AIは俳句上手の言葉知らず

今週の書物/
『AI研究者と俳人――人はなぜ俳句を詠むのか』
川村秀憲、大塚凱著、dZERO社、2022年刊

スイカ、甘い?

古ポスター日焼けの美波里日にヤケて(寛太無)
先日の句会はオンライン形式で、お題――俳句では兼題という――が夏の季語「日焼」だった。上記は、このときの拙句だ。うれしいことに7人の方が選んでくださった。

自句自解――自分の句を自分で解説すること――は無闇にすべきではないが、今回は許していただこう。私の脳内では、この句に行き着くまでにいくつかの工程があった。思いつきがある。連想がある。思惑もある。それらを一つずつたどってみよう。

今、日焼けは負のイメージが強い。「UV(紫外線)カット」という言葉があるように悪者扱いされたりする。だが、昔は違った。真夏の街には、小麦色の肌があふれていた。夏も終わりに近づけば、どれだけ背中を焼いたかを競いあう若者たちもいた。

昔の価値観、即ち日焼けの正のイメージということで真っ先に思い浮かんだのは、あの資生堂ポスターだ。女優の前田美波里さんが水着姿で砂浜に寝そべり、上半身をもたげて顔をこちらに向けている。肌は美しい褐色。1966年に公開されたものだった。

そこでとりあえず心に決めたのは、中の句、即ち五七五の七に「日焼けの美波里」を置こうということだった。「日焼け」と「美波里」をつなげるだけで、あのポスターと1960年代の世相を読者は想起するだろう。半世紀余も前のことなので、世間一般には通じないかもしれない。だが、句会メンバーには同世代人が多いので、幾人かがビビッと反応してくれるに違いない。私の脳内には、そんな思惑が駆けめぐったのである。

これで、ポスターの記憶と1960年代の空気は読者(の一部)と分かちあえるだろう。次に画策したのは、日焼けをめぐる今昔の価値観を対照させること。そこで、ポスターの経年変化がひらめいた。古書のヤケに見られる紙の加齢現象はポスターにもある。美波里さんは正の日焼けをしているが、彼女が刷り込まれた紙は負の日ヤケをしている。紙のヤケそのものは劣化現象であっても、ヤケをもたらす時の経過はたまらなく愛おしい――。

そういえば、あのポスターは商店の壁などに長いこと貼られていた。現実にはありえないだろうが、今もはがされず壁に残っていたら……そんな空想をめぐらせて、下の句「日にヤケて」が決まった。以上が、日焼けの拙句を組み立てた脳内工程のあらましだ。

で、今週の1冊は『AI研究者と俳人――人はなぜ俳句を詠むのか』(川村秀憲、大塚凱著、dZERO社、2022年刊)。川村さんは1973年生まれ、人工知能(AI)の研究者で「AI一茶くん」開発チームを率いる北海道大学教授。大塚さんは1995年生まれ、2015年に石田波郷新人賞を受けた新進の俳人で俳句同人誌「ねじまわし」を発行している。本書は、AI一茶くんをよく知る二人が俳句とは何かという難問と向きあい、語りあっている。

ではなぜ、私が本書を手にとったのか? ここに前述の句会がかかわってくる。先達メンバーの脚本家、津川泉(俳号・水天)さんが「日焼けの美波里」を選句してくださったうえで、固有名詞を取り込んだ作句をどうみるかを講評欄の話題にしたのだ。

そこで引用されたのが本書だ。AIの俳句には固有名詞が多いこと、固有名詞の句は人間もつくりやすいことを踏まえて、著者の一人、大塚さんが「安易さと戦うのが書き手の責務と捉えれば、固有名詞の句には慎重であるべき」と戒めているという。

これは、ぜひとも読まねばなるまい。AIはどんな手順で俳句をつくるのか、それは私の脳内の工程とどこが同じで、どこが異なるのか。これらの疑問に対する答えがおぼろげにでも見えてくれば、AIがなぜ固有名詞句を得意とするかがわかるかもしれない――。

ということで本書に踏み入ると、驚くべき解説に出あった。AIは語意を知らずに作句するというのだ。たとえば、「林檎」の句をどう詠むか。AIは「林檎が赤いことも、食べられることも知りません」(川村)。過去の作品群を「教師データ」にして「『林檎』の次にどんなことばが来る可能性が高いのか」(同)を学習する。具体的には助詞「の」や動詞「咲く」などがありうるが、それぞれの頻度を調べて後続の語を決めていくらしい。

夢に見るただの西瓜と違ひなく(AI一茶くん)
本書に出てくる果物のAI俳句だ。「夢に見ている西瓜もまた西瓜である」(大塚)と読めるが、一茶くんはそんな至言を吐きながらスイカの甘さも量感も知らないらしい。当欄で先日学んだソシュール言語学でいえば、「シニフィエ(意味されるもの)が欠落した状態」(大塚)ということになる(当欄2022年7月8日付「ソシュールで構造主義再び」)。

AIには「俳句を詠みたいという動機がない」(川村)というのも目から鱗だ。AIは「人間の俳句を教師データとして使って」「賢いサイコロのようにことばをつないで」(同)、語列を俳句らしく整えているだけ。自句の「解釈」もできない。一語一語に意味が伴っていないのだから、文学的衝動とは無縁と言えよう。川村さんは、AI作句には「詠む」という動詞がなじまないので、「AI『で』」「生成する=つくる」と言うようにしているという。

