虚子、客観写生の向こう側

今週の書物/
『虚子百句』
小西昭夫著、創風社出版、2010年刊

ものと蔭

秋めいてきた。その移ろいは蝉の鳴き方一つでわかる。自分が季節の兆しに敏感とはとても言えないが、それでも70年近く生きていると、なんとはなしに感じとれることがふえてくる。で、今週は、そんな季節感にもかかわる俳句本を開くことにしよう。

『虚子百句』(小西昭夫著、創風社出版、2010年刊)。虚子は、もちろん高浜虚子(1874~1959)のこと。明治・大正・昭和を生き抜いた俳壇主流の俳人である。愛媛県松山に生まれ、同郷の正岡子規に師事、夏目漱石とも交流があった。著者については、この本に横顔紹介が見当たらない。愛媛新聞のウェブサイトによると、松山市在住の人で、俳句誌『子規新報』の編集長を務めており、同紙俳句欄の選者でもあるという。

私がこの1冊を選んだのは、どうしてか。一つは、まったくの偶然だ。コロナ禍で書店に出向くのもためらわれ、拙宅の本のストックを漁っていたら、この本がひょっこり現れた。「虚子」の名に一瞬敬遠の思いがかすめたのだが、ぱらぱらめくるとdog-ear(犬の耳)、すなわち、ページの隅を折った箇所がある。「初蝶来何色と問ふ黄と答ふ」(上の句は「はつちょうく」と読む)。いい句だ。だが、自分がかつて付箋代わりに犬の耳を折った記憶はない。

そもそも、本を買ったことも思いだせないのだ。たぶん俳句を始めたころ、先達の一人から貰ったのだろう。くれた人は、うっかり犬の耳を元に戻すことを忘れていたのではなかったか。これが10年ほどして私の心をとらえる。そのいきさつそのものが俳句のようだ。

もう一つは、たまたま開いたページで「森田愛子」の名を見つけたこと。森田(1917~1947)は福井県の港町三国(現・坂井市)で豪商の娘として生まれ、東京に進学して結核療養中、句づくりを始める。私は新聞記者としての初任地が福井だったので、その名に愛着がある(「本読み by chance」2016年4月29日付「三国湊ノスタルジック街道をゆく」)。そう言えば、彼女は虚子の孫弟子。この本には、森田ゆかりの次の句が載っていた。

不思議やな汝れが踊れば吾が泣く(汝れは「なれ」)
虚子は戦時中の1943年11月、三国に帰郷している愛子を見舞い、隣の石川県にある山中温泉に泊まる。本書によれば、この句の詞書には「山中、吉野屋に一泊。愛子の母われを慰めんと謡ひ踊り愛子も亦踊る」とある。季語は「踊り」で、秋。北陸の空模様が、冬めいた激しさを帯びはじめたころのように思う。そんな折、山深い温泉宿で母娘が旅人の心を癒すように舞い踊る。娘は、自身の病のことを忘れたかのように……。

この句に一瞬、私はたじろいだ。あなたが踊るのを見て私が泣くというのは、情緒的に過ぎはしないか? 虚子と言えば「花鳥諷詠」「客観写生」を唱えた人として知られる。その人が「不思議やな」と独りごち、最後は「泣く」ほどに感極まっている!

この本は、著者が『子規新報』に連載した記事をまとめたもので、精選された百余句を一つずつとりあげ、それぞれの解説に1ページを充てている。ところどころに挟まれた著者の「エッセイ」や「あとがき」にも独自の虚子論がある。そこから感じとれるのは、虚子に固定観念のレッテルを貼るな、という戒めである。たまたま目にとめた「不思議やな…」の句は、孫弟子への感情が横溢して、レッテルとはもっとも遠いところにあるように思えた。

で、今回はレッテルを忘れ、虚心坦懐になって虚子の秋の句を堪能してみよう。
もの置けばそこに生れぬ秋の蔭
秋めいた今、私の心にもっともしっくり来る句はこれだった。窓から差し込む日差しが斜めの度合いを強めると、蔭が意識されるようになる。著者は「具体的なペンや湯呑みといった品物を詠まず『もの』とだけ表現したこと」に工夫の跡を見ている。

「もの」という言葉が力を発揮した句は、ほかにもある。
大いなるものが過ぎ行く野分かな
1934(昭和9)年、関西を中心に大きな爪痕を残した室戸台風を詠んだ一句らしい。ここでも、強風、豪雨、高潮といった個別事象にまったく触れていない。「大いなるもの」という言葉を選ぶことで「巨人が通りすぎていったような感じ」を表した、と著者はみる。

著者によれば、この作品はもともと中の句が「もの北にゆく」だったが、推敲されて「ものが過ぎ行く」に変わったという。ここにも、「北に」という方向性を捨象した強みが出ている。「写生」を唱える人も、具象を巧妙に捨てる技に長けていたのだ。

