サルトル的実存の科学観

今週の書物/
『実存主義とは何か――実存主義はヒューマニズムである』
ジャン-ポール・サルトル著、伊吹武彦訳、人文書院「サルトル全集第十三巻」、1955年刊

実存の更新

サルトルにせっかく再会したのだ。どうせなら、もうちょっとつきまとうことにしよう。ということで、先週の書物を今週もう一度(当欄2021年1月29日付「実存の年頃にサルトルを再訪する」)。巻末には講演後の「討論」がある。今回は、そこに的を絞る。

この本では、ただ問答が書きとどめられているだけだ。聴衆がどれほどいて、どんな人物がどんな表情で発言しているのかは想像するしかない。だが、それがどれほど熱を帯びていたかは、ちょっと読んだだけでもわかる。発言者は講演者を無用にもちあげない。「難しいので、もう少しかみ砕いていただいて」というように媒介役を演じているわけでもない。質問をぶつけるというよりも、真正面から論争を挑んでいるふうなのだ。

この空気感は講演当時、すなわち第2次大戦の直後、フランスの論壇でどんな思潮が優勢だったかをものの見事に表している。多くの知識人は左翼思想に傾倒していた。とりわけマルクス主義はロシア革命から30年足らず、まだ弱点を露呈していなかった。だから世論に浸透して、政界をも動かしている。そんなタイミングで、左派とみられる俊才がマルクス主義ではない看板を引っ提げて現れたのだ。素直に受け入れられるわけがない。

たとえば、この「討論」ではカール・マルクスの『共産党宣言』をめぐる興味深いやりとりがある。サルトルは、かつて哲学は哲学者の間で議論されるものだったが、今は「公衆の広場におろされている」と前置きして、『…宣言』はマルクスにとって「思想の通俗化」を意味する、と言う。これに、質問者は黙ってはいない。「通俗化」との表現に噛みついて「あれは闘争の武器だ」と反駁する。マルクス主義者のイデオロギー神聖視が見てとれる。

サルトルは、マルクスを相対化しているのだ。「自分をアンガジェすることが革命をおこすことであった時代には『宣言』を書くべきだった」と、『共産党宣言』を評価はする。だが、現代のように諸党派が百家争鳴の状態にあるときは「様々な革命派に働きかけようとする」ことこそが求められるという。「アンガジェ」(参加する)については前回も当欄で書いた。その選択肢は一つではない、という柔軟な思考がみてとれる。

こうした舌戦に興味は尽きないのだが、今回は、このやりとりに出てくる科学論争に焦点を当てたい。科学観にも、マルクス主義者と実存主義者サルトルの違いが見てとれる。それを科学の同時代史に重ねあわせて吟味すると、また格別の意味を帯びてくる。

マルクス主義者とみられる質問者は「われわれにとっては一つの世界、ただ一つの世界がある」と断言する。単純明快な世界観だ。これに対して、サルトルは「物の世界」は「蓋然の世界」であり、それが「唯一」なら「蓋然性の世界しかなくなってしまう」と反論する。「蓋然性」は「確実性」を土台にしており、その確実さは「主体」に由来するという。前者の立場では「人」も「物」も客観的な存在だが、後者の場合、「人」には主観がある。

すなわち、サルトルは「物を物として捉える」には「主体が必要」として、物理世界に向きあうにもデカルトの命題「われ考う、故にわれあり」に立ち返ろうとする。マルクス主義の理論ですら「主体性の地盤」の上に組み立てられる、とも論ずるのである。

因果律についても見解は対立する。マルクス主義の見方では、人間はこの世界に張りめぐらされた「因果の糸」によって「拘束」されている。ところが、実存主義は個々人の「われ考う」に立脚するので、分断された「非連続的な世界」しか見ないことになる、というのだ。対するサルトルは、マルクス主義が「唯一の全体を研究すること」にこだわり、「その全体のなかに一つの因果律を求めよう」としていることを強く批判する。

議論からは、当時のマルクス主義とサルトル流の実存主義が同時代の自然科学にどこまで追いついていたかが仄見えてくる。前者から感じとれるのは、20世紀半ば、マルクス主義者の多くは――もちろん、その一角を占める自然科学者、とりわけ物理専攻の人々は別だろうが――まだニュートン力学の呪縛に囚われていたらしいということだ。その世界像は絶対空間や絶対時間のなかにあり、あらゆる「物」が決定論に縛られていた。

後者は微妙だ。この討論でサルトルは、科学を「現実的な因果関係を研究するもの」とは見ていない、と表明する。それは「抽象的な諸因子の様々な変化を研究するもの」というのだ。ただ、ニュートン流の素朴な決定論を否定するような文言には出会わない。

