アガサで知る英国田園の戦後

今週の書物/
『予告殺人』
アガサ・クリスティー著、羽田詩津子訳、ハヤカワ文庫、新訳版2020年刊行

お茶の時間

戦後という言葉は今、若い世代の心にどう響くのだろうか。たぶん、「センゴ、what?」という感じではないか。先の大戦の痕跡がほとんど消えているのだから、当然かもしれない。ただ、一つ言っておきたいのは、戦後は戦中とは切り離された時代区分であることだ。

こんなふうに思うのも、私が昭和20年代(1945~1954年)生まれであり、若いころは戦争を知らない子どもたちと言われたからだろう。たしかに戦争は知らない。でも、戦後は知っている。それは、明るかったが闇がある、闇はあったが明るい――そんな印象か。

今の一文で、「明」と「闇」2文字のどちらに重きを置くかで、ちょっと迷った。あれほどの大戦の後なのだから「明」を強調するのは不謹慎ではないか。そうは思う。だが、私たちの世代には「明」のほうがピンと来る。

ふと思いだすのは昭和30年ごろ、私が親類宅の庭で遊んでいたときのことだ。上空を巨大な飛行機が通り過ぎていった。銀色の機体がまぶしかった。そのとき、傍らの伯母が「アメリカの輸送機だわ、きっと」とつぶやいた。あのころは米軍機が東京上空を頻繁に飛び交っていたのだ。伯母が「アメリカの…」と言うとき、彼女の心には戦中の記憶が去来していたのだろう。だが私にとって、それはガイジンが乗るピカピカの飛行機に過ぎなかった。

戦後はたしかに明るかった。そのことは『サザエさん』第一巻(長谷川町子著、朝日新聞出版)をみてもわかる(「本読み by chance」2020年3月6日付「サザエさんで終戦直後の平凡を知る」)。それは、「闇」をはらむ「明るかった」なのかもしれないが。

で、今週は、海外の戦後をミステリー作品から嗅ぎとることにする。『予告殺人』(アガサ・クリスティー著、羽田詩津子訳、ハヤカワ文庫、新訳版2020年刊)。描かれるのは、英国田園地帯の戦後。戦勝国なので、敗戦国の世相とは大きく異なる。だが戦争は、負けた側だけでなく、勝った側にも混乱を引き起こす。その結果、「明るかったが闇がある」が、ここにも顔を出すのだ。著者は、その空気をミステリーの作中に吹き込んだ。

小説の舞台は、チッピング・クレグホーンという名前の小村。作品のなかで地元警察署長が口にする言葉を借りれば「広々とした絵のように美しい村」だ。「かなりの数の建物がヴィクトリア朝時代に建てられたもの」(署長)で、高級感が漂う。かつて農場の働き手の住まいだった家も改築され、年配の人々が住んでいたりする。当時の労働党政権の政策「ゆりかごから墓場まで」に支えられた高齢世代のゆとりがここにはある。

余談だが、作中には「セントラルヒーティング」という言葉がしばしば出てくる。英国の家々で暖房方式が変わり、暖炉が飾りものになったのはこのころだったのだろう。

小説の冒頭は、新聞配達の話。村の商店街には、新聞の取り次ぎもしている書店があって、配達人が月曜から土曜まで毎朝、自転車で新聞を配っている。日本のように宅配制度が行き渡っていないので、各紙ごとの専売店はない。家ごとに異なる注文の新聞を届ける。

金曜日は大忙しだ。全国紙に加えて、ほぼ全戸に地域週刊紙「ノース・ベナム・ニューズ・アンド・チッピング・クレグホーン・ガゼット」を配達するからだ。たいていの住人が全国紙に載る国連総会や炭鉱休業の記事はほったらかしにして、「《ガゼット》をそそくさと広げると、地元のニュースをむさぼるように読んだ」。今や高級住宅地と化した小村にも地域社会が根を張っていることが、このミニコミ紙の人気からもうかがわれる。

最初に登場するのは、スウェットナム親子。一人息子はもの書きのようだが、売れっ子ではないらしい。それでも家政婦を雇っているから、資産があるのだろう。この家でも、金曜朝は母親がガゼットに目を通す。目当ては個人広告欄。「スメドリー家は自動車を売りにだすようね」「ふうん、セリーナ・ローレンスがまたコックを探してるわ」……。紙面に固有名詞を見つけては、その人の面立ちやその建物の佇まいを思い浮かべている気配がある。

と突然、母親が驚きの声をあげる。広告欄に「殺人をお知らせします」という文言を見つけたのだ。その日午後6時半にリトル・パドックスで、とある。リトル・パドックスは、村内にある邸宅の一つ。あるじは、レティシア・ブラックロックと名乗る60代の女性だ。広告文は「お知り合いの方々にご出席いただきたく、右ご通知まで」と締めくくられていた。母は戸惑うが、息子は「一種のパーティー」「殺人ゲームみたいなもの」と本気にしない。