目にて書く大いなる文字秋の空
天高し雲行く方に我も行く
2句に共通するのは、自然界に対して作者自身と思われる主体がかかわり、その身体感覚が詠まれていることだ。空を見あげ、視線の先を動かして字を書いた気分になる、あるいは雲の流れにつられて思わず歩く。そこには動詞付きの主観がある。

動詞付きで描かれるのは、自分だけではない。
月の友三人を追ふ一人かな
柿を食ひながら来る人柿の村
前者では、月があり、月見を先に始める3人がいて遅刻する1人もいる。その5者の関係性がおもしろい。後者は、柿の朱色の季節感が齧りとられていくことの妙。

ワガハイノカイミヨウモナキススキカナ
これは、夏目漱石の飼い猫の死を、漱石門下の松根東洋城の電報で知ったときの返電。虚子は、漱石に『吾輩は猫である』の執筆を促した張本人なので、他人事ではなかった。片仮名書きは電報だから当然だが、それが「いい味を出している」(著者)。これは「挨拶句」と呼ばれるもので、ふつうの作品とは同列に論じられないが、虚子の機知が感じられる。

最後に、私の胸に今、もっとも染み入る句を一つ。
彼一語我一語秋深みかも
「彼がぽつりと一語を発する。それに答えて我も一語を発する」(著者)。そこにあるのは、極小の対話だ。居酒屋で会話を途切れさせないことに汲々とする若者には真似ができまい。(「本読み by chance」2016年3月25日付「綿矢「蹴りたい」の自律的な孤独」)

この句は1950(昭和25)年の作。虚子はすでに70代後半だった。著者は、その「秋深みかも」に「人生の秋の時間」もみてとる。たしかにそうだろう。私たち高齢者の足が友との会食から遠のく昨今、一語ずつのやりとりでもできたなら、と切に思う。
*句にはすべてルビが振られていましたが、当欄の引用では一部を除いて省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年9月4日公開、同月5日更新、通算538回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

寅彦にもう1回、こだわってみる

今週の書物/
『銀座アルプス』
寺田寅彦著、角川文庫、2020年刊

野球

引きつづき、文人物理学者寺田寅彦(1878~1935)を話題にする。寅彦に対しては深い敬意を抱いているのだが、どうも好きになれない。それがなぜかはわからなかったのだが、随筆集『銀座アルプス』を読んでいて理由らしきものを発見した。寅彦はジャズが大嫌いだったのだ。よりにもよって、私がこよなく愛するジャズを――そんなことを前回は書いた。(当欄2020年7月31日付「寅彦のどこが好き、どこが嫌い?」)

これは、いちゃもんだ、と自分でも思う。人は若かったころの流行に共感しても、年をとってから出てきたものには抵抗感を覚えがちだ。私がヒップホップを敬遠するように、寅彦はジャズを「じゃかじゃか」(「備忘録」1927年)と揶揄したのだろう。

一つ、思考実験をしてみる。寅彦が70年ほど遅れて生まれ、団塊の世代だったなら、どんな青春を過ごしたかということだ。1960年代に東大理学部の学生だったとすると、お茶の水界隈のジャズ喫茶で首を振りふり、大好きなコーヒーを啜っていたような気がする。「マイルスはバラードがいいね」「ピアノは、やっぱりエヴァンスかな」などと、友人に蘊蓄を傾けていたのではないか。学生運動にのめり込んだかまでは推察しかねるが……。

私がそう思う根拠は、この随筆集のなかにある。「断片Ⅱ」(1927年)の冒頭、連句について述べた一節だ。連句、すなわち複数の作者が句をつないでいく詩作の妙がこう表現されている。「前句の世界へすっかり身を沈めてその底から何物かを握(つか)んで浮上ってくるとそこに自分自身の世界が開けている」。前句が月並みでも附句によって輝きを増し、「そこからまた次に来る世界の胚子(はいし)が生れる」――そんな連鎖があるというのだ。

これは、ジャズの醍醐味そのものではないか。ジャズでは、奏者が次々に「次に来る世界の胚子」を産み落とし、新しい世界を切りひらいていく。寅彦は、それを知ることがなかった。代わって、よく似たものを日本の韻文芸術に見いだしていたのである。

連句談議は、「映画時代」(1930年)にもある。ここでは、劇映画の「プロットにないよけいなものは塵(ちり)一筋も写さない」という制作姿勢が批判される。劇映画は舞台劇と違うのだから、「天然の偶然的なプロット」を取り込むべきだという。手本としてもちだされるのが連句。そこに見られる「天然と人事との複雑に入り乱れたシーンからシーンへの推移」は映画でこそ可視化できるのではないか。そんな提案をしているのだ。

寅彦のジャズ心は時間軸だけでなく、空間軸にも息づいている。表題作「銀座アルプス」(1933年)を見てみよう。ここで「アルプス」とは、銀座界隈に建ち並ぶ百貨店を指している。その山のてっぺん、すなわちデパートの屋上に立つと、眼下の街並みは建物の高さがばらばらだ。低層家屋のなかに中層のビルが交ざっているのだろう。「このちぐはぐな凹凸は『近代的感覚』があってパリの大通りのような単調な眠さがない」

