ジジェクの事件!がやって来た

『監視と処罰ですか?/いいですねー、お願いしまーす!』
スラヴォイ・ジジェク著、松本潤一郎訳、『現代思想』(2020年5月号、青土社)より

日々の管理

5年前のことだ。当欄の前身「本読み by chance」で『事件!――哲学とは何か』(スラヴォイ・ジジェク著、鈴木晶訳、河出ブックス)という本をとりあげたことがある(2015年12月18日付「ジジェク「事件!」の科学技術批判」)。著者は1949年生まれ、中欧スロベニアの哲学者。この本は2014年に刊行された。理系知をふんだんに取り込んだ同時代の哲学書。ネット社会の分析には、そうか、なるほどなあ、と目を見開かされた。

そこでは、ソーシャルメディア全盛の世相が皮肉られていた。なにごとかを世の中に発信する活動は、かつてはマスメディアに独占されていたが、今はだれにでもできる。これは、ネットという公共空間を一気に広げたように思えるが、そうではない、という。たとえば、「自分のヌードや個人的なデータや猥褻な夢をウェブ上にさらけだす人」が現れたことをどうみるか。私的空間を押し広げているととらえれば、公共空間の「私物化」にほかならない。

私は前述の拙稿で、著者には現代の科学技術が近代精神の産物を人々から奪いつつあるとみる歴史観があるらしい、と書いた。ネット空間の「私物化」は、IT即ち情報〈技術〉が「公共性」を脅かしている例だ。別の箇所には、脳〈科学〉批判も出てくる。科学者は神経回路の作用にばかり目を向けて、「自律した自由な主体としての〈自己〉の概念」を「幻想」と切り捨てるようになった、という。「主体性」も追いやられてしまったのである。

この本の題名にある「事件!」とは何か。文中には、事件とは何かを説明する記述があれやこれや出てくるので、ひとことでは定義できない。ただ著者は、人々が「公共性」や「主体性」を取り戻す契機となる事件を「!」付きで思い描いているようだと私は感じた。

もしかしたら……と思うのが、今回の新型コロナウイルス感染禍だ。これは、まぎれもなく人類史を揺るがす事件だが、著者は、そこに人々が変わるきっかけを見ようとしているのではないか。そうならば、この事件はまさに「事件!」ではないか。

で、今週は「監視と処罰ですか?/いいですねー、お願いしまーす!」(スラヴォイ・ジジェク著、松本潤一郎訳)を『現代思想』(2020年5月号、青土社)で読む。これは“The Philosophical Salon”というウェブサイトに今年3月16日付で載せた論考であり、原題は“Monitor and punish? Yes, please!”。「監視と処罰」は、ミシェル・フーコーの著書『監獄の誕生』(邦題)の原題から採ったらしい。コロナ禍の今を読み解いた論考だ。

そこで最初にとりあげられるのは、新型コロナウイルスの感染禍が「人びとの統制および規制措置の正当化と合法化」に手を貸しているように見える現実だ。例に挙がるのは、中国の「デジタル化された社会統制」やイタリアの「全面的厳重封鎖」。この種の統制や規制は、従来の「西洋民主主義社会」の常識では思いもよらぬことであり、リベラル派は警戒している。では、著者自身も同じ立場をとるのかと言えば、ちょっと違うらしい。

読み進むと、こんな記述に出会うからだ。「コロナウィルスの蔓延によってコミュニズムに新たな息吹が吹き込まれるかもしれないと提案したとき、案の定、私の主張は嘲弄された」(引用箇所で「ウィルス」とあるのは原文のママ、以下も)。表題同様に挑発的だ。

では、そのコミュニズムとは何か。図式的に要約すればこうなる。「呼吸器関連の医療機器を大幅に増やす必要」→「国家が直接介入する必要」→「その成功は、他国との連携にかかっている」。最後には、ああインターナショナル! 国際連帯が求められるというのだ。

著者は医療資源の配分――たとえば人工呼吸器や病床を誰に優先的に充てがうかというトリアージ――にも言及する。その局面で「最も弱い年長者を犠牲にする」という「適者生存」の論理が頭をもたげるが、それに対抗するのも「再発明されたコミュニズム」だという。

この論考で興味深いのは、著者が統制の概念を国家、社会のレベルから個人のレベルに引き寄せていることだ。コロナ禍の今、私たちはあらゆる「接触」に神経をとがらせており、「気になる物に触らず」「ベンチに座らず」「抱擁や握手を避け」「鼻に触れたり眼を擦ったりしない」という日常を過ごしている。「われわれを統御しているのは国家やその他の機関だけではない。われわれは自分を統御し規律化する術も学ぶべきなのだ!」