当然のことながら、この広告はあちこちの家庭で話のタネになる。元インド駐在の軍人とその妻、改造田舎家で共同生活している年配女性の二人組、そして、牧師館に住む牧師とその妻。予告をまともに受けとめた人は村にいないようだ。たとえば、年配女性同士のやりとりはこんなだった。「一杯やりましょうってことでしょ、どっちみち」「招待状のようなものかしら?」「向こうに行ってみれば、どういう意味なのかわかるわよ」

リトル・パドックス邸内でも広告は話題になった。この家の住人には、あるじのほかに彼女の古い友人がいる。遠い親戚という若い兄妹もいる。さらに、子育て中のシングルの女性が下宿しており、大陸から難を逃れてきたメイドもいる。あるじは広告を遠戚の兄か妹の悪ふざけと疑ったが、それは即座に否定された。だが、さほど動じる様子もなく、近隣の人々はきっと興味津々で来訪するだろうと見込んで、パーティーを準備するのだ。

夕刻になると、ほんとにみんながやって来る。客たちが関心事の「殺人」をなかなか口にしないのは英国流の作法か。訪問の理由も「たまたま、こっちのほうに来たものですから」「アヒルが卵を産んでいるかどうかお訊きしたかったので」……。例外は、牧師の妻だけだ。夫が所用で来られないことを「それはもう残念がってました」と言って、「主人は殺人が大好きなんです」。牧師をミステリー好きにしてしまうのは、クリスティー流の諧謔だろう。

予告の午後6時半、明かりが消えて「部屋が真っ暗」になる。悲鳴が起こったが、どこか「満足げ」で「楽しげ」。みんなまだ、パーティー感覚だったのだ。ところが、ドアが開いて懐中電灯の光があちこちを照らしたかと思うと、男の声が響きわたる。「手をあげろ!」。そして、拳銃の発射音が3回。まもなく明かりが戻ってわかったのは、衝撃の事実。血を流して倒れているのは騒ぎの張本人、さっき声をあげた男だったのだ――。

ミステリーなので、当欄はこの事件の筋書きを追わない。おなじみのジェーン・マープルが登場して刑事たちに知恵を貸すのだけれど、その謎解きについても触れない。この穏やかな地域社会にも、戦争の影響が見え隠れしていることだけを強調しておこう。

もっとも暗い影を引きずっているのは、リトル・パドックスのメイド。広告が出た日、あるじに暇を願い出る。「死にたくないんです!」「家族はみんな死んだんです――殺されたんですよ」「またやつらがあたしを殺しに来る」と脅えている。「誰が?」と問われると、まず「ナチス」の名を挙げ、次いで「今度はボルシェビキかもしれない」と言う。戦後の英国には、戦前戦中に大陸を席巻した全体主義の恐怖が消えない人々が大勢いたのだろう。

事件後、刑事が事情を聴こうとすると、「あたしをいじめに来たんでしょ」「爪をはがしたり、マッチの炎で皮膚を焼いたり」「だけど、あたしはしゃべらない」と頑なだ。自分は学歴があるのにこの地では相応の扱いを受けていない、という恨みもほのめかす。

たしかに、村には難民を疎外する空気があった。庭師の一人は刑事の聞き込みに、村内にくすぶる憶測のあれこれを証言する。この事件を「よそ者がうろつきまわっているせい」にして、リトル・パドックスの厨房にいる「ひどい癇癪(かんしゃく)持ちの娘」に疑いの目を向ける人物もいる――。戦時、欧州大陸の人々を苛んだ出来事は戦後、英国の長閑な田園にも歪みをもたらしていた。クリスティーの一編からも戦争の「闇」は見えてくる。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年10月30日公開、同年11月1日更新、通算546回
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村上春樹で思う父子という関係

今週の書物/
『猫を棄てる――父親について語るとき』
村上春樹著、絵・高妍、文藝春秋社、2020年刊

猫帰る

村上春樹が少年期を振り返って父親とのことを書いたというのは、私にとって驚きだった。『猫を棄てる――父親について語るとき』(村上春樹著、絵・高妍、文藝春秋社、2020年刊)。この人の小説は、エピソードの切りとり方こそ日常感覚にあふれているが、そこに抜きんでた空想力をもち込んで、ぶっ飛んだ物語世界に私たちを誘い込む。ところが今回は、あたかも私小説作家のように自らの個人史を晒して、一冊の書物にしたのだという。

もっとも、これを小説として読むのは誤りだ。巻末の「小さな歴史のかけら」と題するあとがきで、著者はこの一編を「文章」とのみ称している。その完成度からみて〈作品〉とみなしてよいと私は思うが、それはフィクションでもエッセイでもない。

初出は、月刊『文藝春秋』の2019年6月号。「文章」の長さは中編小説ほどのものなので、ほかの作品と併せて単行本にするという選択肢もあったが、あえて「独立した一冊の小さな本」にしたという。あとがきには「内容や、文章のトーンなどからして、僕の書いた他の文章と組み合わせることがなかなかむずかしかったからだ」とある。著者自身も、この作品が小説家村上春樹の世界から外れていることを認めているのである。