この講演があった1945年は、物理学の新しい枠組みとして量子力学が登場して20年が過ぎたころである。この力学では、物理世界をつかさどる波動関数の波が観測の瞬間に収縮して、状態の重ね合わせが消え、一つの事実が選り出されるということが起こる。「抽象的な諸因子」という語句からは、波動関数の波の位相や振幅が連想されなくもない。観測によって事実が定まるという構図も、「主体」に重きを置く思想と相性が良いようにみえる。

ただ、これをもってサルトルが量子力学に通じていたと推察するのは、早とちりであり、買いかぶりでもあるだろう。実際、サルトルは質問者が「統計型式の因果律」という言葉をもちだしたとき、「それは何の意味もない」と一蹴している。量子力学は、教科書風の解釈では確率論の言葉で語られるから、そのことが頭の片隅にあれば「統計型式」をそう簡単には切って捨てられないはずなのである。欧州でも、文理の壁は厚かったのかもしれない。

ここで私は、当欄の前身で1年ほど前に読んだ『新実存主義』(マルクス・ガブリエル、廣瀬覚訳、岩波新書)をもう一度、思い返してみる(「本読み by chance」2020年3月27日付「なぜ今、実存主義アゲインなのか」)。あの本では、科学の話題が臆することなくとりあげられ、心と脳の問題をめぐって脳の神経回路についても語られていた。実存主義と新実存主義の違いは自然科学をどこまで強く意識したかにある――私には、そう思われる。

科学は哲学を更新する。その好例が実存主義の進化のなかにある、とは言えないか。
*引用では、仮名づかいを現代風に改めた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年2月5日公開、同月19日最終更新、通算560回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

実存の年頃にサルトルを再訪する

今週の書物/
『実存主義とは何か――実存主義はヒューマニズムである』
ジャン-ポール・サルトル著、伊吹武彦訳、人文書院「サルトル全集第十三巻」、1955年刊

人は石にあらず

年頭恒例の夏目漱石ものの表題は今年、「漱石の実存、30分の空白」(2021年1月8日付)だった。実存とは青臭い。それでもすんなりこんな言葉がひらめいたのも、実存が身についてきたからだ。人間、70年近くも生きていると、いつのまにか実存的になっている。

つまりは、こういうことだ。50年前、喫茶店で友人を相手に「実存」「実存」とまくし立てていたころは、現実の存在が本質に先立つなどと言っても絵空事に過ぎなかった。学生はこうあるべきだ、男子はこうあるべきだ……といろいろ「べきだ」はあったが、その強制力はたかが知れていた。あのころは、言われなくとも存在が先に立っていたのだ。だから、「実存」を振りまわしても、それは空回りするばかりだったように思う。

ところが、大人になると様相が一変する。職業とは自分が受けもつ任務を指すので、若者は就職によって――たとえ、その仕事が本人の希望に適っていたとしても――世間から一つの役目を押しつけられるかたちになる。ここで強引に、役目≒本質とみなせば、本質>存在の力関係が生まれる。存在と本質の立場が逆転するのだ。私自身も25歳で新聞記者になって以来、記者はこうあるべきだ、という「べきだ」に縛られてきた。

その間、実存はどうしていたのか? 私自身について言えば、あの青臭い言葉は意識の外に追い払われていた。忙しくて、それどころではなくなったのだ。だが今振り返って、自分の半生は実存的でなかったのかと自問すれば、そうとは言い切れないぞ、と思えてくる。

私は新聞社にいた36年間、日々押し寄せる「べきだ」の大波に抗してきた。心の片隅に、記者らしい記者ではいたくないとの思いがあったのだ。これは、本質に先立つ存在に立ち帰ろうという志向に通じている。その抵抗が実りあるものだったとは言えないが……。

そして70歳を目前にした今、私は――たぶん、同世代の人々の多くもまた――現役を離れたことで、実存の抵抗を内に秘める必要がなくなった。ようやく堂々、自覚的に実存的となる年頃になったのである。しかも昨今のコロナ禍は、私たちを否応なく実存的にさせる。

で、今週は『実存主義とは何か――実存主義はヒューマニズムである』(ジャン-ポール・サルトル著、伊吹武彦訳、人文書院「サルトル全集第十三巻」、1955年刊)。一昨年のことだが、近くの町にあった古書店で見つけた。この本は第2次大戦直後の1945年、パリのクラブであった講演をもとにしているので、口述の柔らかさがある。著者(1905~1980)は、言うまでもなく20世紀実存主義の中心にいたフランスの哲学者である。

まずは、実存主義を素描したくだりを見てみよう。そこには、私が若いころに聞きかじった「実存が本質に先立つところの存在」という言葉がちゃんと出てくる。著者のように「無神論的実存主義」の視点に立てば、人間はこうした存在にほかならない。