となれば、AIが選句を苦手とするのは当然だ。川村さんによれば、「AI対人間」の俳句コンテストがあってもAIは出品する句を自分で選べない。AIに今できるのは「日本語として意味の通じない句」をつくったとき、それを作品から除外することくらいという。

ここで、AIがなぜ固有名詞の句を得意とするか、その答えを本書から探しておこう。川村さんの説明はこうだ。固有名詞は「意味するところが狭い」、だから「意味が通りやすい」――。AIは「教師データ」をもとに言葉をもっともらしく並べ、俳句を生成していく。このとき、日本語になっていない語列ははじかれるが、固有名詞があると排除されにくいということなのか。そういうものかと思う半面、反論してみたい気持ちもある。

西行の爪の長さや花野ゆく(AI一茶くん)
シャガールの恋の始まる夏帽子(同)
これらも、本書に例示されたAI俳句だ。冒頭の語がただの「僧」や「画家」ではなく「西行」や「シャガール」だからこそ、読み手の心に放浪や幻想のイメージが膨らむのではないか。固有名詞には「意味」の幅を広げる一面もあるように思えるのだが……。

固有名詞の効果を考えるうえで参考になるのは、著者二人が季語について語りあうくだりだ。季語は「共有知識」ととらえられている。川村さんによれば、ここで「共有知識」というとき、それは「相手が自分と同じことを知っているだけでなく、『相手が知っている』ということを知っている」状態を想定している。俳句の季語では、「本来の語意」のみならず「付随する周辺的な情報や心情」までが「共有知識」になるのだという。

具体例は、秋の季語「鰯雲」だ。大塚さんは、この言葉には「秋の爽やかさ」や「物思いを誘うような風情」といった気配がつきまとい、さらに「鰯の大群の比喩」にもなっているという。「季語の一つ一つに蓄積があり、連想がある」と強調する。

私見を述べれば、固有名詞にも同様のことが言えるのではないか。拙句の「美波里」という人名やそこから連想される1960年代の風景も「共有知識」だった、と言ってよい。

それにしても不思議なのは、AIが固有名詞入りの句を多くつくることだ。「周辺的な情報や心情」どころか「本来の語意」すら理解していないらしいのに、なぜそれを「共有知識」にできるのか。なにも知らず、「教師データ」に素直に従っているだけなのか。

本書には、俳句とAIについて考えさせられる論題がもっとある。俳句を情報工学の目で眺めると、初めて見えてくるものがあるのだ。次回も引きつづきこの本を。
☆引用箇所のルビは原則、省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年8月19日公開、同日最終更新、通算640回
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ゴジラ、反核の直感が生んだもの

今週の書物/
●「ゴジラ映画」(谷川建司執筆)
『昭和史講義【戦後文化篇】(下)』(筒井清忠編、ちくま新書、2022年刊)所収
●「G作品検討用台本」
『ゴジラ』(香山滋著、ちくま文庫、2004年刊)所収

卵生?

反核を思う8月。今夏は例年よりもいっそう、その思いが切実なものになっている。世界の一角で、この瞬間にも核兵器が使われるかもしれない軍事行動が進行中だからだ。

折から、核不拡散条約(NPT)再検討会議が1日からニューヨークの国連本部で開かれている。核兵器保有国に核軍縮交渉を義務づけ、非保有国に核兵器の製造や取得を禁じた条約だ。1970年に発効した。再検討会議は、その実態を点検するのがねらいだ。

会議の報道でもっとも印象深かったのは、ウクライナ副外相の演説だ。ロシアがウクライナの核関連施設を攻撃したことに触れ、「我々はみな、核保有国が後押しする『核テロリズム』が、どのように現実になったのかを目の当たりにした」と述べた(朝日新聞2022年8月3日付朝刊)。たしかに今回は、原発が軍隊によって占領され、それがあたかも人質のように扱われている。「平和利用」の核が「軍事利用」されたのである。

この指摘はNPTの弱みを見せつけたように私は思う。NPTは「核軍縮」「核不拡散」だけでなく、「原子力の平和利用」も3本柱の一つにしている。ところがウクライナの状況は、「平和利用」が「軍事利用」に転化されるリスクを浮かびあがらせた。原発は、今回のように占領の恐れがあるだけではない。ミサイル攻撃を受ければ放射性物質が飛散して、それ自体が兵器の役目を果たしてしまうのだ。「軍事」と「平和」の線引きは難しい。

それにしても「核軍縮」と「核不拡散」になぜ、「原子力の平和利用」がくっつくのか。これは、戦後世界史と深く結びついている。源流は1953年、米国のドワイト・アイゼンハワー大統領が提唱した「平和のための原子力」(“Atoms for Peace”)にあるようだ。核兵器保有国はふやしたくない、先回りして核物質を平和利用するための国際管理体制を整えよう――そんな思惑が感じられる。こうして国際原子力機関(IAEA)が設立された。

