偶然のどこが凄いかがわかる本

今週の書物/
『この世界を知るための人類と科学の400万年史』
レナード・ムロディナウ著、水谷淳訳、河出文庫、2020年刊

多面ダイス

先週に引きつづいて、科学史の大著『この世界を知るための人類と科学の400万年史』(レナード・ムロディナウ著、水谷淳訳、河出文庫、2020年刊)をとりあげる。当欄恒例の本文冒頭のまくら代わりに、今回はこの本に出てくる印象深い余話を一つ。

著者にはテレビドラマの脚本家というもう一つの顔があることは前回、すでに書いた。著者が「新スタートレック」の企画会議に出たときのことだ。太陽風という物理現象にかかわる筋書きを提案した。「そのアイデアとそのおおもとにある科学を熱心に細かく説明した」のである。してやったり、という感じか。ところが、プロデューサーの反応は予想外だった。「不可解な表情で一瞬私をにらみつけ、大声で言った。『黙れ、くそインテリ野郎!』」

その場に居合わせた人で物理学の学究は、著者一人。一方、くだんのプロデューサーはニューヨーク市警の刑事出身という人物だった。このエピソードは、科学者の思考様式が俗世間でどう見られているのかを如実に物語っている。ひとことで言えば、面倒くさいヤツだと煙たがられているのだ。著者の本に好感がもてる理由は、著者自身が世間の空気にどっぷり浸かり、自らが煙たがられる立場に身を置いてきた科学者だからだろう。

著者は世俗の事情をよく知っている。だから、科学思考を世俗の関心事と照らしあわせることを忘れない。私がかつて書評した著者の本『たまたま――日常に潜む「偶然」を科学する』(田中三彦訳、ダイヤモンド社)も、そうだった(朝日新聞2009年11月8日朝刊)。そもそも、世情に通じているから「偶然」にこだわるのだろう。この『…400万年史』も、科学がそれぞれの時代、偶然をどう位置づけてきたかを跡づけている。

で、今回は、この本の近現代史部分に的を絞って偶然観の変転を切りだす。それは、劇的だった。脇役がいきなり主役に躍り出たのだ。そこで表題は、先週の「科学のどこが凄いかがわかる本」(当欄2020年11月20日付)の「科学」を「偶然」に置き換えてみた。

最初に登場願いたいのは、アイザック・ニュートンだ。1687年に刊行した著書『プリンキピア』で、この世の物体は三つの運動法則に従うこと、物体には遍く万有引力が働いていることを示した。そこから導かれたのが、方程式通りに変化する決定論の世界観である。

この本では、ニュートン没後の18世紀半ば、物理学者ルジェル・ボスコヴィッチが書き記した見解が引用されている。「力の法則がわかっていて、ある瞬間におけるすべての点の位置と速度と方向がわかれば、そこから必然的に起こるすべての現象を予測できる」。数学者で天文学者のピエール=シモン・ラプラス(1749~1827)が未来の完全予見はありうるとして思い描いた〈ラプラスの魔〉も、同様の見方に支えられていると言えよう。

この世界観を崩したのが、20世紀の量子論だ。本書を参照しながら、その流れをたどろう。まず19世紀末の1900年、マックス・プランクが、エネルギーは1個、2個……と数えられるとする量子仮説を提起した。これに従って、ニールス・ボーアは原子核周辺の電子の軌道半径を「量子化」して考えた。1913年のことだ。電子は「許されるある軌道から別の軌道へ跳び移る」のであり、このときに「エネルギーを『塊』として失う」とみたのだ。

ボーアの理論は、裏返せば「電子が原子核へ向かって連続的に落ちていってエネルギーを失うことは不可能」(太字に傍点、以下の引用でも)ということだ。これは、ニュートン物理学と相容れない。なによりも、惑星や衛星の運動とまったく違うではないか。たとえば、人工衛星が落下するときは緩やかに弧を描いて高度を落としてくる。ところが、電子はぴょんと跳ぶというのだ。軌道から軌道へ移る間、それはいったいどこに存在するのか?

この問題を驚くべき発想で解決したのが、ヴェルナー・ハイゼンベルクだ。前提として受け入れたのは、電子の居場所はニュートン物理が対象とする天体や振り子のようには観測できない、ということだ。「位置や速さ、経路や軌道という古典的な概念が原子のレベルでは観測不可能だとしたら、それらの概念に基づいて原子などの系の科学を構築しようとするのはやめるべきかもしれない」――こうして1925年、量子力学を築いたのである。

その量子力学では、電子がエネルギーを失うときに放たれる光の色(振動数)や強さ(振幅)といった観測可能量だけをもとに数の行列(マトリクス)を組み立てる。理論から「イメージできる電子軌道」を外して「純粋に数学的な存在」に仕立て直したのだ。

余談になるが、ここらあたりは、学生たちが授業で量子力学を教わるときに最初につまずくところだ。物理学を学んでいるはずなのに数学の勉強を強いられる。数学が苦手な若者は、ここで物理世界に分け入る道を遮断されてしまう。私もその一人だった。ただ、この場を借りて私見を述べさせてもらえば、そこで諦めてしまうのは残念なことだ。数式をきちんと読めなくとも量子世界の空気は感じとれる。それは、世界観を豊かにしてくれる。