ここで注目すべきは、「実存が本質に先立つところの存在」を「何らかの概念によって定義されうる以前に実存している存在」と言い換えてもいることだ。著者によれば、人間は「最初は何者でもない」が、のちに「みずからが造ったところのものになる」。あなたも私も、もともとは未定義であり、本性を具えていないということだ。なぜなら「その本性を考える神が存在しないから」である――ここまでを、著者は「実存主義の第一原理」と呼ぶ。

このあとに出てくるのが「投企」だ。これもまた、実存主義用語として懐かしい。英訳すれば“project”。「人間は苔や腐蝕物や花キャベツではなく、まず第一に、主体的にみずからを生きる投企なのである」。あなたも私も「未来にむかってみずからを投げる」ことによって「みずからが造ったところのものになる」。だから、本来は「何者でもない」のに「石ころや机よりも尊厳」と言えるのだろう。人間を動詞でイメージしている点が新鮮だ。

ここで著者は、投企と意志とを分けて考えている。投企は意志の根っこにある、というのだ。たとえば、ある党派に入ろうとすること、ある本を書こうとすること、ある人と結婚しようとすること――こうした意志は「一そう根原的な、一そう自発的な或る選択の現れにほかならない」。人間には、まずどんな自分をつくるかという根本の選択、すなわち投企があり、その結果として意志が個別の決定をする、ということらしい。

著者は、この本で「われわれの出発点は個人の主体性」と主張している。「投企」の主語は、一人ひとりの個人ということだ。だから、17世紀の哲学者ルネ・デカルトが提起したコギトの命題を引いて「出発点において、『われ考う、故にわれあり』という真理以外の真理はあり得ない」と言い切っている。なにごとを議論するにしても、おおもとに絶対的な真理を必要としている。それは「自分自身を捉える意識」にほかならない、というわけだ。

この文脈で、著者は実存主義が唯物論と相容れないことを明言している。唯物主義は「あらゆる人間を物体として扱う」。これに対して、実存主義は「人間を物体視しない」。むしろ、「人間界を、物質界とは区別された諸価値の全体として構成しよう」としている――こう表明するのだ。著者は、自身の立場とマルクス主義の間に一線を引いていた。それなのに言論界では一貫して左派陣営に身を置いて、マルクス主義にも近づいた。それはなぜか。

本稿では、この疑問点を探ろうと思う。そのまえに押さえておきたいのは、著者は「われ考う」を重んじるものの、唯我論には迷い込んでいないことだ。そこには「われわれは『われ考う』によって、他者の面前でわれわれ自身をとらえる」との記述がある。自己を意識するとき、自己は他者に関係づけられているということか。「他者は、私が自分に関して持つ認識に不可欠」であり、「私の存在にとっても不可欠」というのが著者の論理だ。

これは、現象学の間主観性を示唆しているようにも思えるが、その用語は見当たらない。代わりに出てくるのが「相互主体性」だ。「私の内奥」に「他者」を発見することで「相互主体性」が見えてくるという。こうして、実存主義に社会派の視線が芽生える。

実際、著者はこの本の随所で、実存主義の社会性を強調している。たとえば、さきほどの「投企」を論じたくだり。実存主義は「みずからの実存について全責任を彼に負わしめる」と述べた後、次のような趣旨のことを言い添えるのだ。「彼」の責任は「彼個人」に対するものにとどまらない、それは「全人類」に及ぶのである、と。ちょっと飛躍が過ぎるのではないか、と問い返したくなる。だが、これにも答えが用意されている。

私たちは「あれかこれか」を選ぶとき、選んだほうの「価値」を「肯定」している、と著者はみる。「われわれが選ぶものは常に善であり、何物も、われわれにとって善でありながら万人にとって善でない、ということはあり得ない」。実存は普遍の善を好むということか。著者の論理では、こうして「私」が万人につながり、「私の行動は人類全体をアンガジェしたことになる」。サルトル哲学ならではの用語、アンガージュマンの登場である。

アンガジェは“engager”。縛る、かかわらせる……といった意味の動詞だ。その名詞形が“engagement”。フランス語読みでは、アンガージュマンとなる。1960~70年代、それは〈参加〉と訳され、政治性を帯びた意味合いで用いられたものだ。この本を読むと、著者がなぜ、この言葉を多用したかが痛いほどわかる。マルクス主義を強く意識しながら、それとは違う方法で社会とかかわり、政治に〈参加〉しようとしたからにほかならない。

巻頭では「コミュニストたちからの非難」を例示して、それに反論している。巻末所収の講演後の討論では、マルクス主義の視点から浴びせられる質問に反駁している。そこから見てとれるのは、実存主義を行動の伴わない「静観哲学」とみなす批判に対する強い反発だ。