「ちぐはぐな凹凸」に興趣を見いだしているのだ。これは寅彦が俳諧味を愛していたからだろうが、と同時に、ジャズ的なるものに対する感受性があるからのようにも私は思う。さらに驚かされるのは、そのちぐはぐさを「近代的」と形容していることだ。建築で近代主義(モダニズム)と言えば、箱形の建物が思い浮かぶ。だから、近代都市の景観はすっきりしている。ところが、寅彦は凹凸に近代を見ているのだ。ポストモダンに先回りしたのか。

こうした感性は、物理学者としての世界観とも響きあっている。それは当欄前回で言及した古典物理学――金米糖や線香花火――だけの話ではない。「野球時代」(1929年)という一編には、誕生したばかりの量子力学について述べたくだりがある。

「不確定」は、かつて「主観」の専売特許だったが、それを新しい物理学は「客観的実在の世界へ転籍させた」というのだ。ウェルナー・ハイゼンベルクが唱えた不確定性原理のことだろう。寅彦は、どんなに精密な測定をしても「過去と未来には末拡がりに朦朧(もうろう)たる不明の笹縁(ささべり)がつきまとってくる」と書く。だから、「確定と偶然との相争うヒットの遊戯」――即ち野球に人は魅せられるのだろうと考える。

こう見てくると、私は戸惑うばかりだ。寅彦が物理学者として志向するものも、文学者として好むものも私の心に響いてくる。それなのに、なぜ好きと素直に言えないのか。その答えのヒントになりそうなのが「雑記」の一節「ノーベル・プライズ」(1923年)だ。

この短文は、夜に電話が鳴り、新聞社が相次いでノーベル賞の発表について聞いてきた、という体験談から始まる。新聞記者は昔から同じようなことをしていたわけだ。前年1922年の物理学賞は前年分と併せて二人に贈られた。21年がアルバート・アインシュタイン、22年がニールス・ボーア、相対論と量子論の両巨頭が受賞者になった。もっとも前者への授賞は、相対論と関係なく、光電効果の理論研究に対してではあったのだが。

アインシュタインの知名度はすでに高かったので、記者たちが知りたがったのはもっぱらボーアだった。物理通ならだれでも知っている巨人が世間では知られていない。「それほどに科学者の世界は世間を離れている」とあきれた後、ボーアの私生活を描いていく。

ネタ元は、欧州でボーアに会ってきたばかりの友人。その帰朝報告によると、ボーアは郊外の別荘にしばしば出かけて、考えごとや書きものをしているという。「どうかすると芝生の上に寝転がって他所目(よそめ)にはぼんやり雲を眺めている」のだとか。

ここで寅彦は、科学者を応用志向型と純理探究型に分けてボーアを後者に分類する。世の人々がそういう学者を大事に思うなら「はたから構わない」ほうがよい、と主張する。芝生でそっとしておきましょう、というわけだ。寅彦自身は、防災に一家言あるので前者の一面があるが、金米糖や線香花火に惹かれるところは後者だ。「ボーアの内面生活を想像して羨ましくまたゆかしく思っていた」とも打ち明けているから、後者の側面が強いのだろう。

実際、寅彦も「郊外の田舎」に「隠れ家を作った」(本書所収「路傍の草」1925年)。クラシック音楽を愛するように田園を求めたのだ。そこには、日本の知識人社会にあった世俗ばなれ志向が見てとれる。世間を高踏的に見渡している感じか。科学者が高踏の匂いを漂わせるとき、その言葉は〈啓蒙〉の響きを帯びてしまう。私はたぶん、そこに引っかかったのだ。それは、科学の解説書を〈啓蒙〉書と呼ぶことに対する違和感に通じている。

もう一つ、ちょっと残念なのは、「天然の偶然的なプロット」や「ちぐはぐな凹凸」を愛した人が自身の生活には破調を求めなかったことだ。植草甚一のように気まぐれな寺田寅彦がいてもよかったのだ(当欄2020年4月24日付「J・Jに倣って気まぐれに書く」)。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年8月7日公開、同月9日最終更新、通算534回
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寅彦のどこが好き、どこが嫌い?