数学ずくめに不満な学生にとっては、助け舟もある。それを用意してくれたのが、量子力学のもう一人の建設者とされるエルヴィン・シュレーディンガーだ。彼は、ハイゼンベルクが行列で表した力学を、別のかたちで表現した。波動方程式である。波のイメージは、ニュートン物理の世界像にまだ囚われていた学界に受け入れられやすかったことが、この本からもわかる。学者でなければなおさらだ。私も波のイメージにだいぶ助けられた。

ハイゼンベルクも黙ってはいなかった。1927年、「古典的なイメージ」に追撃を加える。「不確定性原理」と呼ばれるものだ。それによれば「物体は位置や速度といった正確な性質は持っておらず」、位置と速度は「一方を精確に測定すればするほどもう一方の測定精度は落ちてしまう」関係にあるという。これは技術の限界ではなく、物理そのものの制約だ。「ニュートンのように運動をイメージするのは無駄」とダメを押したのである。

量子力学が教えてくれるのは、「これらのうちのどれかが起こる」ということだ。そこには「確率しか存在しない」と言ってもいい。「この宇宙は巨大なビンゴゲームのようなもの」――そんな世界像を量子論は示した、と著者は言う。ラプラスの魔はいなかったのだ。フィリップ・K・ディックのSF作品『偶然世界』(小尾芙佐訳、ハヤカワ文庫SF)が思いだされる(「本読み by chance」2020年3月20日付「ディックSFを読んでのカジノ考」)。

近代人は長くニュートン流の決定論を信じてきた。いや、今でもふつうには信じている。この本にも言及があるように、地震は予知できるという見方があるのも、社会科学者が未来予測に憧れるのも、この通念に根ざしている。ところが20世紀物理学は、決定論の方程式は限られた範囲だけで通用するものであり、世界の根底には偶然をはらんだ方程式があるらしいという見方にたどり着いたのだ。「偶然」の勝利である。

で、ここで著者は、またまた父を登場させる。ナチスがユダヤ人を整列させていたときのことだ。父はたまたま、列の後尾に並んでいた。親衛隊士官は、必要なのはユダヤ人3000人だとして、父を含む4人だけを切り離して連れ去った。3000人は墓掘りを強いられたうえ銃殺されたという。それは「父にとっては理解しがたい偶然だった」。この体験のせいか、父は後年、著者が語る量子論の不確定性を「容易に受け入れてくれた」そうだ。

最後に付け足しになってしまうが、著者が立派なのは、自らの専門分野を離れて生物学系の科学史にも踏み込んでいることだ。ここでは、著者がページを割いて詳述しているのが19世紀半ばに登場したチャールズ・ダーウィンの進化論であることに注目したい。

ダーウィンによれば、生物は「ランダムな変異と自然選択」によって進化する。考えてみれば、そこにある自然観も量子力学同様、アリストテレスの目的論やニュートンの決定論になじまない。偶然は凄いのだ。この本を読み切って、その思いを改めて強くする。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年11月27日公開、通算550回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

科学のどこが凄いかがわかる本

今週の書物/
『この世界を知るための人類と科学の400万年史』
レナード・ムロディナウ著、水谷淳訳、河出文庫、2020年刊

斜面

若かったころの私的な思い出を一つ打ち明けると、大学の卒論研究はニュートンだった。私がいた学部学科に科学史の研究室はなかったが、それでも物理学の歴史に関心があった。定年間近の老教授が好きな卒論テーマを選んでよいというので、その言葉に甘えたのだ。

手にとったのは、アイザック・ニュートン著『プリンキピア』(自然哲学の数学的原理)の英語版。もともとラテン語で書かれた本だから、原著ではない。これを図書館で閲覧して――借りたような気もするが――要所を複写した。どこに的を絞ったかと言えば、ニュートンが万有引力を遠隔作用ととらえた点だ。力は媒質によって伝わる近接作用だとする従来の見方を塗りかえるものだった。そこに至る思考の足跡をたどろうとしたのである。

学部学生が古典の大著をかじっただけでまとめた考察だから高が知れている。ただ私自身にとっては、ニュートンが近接作用論に執拗な反駁を加えていることが大きな発見だった。当時は近接作用を前提とする宇宙観が広まっていたが、それにノーを突きつけたのだ。

遠隔作用論と近接作用論の確執はその後も続く。18~19世紀はニュートン力学が地歩を固め、前者優勢の様相があったが、20世紀に入ると相対性理論も量子力学も「場」という概念を取り込んで後者の立場をとるようになった。

科学とは、ものの見方を変えていく営みなのだ、とつくづく思う。で今週は、科学史のダイナミズムを見せつけてくれる1冊を紹介する。

『この世界を知るための人類と科学の400万年史』(レナード・ムロディナウ著、水谷淳訳、河出文庫、2020年刊)。著者は1954年、米国シカゴ生まれ。量子力学の理論を専門とする物理学者でありながら、テレビドラマの脚本家でもある人だ。略歴欄にはドラマの代表作として「新スタートレック」「冒険野郎マクガイバー」の名が挙がっている。本書は原著出版が2015年。邦訳の単行本は翌16年、河出書房新社から出ている。