著者は、左派論客として政治へのアンガージュマンを行使するときも、その行動の根源に投企があると言っておきたかったのだ。戦後、マルクス主義者と共闘したときも、その思いを内心に秘めていたのだろう。実存を「物体視しない」。私も、それに同意する。
*引用では、本文を現代風の仮名づかいに改めた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年1月29日公開、通算559回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

元旦社説にちょっと注文をつける

今週の書物/
「社説――《核・気候・コロナ》文明への問いの波頭に立つ」
朝日新聞2021年1月1日朝刊

元旦の日差し

年が改まった。私には服喪という私的事情があるので、ここでも慶賀の言葉は控える。だが、そうでなくとも「おめでとう」とは言い難い。世界中、この列島にもこの都市にも、新型コロナウイルスの感染症でたおれた人々が数えきれないほどいる。今この瞬間、病床には息を喘がせている人たちも大勢いる。そして、そういう人々を助けようと、暦にかかわりなく治療と看護にあたるスタッフがいる。それが、2021年新春の風景である。

とはいえ、きょうは元日だ。お祝い気分はなくとも、心を新たにする節目であることに違いはない。とりわけ今年は元日がたまたま金曜日であり、拙稿ブログの公開日に重なった。心にひと区切りをつけるのにふさわしいものを読み、考えてみたいと思う。

で、選んだのは、今しがた届いた新聞だ。私自身の新聞記者としての体験から言うと、新聞人は昔から元日付の朝刊に異様なほどの力を注ぐ。第1面や社会面だけでなく各ジャンルのページも、これはという特ダネを掲げたり、全力投球の連載初回を大ぶりに扱ったりする。自分たちは時代の記録係であるとの自負がきっとあるのだろう。だから、紙面のどこをかじってみても新年のひと区切り感があるのだが、やはりここは社説をとりあげよう。

「社説――《核・気候・コロナ》文明への問いの波頭に立つ」(朝日新聞2021年1月1日付朝刊)。なぜ朝日新聞なのかと突っ込まれそうだが、今は1紙しか定期購読していないこともある。古巣の新聞が、どんな時代の切りとり方をしているかに注目したいと思う。

社説がまくらに振った話題は、昨春、長崎原爆資料館が玄関に掲示した「長崎からのメッセージ」。資料館の関心事である「核兵器」を「環境問題」「新型コロナ」と並べ、それらの共通項を見抜いていた。いずれも「立ち向かう時に必要」なのは、「自分が当事者だと自覚すること」「人を思いやること」「結末を想像すること」「行動に移すこと」だというのである。なるほど、同感だ。社説筆者は格好のまくらを掘りだしてきたものだ、と思う。

ここで社説は焦眉の問題、コロナ禍の話に入る。人々は今「誰もがウイルスに襲われうること」「感染や、その拡大という『結末』を想像し、一人ひとりが行動を律する必要」を知るに至った、という。たしかに、この災厄は人類のすべてが「当事者」であり、それに対抗するには、めいめいが周りの「人」に気を配り、社会に与える影響の「結末」まで思い描いて自らの「行動」を規制しなくてはならない――まさに、メッセージの言う通りだ。

まったくその通りなのだが、元科学記者としてやや物足りないと感じることが、いくつかある。一つには、「当事者」の意味にもう一歩踏み込んでほしかった。感染症で、人はうつされる側になる一方、うつす側にもなりうる。今回のコロナ禍は、無症状の人の感染が少なくないので、自分が当事者だと実感しないまま、うつされてうつすという過程に関与してしまうことがある。感性だけでなく理性でも、当事者意識を強めなくてはならない。

もう一つは「行動」だ。社説筆者が書くとおり、私たちはコロナ禍で「一人ひとりが行動を律する必要」に迫られた。マスク着用しかり、ステイホームしかり、大人数の飲み会自粛しかり。日本社会では、それらがおもに心がけとして為されたのだから、まさに各自が行動を律したと言ってよい。この方法で行動変容をかなりの水準まで達成できたのは、同調圧力が強いという精神風土の特徴が、今回ばかりはプラスに働いたのかもしれない。

ただ、ここには私たちがこれから対峙しなくてはならない難題が立ちはだかっている。世界は、そして日本も1980年代末に冷戦の終結を見てから、人間の自由を至上の価値観として共有するようになった。経済政策の新自由主義だけではない。世の中のさまざまな局面で選択の自由が重んじられるようになっていたのだ。そんなときに「行動を律する必要」が出てきたのである。(当欄2020年7月10日付「ジジェクの事件!がやって来た」参照)

自由の制限は、権力者が支配を強めるためのものなら許しがたい。だが、それが弱者の生命を守るという公益のためなら受け入れなければならない。その方法をどうするか。社説は、この一点にも目を向けてほしかった。コロナ禍に限らず感染症の大流行は、対策も急を要する。自由の制約を伴う手段を講じるとき、事前に十分な議論を尽くせないことがありうる。それならば事後の徹底検証が欠かせない――そんな提案もありえただろう。

