コロナの時代に新聞は変わる

新聞オピニオン面の「新型コロナ」インタビュー
エマニュエル・トッド氏(聞き手・高久潤記者)、朝日新聞2020年5月23日朝刊

時差

最近の新聞は、世の論客に大舞台を提供するようになった。私の古巣、朝日新聞について言えば、オピニオン面の大型インタビューがこれに当たる。1ページの2/3ほどを費やして、思いのたけを語ってもらうのだから、読みごたえはある。

新型コロナウイルス感染禍をめぐっても、このインタビュー欄に内外の論客が次々登場している。すぐに気づくのは、聞き手がビデオ電話、テレビ会議システムなどを通して遠くから問いかける例が目立っていることだ。在社の後輩から漏れ伝わる話によると、コロナ禍が広まってからは日常の取材でも直接の面談を避け、遠隔対話方式をとることがふえているという。オピニオン面が、それに同調するのも当然だろう。

皮肉なのは、それが日本の新聞の国際化を後押ししていることだ。Aという国にXという識者がいたとしよう。これまでなら担当記者は、まずX氏から取材予約をとり、海外出張を申請してA国へ飛ぶことになろう。新聞には電話やメールによる一問一答の記事がないわけではないが、大型インタビューとなれば昔ながらの「足で稼げ」型の取材手法が当然視されたに違いない。ところが、今回は防疫の観点から、それができなくなった。

それが、興味深い効果をもたらした。遠隔対話方式ならば、相手が海外にいようと国内にいようと大差ない。言語の壁さえ乗り越えることができれば、地球の反対側にいる人でも目の前にいて話しかけられているように感じられる。日本の新聞記者にとって、世界は内と外に二分された取材対象ではなくなったのだ。コロナ後の日本社会を見通すとき、新聞のつくり方も記者の世界観も大きく変わっていくだろうと思われる。

で、今週の「書物」は、朝日新聞2020年5月23日朝刊に載ったオピニオン面「新型コロナ」インタビュー。フランスの論客エマニュエル・トッド氏の見解を高久潤記者が聞いている。トッド氏は1951年生まれ、歴史家であり、人口学者でもある。(以下、敬称略)

このインタビュー記事の最上段に掲げられた見出しは「『戦争』でなく『失敗』」。トッドは、自国のマクロン大統領が今回の感染禍を「戦争」にたとえたことを批判して、こう言う。「フランスで起きたことのかなりの部分は、この30年にわたる政策の帰結です」。人工呼吸器の不足などを例に挙げ、医療に充てるべき人材や資金を削り込んで「新自由主義的な経済へ対応させていく」路線をとったことが「致命的な失敗」だったと主張する。

「私たちは、医療システムをはじめとした社会保障や公衆衛生を自らの選択によって脆弱(ぜいじゃく)にしてきた結果、感染者を隔離し、人々を自宅に封じ込めるしか方策がなくなってしまった」――この見方は、「失敗」の核心を突いている。

私なりに、それを思考実験で裏づけてみよう。たとえば、感染禍の初期からあまねく公衆がPCR検査を受けられ、陽性となった人に療養・治療の場が用意されていたとする。その場合でも感染者の隔離は欠かせないが、すべての人々を「自宅に封じ込める」必要は薄れる。理屈のうえでは、陽性者に活動を控えてもらい、陰性者が社会生活を営むことで経済を回すことができただろうからだ。だが実際は、そうならなかった。

このあとトッドは、こう切り込む。「人々の移動を止めざるを得なくなったことで、世界経済はまひした。このことは新自由主義的なグローバル化への反発も高めるでしょう」。新自由主義は社会保障や公衆衛生を蔑ろにした結果、自滅寸前の状態に陥ったのである。

トッドによれば、「新自由主義的な経済政策が、人間の生命は守らないし、いざとなれば結局その経済自体をストップすることでしか対応できないこと」がはっきりした。その先を見通すとき、復権しそうなのが国ごとに生活必需品を自給する経済だという。

以上が、このトッド・インタビューを貫く主題だが、このほかにもコロナ禍を考える際の論点がいくつかある。

一つは、戦争とコロナ禍の違いを人口学者の目でとらえた箇所。戦争は、大勢の若者の生命を奪うので「社会の人口構成を変える」。ところが、今回の感染禍は、高齢者が犠牲になることが多いので「人口動態に新しい変化をもたらすものではありません」。なるほど、そんな見方もあるのか。ただ、そうであっても今の社会は、なべて高齢者など高リスク群の救命第一で動いている。これは、私のような高齢者にとっては、ただただありがたいことだ。

世界中に人道精神の発露がある――この一点こそ、今回のコロナ禍を「戦争」にたとえることが適切でない最大の理由ではないか。私には、そう思えてならない。

もう一つ興味を覚えるのは、人々と政治家の関係を語った部分。トッドによれば、英仏では政府が有効な施策を打ちだせず、政治家はただ「ひとまず家にいてください」と言うばかりだった。「でも市民は、それなりに秩序立った社会を維持した」。その結果、「エリートが機能しなくても社会の統制はとれる」と人々が実感した意味は大きい、という。日本社会でも私たちは、緊急事態宣言下の「自粛」で同様の体験をしたと言ってよいだろう。

いったいどうして、私たちは自律的に「秩序」を保てたのか。人々が知的に進化してリスクに敏感になったのか。規制に盾つく気骨を失い、従順になったからか。それとも、ネット社会が同調効果を強めたのか――この謎は、ぜひとも解き明かしてみたい。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年5月29日公開、通算524回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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