この1冊を私が手にとったのは、この著者の本なら期待を裏切らない、という確信があったからだ。かつて新聞の読書面で、同じ著者の『たまたま――日常に潜む「偶然」を科学する』(田中三彦訳、ダイヤモンド社)という本を書評した(朝日新聞2009年11月8日朝刊)。そのときに印象に残ったのは、著者が現代科学で重みが増した「偶然」について物理学者として語りながら、それに自分自身の家族史を重ねあわせていたことだ。

著者のウェブサイトに入ると、その家族史がわかる。父も母も、ナチスによるユダヤ人迫害で収容所に送られながら、大虐殺は免れた。とくに父は、ユダヤ人地下活動の指導者の一人だったという。二人は、いくつもの偶然のおかげで生き延び、出会い、そして著者が生まれたのだ。私は『たまたま』の書評で「歴史の大波と偶発事の小波が重なって人々の生をもてあそんだ現実が、この本の偶然観に深みを与えている」と書いた。

今回の『…400万年史』にも、父の話がしばしば出てくる。いや、著者が心のなかで父と対話を重ねながらまとめたのがこの本だ、と言ってもよいだろう。「知りたいという欲求」と題された第1章も、父から聞いたという収容所のエピソードから書きだされる。

父は円周率πも知らないような人だったが、ある日、収容所仲間の一人から数学のパズルを出題される。何日も頭をしぼったが解けない。聞いても答えを教えてくれないので、とうとう別の仲間にパンを譲り分けて、正解を手に入れたというのだ。支給されるパンが命綱だったころの話だ。「知りたいという欲求」はそんなに強いのか。著者は、自身の「この世界を理解したいという情熱」も結局は「父と同じ衝動に突き動かされている」と思い至る。

著者が理系に進んでからのことだ。父は、科学の話題になると「その理論がどうしてできたのか」「なぜそれを美しいと感じるのか」「我々人間にとってどういう意味があるのか」と質問攻めにしてきたという。専門知識よりも「おおもとの意味」に興味津々だったらしい。

ここからわかるのは、著者の内面には父親譲りの知的探究心が息づいていることだ。だから、この本が描いているのは、ものの見方としての科学の歴史であり、実益本位のそれではない。原題は“The Upright Thinkers: The Human Journey from Living in Trees to Understanding the Cosmos”。ちょっと強引に訳せば「直立〈考〉人――樹上生活者が宇宙を理解するまでの人類の長い旅」ということになろうか。〈考〉が大事なのだ。

では、この本が人類のものの見方の移ろいをどう描いているのか、大筋を見ていこう。著者は近代科学の原点を、古代ギリシャのアリストテレスの世界観を吹っ切るところに見いだしている。アリストテレスは、宇宙を「生態系のようなもの」ととらえた。「目的」の重視だ。雨降りは植物が育つため、植物の生長は動物の食べものになるため……。動物の動きも「ウマは荷馬車を走らせるため」「ヤギは餌を探すため」という具合だった。

近代科学はこうした目的論を否定する。この本によれば、兆しは中世の14世紀、英オックスフォード大学の数学者が見つけた「史上初の定量的な運動の法則」にある。カレッジ名から「マートン則」と呼ばれる。今風に言えば「自動車を速さゼロから時速一〇〇キロまで一定の割合で加速させると、ずっと時速五〇キロで走っていたのと同じ距離だけ進む」ということだ。この法則はすべての物質の運動に遍く適用できるので、目的論になじまない。

中世が過ぎると、反アリストテレスの流れは強まる。16世紀半ばに生を受けたガリレオ・ガリレイは、アリストテレスの理論が「観察」から導きだされていることが不満だった。裏返せば「実験」を重んじたのだ。そこには、受け身ではない探究の姿勢がある。

たとえば、落下運動。アリストテレスの見方では、物体はその重さに比例して決まる一定の速さで落ちていく。これは「石は葉っぱよりも速く落ちる」という観察結果にも合っている。一方で、私たちは直観で「物体は落下するにつれて速さが増す」と感じている。この相反する2説を吟味するのに、ガリレオは実験という手法を選んだ。その結果、落下の速さは重さによらず、どの物体も一定の加速度で落ちていくことがわかったのだ。

ガリレオの実験は、重さの異なる金属球を真下に落とすものではなかった。斜面に転がしたのだ。これなら「運動をゆっくりにして」測れる。摩擦という「基本法則の単純さを見えにくくするもの」も小さくできる。さらに見事なのは、斜面の実験を垂直方向の落下の検証につなげる論理だ。「傾斜をどんどん急にしていっても同じ性質が成り立つ」ことを見てとって、斜面を90度に直立させたときも同様だろうと見極めている。