今回の社説は、コロナ禍が効率優先の社会の暗部を浮かびあがらせたことを指摘している。テレワークなどの恩恵を受けられない「看護、介護、物流」など「対面労働」の「エッセンシャルワーカー」が「格差」に苦しんでいないか、といった問題提起だ。私も、この点は同感だ。これも新自由主義にかかわる論題だからこそ、コロナ後の時代に私たちが自由という概念をどうとらえ直すべきかについて思考を展開してほしかった。

コロナ禍論に対する注文はこのくらいにしよう。この社説は「長崎からのメッセージ」を踏まえ、コロナ禍対応と同様、核兵器の廃絶をめざすのであれ、地球環境を守るのであれ、「当事者」と「行動」の2語がカギになることを強調している。環境保護については、すぐ腑に落ちる。温暖化が化石燃料の大量消費に起因するのなら、私たちの行動次第でそれを食いとめられる。だれもが原因を生みだす当事者でもあり、被害を受ける当事者でもある。

ところが反核となると、ピンとこない面がある。核兵器の開発や保有を企てるのは政治家だ。私たちとは遠いところにある話ではないか。ふつうは、そう思ってしまう。だが、その通念を振り払って自分事としてとらえ直そう。この社説は、そう訴えているように見える。

最後に、言葉尻にこだわった余談。この社説の見出しにある「波頭に立つ」は結語にも登場する。「若い世代」が「未来社会の当事者」として「このままで人類は持続可能なのかという問いの波頭に立っている」というのだ。気になるのは、「波頭」という言葉である。

「波頭」は、辞書類によれば波の盛りあがりのてっぺん。「問い」のてっぺんに立つとはどういうことだろうか。読者の多くはたぶん、「最前線で問題と向きあう」といったイメージで理解したような気がする。あえて「波」に結びつけて言い換えれば、「問題を波面の先頭でとらえる」という感じか。今回の「波頭に立つ」を誤用とは言うまい。言葉の意味は、時代とともに変わる。「波頭」はやがて「波面の先頭」になるのかもしれない。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年1月1日公開、同月2日最終更新、通算555回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

小柴さんはアメリカに船で渡った

今週の書物/
『物理屋になりたかったんだよ――ノーベル物理学賞への軌跡』
小柴昌俊著、朝日選書、2002年刊

氷川丸

ワタクシ的に言えば、今年は父喪失の年だった。本物の父が5月に97歳で逝った。8月には科学記者仲間の父親的存在だった柴田鉄治さんが85歳で永眠した(当欄2020年9月11日付「新聞記者というレガシー/その1」、当欄2020年9月18日付「新聞記者というレガシー/その2」)。そして11月、日本の物理学界の巨星とも言える物理学者、小柴昌俊さんが94歳で生涯の幕を閉じた。小柴さんもまた、「父親」という言葉が似合う人だった。

3人に共通するのは、昭和戦前を知り、昭和戦後を生き抜いて、平成を見届けたことだ。その世代が今、次々に退場する。やがては代わって高齢層の先頭集団となる私たちは、父親たちが世の中の第一線にいた昭和戦後のことを語り継ぐ義務があるのかもしれない。

で、今回は、小柴さんについて書く。物理学者としての快挙は1987年、岐阜・富山県境部の神岡鉱山地下にしつらえた巨大な水タンクで、銀河系のすぐそばに現れた超新星が放つ素粒子ニュートリノを検知したことだ。この水タンクがカミオカンデである。

カミオカンデは、もともと陽子崩壊という現象を発見する狙いでつくられた。ところが、なかなか見つからない。それならば、とニュートリノの観測もしやすいように改造したら、その数カ月後に超新星ニュートリノが飛び込んできた。幸運と言えば幸運。ただそこには、一つの的が外れたときに備えて二つめ、三つめの的を用意する、という周到さがあった――そんなことを先日、私は「評伝」に書いた(朝日新聞2020年11月19日朝刊科学面)。

当欄は「評伝」とは異なるので、個人的な感慨も披歴しよう。小柴さんは幸運だったが、私自身もまた幸運だったのだ。私は1987年3月、朝日新聞科学部員として小柴グループの超新星ニュートリノ捕獲を記事にしたが、その機会に恵まれたのは同年1月の持ち場替えで物理・天文担当になっていたからだ。カミオカンデが改造から数カ月で超新星ニュートリノを捕まえたように、私も担当になって数カ月で科学の大ニュースと遭遇したのだ。