もう少し、あとがきにこだわろう。著者には「亡くなった父親のことはいつか、まとまったかたちで文章にしなくてはならない」という思いがあり、「そのことが喉にひっかかった小骨のように、僕の心に長い間わだかまっていた」という。

私は、この吐露に納得した。実は、私も今年、父を失っている。97歳の静かな死だったから天寿を全うしたと言ってよいだろう。父と私との関係は平凡だった。確執はなかったが、仲が良かったわけでもない。少年時代にキャッチボールをした、日曜大工を手伝った、という思い出もないのだから、淡白な間柄だった。だが、死のその日から、父のことを思いめぐらすようになった。著者の心にも同じような転回があったのかもしれない。

父は子にとって、とりわけ息子にとって、そういう存在であることがままあるのだろう。その人が存在しているときは紐帯を自覚することがない。ところが非存在となったとたん、その紐帯の絡みつくさまがにわかに浮かびあがってくる。なんと逆説めいていることか。

で今週は、この本をとりあげる。冒頭、表題のエピソードが「父親に関して覚えていること」の一つとして披歴される。一家が兵庫県西宮市の夙川(しゅくがわ)に住んでいたころ、「海辺に一匹の猫を棄てに行ったことがある」。飼っていたのか、それともただ居ついていただけなのかもはっきりしない雌猫。「昭和30年代の初め」のことらしい。当時は、猫を棄てることが「とくに世間からうしろ指を差されるような行為ではなかった」。

著者は1949年生まれだから、まだ子どもだ。父が漕ぐ自転車の後ろにまたがって猫の入った箱を抱え、海辺へ向かった。父子は香櫨園(こうろえん)の浜まで2キロほど走り、防風林で猫に別れを告げ、家路を急いだ。で、玄関を開けたときのことだ。「さっき棄ててきたはずの猫が『にゃあ』と言って、尻尾を立てて愛想良く僕らを出迎えた」のである。父は「呆然」とし、次いで「感心」して、最後には「いくらかほっとした」表情を見せたという。

ここで私には一つ、思いあたることがある。少年期の記憶はどこかぼやけていて、大人になって思い返すときに改編されていたりするものだ。著者を疑うつもりはないが、この猫の先回りにもそんなトリックがあるのかもしれない。父子はまっすぐではなく、回り道して帰宅したのではないか。棄て場所は浜ではなく、もっと近所だったのではないか。いや、そもそも、猫を棄てに出かけてはいなかったのかもしれない……。

著者自身、猫が自分の「友だち」であり、家族とも「仲良く」やっていたことを振り返り、「どうしてその猫を海岸に棄てに行かなくてはならなかったのだろう?」「なぜ僕はそのことに対して異議を唱えなかったのだろう?」と自問している。

もう一つ、父の思い出として特記されているのは、朝食前に「長い時間、目を閉じて熱心にお経を唱えていたこと」だ。父は、京都の由緒ある寺の住職の次男だった。自身は阪神間の中高一貫校で国語教師になったが、読経の習慣は身についていた。異彩を放つのは、そのお経を毎朝、何に対して唱えていたかだ。父の前にあるのは、いわゆる仏壇ではなかった。代わりに「美しく細かく彫られた小さな菩薩」を入れたガラスケースが置かれていた。

著者は、子ども心に理由を知りたくて「誰のために」と聞いたことがあった。父は、「前の戦争で死んでいった人たちのため」「仲間の兵隊や、当時は敵であった中国の人たちのため」と答えた。著者の問いかけは、そこで止まる。「おそらくそこには、僕にそれ以上の質問を続けさせない何かが――場の空気のようなものが――あったのだと思う」。そうだ、戦後世代の私たちは先行世代と心を通わせようとすると、いつもこの壁にぶち当たるのだ。

著者は、このあたりから父の個人史を描きはじめる。それは、この一編のお肉の部分なので細部に立ち入らない。「文章」とは言っても、やはり稀代の小説家村上春樹の作品なのだ。物語としても十分に読めるのだから、ネタをばらすようなことは控えたいと思う。

私が目をとめたのは、この個人史のぼやけやゆらぎだ。著者の記憶には、もともと父の軌跡がとどめられてはいた。ところが父の没後、それが欠陥だらけであることが著者自身の調査によってわかってくる。そこに読みものとしての魅力も生まれている。

一例を挙げれば、父の軍歴。父は、旧制中学校を出て仏教系の専門学校に在学中、兵隊にとられる。20歳だった。著者は、そのときに父が入営した部隊名を間違って覚えていた。間違ったまま放置されていたのはなぜか。それは、配属先と信じ込んでいた部隊がある事件とかかわっており、父に対するもやもやした疑念を生んでいたからだ。「生前の父に直接、戦争中の話を詳しく訊こうという気持ちにもなれなかった」と、著者は告白する。