著者は、スロベニア(旧ユーゴスラビアの一部)という共産圏に育った。コミュニズムの「統制」には反発もあるだろう。その人がコミュニズムの再生を予感しているのだ。このことの意味は大きい。「統制」は「西洋民主主義社会」の価値観と相性が悪いが、とりあえずは生き延びるために致し方ない。コロナ禍はそれほどのことなのだ。このあたりを読んでいると、私たちは今、歴史的な転換点にいることを痛感する。

著者の論述は、終盤で文明論の色彩を帯びてくる。「どれほどみごとな精神的建造物をわれわれ人類が築きあげても、ウィルスや小惑星といった愚かな自然の偶発性が、それを完膚なきまでに壊滅させるかもしれない」。ここでは、ウイルスを小惑星と並べているところに注目したい。ウイルスは、遺伝子を変異させて凶悪度を高める。小惑星は、カオス運動で地球に接近することがある。どちらも予測困難。災厄は不意にやって来る。

私たちは災厄に見舞われたとき、なすがままにされているわけにはいかない。人類は人類以外の敵と闘わなくてはならない、そのためには統制や連帯が欠かせない――著者によれば、それを実現してくれそうなのが「再発明されたコミュニズム」というわけだ。私は、そこに近代精神の再評価を見てしまう。その論調は、科学技術の時代に「主体性」や「公共性」の復権を求めた前述の書『事件!…』とも響きあっている。

この論考は、人間すらも客観視している。ウイルスはヒトの体に忍び込み、そのしくみを借りて自らの遺伝情報を複製していくが、同じような存在はもう一つある――「人間の精神もまた、一種のウィルスではないか」というのだ。これは思いつきではない。進化生物学者リチャード・ドーキンスが提案した「ミーム(模伝子)」の概念に呼応している。(「本読み by chance」2017年9月15日付「ドーキンスで気づく近代進化論の妙」)

たしかに「精神」はヒトに「寄生」して「自己複製」を繰り返す。ヒトの体を乗っ取ってきたとも言えるだろう。ところが、そこに新しい乗っ取り犯が現れて、先客を脅かすようになったのだ。私たちは今、ヒトをめぐるウイルス対「精神」の闘争の渦中にいる。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年7月10日公開、同日更新、通算530回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

5Gで2Hは変わるか

『5G――次世代移動通信規格の可能性』
森川博之著、岩波新書、2020年刊

スマホの向こう

2時間ミステリー(業界では2Hと呼ぶらしい)のことは、当欄の前身でも繰り返し話題にしてきた。マンネリのドラマによくつきあっていられるね、という揶揄も聞くが、マンネリのまったり感がよいのだ。いや、それだけではない。余得がいっぱいある。

2Hは最近、新作が少ないが、BS局やCS局で旧作再放映を観ることができる。その副産物として楽しめるのが、1980年代~2010年代へのタイムスリップだ。街の風景、人々の言葉遣い、身の回りの品々……どれも時代を映している。なかでも、それがいつかを教えてくれる最強の記号は電話だろう。拙稿「ミステリーで懐かしむ黒電話の時代」(「本読み by chance」2015年1月16日付)では、次のように時間軸をさかのぼった。

〈ざっくり色分けすれば、2010年代はスマートフォン、00年代なら折り畳み式携帯、それも最初のころはアンテナ付き、1990年代後半は畳めない細長携帯、それ以前は固定電話が優勢でプッシュフォン、1980年代半ばより前はダイヤル式も多かった〉

同様の時代区分はIT業界にもある。移動電話を第1世代(1G)から第4世代(4G)まで世代分けしている。1Gの起点を1980年代としているようだから、人々の実感よりも早い。新技術が市場に出回るまでには、それなりの時間がかかるということだろう。

2020年代の私たちを待ち受けているのが5Gだ。コロナ禍がこの流れに水を差すという見方はある。だが、それとは逆の見通しもある。今、感染症に対する防衛策として社会活動を遠隔方式に改める動きが一気に広まっている。この潮流は、コロナ禍が収まっても次なる新型感染症の脅威が残るから変わらないだろう。そう考えると、5Gはブームがいったん勢いを失うかもしれないが、コロナ後の社会で待望されていると言えよう。