ここには、「軍事利用」は×、「平和利用」は〇という核の二分法がある。だが私たちはそろそろ、この思考の枠組みから脱け出るべきだろう。なぜなら、戦争には「平和利用」の核を「軍事利用」しようという誘惑がつきまとうからだ。さらに核は、「平和利用」であれ「軍事利用」であれ偶発事故を起こす可能性があり、その被害の大きさは計り知れないからだ。私たちは、核そのものの危うさにもっと敏感になるべきではないか。

で今週は、一つの論考と一つの台本を。論考は「ゴジラ映画」(谷川建司執筆、『昭和史講義【戦後文化篇】(下)』=筒井清忠編、ちくま新書、2022年刊=所収)。台本は「G作品検討用台本」(『ゴジラ』=香山滋著、ちくま文庫、2004年刊=所収)。前者は、ゴジラ映画史を1962年生まれの映画ジャーナリストが振り返った。後者は、映画「ゴジラ」(本多猪四郎監督、東宝、1954年=一連のゴジラ映画の第1作)の「原作」とされている。

後者の著者香山(1904~1975)は、大蔵省の役人も経験した異色の作家。「秘境・魔境」や「幻想怪奇」など「現実の埒外にある題材」を好み、「読者に一時のロマンを与えてくれるのが特長であった」と、『ゴジラ』(ちくま文庫)の巻末解説(竹内博執筆)にはある。

今回の当欄では、戦争が終わってまもなくの日本社会が被爆や被曝をどうとらえていたかを谷川論考から探り、その具体例を香山台本から拾いあげていきたい、と思う。

谷川論考はまず、映画「ゴジラ」が日本人の被爆被曝体験と不可分であることを強調する。1954年3月、遠洋マグロ漁船第五福竜丸の乗組員が太平洋で米国の水爆実験の放射性降下物を浴び、放射線障害に苦しんでいるという事実が明らかになった。日本人は、広島、長崎に続いて、またもヒバクしたのだ。核兵器反対の市民運動に火がついた。街には「原子マグロ」を恐れる空気も広まった。その年の11月に「ゴジラ」は封切られたのだ。

香山台本には、日本近海にゴジラが出現したという話題でもちきりの酒場が出てくる。「女」が言う。「原子マグロだ、放射能雨だ、そのうえこんどは、怪物ゴジラときたわ」。東京湾に現れたらどうなるか、と彼女が「客」に問うと「疎開先でも探すとするか」という答えが返ってくる。「疎開」が10年ほど前の記憶として残っていたこのころ、ゴジラの不気味さは広島、長崎の被爆や第五福竜丸の被曝を人々に想起させるものだったことがわかる。

谷川論考によれば、「ゴジラ」は東宝にとって社運をかけた一大プロジェクトだった。東宝は1950年代に入ると、戦後燃え盛った労働争議の傷痕が癒え、戦時中の戦争映画で追放されていた幹部も返り咲いて、起死回生を期していた。そこに降ってわいた第五福竜丸事件。幹部たちは太古の恐竜が水爆によって目覚めるという娯楽大作を秘密裏に企画、香山に筋書きを頼んだ。「G作品」はコードネーム。「G」はgiant(巨大)を意味したという。

それにしても、映画人は機を見るに敏だ。戦時に戦意高揚の作品をつくっていた人々が戦後、核への忌避感に乗じた作品を構想する。その撮影には、戦争映画で特撮を受けもった人材が投入されたという。この点で、映画「ゴジラ」は太平洋戦争と地続きにある。

谷川論考は、ゴジラを「“被爆者”」と位置づける。その体表に「ケロイド状の皮膚」との類似を見てとるのは「当時の観客にとっては言わずもがなのことだった」。ここで言及されるのが「アサヒグラフ」1952年8月6日号だ。占領が終わって、原爆被害の真相を包み隠さず伝える写真がようやく公開された。そこに、第五福竜丸の報道映像がさらなる追い討ちをかけた。日本人の多くは1954年ごろ、核の怖さを真に実感したのかもしれない。

香山台本には、古生物学者の山根恭平が娘の恵美子にゴジラの正体を語って聞かせる場面がある。ゴジラはジュラ紀の海棲爬虫類だが、現代まで海底の洞窟などでひっそり生き延びていたという自説を明かして、こう続ける。「水爆実験で、その環境を完全に破壊された」「追い出されたんだ」。それで日本近海にやって来たのだろう。こうしてゴジラは、人類が始めた核兵器開発競争のとばっちりを受けた者として描かれるのである。

恵美子は父の説に「信じられないわ」と半信半疑だが、父は「物的証拠が、ちゃんと揃っている」と譲らない。ゴジラの体からこぼれ落ちた三葉虫――絶滅したとされている古生物――を調べると、放射性核種のストロンチウム90が検出されたという。

山根恭平の説明は、記者発表の場でも繰り返される。そこでは、ゴジラ本来の推定生息年代が「侏羅紀(じゅらき)から、次の時代白亜紀にかけて」に広げられ、分類も「海棲爬虫類から、陸生獣類に進化しようとする過程にあった中間型の生物」とされている。

記者発表で見落とせないのは、ゴジラの体が水爆によって「後天的に放射性因子を帯びた」としていることだ。物質が放射線を受け、自身も放射線を出すようになることを放射化という。山根は、ゴジラが全身から放つ「奇怪な白熱光」をこれで説明しようとしている。

