして褒められたものだ。

これは、なあなあの関係を生んだ。東京日報が機動捜査隊の出動を嗅ぎつけて、凶悪事件の発生を知ったとき、長老記者は新人にこんな思い出話をする。「ワシらと刑事たちがツーカーの間柄じゃった頃は、機動捜査隊が動き出す前に、捜査一課の顔馴染みの刑事がここに顔を出して、『コロシの一報が入ったけど尾いてくるかい?』なんて声かけてくれたもんじゃ」。現場では、短時間だが立ち入りを許して写真も撮らせてくれたという。

長老の回顧談には、新聞社のハイヤーが社旗を立てて捜査車両を追いかける話も出てくる。旗はボンネットの先端でひらめいている。それは、ドラマ「事件記者」のオープニング映像そのものだ。あのころの新聞社旗は、報道機関は公器なのだ、という自負の表れだったように思う。今の感覚で言えば、思いあがっている。あの旗は、そんな歪んだ自負の匂いを町中にまき散らしていたのだから、世間の反感を買うのも当然だろう。

新聞が、公器としての特権をふりかざす時代は終わったのだ。だから、記者も創意工夫を凝らさなくてはならない。そんなこともあるのかと思わせる一節が、この小説にはある。前述の機捜隊出動を東京日報の記者がどう察知したか。警視庁近くのビルで別の記者クラブに詰めていた記者が、窓際に据えたビデオカメラで機捜隊の車が出ていく瞬間を録画したというのだ。テクノロジーが「ツーカー」の欠如を補ったのである。

昔と変わらないのは記者クラブか。私が京都支局の警察回りだったとき、キャップからこっぴどく叱られたことがある。内偵取材の資料を無造作にポケットに突っ込んでクラブに戻って来たら、咎められたのだ。他社に感づかれるではないか、というわけだ。相沢も、新人にクラブの作法を教え込んでいる。他社のブースに足を踏み入れるのはダメ。他社が何を追いかけているかは、些細な「会話や態度」から嗅ぎとらなければならない――。

昔と変わらない取材方法もある。私は京都時代、殺人事件が起こると現場周辺の家々や店々を回って「聞き込み」をしたものだ。この小説で新人記者が、現場に急いでも規制線の先に立ち入れないなら意味がないのでは、と突っかかると、先輩記者が諭す。「事件記者が取材するポイントはごまんとある」。被害者の隣人知人を見つけて、どんな人物だったか、誰とつきあっていたかを聞く。商店や飲食店を回って、日ごろの暮らしぶりを探る――。

足で稼ぐ事件取材は今も続いているわけだ。ただ、今どきの記者たちは昔よりずっと辛い目に遭っているに違いない。個人情報保護の認識が広まったからだ。政治家や企業トップの不正なら、公人の情報は開示すべきだ、と堂々と言える。だが、市井の事件当事者についてあれこれ聞きだすとなると話は別だ。事件の真相は、辛いことだが次世代に手渡すべき公的な記録であり、限られた範囲で公にされなくてはならないと思えるのだが……。

今週は1960年代のドラマを思いだしながら、ハチャメチャな話を懐かしもうと思っていた。だが結局は、前回「新聞記者というレガシー/その2」(2020年9月18日付)同様の切実な論点に戻ってしまった。やはり、新聞は深刻な局面にあるのだ。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年9月25日公開、同日最終更新、通算541回
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虚子、客観写生の向こう側

今週の書物/
『虚子百句』
小西昭夫著、創風社出版、2010年刊

ものと蔭

秋めいてきた。その移ろいは蝉の鳴き方一つでわかる。自分が季節の兆しに敏感とはとても言えないが、それでも70年近く生きていると、なんとはなしに感じとれることがふえてくる。で、今週は、そんな季節感にもかかわる俳句本を開くことにしよう。

『虚子百句』(小西昭夫著、創風社出版、2010年刊)。虚子は、もちろん高浜虚子(1874~1959)のこと。明治・大正・昭和を生き抜いた俳壇主流の俳人である。愛媛県松山に生まれ、同郷の正岡子規に師事、夏目漱石とも交流があった。著者については、この本に横顔紹介が見当たらない。愛媛新聞のウェブサイトによると、松山市在住の人で、俳句誌『子規新報』の編集長を務めており、同紙俳句欄の選者でもあるという。