で、今週は『5G――次世代移動通信規格の可能性』(森川博之著、岩波新書、2020年刊)。著者は1965年生まれ、もともと電子工学を専攻した東京大学大学院教授。内外の審議会、公的委員会で要職を務めるなど、情報社会の未来図を描いてきた人だ。この本の刊行日は4月17日。コロナ禍の影響を考察する余裕はなかったようなので、コロナ後に5Gがどんな役割を果たすかに思いをめぐらすのは、読者自身ということになる。

この本には、移動通信の各世代を私たちに引き寄せた記述もある。「1Gは電話、2Gはメール、3Gは写真、4Gは動画」というのだ。たしかに携帯電話を初めて手にしたころ、それは持ち運び自在の電話機にほかならなかった。折り畳み式が出回るころには、短文メールをやりとりしていた。カメラとしても使われるようになると、撮影即送信という早業を楽しんだ。「写メ」である。そして今、スマホ画面で動画を見るのは日常になった。

では、5Gはどんなものになるのか。著者によれば、それは「超高速」「低遅延」「多数同時接続」の三つを具えた通信になる。このうち「超高速」は目新しくはない。1~4Gの進化は「高速化」の軸に沿っており、5Gはそれを「延伸したもの」に過ぎないからだ。

注目すべきは、残り二つ。低遅延の目標は、情報をやりとりするときの遅れを1ミリ秒、即ち1000分の1秒に置く。多数同時接続では1キロ四方の域内に端末機器100万台をつなげるようにする。これらは、ただの量的な進化ととらえるべきではない。それによって質の異なる「サービス」が生まれることになる。具体的には機械の「遠隔制御」、クルマの「自動運転」、リモート方式の「手術支援」などが期待されている、という。

1~4Gでは、通信の恩恵を受ける側の中心に消費者がいた。それは、前述の電話→メール→写真→動画の足どりをみてもわかるだろう。世代が代わるごとに消費者世界のありようが変わってきた。ところが、5Gは「制御」「運転」「手術」の列挙でわかるように職業人にも大きな影響を与える。たとえば、工事現場で重機が無人操作され、小売店が無人の営業になれば、建設業界や流通業界の人々の働き方は一変するだろう。

このあたりのくだりを読んでいて気になるのは、業界内でしかわからない用語が乱造されていることだ。たとえば、“B2C”と“B2B”。前者は企業が消費者向けにサービスを提供すること(本書では“Business to Customer”、ただし“Business to Consumer”とする説もある)を指し、後者は企業間取引(“Business to Business”)を意味する。5GはB2Bの市場を広げるというのだが、これなどわざわざ略語にする必要があるのだろうか。

私がこの本の長所と思うのは、ハードウェアの記述が手厚いことだ。情報系の本というとソフトウェアの話で終わってしまいがちだが、この本は違う。コトの技術にもモノの技術が必須要件としてかかわっていることを見落とすな、と叱られているような感じにもなる。

著者は「通信機器市場やスマートフォン市場では、残念ながら日本企業は競争力を失ってしまった」としたうえで、「5Gを支える部品や計測装置では日本企業の存在感は高い」とうたいあげる。5Gではミリ波など周波数の高い電波を使うので、これまでの部品が通用しないことがある。ある決まった周波数域だけを選り分ける「フィルター」などを例に挙げ、それをミリ波対応にする技術では日本企業が優位に立っていることを強調している。

地味だなあ、という気はする。主戦場で負けたから周縁部で取り戻す、という負け惜しみのようにも聞こえる。だが、必ずしもそうではない。実際、ハードの技術革新は都市を様変わりさせる潜在力があるのだ。たとえば「窓の基地局化」。電波は高周波になるほど障害物を回り込みにくくなり、到達距離も縮まる。だから、5Gの基地局は密に配置しなくてはならない。その結果、ビルの窓にガラスのアンテナが据えつけられるかもしれないという。

ここで著者は「生態系」という言葉を用いて、こう問いかける。「5G市場の生態系は、今までの延長線上となるのか、それとも新たな生態系が生まれるのか」――5Gは、消費者の目からみると、クルマ事情や買い物街の風景、病院の様子などを激変させるだろう。だが、それだけではない。生産者の立場からみても、新しい製品開発の機会をもたらしてくれそうだ。人間社会の「生態系」全体が変わるのは間違いないように私には思える。