ゴジラは水爆実験で「安息の地と平穏な暮らしを奪われた」(谷川論考)のだから、核兵器の被害者だ。と同時に「人間の築いた文明を破壊しよう」(同)としている点で加害者でもある。そこでは、被曝するという被害と被曝させるという加害が同居している。香山台本で特筆すべきは、架空の生きものにこの二面性を付与したことだろう。ト書きには、ゴジラを水爆のシンボルにしようという作者の意図が書き込まれた箇所もある。

谷川論考によると、映画「ゴジラ」には「怪獣王ゴジラ」という改定版がある。米国の映画会社が東宝からフィルムを買い入れて再編集したものだ。2作品を比べると、後者では「ゴジラ自体が“被爆者”に他ならないという見立て」は消え去っているという。

ゴジラの二面性で思うのは、ウクライナの原発も同様ということだ。攻撃の標的になりかねないという意味では被害者の立場だ。だが、いったん攻撃されたならば、核汚染を引き起こしかねないのだから加害者の側面もある。これが核のリスクというものだ。

広島、長崎、第五福竜丸。三つのヒバクが直近の出来事だった1950年代半ばの日本社会は、核の本質を直感していた。ゴジラの出現は、そのことを物語っているように思う。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年8月12日公開、通算639回
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経済学もヒトの学問である

今週の書物/
『〔エッセンシャル版〕行動経済学』
ミシェル・バデリー著、土方奈美訳、ハヤカワ文庫NF、2021年刊

財布

コロナ時代、高齢者最大の楽しみは散歩である。足を延ばしても、せいぜい隣駅くらい。半径1kmほどの圏内を歩きまわる。それで毎日、出かけるまえに悩むのは「きょうは、どっち方面をめざすか」。気まぐれな散歩にも、とりあえず目標は必要なのだ。

そんなとき、家人に「なにか、買ってこようか?」と申し出る。野菜であったり、豆腐であったり、焙煎コーヒーの粉であったり、夏の冷菓であったり、シャンプー類であったり……候補はたくさんある。何を買ってくるかが決まると、目当ての店を経路に組み込む。

おつかいを言いつけられた子どものようにも思えるが、ちょっと違う。私は、買いものを命じられているのではない。散歩しようという気持ち――いわゆる、モチベーション――を高めるため、自分で自分に任務を課しているだけ。それでわざわざ、家人に買いものの発注を促しているのだ。結果として、ある日はスーパー、別の日は豆腐店、あるいはコーヒー焙煎店……と散歩の目標が定まり、日々異なる方角をめざすことができるようになる。

もう一つ、子どものおつかいと異なるのは、買いものの代金がいつも自分の財布から出ていることだ。子どものように100円硬貨何枚かを握らされ、「おつりがあったらお駄賃ね」ということはない。で、ある日、家人が「生活費なんだから、別途支給しましょうか」と言ってきた。このとき、私の口をついて出た言葉が「とんでもない」だった。買いものによって散歩のモチベーションを得ているのだから「払って当然」と思えたのだ。

私の財布も家計の一部とみれば、どちらでもよい話かもしれない。ただ、ここでは私の財布、即ち小遣いを家計から切り離して考えよう。豆腐を例にとると、本来は家計が支出すべき代金を私は小遣いから支払っている。1丁買った場合、自分が食べる半丁分だけでなく、1丁分をまるごと負担しているのである。でも、それを不満に思わない。それどころか、幸せを感じている。私は意外と気前のよい人間なのか――そう思いかけて、ふと気づいた。

これは、経済学の枠組みにかかわる問題なのではないか? 私個人と私の家庭、近所の豆腐店から成る小さな経済圏で、豆腐1丁の売り買いがあったとする。従来の経済学なら、そこに存在する価値は、豆腐という物品とその対価である通貨に尽きるだろう。ところが私個人の損得空間では、この取引に散歩のモチベーションというもう一つの価値が付随する。それをいくらとみるか評価は難しいが、少なくとも豆腐1丁よりは値打ちがあるみたいだ。

で、今週は『〔エッセンシャル版〕行動経済学』(ミシェル・バデリー著、土方奈美訳、ハヤカワ文庫NF、2021年刊)。著者は、英国ケンブリッジ大学で学位を得た経済学者。本書の刊行時点ではオーストラリアの大学で教授職にある。原著は2017年刊。英国オックスフォード大学出版局の“Very Short Introductions”シリーズに収められている。「エッセンシャル版」は、この意訳と思われる。邦訳単行本は、早川書房が2018年に刊行した。

第1章には、行動経済学とは何かが従来型の経済学との対比で素描される。従来型の経済学は「人間は数的計算を完璧にこなす生き物」とみる。ところが、行動経済学は「人間をとことん合理的な生き物とは考えない」。人間の意思決定は、いくつもの制約を受ける。認知機能には限界があるから、なにもかもは覚えていられない。一定時間に処理できる計算も高が知れている。その結果、非合理な選択をすることもあるというわけだ。

これは、研究手法にも反映される。従来型の経済学は、マクロ経済の指標を相手にしていた。ところが行動経済学では「何が人々の選択を決定づけるのか」が問題になる。ここで役立つのが実験だ。経済活動の一場面を想定して、被験者がどんな選択肢をとりやすいかを調べたりする。脳神経科学の研究でおなじみの機能的磁気共鳴画像法(fMRI)を使って、意思決定が脳内の反応とどうかかわっているかを探ることもあるという。