今週の書物/
『銀座アルプス』
寺田寅彦著、角川文庫、2020年刊

金米糖

寺田寅彦(1878~1935)と言えば文理両道の人だ。同じように文理を股にかけた先人に南方熊楠(1867~1941)がいる。両者は、いずれも明治、大正、昭和を生き抜いた同時代人。正直に内心を打ち明けると、私は後者に心惹かれ、前者を敬遠する傾向にある。

文理とは言っても、その文と理は二人の間でだいぶ違う。文では、寅彦が文学系、熊楠が民俗学系。理では、寅彦が物理学系、熊楠が生物学系。私は小説や俳句が好きで量子論にも興味があるのだから当然寅彦派かと自分でも思うのだが、それがどっこい熊楠派だ。

なぜだろう、と思う。すぐに気づくのは、寅彦があまりにもちゃんとした人であることだ。ちゃんとした大学を出て、ちゃんとした地位を得て、晩年までちゃんと学界にとどまった。一方、熊楠は学校を中退して外国を放浪、その後、紀州熊野に住みついて独りで探究を続けた(「本読み by chance」2017年6月2日付「熊楠の『動』、ロンドンの青春」)。この対照は見事なほどだ。私は、どうしても熊楠の在野精神に共感してしまう。

ただ、それだけの理由で寅彦を嫌うのは理不尽だ。いや、そもそも全人格を嫌っているわけではない。その証拠にかつて高知に所用で赴いたときには、わずかな自由時間に寅彦の旧宅(復元建築、「寺田寅彦記念館」)を訪ねている。心のどこかで寅彦に惹かれているのだ。広い意味では敬愛する偉人ということになろう。ただ、その作品を読んでいると違和感を覚えてしまう。違和感の正体を知りたくて、今週は寅彦本を開いた。

『銀座アルプス』(寺田寅彦著、角川文庫、2020年刊)。明治末期から昭和期にかけて書かれた随筆30編を収めている。表紙カバーには「近代文学史に輝く科学随筆の名手による短文の傑作選」とあるから、寅彦流の文理両道を知る手がかりになるだろう。

では、さすが寅彦と思われる一編から。「流言蜚語」(1924年)。関東大震災の翌年に東京日日新聞に載ったもので、震災時に流言が虐殺事件を引き起こした近過去を科学者の目で振り返っている。引きあいに出されるのは燃焼実験。管状の容器に水素と酸素を入れて火花を飛ばすと「火花のところで始まった燃焼が、次から次へと伝播(でんぱ)していく」。このようになる条件は、水素と酸素が「適当な割合」で混ざっていることだという。

著者は、流言蜚語に類似点を見る。流言にも火花の役目を果たす発生源がある。だが、それだけでは流言にならない。「次へ次へと受け次ぎ取り次ぐべき媒質が存在しなければ『伝播』は起らない」のだ。では、伝播を担う媒質は何か? それは「市民自身」だという。

その論理はこうだ。「今夜の三時に大地震がある」という噂が広まりかけたとしよう。このとき「町内の親父株(おやじかぶ)」の「三割」であっても、今日の科学では地震の発生時刻まで予知できないとわかっていれば「そのような流言の卵は孵化(かえ)らないで腐ってしまうだろう」というのだ。ここでは「親父株」の「三割」が要点だ。流言を防ぐ条件は、自らは媒質とならず、かえって伝播を抑えられる人が一定程度いることなのだろう。

この考え方は、今の世の中にも当てはまる。新型コロナウイルス感染症禍で私たちに求められているのは、ウイルスの伝播に手を貸すな、ということだ。マスクをする、不用意にものに触らない、人との間に距離を置く――これは、感染から自分の身を守るためだけではない。もしかしたら自分が感染しているかもしれないと考えて、周りの人の感染リスクを減らすためだ。これは、自身が伝播の可能性を抑える人になることを意味する。

寅彦流科学のすばらしさは、探究を一つの事象の枠内にとどめないことだ。ある現象を支配しているしくみを別の現象にあてがってみると、通用することがある。上述の例で言えば、燃焼の伝播が噂やデマの読み解きにつながる。それは、感染症に脅かされている社会に示唆を与えることにもなる。分野横断的と言ってよい。個々の物質にこだわるよりも物事一般のしくみに目を向ける物理学者だからこそできる離れ業だろう。

寅彦流ということでは、本書所収の「備忘録」(1927年)に織り込まれた「金米糖」と題する話も見逃せない。そこで著者は、私たちが科学に対して抱く通念の落とし穴を見抜いて、教えてくれる。一見科学的な思考が、実は科学的でなかったりするのだ。

話題となるのは、金米糖(「金平糖」とも書く)がなぜ真ん丸でないのか、ということだ。私たちは、この砂糖の塊ができるときに「特にどの方向に多く生長しなければならぬという理由が考えられない」(「考えられない」に傍点)。物理空間は等方的と考えているわけだ。これは、まっとうな論理と言えよう。それなのになぜ、いくつかの方向にだけ「論理などには頓着(とんちゃく)なく、にょきにょきと角を出して生長する」のであろうか?