この本からは、5Gがモノの物理に制約されている現実も見てとれる。5Gは低遅延化で「1ミリ秒以下」をめざしているが、著者によれば、それは「『無線区間』のみ」の遅れだ。基地局とサーバー(サービス提供用コンピューター)は光回線のような有線で結ばれているが、その区間の遅れは計算に入っていない。太平洋を越えた遠隔手術にも有線の壁がある。海底ケーブル部分に「往復で100ミリ秒程度」の遅延が見込まれるから、という。

有線遅延の制約を克服する技術として紹介されているのが「エッジコンピューティング」。昨今の情報管理では、手もちのデータを「クラウド」(雲)と呼ぶサーバー群に預ける方法が広まっているが、それに逆行する新機軸だ。基地局のそば、端末のそばに「エッジサーバー」を設けて情報処理する、という。端末そのものにエッジの役割を付加することもあるらしい。遅延を縮められ、貴重なデータを手近に置けるから、一石二鳥かもしれない。

著者は、コンピューターの技術が「集中と分散」を繰り返しているという歴史観を示す。20世紀半ばまでさかのぼって跡づけると、汎用機→パソコン→クラウド→エッジの流れがこれに相当する。技術の進化が生態系の遷移のようにも思えてくるではないか。

最後に、ハード面の話で気がかりが一つ。5Gに割り当てられる電波には、これまで移動通信に使われてこなかった高周波が含まれる。電磁波としてみると、赤外光や可視光に近い波長域。だから大丈夫かな、と思う気持ちがある半面、なじみの薄い電波が急に身近なところを飛び交うようになることに不安もある。欧州などで5Gの健康影響に警戒論があるのも、そんな事情があるからだろう。後日、5Gのリスクについても1冊読んでみたい。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年7月3日公開、通算529回
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コロナの時代に新聞は変わる

新聞オピニオン面の「新型コロナ」インタビュー
エマニュエル・トッド氏(聞き手・高久潤記者)、朝日新聞2020年5月23日朝刊

時差

最近の新聞は、世の論客に大舞台を提供するようになった。私の古巣、朝日新聞について言えば、オピニオン面の大型インタビューがこれに当たる。1ページの2/3ほどを費やして、思いのたけを語ってもらうのだから、読みごたえはある。

新型コロナウイルス感染禍をめぐっても、このインタビュー欄に内外の論客が次々登場している。すぐに気づくのは、聞き手がビデオ電話、テレビ会議システムなどを通して遠くから問いかける例が目立っていることだ。在社の後輩から漏れ伝わる話によると、コロナ禍が広まってからは日常の取材でも直接の面談を避け、遠隔対話方式をとることがふえているという。オピニオン面が、それに同調するのも当然だろう。

皮肉なのは、それが日本の新聞の国際化を後押ししていることだ。Aという国にXという識者がいたとしよう。これまでなら担当記者は、まずX氏から取材予約をとり、海外出張を申請してA国へ飛ぶことになろう。新聞には電話やメールによる一問一答の記事がないわけではないが、大型インタビューとなれば昔ながらの「足で稼げ」型の取材手法が当然視されたに違いない。ところが、今回は防疫の観点から、それができなくなった。

それが、興味深い効果をもたらした。遠隔対話方式ならば、相手が海外にいようと国内にいようと大差ない。言語の壁さえ乗り越えることができれば、地球の反対側にいる人でも目の前にいて話しかけられているように感じられる。日本の新聞記者にとって、世界は内と外に二分された取材対象ではなくなったのだ。コロナ後の日本社会を見通すとき、新聞のつくり方も記者の世界観も大きく変わっていくだろうと思われる。

で、今週の「書物」は、朝日新聞2020年5月23日朝刊に載ったオピニオン面「新型コロナ」インタビュー。フランスの論客エマニュエル・トッド氏の見解を高久潤記者が聞いている。トッド氏は1951年生まれ、歴史家であり、人口学者でもある。(以下、敬称略)

このインタビュー記事の最上段に掲げられた見出しは「『戦争』でなく『失敗』」。トッドは、自国のマクロン大統領が今回の感染禍を「戦争」にたとえたことを批判して、こう言う。「フランスで起きたことのかなりの部分は、この30年にわたる政策の帰結です」。人工呼吸器の不足などを例に挙げ、医療に充てるべき人材や資金を削り込んで「新自由主義的な経済へ対応させていく」路線をとったことが「致命的な失敗」だったと主張する。

「私たちは、医療システムをはじめとした社会保障や公衆衛生を自らの選択によって脆弱(ぜいじゃく)にしてきた結果、感染者を隔離し、人々を自宅に封じ込めるしか方策がなくなってしまった」――この見方は、「失敗」の核心を突いている。