第2章の章題は「モチベーションとインセンティブ」。本書は、この2語を厳密に使い分けていないが、前者は「動機づけ」、後者は「動機づけのための刺激」ということか。著者が強調するのは、行動経済学の見方では経済活動の意思決定が「金銭的インセンティブ」だけに左右されないこと、「さまざまな社会経済的・心理的要因」の影響も受けることだ。自身が学者でいるのも「非金銭的なモチベーション」による、と打ち明けている。

著者は、モチベーションを「外発的」「内発的」に2分類する。「外発的」の代表例は給料など金銭的な報酬だが、非金銭的な「社会的承認」や「社会的成功」も含まれる。一方、「内発的」は「個人の内なる目標や姿勢」に起因する。「誇り」「義務感」「忠誠心」、そして「難問を解く楽しさ」「体を動かす喜び」――私の場合、豆腐1丁の買いものはこの喜びに突き動かされていたのだ。だから、お金を払うことくらいどうということはない。

第3章は、「社会生活」と題している。従来型の経済学は、経済活動をする人間を「利己的な生き物」とみなし、意思決定にあたっても「他の人々のことなど気にしない」と想定する。だが、行動経済学の視点に立つと「周囲の人々」の影響は無視できない。

この章で私たちの感覚にピンとくるのは、「ハーディング現象」だ。「群れ」のherdに由来する。「他の人々と同じ行動をとろうとする」ことや「他者の行動から学習する」ことをいう。日本社会に特徴的な「同調圧力」も同類だろう。本書によれば、他者をまねる経済行動は「ミラーニューロン」に関係するという見方もある。ミラーニューロンは模倣にかかわる脳神経細胞だ。経済学が細胞レベルで探究される時代になった。

「社会生活」が経済行動に与える影響はハーディングだけではない。「不平等回避」もその一つだ。一定額の予算をA、B二人がどう分け合うか(Aの提案にBが同意しなければ両者とも獲得金額がゼロになる)という実験で確かめられるという。実社会では、ボランティア活動への参加や慈善団体への寄付などが、これに当たる。「利他的行為」ではあるが、「自分が善良で気前のよい人間だとシグナリングする」という思惑も介在する。

第4章「速い思考」のキーワードは「ヒューリスティクス」だ。ここで著者がもちだすのは「選択肢の過負荷」や「情報の過負荷」。候補が多過ぎ、情報もあり過ぎて、何を選ぶか困ってしまう状況だ。こうしたときにAI(人工知能)なら、情報を一つ残らず処理して意思決定に至るはず。だが人間は「複雑な計算に時間と労力をかける」ことをせず、「シンプルな経験則を活用して」素早く決める。この経験則をヒューリスティクスという。

一例は「利用可能性ヒューリスティック」。著者は旅行を手配するとき、いつも同じ旅行会社に頼むという。その結果、他社の「お得情報」の恩恵は受けられなくなる。それでも馴染みの会社には過去の利用履歴が残っていることもあり、なにかと便利というわけだ。

第5章「リスク下の選択」では「確実性効果ゲーム」の話がおもしろい。参加者にa)3週間欧州周遊の旅とb)1週間英国内の旅を提示して、a)を選べば50%当選、b)ならば100%当選ともちかけると、78%の人がb)を選択した。ところが、当選率の設定をa)5%、b)10%に改めると、a)を選ぶ人が67%を占めた。逆転したのは、100%保証の選択肢が消えたせいか。私たちは「確実な結果には不確実な結果より価値を見いだす」のである。

第6章「時間のバイアス」も実生活で実感する。ケーキを「今日食べるか、明日食べるか」と聞かれて「今日」と答える人は、1年後に食べるか、1年と1日後でもよいかと問われたら1年後と回答する――こうみるのが従来型の経済学だ。ところが行動経済学の視点でいえば、「今日」か「明日」かで「今日」を選ぶ人が1年ほど先の1日の違いにこだわるとは限らない。「時間選好」は、ちょっと先とだいぶ先とで違ってくるのだ。

本書は第9章まであり、行動経済学の新知見が満載なのだが、当欄はとりあえず、ここで打ちどめにする。これだけのことからでもわかるのは、旧来の経済学が不条理にも、人間を経済の合理性にのみ従う〈ホモ・エコノミクス〉の型に押し込んできたことだ。人間はなにより生きものとしてのヒトである、社会集団の一員でもある、能力は無限ではなく、有限の時空を生きている――そういう当然のことが、ようやく経済学を変えつつあるのだ。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年7月22日公開、通算636回
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オーウェル、言葉が痩せていく

今週の書物/
『一九八四年』
ジョージ・オーウェル著、高橋和久訳、新訳版、ハヤカワepi文庫、2009年刊

ニュースピーク

言葉の貧困は目を覆うばかりだ。ボキャブラリー(語彙)が痩せ細った、と言い換えてもよい。「緊張感をもって」「スピード感をもって」「説明責任を果たしてほしい」……政治家の発言を聞いていると、同じ語句が機械的に並べられている感じがある。