私がこの1冊を選んだのは、どうしてか。一つは、まったくの偶然だ。コロナ禍で書店に出向くのもためらわれ、拙宅の本のストックを漁っていたら、この本がひょっこり現れた。「虚子」の名に一瞬敬遠の思いがかすめたのだが、ぱらぱらめくるとdog-ear(犬の耳)、すなわち、ページの隅を折った箇所がある。「初蝶来何色と問ふ黄と答ふ」(上の句は「はつちょうく」と読む)。いい句だ。だが、自分がかつて付箋代わりに犬の耳を折った記憶はない。

そもそも、本を買ったことも思いだせないのだ。たぶん俳句を始めたころ、先達の一人から貰ったのだろう。くれた人は、うっかり犬の耳を元に戻すことを忘れていたのではなかったか。これが10年ほどして私の心をとらえる。そのいきさつそのものが俳句のようだ。

もう一つは、たまたま開いたページで「森田愛子」の名を見つけたこと。森田(1917~1947)は福井県の港町三国(現・坂井市)で豪商の娘として生まれ、東京に進学して結核療養中、句づくりを始める。私は新聞記者としての初任地が福井だったので、その名に愛着がある(「本読み by chance」2016年4月29日付「三国湊ノスタルジック街道をゆく」)。そう言えば、彼女は虚子の孫弟子。この本には、森田ゆかりの次の句が載っていた。

不思議やな汝れが踊れば吾が泣く(汝れは「なれ」)
虚子は戦時中の1943年11月、三国に帰郷している愛子を見舞い、隣の石川県にある山中温泉に泊まる。本書によれば、この句の詞書には「山中、吉野屋に一泊。愛子の母われを慰めんと謡ひ踊り愛子も亦踊る」とある。季語は「踊り」で、秋。北陸の空模様が、冬めいた激しさを帯びはじめたころのように思う。そんな折、山深い温泉宿で母娘が旅人の心を癒すように舞い踊る。娘は、自身の病のことを忘れたかのように……。

この句に一瞬、私はたじろいだ。あなたが踊るのを見て私が泣くというのは、情緒的に過ぎはしないか? 虚子と言えば「花鳥諷詠」「客観写生」を唱えた人として知られる。その人が「不思議やな」と独りごち、最後は「泣く」ほどに感極まっている!

この本は、著者が『子規新報』に連載した記事をまとめたもので、精選された百余句を一つずつとりあげ、それぞれの解説に1ページを充てている。ところどころに挟まれた著者の「エッセイ」や「あとがき」にも独自の虚子論がある。そこから感じとれるのは、虚子に固定観念のレッテルを貼るな、という戒めである。たまたま目にとめた「不思議やな…」の句は、孫弟子への感情が横溢して、レッテルとはもっとも遠いところにあるように思えた。

で、今回はレッテルを忘れ、虚心坦懐になって虚子の秋の句を堪能してみよう。
もの置けばそこに生れぬ秋の蔭
秋めいた今、私の心にもっともしっくり来る句はこれだった。窓から差し込む日差しが斜めの度合いを強めると、蔭が意識されるようになる。著者は「具体的なペンや湯呑みといった品物を詠まず『もの』とだけ表現したこと」に工夫の跡を見ている。

「もの」という言葉が力を発揮した句は、ほかにもある。
大いなるものが過ぎ行く野分かな
1934(昭和9)年、関西を中心に大きな爪痕を残した室戸台風を詠んだ一句らしい。ここでも、強風、豪雨、高潮といった個別事象にまったく触れていない。「大いなるもの」という言葉を選ぶことで「巨人が通りすぎていったような感じ」を表した、と著者はみる。

著者によれば、この作品はもともと中の句が「もの北にゆく」だったが、推敲されて「ものが過ぎ行く」に変わったという。ここにも、「北に」という方向性を捨象した強みが出ている。「写生」を唱える人も、具象を巧妙に捨てる技に長けていたのだ。

目にて書く大いなる文字秋の空
天高し雲行く方に我も行く
2句に共通するのは、自然界に対して作者自身と思われる主体がかかわり、その身体感覚が詠まれていることだ。空を見あげ、視線の先を動かして字を書いた気分になる、あるいは雲の流れにつられて思わず歩く。そこには動詞付きの主観がある。

動詞付きで描かれるのは、自分だけではない。
月の友三人を追ふ一人かな
柿を食ひながら来る人柿の村
前者では、月があり、月見を先に始める3人がいて遅刻する1人もいる。その5者の関係性がおもしろい。後者は、柿の朱色の季節感が齧りとられていくことの妙。