私なりに、それを思考実験で裏づけてみよう。たとえば、感染禍の初期からあまねく公衆がPCR検査を受けられ、陽性となった人に療養・治療の場が用意されていたとする。その場合でも感染者の隔離は欠かせないが、すべての人々を「自宅に封じ込める」必要は薄れる。理屈のうえでは、陽性者に活動を控えてもらい、陰性者が社会生活を営むことで経済を回すことができただろうからだ。だが実際は、そうならなかった。

このあとトッドは、こう切り込む。「人々の移動を止めざるを得なくなったことで、世界経済はまひした。このことは新自由主義的なグローバル化への反発も高めるでしょう」。新自由主義は社会保障や公衆衛生を蔑ろにした結果、自滅寸前の状態に陥ったのである。

トッドによれば、「新自由主義的な経済政策が、人間の生命は守らないし、いざとなれば結局その経済自体をストップすることでしか対応できないこと」がはっきりした。その先を見通すとき、復権しそうなのが国ごとに生活必需品を自給する経済だという。

以上が、このトッド・インタビューを貫く主題だが、このほかにもコロナ禍を考える際の論点がいくつかある。

一つは、戦争とコロナ禍の違いを人口学者の目でとらえた箇所。戦争は、大勢の若者の生命を奪うので「社会の人口構成を変える」。ところが、今回の感染禍は、高齢者が犠牲になることが多いので「人口動態に新しい変化をもたらすものではありません」。なるほど、そんな見方もあるのか。ただ、そうであっても今の社会は、なべて高齢者など高リスク群の救命第一で動いている。これは、私のような高齢者にとっては、ただただありがたいことだ。

世界中に人道精神の発露がある――この一点こそ、今回のコロナ禍を「戦争」にたとえることが適切でない最大の理由ではないか。私には、そう思えてならない。

もう一つ興味を覚えるのは、人々と政治家の関係を語った部分。トッドによれば、英仏では政府が有効な施策を打ちだせず、政治家はただ「ひとまず家にいてください」と言うばかりだった。「でも市民は、それなりに秩序立った社会を維持した」。その結果、「エリートが機能しなくても社会の統制はとれる」と人々が実感した意味は大きい、という。日本社会でも私たちは、緊急事態宣言下の「自粛」で同様の体験をしたと言ってよいだろう。

いったいどうして、私たちは自律的に「秩序」を保てたのか。人々が知的に進化してリスクに敏感になったのか。規制に盾つく気骨を失い、従順になったからか。それとも、ネット社会が同調効果を強めたのか――この謎は、ぜひとも解き明かしてみたい。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年5月29日公開、通算524回
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「ペスト」考、拙稿再読で知る怖さ

「僕たちは、カミュ的状況にいるのか」
尾関章執筆、ブック・アサヒ・コム「文理悠々」、2011年3月31日付

市門を閉じる

新型コロナウイルスの感染禍が、日本列島にも押し寄せたころからだろうか、アルベール・カミュの長編『ペスト』の書名をメディアで目にすることが多くなった。もっともな話だ。この小説を読んだことのある人は、今まさに進行中の出来事を見て既視感のような感覚に囚われたのではないか。だが、それは錯覚としての既視感ではない。この作品世界に入り込んだとき、コロナ状況と酷似した現実を仮想体験していたのである。

この小説は、ペストという今では抗菌薬で対抗できる感染禍を題材にしている。だから、私は新型コロナウイルス感染禍の当初、あえてとりあげようとは思わなかった。だが、この闘いが長期戦とわかった今、その作品世界を再訪することは大いに意味がある。

この小説のことは9年前、当欄の前身で書いている。それはブック・アサヒ・コム(現・好書好日)欄に残っていたのだが、残念なことに今は外されてしまった。それならば、と当時の拙稿を私のPCから掘りだして再読してみることにする。自分が書いた記事を話題にする、という行為には気おくれを感じる。だが、9年前の自分を赤の他人と思って突き放してみれば、そこに過去と現在の対話が生まれそうな気もする。

その拙稿は、「僕たちは、カミュ的状況にいるのか」(ブック・アサヒ・コム「文理悠々」、2011年3月31日付)。公開日は3・11――東日本大震災とそれに伴う福島第一原発事故――から間もない。私たちが津波被害の深刻さに呆然とし、放射能の脅威に慄いていたころだ。私は、そこに実存哲学の「限界状況」を感じとり、「カミュ的状況」と名づけた。カミュの文学は本人の意思とはかかわりなく、実存主義の文脈で語られることが多いからだ。