有名人が不祥事を起こしたときのコメントも同様の症状を呈している。「重く受けとめています」「お騒がせして申し訳ありません」――記者会見があれば、ここで深々と頭を下げる。これは、官庁や企業の幹部が身内の不祥事について謝るときも同様だ。

市井の人々も例外ではない。たとえば、大リーグの大谷翔平選手がリアル二刀流の試合で勝利投手となり、打者としても本塁打2本を連発したとしよう。テレビのニュース番組が街を行き交う人々に感想を聞いたとき、返ってくる答えは「勇気をもらいました」「元気をありがとう」。勇気であれ元気であれ、心のありようは物品のように受け渡しできないはずだが、なぜかそう言う。世間には紋切り型のもの言いが蔓延している。

これらを一つずつ分析してみれば、それぞれに理由はある。政治家の「緊張感」や「スピード感」は、無策を取りつくろうため常套句に逃げているのだろう。有名人や官庁・企業幹部の「重く受けとめています」「お騒がせして申し訳ありません」は危機管理のいわば定石で、瑕疵の範囲を限定して訴訟リスクを下げようという思惑が透けて見える。そして「勇気」や「元気」は万能型の称賛用語で、ときには敗者を称えるときにも用いられる。

ただ、言葉の貧困から見えてくる共通項もある。今、私たちが無思考の社会にいるということだ。思考停止の社会と言ってもよいが、思考を途中でやめたわけではない。思考すべきところを思考せず、それを避けて通ったという感じだ。思考回避の社会とも言えないのは、思考を主体的に避けたのではなく、自覚しないまま無思考状態に陥っているからだ。私たちはいつのまにか、ものを考えないよう習慣づけられてしまったのではないか。

で、今週は言葉と思考について考えながら、引きつづき『一九八四年』(ジョージ・オーウェル著、高橋和久訳、新訳版、ハヤカワepi文庫、2009年刊)をとりあげる。著者は1949年の視座から1984年の未来を見通したとき、そこに監視社会という反理想郷(ディストピア)が現れることを小説にした。先週の当欄に書いたように、そのディストピアでは人々の思考も操られている。そして、このときに言葉が果たす役割は大きそうなのだ。

『一九八四年』が秀逸なのは、そこに新しい言語「ニュースピーク」を登場させていることだ。たとえば、前回の拙稿(*1)にも書いたように、主人公のウィンストンは勤め先の真理省記録局で新聞の叙勲記事を書き換えるよう命じられるのだが、その業務命令もニュースピークで書かれているのだ。訳者は、それを巧妙に日本語化している。「bb勲功報道 倍超非良 言及 非在人間 全面方式書直 ファイル化前 上託」という具合だ。

bbによる叙勲の報道は大変によろしくないものだった、記事に出てくるのは居もしない人物だ、全面的に書き直せ……そう読み解ける。ここでbbは、英、米を含む大国オセアニアの「党」指導者ビッグ・ブラザーのことだろう。用件だけを伝えている感じの文面だ。

この言語がどんなものかは、この作品の末尾に添えられた「附録」を読むとわかる。「ニュースピークの諸原理」と題された一文だ。ニュースピークが「イギリス社会主義」の「要請」に適うように考えだされた「オセアニアの公用語」であること、1984年の時点では標準英語(オールドスピーク)と併用されていたが、2050年ごろまでには完全に置き換わるだろうと予想されていたことなどが、もっともらしく解説されている。

「イギリス社会主義(English Socialism)」は、略称「イングソック(Ingsoc)」。作品本体には、ビッグ・ブラザーの政敵の著書を引用するかたちでその説明がある。それはオセアニアの「党」が掲げる思想で、「党がオセアニアにある全てを所有する」という体制を支えている。支配層の中心は官僚、科学者、技師、労働組合活動家、広告の専門家、教師、報道人……などだという。中間層がいつのまにか一党独裁を生みだした、という感じか。

「附録」に戻って、ニュースピークの一端を紹介しよう。一つ言えるのは、それが英語を簡素にしていることだ。標準英語では、動詞の「考える」がthinkで名詞の「思考」はthoughtだが、ニュースピークでは動詞であれ名詞であれthinkでよい。これと反対に、名詞を動詞として使いこなす例もニュースピークにはある。「切る」はcutではなくknifeなのだ。これらの簡略化は、私のように英語を母語としない者には大変ありがたい。

簡略化は、このほかにもある。ニュースピークでは「悪い」のbadが不要で、「非良」のungoodが代用される。形容詞を強めたければ、語頭に「超」のplusや「倍超」のdoubleplusをくっつければよい。前出の「倍超非良」はdoubleplusungoodだったのだろう。

だが、ニュースピークには怖い側面がある。ひとことで言えば、意味を痩せ細らせることだ。典型例はfreeという言葉。標準英語では「自由な/免れた」の両方を意味するが、ニュースピークでは「免れた」の語意が強まった。「この犬はシラミを免れている」との趣旨で「シラミから自由である」という表現が成り立たないこともないが、「政治的に自由な」「知的に自由な」はありえない。この種の「自由」は言語空間から消滅したのだ。

同様のことはequalについても言える。equalという形容詞は、ニュースピークでも「すべての人間は等しい」という文に用いられるが、このときequalに込められた意味は体格や体力が「等しい」ということで、「平等」の概念はまったく含意していない。