ガリレオは、法則が見えやすい物理系を自ら設計した。それを調べることで、生態系のように複雑なアリストテレス的世界に潜む単純明快なしくみを突きとめたのだ。そのしくみを理論体系にまとめたのがアイザック・ニュートンだ。著者は、ガリレオとニュートンが「現実世界に存在する無数の複雑な要因を見抜いてそれらを削ぎ落とし、もっと基本的なレベルで作用する簡潔な法則を白日のもとにさらした」と称賛している。

以上の流れを追うと、近代科学はギリシャ哲学に反旗を翻したようにも見える。だが、そうではない。著者は、ギリシャの先哲のうちタレスやピタゴラスにも言及している。前者は「自然は秩序立った法則に従う」と述べ、後者は「自然は数学的法則に従う」(「数学的」に傍点)と断じた。これは、理系ギリシャ哲学のもう一つの柱と言えよう。マートン則の定量志向はガリレオやニュートンに受け継がれたが、その水源はここにあったとも言える。

欧州史は、古代ギリシャ・ローマ時代から中世を経て、ルネサンスによって古代の良さを再発見するという道筋で概観されることが多い。この見方は、絵画や彫刻、建築には通用するだろう。だが、科学史はもうちょっと複雑だ。近代科学はギリシャの叡智に導かれつつも、その呪縛を振りほどこうとして産声をあげたのである。今回は、この大著をひとかじりしただけで字数が尽きた。次回は同じ本を別の視点から読み込んでみよう。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年11月20日公開、通算549回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

フランクリンにみる米国の原点

『フランクリン自伝』
ベンジャミン・フランクリン著、松本慎一、西川正身訳、岩波文庫、1957年刊

アメリカの味

今年は、米国の年だった。いや、米国に幻滅した年だったと言うべきか。米国の出来事に思いをめぐらせる機会は、いつになく多かった。だが、たいていはあきれ、げんなりさせられて、もの悲しくなることもあったのだ。極めつけは、大統領選挙。現職大統領が相手候補を口をきわめて罵る姿は、私たちが憧れ、ときにうらやましく感じていた米国人の美学とは、まったく相反するものだった。あのアメリカらしさはどこへ行ったのか?

コロナ禍が、それに追い打ちをかけた。感染の波を抑えられなかった、という結果をどうこう言うつもりはない。医療現場で医師や看護師、検査技師たちが果敢に任務をこなしていることもわかっている。私がアメリカらしくないと思うのは、あれほどの事態に陥りながら平然とマスクをしないでいられる人々が大勢いたことだ。マスクは鉄壁ではないが、感染の確率を確実に減らせる。その合理主義がどこかへ消えてしまった!

もちろん、米国にも反科学の精神風土があることはわかっている。ダーウィン進化論を宗教心から信じない人がかなりいる、とも言われている。だが、そうであっても実践の局面では理にかなった行動をとる――それが米国流だと思っていたのである。

で今回は、私がこれぞ米国流と思ってきた行動様式の水源を1冊の本から探っていこう。『フランクリン自伝』(ベンジャミン・フランクリン著、松本慎一、西川正身訳、岩波文庫、1957年刊)。著者(1706~1790)は、米国の独立・建国運動を率いた政治家の一人。それだけではない。もともとは実業家であり、理系の探究心も豊かだった。雷の正体が電気だと見抜いたのだ。欧州からは離れたところで近代精神を体現した人と言えるだろう。

この自伝によれば、フランクリンは1706年、ボストンで生まれた。10歳で学校をやめ、父が営むろうそく・石鹸の製造業を手伝ったり、従兄のもとで刃物職の修業をしたり、兄が始めた印刷所で「年季奉公」したりした。17歳のとき、ニューヨーク経由でフィラデルフィアに移り、ここで印刷工の職を得る。さらに18歳で英国ロンドンへ渡り、そこでも同じ仕事に就いた。今はやりの言葉で言えば、たたき上げの苦労人ではあったのだ。

20歳で帰米、フィラデルフィアで元の勤め先に戻るが、まもなく同僚と組んで、活字や印刷機など備品一式を取り揃えて開業する。1728年のことだ。20代前半での独立は、今の感覚で言えば早いが、この時代では当たり前のことだったのだろう。

フランクリンがふつうの青年とは異なっていたのは、知的好奇心の強さだ。それはオタク的な興味にとどまっていない。1727年秋の思い出として、次のような記述がある。「私は有能な知人の大部分を集めて相互の向上を計る目的でクラブを作り、これをジャントーと名づけて、金曜日の晩を集りの日にしていた」(「ジャントー」は「徒党」「秘密結社」の意との注が挿入されている)。20歳そこそこで、知的集団を主宰したのだ。

フランクリンはこの自伝で、ジャントー・クラブ会員の人となりも詳述している。当初の会員には、独学の数学者がいた。放浪中の英オックスフォード大生がいた。学徒ばかりではない。測量の専門家も、指物師も、商家の番頭もいた。集いでは会員が一人ずつ、倫理・政治や自然科学の話題を提供してみんなで議論する。3カ月に1本は論文を書くという決まりもあったという。この本気度はサロンの域をはるかに超えている。