拙稿の中身に入るまえに、作品そのものについて――。私がこのときに再読したのは、宮崎嶺雄訳『ペスト』(新潮文庫、1969年刊)だ。カミュ(1913~1960)が30代半ばだった1947年に発表した作品。フランスの植民地だったアルジェリアの港町オランで40年代にペストが蔓延する、という筋書きになっている。オランは実在の都市だが、ペスト禍はフィクション。それでも迫真なのは、著者の想像力が半端ではないからだろう。

私は拙稿で「カミュ的状況」をこう要約した。オランでは「この町から出てはいけないという強権」が行使され、市民たちは「ハイリスクの空間に閉じ込められる」――緊急事態宣言下で遠出の自粛を求められている今の私たちは、これに似た状況にある。

実際のところ、この小説の筋書きは驚くほど2020年の状況に重なる。類似点を挙げておこう。(以下、「」は拙稿からの引用、〈〉は『ペスト』本文からの引用、ルビは省く)

一つには、ペスト禍で「はじめは役所の発表も抑え気味」だったこと。オランの県当局は〈悪性の熱病〉について〈果して伝染性のものであるか否かはまだなんともいえない〉と即断を避け、〈若干例がオラン市区に発生した〉としか言っていない。これは、私たちがコロナ禍の始まりに経験したことに近い。なべて行政官には、大げさに騒いで混乱を増幅させたくないという心理が働くのか。カミュは、その落とし穴を見抜いている。

「そうこうするうちに、病院は満床になり、死者の数も日に日に増して」というペスト禍の展開もコロナ禍に似ている。そんな事態になって、市の閉鎖命令が出される。市門が閉ざされたのだ。〈この瞬間から、ペストはわれわれすべての者の事件となった〉。今回、日本政府も医療崩壊が懸念されるようになってから緊急事態宣言を出した。その結果、私たちは不要不急の活動を控えるよう求められ、コロナが〈すべての者の事件〉となったのである。

私は改めて思う。感染症を封じる手だては、人と人とを隔てることよりほかにないのか――このことは先週紹介した『コロナの時代の僕ら』(パオロ・ジョルダーノ著、飯田亮介訳、早川書房、2020年刊)で、理系出身の作家ジョルダーノが指摘していたことでもある。有効な予防医療がなく、確実に治るという特効薬も見つからない未知の病原体に向きあうとなると、結局は人と人との接触を絶つことから始めなくてはならない。

近代以後の人類は生命科学の領域でいくつもの大発見を重ね、いくつもの画期的な技術を手に入れた。20世紀後半には、生物の仕様書がDNAという核酸分子に刻まれた暗号文であることを見いだした。21世紀に入ると、細胞を未分化の状態に戻して生体組織を再生する医療も夢ではなくなった。それなのに、ヒトが新顔のウイルスに乗っ取られると手も足も出ない。100年前と同じように、人は人から離れることを余儀なくされている。

もっとも、1940年代のペスト禍と2020年代のコロナ禍では違いもある。オランでは閉鎖命令を受けて、市域の内と外をつなぐ通信が制限されていく。手紙は菌を媒介するということでダメ。不急の電話も回線をパンクさせるからダメ。電報だけが頼りだった。

これに対して、私たちにはIT(情報技術)がある。あるときはメールで、あるときはソーシャルメディアで。そして、みんなでわいわいやりたければウェブ会議システムを介して仲間の顔を見ながら語りあうこともできる。その結果、市内と市外の間だけでなく、同じ市内にいる人々の間でも物理的な接触を減らせるようになった。私たちが、生存の枠組みである実空間をどこまでネット空間に置き換えられるかは心もとないが……。

ここで、私が9年前の拙稿には書かなかったことを追記しておこう。『ペスト』の主人公ベルナール・リウー医師が入居するアパートの門番、ミッシェルの死についてだ。階段で鼠の死骸が見つかっても〈この建物には鼠はいない〉と譲らない老人。住人にとっては身近な人物だった。その門番が体調を崩し、高熱を発して弱っていく。リウーは治療を施し、救急車に乗せて病院に向かうのだが、門番は〈鼠のやつ!〉とつぶやきながら息を引きとる。

そのあとの一文が、心に刺さるのだ。〈門番の死は、人をとまどいさせるような数々の兆候に満ちた一時期の終了と、それに比較してさらに困難な一時期――初めの頃の驚きが次第に恐怖に変って行った時期――の発端とを画したものであったということができる〉