著者は、この論理は誤りではないと明言して、なぜこんなことが起こるかを説明する。それによれば、等方的とは「統計的平均についてはじめて云われ得る」ことなのだ。平均は平均であり、個別の事象はそれに一致しないというわけだ。さらに、自然界には「平均からの離背(りはん)が一度でき始めるとそれがますます助長される」(ルビは本書のママ)という傾向もあることが指摘されている。「角」は論理を破ってはいなかったのだ。

統計は、科学者だけのものではない。社会や経済を考えるときにも重宝している。だからこそ、この教訓は重い。私たちは全体の平均を過大視して部分にズレがあることを忘れていないか、あるいは部分だけを見て全体像を見失っていないか――。

「備忘録」には「線香花火」の話も載っている。著者は「灼熱した球の中から火花が飛び出し、それがまた二段三段に破裂する、あの現象」に興味を示す。枝分かれの妙があるからだろう。20世紀終盤に複雑系の科学が興り、分岐現象も関心事になる。それを先取りする好奇心だ。著者の科学心は、モノの根源よりもコトの摂理を追究する反還元主義の先駆けだった。(「本読み by chance」2016年8月19日付「『かたち』から入るというサイエンス」)

で、実は、このくだりを読んでいて私は大発見をしたのだ。自分が寅彦派になれない理由の一つがわかった。それは、音楽の趣味にかかわっているらしい。著者は、線香花火の火花の「時間的ならびに空間的の分布」を音楽にたとえる。「荘重なラルゴで始まったのが、アンダンテ、アレグロを経て、プレスティシモになったと思うと、急激なデクレスセンドで、哀れに淋(さび)しいフィナーレに移っていく」。さすが、クラシック通だ。

著者は、線香花火には「序破急」や「起承転結」があるとほめる一方、新趣向の花火を「無作法」で「タクトもなければリズムもない」と腐す。そして、こう決めつけるのだ。「線香花火がベートーヴェンのソナタであれば、これはじゃかじゃかのジャズ音楽である」

ガーン――である。私は、金米糖や線香花火にむしろジャズを見ていた。どちらの物理現象もニュートン物理学の決定論に支配されているが、予測がなかなかつかない。次に何が来るか、期待通りになることもあるが、はずされることもある。これは、ジャズの醍醐味そのものではないか。楽譜があっても、それに縛られない。アドリブに満ちている。奏者のソロ演奏が次々につながれていく様子は、著者が惹かれる物理世界の時間発展に似ている。

「リズムもない」花火を、リズムが真髄のジャズにたとえたのも見当外れだ。ただ、そのことをもって著者を批判したら不公平だろう。著者は明治期に欧州文化を吸収した人なのだから、クラシック音楽への思い入れはさもありなんと納得する。ジャズを知るには早く生まれ過ぎたのだ。一方、私はジャズがモダンジャズにまで進化してから、その虜になった。だから、私のジャズ好きをもって著者のジャズ嫌いを論ずるつもりはない。

それにしても、線香花火に「起承転結」をみるとは――。寅彦は物事が予想外に展開することに心ときめかせながらも、最後はやっぱり、ちゃんとしたかったのか。もしかしたら、内面に矛盾を抱えていたのかもしれない。次回にもう一度、この本をとりあげる。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年7月31日公開、同年8月7日最終更新、通算533回
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「人種」というかくも人為的な言葉

今週の書物/
『「他者」の起源――ノーベル賞作家のハーバード連続講演録』
トニ・モリスン著、荒このみ訳・解説、森本あんり寄稿、集英社新書、2019年刊

人為の区分け

米国で「黒人」差別に対する抗議行動が広がっている。きっかけは、中西部ミネアポリスで「黒人」市民ジョージ・フロイドさんが「白人」警官に首を押さえつけられて亡くなった、という事件。公民権法の制定から56年。半世紀余の歳月を思うと、絶望感に襲われる。

フロイド事件を特徴づけるのは、「黒人」対「白人」の構図だ。米国では警官が「白人」、市民が「黒人」という組み合わせで加害行為があると、それが全土を揺るがす事件となる。犠牲者は一個人ではなく、「黒人」の象徴としての役回りを担わされる。

「黒人」と「白人」――。考えてみれば怖い区分けだ。肌の色の違いで分けたのだとしたら、粗っぽすぎる。「黒人」と呼ばれる人々の顔にはさまざまな色調があり、一概に黒いとは言えない。「白人」たちも同様で、白いとは言い切れない。米国社会では、そうした個人差をすべて捨象して人々の間に線を引いたのだ。今でこそ「アフリカ系」「欧州系」という呼び方があるが、今回のような事件の報道では「黒人」「白人」の用語が飛び交う。

抗議行動では、“Black Lives Matter”という標語が掲げられている。「黒人の命は大切だ」と訳される。今風に政治的公正(ポリティカル・コレクトネス)の表現にこだわれば“African-American Lives Matter”(アフリカ系米国人の生命は大切だ)と言うべきかもしれないが、差別に抗う側自身が“Black Lives”を前面に出していることに注目すべきだろう。“Black”には情念が感じられるからか。いや、それだけではなさそうだ。

たぶん、米国の「黒人」たちには「アフリカ系」という言葉で括れないなにかがあるのだろう。それは、自分たちもまた米国をつくってきたのだという自負のように思える。私たち日本人は第2次大戦後、太平洋の対岸から吹きつける米国文化の風にさらされてきた。だから、「黒人」なしの米国はありえないことを実感している。「黒人」は米国全人口の1割強に過ぎないが、文化の担い手としての存在感は半端ではない。