父は2008年、90歳で永眠した。息子が「何も訊かないまま」、父が「何も語らないまま」、父子は世界を分かつことになったのだ。それで著者は調査に乗りだして、父の配属先が別の部隊とわかり、疑念も晴れた。「ひとつ重しが取れたような感覚があった」という。

父は1938年、中国大陸の戦線に送り込まれた。1年で除隊後、専門学校に復学して卒業したが、1941年に再び召集される。ところが2カ月後、上官から「召集解除」を言い渡されたという。著者が「父から聞いた話」では、上官は父が京都帝国大学の学生であることを慮って「学問に励んだ方がお国のため」と告げたというのだが、信じ難い。著者も「そんなことが一人の上官の裁量でできるものかどうか、僕にはよくわからない」と懐疑的だ。

実際、父は京大に進み、文学を学び、卒業した。だが、著者が京大の名簿に当たってみると、父の入学は1944年だった。「子供の頃に僕が聞かされた――聞かされたと記憶している――話」は「残念ながら事実にはそぐわない」と、途方に暮れるのだ。

ただ、父がこの話をするとき、「上官のおかげで命を助けられた」と言っていたことには重みがある。1941年に父が入営した師団は戦争末期、ビルマ戦線でほとんど壊滅状態になったからだ。父が最初の兵役で所属した師団も日米開戦後、中国大陸からフィリピンの激戦地へ転戦させられたので、除隊が延びていればこちらで戦死した可能性もある。「そうなればもちろん僕もこの世界には存在していなかったことになる」と、著者は書く。

この一編は、ぼやけてゆらぐ記憶のかたまりだ。もっとも衝撃的なのは、父が一度だけ明かしたという軍隊での出来事。あまりに強烈なので紹介しない。だがそれも、主語ははっきりしない。ぼんやりしているからズシンとくる。父と子は、そんな記憶でつながっている。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年10月2日公開、通算542回
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新聞記者オールディーズ考

今週の書物/
『事件記者【報道癒着】』
酒井直行著、島田一男原案、新波出版、2017年刊

紙と板

先々週、先週と新聞記者のレガシーを語った。伝説の人とも呼べる先輩記者の訃報が届いて、先行世代が残してくれた職業観を真正面から受けとめてみたのだ。ただ、ちょっと話がまじめ過ぎた。記者の仕事には、もっとハチャメチャな側面がある。

事実を先んじて伝えたい。記者を突き動かしているのは、そんな子どもじみた思いだ。夕刊、朝刊と日に2回、勝ち負けの決まるレースがある。超一級の情報を自分だけがつかみ、それを記事にして競争相手に一泡吹かせたい――その一心で日々、駆けまわっている。

この競争は、「抜く」「抜かれる」という業界用語で表現される。市場経済ではものごとの価値が「売れる」「売れない」で測られるが、新聞記者はそれを気にしない。頭にあるのは「抜く」「抜かれる」の物差しばかり。そのことは、当欄の前身(「本読み by chance」2019年10月25日付「横山秀夫「64」にみる記者の生態学」)でも書いた。メディアの無定見を「売らんかな」の精神のせいにする人が多いが、新聞に限って言えばそうではない。

新聞記者の世界は、資本主義以前。中世も古代も跳び越えて、太古の狩猟社会のようだ。それを描いたドラマにNHKがテレビ草創期に毎週放映した「事件記者」(1958~1966)がある。警視庁記者クラブに詰める記者たちがギルド的友愛でつながりながら、化かし合いの競争を繰り広げる。私は少年時代、将来の自分が同じ道に入ることも知らず、この番組に熱中した。(「本読み by chance」2014年5月2日付「ジャジャジャジャーンの事件記者」)

私は、新聞記者になったが科学畑が長かったので「事件記者」とは言えない。ただ駆けだし時代、警察の記者クラブにいたころの自分を思い返すと、あのドラマの記者群像とダブって見える。それは、子どもじみた大人という記者の特性がむき出しになる世界だった――。

で、今週は『事件記者【報道癒着】』(酒井直行著、島田一男原案、新波出版、2017年刊)を電子書籍で読む。島田はドラマ「事件記者」の原作者。ちなみに前述の拙稿「ジャジャジャジャーン…」では、彼が書いた小説『事件記者』(徳間文庫)をとりあげている。その設定を引き継いで21世紀の今を舞台に仕立て直したのが、今回の小説だ。著者は1966年生まれ、ドラマの脚本やゲームシナリオなどの執筆も手がけている。

当欄は、ここで酒井版『事件記者』の筋書きには立ち入らない。断片的なエピソードをいくつか拾いだし、ドラマの記憶や私自身の思い出にある昔の記者像と今現在のそれを引き比べて、彼此の違いをあぶり出してみたい、と思う。