超新星ニュートリノの捕獲は、科学史の上でも大きな転換点だった。これによって、素粒子物理を粒子加速器のような超大規模の実験装置ではなく、自然観測を通じて探究する流れが再評価された。巨大科学(ビッグサイエンス)の潮流に一石を投じたのである。その動きを追いかけることができたのは記者冥利に尽きる。それだけではない。私は取材を通じて、小柴昌俊という魅力あふれる科学者の人間像を間近に見ることができたのだ。

で今週は、小柴さんの自伝『物理屋になりたかったんだよ――ノーベル物理学賞への軌跡』(小柴昌俊著、朝日選書、2002年刊)から、とっておきの話をいくつか紹介する。

この本をとりあげることには、ためらいもある。自身が本づくりにかかわったからだ。その経緯は、巻末に収めた「インタビューを終えて」という一文で明かしている。2002年晩夏、私は小柴さんに計3回、約10時間のインタビューをした。当時、朝日新聞出版局の編集者だった赤岩なほみが、この記録をもとに参考文献に照らしてまとめあげたものを小柴さんが推敲したのである。その結果、小柴さんらしい語り口が残る自伝となっている。

考えてみれば、この方式をとったからこそ、小柴さんがストックホルムでノーベル物理学賞を受けた15日後に刊行するという早業が実現したのだ。その夏、赤岩と私の間には「小柴さんのノーベル賞は近い」という共通認識があったが、そこにとどまらず「インタビューの聞き手を引き受けてほしい」ともちかけてきた彼女の英断に脱帽する。ここにもまた、幸運をつかみとる用意周到さがあったとみるのは、こじつけ過ぎだろうか。

さて今回、当欄で焦点を当てようと思うのは、小柴さんが1950~60年代に経験した米国生活だ。最初は1953年、ニューヨーク州のロチェスター大学に留学したときだ。横浜港で氷川丸に乗り込み、米西海岸のシアトルまで10日間余の船旅をしたという。

注目すべきは、そのころから小柴さんが用意周到だったことだ。船に同乗していた女子留学生二人から滞米時の連絡先をしっかり聞きだしていたのである。そのこまめさが、米国に渡ってからものを言う。マサチューセッツ工科大学に留学中の友人を訪ねたとき、近くに住む彼女たちに声をかけ、4人でデートしたのだ。「海岸に行って、それから晩飯をおごって、それでさようなら」というから「かわいらしいもの」だった。念のため。

もちろん、遊んでいたばかりではない。博士論文を書こうという学生には、そのまえに厳しい関門があった。まず語学試験に、次いで1週間ぶっ通しの集中試験に合格しなければならなかったのだ。語学では、二つの外国語の習得が求められた。英語はもちろん、日本語も外国語扱いされない。「それで、高等学校時代についばんだドイツ語とフランス語を、ハイネやモーパッサンを思い出しながら勉強した」。さすが、旧制高校出身者だ。

小柴さんが学位論文にまっしぐらだったのには訳がある。懐事情だ。留学中、当時の日本の感覚で言えば破格の月額120ドルが支給されていたが、物価が高いので生活は苦しかったという。交通費を切り詰めようとして「古いフォードを一五ドルで買ったところ、一カ月くらい乗ったらエンジンが破裂してしまった」というような日々。こんなときに指導教授から、博士号をとれば「月に最低四〇〇ドルは保証される」と聞きつけていたのだ。

学位論文のテーマは「宇宙線中の超高エネルギー現象」だった。指導教授のグループが「原子核乾板」という道具を風船(気球)につけて上空に浮かべ、宇宙線を観測していたので、そのデータを解析した。借金を背負いながらの研究だったそうだ。論文を指導教授に提出するときには「これで学位をくれないなら、日本へ帰る」と、啖呵まで切った。そのひとことが功を奏したわけではないだろうが、論文は異例の速さで審査を通過したという。

圧巻は、2度目の渡米後の1960年、シカゴ大学を拠点とする国際共同実験の指揮を任されたときの失敗談だ。ジョージア州の海軍基地から、原子核乾板搭載の観測機器を風船につないで飛ばした。機器は時間がくると風船から離され、落下傘で舞い降りる、という仕掛けになっている。ところが、切り離しのタイマーが雷の直撃を受けたらしく、機器はいつまでも風船にぶら下がったままだ。飛行機から切り離しの信号を飛ばしてもダメだった。

この窮地に、小柴さんはどうしたか。本人の回想によれば、米海軍の幹部に電話して、風船を落下させるために軍用機を出動させてほしい旨の要求をまくし立てた。「言いたい放題」だ。「敗戦国民のわたしが、アメリカの海軍にああしろ、こうしろと命令するのは、正直言って気分がよかった」と振り返る。実際、海軍は軍用機で風船を銃撃したらしい。それでも風船は太平洋上空まで流され、観測機器はついに行方知れずになったという。