「黒人」なしでは絶対に生まれなかったものは、ジャズだ。あのリズム感はアフリカ由来だが、アフリカ大陸ではジャズが育たなかった。「白人」たちの音楽資源――たとえばピアノやベースやサックスなど――を取り込んで新しいジャンルを切りひらいたのである。ジャズの最大の魅力は、アフタービートだろう。ズンチャッ、ズンチャッ……のチャッが強調されるリズムだ。そこには、「白人」文化のクラシック音楽に乏しい躍動感がある。

「黒人」は、ジャズに代表される米国文化の担い手であることに誇りを感じている。その象徴が、“Black”なのだろう。だが、米国社会が「黒人」を正当に受け入れてきたとは到底言えない。だからこそ、今も“Black Lives Matter”の声がわきあがるのだ。

で、今週は『「他者」の起源――ノーベル賞作家のハーバード連続講演録』(トニ・モリスン著、荒このみ訳・解説、森本あんり寄稿、集英社新書、2019年刊)。著者は1931年、米国オハイオ州で生まれた。大手出版社で編集者を務めるかたわら、作家として活動。代表作に『青い眼がほしい』『ビラヴド』などがある。93年、アフリカ系米国人として初めてノーベル文学賞を受けた。この本は、2016年のハーバード大学連続講演をもとにしている。

第一章冒頭のエピソードは強烈だ。著者がまだ物心もつかなかった1930年代前半、一族のなかで尊敬を集めていた曽祖母――「腕利きの助産師だった」――が訪ねてきた。自身は「漆黒の肌の持ち主」。その人が著者姉妹を見て「この子たち、異物が混入しているね」と言ったというのだ。「黒人」として「純血ではない」ということだろう。著者が逆説のようにして、米国社会の底流にある心理を知った瞬間だった、と言ってよいだろう。

この章には、米国やその周辺地域で「混血」がどのように進んでいたかを暗示する史実も明らかにされる。18世紀半ば、一人の英国青年が自国の植民地ジャマイカでサトウキビ畑の農園主となり、「反省あるいは識見の欠落している事実のみの日記」を遺した。それは、当人の奴隷女性たちに対する「性的活動」を「相手と会った時間、満足度、行為の頻度、とくに行為のなされた場所について記録している」ものだったという。

驚くべきは、この記録がラテン語交じりで書かれていたことだ。「午前一〇時半ごろ」「コンゴ人、サトウキビ畑のスーパー・テラム(地面の上で)」などというように。著者は、ここに「奴隷制度を『ロマンス化』する文学的試み」をみてとる。

ただ、その「文学」が欺瞞に満ちたものであることは、巻末の「訳者解説」を読むとよくわかる。「奴隷制度のもとでは、白人の農園主たちは奴隷女と関係を持ち、奴隷を増やすことが奨励された」というのだ。「奴隷は財産」であり、「奴隷女から生まれた子どもも奴隷」として扱われたから、「農園主は自分の財産を増やすためにも関係を持った」――「ロマンス化」の裏側には、人間を人間と見ない醜悪な経済原理が横たわっていたのである。

講演録本文に戻ろう。著者は、ウィリアム・フォークナーの小説『アブサロム、アブサロム!』をとりあげる。この作品では、近親相姦と「人種」混交を比べれば後者のほうが「おぞましい」とみる南部「白人」社会にあった価値観が描かれている。「白人」による「ロマンス化」を「白人」自身が否定していたのだ。作中では、「黒人」の血を16分の1だけ受け継ぐ男が悲劇に見舞われる。「黒人」の血は「一滴」であれ「異物」とみなされたからだ。

主従の関係にまかせた性的活動は、当時の道徳観からみても許しがたかったのだろう。著者は「奴隷が『異なる種』であることは、奴隷所有者が自分は正常だと確認するためにどうしても必要だった」とみる。このときに都合よく使われたのが、「人種」という概念だ。

この歴史を踏まえると、著者が講演で「他者」「よそ者」に焦点を当てた理由が見えてくる。生物分類学の視点に立てば「わたしたちは人間という種」(より厳密に言えば、現生人類か)にほかならない。にもかかわらず、人間は同じ社会の空気を吸っていても「人種」という小分類にこだわり、わざわざ「他者」「よそ者」をこしらえていく。「一滴の血」ですら「他者」「よそ者」の証明にしてしまうのだから、そこにあるのは排除のベクトルでしかない。

この本からは、著者が米国社会を蝕む「他者化」のバカバカしさ、愚かさをどのように見破ってきたかを知ることができる。そこにあるのは、作家としての技法を凝らした作品群だ。ここでは、二つの方法論を紹介しておこう。