ワガハイノカイミヨウモナキススキカナ
これは、夏目漱石の飼い猫の死を、漱石門下の松根東洋城の電報で知ったときの返電。虚子は、漱石に『吾輩は猫である』の執筆を促した張本人なので、他人事ではなかった。片仮名書きは電報だから当然だが、それが「いい味を出している」(著者)。これは「挨拶句」と呼ばれるもので、ふつうの作品とは同列に論じられないが、虚子の機知が感じられる。

最後に、私の胸に今、もっとも染み入る句を一つ。
彼一語我一語秋深みかも
「彼がぽつりと一語を発する。それに答えて我も一語を発する」(著者)。そこにあるのは、極小の対話だ。居酒屋で会話を途切れさせないことに汲々とする若者には真似ができまい。(「本読み by chance」2016年3月25日付「綿矢「蹴りたい」の自律的な孤独」)

この句は1950(昭和25)年の作。虚子はすでに70代後半だった。著者は、その「秋深みかも」に「人生の秋の時間」もみてとる。たしかにそうだろう。私たち高齢者の足が友との会食から遠のく昨今、一語ずつのやりとりでもできたなら、と切に思う。
*句にはすべてルビが振られていましたが、当欄の引用では一部を除いて省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年9月4日公開、同月5日更新、通算538回
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特別な8月、コロナと核の接点

今週の書物/
広島、長崎の平和宣言
松井一實・広島市長、田上富久・長崎市長(2020年8月)

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今年の夏を「特別な夏」と呼んだのは、小池百合子東京都知事だ。コロナ禍は夏の風景を一変させた。人気の花火大会がとりやめになった、甲子園の応援合戦が消えた……そんな話ばかりではない。私たちは、いつもの年とは違う思いで鎮魂の日を迎えた。

8月と言えば、すぐに頭に浮かぶのは6日、9日、15日だ。俳句では、それを詠み込んだ類似句がたくさんできている(「本読み by chance」2016年12月9日付「俳句に学ぶ知財の時代の生き方」)。二つの被爆と一つの敗戦は今年、満75年の節目だったのだが、いずれも感染を避けるため、規模を小さくして挙行された。人々がまばらに並ぶ光景は、私たちがいま置かれている異様な事態を強く印象づけるものだった。

私は毎年、これらの式典で要人が語る言葉――宣言や挨拶や式辞――に注目している。いずれも平和の尊さを訴えていることに変わりはない。きれいごとの羅列という印象も拭えない。だが結構、読みどころがあるのだ。そのときならではの問題意識が織り込まれていることがある。行間ににじませた思いが伝わってくることもある。だからなるべく、テレビの生中継やニュースで聞くだけではなく、テキスト全文を熟読するようにしている。

2013年には松井一實・広島市長と田上富久・長崎市長の平和宣言を拙著『科学をいまどう語るか――啓蒙から批評へ』(岩波現代選書)で引いたこともある。このときに私が注目したのは、両市長ともその夏の宣言で東京電力福島第一原発事故に触れ、核エネルギーの危うさが原爆と原発に共通することを強く匂わせた点だ。日本社会は戦後長く、核の軍事利用と原子力の平和利用を別件として論じてきたが、それに疑問符を投げかけたのである。

今年は両市長がコロナ禍に言及するだろうと予想していたら、案の定そうだった。ということで今回は、松井・広島市長と田上・長崎市長の2020年版「平和宣言」(それぞれ8月6日と9日に発表)をとりあげる。全文は、広島市と長崎市の公式サイトで読んだ。

ではまず、広島市の平和宣言から。松井市長は第2段落でさっそく、新型コロナウイルス禍に言及している。その脅威は「悲惨な過去の経験を反面教師にすることで乗り越えられるのではないでしょうか」という。その反面教師とは、約100年前のスペイン風邪だ。

それは第1次世界大戦中の1918年にはやり始め、翌19年にかけて流行の波が3度も押し寄せた。世界保健機関(WHO)は、全人類の25~30%ほどが感染したと推計している(国立感染症研究所感染症情報センターの公式ウェブサイトによる)。宣言はこのいきさつを踏まえて、こう強調する。「敵対する国家間での『連帯』が叶わなかったため、数千万人の犠牲者を出し、世界中を恐怖に陥(おとしい)れました」