実験そのものは失敗だった。だが小柴さんは、ここから二つのことを学ぶ。巧妙な交渉術と実験家の心得だ。指南役は、イタリア出身の物理学者ジュゼッペ・オッキャリーニだった。軍人とのやりとりでは「喧嘩の仕方をいろいろコーチしてくれた」。実験のことでは、観測装置に信号が伝わらない事態を想定して、その場合でもデータを回収できるしくみにしておくよう「お説教」したという。小柴流用意周到の原点は、ここらへんにありそうだ。

不可解なのは、小柴さんが米海軍に対し、風船相手の作戦にU2を使うよう求めたとしていること。U2は偵察機だから、ちょっとおかしい。1960年、この機種は旧ソ連上空で地対空ミサイルに撃ち落とされるなど注目の的だったので、思わず口を突いて出たのだろうか。

この逸話には、違和感を覚える人が少なくないだろう。1960年は、日本で日米安保条約反対のうねりが高まった年だ。知識人の間には、文系であれ理系であれ、反戦、反米の思いが強かった。そんな時流を知らぬげに米軍と屈託なくかかわったのだから、批判されても不思議はない。そこにあったのは、人道に反しないなら使えるものは使うという合理主義か。ただ一つ言えるのは、小柴さんは日本社会のものさしに収まらない人だったということだ。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年12月11日公開、同月14日最終更新、通算552回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

偶然のどこが凄いかがわかる本

今週の書物/
『この世界を知るための人類と科学の400万年史』
レナード・ムロディナウ著、水谷淳訳、河出文庫、2020年刊

多面ダイス

先週に引きつづいて、科学史の大著『この世界を知るための人類と科学の400万年史』(レナード・ムロディナウ著、水谷淳訳、河出文庫、2020年刊)をとりあげる。当欄恒例の本文冒頭のまくら代わりに、今回はこの本に出てくる印象深い余話を一つ。

著者にはテレビドラマの脚本家というもう一つの顔があることは前回、すでに書いた。著者が「新スタートレック」の企画会議に出たときのことだ。太陽風という物理現象にかかわる筋書きを提案した。「そのアイデアとそのおおもとにある科学を熱心に細かく説明した」のである。してやったり、という感じか。ところが、プロデューサーの反応は予想外だった。「不可解な表情で一瞬私をにらみつけ、大声で言った。『黙れ、くそインテリ野郎!』」

その場に居合わせた人で物理学の学究は、著者一人。一方、くだんのプロデューサーはニューヨーク市警の刑事出身という人物だった。このエピソードは、科学者の思考様式が俗世間でどう見られているのかを如実に物語っている。ひとことで言えば、面倒くさいヤツだと煙たがられているのだ。著者の本に好感がもてる理由は、著者自身が世間の空気にどっぷり浸かり、自らが煙たがられる立場に身を置いてきた科学者だからだろう。

著者は世俗の事情をよく知っている。だから、科学思考を世俗の関心事と照らしあわせることを忘れない。私がかつて書評した著者の本『たまたま――日常に潜む「偶然」を科学する』(田中三彦訳、ダイヤモンド社)も、そうだった(朝日新聞2009年11月8日朝刊)。そもそも、世情に通じているから「偶然」にこだわるのだろう。この『…400万年史』も、科学がそれぞれの時代、偶然をどう位置づけてきたかを跡づけている。

で、今回は、この本の近現代史部分に的を絞って偶然観の変転を切りだす。それは、劇的だった。脇役がいきなり主役に躍り出たのだ。そこで表題は、先週の「科学のどこが凄いかがわかる本」(当欄2020年11月20日付)の「科学」を「偶然」に置き換えてみた。

最初に登場願いたいのは、アイザック・ニュートンだ。1687年に刊行した著書『プリンキピア』で、この世の物体は三つの運動法則に従うこと、物体には遍く万有引力が働いていることを示した。そこから導かれたのが、方程式通りに変化する決定論の世界観である。

この本では、ニュートン没後の18世紀半ば、物理学者ルジェル・ボスコヴィッチが書き記した見解が引用されている。「力の法則がわかっていて、ある瞬間におけるすべての点の位置と速度と方向がわかれば、そこから必然的に起こるすべての現象を予測できる」。数学者で天文学者のピエール=シモン・ラプラス(1749~1827)が未来の完全予見はありうるとして思い描いた〈ラプラスの魔〉も、同様の見方に支えられていると言えよう。

この世界観を崩したのが、20世紀の量子論だ。本書を参照しながら、その流れをたどろう。まず19世紀末の1900年、マックス・プランクが、エネルギーは1個、2個……と数えられるとする量子仮説を提起した。これに従って、ニールス・ボーアは原子核周辺の電子の軌道半径を「量子化」して考えた。1913年のことだ。電子は「許されるある軌道から別の軌道へ跳び移る」のであり、このときに「エネルギーを『塊』として失う」とみたのだ。

ボーアの理論は、裏返せば「電子が原子核へ向かって連続的に落ちていってエネルギーを失うことは不可能」(太字に傍点、以下の引用でも)ということだ。これは、ニュートン物理学と相容れない。なによりも、惑星や衛星の運動とまったく違うではないか。たとえば、人工衛星が落下するときは緩やかに弧を描いて高度を落としてくる。ところが、電子はぴょんと跳ぶというのだ。軌道から軌道へ移る間、それはいったいどこに存在するのか?