一つは、「人種消去」。短編小説『レシタティフ』で試みたものだ。登場人物のだれがどの「人種」か、一切わからないようにした。これは、従来の「黒人文学」が「黒人の登場人物を描き出し、力強い物語をつむぐ努力をしてきた」のとは逆向きの姿勢だ。著者が駆逐したかったのは、「安っぽい人種主義」や「お気軽に手に入る『カラー・フェティッシュ』」だという。「カラー・フェティッシュ」とは、肌の色に対する過剰な思い入れである。

もう一つは、「黒人町」。南部オクラホマ州には、「黒人」が「白人から可能なかぎり遠く離れて」暮らすために、自分たちの町をいくつも建設したという現実の歴史がある。著者は『パラダイス』という長編小説で、この州に開かれた「ルビー」という架空の黒人町を描いた。そこでは「もっとも黒い肌――ブルー・ブラック」が「受容可能な決定的要因」となっている。曽祖母の視点が導入され、「一滴の血」の反転とも言える思考実験をしたのだ。

『パラダイス』を読んでいないので、私は作品の要点を書けない。ただ、著者がこの講演で披露した自作解説からうかがい知れるのは、ルビーという純血社会にも住人の間に「軋轢」があり、それを取りのぞくため、外によそ者を見いだそうとする人がいることだ。

人は、他者を勝手につくりたがる。それも、自分に都合のよい他者を。他者とは本来、自分ではない存在のことであり、存在の一つひとつで異なっているはずなのに、そんなことはお構いなしにひとくくりにして「異物」のかたまりにしてしまう。困ったものだ。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年7月24日公開、同日更新、通算532回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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フィッツジェラルド、大恐慌のあとで

今週の書物/
『マイ・ロスト・シティー』
スコット・フィッツジェラルド著、村上春樹訳、中公文庫、1984年刊

摩天楼

新型コロナウイルス感染禍は、しだいに経済危機の様相を帯びはじめている。感染予防の決め手が今のところ、人と人との間の距離を十分にとること、できるなら接触しないでいることにあるというのだから、金回りがよくなるはずはない。

先々週の当欄「コロナの時代に新聞は変わる」(2020年5月29日付)に書いた通り、フランスの歴史家エマニュエル・トッド氏のインタビュー記事(朝日新聞2020年5月23日朝刊)からは、この感染禍によって新自由主義経済が退場を迫られているように思われる。それに伴って、経済のグローバル化という潮流も勢いを失うだろう。ただ、では次に何がやって来るのかと思いをめぐらせると、答えがない。ただ途方に暮れるばかりだ。

経済の危機らしきものは、これまでも幾度となくあった。私たちの世代にとって忘れがたいのは、石油ショック(1973)、バブル崩壊(1991)、リーマン・ショック(2008)の三つだ。このうち前者二つは、とくに強烈な印象がある。石油ショックでは、産業活動の右肩上がりにいきなりブレーキがかかった。バブル崩壊では、浮かれ調子だった世相に突然、暗雲が立ち込めた。皮膚感覚として、事前と事後の落差が大きかったのである。

たとえば、石油ショック後は一時期、繁華街の照明が落とされ、テレビは深夜番組をとりやめた。私たちは1960年代の高度成長期、街はどんどん明るくなるもの、夜はどんどん長くなるものと信じ込んでいたから、常識がひっくり返されたのだ。バブル崩壊後は、夜更けの街で流しのタクシーを拾いやすくなった。1980年代、バブル経済が踊っていたころは酔客の帰宅ラッシュで空車探しが大変だったから、需給の逆転に驚かされたものだ。

コロナ後にもきっと、今の私たちには思いもよらない生活風景が待ち受けていることだろう。その時点からコロナ以前を振り返れば、自分たちはなんとお気楽だったのか、と苦笑するに違いない。で、今週は過去の経済危機に思いを馳せて、書物を選んだ。

『マイ・ロスト・シティー』(スコット・フィッツジェラルド著、村上春樹訳、中公文庫、1984年刊)。単行本は、中央公論社が1981年に刊行した。著者(1896~1940)は、『グレート・ギャツビー』――私たちの世代には映画化された「華麗なるギャツビー」の題名が忘れがたいのだが――で知られる米国の小説家。この本では、表題作のエッセイを最後に置き、その前に五つの短編を収めている。所収作品を選んだ訳者は当時、新進作家だった。

訳者の著者に対する思い入れの強さは、巻頭にある「フィッツジェラルド体験」と題する一文からもわかる。「何年ものあいだ、スコット・フィッツジェラルドだけが僕の師であり、大学であり、文学仲間であった」という記述には、最大級の敬意が込められている。

絶賛するのは、20回は読んだという短編『バビロン再訪』(残念なことに、本書の収録作品ではない)の冒頭部。パリの有名ホテルで客がバーテンに、常連客らしい知人一人ひとりの消息を尋ねる場面だ。バーテンは、そのつど「スイスに行かれました」「アメリカにお帰りになりましてね」「先週お見受けしましたよ」と答えていく。この一節だけで、作品から匂い立つ雰囲気が感じとれるし、飾りを剥ぎ取った骨格も見えてくるという。