ここから見えてくるのは、植民地時代の北米では、貴族でもなく、大富豪でもない人々が文化活動の主役でありえたことだ。総勢12人と決めて始めたので、会員数はふやさない方針だったが、会員たちがそれぞれ独自にクラブをつくることを認めたので、一つのネットワークができあがったようだ。フランクリンは、ジャントー・クラブが地元ペンシルヴェニアで「もっともすぐれた哲学・道徳・政治の学校」になったと誇っている。

実際、これはやがて大学(現・ペンシルヴェニア大)創設という大事業に結びつく。1749年、その準備に着手したとき、フランクリンが真っ先に思い立ったのは、ジャントー・クラブの会員を中心とする友人たちに協力を呼びかけることだったという。

印刷は、表現の手段ともなる。フランクリンは1729年、「ペンシルヴェニア・ガゼット」という新聞の発行に乗りだしている。紙面では論陣も張った。マサチューセッツ植民地で知事と議会が対立すると、そのニュースに飛びついて「威勢(いせい)のいい批評を書いて載せた」。これで、識者たちの「ガゼット」紙に対する関心が高まったという。こうしてメディアを通じて自らも政治言論にかかわり、論客にもなっていくのである。

この年、匿名で執筆した小冊子が『紙幣の性質と必要』。世の中の紙幣増発を求める声を受けて、富裕層の増発反対論に一撃を加えるものだった。それは、「巻パンをかじりながらフィラデルフィアの往来をそこここ初めて歩き廻った頃」の記憶にもとづいていた。当時の町はさびれていたが、紙幣が発行された後、商取引や住民数がふえた――そう実感したからこその増刷論だった。フランクリンは、皮膚感覚を大事にする人だったことがわかる。

紙幣増発案はこの小冊子も一役買って、州議会で可決されたという。議会内からは、その「功績」に「報いる」との理由で紙幣はフランクリンに刷ってもらおうという動きが起こって、実際に受注したらしい。自伝では「とても割りのいい仕事で、おかげで私はたいへん助かった」と打ち明けている。この時代には競争入札制度が整っていなかったのだろう。彼の増発論に利権を得ようという魂胆はなかったと信じたいが、ちゃっかりはしている。

ここで、フランクリンの自然科学者としての足跡もたどっておこう。自伝では、自分が10代から理神論者であったことを明言している。神の存在は受け入れるが、自然界のものごとは自然法則に従うという立場だ。17~18世紀欧州の啓蒙思想の影響が見てとれる。

雷をめぐるあの危険な実験については意外な史実があった。自伝によると、フランクリンはたしかに「稲妻(いなずま)は電気と同一」との説を唱えたが、このときに提案した検証実験、即ち「雲の中から稲妻を導き出す」ことをやってのけたのはフランスのグループだというのだ。その先行の試みを認め、「まもなく私がフィラデルフィアで凧(たこ)を使って行った同様な実験に成功して限りなく嬉しかった」と記している。公正な態度である。

フランクリンは、オープン・ストーブも発明している。その方式では、暖房の効率を高める工夫が凝らされていた。自伝は、知事が一定期間の専売特許の付与をしようともちかけたが、それを辞退したことを明かしている。英国ロンドンの業者が類似品を考案し、特許を得てひと儲けしたとの話を伝え聞いても、彼は動じない。「われわれは他人の発明から多大の利益を受けている」「特許をとって自分が儲けようという考えはない」というのだ。

私が感動したのは、造船について論じたくだりだ。当時は帆船の時代だが、それでも設計時には速さが追求されたらしい。ところが、「快速船」が航海に出ても遅いことがある。フランクリンは、その一因として「船荷の積み方、艤装(ぎそう)の方法、操縦法(そうじゅうほう)に関する考えが海員によって異る」ことを挙げている。技術を、つくり手のつくり方だけでなく使い手の使い方まで含めて考えよう、というシステム思考の視点がある。

この自伝では、ところどころでアフリカ系の人々、あるいは北米に先住する人々に対する偏見が見てとれる。フランクリンがしたたかに宗主国英国の植民地支配に抵抗する話が出てくるが、今のものさしでとらえ直せば、彼もまた支配する側にいたことになろう。

ただ、米国建国の立役者たちが新しい文化の種を撒いたのはたしかだ。草の根の知的活動、実生活直結の探究心――ひとことで言えば、プラグマティズム(実用主義)だろうか。そこにこそアメリカのアメリカらしさがある。それが今は見えない。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年11月6日公開、同月8日最終更新、通算547回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

ノーベル賞が語るウイルスとの闘い

今週の書物/
2020
年ノーベル医学生理学賞発表資料(スウェーデン・カロリンスカ医科大学)
2020
年ノーベル化学賞発表資料(スウェーデン王立科学アカデミー)
=画像はこれらの一部

ハサミ

先週に続いて、理系ノーベル賞の発表資料を読んでいこう。今週は、医学生理学賞と化学賞だ。前者の行方では、ゲノム編集という遺伝子改変技術の開発が本命視されていたが、それが後者に回った。その結果、今年は生命科学系が2賞を占めることになった。