まずは、朝の記者クラブ風景。東京日報の相沢キャップがソファーで各紙朝刊に目を通している。「出勤途中の電車内で、各新聞社の電子版朝刊にはスマホで一通り目を通してきてはいるのだが、やはり、毎朝きまっての特オチ特ダネのチェックはインクの匂いがまだ残る新聞紙面で確認するに限る」(引用部のルビは省く、以下も)。私は「電子版」「スマホ」の語句を見て、今ならそうだろうなと納得し、すぐに、でもちょっと違うなと苦笑した。

昔の記者は当然、電子版で他紙の特ダネにあわてるようなことはなかった。私たちは、事件記者であろうが科学記者であろうが、自腹を切って競争紙を定期購読するのが常だったのだ。それは、ひとえに一刻も早く朝刊を開いて「特オチ特ダネのチェック」をするためだった。布団のなかで他紙の大見出しに愕然とし、いっぺんに目が覚めたことは幾度もある。今は「電子版」で済ますのだろうが、ただ「出勤途中の電車内で」というは遅すぎる!

警察と新聞の関係も激変した。相沢が訳あって、庁舎玄関の制服警官と言葉を交わす場面がある。警官は礼儀正しいが、ふだんは不愛想。相沢は「分かっています。上から言われているんでしょ? マスコミの人間とはあまり親しくするなって」。そして、先輩の懐旧談を受け売りする。「昔はそれこそ、捜査一課の刑事たちと記者クラブの連中が一緒になって近くの居酒屋で酒を酌み交わしたり、家族同士の付き合いなんかも頻繁にあったらしいよ」

相沢が、新人記者に取材法を伝授するくだりにはこんな嘆きも。「その昔は、夜討ち朝駆けと言って、担当刑事の家まで朝に夜に日参してはネタを仕入れてきたものなんだが、これが今ではずいぶん難しい」。世間が、公務員の守秘義務に厳しくなったのだ。

夜討ち朝駆けは、かつて事件記者の日課だった。おぼろげな記憶では、ドラマ「事件記者」の面々も、村チョウさん、山チョウさんと呼ばれる刑事の自宅玄関前に群がって、捜査情報を聴きだしていたように思う。これは事件記者に限らず記者一般に言えることだが、連れだって飲みにいくのであれ、自宅に押しかけるのであれ、家族と仲良しになるのであれ、取材先との間に私的交流があることは、情報源に食い込んでいるとして褒められたものだ。

これは、なあなあの関係を生んだ。東京日報が機動捜査隊の出動を嗅ぎつけて、凶悪事件の発生を知ったとき、長老記者は新人にこんな思い出話をする。「ワシらと刑事たちがツーカーの間柄じゃった頃は、機動捜査隊が動き出す前に、捜査一課の顔馴染みの刑事がここに顔を出して、『コロシの一報が入ったけど尾いてくるかい?』なんて声かけてくれたもんじゃ」。現場では、短時間だが立ち入りを許して写真も撮らせてくれたという。

長老の回顧談には、新聞社のハイヤーが社旗を立てて捜査車両を追いかける話も出てくる。旗はボンネットの先端でひらめいている。それは、ドラマ「事件記者」のオープニング映像そのものだ。あのころの新聞社旗は、報道機関は公器なのだ、という自負の表れだったように思う。今の感覚で言えば、思いあがっている。あの旗は、そんな歪んだ自負の匂いを町中にまき散らしていたのだから、世間の反感を買うのも当然だろう。

新聞が、公器としての特権をふりかざす時代は終わったのだ。だから、記者も創意工夫を凝らさなくてはならない。そんなこともあるのかと思わせる一節が、この小説にはある。前述の機捜隊出動を東京日報の記者がどう察知したか。警視庁近くのビルで別の記者クラブに詰めていた記者が、窓際に据えたビデオカメラで機捜隊の車が出ていく瞬間を録画したというのだ。テクノロジーが「ツーカー」の欠如を補ったのである。

昔と変わらないのは記者クラブか。私が京都支局の警察回りだったとき、キャップからこっぴどく叱られたことがある。内偵取材の資料を無造作にポケットに突っ込んでクラブに戻って来たら、咎められたのだ。他社に感づかれるではないか、というわけだ。相沢も、新人にクラブの作法を教え込んでいる。他社のブースに足を踏み入れるのはダメ。他社が何を追いかけているかは、些細な「会話や態度」から嗅ぎとらなければならない――。

昔と変わらない取材方法もある。私は京都時代、殺人事件が起こると現場周辺の家々や店々を回って「聞き込み」をしたものだ。この小説で新人記者が、現場に急いでも規制線の先に立ち入れないなら意味がないのでは、と突っかかると、先輩記者が諭す。「事件記者が取材するポイントはごまんとある」。被害者の隣人知人を見つけて、どんな人物だったか、誰とつきあっていたかを聞く。商店や飲食店を回って、日ごろの暮らしぶりを探る――。