これらの特徴から、イングソックがニュースピークに何を「要請」したかが浮かびあがってくる。それは、「イングソック以外の思考様式を不可能にする」ことだ。本稿のまくらにも書いたように、思考と言葉は密接な関係にある。だから、意味の痩せ細った新言語が広まれば、「異端の思考」をしそうな人が現れても「思考不能」の状態に追い込める――。オセアニアの「党」は、そんな「思惑」があってニュースピークを導入したのである。

もちろん、「思惑」通りには事が進まない。1984年の時点ではオールドスピークが日常言語だったから、ニュースピークで会話や文書を交わしても、オールドスピークにまとわりついた「元々の意味」を忘れられない。ここで威力を発揮するのが、「二重思考」だ。これは前回の拙稿で紹介した通り、とりあえずは「ふたつの相矛盾する信念を心に同時に抱き、その両方を受け入れる」という思考法だ。そのうえで危ない考えを回避していく。

このくだりで、著者は不気味な予言をしている。将来、ニュースピークしか知らない世代に代替わりしたら、その人々は「自由な」に「知的に自由な」の意があり、「等しい」が「政治的に平等な」も意味するとは思いも寄らないだろう、というのだ。「自由な」や「等しい」は即物的になり、その語句に詰め込まれた思想はすっかり剥ぎとられてしまう。言葉が思考から切り離され、ただの意思伝達手段、いわば信号になっていく感じか。

昨今の「緊張感をもって」「重く受けとめて」「勇気をもらいました」という常套句も、私にはニュースピークの一種に思われる。思考の気配がなく、定石の棋譜のようにしか聞こえないからだ。人類の前途にはオールドスピークからの完全離脱が待ち受けているのか。
☆引用部にあるルビは原則、省きました。
*1 当欄2022年6月24日付「オーウェル、嘘は真実となる
*2 本書『一九八四年』については、当欄2022年1月21日付「宗匠のかくも過激な歌自伝」でも言及しています。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年7月1日公開、同日更新、通算633回
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オーウェル、嘘は真実となる

今週の書物/
『一九八四年』
ジョージ・オーウェル著、高橋和久訳、新訳版、ハヤカワepi文庫、2009年刊

気送管へ?

2022年、監視社会がここまで進むとは、だれが思っていただろうか?

30年ほど前、英国で少年による幼児の誘拐殺人があった。当時、私はロンドン駐在の科学記者。事件があまりに猟奇的だったこともあり、記事にしなかった。今思うと、それは怠慢だったかもしれない。容疑者特定の決め手が街頭の監視カメラだったからだ。

監視カメラと聞いて、私は一瞬「イヤだな」と思った。街が見張られているなんて……。でも、この装置があったからこそ事件は解決した。犯罪の抑止力があるということだ。実際その後、英国は監視カメラ大国になる。あの事件は一つの転機だったかもしれない。

ただ、英国と監視カメラの取り合わせには違和感がある。英国は、とにもかくにも自由と民主主義の国ではないか。人権感覚の強い人々が大勢いる。その社会が、なぜ監視カメラをあっさり受け入れたのか。理由は、いくつか思い浮かぶ。1970~1990年代、北アイルランド紛争が激化してテロが相次いだことも大きく影響しているだろう。この問題では、英国社会の現実主義が人権感覚をしのいで、治安を優先させたということかもしれない。

思い返すと世紀が変わるころまで、私たちは人権に対して旧来の見方をしていた。それによれば、監視行為は刑務所などいくつかの例外を除いて許されない。ところが、この20年余でそんなことを言っていられなくなった。海外ではテロや乱射事件……。国内でも通り魔事件やあおり運転……。相次ぐ凶事に監視待望論が強まった。監視の目はコンビニの防犯カメラやドラレコの車載カメラなどに多様化され、その〈視界〉を広げている。

しかも、監視の道具は今やカメラだけではない。私たちの行動は、今日的な技術によっても追跡されている。スマートフォンを持って街を歩けば、自分がどのあたりをうろついていたかが記録される。散歩の経路にとどまらない。心の軌跡もまた見透かされている。インターネットの閲覧履歴を手がかりに、自分が何をほしいか、どこへ行きたがっているかまで推察されてしまう。もはや、監視カメラだけに目を奪われている場合ではない。

カメラの背後には警察がある。民間が取り付けたものでも警察が映像を使う。ところがスマホとなると、ネットの向こうに誰がいるかがなかなか見えてこない。旧来の人権観のように国家権力だけを警戒していればよいわけではない。不気味さは、いっそう増している。

2022年の今、監視社会の実相はこうだ――。一つには、監視している主体を見極めきれないこと。もう一つは、監視されている対象が人間の内面にも及ぼうとしていること。この認識を踏まえて、今週は70年ほど前に書かれた長編の未来小説をとりあげる。

『一九八四年』(ジョージ・オーウェル著、高橋和久訳、新訳版、ハヤカワepi文庫、2009年刊)。著者は英国の作家。1903年に生まれ、1950年に死去した。著者紹介欄には「二十世紀の思想、政治に多大なる影響を与えた小説家」とある。代表作には、風刺の効いた寓話小説『動物農場』も。本書は1949年に発表されたが、刊行時点から35年後の未来社会を描いている。1984年をすでに通過した私たちが読むと、その想像力に圧倒される。