医学生理学賞を受けるのは、C型肝炎ウイルスの発見にかかわった米国のハーベイ・オルター、英国生まれカナダ在住のマイケル・ホートン、米国のチャールズ・ライスの3人(敬称略、以下も)。先週の月曜、その発表をネット中継で見ていて、C型肝炎という言葉を耳にした瞬間、そうか、そこを突いてきたか、と私は思った。新型コロナウイルスが猛威をふるう年、コロナをちょっと外したところで人間とウイルスの関係に光を当てたのだ。

コロナがらみの研究が今年、選ばれる可能性は限りなく小さかった。現時点でコロナ禍は克服されていない。人類の共通感情として、ノーベル賞はまだ早すぎるのだ。実務面をみても、受賞候補の推薦期限は1月末。この時点で地球規模の大流行は始まっていなかったので、コロナ禍を視野に入れた推薦はほぼなかったとみてよい。ただ選考そのものは、大流行のさなかに進められた。コロナの時代に示唆を与える研究は一目置かれただろう。

そこで行き着いた選考結果は、人類が近過去に体験したウイルスとの闘いの成功物語だった。私自身の科学記者生活を振り返ると、1980年代には「非A非B型」と呼ばれる正体不明の肝炎が医療報道の大きなテーマだった。輸血で感染するが、病原体がわからず、手の打ちようがない。ところが1989年、米製薬企業カイロン社のグループが遺伝子レベルの研究で、その病原体らしいウイルスを突きとめた。これがC型肝炎ウイルスである。

受賞者のうちホートンは、このときカイロン社グループの中心にいた人。オルターは、それに先立って1970年代から非A非B型肝炎の研究に取り組み、この病に未知のウイルスがかかわっていることを見極めた。ライスは1990年代、ホートンたちが見つけたウイルスが実際に肝炎を起こすことを動物実験で最終確認した。ここで押さえておくべきは、一連の仕事は70年代に始まり、90年代に完結する大事業だったことだ。

プレスリリースでは、彼らの発見によって、このウイルスに対する精密な血液検査ができるようになり、肝炎の輸血感染が多くの地域で消滅したこと、C型肝炎向けの抗ウイルス薬の開発が加速されたことなどに触れた後、こう書く。「この病気は今や歴史上初めて、治せる病になった。全世界の人々がC型肝炎ウイルスから解放されるという期待も高まっているのだ」。この段落の冒頭には、次のような一文もある。

“The Nobel Laureates’ discovery of Hepatitis C virus is a landmark achievement in the ongoing battle against viral diseases.”

「ノーベル賞受賞者たちのC型肝炎ウイルス発見は、今も進行中のウイルス性の諸病との闘いで金字塔となるものだ」。ここで“battle”に“ongoing”という形容詞がつき、 “viral diseases”が複数形になっているのを見落としてはならない。今回の医学生理学賞は、コロナ禍の先行きが見えない私たちに対して、現代医学はウイルスに勝てるのだ、と励ますメッセージのように思える。ただし、それは一朝一夕にはいかない、と釘を刺しながら……。

化学賞は、フランス生まれのエマニュエル・シャルパンティエ、米国のジェニファー・ダウドナの受賞が決まった。授賞理由は冒頭に書いた通り、ゲノム編集技術の開発。これを使えば、生命体の遺伝子一式を載せたゲノムのDNA(デオキシリボ核酸)塩基配列を、ワープロソフトで文章を直すように改変できる。医療から農業までさまざまな分野で活用が期待されているが、遺伝子にどこまで手を加えてよいかという倫理問題も呼び起こしている。

技術そのものについては、当欄の前身で書物を紹介しながら、そのしくみを素描している(「本読み by chance」2017年5月19日付「ゲノム編集で思う人体という自然」、同2019年3月15日付「ゲノム編集を同時代の記者と考える」)。今回は、この技術もまたウイルス感染とは無縁でないことに話題を絞る。化学賞の選考にあたった科学者がコロナ禍を意識していたとは考えないが、この受賞研究にもウイルスの影が見え隠れするのだ。

それはどんな局面か? ゲノム編集では、ハサミ役の酵素が狙いを定めた塩基配列に導かれ、そこでDNAを切断する。このしくみが、細菌の対ウイルス防衛システムに倣ったものだというのだ。細菌たちも人類同様、ウイルスと闘っているのである。

その防衛システムのすぐれているところは、細菌がウイルスの塩基配列を覚えていることにある。細菌は、ウイルスが細胞内に攻め込んできたとき、その塩基配列の一部を自らのゲノムに取り込んで、データベースとして保存しておくのである。その結果、ウイルスが再び侵入してくると、ハサミの役目を果たす酵素がデータベースの情報に導かれてその塩基配列にとりつき、それをちぎって解体してしまう。

では、化学賞の発表資料――。今回は、その一般向けの解説がなかなか読ませる。もともとシャルパンティエは、病原性細菌の攻撃性や薬剤耐性に関心があった。ダウドナは、細胞内でRNA(リボ核酸)分子の断片が遺伝子の制御調節に関与するしくみ――RNA干渉――を探っていた。その二人が出会って「クリスパー・キャス9」と呼ばれるゲノム編集技術に結実させる様子を、折々のエピソードを交えて物語仕立てで描いている。