足で稼ぐ事件取材は今も続いているわけだ。ただ、今どきの記者たちは昔よりずっと辛い目に遭っているに違いない。個人情報保護の認識が広まったからだ。政治家や企業トップの不正なら、公人の情報は開示すべきだ、と堂々と言える。だが、市井の事件当事者についてあれこれ聞きだすとなると話は別だ。事件の真相は、辛いことだが次世代に手渡すべき公的な記録であり、限られた範囲で公にされなくてはならないと思えるのだが……。

今週は1960年代のドラマを思いだしながら、ハチャメチャな話を懐かしもうと思っていた。だが結局は、前回「新聞記者というレガシー/その2」(2020年9月18日付)同様の切実な論点に戻ってしまった。やはり、新聞は深刻な局面にあるのだ。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年9月25日公開、同日最終更新、通算541回
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虚子、客観写生の向こう側

今週の書物/
『虚子百句』
小西昭夫著、創風社出版、2010年刊

ものと蔭

秋めいてきた。その移ろいは蝉の鳴き方一つでわかる。自分が季節の兆しに敏感とはとても言えないが、それでも70年近く生きていると、なんとはなしに感じとれることがふえてくる。で、今週は、そんな季節感にもかかわる俳句本を開くことにしよう。

『虚子百句』(小西昭夫著、創風社出版、2010年刊)。虚子は、もちろん高浜虚子(1874~1959)のこと。明治・大正・昭和を生き抜いた俳壇主流の俳人である。愛媛県松山に生まれ、同郷の正岡子規に師事、夏目漱石とも交流があった。著者については、この本に横顔紹介が見当たらない。愛媛新聞のウェブサイトによると、松山市在住の人で、俳句誌『子規新報』の編集長を務めており、同紙俳句欄の選者でもあるという。

私がこの1冊を選んだのは、どうしてか。一つは、まったくの偶然だ。コロナ禍で書店に出向くのもためらわれ、拙宅の本のストックを漁っていたら、この本がひょっこり現れた。「虚子」の名に一瞬敬遠の思いがかすめたのだが、ぱらぱらめくるとdog-ear(犬の耳)、すなわち、ページの隅を折った箇所がある。「初蝶来何色と問ふ黄と答ふ」(上の句は「はつちょうく」と読む)。いい句だ。だが、自分がかつて付箋代わりに犬の耳を折った記憶はない。

そもそも、本を買ったことも思いだせないのだ。たぶん俳句を始めたころ、先達の一人から貰ったのだろう。くれた人は、うっかり犬の耳を元に戻すことを忘れていたのではなかったか。これが10年ほどして私の心をとらえる。そのいきさつそのものが俳句のようだ。

もう一つは、たまたま開いたページで「森田愛子」の名を見つけたこと。森田(1917~1947)は福井県の港町三国(現・坂井市)で豪商の娘として生まれ、東京に進学して結核療養中、句づくりを始める。私は新聞記者としての初任地が福井だったので、その名に愛着がある(「本読み by chance」2016年4月29日付「三国湊ノスタルジック街道をゆく」)。そう言えば、彼女は虚子の孫弟子。この本には、森田ゆかりの次の句が載っていた。

不思議やな汝れが踊れば吾が泣く(汝れは「なれ」)
虚子は戦時中の1943年11月、三国に帰郷している愛子を見舞い、隣の石川県にある山中温泉に泊まる。本書によれば、この句の詞書には「山中、吉野屋に一泊。愛子の母われを慰めんと謡ひ踊り愛子も亦踊る」とある。季語は「踊り」で、秋。北陸の空模様が、冬めいた激しさを帯びはじめたころのように思う。そんな折、山深い温泉宿で母娘が旅人の心を癒すように舞い踊る。娘は、自身の病のことを忘れたかのように……。

この句に一瞬、私はたじろいだ。あなたが踊るのを見て私が泣くというのは、情緒的に過ぎはしないか? 虚子と言えば「花鳥諷詠」「客観写生」を唱えた人として知られる。その人が「不思議やな」と独りごち、最後は「泣く」ほどに感極まっている!

この本は、著者が『子規新報』に連載した記事をまとめたもので、精選された百余句を一つずつとりあげ、それぞれの解説に1ページを充てている。ところどころに挟まれた著者の「エッセイ」や「あとがき」にも独自の虚子論がある。そこから感じとれるのは、虚子に固定観念のレッテルを貼るな、という戒めである。たまたま目にとめた「不思議やな…」の句は、孫弟子への感情が横溢して、レッテルとはもっとも遠いところにあるように思えた。

で、今回はレッテルを忘れ、虚心坦懐になって虚子の秋の句を堪能してみよう。
もの置けばそこに生れぬ秋の蔭
秋めいた今、私の心にもっともしっくり来る句はこれだった。窓から差し込む日差しが斜めの度合いを強めると、蔭が意識されるようになる。著者は「具体的なペンや湯呑みといった品物を詠まず『もの』とだけ表現したこと」に工夫の跡を見ている。