今回のコロナ禍で、私たちが〈恐怖〉を感じはじめたのは有名人の感染死が伝えられたころではなかったか。有名人は、メディアを通じてのことだが、門番同様に私たちが身近に感じる人物だ。人々は、有名人の死の向こうに市民社会の危機をのぞき見たのである。

9年前、私は〈門番の死〉のくだりを拾いだして拙稿に書き込んではいない。ところが今、もう一度『ペスト』のページをぱらぱらめくってみると、この一節に目がとまり、心に残った。それは、私たちが今まさに実空間の感染禍を体験しているからだろう。

この作品の登場人物の多くは、疫病禍の限界状況と対峙して「人としての生き方を変えていく」。私たちもコロナ後に生き延びているならば、今と異なる生き方をするに違いない。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年5月8日公開、同年6月1日最終更新、通算521回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

物理系作家リアルタイムのコロナ考

『コロナの時代の僕ら』
パオロ・ジョルダーノ著、飯田亮介訳、早川書房、2020年4月25日刊

距離をとる

コロナ禍の巣ごもりで、ネット通販サイトに入り、読みたい本を漁っていたら、「コロナの時代……」という字面が目に飛び込んできた。「コロナ」とは、もともと光の環。太陽の周りの輝きだ。悪い意味はない。クルマの名前になった。ビールの銘柄にもなっている。旧刊本が書名に比喩として用いているのだろうと思った。ところが刊行日を見て、クラクラとなった。つい、先日ではないか。「コロナの時代」とは、まさに今のことだった。

驚くのは、それがハードカバーの単行本であること。大事件を受けて手っ取り早くまとめあげた緊急出版、という感じがまったくない。しかも、翻訳本だ。著者が執筆して訳者が翻訳し、それを校正して……そんな工程を思い描き、あまりの早業に圧倒された。

著者名を見て、もう一度驚かされる。パオロ・ジョルダーノ……どこかで見た名前ではないか。そう、かつて私が新聞の読書面で書評した小説の作者だった。イタリア・トリノ大学の大学院で素粒子物理を専攻した理系出身の作家である。その小説は『素数たちの孤独』(パオロ・ジョルダーノ著、飯田亮介訳、早川書房)。拙稿は「理系男は、どうしてこうも不器用なのか」(朝日新聞2009年8月2日付朝刊)という一文で始まっている――。

孤独な人間が心を通わせることを、素数同士の関係のありようになぞらえた作品だった。素数を2、3、5、7、11、13、17……と順に並べていくと、2と3を例外として決して隣りあうことがないのである。

あの小説の書き手が、このコロナ禍をリアルタイムで語っているとは! それは、私の心を強くとらえた。著者の早書きに倣って、私も早く読み込みたい。で、今週は『コロナの時代の僕ら』(パオロ・ジョルダーノ著、飯田亮介訳、早川書房、2020年4月25日刊)。

この本はエッセイ27編から成るが、邦訳版には新聞への寄稿1本も加わっている。訳者あとがきによると、エッセイは今年2月29日から3月4日までに集中執筆されたという。イタリアで新型コロナウイルス感染症の累積感染者数が1000人余から3000人余に急増したころだ。寄稿記事は有力紙「コリエーレ・デッラ・セーラ」(2020年3月20日付)に掲載されたもの。すでに感染者が累積4万7000人に達し、死者も4000人を超えていた。

この経緯からわかるように、エッセイと寄稿記事は雰囲気がガラッと変わっている。前者は、不安を打ち明けながらも事態を冷静に読み解いている。ところが後者は、論理を踏まえながらも自らの主張を叫びのような痛切さをもって訴えかけているのだ。

ここでは、前者を中心に読みどころを拾いあげていくことにしよう。なぜなら前者からは、感染拡大が身辺に押し寄せようとしていたころ、著者が事象の本質を見抜いていたことがうかがえるからだ。

「感染症の数学」という一編で、著者はこう書く。「ウイルスの前では人類全体がたった三つのグループに分類される」。3群は「まだこれから感染させることのできる人々」「すでに感染した感染者たち」「もう感染させることのできない人々」。著者が注意を促すのは、一つめの群が圧倒的に多いことだ。執筆時点で新型コロナウイルスに感染可能な人々は「七五億人近く」――ほぼ、全人類ではないか。(*この本は、三つめの群を「犠牲者」と「回復者」としているが、再感染があるとすればそう言い切れなくなる)