ウイルスが顔を出すエピソードは2006年、ダウドナにかかってきた1本の電話から始まる。当時彼女は、すでにカリフォルニア大学バークリー校で研究チームを率いていた。電話の相手は、別部門にいる微生物学者。細菌研究の分野で最近、不思議な発見があったという話だった。細菌のDNAに同じ塩基配列が繰り返し現れるところがあり、繰り返し部分の間にはさまる配列を調べると、ウイルスのそれと合致しているように見えたというのだ。

これは免疫システムの一部ではないかとして、次のような仮説が示される。
“ if a bacterium has succeeded in surviving a virus infection, it adds a piece of the virus’ genetic code into its genome as a memory of the infection.”
「細菌がウイルスに感染したけれど生き延びたとしよう。このときにその細菌は、ウイルスの遺伝暗号のひとかけらを感染の記憶として自らのゲノムに付け加えるのだ」

その微生物学者は、細菌がウイルスと闘うしくみは、ダウドナが研究しているRNA干渉に似ているのではないか、と問いかけたという。実際、細菌の「感染の記憶」を生かした免疫システムではRNA分子が大きな役割を果たしていた。クリスパー・キャス9でも、ハサミ役の酵素の案内役に人工のRNA断片を用いる。このエピソードは、研究者同士の井戸端会議のような会話が科学にとってどれほど大切かを教えてくれる。

それにしても驚くのは、細菌の賢さだ。ウイルスに襲われても攻められっ放しではいない。ひそやかに、したたかに、相手の弱みとなる情報を貯め込んでいたのだ。進化論的に言えば、そういう能力を身につけたものが生き残ってきたということなのだろう。

コロナ禍に立ち向かうのは、医学や医療の専門家だけではない。社会活動や経済活動をどのようなかたちで続けていくのかというところで、すべての人々がかかわっている。私たちも、ウイルスの裏をかくような生き方ができないか。そんな思いが一瞬、心をよぎった。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年10月16日公開、通算544回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

ノーベル物理学賞が一線を越えた

今週の書物/
2020
年ノーベル物理学賞発表資料(下の画像はその一部)
スウェーデン王立科学アカデミー

特異点

ノーベル賞の発表資料、とりわけ理系3賞のそれは、なかなか読み応えがある。

中身の難解さは超一級。論文で読めば、術語だらけ、数式交じりということになろう。ところが、発表資料のうちでもプレスリリース即ち報道用の資料や一般向けの解説は、タウン誌さながらの平たい文章で書かれている。その落差にこそ値打ちがある。

無署名の文書だ。だれが書いているのだろうか。いつも、そう訝る。建前から言えば、賞の選考にあたった科学者の一人とみるべきだろうが、それにしては文章がこなれている。手練れの科学ジャーナリストか、あるいは、それに類する人の手になるものか?――というのが10月9日公開時の当稿だった。だが、ここで私は誤った。その後、ノーベル賞のウェブサイトを調べたら、資料によっては筆者の署名が入っていることがわかったのだ。

たとえば今年、物理学賞や化学賞の一般向け解説として出された資料には、文末に小さな文字で筆者名が記されている。ネットで検索すると、その人と思われる科学ライターやジャーナリストが実在する。やはり、メディア系の人物が資料づくりにかかわっていたのだ。そうか、ノーベル賞の選考情報は候補者を絞り込んだ段階になって、わが業界の仲間たちの手に渡っていたのだ。この人たちと友だちになっていればよかった、とつくづく思う。

それにしても、ノーベル賞の選考経過はめったに漏れない。2010年、医学生理学賞を地元スウェーデン紙がすっぱ抜いた例が思いだされるくらいだ。執筆を頼まれた書き手は、発表資料という媒体に特ダネを出稿するようなつもりで秘密を厳守しているのだろう。

発表資料の文章が「こなれている」とはどういうことか。専門の話をかみ砕いて伝えていることは間違いない。だが、それだけではない。選考時の議論をしっかり踏まえているからだろうが、受賞研究の価値を的確にえぐり出している。科学研究をめぐる記述は、それが価値評価の次元に及んだとき、もはや術語や数式は要らなくなる。日常の言葉で語ることができるのだ。だから、タウン誌同様、平明であっても不思議はない。

で、今週の「書物」は、ノーベル各賞の発表資料。この文書は、去年も物理学賞と平和賞について当欄の前身「本読み by chance」でとりあげている(2019年10月11日付「ノーベル賞がETを視野に入れた日」、2019年10月18日付「平和賞があえて政治家を選んだわけ」)。今年は2回に分けて、理系各賞の発表資料から、これはという読みどころを拾いあげよう。今週はまず、10月6日に発表された物理学賞に目を向けてみる。

物理学賞は、ブラックホールの研究者3人に贈られる。英国のロジャー・ペンローズは1965年、ブラックホールの形成が一般相対論から導きだせることを示した。ドイツのラインハルト・ゲンツェル、米国のアンドレア・ゲズは1990年代以来初頭の天体観測で、銀河系の中心に超大質量高密度の天体が存在することを確認した。太陽の400万倍もの質量が太陽系ほどの領域に詰まっている。ブラックホールがあるに違いなかった(敬称略、以下も)。