「もの」という言葉が力を発揮した句は、ほかにもある。
大いなるものが過ぎ行く野分かな
1934(昭和9)年、関西を中心に大きな爪痕を残した室戸台風を詠んだ一句らしい。ここでも、強風、豪雨、高潮といった個別事象にまったく触れていない。「大いなるもの」という言葉を選ぶことで「巨人が通りすぎていったような感じ」を表した、と著者はみる。

著者によれば、この作品はもともと中の句が「もの北にゆく」だったが、推敲されて「ものが過ぎ行く」に変わったという。ここにも、「北に」という方向性を捨象した強みが出ている。「写生」を唱える人も、具象を巧妙に捨てる技に長けていたのだ。

目にて書く大いなる文字秋の空
天高し雲行く方に我も行く
2句に共通するのは、自然界に対して作者自身と思われる主体がかかわり、その身体感覚が詠まれていることだ。空を見あげ、視線の先を動かして字を書いた気分になる、あるいは雲の流れにつられて思わず歩く。そこには動詞付きの主観がある。

動詞付きで描かれるのは、自分だけではない。
月の友三人を追ふ一人かな
柿を食ひながら来る人柿の村
前者では、月があり、月見を先に始める3人がいて遅刻する1人もいる。その5者の関係性がおもしろい。後者は、柿の朱色の季節感が齧りとられていくことの妙。

ワガハイノカイミヨウモナキススキカナ
これは、夏目漱石の飼い猫の死を、漱石門下の松根東洋城の電報で知ったときの返電。虚子は、漱石に『吾輩は猫である』の執筆を促した張本人なので、他人事ではなかった。片仮名書きは電報だから当然だが、それが「いい味を出している」(著者)。これは「挨拶句」と呼ばれるもので、ふつうの作品とは同列に論じられないが、虚子の機知が感じられる。

最後に、私の胸に今、もっとも染み入る句を一つ。
彼一語我一語秋深みかも
「彼がぽつりと一語を発する。それに答えて我も一語を発する」(著者)。そこにあるのは、極小の対話だ。居酒屋で会話を途切れさせないことに汲々とする若者には真似ができまい。(「本読み by chance」2016年3月25日付「綿矢「蹴りたい」の自律的な孤独」)

この句は1950(昭和25)年の作。虚子はすでに70代後半だった。著者は、その「秋深みかも」に「人生の秋の時間」もみてとる。たしかにそうだろう。私たち高齢者の足が友との会食から遠のく昨今、一語ずつのやりとりでもできたなら、と切に思う。
*句にはすべてルビが振られていましたが、当欄の引用では一部を除いて省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年9月4日公開、同月5日更新、通算538回
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寅彦にもう1回、こだわってみる

今週の書物/
『銀座アルプス』
寺田寅彦著、角川文庫、2020年刊

野球

引きつづき、文人物理学者寺田寅彦(1878~1935)を話題にする。寅彦に対しては深い敬意を抱いているのだが、どうも好きになれない。それがなぜかはわからなかったのだが、随筆集『銀座アルプス』を読んでいて理由らしきものを発見した。寅彦はジャズが大嫌いだったのだ。よりにもよって、私がこよなく愛するジャズを――そんなことを前回は書いた。(当欄2020年7月31日付「寅彦のどこが好き、どこが嫌い?」)

これは、いちゃもんだ、と自分でも思う。人は若かったころの流行に共感しても、年をとってから出てきたものには抵抗感を覚えがちだ。私がヒップホップを敬遠するように、寅彦はジャズを「じゃかじゃか」(「備忘録」1927年)と揶揄したのだろう。

一つ、思考実験をしてみる。寅彦が70年ほど遅れて生まれ、団塊の世代だったなら、どんな青春を過ごしたかということだ。1960年代に東大理学部の学生だったとすると、お茶の水界隈のジャズ喫茶で首を振りふり、大好きなコーヒーを啜っていたような気がする。「マイルスはバラードがいいね」「ピアノは、やっぱりエヴァンスかな」などと、友人に蘊蓄を傾けていたのではないか。学生運動にのめり込んだかまでは推察しかねるが……。

私がそう思う根拠は、この随筆集のなかにある。「断片Ⅱ」(1927年)の冒頭、連句について述べた一節だ。連句、すなわち複数の作者が句をつないでいく詩作の妙がこう表現されている。「前句の世界へすっかり身を沈めてその底から何物かを握(つか)んで浮上ってくるとそこに自分自身の世界が開けている」。前句が月並みでも附句によって輝きを増し、「そこからまた次に来る世界の胚子(はいし)が生れる」――そんな連鎖があるというのだ。

これは、ジャズの醍醐味そのものではないか。ジャズでは、奏者が次々に「次に来る世界の胚子」を産み落とし、新しい世界を切りひらいていく。寅彦は、それを知ることがなかった。代わって、よく似たものを日本の韻文芸術に見いだしていたのである。