スペイン風邪を「連帯」欠如の悪しき前例と見ているのだ。このことは、上記サイトの記述に照らすと腑に落ちる。流行の第1波に襲われたのは、大戦真っ盛りの2018年春から夏にかけて。このときの対策が手ぬるかったことは容易に推察される。参戦国は防疫と経済の両立どころではない。戦争に国力を注がねばならなかったのだ。結局は感染を第1波で封じ込められず、終戦前後の晩秋、より強烈な第2波を招いた。(季節は北半球のもの)

コロナ禍で「国家間」の「連帯」というと、医療資源を融通しあう国際協力がまず思い浮かぶ。これについては、スロベニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクも、感染拡大の初期に執筆した「監視と処罰ですか?/いいですねー、お願いしまーす!」(松本潤一郎訳、『現代思想』2020年5月号所収)で論じている。ジジェクは、そこにコミュニズム再生の可能性を見ているのだ。(当欄2020年7月10日付「ジジェクの事件!がやって来た」)

宣言は、思想にまでは踏み込まない。感じとれるのは、連帯の第一歩は戦争しないことという素朴な訴えだ。幸いなことに今、世界規模の戦争はない。だが、政治権力者の顔ぶれを見渡すと、自国中心の発想が際立つ人があちこちにいる。紛争のタネは尽きず、その先には核戦争の危険がある。そこで市長は「私たち市民社会は、自国第一主義に拠ることなく、『連帯』して脅威に立ち向かわなければなりません」と強調するのだ。

広島宣言の要点は、「脅威」という一語に新型コロナウイルスの感染拡大と核戦争の危険増大をダブらせたことだろう。それは裏返せば、コロナ禍対策でもし世界に連帯の機運が蘇れば、核兵器禁止の流れも再び強まるかもしれないという淡い期待を抱かせる。

次に長崎平和宣言に進もう。こちらは後段で、コロナ禍の話が出てくる。とりあげているのは、医療関係者が緊迫した状況下で検査や治療に追われていたとき、世の人々が拍手を送ったことだ。この最近の出来事を振り返りながら、田上市長は呼びかける。「被爆から75年がたつ今日まで、体と心の痛みに耐えながら、つらい体験を語り、世界の人たちのために警告を発し続けてきた被爆者」にも「心からの敬意と感謝を込めて拍手を」と。

私がはっとさせられたのは、市長が被爆者を患者や感染者ではなく医療スタッフになぞらえたことだ。被爆者は核の被害者だが、同時に核の不条理を体現して核戦争を食いとめてきた人々でもある。だから、「敬意」と「感謝」を表明したのだ。私は子どものころのキューバ危機を思いだす(「本読み by chance」2015年11月13日「米大統領選で僕の血が騒ぐワケ」)。人類は被爆の怖さを教えられていたからこそ、破滅を回避できたのだろう。

長崎宣言には、コロナ禍ももちだしながら、若い世代に語りかけたくだりもある。「新型コロナウイルス感染症、地球温暖化、核兵器の問題に共通するのは、地球に住む私たちみんなが“当事者”だということです」。含蓄に富む一文だ。

新型コロナウイルス感染症や地球温暖化に対して、私たちが「当事者」というのはよくわかる。言葉を換えれば、被害者然としてはいられないということだ。前者で、人々は自分がうつされるリスクだけでなく、自分がうつすリスクも負わされている。後者では、その影響と思われる異常気象に右往左往しているのも自分、その元凶とされる温室効果ガス大量放出に手を貸しているのも自分という構図がある。

では、核兵器はどうか。これは政治家が扱う案件であり、私たちの大勢はもっぱら危険にさらされる側にいるというのが世間の常識だろう。ところが宣言は、それをコロナ禍や温暖化と並べたのである。そこから感じとれるのは、あなたの国の政治家が核戦略に執着したり、核不拡散に無関心だったりするならば、そんな人物を選んだあなたにも責任がありますよ、という理屈だ。市長がそこまで意図したかどうかはわからないが……。

2020年夏、広島と長崎の平和宣言は、核廃絶とコロナ禍克服をそれぞれの視点で結びつけた。広島は国際連帯の文脈で、長崎は市民の意識に引き寄せて。どちらも、来年の宣言ではコロナ禍がどう書かれることになるだろうか、と思わせるものではあった。

で、最後は楽屋話を。この拙稿は速報性ということでは先週公開したほうがよかったが、1週遅らせた。安倍晋三首相が15日の全国戦没者追悼式で読みあげる式辞もコロナ禍に言及するだろうから、その話を盛り込もうと思っていたのだ。たしかに、コロナは出てきた。ただ、「現下の新型コロナウイルス感染症を乗り越え……」とあるだけだった。首相の人間観や歴史観に格別の関心があるわけではないのだが、ちょっと拍子抜けだった。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年8月21日公開、通算536回
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コロナ禍の夏、空襲に思いを致す