この問題を驚くべき発想で解決したのが、ヴェルナー・ハイゼンベルクだ。前提として受け入れたのは、電子の居場所はニュートン物理が対象とする天体や振り子のようには観測できない、ということだ。「位置や速さ、経路や軌道という古典的な概念が原子のレベルでは観測不可能だとしたら、それらの概念に基づいて原子などの系の科学を構築しようとするのはやめるべきかもしれない」――こうして1925年、量子力学を築いたのである。

その量子力学では、電子がエネルギーを失うときに放たれる光の色(振動数)や強さ(振幅)といった観測可能量だけをもとに数の行列(マトリクス)を組み立てる。理論から「イメージできる電子軌道」を外して「純粋に数学的な存在」に仕立て直したのだ。

余談になるが、ここらあたりは、学生たちが授業で量子力学を教わるときに最初につまずくところだ。物理学を学んでいるはずなのに数学の勉強を強いられる。数学が苦手な若者は、ここで物理世界に分け入る道を遮断されてしまう。私もその一人だった。ただ、この場を借りて私見を述べさせてもらえば、そこで諦めてしまうのは残念なことだ。数式をきちんと読めなくとも量子世界の空気は感じとれる。それは、世界観を豊かにしてくれる。

数学ずくめに不満な学生にとっては、助け舟もある。それを用意してくれたのが、量子力学のもう一人の建設者とされるエルヴィン・シュレーディンガーだ。彼は、ハイゼンベルクが行列で表した力学を、別のかたちで表現した。波動方程式である。波のイメージは、ニュートン物理の世界像にまだ囚われていた学界に受け入れられやすかったことが、この本からもわかる。学者でなければなおさらだ。私も波のイメージにだいぶ助けられた。

ハイゼンベルクも黙ってはいなかった。1927年、「古典的なイメージ」に追撃を加える。「不確定性原理」と呼ばれるものだ。それによれば「物体は位置や速度といった正確な性質は持っておらず」、位置と速度は「一方を精確に測定すればするほどもう一方の測定精度は落ちてしまう」関係にあるという。これは技術の限界ではなく、物理そのものの制約だ。「ニュートンのように運動をイメージするのは無駄」とダメを押したのである。

量子力学が教えてくれるのは、「これらのうちのどれかが起こる」ということだ。そこには「確率しか存在しない」と言ってもいい。「この宇宙は巨大なビンゴゲームのようなもの」――そんな世界像を量子論は示した、と著者は言う。ラプラスの魔はいなかったのだ。フィリップ・K・ディックのSF作品『偶然世界』(小尾芙佐訳、ハヤカワ文庫SF)が思いだされる(「本読み by chance」2020年3月20日付「ディックSFを読んでのカジノ考」)。

近代人は長くニュートン流の決定論を信じてきた。いや、今でもふつうには信じている。この本にも言及があるように、地震は予知できるという見方があるのも、社会科学者が未来予測に憧れるのも、この通念に根ざしている。ところが20世紀物理学は、決定論の方程式は限られた範囲だけで通用するものであり、世界の根底には偶然をはらんだ方程式があるらしいという見方にたどり着いたのだ。「偶然」の勝利である。

で、ここで著者は、またまた父を登場させる。ナチスがユダヤ人を整列させていたときのことだ。父はたまたま、列の後尾に並んでいた。親衛隊士官は、必要なのはユダヤ人3000人だとして、父を含む4人だけを切り離して連れ去った。3000人は墓掘りを強いられたうえ銃殺されたという。それは「父にとっては理解しがたい偶然だった」。この体験のせいか、父は後年、著者が語る量子論の不確定性を「容易に受け入れてくれた」そうだ。

最後に付け足しになってしまうが、著者が立派なのは、自らの専門分野を離れて生物学系の科学史にも踏み込んでいることだ。ここでは、著者がページを割いて詳述しているのが19世紀半ばに登場したチャールズ・ダーウィンの進化論であることに注目したい。

ダーウィンによれば、生物は「ランダムな変異と自然選択」によって進化する。考えてみれば、そこにある自然観も量子力学同様、アリストテレスの目的論やニュートンの決定論になじまない。偶然は凄いのだ。この本を読み切って、その思いを改めて強くする。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年11月27日公開、通算550回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。