主人公はウィンストン・スミス、39歳。ロンドン在住で「真理省」職員。この省は「報道、娯楽、教育及び芸術」を扱う。政府官庁には、ほかに「戦争」担当の「平和省」、「法と秩序の維持」を担う「愛情省」、「経済問題」を受けもつ「潤沢省」がある。一つ、付けくわえると、この国は英国ではなく「オセアニア」だという。英、米、豪などから成る。そのころの世界はオセアニア、ユーラシア、イースタシアの3国が割拠していた。

この作品で、著者の先見性の的確さが見てとれるのは「テレスクリーン」の普及だ。ウィンストンの自宅マンションにも、真理省記録局の職場にもある。たとえば、自室の装置は「壁面の一部を形成している曇った鏡のような長方形の金属板」とされている。驚くのは、この装置が送受信双方向の機能を具えていることだ。一方では、当局の思想宣伝を一身に浴びることになる。もう一方では、当局に自らの言動が筒抜けになってしまう。

受信の例として作品に頻出するのは、「臨時ニュース」のような音声情報だ。これは、執筆時点がラジオ全盛の時代だったからか。だが、スクリーンに映像が映る場面も出てくるから、著者は薄型テレビの開発などエレクトロニクスの進展を予感していた。送信機能についていえば、自分がいつも見られているわけだから監視カメラやスマホの追跡機能も先取りしている。著者は、監視社会の到来もすっかり見抜いていたのだ。

職場の風景が印象深い。ウィンストンがいる部屋や廊下の壁には穴がいくつも並んでいる。「記憶穴」と呼ばれるものだ。職員たちは、手にした書類を「破棄すべき」ものと見てとったとたん、「一番近くにある〈記憶穴〉の上げ蓋を開け、それを放り込むのが反射的な行動になっていた」。書類は穴に投げ込まれると、気送管――筒状に丸めた文書を空気圧で飛ばす装置――を通って、庁舎内のどこかにある「巨大な焼却炉」へ直行するのだ。

1984年のオセアニアでは「過去が消され、その消去自体が忘れられ、嘘が真実となる」。これが、日常になっている。過去が都合悪ければ、記録した文書をなきものにしたり書き換えたりする。私たちが報道で耳にする文書の廃棄や改竄が制度化されているのだ。

この小説では、ウィンストンがどんな作業をしていたかが詳述されている。気送管で届けられた書類には次のような業務命令が書かれていた――。1983年12月3日付の新聞に載った「ビッグ・ブラザー」による「勲功通達」の記事は「極めて不十分」だった。「存在していない人物に言及している」ので「全面的」に書き換えるように! ここで ビッグ・ブラザーはオセアニアの「党」の指導者。実在性さえ不確かな謎めいた人物である。

新聞の記事によると、ビッグ・ブラザーは今回、「FFCC」という組織のウィザーズ同志に「第二等大殊勲章」を授けた。FFCCは、水兵に慰問品を贈る組織。ところが、この組織が解体された。不祥事があったのか、政治的確執によるものか、理由はわからない。いずれにしてもウィザーズは存在してはいけない人となり、叙勲はあってはならない過去になった。ウィンストンがなすべきは、その過去を抹消して別の過去をつくりだすことだった。

ウィンストンが思いついたのは、英雄譚だった。「英雄の最期にふさわしい状況下で最近戦死した人物」の称賛記事はどうか。それででっちあげたのが「オーグルヴィ同志」だ。

オーグルヴィ同志は6歳でスパイ団に入り、11歳で叔父を思考警察に売り、19歳で新種の手投げ弾を考えだした。これは、敵軍の捕虜31人を「処分」するときに使われた。23歳になり、ヘリコプターに乗って重要公文書を運ぶ途中、敵機に追いかけられる。同志は公文書を抱え、眼下の海へ飛び降りた。浮きあがることがないよう、体に重しを括りつけて……。同志は架空でも、「数行の活字と数枚の偽造写真」で「実在することになる」のだ。

ただ私が思うに、この改竄には限界がある。記事を書き換えても、すでに発行された新聞紙面は変えられない。デジタル化以前の時代なら、なおさらだろう。さらに人はいったん知ってしまった記憶を掻き消すことができないではないか。心に消しゴムはないのだ。

このツッコミを切り抜ける仕掛けとして、著者が作品にもち込んだのが「二重思考」である。作中ではビッグ・ブラザーの政敵エマニュエル・ゴールドスタインの著作に、その定義がある。それは「ふたつの相矛盾する信念を心に同時に抱き、その両方を受け入れる能力」だ。オセアニアでは「党」の知識人たちが「自分の記憶をどちらの方向に改変しなければならないかを知っている」という。こうして「事実」は都合よく塗りかえられていく。

思考のありようひとつで過去は思い直せるということか。それによって、過去そのものも変わってしまうのか。では、思考のありようはどのように変えられていくのか。『一九八四年』には、聞いてみたいことが山ほどある。次回もまた、この本の読みどころを。
☆引用部にあるルビは原則、省きました。
*本書『一九八四年』については、当欄2022年1月21日付「宗匠のかくも過激な歌自伝」でも言及しています。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年6月24日公開、同月29日最終更新、通算632回
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