連句談議は、「映画時代」(1930年)にもある。ここでは、劇映画の「プロットにないよけいなものは塵(ちり)一筋も写さない」という制作姿勢が批判される。劇映画は舞台劇と違うのだから、「天然の偶然的なプロット」を取り込むべきだという。手本としてもちだされるのが連句。そこに見られる「天然と人事との複雑に入り乱れたシーンからシーンへの推移」は映画でこそ可視化できるのではないか。そんな提案をしているのだ。

寅彦のジャズ心は時間軸だけでなく、空間軸にも息づいている。表題作「銀座アルプス」(1933年)を見てみよう。ここで「アルプス」とは、銀座界隈に建ち並ぶ百貨店を指している。その山のてっぺん、すなわちデパートの屋上に立つと、眼下の街並みは建物の高さがばらばらだ。低層家屋のなかに中層のビルが交ざっているのだろう。「このちぐはぐな凹凸は『近代的感覚』があってパリの大通りのような単調な眠さがない」

「ちぐはぐな凹凸」に興趣を見いだしているのだ。これは寅彦が俳諧味を愛していたからだろうが、と同時に、ジャズ的なるものに対する感受性があるからのようにも私は思う。さらに驚かされるのは、そのちぐはぐさを「近代的」と形容していることだ。建築で近代主義(モダニズム)と言えば、箱形の建物が思い浮かぶ。だから、近代都市の景観はすっきりしている。ところが、寅彦は凹凸に近代を見ているのだ。ポストモダンに先回りしたのか。

こうした感性は、物理学者としての世界観とも響きあっている。それは当欄前回で言及した古典物理学――金米糖や線香花火――だけの話ではない。「野球時代」(1929年)という一編には、誕生したばかりの量子力学について述べたくだりがある。

「不確定」は、かつて「主観」の専売特許だったが、それを新しい物理学は「客観的実在の世界へ転籍させた」というのだ。ウェルナー・ハイゼンベルクが唱えた不確定性原理のことだろう。寅彦は、どんなに精密な測定をしても「過去と未来には末拡がりに朦朧(もうろう)たる不明の笹縁(ささべり)がつきまとってくる」と書く。だから、「確定と偶然との相争うヒットの遊戯」――即ち野球に人は魅せられるのだろうと考える。

こう見てくると、私は戸惑うばかりだ。寅彦が物理学者として志向するものも、文学者として好むものも私の心に響いてくる。それなのに、なぜ好きと素直に言えないのか。その答えのヒントになりそうなのが「雑記」の一節「ノーベル・プライズ」(1923年)だ。

この短文は、夜に電話が鳴り、新聞社が相次いでノーベル賞の発表について聞いてきた、という体験談から始まる。新聞記者は昔から同じようなことをしていたわけだ。前年1922年の物理学賞は前年分と併せて二人に贈られた。21年がアルバート・アインシュタイン、22年がニールス・ボーア、相対論と量子論の両巨頭が受賞者になった。もっとも前者への授賞は、相対論と関係なく、光電効果の理論研究に対してではあったのだが。

アインシュタインの知名度はすでに高かったので、記者たちが知りたがったのはもっぱらボーアだった。物理通ならだれでも知っている巨人が世間では知られていない。「それほどに科学者の世界は世間を離れている」とあきれた後、ボーアの私生活を描いていく。

ネタ元は、欧州でボーアに会ってきたばかりの友人。その帰朝報告によると、ボーアは郊外の別荘にしばしば出かけて、考えごとや書きものをしているという。「どうかすると芝生の上に寝転がって他所目(よそめ)にはぼんやり雲を眺めている」のだとか。

ここで寅彦は、科学者を応用志向型と純理探究型に分けてボーアを後者に分類する。世の人々がそういう学者を大事に思うなら「はたから構わない」ほうがよい、と主張する。芝生でそっとしておきましょう、というわけだ。寅彦自身は、防災に一家言あるので前者の一面があるが、金米糖や線香花火に惹かれるところは後者だ。「ボーアの内面生活を想像して羨ましくまたゆかしく思っていた」とも打ち明けているから、後者の側面が強いのだろう。

実際、寅彦も「郊外の田舎」に「隠れ家を作った」(本書所収「路傍の草」1925年)。クラシック音楽を愛するように田園を求めたのだ。そこには、日本の知識人社会にあった世俗ばなれ志向が見てとれる。世間を高踏的に見渡している感じか。科学者が高踏の匂いを漂わせるとき、その言葉は〈啓蒙〉の響きを帯びてしまう。私はたぶん、そこに引っかかったのだ。それは、科学の解説書を〈啓蒙〉書と呼ぶことに対する違和感に通じている。

もう一つ、ちょっと残念なのは、「天然の偶然的なプロット」や「ちぐはぐな凹凸」を愛した人が自身の生活には破調を求めなかったことだ。植草甚一のように気まぐれな寺田寅彦がいてもよかったのだ(当欄2020年4月24日付「J・Jに倣って気まぐれに書く」)。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年8月7日公開、同月9日最終更新、通算534回
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