今回の選考結果で興味深いのは、2年続きで宇宙・天文分野が選ばれたことだ(前述の「ノーベル賞がETを視野に入れた日」参照)。しかも、受賞者の構成が理論家1人、観測家2人というのも同じ。理論家が一角を占めたのは、宇宙物理学の現況を反映している。

ノーベル賞は手堅いので、検証が難しい研究は敬遠される。だから、宇宙物理の理論家、即ち宇宙論の学者は不利だった。あのスティーヴン・ホーキング(1942~2018)が受賞に縁がなかった理由の一つもそこにある。ところが、ここ数十年で宇宙観測の技術が格段に進歩した。可視光を含む電磁波や素粒子を精度良くとらえる機器が、地上や地下や宇宙空間に勢ぞろいしてきた。理論家の仕事が観測で裏打ちされる時代に入ったのだ。

ここでは、そんな宇宙論学者ペンローズ(1931~)に焦点を当てる。ただ、この人は宇宙のことだけを考えているのではない。「ペンローズのタイル貼り」という幾何模様で有名な数学者でもある。心とは何か、という人文系の難題にも挑んで著書を出している。ホーキングとは同分野の人。好奇心旺盛なところも似ている。私は現役時代、覚えている限りで計3回、取材の機会を得た。至言をいくつか聞いているが、その紹介は別の機会に譲ろう。

今回の発表を聞いて、私には一つ疑問が湧いた。ブラックホールを予言したのはペンローズが初めてだったのか、ということだ。答えは、発表資料のうち一般向け解説で明かされている。「いま私たちがブラックホールと呼ぶものの最初の理論的な記述は、一般相対論の発表後、数週間のうちに出ている」。プレスリリースにも、アインシュタインがブラックホールの実在を信じなかったという話が出てくる。概念そのものは早くからあったのだ。

では、ペンローズのブラックホールはどこが違うのか。一般向け解説によると、違いは「特異点定理」にあるらしい。特異点では、物質の密度が無限大であり、空間も時間も止まって既知の法則は破綻する。彼は、それを組み込んだブラックホール像を描きだしたのだ。その描像では、「事象の地平線」と呼ばれる境目の内側で時間が空間に取って代わる。吸い込まれた物質はすべて時間の流れに乗って最奥の特異点まで運ばれ、そこで時間も止まる。

このような筋書きで、物体が自らの重みで潰れたときにブラックホールをかたちづくることを「現実的な解」として示したのが、ペンローズの理論だった。

では、プレスリリースでもっとも印象に残る記述を挙げよう。ペンローズがブラックホールの細密に描きだしたことを述べた後、このように書かれている。“at their heart, black holes hide a singularity in which all the known laws of nature cease.”

「ブラックホールは、その心臓部に特異点を隠しもっている。その一点では、私たちが知っている自然法則のすべてが停止する」。これは、ノーベル賞が一線を踏み越え、現代物理学の枠外にある無法地帯――地帯というより地点だが――を認めたとも読みとれる。

さて、ゲンツェル、ゲズそれぞれのグループが、銀河系中心のブラックホールの存在を確信したのは、周辺の天体運動を精密に測定したからだった。特異点という抽象的な存在を具体的な現象で裏づけたことになる。だからこそ、ノーベル賞も一線を越えられたのだろう。

最後にもう一度、ホーキングの話を。実は彼も1960年代、ペンローズとともに特異点定理の研究をしている。あと3年ほど長生きしていたら、今回の受賞者に名を連ねることもあったのではないか? 一瞬そんなふうにも思ったが、それはちょっと違う。

ホーキングは著書『ホーキング、宇宙を語る――ビッグバンからブラックホールまで』(スティーヴン・W・ホーキング著、林一訳、ハヤカワ文庫NF)で、1965年に「ペンローズの定理について読んだ」と述べている。その定理では、重力崩壊する物体は「最後には特異点をつくる」としていた。これこそが、今回の受賞研究だ。どうやら、特異点の探究では、10歳ほど年長のペンローズに一日の長があったとみて間違いないらしい。

ホーキング自身が特異点の研究で注目を集めるようになったのは、1970年にペンローズとの共著論文を発表してからだ。この論文は、一般相対論が成り立てば、宇宙の始まりに「ビッグバン特異点」があるはずだとの見方を示していた。彼はその後、この特異点を消し去るべく、自らの宇宙論に虚時間の世界をもち込むのだ。(「本読み by chance」2018年3月30日付「ホーキングの虚時間を熟読吟味する」)

宇宙観測の技術は、日進月歩で進んでいる。だが、宇宙の始まりに特異点があるかどうか、そこに虚時間があるかどうかの判別は簡単ではない。ホーキングは没後の今も、ノーベル賞から遠いところで讃えられる科学者であり続ける。それはそれで、よいことではないか。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年10月9日公開、同年11月9日最終更新、通算543回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。