今週の書物/
『東京大空襲――未公開写真は語る』
NHK
スペシャル取材班/山辺昌彦著、新潮社、2012年刊

頭巾

市中に無症状の感染者が数多くいる、という現実は怖い。無症状者が怖いわけではない。自分だってその一人かもしれないからだ。怖いのは、被感染→感染という一大事がいつとも知らず身にふりかかってくるという状況だ。運命を確率に委ねるしかない。

夏になって今年もメディアが戦争の話題をとりあげ始めたとき、私には一つ、思いついたことがある。もしかしたら、私たちの先行世代は同じような確率任せを過去に体験していたのではないか――。太平洋戦争末期、日本列島では米軍の本土空襲が始まり、B29爆撃機が焼夷弾投下を繰り返した。都市住民は、わが町がいつ火の海になってもおかしくない状況に置かれたのだ。それは、コロナ禍の今とどこか似ているのではないか?

空襲の恐怖は、そんなものじゃないよ――先行世代からは、そう叱られそうだ。だから、誤解のないように念を押しておくと、私は空襲という惨事そのものではなく、〈いつ火の海になってもおかしくない状況〉に類似点があると推察しているのだ。

たとえば今、テレビでは「こんなときだからこそ、気持ちだけは明るくしていたいですね」といった言葉が飛び交っている。これは、「欲しがりません勝つまでは」などの戦時標語を連想させる。米軍機が列島住人の忍耐によって上空から追い払えなかったのと同じように、快活な心だけでコロナ禍は封じられない。それなのに「元気」の大量配布でなんとかしのごうとしているようにも聞こえて、かえって無力感を覚える。

もっとも類似を感じとれるのは、政治のありようだ。戦時中、戦況が悪くなってからでも日本政府には停戦に向かわせる外交手段がいくつもあったはずだ。それなのに本土空襲という事態になっても舵を切ることができなかった。隣組の団結心や竹やりの訓練で戦況を好転できると、本当に思っていたのか。これは感染拡大が猛烈な勢いでぶり返しても、人々の3密回避や手洗い励行を頼みの綱にしている今の政治風景と重なりあう。

で、今週は空襲に目を向けよう。空襲が人々の心模様にどんな影を落としていたかもうかがえる写真集をとりあげる。『東京大空襲――未公開写真は語る』(NHKスペシャル取材班/山辺昌彦著、新潮社、2012年刊)。掲載写真は、旧陸軍の宣伝機関「東方社」に呼び集められた写真家たちが撮影したものだ。これらは、東京大空襲・戦災資料センターに寄贈された。山辺氏はそのセンターの研究者として解説を執筆している。

では、さっそく本を開こう。ページを繰るごとにモノクロ画像が、これでもかこれでもかと空襲の実態を見せつけてくる。そこに軍部の意向がどう入り込んでいるかは判別し難い。空襲の威力は強調したくない、その一方でそれが人道にもとることは訴えたい――そんな相反感情があっただろうからだ。これは、写真家にとっては好都合だったのかもしれない。結果として、自らの心に忠実に写真家魂を反映できたようにも思えるからだ。

見開き2ページの全面を費やした写真を見てみよう。二階建て家屋の屋根に隣家から火が燃え移ろうとしている。一人が階下の軒先に梯子を掛けて昇り、ホースの筒先らしきものを上方に向けて放水している。煙のせいか、逆光のせいか、あるいは暗くて露光時間を長くとったためか、画調は薄ぼんやりとしている。キャプションには「夜間空襲(撮影地不詳)」「昭和20年(1945)5月26日 撮影:光墨弘」とだけある。

光墨は報道分野で活躍した人。ということは、空襲と知って押っ取り刀で現場に駆けつけ、パチリと収めた1枚のように思える。私はこれを見て、戦場カメラマンのロバート・キャパが第2次大戦中に撮ったノルマンディー上陸作戦の写真を思いだした。ぼやけている。だが、それがかえって迫真。もっとも、あれは暗室作業の手抜かりに原因があったらしいが……。(「本読み by chance」2017年5月12日付「キャパのパチリ、報道の核心」)