それを、訳者は「宇宙」と呼ぶ。「極めて小さな個人的な宇宙ではあるけれど、やはりそれは宇宙だ」。著者は一つの宇宙を分解せず、そっくり提示できる作家ということになる。

この巻頭文は、著者の略伝も記している。米国中西部セントポールの生まれ。父は教養人だったようだが、事業につまずいて家計は厳しかった。母の実家が裕福で、その支援を得て「なんとか中産階級としての体面を保っていた」のである。その結果、東部の名門プリンストン大学に進むことができた。こんな背景から「金持に対する憧れと憎悪、自己憐憫と自己客体視という彼の生涯のテーマともなる二面性が芽生えていたのだろう」と、訳者はみる。

訳者は、著者の作品の魅力に「相反する様々な感情が所狭しとひしめきあっていること」を挙げている。二面性を文学に昇華したのだ。逆向きのベクトルには「上昇志向」と「下降感覚」がある。中西部生まれの「素朴さ」とニューヨーク暮らしの「洗練」もある。

こうした二面性や相反感情が時代の空気と共振したのは間違いない。米国は1910年代末、第1次世界大戦(1914~1918)の戦勝気分に沸いていた。ところが20年代末に大恐慌に見舞われる。著者の作品には、20年代米国社会の「上昇」と「下降」が生々しく映しだされている。この本の6編をみても、大恐慌の前と後に書かれたものの間に断絶が見てとれる。そこには世相の暗転があり、それを目のあたりにして途方に暮れる人々がいる。

で、今回は、6編のうちで唯一のエッセイ「マイ・ロスト・シティー」に話を絞ろう。これは大恐慌後に書かれたものだが、著者自身の少年期や青年期にさかのぼりながら、その折々に目の当たりにしたニューヨーク像を通して、この大都市の変転を跡づけている。

たとえば、1919年はこうだ。「ニューヨークの街はまるで世界の誕生を思わせるような虹色の輝きにむせていた。帰還した連隊は五番街を行進し、若い娘たちはまるでそれにひきよせられるように、東や北にその足を向けた」。大戦戦勝の高揚がそこにはある。

1920年には「突如『新しい世代(ヤンガー・ジェネレーション)』という観念が姿を現わし、ニューヨークの都市生活の様々な要素をひとつのつぼの中に溶け込ませてしまった」(「つぼ」に傍点)。それは、「明るさ」「華やかさ」「生命力」などが混ぜ合わさった「ひとつの空気」だった。もったいぶった晩餐会というより、ちょっと崩れた立食パーティーのような感じ。欧州知識人も一目おく小粋で若々しい文化の登場だった。

著者のデビューは、ちょうどこの年。「私は時代の代弁者(スポークスマン)というだけでなく、時代の申し子という地位にまで祀り上げられてしまった」。夜を徹して原稿を書きまくり、大枚をはたいて引っ越しを繰り返す日々。「暑い日曜日の夜に私はタクシーの屋根に乗って五番街を走り回った」との記述もある。だが、その一方で「自分たちはそんな華やかな社会とは本当は無縁な存在なんだと思い込んでいた」。ここにも二面性がある。

1927年は欄熟の日々か。そのころ、著者は数年の外国生活を終え、帰米していた。「一九二〇年のあの不安気な空気は確として金色に光り輝く絶え間のない歓声の中に没し去り、友人たちの多くは金持になっていた」。ショービジネスは「ますます大がかりに」、建物は「ますます高く」、道徳心は「ますますゆるめられ」、アルコールは「ますます安価に」――そう、20年から33年までは禁酒法の時代だが、街には酒があふれ返っていたらしい。

オフィス街が酒浸りになる様子はこう表現されている。1920年には「昼食前にひとつカクテルでも」などと言う人物は「ショッキングな存在」だったが、29年には「オフィスの半分には酒瓶が置かれ、大きなビルの半分にはもぐり酒場(スピーキージー)があった」。

まさにバブルの絶頂期。「私の行きつけの床屋は株に五十万ドルばかり投資して引退していた」とあるように、人々は労働よりも投機に走った。「もううんざりだ」――著者は再び国外へ出て、滞在先の北アフリカで「あの崩壊(ガラ)の音を聞いた」。大恐慌である。2年後、ニューヨークに帰ると、そこは「墓場」のようであり、「廃虚」のようでもあり、「遊びまわっていた」のは「無邪気な亡霊たち」だけだった。「床屋はまた店に戻った」のである。

印象深いのは、著者フィッツジェラルドがエンパイア・ステート・ビルの高みに立ったときの眺め。「ニューヨークは何処までも果てしなく続くビルの谷間ではなかった」。それは「四方の先端を大地の中にすっぽりと吸い込まれた限りある都市の姿」だったのだ。果てしないのは「青や緑の大地」のほうであることに摩天楼で気づくという逆説。大事象の大波をかぶって途方に暮れたとき、人間は人間の限界を自覚するのかもしれない。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年6月12日公開、通算526回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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