次の一編は「仮に僕たちが七五億個のビリヤードの球だったとしよう」の一文で書きだされる。球の一つひとつが、感染可能な人に相当する。一つの球を突くと、それは二つの球を弾いて止まる。弾かれた球は、それぞれが別の二つの球を弾き……という連鎖が生まれたとしよう。これこそが「感染」だ。「感染症の流行はこうして始まる」「初期段階には、数学者が指数関数的と呼ぶかたちで感染者数の増加が起きる」というのである。

この一編には「再生産数」という言葉が出てくる。事象の連鎖によるふえ方を数値化したもので、前述ビリヤードの例では再生産数=2。著者は、今回の感染禍の3月時点の再生産数も書いているが、それは確定値ではないので引用は控えよう。

ここで著者が強調するのは、再生産数が1より小さければ「伝播(でんぱ)は自ら止まり、病気は一時(いっとき)の騒ぎで終息する」が「ほんの少しでも1より大きければ、それは流行の始まりを意味している」ということだ。これは数理の掟と言ってよい。

今回の感染禍で、もともとの再生産数が1を超えることは、ほぼ間違いない。だからこそ、感染拡大が収まらないのだ。だが、「希望はある」と著者は断言する。本来の再生産数が1より大でも、現実の再生産数は「僕ら次第」で「変化しうる」。私たちが「伝染しにくい」状況をつくりだすことで「臨界値の1」を下回ることがありうる。「必要な期間だけ我慢する覚悟がみんなにあれば」「流行も終息へと向かうはずだ」――

これこそが今、緊急事態宣言下で私たちが心がけている行動変容なのだろう。旅行や外出を控える、パーティーや飲み会を取りやめる、密を避けて対人距離を大きくとる――大変ではあるが、単純なことでもある。新型コロナウイルスの感染症はワクチンのような予防策がなく、死と隣りあわせの病であることが歴然としているのだから、再生産数が1を超えるとわかった時点で「我慢」を徹底させるべきだったのだ――読んでいて、そう悔いる一節だ。

話を横道にそらすと、このあたりの考察はさすが物理系の人だな、と思わせる。感染が再生産されるしくみは、粒子の動きを記述する物理学に一脈通じる。ただ、粒子の現象は理論を逸脱しないが、感染の様相は人間の意志で変わる。著者は、この一点を押さえている。

この本には、人々が陥りやすい心理の落とし穴を理系の視点から指摘したエッセイもある。私たちは毎日、テレビのニュースで感染者数のグラフを見せられ、その増減に一喜一憂している。きのうが10人、きょうが20人だとすると、あすは30人と思いがちだが、そこに罠があるというのだ。「自然は目まぐるしいほどの激しい増加(指数関数的変化)か、ずっと穏やかな増加(対数関数的変化)のどちらかを好むようにできている」

感染禍について言えば、再生産数は人間によって変えられるが、感染の連鎖そのものは自然界の摂理から逃れられない。足し算ではなく掛け算の効果が卓越するのだ。

一人ひとりの心がまえに踏み込んだ一編もある。たとえば、友人の誕生パーティーをめぐる思考実験。出るか出ないかで迷うとき、頭の片隅で悪魔がささやくこともあろう。招待客の多くが欠席すれば、混雑しないから出席しても大丈夫――だが、みんなが同じようにそう考えたらどうなるか。最良の選択とは「自分の損得勘定だけにもとづいた選択」ではなく、「僕の損得とみんなの損得を同時に計算に入れたもの」でなければならない、という。

別の一編では、米国の物理学者の名言「多は異(い)なり」(More Is Different)を引いている。その人は、フィリップ・ウォーレン・アンダーソン。残念なことに、著者がこのエッセイ集を書き切ってまもなく、3月29日に96歳で死去した。物性物理学の研究者で、著者とは専門が異なる。「多は異なり」の文言は、米科学誌「サイエンス」1972年8月4日号に発表した論文の題名である。

これは、物理世界は個々の粒子を知るだけでは理解できないことを指摘した警句だが、著者はその趣旨を今の私たちに移しかえる。「ひとりひとりの行動の積み重ねが全体に与えうる効果は、ばらばらな効果の単なる合計とは別物」。まさに至言と言えよう。

私たちは今、家にとどまるだけで感染の再生産数を低下させ、世の中に寄与している。人はみな、個人であると同時に公人なのだ。コロナの春、巣ごもりしながらそう思う。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年5月1日公開、同日更新、通算520回
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