掲載写真の1枚1枚を紹介したいのはヤマヤマだが、当欄の性格上、それはできない。ということで、本文やキャプションの助けを借りて印象に残ることをすくいあげていこう。

巻頭では、本書刊行前に放映されたNHKスペシャル「東京大空襲 583枚の未公開写真」の取材班が序文を書いている。「兵隊でもないごく普通の日本人」にとって、空襲は「最も“ポピュラー”な戦争体験」だった。それなのに「祖父や祖母がその時どのような顔をしていたのか、私たちは知らない」というのだ。さらに一つ私が加えれば、B29がいつ飛来するかもしれないときに人々がどんな心持ちでいたのか、それもわからない。

本編ではまず、東京空襲が本格化した1944年11月24日のことが記述されている。東京に対する空襲は開戦4カ月後にもあったが、それは続かなかった。その後、太平洋海域が米軍の手に落ちてから、B29の大挙飛来が始まったのだ。この日の標的は現武蔵野市の中島飛行機武蔵製作所だったが「その周辺のみならず、遠くはなれた荏原区(現・品川区)の民家や町工場も被災した」。人々が面的で無差別の攻撃に慄いた最初の瞬間だった。

3日後、こんどは原宿界隈が被災する。ここには、海軍軍人東郷平八郎を祀る東郷神社がある。本書によると、警視庁のこの日の記録には「爆弾四個、焼夷弾四個」が境内に落ちたが「異常なし」とされている。ところが小山進吾撮影の1枚をよく見ると、拝殿の屋根に穴が開いている。空襲後に神官の拝礼風景を写したもので、ぱっと見では拝殿が守られたことを伝える図柄になっている。ところが画面上部にはぽっかり……。写真は嘘がつけない。

この日、原宿駅周辺の現場写真では、防空頭巾をかぶってバケツをやり取りする人が写っている。本文にも、東方社の写真家が「バケツリレーによって懸命に消火に当たる人々の姿」をとらえたとの記述がある。人々は、空襲本格化の時点ですでに訓練されていたのだ。

実際、防空訓練は日米開戦よりも前からあった。1933年には関東地方で大演習が展開されている。このとき信濃毎日新聞主筆の桐生悠々が訓練の虚しさを社説で論じ、軍部周辺の反発を招いて退社した。この本では、その社説の要点が引用されている。敵機襲来が現実になれば「如何に冷静なれ、沈着なれと言い聞かせても」「逃げ惑う市民の狼狽目に見るが如く」であり、あちこちから火が出て「阿鼻叫喚の一大修羅場」になるだろうというのだ。

バケツの写真を見る限り、市民たちは戦前からの訓練のおかげで「狼狽」や「阿鼻叫喚」を押し殺し、「冷静」「沈着」に行動できるようになっていた。ただ、そのバケツは文字通り、〈焼け石に水〉でしかなかったはずだ。桐生はこの社説で、空襲が一度で終わらず、なんども繰り返されるおそれを指摘している。敵機の東京襲来を「我軍の敗北そのもの」とも断じている。炯眼と言うべきだろう。その通りのことが十余年後に起こったのだ。

この写真集には、意外にも笑顔が散見される。九段から神田にかけての一帯は1945年3~5月の空襲で焼け野原になった。バラック住まいの少女は、洗濯物を干しながらカメラ目線で笑っている。丸刈りでパンツ一丁の少年も、はにかみ笑いを浮かべている。

被写体となった人々が「カメラを意識してポーズをとった」(同様の笑顔写真に添えられたキャプション)ことはあるだろう。山辺氏の解説にあるように、東方社の「対外宣伝」戦略が反映された一面も否定できない。「爆撃を受けても日本の国民は戦意をなくさないで明るくがんばっている」と見せるためにだ。ただ、どうもそれだけではない。洗濯物に手をやる少女の笑顔に嘘はなさそうだ。撮影は6月8日ごろ。まだ終戦前だというのに……。

この人たちは、失うべきものをすべて失ってしまった。もはや人に見せるものはなにもない。ただ笑うしかないのだ。そんなふうに私には感じられる。だから、この笑顔は額面通りには受けとれない。そこに至るまでの時間こそが彼女や彼の戦争だったのだ、と思う。

改めて言おう。戦争末期、日本列島の人々は自分たちがいつ火に包まれてもおかしくない状況をくぐり抜けてきた。うちつづく恐怖はいかばかりのものだったか――その想像を絶する心理に、戦争を知らない私たちはコロナ禍の今、初めて思いを致すのである。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年8月14日公開、同日更新、通算535回
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